レインボーガール (2/8) |
第二章
「雄介さん……」
「七海……」
肩を掴まれ、七海は優しく床に押し倒される。
二人はしばし見つめ合うと、ゆっくりと体の距離を縮めていく。
彼の唇が軌道をそらし、七海の耳の横に下りてくる。
「愛してる」
瞬間、体の奥から幸せがあふれてくる。
七海は彼の背中に腕をまわし、ぎゅっと抱きしめる。
そのまま横に転がると、今度は彼女が上になる。
一度体をそらして、再び見つめ合う。
「私も、愛してます」
彼の心がピクリと反応し、三枚の布越しにそれが伝わってくる。
「んっ……」
これから起こることを想像すると体が火照って仕方なかった。ほんのわずかな刺激でも背中が反り返ってしまう。
「はあ……はあ……」
七海はうつろな目で彼を見つめる。
今度こそキスをするつもりで、七海はゆっくりと顔を近づける。彼は微笑みながら、それを受け入れるように彼女の頭を両手で掴む。そして――
「起きろ」
「え?」
彼の表情が不意に真面目なものに変わる。
「ふんっ」
「ふぎゃっ」
目覚めのキスならぬ目覚めのヘッドバットを喰らい、七海の頭が床を跳ねる。
「くう〜〜」
「いつまで寝ているつもりだ。お前が休みでも俺には仕事がある。目が覚めたらならちゃぶ台の用意をしておけ」
そう言うと、彼は七海を放置してキッチンへと行ってしまった。
七海は額と後頭部をさすりながら上体を起こす。
窓に目を向ける。当然のことだがカーテンの向こう側が明るい。
(夢、か……)
できればもう少しだけ続きを見たいところだったが、残念ながら完全に目が覚めてしまった。
(ヘッドバットのおかげかな?)
たぶんそうだ。昨日は彼とほぼ同時に起きたのでヘッドパットを喰らわなかった。
「よし」
気合を入れて立ち上がると、まずは巻き寿司のような状態になっていた布団を綺麗に畳む。次に折りたたみ式のちゃぶ台の足を広げ、今まで自分が寝ていた場所に配置する。
「なにか手伝うことはありますか?」
自分が作ります――とは言わない。いずれはなんでも作れるようになる予定だが、今はまだなにも作れない。一応昨日食べさせてもらったものはネットでレシピを見つけたので作れる。が、上手には作れない。というか、昨日は二回も卵を床にこぼして後片付けが大変だった。
「あっちで待ってろ。お前は後片付けをやれ。用意は手伝わなくていい」
手伝うことがないのなら無理に手伝おうとしても邪魔になるだけだろう。
部屋に引き返すと、朝食ができあがるのを待ちつつ、七海は考える。
彼は、なぜ自分を拒絶するのか。
昨日の夜、答えを聞いた。三次元より二次元のほうがいい。どうしてそんなことを言うのか、すぐには理解できなかったが、寝るまでには理解した。
だが――納得はできなかった。
確かに三次元にも悪いところというか、多少面倒な部分があることは認める。長い髪の水気を取るのは一苦労だし、洗うのはもっと大変だった。定期的にお腹は減って、食べたら今度は出したくなる。暑いと汗が出るし、動けば疲れる。机を殴ればすごく痛いし、ヘッドバットを喰らえばもっと痛い。
嫌なことは多い。だが良いことだってある。お風呂に入ったときに感じた心地よい暖かさやキッチンから漂ってくるおいしそうな匂いは二次元にはないものだ。そして彼女にとってなによりも大切なこと――愛する人と触れ合えるのは三次元だけだ。
もっと自分に触れて欲しい。手を繋いで一緒に歩きたい。頭を優しくナデナデして欲しい。いずれは今朝の夢の続きもしてみたい。
そのためには、どうすればいいだろうか。
「餌ができたぞ」
言いながら、彼が朝食の盛られた皿をちゃぶ台に置く。そのまま彼は七海の対面に腰を下ろすと、テレビをつけ、彼女を気にすることなくマイペースにサラダを食べ始めた。
「……あの」
「なんだ」
視線はテレビに向けたまま、やや遅れて彼の表情がわずかに険しくなる。見れば、テレビの天気予報は降水確率40パーセントという微妙な数字を表示していた。
「…………」
彼の横顔に視線を戻し、七海は考える。
(もし頭をナデナデして欲しいと頼んだら、雄介さんはどう反応するだろう?)
彼は二次元のほうが良いとは言ったものの、三次元の望月七海が嫌いだとは言わなかった。なにより彼は優しい。最初は拒否したとしても、一生懸命お願いすれば、たぶん最後にはしてくれるような気がした。
そう信じるだけの根拠ならある。彼は犯罪と自覚しながらも偽造の免許書を作ってくれた。欲しいと願ったわけではないが、持っていて損はしないだろう。ヘッドバットを喰らった額はもう痛くない――痛みが消えるまでの時間が最初に喰らったときより短かった。きっとこの前より手加減してくれたのだと思う。
期待していた優しさとは少し違うけど、それでも彼が優しいことには変わりない。
「……どうした?」
視線をこちらに向け、彼が聞く。表情は険しかったが、見ようによっては心配しているようにも見えなくはない。
「食わないのか。毒が心配なら俺が食ってるのと交換してやるぞ」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
頼めば、彼に頭をナデナデしてもらえる。
しかし――
「いただきます」
七海はにっこりと笑ってから、スプーンでスクランブルエッグをすくい、口に運ぶ。
もし、どれだけ頼んでもダメだったら。一晩寝て昨日より冷静になれた代わりに、積極的に攻める勇気はどこかに消えてしまった。
(……どうしよう)
彼はしばらく七海を見つめてから、なにも言わずに視線をテレビへと戻した。
サラダを食べながら、七海も自然とテレビを眺める。
さっきまで天気予報を放送していた朝のニュース番組が今度は星座占いを流し始める。
どうやらここの局はその日一番不幸な星座を残して、悪いほうから発表するらしい。七海はみずがめ座だ。11位から9位までには入っていなかった。
(雄介さんの運勢は……)
そこで思い出した。自分は彼の誕生日を知らないことを。
「雄介さんの星座は、なんですか」
これは、聞ける。特に怖くはない。
「ふたご座だ」
彼は無視することなく答えてくれた。
テレビには8位から6位までが表示されている。ふたご座もみずがめ座も、まだ出てきてはいない。
画面が二度切り替わり、2位までが表示され、一言アドバイスが読み上げられる。二人とも、まだ出てこない。
「それじゃ、今日一番ラッキーな星座を発表するよ」
アナウンサーが軽快な声で言った。
「今日一番ラッキーなのはみずがめ座。やったね。オレンジ色のものを身に着けて意中の人と積極的に会話をすれば、今まで知らなかったことが分かって一気に距離が縮まるかも」
(やった!)
