リトル・ディスタンス 第2部
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第5章:ずっと、私の傍に居てください

 

 

 いつも通りのメンバーで、登校するために通学路を歩く。そんな中、那奈美は一人真剣な表情をして口を閉ざしていた。

「……どうした、那奈美?」

「那奈美ちゃん、俺たちと合流したときからこの調子なんだよ……」

 ため息を吐いた弘光を一瞥し、その気持ちに共感できた雅晴は、那奈美に声をかけることにした。だが、那奈美は何でもないと受け流す。

「……まぁ、とりあえず、いつも通りやっていこうぜ!……な?」

 弘光が、何とか空気を変えようと試みたが、その努力は虚しく、全体の空気が揺らぐことすらなかった。

「………」

 雅晴は、那奈美の様子を見て、昨夜のことを考えていた。彼は昨夜は遅くに病院に帰ったので、那奈美がこうなった原因に心当たりがあったのだ。

 信じたくは無いが、雅晴は、「昨夜、自分が病院に帰る姿を那奈美に見られていて、病気を患っていることが発覚しそうになった場合」という最悪のシナリオを想定し、万が一に備えて肝に銘じつつも、その状況になったときの行動を練った。

 ――それは、とても苦しく、悲しい結末を招くことになるかもしれない。けれども、それが彼女のためになるなら、それでも構わない。そういった、雅晴らしい、自らを省みずに行動することを、彼は考えていた。

「……兄さん、行こうよ?」

 黙りこくっていた雅晴を心配してか、岬は突如彼に言った。

「ああ、そうだな……」

 雅晴は、呟くように細い声で返した。

 その後、学園に着いても、空気が変わることはなく、嫌な静けさが漂っていた。

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 昼休みになり、雅晴が購買に向かおうとしたときだった。

「雅晴さん」

 突如、那奈美に呼び止められ、雅晴は席を離れるのを思い止まった。

 だが、那奈美の声はいつもと違い、どこか深刻そうな雰囲気を放っていたので、雅晴は己が緊張していることが嫌でも分かった。それでも彼は、表面上は冷静を装おうと、いつものように返す。

「どうした?」

「今日、お弁当作ってきたので、屋上で一緒に食べませんか?」

 「屋上で」というところが気に掛かり、雅晴は弘光の方を見た。だが、弘光は気付いていない素振りで、一人だけで購買へと向かった。那奈美が事前に言っておいたのかもしれない。

「……ああ」

 もう、雅晴は腹を決めた。きっと、登校中に練っていた行動をしなければならないだろう、と。

 那奈美は、中身は重箱だと思われる包みを持って、雅晴の前を歩く。その間、何一つ言葉を出すことはなく、重い空気を漂わせながら二人で屋上へと向かった。

 屋上には、先客は一人も居なかった。というのも、寒くなってきているので別段珍しいことではないが。

 那奈美は、正面にあるベンチに包みを置き、腰掛けてからそれを開く。すると、黒く艶のある、三段の重箱が現れた。

「どうぞ、座ってください」

 重箱をベンチの中央に置いて、那奈美はもう片端に座るよう雅晴を促す。雅晴はそれに従い、ゆっくりとベンチに腰掛けた。

「口に合うか、分かりませんけど……」

 那奈美の謙遜の言葉に、雅晴は微笑する。

「お前の料理は美味いよ。昔から、そう決まってる」

 雅晴が見せた微笑に、那奈美もつられたように微笑む。そして、彼女が重箱の蓋を開くと、丁寧に盛り付けられた色とりどりなおかずが顔を出した。

 ――一番上の箱には、野菜や魚、玉子焼きなどの主菜。そして、二段目には果物などの副菜。一番下は日の丸弁当が詰まっていた。

 具材自体は大したものを使っていないであろうが、正月のおせち料理として出しても何ら差し支えが無さそうなほど豪勢な雰囲気を出していた。そして、何より食欲を誘う。

 そうやら栄養バランスにも気を配っているらしく、野菜の割合が若干多いようだと雅晴は思った。

「予想通りか、それ以上の出来栄えだな」

「えへへ……ちょっと、張り切っちゃいました」

 苦笑いを浮かべる那奈美に、「いただきます」と手を合わせてから、主菜の玉子焼きに箸を伸ばす。

 口に運ぶと、甘い出汁の風味が口の中に広がる。直ぐに日の丸弁当から飯を取り、口に運んだ。無論、美味以外の何でもない。

「美味いよ」

「お粗末様です」

 那奈美もいただきますをしてから、色とりどりの野菜で盛り付けられたサラダへと箸を伸ばす。そして、口に運ぶと嬉しそうに微笑んだ。

 ……それから数分が経ち、重箱の中身を互いの胃に収め、雅晴が那奈美に感謝の言葉を述べた後、那奈美が真剣な表情で口を開いた。

「……雅晴さん。訊きたいことがあるんです。聞いてくれますか?」

 その那奈美の様子に、雅晴も気を引き締める。先の決意を、胸に抱いて。

「……ああ。なんだ?」

 重箱を片付けて空いた二人の隙間に手を置き、那奈美は雅晴の目を見詰める。

「雅晴さんは、昨夜、病院に居ましたか?」

 雅晴は、自分が想像していた方向と向かっていることを理解し、自分が計画していた行動をすることを決めた。

「ああ。ほら、岬の友達の柊が風邪を拗らせてさ。連れて行ったんだよ」

「一人で、ですか?」

 予想はしていたが、雅晴はため息を隠せなかった。帰りを見られていては、弁解の余地が無い。雅晴は、病気のこと以外で何とかその理由を埋めようと試みようとした。だが――

「教えてください、雅晴さん。何か、私に隠してませんか?」

「………」

 食い下がる那奈美に、雅晴は言葉を呑んだ。油断すれば、自分が病を患っていることを口にしてしまいかねない。

 何が何でも、彼には那奈美には言ってはならないという理由があった。

「……すまん」

 だから、雅晴はただ、謝罪の言葉だけを口から漏らす。そんな雅晴に、那奈美は悲しそうな、寂しそうな表情を見せる。

「……言えないんですか?私には」

「……すまない」

 ただ謝ることしかできない自分に、那奈美は呆れてしまうか、自分を悪く思うだろうと思った雅晴だったが、彼の予想は覆され、那奈美は小さく笑った。

「……まぁ、言えないこともあるんですね。無理に聞き出すのも何ですから、諦めます」

 だが、その笑顔は、どことなく寂しそうだった。雅晴は、その感情を決して見落とさなかったので、胸が痛くなった。そして、何より自分が情けなくて、自分を呪いたかった。

 ――もっと、自分が生きていられれば、と。

 だが、雅晴はいつまでも沈んでいるわけにはいかなかった。那奈美の話は、これで終わりではなかったのだ。

「雅晴さん。もう一つ、いいですか?」

 先程とは違い、声のトーンに明るさを感じた雅晴は、何とか自分を叱咤して返事を搾り出した。

「……ああ。大丈夫だ」

 那奈美は頬を染め、気恥ずかしそうにしながら尋ねた。不覚にも、雅晴はそんな彼女を可愛いと内心では思ってしまう。

「あの……、雅晴さん。雅晴さんには、好きな人は……居ますか?」

 その問いに、雅晴は素直に答える。

「今のところは、居ないかな。実感もない」

「そうですか……」

 その言葉に、那奈美は安堵とも思えるような息を漏らした。そして、彼女は一度深呼吸をしてから、再び雅晴へと言葉を向ける。

 雅晴は、そんな彼女の瞳に、強い決意を見た。

「……雅晴さん。ずっと、私の傍に居てください。好きです。ずっと前から……あなたのことが好きでした……っ!」

「……っ!」

 雅晴は、その言葉に我を失いかけた。

 彼も、彼女のことは好きだ。まだ、それが恋愛感情なのかどうかはともかくとして、好いていることに間違いは無い。

 だが雅晴には、彼女に限らず、決して言ってはならない言葉がある。何が何でも、自分に嘘を吐き、最期までそれを貫かなければならない、理由がある――例え、それで相手を傷つけたとしても。

 相手の為に、相手を傷つける。雅晴は、そんな矛盾したようなことを行おうとしている自分が嫌になった。そして、嬉しさと悲しさが、雅晴の心に釘を打っていく。

 那奈美が発した言葉は、雅晴にとって、矢よりも鋭く、鉄よりも重いものであった。

「……突然で、ごめんなさい。もっと、時間が必要ですよね、返事をするには……」

 胸が掻き毟られるような気持ちだった。嬉しくて、それでも哀しくて……。雅晴は、何とか自分を奮い立たせ、拒絶の言葉を捜す。

「……那奈美。俺は――」

 けれども雅晴は、嘘は吐けなかった。その言葉が、最も彼女を引き離す上で効果的であると分かっていても、彼の優しさが、心が、それを邪魔した。

 言いかけた嘘を呑み込み、雅晴は話を仕切り直す。

「――……お前が、誰を好きになるかはお前の自由だ。だけど、俺だけは好きになっちゃ駄目だ」

「……私は、駄目なんですか?……やっぱり、他に好きな人が居るんですか?」

 不安げに尋ねる那奈美に、雅晴は首を横に振った。

「居ないし、那奈美のことは嫌いじゃない。だけど、俺を好きになると、きっと後悔することになるから。哀しい想いを、ずっと引き摺って生きて行くことになるから。だから、俺とだけは……駄目なんだ」

「……どうして、ですか?」

「………」

 雅晴は、その問いには答えられなかった。ただ、謝罪の言葉を漏らすだけの自分が、堪らなく腹立たしかった。

 目の前で悲しむ大切な人に、自分は何一つためになることをしてやれない。この場に誰も居なかったら、雅晴は手の甲から骨が見えるまで壁を殴り続けていたかもしれない。

「……雅晴……、さん……」

「こんな最低な男よりも、お前には相応しい人が居る。……身近にな」

「……っ」

 雅晴がそう言うと、那奈美は荷物を持って、泣きながら逃げるように屋上から去った。沈黙に満たされた屋上に、雅晴がたった一人取り残される。

「……くそッ!」

 自分が悲しむならいざ知らず、人に悲しみを植えつけてしまっている自分に嫌気が差し、雅晴は拳を握り締めた。

 できることなら、このまま全てを諦めて打ち明けてしまいたい。雅晴はそう思った。だが、現実から目を背けないことを決め、病気と向き合ってきた自分をなんとか取り戻し、奮い立たせる。

 そもそも、那奈美が自分を嫌いになってくれれば、死を迎えても悲しまれずにすむ。だから、これでいいのだと雅晴は自分に言い聞かせ、教室に戻ることにした。

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「……おい、雅晴」

 昼休みの後の授業を終え、雅晴が次の授業の準備をしようとしていたとき、ふと弘光に呼ばれた。

 その声は、いつもの彼とは違い、どこか真剣な雰囲気を漂わせている。

 弘光は、周りの様子を窺った後、雅晴の耳元で囁くように尋ねる。

「お前、昼休みのときに、那奈美に何言ったんだ?」

 きっと、話の内容はそうだろうと雅晴は予想していた。無論、隠すつもりは無い。弘光を連れてトイレに向かい、自分も偽りの無い真剣な表情で話す。だが、声には確実に反省とも後悔とも思える念が滲み出ていた。

