レインボーガール (3/8) |
三章
しばらくは変化のない日々が続いた。
慣れてしまえば二人での生活は楽だった。掃除、洗濯、皿洗い――七海は雄介の要求通りに家事をこなしてみせた。おかげでこれまで家事に奪われていた時間が使えるようになり、執筆ペースも上がっている。代わりに少しだけ食費が増えたが、頭を抱えるようなレベルではない。元々周りがうるさくても集中できる人間であり、最近は背後で彼女がゲームをしていても全然気にならなくなった。
唯一、料理だけは手伝わせていない。いや、正確には一度台所に立たせてみたのだが、途中まで順調だった野菜炒めに砂糖を1カップ入れようとしたところで雄介は無言でヘッドパッドを喰らわせた。七海がいくら超甘党だからといって、それはさすがにやりすぎだ。
そんな失敗を除けば、七海はよくやっていた。職場でも家でも、これといって大きなミスはしていない。心配していた家の場所などを同僚に聞かれても――
「秘密です☆」
――と、笑顔で答え、彼女は危険な質問を強引に受け流していた。
仕事終わりに北斗の家に行った日以降、七海が大好きアピールをしてくることもない。
もう恋人になるのは諦めたのか、はたまた期限付き同棲生活ができればそれで満足なのか。雄介には彼女がなにを考えているのか分からなかったが、あえて確認しようとはしなかった。
安定しているのはとてもいいことだ。聞けばやぶへびになりかねない。
本当に楽しめているかは疑問だが、不安定で慌しい生活をしていても小説は読める。しかし書くとなると、それは難しい。書くことが逃避にならない雄介には、なおさらのことだった。
なにはともあれ、雄介は一時期失った平穏を取り戻し、平和な日々を過ごしていた。
しかし――永遠は存在しない。最後の瞬間は絶対にやってくる。崩壊の足音はとても小さく気付きにくいだけで、一歩ずつ、確実に近づいていた。
「雄介先輩は七海ちゃんの住んでるところ、知ってます?」
昼。雄介がバックルームで休憩していると、メガネをかけた美少年――後輩の佐久間涼太が不意に聞いてきた。
バックルームには雄介と佐久間、そして北斗の三人がいた。今日、北斗と佐久間は後半から入る予定だ。
「……知らないし、興味もないな」
雄介は校正のために読んでいた自作小説をテーブルに置き、答える。見れば、数分前までは真剣な表情で握り締めていたPSPを今は二人ともテーブルに置いていた。狩りは一段落したらしい。
「あれ、雄介知らないの?」
「俺が望月の家を知ってる理由がどこにある」
「だって、僕のマンションに遊びに来た日、送っていったんでしょ」
「あのときは駅で別れた」
話が長引いてもボロを出さない自信はあったが、それでも早く終わるならそのほうがいい。雄介は話を無駄に広げないように注意し、自然に話題が変わるのを待った。
「駅からは逆方向だったの?」
「そうだ」
「でも、雄介先輩っていつも七海ちゃんと帰ってますよね。話とかしないんですか?」
「別に避ける理由もないし、最寄り駅が同じだから一緒に帰ってるだけだ。特別親密ってわけじゃないよ。帰り道じゃ、俺よりも、望月は星野と話してることが多いぞ」
七海が星野とよく話しているのは本当だった。
類は友を呼ぶ。元気で飾らない七海と、どちらかといえば控えめで清楚な星野。一見タイプが違うようで、どちらも絶対的な存在感を周囲にばら撒いているという共通点を持つ二人は、当然のように仲良くなっていた。
「だけど、毎回三人で帰ってるわけでもないじゃないですか。それに詩織さんは雄介先輩たちより一つ前の駅で降りるわけだし……」
「……どうしてそんなに望月の住んでるところが気になるんだ?」
たとえ二人になったとしても、興味がないからどこに住んでいるかなんて聞いたことがない。そう言って受け流すこともできただろう。しかし雄介はあえて聞いてみた。
この食い下がりようは少し変だ。受け流してうやむやにするよりは、なにか理由があるなら今のうちにはっきりさせておいたほうがいい。
「えっ……いや、別にどうしても知りたいってほどじゃないんですけど。ただ、七海ちゃん、番号もアドレスも、体重やスリーサイズまで教えてくれるのに、なぜか住所だけは教えてくれないから、ちょっと気になるってだけで。あっ、誤解されないように言っておきますけど体重とかはボクから聞いたわけじゃないですからね」
「そうそう、七海ちゃん、どうしてか住所だけは何度聞いても教えてくれないんだよね。今日のパンツの色とかは教えてくれるのに」
「あの……パンツの色とか、どういう会話の流れで聞くんですか。まさか、いきなり聞くわけじゃないですよね?」
まだ北斗とそれほど付き合いの長くない佐久間はテーブルに肘を着き、離れるように若干体を傾ける。
「えっと、最初に聞いたときは……確かテレビの星座占いでみずがめ座のラッキーカラーが赤だって言ってたらか、気になって聞いてみたんだけど」
「はあ……。って、何度も聞いてるんですか」
「あまり気にするな、北斗はこういう奴だ。それより、どうして俺が望月の住所を知っていると思ったんだ?」
「それは……」
佐久間は一度視線をそらし、言葉を切る。
「雄介先輩、七海ちゃんのことなんか気になってるみたいだったし。もしかしたら知ってるんじゃないかなーと思って」
「まあ、新人だしな。気にするようにはしているつもりだけど」
「それだけですか? あの、ボクが言った気になってるみたいって、そういう意味で言ったんじゃないんですけど……。というか、北斗先輩と話してるときみたいに七海ちゃんと遠慮なく接してるの見ると、もう二人は付き合ってるんじゃないかと思ったり……」
