うそつきはどろぼうのはじまり 6 |
少女は小さく笑みを浮かべ、ワイバーンから離れる。鱗を持った魔物の双翼が力強く羽ばたく。その風圧に思わず髪を押さえ、次に少女が目を開いた時にはもう、ワイバーンと共に空の住人となっていた。
(また来るよ、か……)
抜けるような青い空に落ちる小さな飛影を見上げ、エリーゼは思わず目を細める。アルヴィンは、嘘はつくものの約束は守る人である。また来る、とその口で言ったからには来るのだろう。それがいつになるかは分からないのが難点であるが、今しがた胸に過ぎった哀しみは、そういう意味からではない。
エリーゼが、アルヴィンに来て欲しいと願っているのは事実だ。それも配達のついでなどではなく、自分目当てに来て欲しいと心の底から思っている。こんな短い逢瀬ではなく、もっと一緒にいて、たくさん話がしたいと思っている。カラハ・シャールの出来事。エレンピオスの様子。旅の思い出。仲間達の近況。それから――将来のこと。
アルヴィンは、果たして覚えているだろうか。エリーゼが一語一句覚えている、初めて出会った時の言葉を。
(こりゃ、五年後にはすっごい美人になるな。俺はアルヴィン。そん時までよろしくな)
無遠慮に顔をまじまじと覗き込まれての自己紹介に、当初エリーゼは随分面食らったものだ。それまで、他人から積極的に接近されたことがなかっただけに、ただただ衝撃であった。
けれど今は、挫けそうになる気持ちを支える、唯一の言葉となっている。見上げ続ける空は青すぎて、目が痛いくらいだった。
(その時まで、よろしくって。アルヴィン、言いました……よね?)
あの旅から五年の歳月が流れ、彼女はもうすぐ十七の誕生日を迎えようとしていた。
よろしくと言われた側のエリーゼは、言葉通り彼を待ち続けていた。だが彼の普段の軽口から推し量るに、そんな発言は言った側から忘れられてしまっていることだろう。
我ながら馬鹿なことをしていると思うが、縋るものがそれしかないことも、また事実であった。五年前の発言が全ての発端であり、その時の言葉が今尚、エリーゼの秘めた想いに希望を灯し続けている。
だが、そんな彼女の心情などお構いなしに、彼は相変わらず彼女を子ども扱いし続けていた。先程の別れ際の挨拶の時もそうだ。五年前、一緒に旅をしていた頃のように、何かにつけ頭を撫でてくる。
触れられることは嬉しいし、躊躇いなく撫でてくれるのも有り難い。気後れして何もされないよりは数倍ましだ。けれど反面、もう自分はそんなに子供ではないのに、幼子のように扱われるのも正直嫌だったのである。
大人になりたかった。彼の隣を歩いても違和感のないような、彼に認められるような大人の女性になりたくて、この五年間精一杯の背伸びをし続けてきた。沢山勉強して世の中を知って、好き嫌いをなくして早く身長が伸びるように努力した。
それが無駄だったと、認めたくない。認めてしまいたくない。エリーゼの頭は頑なにそう拒否し続けていた。だが誕生日を目前にして尚、彼の態度が変わらない理由を考える度、気持ちは否応無しに沈んだ。
ひょっとしたら自分がもう大人だと考えているのは、自分だけなのかもしれない。年齢など、もう十七歳になろうとしているのに、彼の目を通せばやはり子供で、だから相手にされない。
(それでも、わたしは……。でも……)
エリーゼは暗澹とした気分で、屋敷の中に戻った。とぼとぼと自室に続く階段を上っていると、途中侍女に呼び止められた。
「ああ良かった。今、お呼びしに行こうと思っていたんです」
ふくよかな体つきの中年の侍女は、胸を撫で下ろしながら、ご主人様が執務室でお待ちです、と言った。
「ドロッセルが?」
「はい」
頷かれて尚、エリーゼは首を傾げ続けていた。呼び出される理由に心当たりがなかったからである。自身の予定は把握しているつもりだが、何か火急の用件でも発生したのだろうか。
少女は服の裾を軽く摘み上げ、足早に執務室へと向かった。
「どうかしたんですか? ドロッセル」
重厚な樫の扉の内側で、女領主は長い息を吐いていた。優美な眉根を顰め、しかめっ面で嘆息するその手には白い封筒がある。先程、アルヴィンが届けてきた荷物の一つだ。白は白でも、丹念に漂白された色の封筒で、紙自体に上質な物を使用してある。竜の組み合わさった金のすかし模様が美しい。