「……那奈美に好きだと言われたが、断った」

「………」

「自分でも、驚いたよ。病気のことならいざ知らず、そんなこと言われるんだから」

 弘光は、雅晴の言葉を黙って聞き続ける。雅晴は、そんな親友がいてくれることを、心の底から有難く思った。

「病気については、言ってない。ただ断っただけだ」

 雅晴の話を最後まで聞いたうえで、弘光は口を開く。

「……それは、お前の本当の気持ちか?」

 雅晴は、弘光の言葉を聞いて下を向き、首を横に振る。

「そんなわけ、ないだろ……」

「そっか……」

 弘光はそれを聞いたきり、安堵したような声を漏らしてから、何も言わなくなった。雅晴の決意が、決して生半可なものではないと分かっているから、彼は何も言わないのだ。

 いつかは、そんな辛いこともやってのける。そういったことも、予測していたから。

「なぁ、弘光。言うまでもないかもしれないが、一つだけ、頼みを聞いてくれないか?」

「……那奈美のことか?」

 既に察してくれていた弘光に感謝し、雅晴は頷く。

「今のあいつの心は、一人じゃあ支えられない。お前が必要だ。あいつを支えてやって欲しい」

 雅晴の申し出に、弘光は当然だと快諾する。

「……親友の尻拭いくらい、言われなくてもやってやるよ。どこまでできるか、分からないけどな」

「……ありがとう」

 雅晴は、親友に心から感謝を捧げ、一緒に教室へと戻った。那奈美と目が合ったものの、弘光の気遣いでなんとかその場を潜り抜け、雅晴は平然を装って一日を終えることにした。

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 文化祭を数日後に控え、遂に学園の授業が文化祭準備へと変わった。

 雅晴のクラスの催し物は作品の展示で決まったので、仕事は部屋の飾り付けだけだった。作品といっても、専ら女子が作ったパッチワークや縫い物ばかりで、男子の作品はほとんど無い。

 作業を中断し、実行委員から飾り付けの話を聞いていた雅晴は、ふと壁飾りの方へと視線を動かした。そして、弘光と那奈美が何かを話している光景が目に留まった。

「………」

 一瞬だけ那奈美と目が合ったが、雅晴は直ぐに視線を戻す。

「――という構図。わかった?」

「ああ。了解」

 視線は別の場所にずれていても、話はしっかりと耳に留めていた雅晴は、教えられた構図通りに作業を進める。

 だが、内心では那奈美が自分に対して何か質問することや、アクションを起こしても可笑しくは無いと思っていた。しかし、大人しい性格の持ち主である那奈美は、雅晴が警戒しているようなことは何一つしなかった。

 ――昔から、那奈美はそうだった。相手に何かを言われたときは、必ず自分の非を探そうとする。それが、一方的に相手の非が招いた出来事であっても、彼女は真っ先に自分に責任があると思い、己を責めて、時には塞ぎ込んでしまう。その度に、雅晴は宥めたりもしてきた。

 それを知っているからこそ、雅晴は歯痒かった。弘光が頼りにならないわけではないが、那奈美を助けることは、人の為になりたいと願う彼にとって誇りでもあったからだ。

 やがて、作業が終わり、雅晴は荷物を担いで足早に教室を去った。

 雅晴は岬を誘おうかとも思ったが、自分のクラスが計画している催し物の準備をしていると思ったので、一人で帰ることにした。ちなみに、一人の下校ということで、昴のことも思い出して足を止めかけたものの、直ぐに岬とクラスが一緒だということを思い出したので諦めた。

 昇降口で靴を履き替えようと、雅晴が下駄箱に近付いたときだった。

「あっ……」

 見慣れた声に顔を上げると、那奈美と弘光が丁度靴を履いていた。

「雅晴……」

 気まずそうに呟く弘光に、雅晴は苦笑しながら言った。

 ――それは、どこか自嘲的にも思えるような笑い方だった。

「――なに、気にするな。俺のことは、空気だと思ってくれ」

「………」

 那奈美は、雅晴のことを気にかけつつも、弘光が帰ろうと促すと、それに従って昇降口から出た。雅晴も直ぐに靴を出し、二人の背中を追う。

 いつものように三人で校門を出て、いつもの道を歩いているはずなのに、今日は全く雰囲気が違っていた。

 雅晴は、前を歩く二人の話に耳を傾けながら、数歩後ろを静かに歩く。

「――というわけで、俺は展示作品を作るのを諦めたってわけ」

 弘光の他愛ない話題を聞いて、那奈美が小さく笑う。

「まぁ、無理も無いですよ。色々と無茶がありますし」

 そんな楽しそうな二人を、雅晴は後ろから黙って見ていた。

 ――よかった。那奈美は今、間違いなく笑っている。

 ……目の前に居る二人の間には、此間までは自分が居た。その思い出が、胸を締め付ける。けれども、雅晴はその切なさとは裏腹に、安堵を抱いていた。

 ――自分が居なくなった後、二人はこうして仲良く過ごしていける。だから、心配する必要は無い、と。

 雅晴は、前を歩く二人と、少しずつ距離を離していき、やがて足を止める。徐々に小さくなっていく二人の背中が、彼の心に隙間風を流した。

 ――近い将来、この光景が「当然」に変わる。その想いが。

 弘光が那奈美のことが好きなことは、昔から知っている。だから、弘光は那奈美に一生懸命尽くしてくれるという確信があった。その確信は、雅晴に安堵を与えた。

 凍えてゆく自分の心を感じながら、雅晴は大きく息を吐く。

「……よかった」

 このまま、二人の幸せを願い、生きている間は見守っていこう。雅晴が自分に言い聞かせ、足を動かしたときだった。

 ――ドクッ……

 胸の奥で、何かが不吉に蠢く。

 雅晴は、自分の心臓が不規則な鼓動を刻み始めたのを感じ取った。

「(くそっ……、こんなところで……)」

 病院は目と鼻の先なので、雅晴は自力で病院へと向かおうと一歩足を踏み出す。だが――

「はぁ、はぁ……、ぐっ……、く、そ……」

 呼吸困難が、その行動を阻む。何とか足を進めても、その一歩は微々たるもので、なかなか距離は縮まらない。

 そして、懸命に進み続ける雅晴を嘲笑うかのように、発作の症状は悪化した。

 ――それは、今まで経験したことがないほどに、激しくなっていく。

「はぁ……、はぁ……」

 激しい鼓動で胸に痛みを覚え、胸元に手を当てながら小さな一歩を踏み出していく。乱れた呼吸は肺に負担をかけ、酸素が吸引できているのかすら分からない。

 額から脂汗が滲む。とうとう真っ直ぐに立っていることが出来なくなり、雅晴は住宅の塀に手をつき、体を支える。だが、発作の症状は弱まるどころか、さらに過激化してくる。

「(まだだ……まだ、死ぬわけには……)」

 徐々に目の前が暗くなっていく。雅晴は、脳裏に過ぎる、「死」という結末を懸命に振り払いながら、言うことを利かず暴走を続ける自らの肉体を引き摺り、病院を目指して歩く。

 普段から歩いている道が、こんなに遠く感じるとは……。雅晴は、屈辱にも似た悔しさを抱きながら進み続ける。

 いつもなら、ここで鎮静剤を投与し、動悸も呼吸も安定していくはずだ。だが、今回は違う。安定の兆しどころか、どこまで悪化するのか見当もつかない。

 ――やがて、周りの音も聞こえなくなり、目の前が黒で塗り潰される。

「(ここまで……、か……)」

 朦朧とする意識の中、雅晴はその場に崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。荒い息のまま、雅晴は病院の方を睨む。

 体の感覚が徐々に消えて行き、雅晴は今回ばかりは死を覚悟した。

「――……!」

 何かが聞こえたような気がしたが、今の彼にとっては、単なる雑音としてしか認識できなかった。

 そして、雅晴の意識は闇に導かれ、深淵へと堕ちて行った。

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第7章:穂野村那奈美

 

 

――白。

 雅晴が見たものは、あたり一面真っ白な場所だった。どこが床で、どこが空なのかも分からない。

 でも、何故だろうか?懐かしい感じがする。

 雅晴は、自分が何故こんなところに居るのか思い出しながら、方角も分からないまま進み続ける。

 すると、前方から見覚えのある光景が顔を覗かせた。幼い頃の、那奈美と弘光。そして、自分。視点は当時の自分のものだが、その光景に間違いは無かった。

「……そうか。これは、夢なんだ」

 自分が発作を起こし、気を失ったことを思い出し、雅晴は自分が置かれている状況を理解した。

 そして、雅晴はその場に座り込む。夢――臨死体験だという憶測も捨てきれないが――と分かったならば、何をしても意味が無いと分かったからだ。

「……今頃、俺はどうなっているんだろうか?」

 そんな心配をしていると、目の前の懐かしい光景の回想が雅晴へと近付いてきた。そして雅晴は、当時の自分と那奈美と弘光を思い出しながら、ゆっくりと息を吐いた。

「……楽しかったよな、あのときは――」

 しみじみと雅晴が呟いた瞬間、その光景は白い部分全体へと広がり、雅晴の視点は幼い頃の雅晴の視点と一体化した。

 

 ◆◆◆◆◆◆

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 もともとお互いの親の仲がよかった雅晴らは、幼い頃から出会う機会が多かった。物心が付いた頃には、既に一緒に遊ぶことが当たり前になっていた。

「い〜ち、に〜い、さ〜ん……」

 場所は、薗橋神社。三人で、「かくれんぼ」をしているときだろうか。岬も一緒に隠れる場所を探して走っている。

 秒数を数えているところを見ると、どうやら弘光が鬼らしい。

「えっと……、う〜ん……」

 雅晴は、直ぐ近くにある木の上によじ登ろうとしたとき、未だに敷地のど真ん中で隠れ場所に困っている那奈美を見つけた。

「――ろ〜く、な〜な……」

「うわわっ……」

 確実に出遅れたであろう那奈美を黙って見ておけず、雅晴は慌てて駆け出す。

「……ななみ、なにしたんだよ〜」

「あ、まさくん……」

 雅晴は、那奈美の腕を掴み、自分が隠れようとしていた木の近くの茂みに向けて走る。

「――きゅ〜う、じゅう!……も〜い〜か〜い?」

 弘光が数え終わったのは、雅晴が那奈美と茂みに隠れたのとほぼ同時だった。

「ま〜だだよ〜」

 直ぐに弘光へと返事をし、那奈美の方を向く。

「……ちゃんと、かくれろよ」

 雅晴は、直ぐに最初に計画していた木へとよじ登る。

「もうい〜よ〜!」

 そして、雅晴がそう叫ぶと、弘光が動き始めた。

 境内の裏や、木陰などを調べる。雅晴が居る木の下まで来たものの、上に居ることには気付かず、素通りした。

 そして、茂みに――那奈美が居る場所へと近付いていく。

 ――ガサッ

「(あ、あのばか……っ!)」

 那奈美は、弘光が近くに居ることに驚いたのか、体を動かしてしまった。それによって、草が音を立て、弘光の注目を集めてしまった。

「まったく……」

 雅晴は、わざと木から下りた。そして、足元の草をわざと踏み鳴らす。その音に気付いた弘光は、すぐさま雅晴を捕らえ、次に那奈美、岬を捕らえた。

「じゃあつぎは、まさはるがおにだな!」

「うん。じゃあ、かぞえるぞ?」

 雅晴が目を瞑ろうとした瞬間、那奈美が雅晴の前に回りこんだ。

「……ごめんね。わたしのせいで……」

 今にも泣きそうな表情で、申し訳無さそうに言う那奈美に、雅晴は笑顔で答える。

「だいじょうぶ。それより、つぎはみつからないようにな」

「……うん」

 嬉しそうな表情で頷き、那奈美は敷地の何処かへと走っていく。雅晴は今度こそ目を瞑り、秒数を数え始めた。

「い〜ち、に〜い、さ〜ん……」

 結局、雅晴が動き出した後に確認してみると、那奈美は先程の茂みと同じ場所に居た。だが、雅晴は気付かないふりをしておくことにした。那奈美は最後に捕らえ、最初に弘光を捕らえて、再び弘光に鬼の権限をなすり付けたのだった。