きっと自分が最下位だと思っていただけに、この結果は純粋に嬉しかった。
「そして今日一番アンラッキーなのはふたご座。残念。なるべく黒いものは身につけないようにして、できるだけ静かに過ごすといいかも」
それを聞いて、彼はどうでもいいといった感じで鼻で笑った。そして皿に残っていた朝食を平らげると、着替えを持って脱衣所に向かった。
七海は部屋の隅に畳んでおいた制服に視線を向ける。
「……よし」
占いのアドバイス通り、今日は積極的に話しかけてみることにしよう。偶然にもオレンジ色だった制服のリボンを眺め、彼女は思う。
最後のトマトを食べ終わると、手早く後片付けを済ませる。彼は昨日の朝、一○分と風呂場にいなかった。ゆっくりとしている暇はない。
顔を洗い、パジャマから制服に着替え、彼を待つ。
と――
ピンポーン。
「毎度お世話になっております、白猫便でーす」
「はーい、今開けまーす」
扉を開け、荷物を受け取る。それは昨日配送を頼んだマットレスだった。伝票に『守屋』と書くと、なんだか結婚したみたいでおもわず顔が緩んでしまう。
マットレスを部屋まで運び終わったところで脱衣所のほうから扉の開く音が聞こえた。
「届いたのか」
彼が髪をタオルで乾かしながら言った。
「はい。それで、これはどこにしまえば?」
「ベッドの下にでも置いておけ」
隠すように垂らしてある緑の布をめくると、ベッドの下には圧縮袋に入った冬用の掛け布団が収納してあった。エアガンや小説が詰め込まれたカラーボックスがいくつも置いてある部屋の中で、ベッドの下にはそれしかない。マットレスはなんとか入った。
「雄介さんって、えっちな本とかどこに隠してるんですか?」
七海は積極的に聞いてみる。
「そんなもんはない」
彼はまたも無視せず答えてくれた。やはり今日は運がいいのかもしれない。
えっちな本を持っていないというのはたぶん本当だ。彼がパソコンを使ってどんなサイトを見ていたか、七海はすべて知っている。偶然見てしまうことはあっても、彼は自分から積極的にえっちなサイトを見ることは一度もなかった。
「とりあえず新しくカネを渡しておく。これは飯や交通費に使え。あとできっちり返してもらうが、あまり無駄使いはするなよ?」
いつの間にか机に置かれていたコンドームの箱を指で叩きつつ、彼が言う。ふと今朝見た夢を思い出すが、恥ずかしいというよりはなんだか寂しかった。
「……はい」
「それと部屋を出るときはちゃんと鍵を閉めろ。分かったな」
「えっと、今日は一緒に出てもいいですか?」
「……好きにしろ」
※ ※ ※
外に出ると、空は降水確率40パーセントが嘘のような雲ひとつない快晴だった。
「閉めておけ」
雄介はそう言うと七海を待たずに歩き出す。
階段を降りて少し進んだところで七海は追いついてきた。
歩きながら、彼女が言う。
「ねえねえ雄介さん」
「なんだ」
「雄介さんっていくつなんですか?」
「……二四だ」
答えると、七海は「七歳差かぁ」とつぶやきながらしばし空を見上げる。
最初、唐突に歳を聞いてきた意味が分からなかったが、続けて誕生日を聞かれて理解した。駅までの道を並んで歩きながら、彼女は今朝の占いのアドバイス通り、積極的に色々なことを聞いてきた。
「雄介さんの好きな物ってなんですか?」
「コーヒー」
「なら嫌いな物はなんですか」
「……虫だ」
「じゃあじゃあ、どんな料理が好きですか?」
「直感に頼らず、分量を守り、意味の分からない隠し味を入れず、レシピ通りに作った料理だ」
ふと母親が作る料理の味を思い出し、眉間にシワがよってしまう。学校の給食が至高の一品に思えるほど、母親の作る料理は不味かった。
「ところで、今日も黒い服を着てますけど、いいんですか?」
「……どうでもいい」
占いなど信じていないし、たとえ今日から信じることにしたとしても、どうしようもない。持っているTシャツはすべて黒地が基本だ。Yシャツにも同様になにかしら黒で模様が入っている。黒を身につけないなど不可能だった。
「それに、運なら三日前の夜から地に落ちてる」
「……えーっと、そうだ、雄介さんって仕事はなにをしてるんですか?」
「…………」
「雄介さん?」
上手く理由は説明できないが、この質問にはなんとなく答えたくなかった。
このまま無視をして会話を終わらせてもよかった。が、雄介は逆に一つだけ聞いてみる。
「お前はどうするんだ?」
「私、ですか?」
小首をかしげ、七海は腕を組んで「うーん」と唸る。
「まあ、悩んだところで結局は派遣の仕事でもすることになるだろうがな。けん玉が得意でも就職には役に立たん」
派遣以外で仕事をするとしたら、なにをすることになるだろうか。雄介は考える。
ぱっと思いついたのがアイドルだった。七海はかわいい。それは間違いない。
しかし彼女は望月七海だ。もしテレビに出るようになれば、誰かが気付く。
アイドルが無理だとしたら受付嬢――も無理だろう。彼女には偽のIDしかない。受付嬢を必要とするような会社に就職するのは厳しい。
そうなるとウエイトレスあたりが妥当なところか。メイド喫茶の店員なら、特技のけん玉も一発芸として役に立つかもしれない。
「あっ、そうだ。ハッカーとかどうですかね?」
「いいんじゃないか」
雄介は適当に肯定しておく。彼女がどんな仕事をしようが――手っ取り早く稼ぐために体を売るなどと言い出さない限り――好きにすればいいと思っていた。
「で、雄介さんの仕事ってなんなんですか?」
「ノーコメントだ」
「えー、教えてくださいよぉ」
無視して歩く。もう駅のすぐ近くまで来ていた。
「……ケチ」
七海がつぶやく。
ふと胸に小さな痛みを感じたが、それも無視する。
七海一人でも問題なく切符を買える。そのことは昨日デパートへ行くときに確認した。雄介はsuicaを使って一足先に改札を通ると、一人ホームへと向かった。
猫の森という店名に深い意味はないらしい。
店の名前だけ聞くと猫を売っているようにも思えるが、実際に扱っている商品は主に同人誌がメインだった。商業マンガなども一応扱っているが、同人誌に比べれば数は少ない。雄介はそこで働いていた。
雄介が職場に向かって歩いていると、途中にあるコンビニから出てきた童顔の美少年と目が合った。
美少年は片手を挙げ、言う。
「おーっす」
「風邪は完全に治ったのか?」
聞く。すると美少年は待ってましたと言わんばかりの笑顔になって、少し前にニコニコ動画で流行った台詞で答えた。
「大丈夫だ、問題ない」
日常会話になんのためらいもなくニコニコ動画のネタを混ぜてくるこの美少年――長月北斗は雄介の同僚だ。雄介が二週間休みナシで働く羽目になった原因でもある。
「インスタントの飯ばっかり食ってるから体が弱るんだ。少しは自炊しろ」
「はいはい。そんなことより先週のまどマギだけどさ――」
二人は適当にアニメのことなどを話しながら店に向かった。
店は三階建てのビルの二階にあった。ビル自体は電車で一五分、駅からは徒歩で三分の所にある。
少し奥にある狭い階段を上り、鍵を開けて店に入る。
荷物をバックルームに置いて、エプロンを装備し、店の外――階段と店の入り口を結ぶ短い廊下に準備中と書かれたポールを設置する。
二人で開店準備を進めていると、しばらくして三つ編みお下げに丸めがねを掛けたいかにも図書委員といった感じの美少女が現れる。
「おはようございます」
「やっほー」
にっこりと笑い、北斗が挨拶を返す。
「おはよう」
北斗ほど大げさではないが、雄介も一度手を止めると、微笑を浮かべて挨拶を返す。
彼女――鈴木恵理子も同僚の一人だ。今日は前半この三人で店を回し、店長は後半から来る予定だった。
「あの、守屋先輩」
彼女は店の入り口に立ったまま、少し困ったような声で雄介を呼び止める。
「どうしたの?」
「アルバイトの面接を受けたいって人が来ているんですけど……」
そう言うと、彼女は店の外にちらりと視線を向ける。雄介の場所からはそこにどんな人物がいるのかは見えなかった。
今日は面接の予定は入っていなかったはずだ。連絡もナシに突発的に来た人間に軽く不安を覚えるが、雇用するかどうかを決めるのは自分ではない。それに今は贅沢を言っていられる状況でもなかった。鈴木は九月(もう今月だ)に大学を卒業予定で、すでに就職も決まっている。すぐにでも新しいバイトが入らないと、かなり厳しい。
「分かった。じゃあ俺が店長を呼んでくるから、鈴木さんはその人をバックルームに案内しておいて」
店長は三階の倉庫兼自宅に住んでいる。一階はゲームショップでこの店とは関係ない。雄介はほとんど店長代理といってもいいくらいの仕事をしていたが、面接だけは絶対に店長がやることになっていた。
