マンジャック #5
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マンジャック

 

第五章 10億$の鷲

 

 彼女の視線の先にはパシフィックがいた。だがその眼差しは彼を見ているに非ず。彼女の心が射抜くもの、それは彼の身体の中に巣喰うもう一人の人物、成木黄泉...。

 その男の一挙手一投足を見ながら原尾は、彼の今したあの表情が、成木のものなのか、パシフィックのものなのかと考えていた。微かに聞こえるその言動は、本当に成木という男が語っているのか、どこまでパシフィックの人格が喋っているのか、様々な考えが原尾の中を駆け巡っていた。それは彼女がジャッカーに対峙する時にいつも頭に浮かんでくる事だった。それはそもそも彼女をして対特に進ませしめた気持ちが最初に萌芽した場所から発する問であり、ジャッカーへの興味を駆り立てた彼女の心の中にある揺藍の地からの、人の心に他人(ひと)の心が入り込むとはどういう事なのかという想いが起こさせる問であった。

 はっ。原尾は我に還った。今そのことを考えている余裕はない。パシフィックらの元に誰かがコンタクトに来るまでの短い時間。それが私が私の役割を果たす為に与えられた時間なのだから。

 

「こんにちはパシフィックさん。」

ティーサーバから取りだしたコーヒー入りの紙コップを差し出しながら、原尾はパシフィックに話しかけた。

「あ、あぁ。どうもありがとう。」戸惑いながらもパシフィックはコーヒーを受け取り、左手で護衛の男達を制した。「君は確か空港で...。」

「警視庁対特殊犯罪捜査機構の原尾マキ警部です。今回は無理を言って同行させてもらっています。」

「いやいや。美しい女性と行動を共に出来るのは結構な事ですよ。」

パシフィックは大きな腹を揺らして笑った。

 パシフィック本人も、こんな屈託のない笑いをするのだろうか...。いけない。原尾はだぶりかけたパシフィックの人物像を押しやると、早速本題に入り、居心地が悪そうに見受けられたので私で良ければお相手でもと申し出た。

 黙って聞いていたパシフィックも、ふむ、と短く考えた後、喜んで申し出を受けた。

 和らいだパシフィックの表情...。それは本気か。黄泉の誘いか。

「良かった。では暫くお話しでもして下さい。」

 

 永遠とも思えた時間が過ぎ、大野達を乗せたエレベーターは最上階に達して停止した。

 我に還った大野はエレベーターの中に降りながらギルバートに叫んだ。

「下だ。五階を押してくれ。」

 ギルバートはすぐに反応して操作盤に触れると、エレベーターはすぐに降り始めた。

 河合はエレベーターの昇降通路を下に降りていった...。大野は素早く思索を巡らす。この空間にはそうそう出口があるわけはない。あの女の行き先はもう一台のエレベーターだ。俺が空けた天井穴から潜り込むつもりだ。逃がすものか。

 大野がエレベーターの床に降り立つと、ギルバートが言った。

「ありがとう。とりあえず助かったよ。」

おざなりな言い方に、大野はむっときたが、差し出された手を見てとりあえず握手を返しておいた。この時、密かにギルバートの体内に拒絶波を送り込む事も抜からなかった。河合の言った事への用心である。

 こいつ...。少なくともジャックされたわけではいないようだ。大野は手を離してからギルバートに言った。

「あんたはこのまま帰った方がいい。胡散臭い商売はするもんじゃないぜ。」

我ながらよく言う。大野は心中で苦笑いをした。

「残念ながらそういう訳にはいかない。私も生活が懸かっているのでね。」

「折角の忠告なのにご挨拶だな。ま、勝手にしてよ。」

 大野はこの男がパシフィック達に何をもたらそうと知った事ではなかった。あくまで大野はジャッカーハンターなのだから。大野がこの男に興味を持つとすれば、それはこの男が河合の言うようにジャッカーであった時である。

 それよりこいつで気になる事はその落ち着き方だ。大野はさっきからの出来事を反芻して思う。拳銃を突きつけられたり、河合が今一歩で自分を殺しそうになったりしたのに、まるで他人事のような顔をしていた。度胸があるのかキレてるのか...。

 

 河合は大野の予想通りにもう一台のエレベーターに乗り込むつもりでいた。四方の壁を蹴って数十mも掛け降りて、彼女は下降するエレベーターの屋根に静かに着地した。

 誰かが乗っているようだわ。河合は息を潜めて内部の気配を察した。この人が降りたら中に入り込むとしよう。

 エレベーターは止まり、ドアが開いた。振動で出ていったのが判る。数瞬待っても止まったままだ。どうやら完全に無人になったらしい。躊躇いもなく彼女は迅速に中に降り立った。だが。