「ああ、エリー。ちょっと長くなるから、そこに座って頂戴」
少女の来訪に気づいた領主は、笑顔で側の椅子を勧める。エリーゼは憚るように腰を下ろした。毎日顔を突き合わせている少女の目にも、今のドロッセルはひどく疲れているように見えた。
「リーゼ・マクシアとエレンピオスの間に協定が結ばれたのは、知っているわね」
「はい。先日、調印式が行われたんですよね」
エリーゼは明朗に頷いてみせる。なまじ貴族階級に属しているだけあって、この手の情報を得る時期は市井より格段に早い。
かつて殻の存在した海域で行われた式典は、随分と盛大なものだったと聞く。同時に、高々と鳴り響く金管楽器や、色取り取りの紙ふぶきの華々しさで覆い隠そうとした、両世界の陣営の緊張感が相当なものであったことも、また容易に想像がつくことだった。
「書類上では一応の停戦、協調体制をとるってことになったのだけど、どうやら向こうは物的な確証――担保が欲しいらしいわ」
それは即ち、エレンピオスが、リーゼ・マクシアと取り交わした約束がが反故となる事実を恐れている、ということを意味していた。
国家にとって、一方的な破棄や不履行はその陣営にとって相当の痛手となる、何故なら、一度交わされた取り決めを破ることは、その陣営の名誉、名声を地に落とすことになるからだ。陣営が巨大化すればするだけ、失われる物も多くなる。だから為政者は約束事には慎重にならざるを得ないのだ。そう学校では習ったが、どうやら現実はそう簡単ではないらしい。
エリーゼのみならず、ドロッセルもまた現状を持て余しているようだ。女領主は、先程から手中の封筒をつまらなそうに弄んでいる。
「でも、物……って」
具体的には何を欲しているのか、いまいちぴんと来ないエリーゼに、政界の黒い部分を知っている領主が、努めてあっさりと答えを告げる。
「もっと有体に言ってしまえば、人質ね」
ドロッセルは物憂げに封筒の裏を返す。そこには、表書き同様、これまた立派な封がなされていた。差出人はエレンピオスの文字でスヴェント、とある。
この書簡を手にした時、彼女は思わず首を捻ってしまっていた。スヴェント家はエレンピオスの名門貴族だが、シャール家と特に交流はない。これといった繋がりもないというのに、いきなり書簡を送ってくるとはどういう了見かと、ドロッセルは疑問符を頭に浮かべながら封を切ったのだった。
一般的に遣り取りされる郵便物と同じく、中には封筒と同じ柄の折り畳まれた紙が入っていた。金の細い飾り枠のついた便箋を、女領主は慣れた手つきで開く。
文面は短いものだった。言いようによっては、ごくありふれた定型文である。貴族の間で取り交わされる文面としては当たり前なのであったが、目にしたドロッセルの衝撃は計り知れなかった。しばらく筆跡を穴の空くほど見つめ、凝視するあまり瞳が痛くなったほどだ。
一方で、ひどく感慨深く手紙を押し頂く自分がいた。
ドロッセルは思う。これは、いつかは来るはずだった話なのだ。本来なら喜びと共に齎せねばならない知らせなのだが、これもまた名家の宿命という奴なのだろう。
そして、内容を本人に伝えられるのは自分だけ。これは自分の役割なのだ。それがたとえ、どんなに滅私を要求するものであったとしても。
途方もない疲労感を払いのけるように、領主は背凭れから背を離した。卓の上で両手を組み、エリーゼの顔を真正面から見つめた。
「エリー。……いえ、エリーゼ・ルタス」
愛称ではなく、改めて本名を呼ばれたことで少女の背筋が伸びる。顔には明らかな緊張があった。それを認めて、領主は改めて覚悟を決める。
「あなたに縁談よ」
穏やかな秋晴れの時節に齎された書簡。それは、スヴェント家の嫡男とエリーゼ・ルタスの婚約を求める縁談だったのである。
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うそつきはどろぼうのはじまり 6 | ||
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