「ちなみに、どっち?」
「女の人です。でも、すごく、かわいい人です。ちょっと、悔しいくらいに」
ここのバイトは男女で受かる確率が大きく違った。彼女もそれをよく分かっていて、雄介のあいまいな問いにも戸惑うことなく答えた。
「それじゃ、バックルームで少し待っていていただきたいので、ついてきてもらえますか」
しかし、悔しがるほどにかわいい女の子とはどんな子なのだろうか。雄介は彼女と入れ違うように店を出て――
「!」
一瞬、雄介の心臓が確かに止まった。
そこにいたのは悔しいくらいにかわいい女の子だった。百人に聞けば、九八人は間違いなく美少女と答える、元女子高生。
「ち、ちょっと待った」
「はい、なんですか」
「やっぱり、鈴木さんが店長を呼んできてもらってもいいかな」
「分かりました」
彼女はなにか不審に思うような素振りも見せず、階段へと向かった。店長の寝起きはあまりよろしくない。最低でも五分は戻ってこないだろう。
雄介は面接希望者をバックルームに連れて行くと、大きなため息を吐き出した。
「はあ」
次に面接希望者を睨み付け、言う。
「なんのつもりだ」
「いや、なにかいいアルバイトはないかなーと探してたら偶然ここを見つけて」
「…………」
雄介はあえてなにも言わず、ただじっと見つめ続けた。彼女はそれから逃れるように視線をそらすが――
「……準備中のポールを越えて店の中を覗いてたら、突然後ろから声を掛けられて。怒られると思ったんですけど、壁に張ってあったバイト募集の紙を見つけて、つい……」
しばらくして、無言の圧力に屈した彼女はあっさりと白状する。
どうやってこの場所を知ったのかは聞かないでも想像ができる。尾行してきたのだろう。昔だったら間違いなく気付けた自信があったが、まったく衰えたものだと思う。
いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「帰れ」
いくら人手が足りないからといっても、彼女をここで働かせるわけにはいかない。
「ええっ。そんな、いいじゃないですか。面接くらい受けさせてくださいよ」
「ダメだ」
「仕事しろって言ったのは雄介さんなのに……」
七海は口を尖らせ、不満そうな目で雄介を見つめてくる。
「どうしてですか?」
「…………」
面と向かって聞かれると、困ってしまう。
実際に働いてみたら不都合なことは色々と見えてくる気がする。が、今のところ彼女をここで働かせたくないのは「なんとなく一緒に働きたくないから」という漠然とした理由しかない。
「ねえ、どうしてなんですか?」
論理的に納得させられるだけの理由が思いつかない。
「雄介さん!」
「ああもう分かった、分かったから。とりあえず大きな声は出すな」
今すぐに帰すことは諦め、彼女を落ち着かせる。
(まったく、どうして占いの結果が少し良かったくらいでこんなにも強気になれるんだ)
ふと、雄介は昔読んだ星座占いの本を思い出した。そのときはキャラクターの性格を決める参考になるかと思って読んだのだが、十二星座の中で小説家に向いていると書かれてある星座が五個もあることに気付き、一気に信じる気が失せたのを覚えている。
が――今読んだら信じてしまうかもしれない。なぜならその本には、まるで今の状況を予期するように、ふたご座の男は二四才が最悪に運気の下がる歳だと書いてあったのだから。
「……いいだろう。ただし、分かっているとは思うが、俺とお前はここでは赤の他人だ。特にお前が俺の部屋で寝泊りしていることは誰にも喋るなよ」
それさえ徹底しておけば、しばらくは問題ないだろう。逆にこれさえ徹底できるなら、拒む理由がほかにないから困っているのだが。
「うーん、よく分かりませんが分かりました」
「よく分からんは余計だ」
「分かりました」
と、そこで足音が聞こえたような気がした。そろそろ店長が下りてきてもおかしくない頃だ。そう思って雄介が七海から距離を取ると、それから一○秒もしないうちにバックルームの扉が開き、ショートカットに釣り目が印象的な女が入ってくる。
その女――店長の藤崎萌花は七海を見て固まった。そしてゆっくりと口の両端を吊り上げていき――
「合格!」
「早っ」
店長が即決したことに七海は驚いていたが、雄介にとってはむしろ予想通り過ぎておもわず乾いた笑いが口から漏れてしまう。
女なら店長よりもかわいいこと。男なら店長が認める程度にイケメンであること。それだけがこの店で働く唯一絶対の条件だった。雄介は最初冗談だと思って応募したが、本気だった。
「携帯は持ってるよね、番号を教えてくれる?」
「えーっと、少々お待ちを」
七海は携帯を取り出して赤外線で番号を交換する。さすがは元女子高生といったところか、携帯を渡したのは昨日だというのに手馴れたものだ。
「さっそくだけど、今日から働いてもらっても大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「オーケー。私は藤崎萌花。まあ、普通に店長って呼んでくれればいいかな。貴女は――」
携帯の画面を見て店長がにやりと笑う。
「やっぱり望月七海か。エプロンは――ないな。ちょっと取ってくるから、七海ちゃんはここで待ってて」
「はい」
のんきに返事をする七海とは対照的に、雄介は困惑していた。敏感な店長はそれに気付き、声を潜めて言った。
「守屋はメモリアルハートってゲームを知っているか?」
「……いえ」
否定する。自分がそのゲームを何度も何度も繰り返しプレイしていたことは誰にも話していない。
「統合失調症患者が考えたとしか思えないカオスなシナリオのゲームかと思いきや、繰り返しプレイするほど面白さが理解できるガムみたいなゲームでな。ヒロインにプレイヤーの名前を呼ばせるために無理やり突っ込んだ音声データが大きすぎてシナリオが短かったり、攻略対象が三人と少なかったり、絵柄も独特で、なによりPCソフトのくせに全年齢対象だったせいであまり売れなかったんだが……まあいい。とにかくそんなゲームがあって、ヒロインの一人に望月七海ってキャラがいるんだよ」
そう言うと、店長はちらりと七海を見る。
「彼女を見た瞬間は本当にびっくりしたぜ。なにせゲームの望月七海と瓜二つなんだからな。イベントでも私はあんなに気合の入ったレイヤーを見たことがない」
レイヤーとはコスプレイヤーの略称だ。考えてみれば当たり前のことだが、店長は彼女が突然現れた本人(?)とは思ってはいなかった。
店長はバイトの雇用条件からも分かる通り、かなり適当な人間だ。が、空気は読める。彼女のことを気合の入ったレイヤーだと考えているならば、あえて夢を壊すようなことは聞かないだろう。そのことにとりあえずホッとしつつ、雄介はまったく違うことを考えていた。
(黒が入ってない服を、一着ぐらいは買っておくべきだったな……)
※ ※ ※
七海は『望月』と書かれたネームプレートを貰うと、まず初めに店長から基本的なこと――タイムカードの押し方、シフト表の読み方、トイレの場所などの説明を受ける。
「じゃ、あとはこいつに教えてもらってくれ。うちの店一番のイケメンで、仕事もできる」
「別に煽てられても嬉しくはないんで時給を上げてください。てか、店一番のイケメンはどう考えても北斗でしょ」
「私は本当に守屋が一番のイケメンだと思ってるよ。時給は、この婚姻届にハンコをポンッと押してくれたらすぐにでも五○○円アップしてやってもいいんだぜ?」
言いながら、店長はエプロンのポケットから三つ折にされた紙を取り出す。なれたやり取りなんだろう、雄介が「結構です」と断ると、彼女はあっさりと引き下がる。
「私は後半まで上にいるから、あとは任せたぞ」
店長がバックルームから消え、彼と二人きりになる。
「もう一度言っておくが、俺とお前は赤の他人だ。分かったな」
「はい、分かってます」
彼は疑うような視線でしばらく七海を見つめる。
「……まあいい。とりあえずは、レジの使い方からでも教えてやる。来い」
バックルームを出ると、すでに店は開店しているようだった。店内にアニソンと思われる歌が流れている。
「よろしくお願いします、雄介先――」
見えたが、避けることはできなかった。雄介の放った水平チョップが七海のこめかみを打ち抜く。
彼は自身のエプロンについているネームプレートを指差す。
「『守屋』先輩だ。分かったか新人」
「……はい」
守屋先輩。
ふと、七海はゲーム序盤――彼のことが大好きなのにプログラムが邪魔して守屋先輩としか呼べない状況を思い出した。
(がんばらないと)