 この頃から那奈美は、雅晴に好意を抱いていたのかもしれない……。

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 ……それから数年を経て、雅晴の両親が他界した。そのときの那奈美は、岬と一緒に泣いていた。

 雅晴は今でも思っている――あのとき、弘光が居なかったら、那奈美を慰めることはできなかっただろう、と。

 亡くなったのは、雅晴の両親に他ならない。だから、最も悲しんでいるはずの雅晴が、どんな言葉を並べても、徒になるだけだったのだ――例え、涙を流していなかったとしても。

 雅晴の両親のことが一段落つき、中学に上がった頃、雅晴の病気が発覚した。岬は検査の付き添いで直ぐに知らせ、翌日になって弘光に伝えることにした。

 前日に電話で神社へと呼び出し、約束の時間の数分前に向かって待っていると、直ぐに弘光はやってきた。

「どうしたんだ?急に呼び出したりして」

 そのときの弘光はきっと、雅晴の口からそんな重大なことが告白されるとは思われなかっただろう。

 雅晴は弘光に軽く微笑んでから、一度深呼吸をしてはっきりとした声で言う。

「……これから言うこと、全部本当のことだ。大事なことだから、ちゃんと聞いて欲しい」

「お、おいおい……何かあったのか?」

 いきなりこんな態度に変わったのだから、疑問を抱くのも無理は無いと雅晴は思った。

「……ああ。聞けば分かる」

 雅晴は、弘光に自分が両親と同じ病を患っていることをかいつまんで説明する。終始、弘光は黙って耳を傾けてくれた。

「――きっと、俺はそう長くない」

「……まさか、な」

 だが、弘光は信じようとはしない。岬と同じように、冗談であることを望む。だが、皮肉にもそれは変えようのない現実だ。雅晴は、決して嘘は吐かなかった。

 やがて、弘光は言葉を失った。そんな彼に、雅晴は付け加えるように言う。

「だが、俺は生きることを諦めたわけじゃない。最期の最期まで、しぶとく生きるつもりだ」

 その言葉を聞いた弘光は、はっとして雅晴の表情を窺う。雅晴の表情は、とても穏やかだった。

「雅晴……、お前……」

「だから、今までと変わらず、過ごしてくれ」

 頭を下げ、心から頼み込む雅晴に弘光は心を打たれた。そして、気がつけば弘光は涙を流していた。

「弘光……」

 弘光は、雅晴の両肩を掴み、項垂れる。そして、瞳に堪った雫が地面へと落ちていった。

「……何で、何で泣かないんだよ……っ。辛くないのかよ……ッ!哀しくないのかよッ!」

「……辛いよ。今まで経験したことが無いくらい、辛い。だけど、泣いても、どうしようもないだろ?寧ろ、その時間が俺にとっては惜しい。だから、その時間も日常に費やしたいんだ」

 そう言った雅晴の表情は穏やかだった。それが、今まで泣いていた弘光に「このままではいけない」という気持ちを強く奮わせた。

「……雅晴、俺は……。俺は、どうすればいいんだ……?」

 泣き止んだ弘光に、雅晴は優しく答える。

「言っただろ?今までと変わらず、過ごしてほしいんだ」

「……それが、望みか」

 弘光はそう呟き、涙を拭った。そして、雅晴に微笑みかける。

「……任せとけっ!他に俺に出来ることがあれば、遠慮せず言えよ!」

「……ありがとう」

 雅晴は、自分の望みを聞いてくれた親友に感謝した。そして、遠慮せず言えという弘光に、彼は一つ頼みごとをすることにする。

「弘光。早速だが、一つだけ頼む」

「何だ?」

 それは――

「――このことは、那奈美には言わないでくれ」

 その願いに、弘光は耳を疑った。自分と同じ幼馴染だというのに、何故一人だけ伝えないのか。それでは可哀想ではないか、と。堪らず、弘光は雅晴に理由を問うた。だが、雅晴の答えには、彼も反論は出来なかった。

「……あいつは、何事にも一生懸命だから。一生懸命だと、今まで通りみたいに過ごせなくなるだろ?だからだよ。それに――」

 雅晴は、一旦照れ隠しで笑ってから、言葉を紡ぐ。

「――俺は、那奈美の笑顔が好きなんだ。だから、あいつの笑顔を守りたい。このことを聞いたら、今度こそあいつは笑わなくなってしまうかもしれない。……せめて、俺が生きている間だけでいいから」

 何故、そこまで笑顔に拘るのか。首を傾げた弘光は、雅晴に問うた。その問いに、雅晴は微笑しながら答える。

「笑顔を見ると、和むだろ?勿論、那奈美だけじゃなくて、岬と、お前のもな」

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  ◆◆◆◆◆◆

 

 ――笑顔が好き。

 それは、今でも変わらない。きっと、生きている間は絶対に変わらないだろう。雅晴は、そう思った。当然、菫と昴の笑顔も大好きだ。

 人の笑顔を見ると、自分も自然と笑顔になる。人に優しくされると、自分も優しくなれる。雅晴は、そのことをずっと胸に刻み続けてきた。だから、ずっと明るい人間であれた。

 しかし、雅晴はその反面、常に那奈美のことで悩んでいた。

 ――那奈美の笑顔を守りたいから、知らせない。だけど、本当は心の奥底で知って欲しい、という欲求だ。

「……俺は、何を考えているんだろうな」

 ――周りが暗闇へと変わり、静寂に支配される。

 何故、知って欲しいと思っていたのかは分からない。自分でも矛盾していると常に雅晴は思っていた。

 そして、昼休みに屋上で一緒に昼食を摂ったときもそうだ。告白されて、那奈美を悲しませないために断ったというのに、雅晴は、告白されたことを内心では嬉しく思っていた。

『ずっと、私の傍に居てください』

 ――ずっと、傍に居たい。

『私は、駄目なんですか?』

 ――駄目じゃない。寧ろ、勿体無いくらいだ。勿論、今まで一度も嫌に思ったことは無かった。

 なのに――

「なのに、俺は……」

 情けなくて、悔しくて……雅晴は胸を掻き毟られる想いだった。

 ――生きたい。

 ――皆と一緒に、生きたい。

 ――皆の笑顔を見て、あの場所で生き続けたい。

 でも、それは叶わない望み。決められた運命は、何をしても変わらない。

 もしかしたら、今この夢が覚めたら、そこはあの世かもしれない。そんな不安も過ぎる。

 ――でも、帰りたい。

 ――大好きなあの場所に、帰りたい。

 ――そして、もう一度皆に逢いたい。逢って、話をしたい。

 その想い一つ一つが、雅晴の弱気な心を打ち崩していく。

 一体、いつまでこの居たくもない場所に居なければならないのか。自分の居たい場所は、こんな静寂の世界じゃない。雅晴は、自分を奮い立たせる。

「……こんなの、俺が望む結末じゃない!」

 ――生き抜く。生き抜いてみせる。

 例え、その先に苦しみが待っていたとしても、こんな最期は飾りたくはない。

 皆に、『さよなら』を言ってない。岬と菫と弘光に、『ありがとう』を言っていない。昴の役に立ってあげたい。……そして、那奈美に本当のことを伝えたい。

「まだ、生きる!あと僅かでもいい!!」

 自分のことは、どうでもいい。だけど、それでも生きたいという気持ちは強く、昂っていく。

 ――今まで自分をよくしてくれた、皆のために……っ!

 その想いが通じたのか、雅晴の意識は、まるで泡沫《うたかた》のように浮上していく。その先には、眩い光が見える。

 そして、彼の意識は、覚醒へと向かっていった。

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 瞼を開くと、真っ先に視界に飛び込んで来たのは、いつも見ている真っ白な天井だった。背中には、いつもの病床の感覚。どうやら、あの後誰かが病院に運んでくれたようだった。

「雅晴さん……っ!」

 涙を湛えた那奈美が、声を震わせて心配そうな表情で雅晴を覗き見た。雅晴は、すぐに返事をしようとする。

「……ぁ……ぃ」

 だが、喉が渇いて上手く声が出せない。そんな雅晴を見て、那奈美は直ぐにミネラルウォーターの入ったペットボトルを差し出す。そして、飲み口からストローを挿し、先端を雅晴の口へと運んだ。雅晴は、黙々とそれを飲んだ。

「……はぁ。那奈美……」

「……良かった。あのとき、気付いて戻ってなかったら、今頃どうなっていたのか……」

 涙を拭う那奈美を見て、雅晴は本当に自分のことを心配してくれていたのだろうと思い、申し訳なく思った。しかし、感謝の想いの方が強い。

「ありがとう……。ごめんな。もう、大丈夫だから」

 上体を起こし、雅晴は那奈美に微笑みかける。その瞬間、病室の扉が開いた。

「……兄さんっ!」

「雅晴……っ!」

 岬と弘光が、心底心配していたであろう表情で駆け込んできた。雅晴は、二人にはいつもの声の調子で微笑みかける。

「おう、心配かけたな。もう大丈夫だ」

 右腕には点滴を打たれているものの、それ以外は至って健康そうに見える雅晴を見て、岬と弘光は、ほっと胸を撫で下ろした。

「あ、雅晴くん、やっと起きた……」

 どうやらカルテとバインダーを取りに行っていたらしい菫が、遅れて病室にやってきた。だが、見舞いに来た知り合いは、もう一人居た。

「……無事か」

 ――昴だ。彼女は、静かに病室へと入り、扉を閉める。

「どう?どっか、悪いところとか無い?」

 心配そうな表情を滲ませつつも、自分の役割を全うさせようと頑張っている菫に、雅晴は答える。

「大丈夫です。できれば、こいつを外したいですけど」

 雅晴が点滴に向けて会釈すると、菫は心配そうな表情を消して、くすりと笑う。

「駄目よ、外しちゃ。それは鎮静剤じゃなくて、栄養剤なんだから〜」

「そんな気はしてましたけど。ということは、今夜は飯抜きですか」

 そう言った後、雅晴はふと疑問に思い、「どこに行っていたんだ」と、岬と弘光に問う。その返答は、雅晴のために飲み物を買いに行っていたというもので、雅晴は礼を言って話題を終わらせた。