「!」

 声をたてずに河合は叫んだ。ドアは開いていたのである。

 ドアに手を掛けて、クールが立っていた。

 

 五階につくや、大野は飛び出してもう一つのエレベーターが何階にあるのかを見た。ギルバートは挨拶もせず会場の方に向かった。

 もう一つのエレベーターは三階で止まっているようだった。大野はすぐにエレベーターに駆け戻った。

 まずは河合からだ。退路を断ってから黄泉を狩ってやる。

 かりにも、パシフィック達がコンタクトを取ろうとしている相手である可能性の高いギルバートと共に行動しなかったのは、明らかに大野の失策であろう。大野も河合にいいようにあしらわれたことで、彼女に対して些かむきになっていた面があったかもしれない。何れにせよ、大野の判断が産んだタイムラグは、思わぬ結果をもたらすのだった。

 

 退屈しのぎの余興にしては、原尾がパシフィックにしていることは奇妙であった。少なくとも端から見たらそれは、まるでパシフィックが原尾に尋問されているかの様に見えたからである。

「では次です。机と聞いて何を連想しますか。」

「事務処理。沈思黙考。」

「じゃあ、橋では。」

「...出発点。」

「えーと、階段...はどうですか。」

「高揚...か。」

 原尾が質問し、パシフィックがこれに答える。一問、また一問と、それに対して短い一答、また一答と、淡々としたやりとりが続く。こんな事になってしまって、パシフィックはさぞ退屈しているかと思えば、意外な事に結構真剣に質問に答えているように見える。ふと始まったこの会話に興味を魅かれた男達が、一人一人ギャラリーとして回りを取りまいていった。

「精神分析なんて、何でわざわざこんなとこでやってんだ。」

見物人の一人が、隣の男に向かって囁いた。それも当然だろう、この会場内にいる人間は八割方医者で、その内の何割かは精神分析の臨床を行っているものもいる。そんな場所での精神分析なんて、正にわざわざであろう。

「いや、あれはゲームだよ。キャロットっていうんだが、知らないかね。」

話しかけられた男はこんな事を言って男を制した。

 男は黙った。はいいが、キャロットってなんだ。

 

 キャロット。このゲームは、参加者が事前に幾つかの言葉をメモった後、予め決めておいた質問者が発するキャロットという言葉より始まる。質問者の言葉に対して参加者は思いついた言葉を述べる。参加者が複数の場合、質問者はその回答の中で自分に有利と思われるものからの連想を次の質問として出題する。この様な調子で質疑応答を続けてゆき、メモした言葉を回答者が答えれば質問者の勝ち、所定の回数を切り抜ければ回答者の勝ちとする。自分の欲する方向に向かせるように質問していく様が、馬の目の前に人参をぶら下げる事に比喩される事から、このゲームをキャロットと呼ぶようになった。

 二人で行う場合は基本的には連想ゲームである。お互いが自分達のメモった言葉を相手に言わせるような回答をすることでゲームを成立させる。面白い事に、二人で行う場合も形式上、最初に言葉を提示する方が質問者と呼ばれる。

 連想というルールがあまりにも間口が広いため、一見すると収集が付かなくなるのではとの印象を受ける。が、全く関係のない事を言ってもいいとはいえ、人間の頭はたった今聞いた言葉に対して考えを遮断してしまうなどという事は不可能であり、関係ない言葉すら前言に対して反応したからこその無関係なのである。その辺りの駆け引きが知的な心を揺さぶるのか、意外にインテリに知名度の高いゲームとなっている。

 

 いつの間にか原尾とパシフィックの周りには人垣ができ、二人の言動に対していろいろの憶測を囁きあっていた。しかし何しろ玄人ばかりの集まりのこと。精神分析して答を考えようとする者もいる。

「”空”ではどうですか。」原尾が聞いた。

「虚無。」

「!」

 

 梅に鴬、富士には茄子(なすび)。棚にぼた餅、阿蘇にはラドン。とまぁ、ものにはつきものと言われるものがある。人は全てが違った環境下に生活しているのだから、その答が一律になる事はありえないとはいえ、ある言葉からの連想がある共通の文化圏に生きる者達で類似してくる事はこれらの例からも判るだろう。しかし、日本人という枠で括った上記四例の内でも、一番最後の例はかなりその対象者を限定したものである事は今更言及するまでもあるまい。

 原尾の狙いも結局そういう所から発している。つまり、パシフィックのようにアメリカの文化に染まって生きてきた者の発言と、その脳を間借りしているとはいえ日本に於いてその活動の多くを行っているとされる成木の発言では、その精神の底に根ざす文化圏の違いによってギャップが生じるはずであるという事だ。その証拠を見つける事が出来れば...。

