【腐】Blood addict.【虎←月】 |
遠くで市民の歓声が聞こえた。
どこかの部屋でテレビが点いているのだろう。母は今でも、HERO TVを欠かさず見ている。果たして番組の内容を正しく理解できているのかどうかは知らない。もしかしたら今でも、HERO TVではレジェンドが活躍していると思って見ているのかも知れない。
二時間前、シュテルンメダイユ地区シルバーステージで発生した置き引き事件は二部リーグのヒーローたちが駆けつけたことにより犯人が逆上、手近な買い物客を人質に取って立て篭もるという凶悪事件に発展した。今しがたの歓声は、かの犯人が一部リーグのヒーローの手によって確保されたことを報せるものだろう。
ユーリはルナティックのスーツをハンガーにかけてクローゼットにしまい込むと、乾いた肌にシャツを羽織った。
今宵の事件での死傷者は三名。一人は最初に人質になった主婦で、電撃系のNEXT能力を持った犯人の手で死亡している。もう一名はヒーローを呼んだ警備員で、当局に連絡するための電話機を弾き落とされる際に右手を負傷した。
最後の一名は事件現場に誰より早く駆けつけたヒーロー、ワイルドタイガーだ。
犯人の傍らで既に息絶えていた被害者を見て居ても立ってもいられなくなったのだろう、後先考えずに犯人に跳びかかり、格闘になった。
ワイルドタイガー・ワンミニッツ。
彼が二部リーグのヒーローとして戻ってきてからもう暫く経つが、未だに一分間しかない自身の能力に慣れていないのだろうか。そうとでも考えなければ、あんなふうに無闇に正面から犯人に飛びつくなんてことは考えられない。
ユーリはいつもよりやや熱めの紅茶を淹れた後で、ゆっくりとカウチへ歩み寄った。
今頃OBCでは犯人確保時の映像をリプレイし、ヒーローへのインタビューをしていることだろう。目を輝かせてそれを見ている視聴者の誰も、ワイルドタイガーのことを気にもかけていない。
ユーリは紅茶のカップに唇を押し当てて暖を取りながら、カウチの手前で足を止めた。
そこには、肘掛けから足をはみ出して横たわった、男の姿がある。
白と緑色のヒーロースーツを着けて、腕は力なく床の上へ伸びている。気道確保のためにマスクだけは外しておいた。
アポロンメディア社のメカニックは多少の電撃ならば絶縁できるようにヒーロースーツを作っているはずだが、犯人を説得するために顔を開けていたのが拙かった。ヒーローに追い詰められ、もはや正気を失した犯人はワイルドタイガーの顔をしたたか殴りつけ、更には電撃を流した。ハンドレッドパワーで押さえ付ける間もなく気を失ったワイルドタイガーは犯人に暴行を受け、この有様だ。
あらわになった顔は煤け、細かな疵がいくつもついている。弛緩した唇が薄く開いて、浅い呼吸が往復していた。ユーリはそれを見下ろして確認すると、花の香が強い紅茶で唇を濡らした。
ユーリの部屋には、古めかしい紙の匂いと僅かばかりのインクの匂い、それを掻き消すように紅茶の香りだけが充満している。それ以外は必要がないし、意識して排除してきた。
ともすればルナティックのスーツに焦げ臭い――それも人の肉が焼ける酷い悪臭だ――が付着してしまうことがある。ユーリはそれを嫌ってルナティックとして外へ出た際は必ず香りの強い紅茶を淹れるようにしていた。
他者をこの部屋へ招き入れるなど、言語道断だ。まして、こんな薄汚れた男を。
二部リーグのヒーローにしては異色のスポンサー名が刻まれたヒーロースーツは傷だらけだ。アポロンメディア社からの報告によればまだ比較的新しいスーツのはずだが、出動のたびに肉弾戦に持ち込もうとする彼自身に問題があるようだ。摩擦でスーツが削れたせいなのかどこか焦げ臭いような臭いがするし、ユーリと違って汗をかいているために体臭もある。
気に止めるようなことではないかも知れないが、異質なものを部屋に持ち込んだという意識を強く感じて、ユーリは眉を震わせた。
鏑木虎徹はまだ気を失ったまま、微動だにしない。乱れた髪が、汗で額に張り付いている。