「……雅晴。一つ、いいか?」

 昴が、よく通る声で言った。そんな昴に、雅晴は快諾の言葉を返す。すると、昴は一旦周りの様子を窺い、口を開いた。

「後でいいから、二人きりにしてほしい。大事な話がある」

 心当たりが全く無い雅晴は、首を傾げた。だが、昴の表情から憶測してみると、真剣に言っているということが理解できたので、承諾することにした。

 そして、雅晴は那奈美の様子を窺う。

「………」

 最も近い位置に居るので、彼女の表情がよく見て取れる。その表情は、不安そうな、悲しそうな表情をしていた。

 無理も無い。彼女は、病気のことを伝えられて居ないのだから。雅晴は、もう覚悟を決めていた。

 ――もう、隠すことはやめよう。と。

「……皆。ちょっと、俺の頼みを聞いてくれ」

 雅晴が言うと、全員の注目が彼に向く。そして、雅晴は口を開く。

「那奈美と、二人きりにしてくれ。昴は、終わった後でいいか?駄目なら――」

 皆まで言う前に、昴は雅晴に返す。

「支障はありません。穂野村先輩、お手数ですが、話が終わったら、私を呼びにきてください。ラウンジに居ますから」

 そう言って、昴は病室を後にした。

「それじゃあ、私も外すね。何かあったら、すぐにナースコールしてくれれば駆け付けるから」

 菫も、雅晴に微笑みかけてから退室する。

 岬と弘光も、一言挨拶をしてから病室を出た。

 真っ白な部屋には、雅晴と那奈美だけが残された。

「……とりあえず、座ってくれ」

「……はい」

 那奈美は、雅晴に促されるまま、病床の縁に腰を下ろした。

「まず、何でこうなったか、だけど……俺は、病気なんだ――父さんと母さんと、同じな」

「……そうですか」

 あっさりと答えた那奈美を見て、雅晴は信じられないのだろうと思ったが、那奈美の言葉を聞いて、度肝を抜かれることとなる。

「――やっぱり、そういったことだったんですね」

「え?」

 思わず素っ頓狂な声を漏らした雅晴に、那奈美は微笑しながら答える。

「予想はできてました。信じてはいませんでしたが……。雅晴さんの様子が何となく変わったような気はしてたんです。まるで、私を避けるようにしてましたから」

 そんなに大袈裟な避け方をしたかと雅晴が尋ねると、那奈美は否定した。

「何となく、です。そして、雅晴さんが私を避ける理由で考えられそうなことは、自分の為じゃなくて、私の為、なんですよね?」

「那奈美、お前……」

 どこか切なげに微笑み、那奈美は雅晴の手を、両手で優しく握る。

「教えてください。予想と、事実は違います。私に教えなかった、理由を」

 端から隠す理由など無い。雅晴は、那奈美の眼を真っ直ぐに見て語る。

「……お前を、悲しませないためだ。俺は、お前に言ったら、笑わなくなるだろうって思ってた。優しすぎるくらい、優しいから……。それが怖くて、今日までずっと隠し続けて、親友面して、挙句の果てに傷つけた……」

 雅晴は堪えることができず、那奈美に向かって深々と頭を下げた。

「すまない、那奈美っ!!俺は……、俺はずっとお前を騙し続けてきたんだ!こんな俺を、許してくれ……っ!」

「……っ」

 那奈美は、握ったままの雅晴の手を、自分の胸元へと導く――そんな彼女の目には、涙が滲んでいた。

「雅晴さんこそ……、優しすぎますよ……っ」

 一つ、また一つと雫は落ち、那奈美は声を震わせながら、それでも懸命に話を続ける。

「前の私なら……、きっと、雅晴さんの予想した通りになっていたと思います……。今は……、大丈夫ですけど……っ。だから、ありがとう……、ございました……っ!」

「……那奈美ッ!」

 堪らなくなり、雅晴は那奈美を抱き締めた。華奢な身体が、雅晴の腕にすっぽりと収まる。突然の行動だったにも関わらず、那奈美は全く驚くことも拒むこともなく、その抱擁を受け入れる。

「俺、まだ一緒に居たい……。離れたくなんて、ない……ッ!」

 痛いぐらい強く抱き締めているというのに、那奈美は拒むどころか、寧ろその抱擁を求めていた。

「私も、離れたくない……っ!このまま……、このまま雅晴さんと一緒に、平凡な日々を歩んで行きたい……っ!」

 雅晴の首の後ろへと手を回し、那奈美は雅晴との密着率を上げる。僅かな隙間も、埋めるように。互いの熱を、鼓動を、呼吸を、通じ合えるように。

 ――しかし、どれだけ近付いたとしても、二人の距離は変わらない。変えることは出来ない。この、小さな距離《リトル・ディスタンス》は、遠ざけることはできても、近づけることは決して出来ない。そう分かっていても、互いに抱き合うことを止めることはできなかった。例えそれが、衝動的で、徒労な行動だったとしても。

「……雅晴さん」

 一体どれだけの間、抱き合っていたのだろうか?那奈美が呟くように雅晴を呼び、彼はそれに答える。

「私……、もうこのことでは泣きません……。雅晴さんは泣かないのに……、自分が泣くのは嫌なんです……。心配を、かけたくもないですし……」

「那奈美……」

 那奈美は、にっこりと優しげに微笑む。

「だって……、こうして雅晴さんと一緒に居ることが……、幸せなんですから……」

 そんな那奈美の想いが嬉しくて、それでも申し訳なくて、雅晴はただ彼女を強く抱き締める。

 二人は、永遠とも思えるような刹那が、堪らなく幸福だと思えたのだった。

 ――互いの温もりを共有できる、刹那が。

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 それから、どれだけ経ったのだろうか。那奈美は時計を確認して、残念そうにしつつも微笑した。

「本当はもっと居たいですけど……、両親が心配するので、今日はもう帰らないといけませんね……」

 雅晴も時計を見ると、既に夜の八時を廻っていた。

「そうだな。家族は、誰よりも大切な人だ。心配させないよう、帰らなきゃいけないな」

 互いに別れが名残惜しく、再び病室に沈黙が下りる。那奈美も、立ち上がってはいるものの、どうも雅晴と別れることが嫌なようだ。

 そこで、雅晴はどうにかしようと話題を変えることにした。

「那奈美、言い忘れていたけど、頼みたいことがあるんだ」

「頼み……、ですか?」

 雅晴は頷き、続ける。

「今まで通り、俺と普通に過ごして欲しい」

 那奈美に真実を告げたが、雅晴は決して考えを曲げたわけではない。今でも彼にとっては、現実から目を逸らしている時間が惜しい。

 ――最期の瞬間まで諦めない。それは、鋼よりも堅い、彼の決意だ。

「……はい。約束します」

 微笑み、那奈美は右手の小指を差し出す。雅晴は、その小指に自分の小指を絡める――誓約の証となる、「指きり」だ。

 指きりを終えると、那奈美は深呼吸をしてから病室の扉へと手を掛ける。

「では、また明日。ラウンジに居るんですよね、柊さん」

「ああ。よろしく頼む。それから、おやすみ」

 雅晴が微笑を込めた挨拶をすると、那奈美は笑みを返し、病室から退室した。そして間も無く、昴が入ってくる。

「悪い。待たせたか?」

「問題ない。それより、話を進めるぞ」

 昴は雅晴の目をじっと見詰め、話を紡ぐ。

「……前に言ったこと、憶えているか?」

「前?」

 恐らく、家まで運んだときのことを言っているのだろうと雅晴は解釈した。

「えっと……『信じてくれ』、だったっけ?」

「ああ。それだ」

 憶えていたことに安堵したのか、昴は小さく息を漏らした。だが、彼女の話はこれで終わりではない。

「それは、今でも変わらないか?」

「勿論」

 即答した雅晴に、昴は追求するように尋ねる。

「私が、世界を歪ませかねない鬼に勝つ、と言ってもか?」

「……どういう意味だ?」

 雅晴は首を傾げ、昴はそんな彼を見て乞うような表情で言う。

「どんなことをしようとしても、どんなことがあっても、信じて欲しい。ということだ……」

 その表情に、雅晴は堪らず戸惑った。本気で言っていることが手に取るように分かったからだ。だが、彼は同時に気になることがあった。それは、信頼の必要性である。何故、昔から仲が良い岬ではなく、自分なのか、だ。

「……理由を、聞かせてくれないか?」

「理由……」

 昴は、どこか難しそうな表情をした。そして数分の間顎に手を当てて、そのまま黙り込んでしまう。

「言えないか?」

「いや、そうじゃない。だが――」

 表情を元に戻し、昴はいつもの綺麗な姿勢に直る。

「――……時間が欲しいんだ。そうしたら、きっと言えると思う……」

「そっか」

 変に緊張させるのはよくないと思ったので、雅晴は追求を自重することにした。

「……これから、私は文化祭までは学園には行かない。己の鍛錬に、尽力する」

「鍛錬?」

「鬼斬り役の鍛錬だ」

 自らの手に眼を落とし、昴はどこか強い声で言う。

「色々と、覚悟ができた。……私も、あなたと一緒で、黙って立ち止まっていることは許されないのだということが、分かったんだ」

「……そっか」

 文化祭まで、残すことあと三日。自分の生命が、せめて文化祭までは持って欲しいと、雅晴は心の底から祈った。

「それでは、また。鍛錬は今夜から始めますから」

「昴なら、きっと上手くいくよ。だから、頑張れ」

 少々キザかと思ったが、雅晴は微笑しながら昴に言った。その激励を受けた昴は、どこか嬉しそうに微笑を返す。

 その表情は、とても男嫌いとは思えない程、至極自然な微笑みだった。そして、昴は扉の前で雅晴に頭を下げ、簡単に挨拶をすると踵を返し、綺麗な姿勢のまま退室した。

「……鍛錬、か」

 雅晴は、昴を家に送って行ったときのことを思い出した。

『幾ら頑張っても、無意味だ……』

 そんなことを言っていた彼女が、前を向いて、自分を磨くことを選んでいる。そんな、成長とも思える変化を実感し、雅晴は胸が温かくなったように感じた。

「……まだ、大丈夫だよな?」

 瞳を閉じ、雅晴は自分に問いかける。

 死は覚悟している。だけど、生きたいと思う気持ちは強い。前の雅晴は、貪欲のように思えて認めていいのかどうか迷っていた。しかし、那奈美に全てを打ち明けてからは、その想いは持っていてもいいものだという結論が出たのだった。

 だからこそ、今まで以上に生きたい。例え微々たる差だったとしても、生きて思い出を作って行きたい。

「――雅晴くん」

 物思いに耽っていたものだから、突然の訪問者に雅晴は少々驚いてしまった。

「す、菫さんですか……」

 何の用で来たのか分からなかったが、菫が点滴という単語を口にしたところで、大体の察しはついた。雅晴は、点滴の針が打たれている右腕を差し出す。菫は、何も言わずにその腕を取り、丁寧に点滴の片付けに取り掛かった。

「……何か、あったんですか?」

 どうも元気が無さそうな菫を見て、雅晴は心配げに尋ねた。

「うん?特には無いよ……?」

 何となく、菫が疲れを溜め込んでいるのではないかと雅晴には思えた。肉体的なものはともかく、精神的な疲労を。

「あまり、無茶はしないでくださいよ。疲れたら、ちゃんと休んでください。看護士が病気になったりしたら、洒落になりませんし」

「ははは……。気をつけるよ……」

 菫は片付けを終えると、そそくさと病室を去っていた。手持ち無沙汰になった雅晴は、就寝準備をすることにした。

 明日も、万全な姿勢で皆と過ごせるように、今日は早めに寝ることにしたのだ。

 雅晴は、菫のことを心配しながらも、残された時間を有効に過ごすために眠りに就いた。

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第7章:皆と一緒に…

 

 