「”宇宙”では?」

「暗黒...。」

 

 周りの寛いだギャラリー達には思いつきもしない競り合いが繰り広げられていた。

 もし現在パシフィックの身体を操っているのが黄泉だと仮定するならば、原尾の具象名詞の質問に対して抽象名詞で一貫して応じているのは正解であろう。一般的に言って、具象名詞の方が固有文化の背景を持ち易い、平たく言えば素性がばれ易いからだ。だが、原尾は確実に手応えを感じていた。カモフラージュしているとはいえ、発言の傾向に一定の方向性が見え始めている。それは明らかに浮き彫りにしつつある。犯罪社会に生きる者がだけ持つ、闇の世界の断片を...。

 原尾は矢継ぎ早に質問する。思考のベクトルを変える時間を与えてはならない。

「”洞窟”の連想は?」

「孤独。」しかしあくまでパシフィックは冷静に答える。

 

 その時、原尾達二人のすぐ脇の方が俄にざわついた。原尾が眼を向けると、ヤムの近くにいる五十前後の男が突き飛ばされて倒れるのが見えた。

 どうやら倒れたのはヤムと話していた男だったらしく、ヤムは思わず駆け寄ろうとした。しかし、その行動は彼の前に立ち塞がった男によって遮られた。倒された男は半身を起こしてその男を見た。その眼つきの険しさから突き飛ばしたのはこの男と判る。

「何てことをするんだ。非常識じゃないか。」

ヤムが語気を強めて眼前の男に言った。その言葉が聞こえていないかのようにじっとヤムを見つめるその男。ギルバート!

 彼は表情を変えずにヤムに言った。

「いいのかね。ビリオンダラーが来てやったんだぞ。」

 

 河合は運がなかったとしか言い様がない。彼女が降り立ったエレベーターにたまたま乗っていたのが、よりによってクールだったからだ。彼は左手で扉を押さえ、右手には銃を構えている。河合は降り立ったときの片膝の姿勢から動かない。相手の出方を窺っているのだ。

「天井で微かに音がしたんで誰かと思えば。お前は確か空港にいた女だな。」

クールが切り出した。声に僅かに優位の表情が読み取れる。

「当たりよ。でも私は生憎あんたなんか覚えちゃいなくてよ。」

 この状況に於いてなお、河合の毅然とした物言いにクールは驚いた。

「残念だな。だがへらず口を叩いていられるのか。」

 ちっ。河合は舌うちした。動けば撃たれる。だが、かといってこのままでは、時間がなくなる...。

 時だけが無情に流れ、身の回りの空気さえ焼け付かせるほどの焦燥が彼女を包む、そして...。

 河合は上に跳んだ。クールは躊躇いもなく引き金を引いた。

 無口な弾丸はしかし、狙った筈の河合の眉間には食い込まなかった。彼女は頭だけを素早く上げ、クールから見て跳び上がるようにみせるフェイントをかけたのだ。弾丸は俯いた彼女の髪を数本撫で切っただけでエレベーター奥の壁を突き抜け、その奥にあるのであろうコンクリートに抉りこむ音を響かせて止まった。

 河合の全身を覆う隆々たる筋肉は、まだ十分に力を溜め込んでいる。彼女はその力をいっぺんに解放して前方にかっ跳んだ。

 女豹の動きは矢の如く。流石のクールも、河合の信じられないスピードに反応しきれない。彼女は瞬く間にクールの真横に達した。この位置なら反撃も可能だろうが、彼女の意思は既に決まっている。

 時間がない。逃げるが勝ちよ。

 彼女は扉を蹴っとばして、廊下に一気に躍り出た。このまま行けばこいつを振り切れる。しかし、第二歩目を床に記そうとした瞬間、彼女は自分の中で何かが替わった事に気付いた。しまった。

 横っ跳びに走る河合の上には、既にクールがいた。彼は全身の回転を効かせて手刀を振り降ろす。

 鈍い音が河合の胸にきまった。彼女は廊下に叩きつけられ、反動で数十cmも浮き上がった。

 

 全てが瞬きする間の出来事であった。河合はその場でぐったりと倒れ賦していた。クールは彼女の脇に立ち、彼女を軽く脚でこづいて気絶を確かめた。そうして完全に気を失っている事が判ると、上着の内ポケットから無線機を取り出して部下に連絡を取った。

「エレベーター前だ。ネズミを一匹捕まえた。取りにこい。」

 通信機のアンテナを引っ込めながらクールは考えていた。

 いったいどうゆうことだ。この女、俺にさえ反応しきれぬ程機敏に動いたかと思えば、突然常人並の動作になった。どういうことなのか...。

 困惑は深まるばかりだった。

 