今は自分を縛るプログラムがない代わりに、ただ待っているだけでは彼の恋人にはなれない。それは昨日、痛いほどに理解した。
レジの使い方、ポイントカードの説明、商品の渡し方、見本の商品を持ってこられたときの手順。それらレジ周りの仕事を一通り教わると、七海はさっそくレジに立たされた。
しばらく説明された通りにレジをまわす。もちろん笑顔も忘れずに。
「三点で合計二四○○円でございます。三○○○円とポイントカードをお預かりします。……お先にポイントカードをお返ししますね。こちらがおつりの六○○円とレシートでございます。ありがとうございました」
命令されて動くことには慣れているからだろう。覚えることは多かったが、七海は一度説明を聞いただけで驚くほど完璧に仕事をこなしてみせた。
「へへーん、どうです?」
七海は得意げな顔で雄介に聞く。しかし彼は、
「悪くはない」
と、無表情で答えるだけだった。
「……それだけ、ですか?」
「それだけだ。レジ以外にも仕事はたくさんある。ついて来い」
「レジはどうするんですか?」
聞く。すると彼は七海と話す声とはあきらかに違うトーンで鈴木を呼び、「ここお願いしてもいいかな」と言ってレジを任せた。
商品の配置、陳列のルール、在庫が置いてある場所。それらの説明が終わると、今度は見本を作ることになった。
同人誌の四ページ分をスキャンして、パソコンで編集して縦に並べ、印刷。透明なビニール袋(OPP袋というものらしい)に印刷したそれと同人誌を一緒に入れ、セロテープで綺麗に止める。
これも上手くできた。手順を説明してもらうために彼が先に作ったものと比べても遜色ないできだった。
今度こそ褒めてもらおうと彼に聞くが――
「悪くはない」
彼の評価はまたしてもそれだけだった。
「休憩時間までにそこのダンボールに入っているものを同じように全部処理しておけ」
「ゆう――守屋先輩は手伝ってはくれないんですか?」
「俺には俺の仕事がある。終わったら呼べ。レジが混んでも俺が行く。お前はそれに集中しろ。ただし客が店を出入りするときは挨拶を忘れるな」
「……分かりました」
ダンボールを見る。同人誌の量は多すぎるというほどでもなかった。サボらずやれば、店長に言われた休憩時間までには終わるだろう。
しばらく作業に集中する。
「やっほ」
顔を上げる。朝に雄介と並んで歩いていた美少年がそこにいた。
「僕は長月北斗。君は……」
「望月七海です」
答えながら、店一番のイケメンは彼だと雄介が言っていたことを思い出す。
長いまつげに二重まぶた。綺麗に整えられた眉毛に形の良い鼻。うっすらと茶色の入った髪は自分と同じか、またはそれ以上にサラサラしていそうだった。
確かに、間違いなく彼はイケメンだった。ただし、店一番かと聞かれたら……自分は店長と意見が合いそうだと七海は思う。
「七海ちゃんか。よろしくね」
彼はにっこりと笑ってそう言うと、完成した見本誌を一つ手に取り、言う。
「へえ、すごいじゃん。僕が作るよりも上手いかもしれないな。七海ちゃんってこういう仕事、したことあるの?」
「いえ、バイトをするのはこれが初めてです」
「そうなんだ。なら、分からないことがあったらなんでも聞いてね。雄介ほどじゃないけど、一応僕もそれなりにここで働いてるからさ」
「はい。ありがとうございます」
「てかさ、ごめんね」
ニコニコと笑っていた彼は突然眉をひそめ、少し困ったような声で言った。
「雄介、なんだか今日は機嫌悪いみたいでさ。七海ちゃんがレジで仕事してるの見てたけど、完璧だったし。そもそもあいつの『悪くはない』は、照れてるときの褒め言葉だから。仕事は自信を持って大丈夫だよ」
「そうなんですか?」
「まあ雄介は絶対に違うって否定すると思うけど。それにしても、どうしたんだろう。いつもは今日ほど厳しい奴じゃないんだけどなぁ。来るときにウンコでも踏んだのかな」
彼の機嫌が悪いのはきっと自分がここにいるからだろう。どうして一緒に働くことを嫌がるのか、理由までは分からなかったが。
と、それとはまた別で七海は一つ気になったことがあった。
「あの、ちょっといいですか」
「ん? なに?」
くるっと表情を変え、彼が再びにっこりと笑う。ころころと瞬間的に変わる彼の表情を見て、なんだかゲームの立ち絵を眺めているみたいだなと思った。
「長月先輩は守屋先輩と友達なんですか?」
「うん、そうだよ。雄介とは中学時代からの親友だね」
「ふざけるな。ただの腐れ縁だ。親友でもなんでもない」
北斗の言葉はいつの間にかそこにいた雄介にすぐさま否定された。
「サボってないで仕事しろ」
「えー、いいじゃんお客さん少ないんだし。それに新人とコミニケーションを取ることも仕事の一つだって」
「客が少ないときに混んだときの準備をしておくんだよ。そんなに新人と無駄話がしたいなら仕事が終わってからにしろ。そもそも『コミュ』ニケーションだ馬鹿野郎」
「まったく雄介は真面目だなぁ」
「お前が不真面目すぎるんだよ」
北斗は肩をすくめると、最後に「それじゃ、がんばってね」と七海に言ってから自分の仕事へと戻っていった。
「新人、お前もだ。手が止まってるぞ」
「あ……ごめんなさい」
謝り、七海が作業を再開しようとして――
ぎゅるぅぅぅ。
店内に軽快なアニソンが流れる中、その音はとてもはっきりと聞こえた。
「…………」
何度聞かれても、恥ずかしかった。同時に、休憩時間まで我慢しなければいけないと思うと憂鬱な気分になる。
「……さっさとなにか食って来い」
「えっ、でもまだ休憩時間じゃ」
「そんなもんずらせばいい。早く行け」
「――はい!」
やっぱり彼は優しい。七海はエプロンを脱ぐのも忘れ、スキップしながら外のコンビニへと向かった。
休憩から上がると、七海は見本誌の作成を再開する。
ようやく作業が終わりそうになった頃、彼が新たに同人誌でいっぱいのダンボールを持ってきて、言った。
「飽きたか」
「……いいえ。とっても楽しいです」
本当は少し飽きてきたところだったが、正直にそう答えれば「ならこのバイトはやめておけ」と言ってくることは分かっていた。
しかし飽きてないと答えれば――
「ほう。だったらこれも全部同じように頼んだぞ」
当然こうなる。
「……ずるいです」
七海がつぶやくと、その場から立ち去ろうとしていた雄介がふと足を止めた。
「三次元とはそういう世界だ。覚えておくんだな」
声は普通だった。が、彼はこちらを向いていなかったため、どんな表情でそれを言ったのかまでは分からなかった。
持ち場に戻る彼の背中を見送って、七海は作業を再開する。
またしばらく作業を続けていると――
ピポピポーン。
「いらっしゃいま――」
店に入ってきた美少女を見て、七海は声が出なくなった。
(あ、ありえない)
琥珀のような瞳に、満点の夜空のように光り輝くセミロングの黒髪。見るからに瑞々しい唇はとても柔らかそうで、おもわず触れてみたくなる魔力が込められている。服装は地味で背も低かったが、彼女ならイブニングドレスを着てもきっと似合うだろう。
欠点が見当たらない。一瞬、自分はいつ二次元の世界に戻って来てしまったのだろうと本気で疑ってしまう。
七海から声を奪った美少女は、店の入り口で誰かを探すように店内を見回す。そして目的の人物を見つけたのか、彼女は微笑を浮かべると雄介の前まで一直線に進み、言った。
「おはようございます」
彼は声に反応して振り向くと、同じように微笑を浮かべ、挨拶を返す。
「おはよう」
瞬間、胸の奥に謎の感情が落ちてくるのを七海は確かに感じた。
嫉妬……ではない気がする。彼が似たような表情で鈴木と挨拶をしたときには、こんな感情は沸いてこなかった。
怒り……は、少し含まれている気がする。自分には微笑んでくれない彼は憎らしい。でも、それがこの感情のすべてではない。
悲しみ……なのだろうか。怒りよりはそちらのほうが合っている気がする。でも、ならどうして自分の心臓はこんなにもドキドキしているのか。
美少女は雄介との挨拶を済ませると、店内をまわって残りのスタッフにも挨拶をしてまわる。店長と挨拶を交わすついでに七海のことを聞かされると、彼女は最後にこちらへと歩いてくる。
「おはようございます」
「…………」
近くで見てもやっぱり彼女はかわいくて、鼻腔をくすぐる焼きたてのクッキーのような香りが七海の心をとろけさせる。さっきまで感じていた謎の気持ちは正体を仮面の下に隠したまま、どこかへ消え去ってしまう。
「……あの」
「あ、おはようございます。ごめんなさい、つい見とれちゃって」
彼女は七海の言葉に少しだけ驚くような表情を見せたが、すぐに微笑を取り戻し、言う。
「星野詩織です。よろしくお願いします」