文化祭前日の学園生活は、二日前とあまり変わらなかった。那奈美の弁当を幼馴染四人組で食べ、下校も同じ四人組だった。

 雅晴は、一人神社へと向かい、昴の応援をしてから病院へと帰った。

「ふぅ……」

 日記を書き終えた雅晴は、ベッドから降りて伸びをし、じきに来るであろう夕食を待つ。病気が発覚してからというもの、彼は自分で日記を書くように習慣付けていた。

 綴れども綴れども、文化祭が楽しみである気持ちばかり。読み返してみて、そんな自分の文章に苦笑し、雅晴は今まで書き綴ってきたページを遡っていた。

「雅晴くん。ご飯ですよ〜」

「はい」

 いつものように、扉から菫が夕食を運んできた。だが、どうも雅晴は菫の様子がいつもと違うような気がしてならなかった。

「……どったの?お姉さんの顔に、何か付いてる?」

「いえ……」

 気の所為かと思い、雅晴がベッドの簡易テーブルに戻ろうと思ったとき。

「す、菫さん!?」

 立ち眩みでもしたのか、菫がふらりと一瞬だけ体勢を崩した。雅晴は、慌てて彼女を支える。

「大丈夫ですか?」

「あ……うん、平気」

 雅晴は、菫の額に掌を重ねる。熱は無いようだった。しかし、菫の目の下にはうっすらとしたクマが見てとれた。

「……疲れているなら、休んでください。看護士が患者さんに心配されては、いけませんよ」

「あはは、そうだね……」

 菫は、雅晴の助けを借りてゆっくりと立ち上がる。

「………」

 違和感の正体に気付いた雅晴は、すぐに自分の夕食を受け取る。

「自分で運びますから。菫さんは、関係者に説明して、休んでてください」

 雅晴が真剣な表情で言うと、菫は瞳を閉じて深く息を吐いた。そして、再び開いてから微笑し、口を開く。

「……そうするね」

 だが、菫はそのまま雅晴の病室へと足を進めた。

「……菫さん?」

 雅晴は訳が分からず、簡易テーブルの上に夕食を置いて、その場で菫へと向き直る。すると菫は、窓際へと足を進めていた。

「ここが一番、落ち着くんだ」

 窓を開け、冷たいが新鮮な空気を取り入れて、菫は微笑む。

「病室が、ですか?」

「……ちょっと、違うかな」

 そう言って、菫は雅晴の正面へと移動し、真っ直ぐに雅晴を見詰めた。少しだけ雅晴よりも背の低い菫は、やや上目遣いになる。

「――雅晴くんの居る場所が、落ち着くの」

「俺の、居る場所?」

 うんと頷き、菫は嬉しそうに微笑する。

「でもなぁ〜。雅晴くん、モテモテでしょ?私なんか眼中に無くても、選り取り緑だものね〜」

「……何の話ですか、それは」

 苦笑しながら雅晴が言うと、菫はくすりと笑った。

「――ねえ、雅晴くん」

 先程までとは違い、菫は真剣な眼差しを雅晴へと向けてきた。

「雅晴くんは、奇跡って信じる?」

「奇跡か……」

 うーん、と雅晴は考え込んだ。奇跡といっても、色々なものがある。だが、真っ先に雅晴の脳裏に過ぎったのは、信じるか否かではなかった。

「俺は、奇跡は信じるものではなくて、起こすものだと思うんです。信じて待っていても起きない。だから、自分で起こすんですよ。努力をして」

 雅晴の言葉に、菫はそんな考え方があるのかとでも言いたげに目を丸くしていた。そして、考え込むように顎に指を当て、呟く。

「自分で……、起こすもの……」

 暫く悩んでいた菫だったが、あっと何かを思い出したように呟くと、次第にいつもの笑顔へと変わっていった。

「……そっか!」

 そして、菫は雅晴の箸を取り、主菜の野菜炒めを雅晴の口元へと運ぶ。

「ありがと!お蔭ですっきりした!だから、これはお礼ね!あ〜ん♪」

「まぁ、それはよかったですが……」

 雅晴は、言っても止めないであろう菫に苦笑しながら、菫が箸で掴んでいた一口分の野菜炒めを口に運んだ。

「は〜い、次〜♪」

「またですか……」

 それから暫くの間、菫による餌付け作業とも思える夕食の時間が続いていた……。

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 文化祭が開かれるからか、心なしか今朝はいつもより賑やかに感じる。

 いつものように診察を終え、岬と一緒に病院を出た雅晴は、既に病院前で待っていた那奈美と弘光に向けて手を振った。

 だが、すぐに雅晴はいつもと違うメンバーに気付いた。

「その……、おはようございます」

 頬を染めた昴が、ちらりと雅晴を見てから、頭を四十五度に綺麗に下げ、すぐに視線を逸らしてしまう。

「ああ、おはよう」

 相変わらず綺麗な姿勢で立っているというのに、桃色に染まった頬の影響で、いつものしゃんとした雰囲気が打ち消され、どこか微笑ましさのようなものを雅晴は覚えた。

「昴さんも、一緒に文化祭を廻りませんか?」

 那奈美が優しげに問いかけると、昴は一瞬眼を丸くさせた。

「い……、いいのですか……?」

「私は大丈夫ですよ」

 穏やかに微笑み、那奈美は答えた。それに倣い、弘光も頷く。

「私は、最初から昴ちゃんを誘おうと思ってたし」

 微笑む岬に目を向け、昴は安堵したように微笑した。やはり、昴にとっては幼馴染で親友である岬が最も落ち着くようだ。

「それじゃあ、昴さえ良ければ、このメンバーで廻るってことだな」

 口の端を持ち上げるようにして雅晴が微笑むと、昴以外の三人は頷いた。

「どうする?」

「私は……」

 雅晴の表情を窺うようにちらりと視線を送ってから、昴は地面を見つめた。

「……本当に、いいのですか?」

 昴は怯えているとも思えるような弱々さで訊ねる。そんな彼女の肩にそっと手を置き、雅晴は穏やかに微笑む。

「何度も言わせるなよ。お前さえ良ければ、一緒に廻ろう」

「先輩……」

 雅晴の言葉に、昴は照れながらも嬉しそうに微笑んだ。

「す〜ばるちゃ〜ん?」

 頬を染めている昴を見て、岬はつんつんと肩を突付いた。昴は、それに反応して背筋をぴくりと一瞬だけ伸ばした。

「は、はい……っ!?」

「嬉しそうだね〜。もしかして、兄さんのこと――」

「わ、わーわぁーっ!!」

 続けようとした岬の言葉を、昴はわざとらしく騒いで相殺させた。その光景を見ていた那奈美と弘光は苦笑を漏らしていたが、雅晴は出会ったばかりの頃との違いを比べ、不覚にも可愛いと思いながら一人微笑していた。

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 学園に到着してから朝のホームルームを終えて、雅晴は那奈美と弘光と一緒に岬と昴の教室へと向かった。どうやら二人は自分のクラスが開く催し物の当番だそうだが、シフト方式なので、現在の時間が終わればあとはフリーだそうだ。

「……しかし、二人のクラスは一体何をするんだろう?」

「あれ?雅晴さん、パンフレット見てないんですか?」

 何気ない雅晴の言葉に、那奈美は意外そうな反応を示した。

「いや、全く」

 素気ない表情で答える雅晴に苦笑しながら、那奈美は手に持っていたパンフレットを雅晴に渡す。

「ん……、なんだこりゃ?」

 やたらと『和』を意識したような絵柄で、イラストも装束を来た二頭身少女が描かれている。そして、見出しには行書ででかでかと催し物の名前が書かれていた。

「巫女喫茶……?」

「はい。ほら、都心で流行っているじゃないですか。それの再現ですよ」

「ほー……」

 あまり流行やそういった文化に特別な興味を持ったことが無い雅晴は、とりあえず喫茶店で間違いないと解釈しておくことにした。

「あれだな。クラスの可愛い女子をコスプレさせるわけだ」

「まぁ、看板娘みたいなもんか」

「ちょっと、違う気がするが……まぁ、強《あなが》ち間違いではないな……」

 弘光と他愛無い会話を交わし、那奈美はそれを聞いてくすりと笑う。そして、雅晴は再びパンフレットに目を落とし、ふとあることに気が付いた。

「……なぁ、那奈美」

「はい?」

 パンフレットと睨めっこをしていた雅晴は、少々悩んだ後に顔を上げ、那奈美へと問いを向ける。

「その……、巫女喫茶は分かったんだが、何故にその隣のクラスが、これをやっているのか……」

 雅晴が指差した先には。『メイド喫茶』、そして『執事喫茶』という、いかにもゴシック系なレース柄と、巫女喫茶と同じような二頭身キャラクターが描かれていた。その催し物は、両方とも岬と昴のクラスの近くだ。

「……一年は喫茶店しかやる気が無いのか?」

「あ、あははは……」

 苦笑を返す那奈美を尻目に、弘光の目はどこか怪しく笑っていた。それに気付いた雅晴は、思わず弘光に行きたいのかと尋ねる。その問いに対して、弘光は大きく頷いた。

「無論!さて、萌えに行くかっ!!」

 弘光の言葉に、雅晴と那奈美はほぼ同じタイミングで口を開いた。

『お断り――』

「――する」

「――します」

 二人の言葉に気圧《けお》された弘光は冗談だと苦笑したが、暫く経った後に「行きたかったなぁ……」とぼやき、大きなため息を吐いていた。

 四階へと上がり、それぞれのコスチュームを纏った女子生徒が客引きをしているのが目に入った。

 雅晴は、他の階層とは全く違う廊下の雰囲気を感じながら、岬と昴のクラスへと、那奈美と弘光と共に足を進めた。

「いらっしゃいませーっ!!」

 出入り口付近へと辿り着くと、直ぐさま看板娘と思われる女子生徒に笑顔を向けられた。室内をちらりと窺うと、白い壁には木枠と何かの紙で作られた障子やら、緑色の竿のようなものを束ねて作られた、竹のような装飾品などが目に入った。

 そして、何よりウェイトレスや軽食調理を担当している者の服装は皆、白い装束と朱色の袴を纏っている。

「……見事に巫女だな」

「おぉー、いいねぇ〜……」

 弘光は一人楽しそうに呟いたが、那奈美がジト目で睨むと、前言撤回とでも言いたげに静かになった。

「とりあえず、入ろうか。どうせ皆揃ってから廻るんだし、折角来たんだからさ」

「そうですね」

 雅晴の提案に那奈美が賛成すると、弘光がほっと胸を撫で下ろしていたのが目に入った。そして、小さくガッツポーズを取っていて、雅晴は口の端を持ち上げるようにして微笑した。

「あの〜、すみません」

 雅晴達とは逆方向を向いていた、ポニーテールの髪形をした巫女喫茶の客引きに雅晴が声を掛ける。すると眩しい笑顔を向けて、こちらにとことこと駆けて来た。

「は〜い!三名様で――あっ!」

 その客引きは、雅晴に気付いた途端、驚きの声を上げた。

「天宮先輩じゃないですか!来てくれたんですねっ!!」

 やたらと元気一杯なその娘は、雅晴の腕を取ると、ぶんぶんと縦に振った。どことなく岬に似ている気がすると雅晴は思った。

「天宮先輩なら、うちは大歓迎ですよ!ささっ、どうぞっ!!」

 客引きに促され、雅晴達は一言挨拶をしてから喫茶店へと変貌を遂げた教室へと足を踏み入れた。

 主に男子生徒の姿が目立つが、店内の様子からして、なかなか繁盛しているようだった。

「はい、メニューです。好きな時に、お申し付けくださいね」

 すぐにテーブルへとやってきたウェイトレスからメニューが書かれたプリントを受け取り、雅晴は一言礼を言ってからプリントを眺めた。雅晴は全く悩むことなく、自分が注文するものを即決する。