(なんだ、そういうことか)
佐久間は七海に好意を持っている。売り上げはあまりよくなかったが、それでも一応七海は恋愛シミュレーションゲームのヒロインだったのだ。彼が好きになっても不思議ではない。
「付き合ってないし、特別な感情もないよ。俺と望月はただの同僚だ」
そう、ただの同僚だ。たとえ同じ部屋で寝起きを共にし、同じ釜の飯を食べていたとしてもそれは変わらない。変えようとも思わない。もし佐久間が刹那の幻想を求め七海にアプローチを仕掛けても、邪魔をするつもりはなかった。
「……そうですか」
小さくため息をつくと、佐久間は視線を落とす。
「?」
どうしてだろう。雄介には、スリープモードのPSPを見つめる彼がとても落ち込んだ表情をしているように思えた。まだライバルは一人残っているとはいえ、北斗なんて恐れる必要はないと思うのだが……
「でもさー、七海ちゃんって本当にかわいいよね。店長に聞いたけど、指名率、詩織ちゃんを抜くかもしれないってさ。ちなみに雄介は七海ちゃんと詩織ちゃん、どっちのほうがかわいいと思う?」
指名率とは指名数をシフトに入った回数や時間などで割った数であり、真に客からの人気が分かる値だった。最初は商品の売れ行きなどをチェックするついでに計算していたらしいが、最近は気合の入れ方がすっかり逆転していた。そのことで雄介はよく「売り上げに関係のないことばかり張り切るのはやめてくれ」と文句を言っていたが、店長は毎回笑うだけでまともに相手にされていなかった。
「ほう、不動の一位だった星野を追い越すか。望月もたいした奴だな」
「うん、すごいと思う。で、雄介はどっちがかわいいと思う? 二人ともかわいいってのはナシだからね」
北斗が再び聞いてくる。彼はニコニコと笑っているようで、よく見ると目は少しも笑ってはいなかった。どうやらスルーは許さないらしい。
「…………ノーコメントだ」
だとしても、真面目に答えるつもりなどなかった。
「ふーん、そっか」
(どういうことだ?)
しつこく聞かれたらトイレにでも逃げるつもりだったのに、意外にも北斗はあっさりと引き下がった。こういうとき、いつもなら子供のように「ねえ、どっちなの?」と長時間まとわりついてくるのだが。今回はノーコメントも満足できる答えの一つということなのだろうか。
「しかし気になるよねぇ」
ニヤニヤと楽しそうに笑いながら北斗がつぶやく。
退路を塞いでおきながらあっさり引き下がった理由は分からなかったが、今この瞬間北斗がなにを考えているのかならはっきりと分かっていた。
「尾行はするなよ」
「ははは、やだなぁ雄介。僕がそんなことをする人間に見えるのかい?」
「ああ、見えるな」
雄介はためらうことなく断言する。残念なことに、北斗とはそういう男なのだ。
「……ダメ?」
「当たり前だ。そもそも東模手原に住んでいると分かれば充分だろ。それ以上詳しく知る必要がどこにある」
「はいはい、分かったよ。尾行はしないって」
北斗がそう答えると同時、テーブルに置いてあった雄介の携帯がブルブルと震える。ボタンを押してアラームを止める。これで休憩時間は終わりだ。
「いいか、絶対に尾行だけはするなよ」
最後にもう一度だけ念を押し、雄介は仕事に戻った。
※ ※ ※
電車に乗り、七海は店に向かっていた。
日曜日の午後。車内は座席が埋まる程度に混雑している。
ジャージ姿の高校生の集団。靴を脱いで窓の外を眺める子供とその両親。おそろいの指輪をはめたカップル。
皆、幸せそうな微笑を浮かべている。
もし隣に彼がいたなら、七海も同じように笑っていただろう。
だが――いない。そもそも、今の彼は自分を愛してくれてはいない。
(どうすればいいんだろう)
雄介は今、大好物のチョコレートを食べてお腹を壊した状態だ。時間と共に食中毒への恐怖心が薄れるか、どうしても空腹を我慢できなくなるまで待つしかない。
北斗のたとえ話は分かりやすく、とても納得できるものだった。が、納得するのと安心するのはまた違う。
無人島で彼と二人っきりの生活ができたら、どんなに気持ちが楽になるだろうか。現状では安心して彼の回復を待つなど、とてもできない。
電車が駅に到着する。
店の前まで来ると七海は立ち止まり、両手で顔を覆った。なにをどうすればいいのか分からないが、せめて彼の前ではできるだけ笑顔でいようと決めていた。
「……よし」
店に入り、七海は元気よく挨拶する。
「おはようございまーす」
入り口から一番近くにいた星野が手を休め、にっこりと笑う。
「おはよう」
彼女は相変わらず綺麗だった。今日も悔しいという感情が沸いてこないほどの圧倒的な輝きを放っている。
どうして彼女はこんなにも綺麗でかわいいのだろう。もしかしたら、彼女も自分と同じように二次元の世界から飛び足してきた人間なのではないだろうか。
いや、ありえない。そうだとしたら、間違いなく彼女にあんなことやこんなことをしている同人誌で売り場が埋め尽くされていなければおかしい。たとえ彼女のルーツが十年前のアニメだったとしても、未だに一冊くらいは置いてあるはずなのだ。
「……七海ちゃん、体調でも悪いの?」
「えっ? いや……」
いつの間にか表情が暗くなっていたらしい。七海はすぐに微笑を作る。
「ごめんなさい。今日も詩織さんがかわいいから、つい見とれちゃって」
「ありがとう。でも、七海ちゃんだってすごくかわいいよ」
わずかに顔を赤く染め、星野が言う。
(……ダメだ、勝てる気がしない)
彼女と交流を深めれば深めるほど、その思いは強くなる一方だった。そのためにアドレスを交換したわけではないのだが、今のところ彼女に弱点や隙のようなものは一つも見つけられていない。彼の定義では、もう彼女は三次元の生き物ではなかった。
