恋姫的ムダ知識 蜀漢編
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 その一、桃香様の学生時代

 

 

 貧乏で、母親と一緒にむしろを売って生活していた桃香様。

 

 正史でも劉備はわらじやむしろを売って細々と暮らしていたのですが、ではどうして貧乏だった劉備(桃香様)は盧植先生の塾に通うことができたのでしょうか?

 

 じつは劉備の家は漢の皇帝の末裔というだけではなく、代々州や郡の役人をつとめた地元の名士の一族で(桃香の家はたまたま父親が早くに亡くなったので貧しくなってしまった)、その親戚の一人が桃香様の才能を見込んで学資を出してくれていたのでした。

 

 しかし、肝心の成績はどうだったかというと、残念ながらおバカさん……じゃなくて読書(つまりは学問)はあまり好きではなく、犬(おそらく闘犬)・馬・音楽(けいおん……?)が好きで、ファッションにもとても気をつかう子だったそうです。

 

 ……いや、らしいっちゃらしいんですけど、その服の代金も全部親戚からもらった『学資』ですよね、桃香様?

 

 

 

 

 その二、普通な人の残念な結末

 

 容姿が美しく、弁舌さわやかで頭の回転がはやい。

 

 おそろしいことに、これが三国志に書かれている白蓮さん(公孫サン)の若いころの人物評です。

 

 そんな白蓮さんですが、正史でも桃香様と同じ塾に通っていた親友で、しかも年上だった公孫サンを、劉備はアニキ……ではなく兄(恋姫的には姉)として仕えていたそうです(ちなみに正史では、関羽、張飛と正式に義兄弟の契りはかわしたという事実はありません)。

 

 そして劉備の挙兵後も、公孫サンは学生時代の友情を忘れず、賊軍に敗れて逃げてきた劉備を武将として受け入れて官職につけてやり、『兄』として面倒をみていました(もちろんあくまでも自分の配下の武将として、ですが)。

 

 その後、公孫サンは袁紹との勢力争いにやぶれ、滅亡することになるのですが、そのとき『弟』劉備がどうしたかというと……。

 

 そーっと公孫サンの元から独立し、袁紹派に鞍替えしていました(笑)。

 

 やったね☆ 桃香様!

 

 

 

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 その三、桃香様と麗羽さん

 

 

 ゲームの中ではやたらと意気投合していた桃香様と麗羽さん。では史実では、本当に仲が良かったのでしょうか?

 

 残念ながら、この二人の仲については史実にはほとんど書かれていません。しかし、劉備が袁紹の息子(長男の袁譚)を推挙していたという記事が残っていました。

 

 この『推挙』というのは、大ざっぱに言うと当時の地方長官の職務のひとつで、その地域に住む有力者(士大夫)の中から有望な若者を朝廷に推薦し、よりよい官職につかせるための制度で、現代でいえばエリート官僚への第一歩のようなものでした。

 

 そして同時に、推挙するということは、その人の政治的な後見人になるという意味合いもあり、その後密接な関係が築かれることも少なくありませんでした(実際正史では、曹操に敗れた劉備がこの袁譚のところに落ちのびていき、彼が兵を率いてそれを出迎えるということがありました)。

 

 もちろん当時最大の勢力をほこった袁紹が無断で『推挙』させるわけがなく(何せ、自分の子供の後見人になるわけですから)、きちんと許可をとった、もしくは袁紹のほうから劉備にお願いしたと考えるのが普通でしょう。

 

 そう考えると、劉備と袁紹の間にも、何らかの信頼関係があったとも考えられます。

 

 といっても、袁紹軍が曹操に負けそうになると、そこからも逃げ出しちゃうんですけどね(笑)。

 

 

 

 

 その四、『推挙』と『評判』

 

 

 今回はちょっと真面目な話です。

 

 前回『推挙』の話をしましたが、あらためて書きますと、『推挙』とは地方長官(州刺史、郡太守、国の相など)によるエリート官僚候補の推薦制度です(正確には『推挙』の中にもいくつかの区分があるのですが、ここでは割愛します)。

 

 この『推挙』によって、推挙した側(地方長官)が政治的な後見人になるということも前回話しましたが、それは同時に責任を持つということにもなり、推挙された人物が問題を起こすと、処罰を受けることにもなりかねませんでした。

 

 そのため地方長官は、よりよい人物をさがさなくてはならなかったのですが、そこで役に立ったのが世間の『評判』、つまり人物評価でした。

 

 結果、この『評判』を立てることが出世をするための大前提となり、世に知られた名士から人物評価を受けたり、自分で他人の評価をするのが大ブームとなりました。

 