ユーリはテーブルに紅茶のカップを置いたついでにカウチの傍らへ膝をついた。
バイタルサインは消えていない。健康上の問題はないだろう。ただ通電で気絶しているだけだ。ユーリはアポロンメディア本社へ通信を行なっているであろうGPSの機能を切った。今更かもしれないが、居場所を知られても面倒だ。
「――ん、……」
スーツに触れたせいか、狭いカウチの上で鏑木虎徹が小さく呻いた。
慌てて手を引いて、息を詰める。目を覚ましたらどうするつもりだったのか、考えずに此処まで連れてきてしまった。目が覚める前に傷の手当てだけして現場へ戻すはずだった。
あのまま犯人の激高に任せて暴行されている姿を見るのは忍びなかった。それだけだ。
鏑木虎徹は小さく身動いだきり、また動かなくなった。目を覚ます気配もない。ユーリは強張った腕を跪いた腿に上に落とすと、息を吐いた。
いつも締まりのない表情ばかりしているせいで歳相応には見えないが、こうして意識を失くした顔立ちだけを見ていると鏑木虎徹もそれなりに見える。間近に見れば皺もあるし、痛みのせいで眉間が緊張してすこしばかり凛々しくも映る。
ユーリは鏑木虎徹のこめかみに滲んだ血に手を擡げると、そっと指先で触れた。
また呻き声を上げるかと思ったが、鏑木虎徹は微動だにしない。しかしユーリの中指の下で鏑木虎徹の脈がどくどくと断続的な律動を打っている。ひどく冷え切ったユーリの指先を焦がすような、熱もある。
ユーリは指先を汚した血を掬い取るように手を離すと、それを自身の唇へ運んだ。
紅茶で濡らした舌先で指先を舐る。塩っぱさと鉄の味が口内に広がって、ユーリは睫毛を震わせた。
鏑木虎徹の血液がユーリの体内に染みこんで、胸の中へ滴っていく。そんなビジョンが瞼の裏を過ぎった。思わず喉が鳴る。いつしか、負傷に苦しむ鏑木自身よりもユーリの呼吸が浅くなっている。
口元から手を下ろした後も下唇を噛むと、自分のものではない味がする。
ユーリは胸を締め付けるような気持ちに唇を戦慄かせると、カウチの肘掛けへ手をついて腰を浮かせた。鏑木は目を覚ます気配がない。目を覚ます前に現場へ送り届けるつもりがあるのは本当だ。
だから、せめて。
ユーリは鏑木虎徹のこめかみに広がった赤い傷跡に吸い寄せられるように首を伸ばした。
「ゥ、ん……――バニー、」
瞬間、魘されるように呻き声を上げた鏑木の言葉が耳に飛び込んできて、ユーリは静止した。
間近に寄った意識のない人間の顔を見下ろす。苦しげに顰められた表情。首に浮いた筋。額の汗、滲んだ血液、乱れた髪。乾いた唇から吐き出されたうわ言は、今頃どこにいるか知れない過去の相棒の名前を呼んだ。
貴方はあの若い相棒に棄てられたのだ、とその耳元に囁いてやろうか。
それとも、目覚める前に元いた場所へ戻してやるのを止めて、このまま此処へ監禁してしまおうか。二部リーグのヒーローが一人いなくなったくらいでシュテルンビルトの平和が乱されることはない。
鏑木がなんて言おうとこの部屋へ縛り付けて、ユーリが彼の全てになるまで――
「……っ、」
それは愉快な想像であるかのように思われた。ただの戯言なのだから、笑えるだろうと思った。
しかしユーリはその場に両膝をつくと、唇を噛んで蹲った。カウチの上の鏑木虎徹の傍らへ顔を埋めても、ユーリは決して、彼の夢の中へ姿を表すことはない。
説明 | ||
ついったーで「虎月耽美妄想」をうかがっていたら出来上がった突発SS。耽美にはできませんでしたけど……◆コテバニ下敷きなのか、おじさんとバニーちゃんは何でもないただのバディなのかはともかくとして、ユーリさんがおじさんに懸想しているお話。◆時間的にはマベがタナられた後、ワイルドタイガーがワンミニッツとして二部リーグに帰ってきた後、バニーちゃんが帰ってくるよりも前◆この後日談もいつか書けたら…。 | ||
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