「俺、緑茶」

「雅晴さんらしいですね〜」

 メニューを眺めていた那奈美がくすくすと笑った。

「じゃあ、俺も緑茶にするか。那奈美ちゃんは決まったかい?」

「うーん……。この際、私も緑茶にしますか」

 結局三人とも緑茶ということで、雅晴は近くを通った髪の長いウェイトレスを呼んだ。

「すみませ〜ん」

「はい。ご注文です――かっ!?」

 振り向いた瞬間、そのウェイトレスは目を丸くした。

「ま……、雅晴先輩……」

 ぱくぱくと口を動かし、頬を染めてしまうその娘は、間違いなく昴だった。

 いつものように姿勢が良い上に、家が神社というだけあって、巫女装束の恰好が板に付いていると雅晴には思えた。

 そして、姿勢は良いのは勿論、彼女の着ている装束は、所謂コスプレ衣装ではなく、本物の巫女装束であるため、他のウェイトレスとは、どこか雰囲気が異なっていた。

 ――まさに、本物の巫女がそこにはいた。

「よう。似合ってるぞ」

 雅晴が微笑しながら言うと、昴は耳まで赤く染めた。だが、彼女はすぐに我に返り、依然頬を染めつつも仕事を続ける。

「……ご注文を、どうぞ」

「緑茶三つで」

「少々お待ちを……」

 緑茶を持ってくるように準備をしに行く昴は手と足が同時に出ていた。そんな彼女の背中を見詰め、那奈美はくすくすと笑いを漏らした。

「柊さんって、照れ屋さんなんですね」

「そうなのか?」

 そういったことに対して鈍い雅晴は首を傾げ、それを見た那奈美は再び小さく笑った。

「はい、緑茶三つです。熱いので気をつけてくださいね、兄さん」

 ツインテールを揺らしながら緑茶を持ってきた、巫女の恰好をした岬――厳密にはウェイトレスだが――は、にこやかに雅晴へと笑顔を向けた。

「おう。ありがとうな」

「ところで兄さん。この恰好、似合ってる?」

 その場でくるりと一周し、岬は雅晴に自分の装束姿を見せる。ふわりと袴が揺れ、同じ様に二つの尻尾も踊るように揺れた。

 雅晴は、嬉しそうに尋ねる岬に優しく微笑む。

「ああ。凄く似合ってるよ」

「ふふっ、ありがと!」

 それだけ言って、岬は雅晴達のテーブルを後にした。雅晴は受け取った緑茶を那奈美と弘光に配り、自分の緑茶の湯呑みを傾けた。

 茶葉を選んだ人と、淹れた人が茶に五月蝿いのか、緑茶は雅晴が今まで味わった緑茶を遥かに凌駕するほど上手かった。

 雅晴だけでなく、那奈美も弘光も茶の味に驚きと幸せを感じていた。

 さすがは『和』を意識しているだけある、と雅晴は一人で納得しながら、サービスで振舞われた最中《もなか》を齧り、口の中に広がる茶そのものの美味をゆっくりと堪能していた。

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「結構楽しかったなぁ〜」

「私は……、緊張しました……」

 巫女喫茶の当番が終わり、制服に着替えてきた岬と昴と共に店を出た一同は、廊下を歩きつつ談笑していた。

 いつも元気な岬は楽しそうだが、照れ屋な昴は、まだ頬が赤かった。

「ところで、まずは何処に行くんだ?」

 雅晴の問いに、一同はうーん、と首を捻った。買い食いをするという選択肢が無いでもないが、如何せん昼食には早すぎるため、恐らく全員一致で却下されるだろう。

「……それじゃあ、一人ずつ希望を出していこうぜ。俺はメイド喫茶!」

 真っ先に希望を述べた弘光に、一同は真顔で即答した。

『却下』

 その言葉に気圧された弘光は、残念そうに肩を落とした。

「……だよな」

「まぁ、弘光の希望はともかく、一人一人希望を募るのはいいな。那奈美は何処に行きたい?」

「え?私……、ですか……?」

 何気なく尋ねた雅晴に、那奈美は少々戸惑った。彼女は、巫女喫茶に居る間、会話をしながらもずっとパンフレットと睨めっこをしていたので、雅晴はまだ悩んでいると解釈し、焦らなくても良いと促すことにした。

「まだ決まってないなら、急がずにゆっくり考えてくれれば良いよ。岬はどうだ?」

「これ!お化け屋敷!!」

 パンフレットを指差し、嬉しそうに言った岬を見て、確か二年生の催し物だったなと雅晴は思い出した。

「いいな、それ。昴は?」

 小さく笑い、雅晴は昴へと問いを向けた。だが、昴は考える間も無く口を開いた。

「……雅晴先輩と……、一緒で……」

「そういうパターンか……」

 これといって行きたい場所を決めていなかった雅晴は、思わず頭を掻いて悩んだ。自分達のクラスはただの展示だし、岬が言ったようなアトラクション的なものは、これといって目を引くようなものが無かったのだ。

 どうしたものかと首を捻り、パラパラとパンフレットを捲っていた雅晴は、とあるページに書かれていたものにふと目を引かれた。

「(プラネタリウム……?)」

 どうやら、一般的なプラネタリウムの再現をするらしく、飾りには星やら宇宙を模したイラストが描かれていた。一応、最後のページまで一通り目を通してみたが、他に興味を持ったものは特に無かったので、雅晴は即決した。

「それじゃあ俺は、このプラネタリウムで」

「あ、いいですね、それ」

 雅晴がパンフレットのページを指差しながら言うと、那奈美は微笑みながら言った。

「私も、決まりましたよ。これです」

「どれ……?」

 那奈美の手元にあるパンフレットのページを見て、雅晴はほうと納得したような呟きを漏らした。

「『リトル・ディスタンス』……演劇だな。どんな内容だ?」

「海に面した田舎町で、幼馴染の男女の恋を描いた物語です。男の子の方が、家の事情で引っ越してしまうんです。僅かな時間で、精一杯の思い出を作る、と書いてありますよ」

「ほ〜……」

 女子が好みそうな内容だな、と雅晴は思った。話を聞いていた岬は興味津々といった様子で、お化け屋敷よりも楽しみにしているように見えた。昴は顎に手を当て、考えるような仕草をしているが、興味を持っている様子が伝わってきた。

「(まぁ、他に当てもないし……いいよな)」

 内心、少しだけ興味もあったので、雅晴は演劇を見に行くことを決めた。だが、演劇の開始時間までは、まだ時間がある。

「こいつが始まるのはまだ時間あるから、それまでどこか廻ろうか。もうすぐ始まるのは……俺が言ったプラネタリウムだな。お化け屋敷は常に開放されてるし、時間もあるからプラネタリウムの後に行くのでどうだ?」

 雅晴の提案に女子一同は異議無しと深く頷いた。弘光は渋々といった様子で頷き、メイド喫茶の方をずっと眺めていた。

「(そんなに行きたかったのか……?)」

 雅晴は、長期休暇にでも時間を作って都心の方で個人的に行くといいと弘光に言い聞かせた。そして、一同を連れてプラネタリウムを公開している教室へと足を進めた。

-15ページ-

 プラネタリウムとお化け屋敷を経て、雅晴達は演劇が開かれる、体育館へと足を進めていた。

 プラネタリウムは、部屋中に暗幕をかけて、真ん中に手作り感溢れるセロファンと黒い厚紙で作られた球体から光が漏れ、天井や壁に瞬く星が映し出されていた。

 予想よりもしっかりとしていたので、雅晴達は暫し宇宙の話に聞き入っていた。……天の川の話で女子が盛り上がっていたのは、言うまでも無いだろう。

 お化け屋敷はというと、雅晴が想像していた通りの光景が広がっていた。真っ暗な部屋に、黒のポリ袋や、白い布などで装飾した人が歩いていて、ダンボールで作られた墓石などが飾られていた。地面には濡れ雑巾が敷かれており、どうやらこれのために素足での入場に限定していたようだった。

「しかし、あれだな。君らは何故俺じゃなくて、雅晴とペアでお化け屋敷に入りたがったのかが謎だ……」

 弘光が視線を送りながら言ったが、女子一同は言葉と共に左へ受け流した。

 首を傾げながら呟いた弘光の言う通り、女子一同は雅晴との入場を望み、雅晴は交代でお化け屋敷を廻ることになった。弘光と入りたがる者は居なかったので、雅晴がペアを組み、計四回廻ることになったのだった。

「さすがに飽きるぞ、四回は……」

 しっかりと聞いていた雅晴は、ため息混じりに呟いた。

 というのも、お化け屋敷はペア限定で、必ず二人一組で手を繋がなければ入れなかったのだ。恐らく、恋する男女を誘うために企画者が謀ったのだろう。

「わ、私は……、一回で充分です……」

 苦笑しながら答える那奈美に、雅晴はお化け屋敷での那奈美の状況を思い出しながら微笑した。

「那奈美は、昔からああいうのは苦手だもんな」

 入場してから終始、那奈美は弘光の腕を掴んで小さくなっていた。稀に訪れる脅かし役や、地面の濡れ雑巾に悲鳴を上げる彼女を見て、雅晴はこっそりと噴き出していた。

 岬は終始楽しそうにしていて、全く怖く無さそうに怖いと叫び、脅かし役が飛び出してきても腹を抱えて笑っていた。

 昴はというと、本物を知っているためか終始冷静だったが、それよりも雅晴と手を繋ぐことでに緊張していた。だが、何となく嬉しそうな表情をしていたので、雅晴は終わるまで手を離すことはなかった。

 性別に指定はないとのことで、弘光は雅晴とペアで入場したが、脅かし役の目が点になっていて、雅晴は内心ウンザリしていた。多分、誤解されたのだろう。弘光も同じようにウンザリした様子で、低いテンションのまま出口へと向かったのだった。

「で、でも……雅晴さんが居てくれたので、大丈夫でした」

「そっか」

 頬を染めて言った那奈美が不覚にも可愛いと思ってしまったが、雅晴は照れ隠しで鼻の頭を指で掻き、微笑した。

「あ、そろそろ時間だよ?」

 岬に急かされ、一同は体育館へと駆け込んだ。幸い席はまだ空いていたので、五人とも席に座ることができた。

 やがて体育館が暗くなり、公演開始のブザーと共に、構内は一気に静かになり、演劇が始まった――

 

 ――那奈美の言っていた通り、海に面した田舎町を舞台にしており、海辺で水をかけあって遊ぶ男女の登場から演劇は始まった。

 幼馴染の二人は、幼い頃から仲が良く、それは今でも変わらない。

 そして場面は変わり、深刻そうな状況へと一気に変わる。左隣に座っていた那奈美の表情を雅晴が窺うと、最初の場面では微笑んでいたが、真剣なものへと変わっていた。

『――引越し……、だって……?』

 男の主人公は、親から聞かされた言葉に我が耳を疑った。父親の仕事の関係で、都心へと引っ越さなければならなくなったのだ。まぁ、この手の話ならよくあることだと雅晴は思った。

 ――あと数日間だけ、この町に居られる。だから、その数日であの娘と一緒に精一杯の思い出を作ろう。

「(……あと数日、か……)」

 自分の置かれている立場と酷似していたその内容に、雅晴は主人公の気持ちが何となく理解できる気がした。

 そして、翌日の場面に変わり、主人公はヒロインへと引越しのことを告げる。ヒロインは信じられないといった様子で、主人公の目を見た。

『何で!どうして!?』

『親父の、仕事の関係だ……』

『やだよ!小さい頃の約束は?ずっと一緒に居ようって、約束したじゃないっ!』

『ごめん……』

 やがて、ヒロインが落ち着いてから主人公は自分の気持ちを伝える。

『――俺は、きみが好きだ!だから、短い間でも、思い出を一緒に作ってほしい!忘れられない程の、大切な思い出を……っ!』

 ちらりと、雅晴は再び那奈美を盗み見た。すると、手にはハンカチを握っており、今にも泣き出しそうだった。那奈美の奥に座っている岬と昴の様子も窺ったが、既に二人は撃沈しており、互いにハンカチでお互いの涙を拭っていた。