 こうしたブームの中で、華琳の『治世の能臣、乱世の奸臣』や雪蓮の『小覇王』。朱里、雛里の『伏龍』・『鳳雛』といった有名な言葉が生まれたのです。

 

 

 

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 その五、恋姫の『推挙』された人々

 

 

 二回続けて『推挙』(当時のエリート官僚推薦制度)の話をしたので、ついでに恋姫のキャラの中で、『推挙』されたことのある人をあげておきます(うっかり見落とした人もいるかもしれませんが、ご容赦ください)。

 

 魏……華琳・桂花

 呉……蓮華・祭・穏

 蜀……なし

 その他……美羽・白蓮・詠・華佗

 

 こうしてみると非常に数が少ないように思えますが、『推挙』はあくまでもエリート官僚を育成するための仕組みなので、武将には関係のない制度であり、また後年いよいよ世が乱れてくると、権威のなくなった後漢王朝に『推挙』をする者などいなくなってしまいました(祭さんの場合、武将としてではなく、それ以前に地方で役人をしていたときの『推挙』でした)。

 

 ちなみに祭と華佗は『推挙』をされてもそれには応じず、華琳・桂花・詠は仕官はしたもののそのときは途中で官を辞めており、さらに蓮華は孫呉の一族としての一種の箔付けのため、穏はすでに呉の将軍だった時期に戦に勝った褒賞として『推挙』されただけで、実際に『推挙』によってにエリートコースに乗ったのは、美羽と白蓮の二人だけでした。

 

 美羽と白蓮がエリートって……、その時点で漢王朝はもうダメだ、っていう気がしますよね。

 

 

 

 

 その六、これぞダ名族!

 

 

 また『推挙』に関するお話です。

 

 前回、恋姫キャラで『推挙』されたことのある人をあげてみました。

 

 そこで気づかれた方もいると思いますが、『推挙』されているメンバーの中には、美羽(袁術)の名前はありますが、麗羽(袁紹)の名前はありません。

 

 名族である彼女が官界のエリートコースである『推挙』をうけていないのは、なぜなのでしょうか?

 

 じつは生まれてすぐに父親を亡くしていた彼女は、幼いころから司空(三公とよばれる官僚のトップのひとつ。司法をつかさどる)となった叔父の袁逢(美羽のお父さん。麗羽の実父説もあり)や司徒(三公のひとつ。行政をつかさどる)となった叔父の袁隗に非常にかわいがられ、この二人の叔父さんの力で『推挙』という手順もふっとばして、エリートコースにのせてもらっていたのでした。

 

 いわば麗羽は『推挙』制度すらも超えたスーパーエリートだったのですが、その後の姿を見ると、ちいさいころから甘やかせ過ぎるとどんな子に育つのか、よくわかるお話ですね。

 

 

 

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 その七、三バカの人物評価

 

 

 「志は大きいが智恵は小さく、顔つきは厳しいが肝は細く、人をねたんで上に出ようとして、威厳に欠ける。兵数は多いがけじめがはっきりしておらず、将がいばりたくっているうえに政治上の命令は一貫性がない」

 

 これは正史における曹操の袁紹の人物評価です。

 

 「顔つきは厳しい」というのをのぞけば、だいたい麗羽にもあてはる気がしますが、では三バカのあとの二人、斗詩と猪々子は三国志ではどのような人物だったのでしょうか。

 

 顔良(斗詩)が三国志の中に登場するのはおおよそ八回、文醜(猪々子)が六回です。

 

 しかしそのほとんどが袁紹軍が曹操軍とぶつかった官渡の戦いのもので、しかも二人が敗れた(というか殺された)ところばかり何度も出てくるというかわいそうなことになっています(注:三国志は紀伝体という、当時のおもだった人物の人生を章立てにして別々に書くという手法で書かれているので、同じ戦いが別の視点で何度も出てきたりします)。

 

 ただしこの二人が袁紹軍を代表する武将だったのも事実で、袁紹はこの二人を自軍の将帥(軍の司令官)に任命し、三国志の著者である陳寿も、二人は『いずれも袁紹の名将であった』とフォローを入れています。

 

 他にも荀ケ(桂花)なども、個人の武勇をもつにすぎない、と将としての能力は否定しながらも、その武勇はツンデレ的に認めているのですが、その実力については正直どこにも書かれていないのでよくわかりません。

 

 性格については、文醜は書かれていませんが、顔良は仲間であるはずの袁紹軍の軍師の沮授(恋姫登場せず)に「性格がこせこせしている(小さいことを気にして、心に余裕がない)」と言われています。