「えと、望月七海です。こちらこそよろしくお願いします」
名前だけの簡単な自己紹介を済ませると、星野は「それじゃ、着替えてきますね」と言ってバックルームへと歩いていった。
彼女と入れ替わるように店長がやってくると、どこか嬉しそうに聞いてくる。
「星野、かわいいだろ?」
「……そうですね」
「あいつは私の店で一番にかわいい美少女だからな。客の指名数が一番多いのも星野だ。ああ、指名数ってのは客に商品のことなんかを聞かれた回数や、レジで会計をした客の数を私が勝手に数えてるだけで、別にカネをもらって特別なサービスをしているわけじゃないから安心していいよ」
「はあ」
「指名数が少ないからって時給を下げたりはしないし、逆に多くても上げはしない。ちなみに男で指名数が一番多いのは長月だ。ただ――」
店長はニヤリと笑うと七海の耳元に顔をぐっと近づけ、声を潜めて言った。
「スタッフ限定なら、今のところ票は守屋が独占中だ」
※ ※ ※
幸いこれといったトラブルもなく、その日の営業は終了した。
七海は仕事ができる。現時点で、すでに北斗よりも使える。一日一緒に働いてみて、雄介はそう判断した。
「お前も、やればできる奴なんだかな」
ハンガーにエプロンを掛けながらつぶやくと、雄介は冷め切ったハンバーガーを食べる北斗に視線を向ける。
今、バックルームには雄介、北斗、七海の三人がいた。店長はすでに上の自宅へと帰って、いつもは雄介が帰るまで残っている星野も今日は用事があるからとすぐに帰った。鈴木は前半で上がりだ。
「またそんなもん食いやがって」
「別にいいだろ。僕が早死にしたって、泣いてくれる家族も恋人もいないんだからさ」
「……それもそうか」
「いや、そこは『お前が死んだら俺が泣く』って言う場面でしょ。……そんなことより、今日姉貴が出かけてるんだよ。雄介、ウチ来ない? 勝負しようぜ」
「また今度な」
「あれ、逃げるのぉ?」
北斗はニヤニヤと憎らしい笑みを浮かべて挑発してくる。が、それを見ても雄介の心に火がつくことはなかった。
「疲れてるんだ」
昨日は休みだったし、今日は通常よりも一人多い人数で店を回していたので肉体的な疲れはそれほどなかった。ただ、精神的な疲れはそう簡単に癒えてはくれない。テレビの占いの結果が良ければ元気になれるほど雄介は単純ではない。
ここ二、三日は予想外が起き過ぎている。今不足しているのは驚きや興奮ではない。平穏と癒しこそが必要だった。
それなのに――
「あの、代わりに私が遊びに行ってもいいですか?」
「「…………え?」」
さすがは腐れ縁だ。雄介と北斗、まるでタイミングを合わせたかのように二人の声が綺麗に重なる。
「あ、えっと、ダメ……ですよね。ごめんなさい」
「いや、ダメってことはないんだけど。え? あの、え? なんていうか七海ちゃんのほうが疲れてるんじゃない? ずっと立ってるとのか初めてでしょ。閉店前とか元気なかったように見えたけど」
かわいい女子高生が突然家に来る流れになってあきらかに北斗は動揺していた。馬鹿で軽いように見えて、なぜかデートに誘ったり自分の気持ちを伝えるのはとても苦手。一度壁を乗り越えると、今度は一気に調子に乗る。それが北斗という人物だった。
「大丈夫です。立ってるのは慣れてますから。むしろゲーム中じゃ、座ってるシーンのほうが少ないですし」
「へぇー慣れてるんだ。そかそか。でも、七海ちゃん格ゲーとかできる?」
「ゲームですよね? なら、やってやれないこともないかと」
「そう、だね。まあ格ゲー以外にもゲームはたくさんあるし、なにか一つくらいできるものはあるでしょ。じゃあ、えっと、行こうか」
北斗は椅子からぎこちなく立ち上がる。
部屋を出て行く二人をボーっと見送りそうになり――
「ま、待て」
バックルームに一人取り残されそうになる直前、雄介はあわてて言った。
「俺も行く」
北斗の家は店から近い。駅とは反対方向に五分ほど歩いたところにある。
三人は雄介と北斗が並んで歩き、その少し後ろを七海が歩いていた。
「ねえ、これってどういうことなのかな」
声を潜め、北斗が聞いてくる。
「……知るか」
歩きながら、雄介は後ろを歩く七海を眺める。
無表情、というわけでもないのだが、なにか読み取れるほど彼女の表情に色はついていない。
どういうことなのか。それはむしろこっちが聞きたいくらいだった。
(なぜだ? どうしていきなり遊びに行くなんて言いだした。間違いなく疲れてるはずなんだ。単純に北斗と遊びたいだけなんて理由はありえない。が、だとしたら理由はなんだ)
本人に直接聞くのが手っ取り早いことは分かっている。しかし今北斗がしているように声を潜めて聞きだすようなことはできない。七海と雄介はあくまでも今日初めて出会ったバイトの先輩後輩でしかないのだ。ひそひそと密談すれば間違いなく北斗に怪しまれる。
「僕にもついに春が来たってことでいいのかな、かな?」
基本的に潜めつつも、どこか嬉しそうに北斗は声を弾ませる。
「どうだろうな」
その可能性は低いと雄介は思う。
北斗はイケメンだ。しかし彼と付き合いの長い雄介にはイケメン=モテるなんて単純なことにはなっていないことをよく分かっている。
どうして彼がモテないのか。本人に自覚はあまりなかったが、雄介には思い当たる節がありすぎた。一言で言って、彼には色々と足りていない。
ただ、今日に限っていえば、七海に対してマイナスなことをした場面はなかったように思う。むしろ好感度の変動値だけ考えれば彼は間違いなく上げ、そして自分は下げたことだろう。
七海が北斗に好意を持つことは、冷静に考えれば理解できることだった。なにより北斗には、ある程度のマイナスなら帳消しにするほどのプラスを持っていた。それは七海の知るところではないのだが――
ほどなくして三人は北斗の家――正確にはマンションの正面に到着する。
「ここが長月先輩の家ですか?」
立ち止まり、一五階建てのマンションを見上げて七海が言った。彼女はいつの間にか距離を詰めて雄介の横を並んで歩いていた。
「うん、そうだよ。ここの一番上、1501号室が僕の家」
「へぇー。先輩って、お金持ちなんですね」
まだ実体化して日が浅い彼女でも、駅から近めでオートロック完備のこのマンションの家賃が安くないことは分かるらしい。
「まあ、お金持ちってほどでも、あるかな」
北斗は得意げに顔をニヤつかせる。彼の辞書に謙遜や遠慮という文字はない。
「たまたま運よく高額の宝くじが当たっただけだ」
雄介はただのフリーターがこんな所に住んでいる種明かしをする。北斗のにやけ顔はいくら見てもイライラしてくる。
「でもそのお金をデイトレードで五倍まで増やしたのは僕の実力だろ?」
「あんだけ種銭あれば俺でも五倍くらい増やせる」
「はいはい、そういうことにしておくよ。んじゃ、行こうか」
もう北斗はだいぶ落ち着いていた。雄介がいるおかげで七海と二人っきりではないというのが大きいかもしれない。
エレベーターに乗り込むとき、彼は雄介にだけ分かるように素早くウインクをして見せた。七海とのことでなにかあればフォローを頼むということなのだろう。雄介はその古臭い合図に気付きつつもあえて様子見――言い方を変えればなにもしないつもりだった。
マジックテープ式の財布をバリバリと開き、北斗が取り出したカードキーで鍵を開ける。
「さ、どうぞどうぞ」
扉を開き、北斗が二人を部屋に招き入れる。
「広っ」
部屋に入って七海が最初に言ったのはそんな言葉だった。次に彼女はリビングにある50型プラズマテレビを見て、一段と声を大きくする。
「でかっ」
もう見慣れてしまったので七海ほど驚くことはないが、それでも50型のプラズマテレビは確かに大きい。当然フルHDだ。同じゲームでも32型ブラウン管テレビと比べたら別ゲーとなる。まったく、うらやましいかぎりだった。
七海の反応を見て北斗は満足そうに笑っている。
「で、なにをするんだ」
言いながら、適当に――と見せかけて雄介は自然に七海を観察できる位置に座る。
「そうだなぁ。じゃあ、せっかく三人いることだし」
北斗は先ほどから緩みっぱなしの顔をさらに緩ませる。その表情はセクハラおやじそのものだった。
「ツイスターしようぜ」
「またか……お前も懲りない奴だな」
「なんですか、それ」
「名前は知らなくても、たぶんモノを見れば分かるんじゃないかな。用意するから少し待っててよ」
鼻歌を口ずさみながら北斗は嬉しそうにフローリングの床を靴下で滑っていく。
一瞬部屋に二人残される格好になったところで、まるでこちらの表情をうかがうように七海がちらりと視線を向けてくる。
(俺が邪魔なのか?)