「それじゃ、着替えています」
再び心配される前に七海は逃げるようにバックルームへと向かった。
バックルームには店長と鈴木が休んでいた。二人ともエプロンを脱いで、まったりと緑茶を飲んでいる。
挨拶を交わし、エプロンに着替える。
「おっと、そうだった。望月、仕事の前にちょっといいか」
七海がノブに手をかけると、店長が思い出したかのように彼女を引き止める。
「なんですか?」
「長い話でもないんだが、とりあえず座りなよ」
促されるままパイプ椅子に座ると、店長は急須にポットからお湯を注ぎ、あつあつのお茶を淹れてくれた。
「今週で鈴木が辞めるのは知ってる?」
「いいえ、知らなかったです。そうなんですか?」
七海は鈴木とも何度かメールのやり取りはあったが、辞める話は聞いていなかった。
「はい、来週からは印刷関係の会社で事務をすることになってるんです。あの、隠してたわけじゃないんですよ。ただ、七海ちゃんには伝えるきっかけというか、タイミングがなくて」
「そういうことだから、鈴木は残念ながら来週のシフトには入れない。で、空いた穴を埋めるために望月のシフトを増やしたいんだが……」
「いいですよ」
「さんきゅ。助かる。それじゃ来週から頼むよ」
そう言うと店長は立ち上がり両手を上げて体を伸ばす。
「さてと、私は仕事でもするかな。ああ、そうだ。今日は早めに店を閉めてみんなでカラオケ行くぞ。先に言っておくが、拒否権はないぜ? どんなに自信がなくても一曲は絶対に歌ってもらうからな」
「うっ……わかりました」
カラオケで歌うシーンなんてゲーム中ないのに、なぜか七海には音痴設定がつけられていた。
「鈴木もだぞ。お前は音痴じゃないんだから、もっと自信を持って歌えよ。それさえできればなにも問題ないんだからさ。そうだな、今日だったらラブソングなんかがいいんじゃないか。まあ、甘すぎるのもアレだし、Lost my musicあたりがオススメだな」
ニヤリと楽しそうに店長が笑う。対照的に、彼女はどこか冷めた微笑を浮かべ、答える。
「考えておきます」
「……そうか。んじゃ私は行くけど、望月はそれを飲み終わってから入ってくれればいいよ。今日はまだそれほど混んでないし、火傷しないようにゆっくりと楽しんでくれ。人生焦ってもいいことなんてないからな。まあ、落ち着きすぎるのもどうかと思うけどね」
最後にもう一度、今度は真剣な表情で彼女を見つめてから、店長は椅子に掛けてあったエプロンを掴みバックルームから出て行った。
はっきりとは言わなくても、店長がなにを言いたいのか七海には分かっていた。当然、彼女にも伝わっているはずだ。
ここを辞めてしまえば彼と会う機会は確実に減る。だからもし告白するならば今日がいい。むしろ今日告白するべきだ。店長はそう言いたかったのだろう。
「恵理子さんは、守屋先輩のことが好きなんですよね?」
「へっ……その、えっと。…………はい」
彼女は七海の唐突な質問を受け、驚いたように目を見開く。その後、ちらりとドアのほうを気にしてから、最後は視線をお茶へと戻し、小さな声で肯定する。
「告白、しないんですか」
「…………はい」
「それで、いいんですか?」
彼女は目を閉じると、つらそうに、ほんの少しだけ顔を歪める。
星野が飛び抜けているだけで、店長や彼女も充分にかわいい。もし彼女が告白に踏み切れば、彼と恋人になる可能性はある。
それでも七海は彼女に告白して欲しかった。彼女とは星野という強敵を相手に待ち続ける者同士――というより、むしろ数ヵ月後の自分を見ているような気分だった。
目を開けると、彼女は綺麗な微笑を浮かべ、答える。
「いいんです。少しの間だったけれど、近くで働けただけで私は幸せでした。それに、ここを辞めても二度と会えなくなるわけじゃないですから」
「そう、ですか」
七海は彼女を少しだけうらやましいと思った。自分は一緒に働くだけでは幸せにはなれない。自分だけを見てくれていた彼でなければ、満足できない。
いや――彼女だって本当は恋人になりたいと思っているはずだ。無理矢理幸せなフリをしているだけで、叶うことなら彼に愛して欲しかった。だからこそ、彼の心の氷が溶けるのを待ち続けたのだ。
そして――タイムリミットが来てしまった。
待つだけでは、残念ながら彼女は恋人にはなれなかった。
七海が三次元化してから三週間ほど経っている。
こちらの生活にもだいぶ慣れた。最近、それがとても恐ろしく思えるときがある。
現状で生活が安定してしまうのが、怖い。待つだけでは、このまま彼と恋人になれず退去の日を向かえ、一時期一緒に暮らしていた友人Aとなり、いずれは忘れ去られてしまうような気がしてとても不安だった。
ふと、七海は考える。北斗に今度住んでいる場所を聞かれたとき、「私は雄介さんと一緒に住んでいます」と言ったら、どうなるのだろうかと。
確実に、なにかが変わるはずだ。しかし彼に話さないと約束した。それに状況が良くなるか悪くなるか分からない。だから言えなかった。これまでは――
「ふぅ……」
息を吹きかけ、お茶を飲む。
どうやらゆっくりしすぎたようだ。あつあつだったお茶は、もうだいぶ温くなっていた。
まだ客がたくさん残っているにもかかわらず、店長は宣言通りいつもより一時間半も早く蛍の光を店内に流し始め、それから一五分で店を完全に閉めてしまった。
営業中、七海は北斗と少し会話をした。が、どうしてか今日は彼が住所を聞いてくることはなかった。
カラオケは店から五分も歩かないところにあった。店長が慣れた様子で受付を済ませ、部屋へと向かう。