 周囲の空気がヤム達の騒ぎに向き始めている。大衆は気分屋で、原尾達に気を注いでいる者はもういない。パシフィックのガード達も、彼女達の会話からは気もそぞろになっているようだ。原尾は直感的に、ヤムの前に現れた人物が今の自分にとって不利な人物であると悟った。見透かした様にパシフィックが申し出てきた。

「お嬢さん。周りが慌ただしくなって来たようだ。楽しかったですが、ここで止めにしはしませんか。」

 あと少しで掴めそうなのに、あと少しで何かが...。原尾は詰めよる。

「ちょっ、ちょっと待って下さい。せめて、せめてあと一回だけ、質問をさせて下さい。」

 パシフィックは少しだけ考えて言った。

「いいでしょう。私は先ほど孤独と言いましたよ。」

 早口で礼を述べてから息を一息吸い込み、原尾は最後の質問をした。

「”死”が最後の質問です。あなたは死から何を連想しますか。」

 パシフィックは今までとは違い、即座に答えた。

「”生還”ですよ。お嬢さん。お互いに人参を食いつかせる事は出来なかったようですな。」

 ”生還”ですって。”生還”...ですって? 原尾の中で言葉が踊る。木の葉の様に舞ったその言葉が心の湖床に積もったとき、そのどこかにあった琴線を弾いた。

 あなたは...あなたの事が今判ったわ。原尾はパシフィックの眼を見て思った。このゲーム、私の勝ちよ。

「さぁ。ゲームは終了。引き分けですね。種明かしをしましょう。」

 パシフィックが告げた。そして二人は胸ポケットから、キャロットゲームの最後に見せる事になっている、キーワードを書いた紙を取り出した。

「あなたの答は一つの流れを作ったわ。小さな流れは奔流となって、一つの答に辿り着いた。」

 話しながら、原尾はパシフィックの前に紙を広げて見せた。

「あなたの正体はこれよ。」

 そこには”YOMI”と書いてあった。

 だが、同時にパシフィックが開いて見せた紙には、漢字でこうあったのだ。

 ”黄泉”

 

 原尾は恐怖して顔を上げた。そして見上げたパシフィックの表情に、今までに無かった種類のものが現れたのを見てとった。

「私を引き出すとは大したものだね、対特のお嬢さん。キャロットゲームに誘導尋問を応用した理論があるという噂は聞いた事があるが、実際にお目にかかれるとはね。」

 気付かれていた。原尾は愕然とした。

「いかにも私は黄泉。死の国からの使者だ。」

パシフィックが。いや、成木が日本語で言った。

 原尾の背に氷が走った。このままでは成木の瞳に喰われる。彼女はそれでも我に還り、抵抗しようとしたが。

「なっ。あっ。」

か、身体が動かない。

「君とのゲームは楽しかったよ。暫くはそこで大人しくしていたまえ。私はこれから10億$の鷲に会うんだ。」

 さ、催眠術...。原尾は手もなくあしらわれた。たとえ催眠術がかかっていなくても、彼女は落胆で動けなかったろう。

 成木が動き出した。

 

 三階に着いた大野はさっき同様、臨戦体勢で飛び出した。素早く通路の両側に眼を走らせた。さっき河合が置いていった拳銃を肩ごしに上に掲げて壁に貼りつく。気持ちが昂ぶっているのが分かった。

 いない。だがエレベーターはここで止まったままだ。大野はボタンに触れて扉を開けた。

 はっとした。火薬の臭いがする。そしてエレベーター奥の壁にとてつもない穴が空けられているのを見つけた。

 こんな、まるまる5cmはある風穴を空ける事が出来る拳銃とは...。

 その時、三階ロビーに向かう通路出口から、悠然とクールが現れた。

「ゲリラ君じゃないか。拳銃なんて物騒だな。」

 大野は銃を降ろしつつ、努めて昂揚感を抑えた。

「バケモンの忘れ物さ。届けに来たんだが旦那は見なかったかい。」

「知らないな。それより五階に行きたいんだが、乗せてくれるかな。」

 とぼけてやがる。大野は状況を整理してみた。金属製の壁にこんな馬鹿みたいな穴を空ける拳銃で河合と渡り合えるなんて、一人しかいないじゃないか。そして、こうしてクールが戻って来たということは、おそらく河合はもうここでは見つけられまい。

 悔しいが、ミスったな。大野は率直に自分の失策を認めた。この遅れが致命的にならなきゃいいが。

「エレベーターボーイになってやるよ。五階だな。」

 二人を乗せたエレベーターは静かに上昇して行った。

 