「(結構、感性豊かだったんだな……)」

 一応、右隣に座っている弘光の様子を窺ってはみたものの、こちらは別の意味で撃沈しており、こくこくと舟を漕ぎながら意識を別世界に飛ばしていた。

 ――それから、数日間二人は『恋人』として正式に付き合い始めた。そして、別れのときへと場面が変わる。

『俺、忘れないから!向こうに行っても、手紙書くからな!』

『私も、返事書く!だから、だからまた、逢おうね……!!』

 遂に那奈美の涙腺の栓が外れたらしく、左隣では那奈美が啜り泣く声が聞こえてきた。那奈美の奥の二人は勿論、周りからも女子の嗚咽が聞こえてくる。

 雅晴は、女性とは不思議なものだなと思いながら、演劇の幕が下りるまで舞台の方へと意識を集中させていた。

 

「うぅ……、泣きました……」

「可哀想でしたよ……」

「あれは……、私も泣きました……」

 明るくなっていく構内で、那奈美と岬と昴が口々に感想を零した。

「でも、また二人が逢えてよかったですよ……」

 結局、劇の結末は、主人公が故郷で働くことを決め、里帰りしてヒロインと再会する、というものだった。ちなみに、後に二人は結婚してめでたしめでたしというハッピーエンドだった。

「まぁ、そうだな。バッドエンドだったら、那奈美とかトラウマになりそうだからな」

「う……、否定できません……。でも、そうじゃなかったんだから、いいんです!」

 那奈美は泣き止んでムッとしたかと思うと、優しく微笑を返した雅晴を見て表情をすぐに変え、つられたようにくすくすと笑った。

「(ほんと、コロコロと表情が変わるなぁ……)」

 そう心で思いながら雅晴は、未だに右隣で寝息を立てている弘光を叩き起こした。

 それから一同は食べ歩きで昼食を摂り、適当に催し物を廻り、後夜祭が始まるまで笑ったり、騒いだりを繰り返した。

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 グラウンドの中心で、赤々と炎が燃え盛っている。充分に離れていても少々熱いと雅晴は感じた。

 一声かけてから、那奈美たちは雅晴と弘光を残して女子の集まっている方へと駆けていった。もうすぐ、フォークダンスが始まるからだ。

「なぁ、雅晴。お前、告られたらどうする?」

 やたらと真剣な表情で尋ねてくる弘光に、雅晴はため息を吐いた。彼自身、既に那奈美と岬に告白されているので、二人に返事もしていない今されても困る一方だった。とはいえ、彼は自分が好意を持たれる対象であるなどとは露ほども思っていないので、首を横に振った。

「……それはないと思う」

「いやいや、意外に――」

 弘光が続けようとした瞬間、陽気なBGMが流れ出した――オクラホマミキサーだ。

「お、始まった!始まった!さて、俺の相手は誰かな〜?」

 一人ダンスの輪に飛び込んでいった弘光を見てため息を漏らし、雅晴は歩いて輪の中へと足を踏み入れた。

 雅晴が進んだところには、名前も学年もクラスも知らないが、丁度孤立している女子が居たので、声をかけることにした。

「……ペア、居る?」

「え?あっ……」

 その娘は、雅晴に気付くと赤面し、数秒後に消え入りそうな声で、居ないですと言った。

「じゃあ、頼んでもいいかな?ヘタクソだけど」

「は、はい。喜んで……」

 やけに礼儀正しい娘だなと思いながら、雅晴はうろ覚えのフォークダンスを踊った。だが、その娘はミスをしても笑うことは無く、終始嬉しそうに踊っていた。

 やがて、次の人にペアが変わる。

「あ、兄さん!」

「よう」

 思いの外、すぐに知り合いと一緒に踊ることができた雅晴は、少しだけ安堵する。

「ずっと兄さんの隣に居た甲斐があったよ〜」

「ははは……。確か、前にそんなこと言ったな、俺」

 笑顔のまま、雅晴は岬と一緒に踊り続けた。次の人に変わるとき、岬は名残惜しそうに次の相手の方へと向かった。

「雅晴先輩……」

「お、昴か」

 予測はしていたが、岬のすぐ次は昴だった。異性が苦手でも、彼女なりに頑張ってきたのか、雅晴との番が来たと分かって安堵の息を漏らした。

「別に、嫌なら抜けてもいいんだぞ?」

「あなたと踊り終えたら、抜けます」

 微笑しながら言う昴は、どこか嬉しそうだった。曲に合わせ、雅晴は昴と共にステップを踏む。

「そういえば、鍛錬の方はどうだ?」

「順調です。あと少しで、本当の意味での習得ができます」

「そっか」

 最後まで見届けてやれないのが、雅晴は苦しかった。外出できない以上、彼女の居る場所へは向えない。

「ごめんな。残念だけど、もう見に行けそうにない」

「いえ、いいんです。もう、大丈夫ですから」

 微笑みながら言う昴に、雅晴はつられたように微笑した。まるで、心が洗われるような想いだった。

「……絶対に、成功させる。あなたのために……」

 強い意志を持って昴は呟いたが、その言葉は雅晴には届かなかった。

 やがて、ダンスも終わりかと思ったとき、那奈美と踊る番がやってきた。

「どうも、よろしくお願いしますね」

 にっこりと嬉しそうに微笑み、那奈美は雅晴の手をとった。

「こちらこそ」

 笑みを返し、雅晴は那奈美と共にステップを踏む。先程から踊っているからか、自然と息が合い、乱れることはほとんど無かった。

「私、今この瞬間が、凄く幸せです」

「去年も踊ったじゃないか」

「今年は今年、ですよ」

 そう言って、那奈美は雅晴の胸に顔を埋めた。その表情は穏やかで、彼女が言った通り、見るからに幸せそうだった。

「終わるまで、こうしてて良いですか?」

 甘えるように言ってくる那奈美に、雅晴は穏やかに微笑した。もとより断る気は無かった。

「ああ」

 これが、きっと最後になるから――だから、周りの目を気にせず那奈美のしたいことをさせてあげたい。雅晴はそう思い、彼女と密着しながら踊っていた。

 そして、踊りと後夜祭が終わり、雅晴の最後の外出許可日は、終わりを迎えた。

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第9章:ありがとう、さよなら

 

 

 暇で、暇で、仕方が無い。誰だって、そういった状況があるはずだ。だが、今の雅晴は暇という言葉では足りぬほど暇を持て余していた。

 外出を禁止され、一日のほとんどを病室で過ごす彼は、たまに病棟内を散歩して今までは見落としていた何かを発見するようなことしかすることが無かった。

「……もうすぐ、俺は死ぬのかな」

 ――文化祭が終わり、既に二日が経った。

 寝る前によく読んでいた文庫本も既に読み終え、今の彼にとっての唯一の楽しみは授業を終えた那奈美たちの見舞いである。それまでは菫が話に付き合ってくれるので、雅晴は暇だったとしても外出が禁止された自分が不自由であるとは思っていない。――例えそれが、実質上の死刑宣告だったとしても。

 窓から学園の校舎を眺め、手持ち無沙汰な雅晴は、独り感傷に浸っていた。

「……楽しかったな。文化祭」

 演劇を観て、左隣の席で感動の涙を流していた那奈美を思い出し、雅晴は内心で笑う。お化け屋敷では吸盤のようにくっついて離れず、素で怯えていたりしたことも思い出す。昔は特に意識したことはなかったが、いざ思い返してみると那奈美には色々な表情があるのだなと思った。

 勿論、那奈美だけではない。岬も楽しそうに笑っている姿ばかりが目立ったが、演劇で昴と一緒に泣いていたりしたところもあり、互いに涙を拭いていた光景から、昴との仲の良さも伝わってきた。

「昴……か」

 もうすぐ完成すると言っていたが、果たして鬼斬り役の仕事とやらは捗っているのだろうか。雅晴は、少々昴のことが気になっていた。だが、彼女自信が信じてくれとも言っていたので、雅晴は大丈夫だろうと言い聞かせることにした。

 昴のことに連動するように神社のことを思い浮かべると、ふと岬の告白を思い出した。

「……そういえば、那奈美と岬は……」

 自分を好きだと言った。それは友達としてではなく、恋愛のことだということは、鈍感な雅晴でも理解できている。だが、彼は二人に何を言えば良いのか分からなかった。

 自分が認めれば、自分が居なくなった後にもっと悲しみを増大させるだろう。だからこそ、那奈美の告白は断ったのだ。しかし、それが正しい決断だったのかどうかは、彼には分からなかった。

 悩めども悩めども、はっきりとした答えは導き出せなかった。自分をそこまで想ってくれる人が居るのに、何も出来ない自分が悔しく、雅晴は唇を噛んだ。

「せめて、何かプレゼントとかすればよかったな……」

 ――永い間、形に残りそうな何か。自分の形見として、残せるものを。

 決して懐が寒いわけではない。菫に頼めば買ってきてくれるであろうが、雅晴は一人に贈るなら菫を含む、世話になった皆に贈るつもりでいるので、それはできなかった。外出を禁じられた今、彼は八方塞《はっぽうふさがり》だった。

「こんなことなら、文化祭前にきちっと計画しとけばよかったな……」

 今になって後悔し、雅晴はため息を吐く。

「どうしたのかな〜?雅晴くん」

 いつものように戯けたような態度で病室に入ってくる菫に、雅晴は救われるような気がした。雅晴は、先程の悩みで翳っていた自分を何とか取り繕い、苦笑気味な表情をして菫に言う。

「どうもこうも、暇で仕方ないんですよ。本も無いし、勉強しようにも、皆が来ないと範囲が分からないし」

「それじゃあ、お姉さんと遊ぶ?お望みなら、特別によとぎ夜伽もしちゃうわよ?」

 悪戯っぽく笑う菫に、雅晴は小さく笑う。菫と寝ることは満更でもないが、常識的に考えて雅晴はやんわりと拒否することにした。苦笑しながら。

「やめときます。そんなことした日には、俺は病院関係者に睨まれてしまいますよ」

「えぇ〜?けちぃ〜……」

「ケチで結構です」

 雅晴が念を押すように言うと、菫は口を尖らせた。だが、すぐにくすりと笑う。コロコロと表情を変える菫を見て、雅晴は心が和むような感じがした。

「(このまま、何もかも忘れられたら、どれだけ幸せだろうか――)」

 そんな考えも過ぎるが、雅晴は現実から逃げないと心に決めているので、すぐにその欲求を振り払った。

「ねえ、雅晴くん」

 突然、菫が真剣みを帯びた声で呼んだので、雅晴は自分も真剣な表情で菫の方を向く。

「今、暇なんだよね?」

「はい」

 即答した雅晴に、菫はそれじゃあと提案したように続ける。

「ちょっと、外を散歩しない?私、今は休憩時間だから」

 気軽に尋ねてくる菫に、雅晴は苦笑し、答える。

「俺、外出禁止じゃないですか」

「私が同伴してれば大丈夫よ。多分」

「多分って……」

 雅晴の反応に、菫は冗談だと言って、真面目な声に戻して口を開く。

「大丈夫。ちゃ〜んと、お医者さんの方から許可を得たわよ。私立病院だからこそ、できることなんだから。感謝してよ〜?」

 結局、最後の方はいつもの調子で口にし、菫は雅晴の手を取る。雅晴は、菫が精一杯頭を下げ、許可を下ろしてもらったことを薄々感じていた。

「……分かりましたよ」

 申し訳無さとありがたみを感じ、雅晴は微笑してベッドから立ち上がる。その瞬間、ふと先程考えていたことを思い出した。

 ――永い間、形に残るものを、皆に贈りたい。

 折角菫が外に出る機会を作ってくれたのだから、この機を有効に使うべきだと雅晴は思った。

 財布の中身を確認すると、普段から金を使っていない雅晴の小遣いは、紙幣だけ確認しても三万円以上は残っていた。これだけあれば十分だろうと雅晴は財布を掴み、近くのハンガーにかけてあったコートを羽織り、そのポケットに突っ込んだ。