彼女がなにを考えているのか非常に気になったが、雄介はなにも言わなかった。今聞いてもすぐに北斗が戻ってきてうやむやになるだけだ。
ツイスターで使うマットとルーレットを抱え、三○秒もしないうちに北斗は戻ってくる。
「お待たせー。これ、見たことない?」
さっそくマットを広げつつ、北斗が聞く。
「ちょっと、ないです」
「へえ、珍しいね」
普通に一七年間生きていれば一度くらいは目にしたことがあるだろうが、七海にはそういう積み重ねがまったくない。やはり知識にはかなり偏りがあるようだ。
「まあ複雑なルールなんてないから、とりあえず一回やってみようよ。雄介、僕が最初でいいよね」
「好きにしろ」
「さんきゅ。それじゃ説明するほどルールなんてないんだけど、雄介がルーレットを回すから僕たちは交互に指定された場所に手足を置いてバランスを取る。先に倒れちゃったほうの負け。簡単でしょ。それじゃ雄介、よろしく」
じゃんけんの結果、先手は七海に決まった。雄介は適当にルーレットの針を弾き、機械的に結果を読み上げる。
「青に左足だ」
ルーレットが示すとおりに二人は手足をマットに置いていく。最初は特に苦労はない。多少厳しい体勢になっても、体力があるうちはどうにかなる。本当の勝負は筋肉に乳酸が溜まってきてからだ。このゲーム、終わり方としてはバランスを崩すよりも体力が尽きて倒れることのほうが多かった。
一分、二分、三分。二人の体に乳酸がゆっくりと、しかし確実に蓄積されていく。
ゲーム開始から六分が経過した頃――
「守屋先輩っ、早く回してください」
七海が苦しそうに叫ぶ。
「赤に左手だ」
「ええっ。ダメ、無理無理、絶対無理です」
「なら負けだ」
「くうぅ。ええいっ」
なんとか左手を赤丸の上に移動させると、七海は倒れないように歯を食いしばって耐える。なにを賭けているわけでもないのに頑張るものだと思う。設定にはなかったが、どうやら彼女はずいぶんと負けず嫌いなのかもしれない。
現在、七海は仰向けで足を大きく開き、手は両方とも赤丸――マットの右端にあり、三点で体を支えるような体勢だった。
「はあ、はあ。雄介、僕は?」
対して、北斗はうつ伏せで七海に覆いかぶさるような状態だった。それほど無理な体勢には見えない。息が荒いのは目の前に七海の胸があるせいだろう。
「青に右手だ」
「おっけー。よっと」
北斗は元々緑に置いてあった右手を、あえて七海を抱きこむように青へと移動させる。
彼がモテない理由の一つにこのゲームがあると雄介は思っている。しかしやめろとは言わなかった。彼がモテようとモテまいと知ったことではない。
が――
「雄介さん、早く、お願いっ」
勝負に夢中なのだろうか。七海は苦しそうに歯を食いしばりながらも、これといって北斗を不快に思っているようには見えなかった。
「…………」
彼女の要求を無視し、雄介は立ち上がる。
「あまり感心はしないな」
「なんだよ。別にルール違反はしてないだろ」
「確かに反則はしていないが――」
雄介は七海の足首を内側から軽く蹴った。
「あ」
ゲームを終わらせるにはそれで充分だった。すでに限界ギリギリだった七海の体は呆気なく崩壊し――
「ぐおおおおお」
ちょうど体の下にあった北斗の右肘を妙な方向に折り曲げる。
「怪我には気をつけろよ」
北斗の負傷でツイスターは終了――にはならなかった。彼が「少し休めば大丈夫」と言って続行を望み、七海も七海で雄介の妨害によって決着がついたことがとても不満らしく、ゲームは続けられることになった。
雄介と七海との勝負はあっさりと終わった。彼女は北斗との勝負で体力を使い果たしていた。
負けたほうが抜けるということで、七海が北斗と入れ替わる。
「できるのか?」
北斗は肘のあたりをさすりつつ答える。
「まあね。七海ちゃん、そんなに重くなかったし」
確かに設定では四八キロで太ってはいない。ただし、腕一本を破壊するのに充分な重さではある。
「ただ、少し手加減してくれると嬉しいかな」
「それは諦めろ。俺はどんな勝負でも常に全力でプレイする主義なんだ」
「……ふーん」
北斗が今まで浮かべていた笑みとはあきらかに違う微笑を浮かべる。
「……どうした」
「別に。じゃ、やろうか」
そう言うと彼の目が勝負士の目に変わった。
勝負は長時間に及んだ。しかし始まりがあれば必ず終わりも存在する。
最終的には雄介が勝利した。ただ、北斗の肘が万全だったら負けていたかもしれない。本当にきわどい勝負だった。エアコンの効いた部屋で二人とも汗だくだ。
北斗との勝負が長すぎた。結局これ以上ゲームを続ける体力も時間もなくなり、今日はこれで二人とも帰るという流れになった。
部屋を出てマンションの下まで行くと、見送りについてきた北斗が言う。
「夜道の一人歩きは危ないし、家まで僕が一緒に行こうか?」
「お前と二人で歩いたほうが危険な気がしてならないんだがな」
「えー、そんなことは……ないよ」
「せめて否定するなら即答しろ」
「はいはい、大丈夫だって。……ふう。で、どうする?」
まだ先ほどの疲れが若干残っているようだ。北斗は呼吸を整えるように小さく息をつくと、あらためて七海に聞く。
「いえ、結構です。長月先輩も疲れてるだろうし。それに私、雄介さんと一緒に――」
疲れているせいで反応が遅れてしまった。
「ふぎゃっ」
額に水平チョップを喰らわせ七海を黙らせる。
「蚊がいた」
雄介は手についた架空の蚊を指ではじく。
「ところで俺の最寄り駅は東模手原なんだが、お前はどこなんだ?」
「えーと、私もたまたま奇跡的にも偶然同じ駅です、はい」
北斗は突然の暴行にきょとんとしていたが、七海は額に手を当てながら話しを合わせてきた。
「だそうだ。こいつは俺が送っていくから心配するな。行くぞ」
返事を待たずに歩き出す。一拍置いて七海は問題なくついてきた。
少し後ろに彼女の気配だけを感じながら、雄介は駅を目指して歩く。
北斗の家から駅までの数分間、二人はなにも話さなかった。
彼女がなにを考えていたか、どうでもよくなったわけではない。が、いざ聞ける状態になると、なぜか知ってしまうのをためらってしまう。
微妙な距離を保ったままホームへと続く階段を下りる。電車は定刻通りホームに到着した。
どう切り出せばいいのか、どのタイミングで聞けばいいのか、それが分からないまま雄介と七海は終電間際の混雑した電車に乗り込み、時間を消費していく。
改札を抜け、帰り道。三分も歩けば同じ方向に進む人はいなくなる。
「あの」
「なんだ」
雄介は彼女の顔は見ずに、歩く早さも変えないで聞いた。
「……ごめんなさい」
その言葉からなにを想像したというわけではなかった。こんな時間になっても外は蒸し暑い。なのに、雄介には冷たい風が自分を通り抜けていったような気がした。
「それはなんのことに関しての謝罪だ」
「さっき長月先輩に雄介さんと一緒に住んでるって言いそうになってしまったので」
「いきなり北斗の家に遊びに行くと言い出したことに関してじゃないんだな」
「え?」
「まあいいだろう。お前が誰に尻尾を振ろうが俺の知ったことじゃない」
「ちょっ、待ってくださいよ」