先頭の北斗が扉を開け一番で部屋に入ると、彼はドリンクを持っていないほうの手を高々と上げて言った。
「店長ー、女子が若干男子より多いです!」
「そうか、だったら女子男子女子女子男子女子男子だ」
「部屋も広いんだし、別に男女で左右に分かれればいいでしょ」
まるでチーターのように一瞬でトップスピードまで加速した二人とは対照的に、彼は冷静にそう言って持っていたウーロン茶をテーブルに置く。
「待て、勝手に自由に座るんじゃない。男女男女で交互に座れ――っと、せっかくカラオケに来てるのにマイクもナシで歌っても仕方ないしこれくらいでやめておくか。しかーし、普通に男女で別れるのは許さん。とにかく交互に座れ」
「まあ、奢ってもらう身ですからそれくらいのわがままは聞きますよ」
「よし、それじゃまずは私から座らせてもらおうかな」
店長は入り口の反対側――モニターから遠い席に座った。続いて間を置かずに北斗がその隣に座る。
三人目が座るまで少し時間が空いた。みんな、なにかしら計算をしていたのかもしれない。とりあえず、長椅子にはまだ二人ほど座れそうだ。
最終的に三人目は鈴木が座った。その隣に彼が座る。彼女は一瞬彼に視線を向けると、心を落ち着かせるように両手でコップを持ち、メロンソーダを一口飲んだ。
一つの長椅子に座れるのは四人。彼は反対側の椅子に座ることもできた。なのに、自分の隣に座ってくれた。それがとても嬉しかったのだろう。彼女は幸せそうに微笑み、まるでお酒を飲んだかのように頬を赤く染めていく。
自分が彼女の席に座ったら、彼は隣に座ってくれただろうか。七海は考えてみる。
(……たぶん、ダメだ)
七海が五人目――彼とは対角線上に座ると、あとは自動的に席は決まる。
まずは店長から曲を入れ、隣に座る北斗にデンモクを渡す。店長と北斗は後ろの少し開けたスペースを利用し、ニコニコ動画で聞いたことのある曲を踊り歌った。鈴木は店長がオススメした「lost my music」を、彼は普段とは打って変わって燃えるように熱く「今がその時だ」を歌った。
いよいよ七海の番がまわってきた。彼女はマイクを持つと大きく深呼吸する。
少し寂しげな鍵盤のメロディ。単発の電子音がまばらに混ざったイントロ。
歌う曲は「初音ミクの消失」にした。これなら音痴も誤魔化せるような気がしたのだ。本当は飽きるほど聞いたゲームのオープニングソングが歌いたかったのだが、残念ながらカラオケには入っていなかった。
上手くは歌えない。だから、せめて心を込めて歌う。
台詞を喋るのは慣れている。早口の部分も問題なく――むしろ少しを余裕を持って歌うことができた。
歌いながらでも考える余裕ができてしまったせいだろう。この曲はとても切ない別れの曲だ。それを思うと、なんだか無性に悲しくなってきてしまった。
歌い終えた七海がマイクをテーブルに置くと、北斗が話しかけてきた。
「七海ちゃん、歌、うまいんだね」
「そんなことないですよ」
「いやいや、本当にすごくうまかったから」
佐久間が歌っている間、北斗はずっと七海の歌を褒め続けた。
「そう、ですかね。あはは」
お世辞だと分かっていても、褒められれば悪い気はしない。もしかして、自分は本当に歌が上手いのかもしれないとさえ思えてくる。
が――勘違いできたのも星野が『星間飛行』を歌い出すまでだった。
彼女が歌い出した瞬間、頭の中からすべてが吹き飛ぶ。
最初の数フレーズを聞いただけで鳥肌が立った。
単純に上手いだけじゃない。綺麗で、それでいて力強い。人を魅了するカリスマが、確かにある。
彼女の歌声ならば、本当に戦争を止める力があるのではないか。七海は本気でそんなことを考えてしまう。少なくともニコニコ動画に上げれば、間違いなくデイリーランキングで一位を取ることができるだろう。
全員の視線が彼女に集まる。さっきからずっと七海の歌を褒め続けていた北斗でさえ、話すのをやめて彼女の歌声に聞き入っていた。
一周して全員が一回ずつ歌い終わると、そこからは歌いたい人が順番に関係なく歌う流れになった。予約を入れるのは主に店長と北斗の二人で、七海は味の薄いオレンジジュースを飲みながらずっと聞き手に徹していた。
星野も最初に星間飛行を歌ったきり、自分から予約を入れることはなかった。店長が恐れることなく二人で歌おうと誘ったり、これが聞きたいとリクエストされたときだけ彼女はマイクを取った。
北斗がノリノリで歌っているとき、七海はふと視線をグラスに戻す。と――
「あれ?」
氷しか残っていなかったはずのグラスに、なぜかオレンジジュースが補充されている。
誰かのグラスと間違えているのだろうか。そう思って見回すと、彼の前にウーロン茶を置く星野がいた。彼女の前にはトレーが置いてある。おそらくこのオレンジジュースも彼女が補充してくれたに違いない。
綺麗で、かわいくて、歌が上手くて、気も利いて……
(本当に、勝てない)
「もしかして、オレンジジュースじゃないほうが良かった?」
星野が申し訳なさそうに聞いてくる。どうやらまた暗い表情になってしまっていたらしい。
「ごめんね、行く前に聞かなくて」
「いえ、オレンジジュースで大丈夫です。えっと、私、トイレ行ってきますね」
完璧すぎる星野から目をそらすようにトイレへと逃げる。
部屋を出たときはそうでもなかったが、レモンの芳香剤を嗅ぐと自然と体が反応する。
用を済ませ、手を洗いながら七海は鏡で自分の顔を見る。
ひどい顔だ。どんなときでもかわいいと思える星野とは大違いだと思う。
唯一、彼女に勝っている部分もある。七海は鏡に映る自分の胸を見た。特別大きくはないが、少なくとも彼女には勝っている。
(もう一度、脱いでみようか?)