 パシフィックは...成木は口論しているヤムとギルバートの間に割って入った。

「何事だ。ヤム。」

 苛立ちを抑えきれずにヤムが言う。

「無茶苦茶なのだよパシフィック。こいつは当初の提示額の10倍をふっかけてきておるのだ。」

「君らのプロジェクト名を聞いてしまったのが原因さ。私の価値は10億$なんだろう。」

ギルバートが落ち着き払って言う。それがまたヤムには気に入らなかったらしい。

「詐欺かもしれない相手に誰がそんな大金を払うか。」

パシフィックとして成木はヤムを止める。

「落ちつけヤム。だが、君...ギルバートか。ヤムの言う事にも一理はあるだろう。ダイヤとて価値を見いだされるには岩石中にその光を放たねばならん。1億$が欲しいのならその価値だけの光を発して見せるのがフェアなビジネスというものであろう。」話し続ける成木の言葉が核心に近づく。

「我々が”10億$の鷲”とコードネームを付けた今回の来日は、それだけの価値を持った発見を君から買い取る事が目的なのだから。」

そして、少し言葉を溜めてから、彼は巷間であることも構わずこう続けた。

「見せたまえ。人為的に転移可能者、つまりジャッカーを造り出したという証拠を。」

 そして成木は叫んだ。国家すらそれを欲し、10億$の価値を認めた物が何であるかを。

「この場にて証明してみたまえ、”人工転移法”の実現を!!」

 

 人工転移法。ジャッカーを造る方法。

 言葉とその意味が浸透して行くに連れ、火事場見物に興じていた周囲がざわめきだした。その真偽については半信半疑ではあったにせよ、明らかに彼らは動揺し始めていた。改めて言うまでもなく、今このロビーに集まっているのはみんな転移学の専門家達である。となれば彼らは当然、皆分かり過ぎる程に分かっているのだ。転移行為のメカニズムすら十分に解ったとは言えない今の状況で、人工的に転移可能者を作り出す事がいかに困難であるかを。だが同時にこのことも分かっているのである。もしも人工的にジャッカーを造り出せてしまう事、すなわち、人工転移法が実現したとしたならば、それが人々、いや人類にとって如何に恐ろしい結果をもたらすことになるかを。

 ギルバートを囲むようにして人垣が引いていく。何が始まろうとしているかが判らなくても、彼らは本能的にこの場の尋常ならざる雰囲気を感じとったのだ。

 

 動揺しているのは周囲の連中だけではない。ボスであるパシフィックの軽率な行動のために今までの隠密行動がふいになってしまったことで、ヤムの狼狽ぶりは甚だしい。

「おいパシフィック。あんた正気か? こんな大勢の前で...。」

 しかし、ヤムがパシフィックの方を向いたとき、パシフィックの持っていたその表情が、彼を口ごもらせた。それは四人のシークレットサービスが同様に彼を見たとき、どう対処してよいか分からなくなってしまったのと同じ判断だったろう。すなわち彼らは一様にこう思ったのだ。

 こいつ...正気じゃない。

 ロビーの空気が冷えてゆく。決して万全とは言えない空調にも関わらず...。

 

 ギルバートは眉間に指を当ててパシフィックの声に耳を傾けていたが、やがてその指を離すとこう言った。

「よろしいでしょう。そうしないと信じてもらえそうにないからね。証拠を見せるのは簡単だ。私が誰かに転移してみせればいいのだから。」彼は首を回しながら言う。「で、誰にとり憑けばいいのかな。」

 ひっ。束横線の車内と同じ悲鳴が響いた。転移者と接するのは日常的な彼らでも、ジャッカーは別なのだ。ジャッカーを眼の前にしたとき、他の精神患者たちに対しては百戦錬磨の彼らでも、等しく一般人と同じになる。皆一様にこう思うのだ。俺だけはやめてくれ。マンジャックなど死んでも嫌だ。

 パシフィックはしかし、何の支障もないといった風で言った。

「それなら適材がいますよ。ここに。」

成木がパシフィックの腕を上げ、指し示した先にいた人物...。原尾マキ!