 

 ……まあ、麗羽と猪々子にはさまれたら、こせこせするのも仕方がないと思いますけどね。

 

 

 

 

 その八、桃香様の人心掌握のウラ技

 

 

 当初、いち義勇軍として旗揚げをした桃香様(劉備)。しかしその戦績は勝ったり負けたりさらに負けたりで、けっして芳しいものではありませんでした。そんな地盤も武力も政治力もなかった桃香様が、どうやって愛紗や鈴々の心をつなぎとめていたのでしょうか。

 

 劉備の人心掌握の方法、それは何と、華琳ばりの「今夜私の閨へいらっしゃい」というものでした!

 

 といっても、もちろん腐女子的な意味や、恋姫でいえば百合百合しい意味はありません。

 

 当時、閨……つまり寝所というのは、貴人にとってもっともプライベートな空間であり、そこに出入りさせるだけでも特別な待遇とされ、ましてやそこでともに寝るというのは、あなたと私は家族も同然、もしくは一心同体ですよ、というぐらいの親愛の情をしめすものでした。

 

 劉備も一応皇族の仲間ですから、その効果はかなりのものがあったはずです。

 

 ちなみに、劉備がこの手段をとったとされている武将は関羽・張飛・趙雲の三人です。

 

 蜀の武将トップ3だけを狙い撃ちとは、他の能力はともかく、その人物眼だけはおそろしいものがありますよね。

 

 

 

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 その九、五番目の女 星

 

 

 前回、関羽(愛紗)・張飛(鈴々)・趙雲(星)の三人のことを、蜀のトップ3と書きました。

 

 これを読んでいただいている方の中にも、蜀の五虎将軍といえば、関羽・張飛・趙雲……、と趙雲を三番目にあげる方も多いと思います。

 

 しかし実際は、五人の中では五番目、それに魏延を含めてもさらに位が下の武将でした。

 

 ではその趙雲がなぜ蜀の武将トップ3と目されるようになったのでしょうか?

 

 元々五虎将軍(この名称も正史にはないのですが)と並び称されるようになったのは、『三国志(正史)』の著者である陳寿が、蜀の勇名が高かった武将として、五人の伝(エピソード)を一巻にまとめていたことがきっかけでした。

 

 しかし趙雲は、他の四人のような一軍を率いる武将ではなく、劉備の身辺を守る牙門将……現在でいえば近衛隊長のような役割を長くつとめていた人物でした。

 

 本来主君の側近としてつかえる役目なので、それほど武功をあげる機会はないはずですが、何せつかえる相手が劉備なので、負けてピンチになることも多く、そのたびに活躍して劉備やその家族を守ったのが趙雲でした(正史や三国志演義などに出てくる趙雲のエピソードに、劉備の子供や家族を救う話が多いのはそのためで、逆にこうした活躍が近衛隊長としての信頼を高めすぎ、それ以上の出世が遅れてしまったのではないか、という説もあります)。

 

 そして趙雲が武将としての活躍を見せはじめるのは劉備の晩年。ようやく蜀という本拠地を手に入れて、主君を守る必要がなくなってからでした。

 

 それともうひとつ、『趙雲別伝』という書物があったことも、大きな理由でしょう。

 

 『趙雲別伝』とは、その名の通り趙雲のはなばなしい活躍が書かれた著者不明の作品で、この書物の内容が三国志に多く引用されたことによって、他の四人より具体的な活躍を後世に残すことができました。

 

 ……まさかとは思いますが『趙雲別伝』、自分で書いていたりしていませんよね、星さん?

 

 

 

 

 その十、神様、仏様、華蝶仮面様?

 

 

 今回は三国志の登場人物の中から神様になった人の話です。

 

 三国志から神様になった人物といえば関羽が有名ですが、蜀軍の恋姫の登場人物の中でもうひとり神様になった人がいます。それが趙雲……つまり星さんでした。

 

 しかも関羽が本来の武神から商売の神様に変わっていったように、趙雲もまた武神から別の神様へと変化していきました。

 

 それは「子供達の守り神」。

 

 前回書いたよう、劉備の子供、のちの蜀漢の二代目皇帝・劉禅が幼いころに、何度もピンチから救ったことから、子供達を病気や苦難から救ってくれる守り神として信仰を受けるようになったのです。

 

 ちなみに、かつては趙雲への信仰は、民間信仰としてかなりの広まりを見せていたそうですが、1970年代にほとんどのほこらが壊されてしまい、今は台湾にのこっているぐらいだそうです。

 

 しかし、趙雲が子供達の守り神だということは、当然星も子供達の守り神ということになるわけで……。

 

 ということは、華蝶仮面は子供達の守り神がつかわした正義の化身!! ――で、いいのでしょうか?