七海は洗面台に手をつくと、目を閉じて頭を軽く左右に振った。
ダメだ。彼に抱きしめられる姿が思い浮かばない。怒った彼の渾身のヘッドバットを喰らい、気絶する姿なら容易に想像できるのに。
廊下に出ると少し離れたところに彼がいた。壁に背中を預けて立っている。
彼は確認するように一瞬部屋のドアを見ると、七海に向き直り、言った。
「あまり長い時間部屋を抜けていてもおかしいから手短に話すぞ。北斗がなにか企んでいる。あいつが簡単に諦めるとは思えない。お前は今日、駅から出たらエンジェルモートに行け」
「エンジェルモートって、家とは反対側にあるカフェですよね」
「そうだ。そこでしばらく時間を潰せ。俺は離れたところから北斗が尾行していないかを確認する」
それだけ言うと、彼は部屋に戻ろうとする。
「あのっ」
「なんだ。カフェで使ったカネならあとで出してやるぞ」
「いや、そうじゃなくて。……一緒に住んでることって、どうしても秘密にしなきゃいけないことなんですか?」
「当然だろ」
「どうして。みんなにバレたって、別に雄介さんが損するわけでもないじゃないですか」
七海が問い詰めると、彼は考えるように視線をそらす。
「……損は、ある。誰かが、もし身元不明の未成年の女と俺が同居していると通報でもしたらマズイことになる」
「でも北斗さんに話すくらいなら、別に問題ないんじゃ」
言ってから、七海は気づいてしまった。秘密にしたい、本当の理由を。
「秘密は三人知った時点でほぼ終わってるんだよ。秘密の強度は知る人間が増えるのに反比例して下がっていき、最後には公然となる。秘密が秘密でいられるのはせいぜい二人が限界だ。……って、聞いてるのか?」
今まで約束したからと秘密にしなければいけない理由を深く考えてこなかった。が、考えてみれば簡単なことだ。聞くまでもなかった。
損は、あるのだ。彼が星野のことを好きだったとしたら、自分と一緒に住んでいることは秘密にしたいと思うのは当然じゃないか。
「雄介さんは、詩織さんのことが好きだったんですね」
「どうしてそんな話になる」
「だって、秘密にしたいのは詩織さんに、その……雄介さんが私のことを好きだって誤解されたくないからですよね」
言ってて悲しくなってくる。けど事実なのだからしょうがない。
「……別にそう誤解される分には問題ない」
彼は小説を書いていて指が止まったときのような表情を浮かべる。とても問題ないとは思えなかった。
「じゃあ詩織さんになら教えてもいいですよね」
「だから、どうしてそうなるんだ」
「詩織さんだったら、内緒にして欲しいって頼めば絶対に誰にも話さないでいてくれます」
「そもそも教えなきゃいけない理由がないだろ」
「教えたい理由なら、あります。誤解でも、私は嬉しいから……」
そして彼女が身を引いてくれるなら、これほど安心できることはない。
「ただそれだけのためにリスクを増やす必要なんてどこにもない。ほかに理由がないならこの話は終わりだ」
振り返り、彼は再び部屋に戻ろうとする。
「待ってください」
知りたいけど、知りたくない。
でも知らないままでもいられない。だから覚悟ができているときに聞く。
「秘密にしなきゃいけない理由は分かりました。私はどんなことがあっても誰にも言いません。絶対に。だから……」
七海は搾り出すように言った。
「これだけは、教えてください。雄介さんは、詩織さんのこと……好き、ですか」
「…………」
「答えてください。もし雄介さんが詩織さんルートを選ぶと言うなら、私は邪魔しませんから」
背を向けたまま、彼は小さな声で言った。
「……少し、考えさせろ」
※ ※ ※
どこからか、「STAND UP TO THE VICTORY」のメロディが聞こえてくる。
これは自分の携帯の着信音だ。雄介がそれに気付いたとき、すでにメロディはサビの部分にまで到達していた。
着信音を変えたばかりというわけではない。音もはっきりと聞こえていた。単純に、考え事に気を取られていて気付けなかった。
ポケットから携帯を取り出し、液晶を確認する。
「どうした」
電話をかけてきたのは七海だった。彼女は今、予定通り一人でエンジェルモートにいる。
「まだ、分かりませんか」
腕時計で時間を確認する。もう店に入ってから二○分ほど経っていた。
「もう少しだけそこに座ってろ」
北斗が尾行してきているかを確認するだけならこれほど時間は必要ない。彼女が気になって電話してくるのも分かる。が――そもそも雄介は確認などしていなかった。
外からでも、窓から店の中にいる七海を確認することができる。雄介は店には入らず、少し離れた場所にいた。おそらく北斗が尾行するとしても、同じように店の外から彼女を観察しているはずだ。
といっても、外に身を隠せるような場所はそう多くない。電柱の影、街路樹の後ろ、建物の隙間、向かいのマンションの屋上――初めから確認していれば、チェックするのに三分とかからなかっただろう。
「あの……雄介さん」
「なんだ」
「詩織さんのこと、まだ考えてますか」
これだ。カラオケ店の廊下で聞かれてから、雄介はずっと考えていた。そのせいで、尾行の確認にも集中できなかったのだ。
たとえば聞かれた対象が父親だったなら、なにも考えずに「死んで欲しい」と即答できた。それ以上の感想を口にするのすら嫌なほど、雄介は父親のことを憎んでいた。
嫌いな人間のことなら簡単なのに、そうでない人間のことになると、急に難しくなる。