 

 原尾は成木の術によって身体の動きを拘束されているとはいえ、精神の方は明瞭に働いていた。そしてそうなった事がむしろ彼女をして、普段より深い思索を可能にしていた。

 突然のジャッカーの出現に際し、彼女達を今や遠巻きにしている医者達、彼らすら怯えるジャッカーという存在。考えようによっては彼らよりも転移される危険度が高い職場にあって、意外にも原尾は、未だかつて自分の身体にジャッカーが入り込むということを真剣に考えた事がなかった。

 外交官を父に持ち、都内の国立大を好成績で卒業。在学中に司法書士に合格。名実ともにエリートであり続けた原尾は、鳴り物入りで警察官になってからは犯罪捜査にその才能を示し、多くの難事件にその手腕を発揮した。美しさと明晰な頭脳だけではなく、小さい頃から習い続けた合気道三段の腕前も、犯罪現場では有効であったろう。瞬く間に対特のメンバーに抜擢されたのも当然である。正に王道。彼女の人生は曲がる事を知らぬ竹のようである。

 だが、彼女はそれ故に悩む事もあった。今の地位にある自分は、本当に自分の意思でここまできたのだろうかと。ひょっとして、それは才能に押し上げられた結果であって、なし崩しにこうなってしまったのではないのか。

 考えてみれば、自分とジャッカー達との関わりは、しごく客観的なものであった。先のジャッカーの存在に対する問とて、表層的興味の域を出ていない。むしろそれは学問的見地より好奇心を湧かせる医師達に近く、いわば気楽な傍観者の気持ちであったろう。

 この状況になって初めて彼女は、曖昧だった自分に対するつけが廻ってきた事を悟った。自分が初めてジャッキングされるかもしれないという状況に追い込まれて、やっと自分がこの仕事をどういうものと見ていたのか、その答を出していないことに気付かされた。

 そして今、眼前には自分にとり憑けと黄泉の言う...。

 他人が私に入り込む。原尾は現実の重い霧の濃さに噎せそうになりながらも、ジャッキングについて必死に頭を働かせていた。

 それはいったいどういう事なのだろう。ジャッキングされている間、私の意識はどうなってしまうのだろう。私の身体がマリオネットのように操られるのを、横で傍観しているようなものなのだろうか。それとも、私自身が怪獣ショーの着ぐるみとなって、ジャッカーがそこに手を通すのだろうか。されるがままの自分。為すすべも無く引き裂かれる自分。

 どちらであるにせよ、と原尾は自身を追求する。そうなったときの覚悟が自分にあるのか。この仕事に就くときに真に要求されていた勇気が、自分にあるのか。

 

「志願者とは。今時珍しいね。」

ギルバートは脇に退いた成木を過ぎると、原尾に向かって言った。

 原尾はその眼を動かしてギルバートの眼を見るのが精いっぱいだった。

 沈黙は当然、了承と受け取られる。ギルバートはゆっくりとその手を原尾の頬にさしのべた。

 い、いや。

彼女は精神が消える寸前、幼子の様にか弱い悲鳴を唇から漏らし、涙が小さく頬を落ちるのを意識した...。

「さぁ。信じてもらえましたかね。」

ギルバートが倒れ、原尾が別人の、ギルバートがたった今まで使っていた喋り方で言った。

 

 周囲の人間達の慌てぶりはもはや明かで、密かにエレベーターの方に逃げ出す連中も出だした。そして逆にクール隊と覚しき連中も次第に増えだしていた。

 そんな中、成木はギルバートがジャッキングする様を奇妙に思っていた。ギルバートの身体を第三者が乗っ取っていたのなら、ギルバートの意識に身体の制御機能がすぐに戻るから、倒れることはない。という事は原尾に転移したのはギルバート本人と考えられる。しかし転移者が自身の身体から離れる、つまり離魂する際に起こる瞬間の痙攣がギルバートの身体には見られなかった。それは転移者のみが知り得る離魂時の些細な特徴だが、それ故に隠し様の無い生理的反応ともいえるのだ。

 こいつ、どうやったんだ。

 その時、倒れたギルバートが起きあがった。

「こ、ここはどこだ。」ギルバートは頭を押さえつつ半身を起こした。

「!」

なんて事だ。成木は自身の驚きを隠しもせずパシフィックの表情に表していた。原尾の中に転移したこいつは、ギルバート本人ではない。

 国家規模の組織を相手の取引に本人が出向いてくる愚を考えれば、ジャッカーとして意識のみで交渉に来た事はむしろ自然だろう。が、それでも尚成木が信じられないのは、転移時に依童であるギルバートが倒れた事である。放心現象ではなく、倒れた事だった。そもそも転移が途切れたとき被転移者が放心現象程度で済んでいるのは、生存本能が働く為である。転移が解かれたら、一刻でも早く元の精神が身体制御を取り戻さなければならない。そうしなければ生命活動そのものが脅かされる怖れがあるからだ。それなのに数秒間とはいえギルバートは完全に意識を失っていたのだ。それほどの影響を被転移者に与えるなど成木にすら不可能だ。つまり今原尾にとり憑いた精神は、成木達とは全く違う種類の、しかも成木達よりも強力なジャッカーという事になる。