 

 

 

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 おまけ、そのころメンマはあったのか?

 

 

 星のメンマ好きは有名ですが、本当はこの時代、おそらくメンマは中国大陸にはありませんでした。

 

 というのも、メンマの発祥の地はどうやら台湾の嘉義県というところらしいのですが(いつ生まれたのかは不明)、当時台湾は夷洲(いしゅう)とよばれ、ほとんど大陸との交流がなく、のちに孫権(蓮華)が探索隊を出して発見するまで、その所在すらも確認されていないまぼろしの島でした。

 

 なのでもし当時台湾にメンマがあったとしても、大陸に伝わっている可能性は非常に低く、そのころ中国にはメンマがなかった、というしかありません。

 

 ただしあの星のことなので、諸国放浪中に自力で夷洲まで泳いで渡り、メンマを手に入れていた、という可能性は否定できませんが……(笑)。

 

 

 (ちなみに中国ではメンマは豚の煮込み料理などに使うもので、ラーメンに入れるということは元々ありませんでした。そして「メンマ」という名前自体も、日本人が「ラーメン」に入れる「麻竹(まちく。メンマの原材料)」をもじって命名したもので、むこうではあまり通じないらしいですよ)

 

 

説明
ゲームWeb恋姫†夢想内で書いていたものを、加筆・修正したものです。

一応正史の三国志を元に書いていますが、まちがいがあったらゴメンナサイ(笑)。

11/22 本文におまけを追加しました。
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コメント
しかもその施策がうまくいき、沮授の名声と権威が高まると、それをねたんだ同僚の讒言を信じて疑心暗鬼となり、その権限の一部を剥奪・分割して、組織の弱体化をまねいてしまいました。(うみうしキング)
また内政についてですが、袁紹が冀州を支配していた時代(約11年)のほとんどの期間を軍師の沮授が軍事と内政の監督統御をしており、袁紹本人がどの程度内政に関与していたかはわかりません。(うみうしキング)
本人の能力やカリスマ性は高かったようですが、曹操のほかにも正史で荀ケが、「袁紹は一平民の豪傑にすぎず、人(材)を集めることができても、人を用いることができない」と評しているとおり他人への猜疑心が強く、実際の集団の運営能力に欠けていたようです。 (うみうしキング)
惣三様、ご覧になっていただきありがとうございます。ここでは恋姫のキャラに合ったムダ知識だけを書いているのですが、リアル袁紹の評価も正史や当時に近い史家の間ではけっして高くありませんでした。(うみうしキング)
自分は袁紹はけっこう内政は良くって、袁紹の治めていた地域では曹操の統治が始まっても、袁紹の方が良いと民は言ったという話をどこかで知ったんですけど、どれが本当かわかんないですねぇ。(惣三)
メンマについては長くなってしまったので、本文におまけとして追加しました。(うみうしキング)
summon様、ご覧になっていただきありがとうございます。趙雲女性説は、サイボーグ説と同じ民間伝承なのですが、忠義一途で女性に全くなびかなかった趙雲に、「実は趙雲って女性だったんじゃないのか?」と言われたのがはじまりらしいです。(うみうしキング)
趙雲女性説もあったのですか!?…あの時代にメンマあったのでしょうかね?(summon)
がちょんぱ様、ご覧になっていただきありがとうございます。趙雲サイボーグ説って、本当に中国で言われてた話なんですよ(笑)。演義などに出てくる趙雲があまりに完璧すぎるので、「これは華陀がつくったサイボーグに違いない」って。(うみうしキング)
趙雲サイボーグ説って爆笑三国志じゃないですかw確かにそれなら厳格で不老で満身皆胆の説明付くけどw(がちょんぱ)
ノワール様、永遠の二等兵様、ご覧になっていただきありがとうございます。趙雲は昔から人気があったせいか、面白い話がいっぱいあるんですよ(笑)。今回は書きませんでしたが、他にも趙雲女性説や、サイボーグ説などもあったりします。(うみうしキング)
正義の味方=子供たちの守り神。実に理に適ってますなあ・・・・・やってる本人はハッチャけすぎの気もしますが。(永遠の二等兵)
正義の味方=子供たちの守り神。実に理に適ってますなあ・・・・・やってる本人はハッチャけすぎの気もしますが。(永遠の二等兵)
趙雲関連の話、星が知ったら喜びそうですね〜。(ノワール)
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