星野のことは嫌いじゃない。好きか嫌いかの二つしか分類することを許されていないのなら、彼女のことは好きだった。
しかし七海が聞いたいのは、そんな単純な答えではない。彼女だって、雄介が星野を嫌っていないことくらい分かっているはずだ。知りたいのは、その『好き』が『like』なのか、それとも『love』なのかだ。
雄介は考えた。考えに考え、そして――
「……分からないんだ」
出てきた答えは、そんな情けないものだった。
恋がどんなものか、分からないわけではない。約一年前まで、雄介にも恋人と呼べる相手がいた。恋愛小説だって書いたことがある。
相手のことがわけもなくかわいく、またはかっこよく思える。一緒にいるだけで、なんだか楽しい。自分以外の人と一緒にいると腹が立つ。相手のことを考えると胸がとても苦しくなる。二人っきりのとき、沈黙が苦痛ではない。ほかの誰かではなく、その人に愛して欲しいと思う。その人のためなら、苦労なんて気にならない。嫌われるのが、怖い……
心理描写でこれらのことが書かれていれば、そのキャラクターは誰かに恋をしているということになる。
では、自分はどうなのだろうか。
星野詩織は同僚だ。雄介の書く作品の古くからのファンでもあり、最近では挿絵やイベントでの売り子なども手伝ってもらっている。
初めて出会ったのはイベント会場だった。恐ろしいほどに完璧な彼女を見て、二次元の世界から飛び出してきたのかと疑ってしまったのを覚えている。もう五年も昔のことだ。
次のイベントの日、星野がもう一度自分の本を買いに来てくれたときは本当に嬉しかった。彼女は小説を買ってまで読んでくれる、初めてのファンと呼べる人物だった。彼女のせいで、その日から雄介は自分が読んで楽しむ「だけ」の小説を書けなくなった。今は「読んでくれるファンも楽しめる」話を目指して書いている。
今まで買いに来てくれた人が、次のイベントでは来なくなることもある。しかし星野だけは毎回必ず読んでくれた。さらに感想まで。たまには厳しい意見も言われたが、彼女にはとても感謝している。
アイデアが浮かばずもう書きたくないと思っても、ファンのため――彼女のためだと思えば頑張れた。
作品を手渡した日の夜はなかなか寝付けない。感想をもらうまで、毎日苦しい。彼女が自分の小説以外を楽しそうに読んでいると悔しく思う。
星野が好きだ。
あたらめて考えれば、いつの間にかそう言えなくもない状態だった。
ただ、彼女を恋人にしたいかと聞かれたら――答えはノーだ。
もし今まで誰とも付き合ったことがなければ、きっと星野と恋人になりたいと思っただろう。だが約一年前、初めての恋人が自分の元から去っていった冷たい雨の降る夜に、雄介の恋愛観はガラリと変化した。
恋人なんて作るもんじゃない。カネで愛は買えないかもしれないが、カネがなければ永遠を誓った愛でさえ醒めてしまう。貴方さえいればいいなんて大嘘だ。ハッピーエンドで終われるのはゲームやアニメ、マンガや小説の中だけ。本気で愛するなら二次元に限る。
――どうして七海は三次元化してしまったのだろう。雄介はいまさらながら思う。
彼女が二次元のままでいてくれたら、なにも問題はなかった。会いたいときに会え、恋人になるまでを何度でも繰り返せる。物語はハッピーエンドで終わり、別れは永遠に訪れない。
しかし七海は三次元化してしまった。リアルではハッピーエンドのあとも日常は続く。熱く燃え上がった愛の炎も、いつかは消えてしまう。それが現実というものだ。
分かっている。それなのに――
「お前は、まだ俺の恋人にないたいと思ってるのか」
「それは……私が、雄介さんを好きなままでいいのなら」
つまらない話ばかりを書いていたときでも見放さず、ファンでいてくれた星野。
これだけ冷たく接してもまだ自分のことを好きだと言ってくれる、元二次元の七海。
――彼女達とだったら、本当に愛し合えるのではないか。そんな馬鹿げた妄想が頭をよぎる。
「勝手にしろ」
そのせいで、雄介は七海の希望にとどめをさすことができなかった。
どうせ別れるなら、早いほうがいいと理解していながら――
そして別れの日は唐突に訪れる。
翌日。雄介が一人で開店準備をしていると、少し遅れて無表情の北斗が店に入ってくる。
彼は雄介を見つけると、突然ニッコリと笑い、挨拶も抜きで言った。
「昨日はお楽しみでしたね」
雄介は意味が分からず、眉間にシワを寄せる。
「……どういう意味だ」
「そのまんまだよ。昨日はお楽しみでしたね」
北斗は同じ言葉を繰り返しただけで、やはり意味は分からない。分からないが――
(な、なんなんだ?)
彼の微笑には、おもわず後ずさりしてしまいそうなほどのプレッシャーを感じずにはいられなかった。
「雄介ってドラクエTは知らないんだっけ?」
しかしあくまでも軽い声で、昨日の夕食でも聞くように北斗は言う。
雄介もオタクの端くれ――それも古いタイプのオタクだ。リメイク版だったがドラクエTはプレイしたことがある。
「一応プレイしたことはあるが……」
答えると同時、雄介は思い出した。
これはドラクエでローラ姫を救出後、城に戻る前に宿屋に泊まると一度だけ聞ける台詞だ。ありふれた台詞のせいで最初は分からなかったが、実際にドラクエTをやったことのない人間でもこの台詞だけは知っているくらいにネットでは有名な台詞だった。
「……あまり覚えてないな」
「あ、そう」
(なぜだ? なぜ知っている?)