 それほどの力の源、それが人工転移だというのか。

 このまま放っておけば、その手段が大きな権力の手に渡ってしまう。それは人類のみならず、生来の転移可能者である自分達の立場をすら、危険に陥れることになるだろう。

 成木はその事実を前にして、自身の内に焦燥が湧き出すのを抑えることが出来なかった。

 

「クール隊、ギルバートを拘束しろ。」

成木がパシフィックとしてこう命令すると、戸惑いながらも近くに控えていたシークレットサービス達がギルバートを取り押さえた。

「な、なんだ。よしてくれよ、私が何したって言うんだよ。」ギルバートは怯えている、さっきまでとはうって変わって。

「どうしたのだ。何をするつもりだパシフィック。」ヤムが不安げに問うた。

「退路を断ったのさ。こいつの正体を調べてやる。」

「え。」

 成木はもう自分を隠してはいなかった。原尾に近づきながら語る。

「お嬢さんに催眠術をかけたのは正解だったよ。今その化けの皮を剥いでやる。」

「そいつはどうかな。」原尾が言い、スーツの内側に手を入れた。シークレットサービス始めクール隊が素早く反応して懐に手をやる。

「き、貴様ら何物だ。」ヤムが誰何する。

 パシフィックは一瞬立ち止まり、ヤムを一瞥するとにっこりと微笑みかけた。

「初めまして。実は私、ジャッカーなんですよ。」

 

 大野とクールが五階に到着すると、彼らが降り立つエレベーターに乗り込む人が殺到した。このことは、大野の不安な気持ちを倍加させた。

 無事でいろよ。マキちゃん。心中に願いつつロビーに飛び出した。

 数十名の一般人が壁際に。大野は素早く状況を把握する。ロビーの中心には対峙する原尾とパシフィックらを囲んで数人。

 そしてそこでは今まさに、パシフィックの中の黄泉が正体を明かしたところだった。

 

 この瞬間、原尾は三八口径をパシフィックに向けて威嚇しようとした。発砲しなかったのはいうまでもなく、原尾の中の精神は既に原尾が弾を込めていない事を読みとっていたからだ。だが操られた彼女が構えきるよりも早く、パシフィックは彼女の懐に入り込んだ。臨戦体勢に入っていた周りのクール隊の男達もこれでは銃を撃てない。成木はパシフィックの手を原尾の顔面に押し当て、そのまま床に押し倒した。

 

 パシフィックと原尾はクール隊達にすぐに引き離された。

 しまった。大野は思わず息が止まった。

「マキちゃん!」突進しつつ彼は叫ぶ。後にはクールが続く。

 パシフィックに放心状態が見える。くそっ。とり憑かれたか、マキちゃん。束の間二人に気を集中したのがまずかった。大野はクール隊の一人に脚を掛けられて転倒し、その上から集まっていた隊の数人がかりで取り抑えられた。

「こ、こら。俺は敵じゃねぇ。クールの旦那! 何とかしろ。」

「お前が我々をどう思っているかは知らんが、我々にとってはプロジェクトに組み込まれていない人間は全て邪魔者なのだ。命を取られないだけありがたいと思うんだな。」クールはそう言って大野の脇を過ぎ、パシフィックの方に向かった。

 うかつだな。大野は歯噛みした。この章じゃいいとこなしだ。

 

 いつも感じている遠き空間を、成木は感じていた。投げ出されるように漂う自分が心地よい。原尾の中にある世界は、若い生命に特有な活き活きとした息吹を放ち、楽しげに生きることを謳歌している。柔らかな光が自分の精神の視界いっぱいに広がっているのが成木には分かる。何度転移してもそれは、人や時間や気持ちによって、夏の空の如く飽く事無く様変わりする世界。どんなに散策しても尚、果てを見る事の無い小宇宙。それが我々人間の、いや生を受くるもの全ての身体の内部だ。

 ジャッカーはそんな身体の中を、とり憑いた先の人間の身体の中を自由に行き来できる。血流の中を自由に泳ぎ、暖かさに自分を馴染ませる事や、肋骨を叩いてその響きに興じる事すら可能だ。かの人が見るものを視、かの人が触れるものを感じる事もできる。それは常に神経を介在する事無く、直接にその美を味合わせてくれる。それは彼らだけが享受できる快楽。彼らだけに許された特権。

 ふつうの人間にはこれが出来ないのだ。妬まれて当然かもしれんな。成木は苦笑しつつ思った。

 だが彼も、そんな事が一般人をして自分達を迫害する理由であるとは考えてはいない。古代ローマで起こった最初の奴隷反乱は、市民権を剥奪された人々が起こした。羨望にはある程度のリアリティーが必要なのだ。眼が二つしかない人間が、第三の眼を持つ人間の視界を把握し得ないように、転移を経験できない者達が、この快楽を想像できる筈もない。