「北斗は非常識でド変態の馬鹿野郎だが、顔は間違いなくイケメンだ。カネもある。俺なんかよりもずっとな。だから奴に乗り換える選択は間違っていないだろう。ただし色仕掛けをするにしても、せめてあいつにはなにも喋らないと誓っ――」
「私が雄介さん以外を好きになることなんてありません!」
静かな夜道に七海の叫びが響き渡る。
足を止め、振り向く。
彼女は今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「なら、どうして北斗の家に遊びに行くと言い出した」
雄介の声に少しだけ怒気がこもる。
「それは長月先輩が雄介さんと親友だって言ってたから、頼めば雄介さんのことを色々教えてくれるかと思って」
「……それだけか」
「それだけです。信じてください」
七海が潤んだ瞳で見つめてくる。
泣けば無条件で信じるほど雄介は甘くない。むしろ彼にとって涙は警戒心を強めるきっかけにしかならなかった。
「……聞きたいことがあるなら俺に直接聞け」
雄介は七海に背を向ける。今回は、彼女の主張は信じておくことにした。
「なら、教えてください」
※ ※ ※
「詩織さんと雄介さんは付き合ってるんですか?」
再び歩き出そうとしていた彼の足が、ぴたりと止まる。
勢いだけで、七海は肯定されてしまった場合のことをなにも考えず聞いてしまった。
「俺と星野はただの同僚だ。それ以上でもそれ以下でもない」
即答というほどでもないが、返事は思いのほか早く返ってきた。
「なら、もし詩織さんに告白されたら、どうしますか?」
そのせいだろうか。勢いだけで、七海は再び聞いてしまう。
ふと、視界の端に満月が見えた。月の光には不安な心を勇気付け、饒舌にさせる魔力が込められているのかもしれない。
「どうしてそんなことを聞く」
彼がもう一度振り返る。
「それは、私が雄介さんのことを好きだから。そして詩織さんも……雄介さんのことが、好きだから」
根拠は店長が教えてくれたからだけじゃない。
彼女を見ていれば分かる。時間はほんの少しだけだったかもしれないけど、彼と話しているときの彼女はとても嬉しそうで、輝いていた。
「…………」
答えはなかなか返ってこなかった。
星野がもし行動を起こしたら、彼がためらう理由が思いつかない。
三次元なんてありえない。昨日は絶望したその言葉が、今はとても聞きたかった。
(焦りだ)
初めて星野を見たときに感じた謎の気持ち。七海はその正体を唐突に理解する。
さっきは勇気付けられた満月が、今はニヤニヤと自分のことを笑っているような気がした。
「星野が俺に告白してくるなんてありえない」
それだけ言うと、彼は今度こそ歩き出す。
結局、彼は告白されたらどうするのかという問いには答えてくれなかった。
はっきりとした答えを聞けないまま、数日が過ぎた。
「いってらっしゃーい」
朝。七海は笑顔で彼を送り出す。
一緒の仕事をしているからといって、当然毎回シフトが同じということない。時間が違えば部屋を出るタイミングも違ってくる。七海は今日、後半からだった。
彼が部屋を出て行ってから一○分ほど待ち、七海も部屋を出る。前回後半からだったときはニコニコを見て暇をつぶしたが、今日は予定があった。
電車に乗り、揺られること一五分。駅からは徒歩で一○分。途中で若干迷いながらも、七海はなんとか目的の場所に到着する。
部屋番号を入力し、呼び出しボタンを押す。
反応がない。しかし昨日、シフト表で今日北斗が休みなことは確認してある。
もう一度ボタンを押す。数秒後、スピーカーから眠そうな声が返ってきた。
「ふぁーい、どちら様ですか?」
「望月七海です」
「ふーん。……えっ、七海ちゃん? ど、どうしたのいきなり」
「ちょっと、お話がしたくて」
彼と恋人になりたいなら、待っているだけではダメだ。
しかし具体的に、なにをどう頑張ればいいのか。今まで台本通りにしか行動してこなかった七海には、それが分からなかった。かといってもう一度ネットで相談するのは気が進まない。
「もし都合が悪かったら出直します」
やはり彼のことをよく知る北斗に相談してみよう。今のところ、それが最善の選択だろう。そう思って今日はここに来た。
「いや、別に大丈夫だよ、うん。えーと、とりあえず開けるね」
ピッと音がして自動ドアのロックが外れる。
エレベータで上まで行くと、北斗は玄関のドアを開けて待っていた。
「や、やあ。久しぶり、でもないか。ははは」
「ごめんなさい、突然来てしまって」
「そんな、ぜーんぜん大丈夫だから。まあ、姉貴がいるとちょっとマズイんだけど、九時までは帰ってこないし。だから大丈夫。さ、入って入って」
七海は前回ツイスターをした大きなプラズマテレビがある部屋まで進み、テーブルの前で腰を下ろす。少し遅れて北斗が缶コーラを一つ持ってくると、グッと一気に飲み干し、テーブルに置いた。
「ふう……。で、今日はどういったご用件でしょうか?」
「あの、聞きたいことがあって。……守屋先輩のことなんですけど」
どうごまかしていいか分からないので七海は直球で攻めることにした。
「……ああ、七海ちゃんもなんだ。そっかそっか」
七海が「守屋先輩のこと」と言っただけで彼は一人納得したようにうなずくと、乾いた笑みを浮かべてつぶやく。
「雄介が目当てでバイトの面接を受けに来る子って、結構多いんだよね。まあ店長の基準って厳しいから、ほとんど受からないんだけどさ。どうしてかなぁ。僕のほうが雄介よりイケメンだと思うんだけどなぁ……」
はあ、とため息をついて彼は肩を落とす。
「なんていうか、ごめんなさい」
「気にしなくていいよ、慣れてるから。恵理子ちゃん――あのいかにも書委員って感じの子ね。昔、あの子にも話しがあるって言われて、聞いてみたら雄介のことだったし、こういうことは初めてじゃないから。……で、七海ちゃんはなにが聞きたいの? もう告白はしちゃった?」
「えっと……」
なにから話せばいいだろう。少し考える。
「じゃあ、教えてください。守屋先輩と星野先輩はお付き合いされてるんですか?」
彼は否定した。
できることなら彼のことを信じたい。けれど笑顔で楽しそうに話している二人を見ていると、どうしても「もしかしたら」と考えてしまうのだ。
「んー、お似合いだとは思うけど付き合ってはないはずだよ。僕に内緒で付き合ってるんじゃなければだけど。それを知らないってことは、まだ告白はしてないみたいだね」
「いえ、告白……っぽいことはしました。けど、『三次元の女なんてありえない』と言われてしまって……」
「へぇ、雄介そんなこと言ったんだ。しかし、やっぱりふられちゃったか」
「どうして守屋先輩がそんなことを言うのか、長月先輩には分かりますか?」
「まあ、雄介が女の子と付き合いたくないって思う心当たりはあるよ。つまんない話だけど、知りたい……よね」
「……はい。教えてください」
宣言通り、北斗の話しはそれほど面白いものではなかった。
雄介には一年前までとても仲の良い彼女がいた。