尾行はしていなかった。昨日は考え事で気が散っていたが、最終的に確認はしっかりとした。
それなのに、どうして北斗は自分と七海が一緒の部屋で一晩過ごしたことを知っているのか。
正確には北斗の予想は外れている。雄介と七海は一緒の部屋で寝ただけで、睡眠以外のことはなにもしていない。ただ、疑っているというよりは知っているといったほうが適切と思えるほど、彼の表情は確信で満ちていた。
「まあドラクエの話はいいや。ところで雄介さ、僕になにか隠してること――ない?」
「お前に話していないことなんて山ほどある」
「えー、なんだよ。僕たち親友だろ」
口元だけで笑いながら北斗が肩を組んでくる。妙に力強く、まるで馴れ馴れしく絡んでくるチンピラのように。
本当に不良が絡んできたのなら裏拳を飛ばしているところだったが、北斗相手にそれはやりすぎだろう。雄介は舌打ちすると北斗の腕を振り払う。
「べたつくな、気持ち悪い。くだらないことやってないでさっさと着替えてこい」
「秘密の話をするなら肩を組んだほうが雰囲気がでると思ったんだけどな。雄介が嫌なら仕方ないか」
北斗はアニメのキャラクターがプリントされたトートバッグを肩から下ろし、ゴソゴソと中を漁る。しばらくして、彼は文庫本ほどの大きさのなにかを取り出した。
一見して新しい携帯電話にも思えたが、それにしては大きい。デザインもダサい。ボタンが増えた初期のゲームボーイみたいだと雄介は思った。北斗がりんごのようなマークが描かれたボタンを長押しするとモニターが明るくなる。
「これ、なんだか分かる?」
瞬間、さっきから感じていた嫌な予感が倍増する。
「……地図、か」
その装置がなんなのかは分からないが、モニターにはカラーで地図が表示されている。自信がないのは見慣れた地図とは少し違うからだ。
「正解。それじゃ……」
言いながら、海斗は地図の縮尺を変更する。デザインもグーグルマップと同じ形式となり、かなり分かりやすくなった。中央に点滅する赤点も追加される。
「ここはどこでしょう」
「…………」
考えるまでもない。地図にはだいたいの住所が書いてある。モニターに表示されているのは東模手原周辺の地図だ。そして地図上に追加された、ゆっくりと点滅する赤点の場所は――
「俺のアパートだ」
「大正解」
今度はポケットから携帯を取り出し、北斗はどこかに電話をかける。
「……やっほー、起きてた? そっか、よかった。えっと、たいしたことじゃないんだけどさ、七海ちゃん、昨日ちっちゃい緑のバッグ持ってきてたじゃん? ……うん、それ。で、それの中にテントウムシの形したブローチが入ってると思うんだけど、それ僕のなんだ。今日シフト入ってるよね? 持ってきてくれないかな。……さーんきゅ。じゃまたねー」
やられた。
まさかここまでするとは雄介も想定していなかった。地図の表示されている装置が受信機でテントウムシ形のブローチが発信機。どこから仕入れてきたか知らないが、それで間違いないだろう。
仕込むタイミングはあった。廊下で七海と話しているときならば簡単に入れることができたはずだ。
「馬鹿かお前は……」
思わず本音が口から漏れる。
雄介のつぶやきを完全に無視し、北斗はなにごともなかったかのように歩き出す。
「待て」
ゆっくりと振り返った北斗に雄介は鋭い眼差しを向け、言う。
「話をしよう」
覆水盆に返らず。
北斗は秘密に触れてしまった。いまさらもっと警戒しておくべきだったと後悔しても、流れ落ちた水はコップには戻らない。パチンと指を鳴らして時が戻せれば楽なのだが、それが可能なのは神だけだ。
その日、雄介は北斗と一緒に自宅へと帰った。
彼も一応人間だ。なにを考えているのか理解できないことがよくあるが、言葉の通じない深海魚ではない。話し合いをすることはできる。
半端に教えて好奇心を残したまま泳がせるほうが危険だと判断し、雄介はあえて彼にすべてを話した。
雄介が一通り説明を済ませると、それまで黙って話を聞いていた北斗が言った。
「えっと、つまり……どういうことだってばよ?」
北斗なら案外あっさりと信じるのではないかと思っていたのだが、さすがに馬鹿にしすぎていたようだ。いや、もしかしたら一気に説明したせいで理解が追いついていないだけかもしれないが。
「俺は事実だけを伝えた。それをお前がどう思うかは勝手だ。むしろお前はどう思ったのか、それを聞かせろ」
「どう思ったか、ねぇ……」
あごに手を当てて北斗はしばし沈黙する。
大切なのはそこだった。彼の返答次第では、どこかのツンデレ女のように「記憶を失えー!」と叫んで木刀を振り回すことにもなりかねない。
「んー、とりあえず信じるよ。七海ちゃんが嘘をつくとは思えないしね。それに、なんとなく思ってたことだったし。三次元の女の子にしては、七海ちゃんかわいすぎるもん」
そう言うと北斗はにっこりと七海に笑いかける。
「なにより肌が綺麗だよね。これは前にも言ったけど、三次元で七海ちゃんに勝てるとしたらオリエント製のダッ――高級人形くらいだと思うし」
彼でも羞恥心はあるらしい。危なかったが、ダッチワイフという言葉はどうにか飲み込んだ。
「ほかに聞きたいことはあるか。突然職場で聞かれても答えられんからな」
もし忠告を無視して聞いてきたら、そのときは肉体言語で黙らせる必要があるだろう。
「そうだな……あ、七海ちゃんがヒロインのゲームって、合体シーンはあるの?」
「…………」
やはりこいつは阿呆だ。雄介はあらためて確信する。
立ち上がり、カラーボックスから無駄に大きなゲームの箱を取り出し、北斗の顔面を狙って投げつける。
「ふがっ」
箱は北斗の顔にジャストミートした。手加減ナシの攻撃を喰らい、彼の顔に綺麗な四角い跡ができる。
「自分で確認しろ」
「そんなに怒るなよ、ちょっとした冗談じゃないか。お、マジでパッケージに七海ちゃんいるじゃん。えーと……なんだ、エロゲじゃないのか。まあいいや。これ、借りてってもいい?」
「かまわないが、ゲームはプレイできないぞ。なぜかディスクを読み込まない。原因は俺にも分からん」
七海が三次元化してから数日後の夜、雄介はふと気になってデスクトップのショートカットをダブルクリックしてみた。が、何度やっても文字化けした謎のメッセージが表示されるだけでゲームは起動せず、再インストールすることもできなかった。