 さて、お遊びはこの位にしようか。成木は精神を上昇させた。

 ジャッカーを世間の人々が畏れるのはそんな事に対してではない。彼は思った。我々を畏れるのは、我々の前には人々の記憶や意識が、広げられた週刊誌のように簡単に見られてしまうからだ。彼は原尾の脳に達し、その細胞を眺めまわしつつ笑う。ジャッカーにかかっては、一かけらのプライバシーすら隠れる事は出来ないのだ。

 成木は原尾の記憶を探るうち、ついに彼女の拳銃に関するシナプスの結合を見つけた。脳内細胞はシナプスを通じて記憶を有機的に保存する。これを辿って行けば彼女の持つ三八口径の情報が得られるというわけだ。そしてその先にはそこをほんの一瞬前に調べたに違いない別の精神、ギルバートから出た未知のジャッカーがいる筈だ。

 

「大丈夫ですか。ボス。」

クールは部下に両側から支えられてやっとのことで立っているパシフィックに向かって言った。

「ん。何かあったのか。」

パシフィックは蒙朦としてとりとめがない。

 ちっ、無事だったか。クールは心中舌うちした。無能な奴め、運だけはいいと見える。クールは振り返った。女の方は、ジャッカーはどうなっているのだ。

 

 様々な色の光条が出ている場所の前に成木は立っていた。じっと見つめる彼の上を、また七色の光が飛んでゆく。もちろん実際に脳内がこの様に光で満たされているわけではない。成木の精神で感じる事の出来る情緒的な表象なのだ。

 ここで身体の内外からの情報を統御しているな。成木はそう判断した。脳内の情報は実際には脳全体のスケールで制御されるので、ある部分のみに集中するという事はありえない。それはつまり、本来の意識を抑えつけて身体を動かすために必要な情報をかき集めている者がいるということだ。

 奴はここにいる。ギルバートの中にいたジャッカーが。

「正体見せろ。」意識の壁を打ち破って成木が突入した。「お前はいったい何物だ。」

 背中を向けて、男が立っているのが成木には判った。精神が成木に対して後ろを向いているという意味であって、この男の反対側に行ったとして顔が見えるわけではない。だがどのみち、成木が反対側に回り込む暇など無かった。その男は自身から光を放ち始めたのだ。そしてそれは瞬く間にまばゆいまでの光量に達し、成木の精神の視界を遮った。

「くっ。」

眩みながらも成木は光に向かって走り、手をその中に差し込んだ。そして確かに何かに触れた。くどいようだが、物理的意味での触覚ではない。

 この感じ。何処かで...。

 成木がある種の既視感に浸った瞬間、光は更に爆発的に光量を増ていったが、突然前触れもなく消えてしまった。と同時に成木の周りには何者の気配も感じられなくなった。

 消えた。成木には暫くそれが信じられず、もう一度周囲を窺った。馬鹿な。今彼が宿っている原尾はクール隊の一人にはがい締めにされているが、そちらに転移したようにも感じられない。まさに忽然と消えたのだ。転移者に於いてその精神が消えるとはどういう事か。成木の常識で考えればそれは元の身体である離魂体が死んだということだ。しかし、ヴァンパイヤのタイムリミットまで悠然と構えるジャッカーなぞいる筈がない。それは人工転移がどうのというレベルの問題ではないだろう。そんなジャッカーなぞいるものか。

「!」

成木ははっとした。そんなジャッカーはいない...となればこの力、人工転移とは異なる次元の力だということなのか。

 パシフィック側に持ちかけられた取引の内容は確かに”人工転移法”であった。つまり、今成木の前から消えた男が、ギルバートに憑いた方法がそれであったことはほぼ間違いない。となれば問題なのは”ギルバートの体内からどうやって消えたのか”だが、それを説明する仮説は一つしかない。

 すなわち、男がもう一つ別の能力を持っているということだ。

 

 ああ。成木は己の内から響いてくる感銘に、溜息を漏らさずにはいられなかった。

 その力...、そんな力があるとすれば...、それは...。彼は打ち震えながら、己の精神の手に見入った。

 彼の思いがけないほど長い沈黙は、彼の達した結論が、彼にとってどれだけ大きなものだったかを物語っている...。

 そして、やがて彼に浮かんだ、邪悪だが、どこかしらもの悲しげな笑みは、今や彼の統御下にある原尾の顔にも表れていたのではないか。

 

 これはまさしく、10億$だ。

 

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第六章へ続く

 

説明
精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。
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