彼女――橋本優香とは二人がまだ高校生だった頃、イベント帰りのオタクを狙うナンパ野郎から助けたのがきっかけで付き合うようになった。一七歳、夏の出来事だった。
「ベタな出会いだけど、運命を感じたって彼女は言ってたよ」
二人は本当に仲が良かった。ああ、二人はこのまま結婚するんだろうなと北斗は思っていた。
しかし、そうはならなかった。
「雄介の彼女に相談されたことがあったんだ。『もう一緒のところじゃなくてもいいから、家に残って大学に行くよう雄介を説得してほしい』って。けど雄介は親父さんの寝込みを襲って家から出ると、大学にも――」
「ちょ、ね、寝込みを襲ったんですか?」
「うん。雄介の実家って実はおっきな古武術道場でさ、いずれは長男の雄介が道場を継げって言われてたらしいんだ。でも雄介は親父さんのこと大嫌いだったし、高校卒業したら家を出るってのは中学のときから言ってたことで、当然僕なんかが説得できるわけないよね」
そして雄介は計画通り家を出て、どうにか四畳半の安い部屋を借りて一人暮らしを始めた。
「彼女、最初は言ってたんだ。『過ぎたことを悔やんでも仕方がない』って。なのにしばらくすると、また相談されたんだ。『やっぱり親と和解して、大学にも行くようもう一度説得してほしい』ってさ。まったく、わけがわからないよ。どうしてそんなこと言うのか、今の僕には理解できないね。雄介もそう思ったんじゃないかな」
二人が別れたのは、彼女がそんなことを言うようになってから二週間ほど過ぎたときだった。
「彼女と同じ大学に通ってた友達がさ、たまたま浮気現場を目撃しちゃってね。浮気だよ浮気、NTRだよNTR。すっごく清純で大人しい子だと思ってたのに。雄介も相当ショックだったろうね。僕もヨヨに好きな子の名前をつけちゃったプレイヤーの一人だから、よく分かるよ」
ヨヨというキャラクターを七海は知らなかったが、ヒロインの風上にも置けないような人物だということは容易に想像できた。
「ちなみに詩織ちゃん――初日に会った、店で一番かわいかった子ね。詩織ちゃんは雄介の昔からのファンだから……って、七海ちゃん雄介が同人で小説を書いてるのは知ってるよね?」
「えっと、はい。一応、知ってます」
昔から、彼がパソコンを使って小説を書いているのは知っていた。ただ、小説を書いているときの真剣な眼差しにいつも見とれてしまい、どんな話を書いているのかまではよく分からなかった。
「雄介、結構昔から書いててさ。そこの本棚に全部揃ってるから良かったら通して読んでみるといいよ」
見れば、本棚には大量のえっちな本と一緒に彼が書いたと思われる小説が並んでいた。
「この頃はミステリーとかバトルものばっかりだけど、昔は甘いのばっかり書いてたんだよね。っと、話を戻すけど、詩織ちゃんは昔の彼女のことも、雄介がいつ頃ふられて、今どんな状況なのかも知っている。だから、たぶん詩織ちゃんからなにか仕掛けるようなことはないんじゃないかな。無駄だって分かってるからね」
それを聞いて最初に七海が感じたのは、安心ではなく悔しさだった。自分以上に彼のことを星野が知っていることが、悔しい。
「まあ、今は待つしかないのかな。雄介がもう一度恋をしてもいいと思えるようになるまでさ」
「……待つしか、ない」
それが一番無難な選択だとは思う。しかし――
「本当に、それしかないんでしょうか?」
「残念ながら、僕には思いつかないかな」
「…………」
なんとなく、待つだけでは永遠に彼とは恋人になれない気がした。ただ、どうすればいいかは七海にも分からない。
「そんなに悲観的になることもないと思うよ」
そう言って北斗が微笑む。
「僕の予想だと、待たなきゃいけない期間はそんなに長くはならないんじゃないかな。最近、徐々に雄介の書く話がまた甘くなっていってる気がするし」
「なら今年中に、なんとかなりますか?」
「んー、ギリギリかもしれないし、もしかしたらもっと早くまた恋をしてもいいと思えるようになるかもしれない。てか、なにかタイムリミットでもあるの?」
「あるような……ないような」
部屋は今年中に出て行かなくてはならないが、それで二度と彼に会えなくなるわけではない。それでも部屋を出ることになれば間違いなく彼との距離は開いてしまう。なにより彼と一緒に住んでいるというのは星野に対する唯一のアドバンテージだった。それを失ってしまったら、もう彼女に勝てる気がしない。
「よく分かんないけど、大丈夫だよ」
「どうしてそう思うんですか?」
聞く。七海には北斗の言葉は根拠のない気休めにしか思えなかった。
「どうしてって、そりゃ七海ちゃんがかわいいからだよ。僕が今まで出会った中では最高にね。さっき言ったよね、詩織ちゃんが店で一番かわい『かった』って。今は七海ちゃんが店で一番かわいい子だと僕は思ってるよ」
「…………」
「本当だよ。とくに七海ちゃんは肌が綺麗だと思う。なんていうか、傷一つなくてテクスチャみたいな肌だよね。うん、間違いなくオリエント工業のダッ――高級人形よりも綺麗な肌してるって」
「……ありがとうございます」
オリエント工業の人形がどんな物かは知らないが、こうして具体的に褒められるとようやく少しだけ安心できた。
「ところで、話は変わるんだけどさ。七海ちゃんと僕、どこかで会ったことないかな? 七海ちゃんの顔、なんか記憶にあるんだよね。なんか、風邪で寝込んでたときに見たような。でも、あのときは布団から出ずに携帯でVIPばっかり見てたから誰とも会ってないはずだし……」
「き、気のせいじゃないですかね。あは、あはははは……」
七海はぎこちない笑みを浮かべて否定する。
VIPという単語を聞いてピンときた。おそらく北斗は「アレ」を見たのだろう。どうやら世界は案外狭いらしい。星野を知ったあとだと自信満々に画像を上げたのがとても恥ずかしく思えてくる。
「それじゃ、私はこれで」
立ち上がり、玄関へと向かう。
「あ、待って」
「うっ」
つい言われた通り立ち止まってしまう。
「今日って七海ちゃん後半からだったよね。それまで、なにか予定あるの?」
バレたわけではないようだ。話の流れがまた変わったことにほっとしつつ、七海は答える。
「いえ、とくに予定はないです。ニコニコ動画でも見て暇をつぶすつもりでしたけど」
「なら、時間までゲームでもしていかない? ニコニコ動画も楽しいけど、二人で遊ぶほうがたぶん気がまぎれると思うし。お昼まだならおごるよ。お寿司とピザだったら、どっちがいいかな?」
一旦帰ってまたこっちに来るのは面倒だし、時間までここにいていいのならとても助かる。それに最近は一人でニコニコ動画を見ていても内容が頭に入ってこないことが多い。
「……なら、お寿司が食べたいです」
「おっけー。じゃ、電話するね」
しばらくして届いた特上のお寿司は舌がとろけるほどに美味しかった。
ゲームは格ゲーをひたすらプレイした。あまり勝てなかったけど、楽しかった。
(いい人じゃないか)
彼が言うほど、北斗は変な人じゃない。数時間一緒にいて、七海は思う。
この日、彼女は初めて仕事に遅刻した。
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