「ほかにはあるか。なかったらこのことは誰にも話さないこと、話したら榊野ヒルズの最上階からゴムなしバンジーすることを誓ってさっさと帰れ」
「まあまあ、そう焦るなって」
北斗は箱をちゃぶ台に置き、肘をついて少し前のめりになる。
「ちょっと確認したいんだけどさ。七海ちゃん、今年中にここから出て行ってもらう予定なんだよね」
「そのつもりだ。偽造の免許書もあるし、保証人がいなくても契約できる不動産屋だってある。多くはないが、蓄えだってあるからな。少しくらいなら貸してやってもいいと思ってる」
「どうして出て行ってもらうの?」
「いきなり追い出すほど俺も鬼じゃないが、だからってずっと一緒に住む理由がないだろ」
「……本当に?」
いつになく真面目な表情で北斗は確認してくる。
単純に、興味があるから聞いているという雰囲気ではなかった。雄介の返答次第で、なにか仕掛けてくるつもりだろう。
「…………」
自分はどうしたいのか。今一度、雄介は考えてみる。
現状に不満はない。しかし永遠にこの状態を維持することは不可能だ。
七海は絶対に嫌いになんてならないと言っている。が、やはりそれはありえない。今、彼女と自分は『友人』だ。彼女がこのまま本当に『恋人』や『家族』になることを望み続けるなら、いつかは変化しなければいけない。
彼女と恋人になることを受け入れれば、終わりを先延ばしにすることはできる。そして奇跡が――二次元の存在だった七海が実体化するような奇跡がもう一度起これば、死が二人を別つまで幸せなときを過ごすことができるだろう。
「いつまでも一緒に住む理由は……ない」
奇跡は起こらないから奇跡なのだ。
「そっか。うん、分かった」
どこかつまらなそうに北斗はつぶやく。
なんだか見下されているような気がして、雄介は眉間にシワをよせ、北斗を軽く睨みつける。だが彼はそれを受け止めることはせず、いつも通りの軽い調子に戻って言った。
「雄介の気持ちを確認したところで、僕に一つ提案があるんだけどさ」
「なんだ」
「七海ちゃん、僕のところで預かろうか?」
「……は?」
またしても予想外な一言に雄介は眉間のシワを更に深くする。隣に座り黙ってその場の成り行きを眺めていた七海も目を丸くする。
「今日からでもいいよ。姉貴、三年付き合った男とようやく結婚するみたいでさ、三日前から家にいないんだよね。その男と別れないかぎり、もう帰ってこな――」
「ちょっと待て。お前、ちゃんと話を聞いていたか?」
「聞いてたよ」
「なら七海がどういう存在か、理解してるんだろうな。戸籍がないんだぞ。保険証だって当然ないから迂闊に風邪も引けない。普通なら治せる病気でも七海の場合は命取りになる。書類の上ではこの世界にはいないはずの人間だ、病院のベッドの上で死ぬことは許されない。結婚も無理だ。未成年の女を連れ込んでいるなんて通報されたらどうする? マッポに『彼女は二次元の世界から飛び出してきたんです』と言ってみろ。黄色い救急車を呼ばれるぞ」
どうしてだろうか。今になって戸籍がないことの不便さが次々と浮かんでくる。
「結婚とか死んだらとか、そんな先のことなんてわかんないけどさ。てか、別に病弱設定とかないんでしょ? それに雄介が言ったことって、最初から分かってることで七海ちゃんが僕の家に来るから起こる問題じゃないじゃん」
「それは、そうだが……」
「条件が同じなら僕のマンションのほうが店だって近いし、部屋も空いてる。病気になっても少しくらいなら無保険で治療できるくらいの貯えはあるしね」
ふと、雄介は昔のことを思い出した。恋人と別れる一ヶ月前のことだ。彼女のことを愛しているという男と、二人で話し合いをしたことがあった。そのときの雰囲気が今と似ている気がしたのだ。
「……いいだろう。ただし、本人が行くことを希望したらだ。七海は命令通りにしか動けないゲームキャラじゃない。飯を食って風呂にも入る、意思を持った人間だ」
「そんなの言われなくたって分かってるよ」
二人の視線が七海に向けられる。
彼女は話し合いが始まってからまだ一言も話していない。秘密がバレてしまったことに責任でも感じているのか、まるで叱られる子供のように黙っていた。
それでも雄介には彼女がどう答えるか、予想できていた。はっきりとした根拠などないが、最終的にはこの部屋に残ることを選択するだろうと。
「私は――」
「待った」
北斗が言った。
「結論を出す前に、一度七海ちゃんと二人で話したいんだけど」
「……好きにしろ」
「うん、そうする。七海ちゃん、ちょっと玄関の外まで来てもらってもいいかな」
「……はい、分かりました」
立ち上がった七海はどこか緊張しているようだった。なにを聞かされるのか、彼女も少しは予想できているのだろう。
玄関のドアが閉まる寸前、彼女は悲しそうな表情を浮かべて雄介を見つめていた。
ガシャンと音を立て、ドアが閉まる。
外で二人がなにを話しているのか。これも雄介は予想できていた。
今頃、北斗は懸命に七海を口説き落とそうとしているはずだ。そもそも彼は最初から七海のことが好きだった。冷静になれば、彼が七海を預かると言い出したのも理解できる。
そしてもう一つ冷静に考えてみれば、北斗の説得は失敗することが分かる。荷物にこっそりと発信機を入れてくる男の所に誰が行くというのか。七海は発信機で追跡されることを愛だと思うような電波ではない。
ドアが開き、二人が部屋に戻ってくる。
「で、どうするんだ」
聞く。
「…………」
七海は俯いたまま答えようとしない。
一○秒。二○秒。沈黙が続く。
(どうしたんだ?)
自分がクリックするのを待っているのだろうか。そんなことを考えてしまうほどの長い沈黙だった。
しばらくして、七海はなにかを確認するように北斗に視線を向ける。次に彼女は雄介のことを見つめ、言った。
「私、北斗さんのマンションで暮らします」
雄介には彼女がなんと言ったのか、すぐには理解できなかった。
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この作品はコミックマーケット81で配布したものからR18要素を抜いたものになります。 | ||
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