 準備を整えた雅晴は、菫を見詰めた。そして、心から思っている気持ちを伝える。

「――ありがとうございました」

 その言葉に、菫は一瞬だけ目を丸くした。だが、雅晴に自分が頼み込んで許可を下ろしてもらったことが既に知られていることを察すと、菫はくすりと小さく笑った。

「隠せなかったかぁ〜……」

「それぐらい俺にも分かりますよ。それじゃあ、早速行きますか」

 雅晴が病室を出ようとすると、菫は雅晴の左手を握り、左隣へと並んだ。

「さてさて、行きますかぁ〜!」

 やたらと嬉しそうに言った菫に小さく笑い、雅晴はエントランスへと足を進めた。

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「ねぇ、何処行きたい?」

 病院から出た途端、菫は嬉しそうに尋ねた。財布を持ってきたとはいえ、雅晴は何を買うかまでは計画していなかった。ただ、途中で菫にバレないように何かを買えば良いとだけ考えていたのだった。

 だから、雅晴は菫の意見に従うつもりでいた。

「何処でも良いですよ。こうして、当ても無くぶらつくのもいいですし」

「それが一番困るのよねぇ……。まぁ、そう遠くまでは行けないけど、ちょっと中心街の近くまで行ってみますか」

 雅晴は菫の提案に賛成し、中心街の方へと足を進めた。

 やはり、街中で白衣を着て歩くのは目立つらしく、すれ違う人が二度見しているのが雅晴には分かった。だが、菫は特に気に留める様子も無く、嬉しそうに雅晴の手を取る。そんな彼女を見てしまっては、雅晴は気にしたら負けだと思えてしまい、それ以上考えないことにした。

 道中、色々な店を眺めながら雅晴は、プレゼントは何が良いか考えていた。

 ――眼鏡屋、食料品店、リサイクルショップ……なかなか、ピンと来るものがない雅晴は、流れる景色に注意を配りつつ、菫の他愛無い話題に耳を傾けていた。

 それから暫く経ち、病院へと引き返すべく、進行方向を真逆にしたときだった。

 雅晴は、ふと近くにあった店に目が止まった。

 ――それは、とても小さな時計屋だった。

 時計は、日常生活には欠かせないもの。そして、腕時計のようなものなら普段から所持することができる。高級なブランド品ではなくてもいいから、とにかく永い間「形」として残るもの……雅晴は、これだと思った。

「菫さん。ちょっと、いいですか?」

「うん?どうしたの?」

 ちょっと時計屋に用があるとだけ告げ、雅晴は時計屋へと足を進める。菫は一緒に店に入ろうとしたが、すぐに終わるから外で待っていてくれと雅晴は制し、一人で店の中に入って行った。

 店の中には、案の定、銘柄の腕時計や、煌びやかな装飾が施された時計、アンティークな雰囲気が漂う柱時計などが所狭しと飾られており、コチコチと秒針を刻む音が響いていた。まるで、音楽でも聴いているかのように揃ったその音に、雅晴は不思議な心地良さを覚えた。

「何を、お求めですか?」

 店員の問いに、雅晴は尋ねる。

「極力値段は抑えたもので、長持ちするものって、どれですか?それから、コンパクトな大きさのやつで」

 雅晴の問いに、店員は暫し首を捻っていたが、あっと声を漏らすと、手のひらサイズで、薄い円柱状の形をした銀色のケースのようなものを差し出した。側面にある突起を押すと蓋が開き、中には一から十二までのローマ数字が円を描いて並んだ盤があり、その上には三本の針がある。その針の一本がコチコチと音を立てて廻っていた――懐中時計だ。

 電池式で、電池の交換も容易に出来るため、長い間愛用できるらしい。値段を確認すると、雅晴の財布の中身で十分足りることが分かり、雅晴はこれにすることを決めた。

「これを、五つください――」

 これで、もう悔いは無い。雅晴は会計を済ませ、満足げな表情で懐中時計を持ち帰った。途中、菫に何を買ったのか尋ねられたが、何とか茶を濁し、雅晴は病院へと戻った。

-19ページ-

 授業が終わり、那奈美達が見舞いに来たが、雅晴は懐中時計のことは話さず、世間話や学園のことを聞いていつものように楽しんでいた。

 やがて、夕食の時間が近付いてきた雅晴は、全員が退室したのを確認してから、先程購入したばかりの懐中時計を眺める。そのうちの一つを手に取り、蓋を開くと、時計の盤が顔を見せる。

 元気そうに、忙《せわ》しく秒針を進めるその小さな時計には、不思議と愛着や可愛さのようなものを覚えた。

 裏側を見ると、"M.Amamiya"と掘り込んである。店員に頼んで刻印してもらったものだ。

 五つもあったので時間が掛かるかと思ったが、どうやら店員は彫刻の腕が良いらしく、八分程度で作業を終えてしまった。

 雅晴は、時計屋の店員に感謝しつつ、懐中時計を元に戻した。

 黄昏に染まってゆく風景を眺め、物思いに耽ろうと深く息を吐く。そのときだった――

「ぐっ……!?」

 ドクッ、と胸の中で何かが蠢いた。発作の序曲とも思えるその違和感に、雅晴は身体が言うことを利いてくれるうちに、ナースコールのボタンを押す。

 次第に呼吸が荒くなり、動悸も激しくなってきた。それは、下校中に倒れたときと同じような強さへと上ってゆく。

「(まだだ……。まだ、渡すまでは……)」

 心臓が跳ね上がり、胸が痛むほどにまで鼓動が強くなる。

「はぁっ……はぁっ……」

 脂汗を額に滲ませ、雅晴は荒い呼吸を繰り返していた。

「雅晴くん!」

「天宮くん!」

 呼吸器と心電図、鎮静剤の注射を持ってきた菫と医者が、すぐさま応急処置に取り掛かる。

「くそっ……、耐えるんだぞ、天宮くん……っ!」

 医者は呼吸器と心電図を雅晴に取り付ける。菫は雅晴の袖を捲ると、手早く血管を浮かせ、注射針を突き刺す。そして鎮静剤を注入し、針を抜いた。彼女は注射器を片付けると、心電図を睨む医者に心配そうな口調で尋ねる。

「……どうですか?」

「まだ、安心はできん。彼を信じるしかない……」

 音の間隔が短い電子音を響かせる心電図を確認した菫は、雅晴の手を握る。

「絶対、生きて……。まだ……まだ、早すぎるよ……」

 朦朧とする意識の中、雅晴は辛うじて菫の手を握り返し、現にある自我を保った。

 ――まだ、生きる。あと僅かで良いから、皆に時計を贈るまでは……。

 何とか容態が安定していった雅晴であったが、彼は強い疲労感に襲われ、そのままベッドの上で眠ってしまった。菫はそんな雅晴の手を握り続け、何も言わずに病室に居続けた。

 不思議なことに、このとき雅晴は、とても穏やかで幸せな夢を見ていた。

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「――今夜が、山だろう」

 翌朝、いつものように診察に向かうと、医者はとても言い難そうな口調で口にした。無理も無いだろうと雅晴は思った。

 昨日の発作の酷さと雅晴の両親のカルテと照らし合わせてみて、結論がそうだったらしい。

 ――発作が酷くなり、二日連続で起こし、死亡する。両親は、そういったものだった。

 医者は、頭を下げた。

「個人差もあるだろうが、恐らくはそうなる。すまない……。私は――」

「自分を責めないで下さい。前に言った通り、俺は幸せだったんですから」

 微笑みながら言う雅晴には、まるで悔いのようなものが感じられない。そんな彼を見た医者は、前に雅晴が言っていたことを思い出し、そうだなと言って頭を上げた。

「今日は休日だし、皆来てくれると嬉しいです」

「きっと、来るさ」

 医者に再び微笑み、感謝の言葉を述べてから短い会話を終え、雅晴は病室へと足を運んだ。

 病室に戻ってみると、既に岬と弘光の姿があった。

「よう!元気そうだな」

「ほんと、兄さんは健康なんじゃないの?」

 いつもの調子で口にする二人に、雅晴は微笑を返してから応える。

「病人に向かってかける言葉とは、到底思えんな」

 その言葉に、二人は苦笑した。だが、すぐに二人の表情は真剣なものへと変わる。

「……昨日、発作があったんだって?」

「ああ」

 弘光の問いに、雅晴はきっぱりと答える。そして、今夜が山だということも伝えた。

「……何だか、信じられない……」

 岬が悲しげな表情で零すと、弘光もつられたように眉尻を下げた。

「雅晴、俺……何言えば良いのか……」

 頭《こうべ》を垂れ、暗い声で言う弘光に、雅晴は、いつものように苦笑しつつ答える。

「別に、特別なことをしなくてもいいんだよ。いつも通りにしてくれれば、それでいい」

「兄さん……」

 雅晴が言っても、二人の曇った表情が戻ることは無かった。だが雅晴は、無理強いはしない。無理も無いだろうと内心では思っている。だから、自分だけでもいつも通りを心がけ、最期まで笑っていようと、彼は決意していた。

 ――自分は、幸せだったから。

 ――例え、今までの自分の経験してきたことが、手探りで積み上げた思い出でも、傍から見たら不恰好な思い出だったとしても……それが、『天宮雅晴』という、一人の人間の一生だから。それが自分の生き様だと、胸を張って誇示できるから――

 ――そして、大切な仲間と出会い、過ごせたから……。

 だからこそ、今の『天宮雅晴』は居る。雅晴は、悔いも偽りも無い表情で、未だに悲しげな表情をしている二人に微笑んだ。

「あ、そうだ」

 雅晴は、枕元に置いておいた紙袋の中から、先日購入した懐中時計を二つ取り出す。

「今まで、俺の傍に居てくれてありがとう。これは、俺からの感謝の気持ちを籠めた、贈り物だ」

 二人の掌に握らせ、雅晴はそっと微笑む。そんな雅晴を見た岬は、遂に耐え切れなくなったらしく、嗚咽を漏らした。

 そんな岬を見た弘光は、彼女の肩に優しく手を乗せる。だが、彼の目にも涙が滲んでいた。

 そして、暫くの間三人は病室でそのまま黙っていたが、意を決したように、弘光は重い口を開いた。

「雅晴。俺の方こそ、礼を言わせてもらう。――今まで、俺と友達で居てくれて、ありがとう」

 弘光は何とか笑顔を浮かべようと奮闘したようだったが、皮肉にも彼の瞳からは雫が垂れ、頬を伝った。

「……兄さん。私も……。今までありがとう……」

 岬は震える声で言って、先程雅晴から受け取った懐中時計を両手で包み、胸元で抱くように持った。――まるで、硝子細工でも扱うかのように。

 感謝の言葉を受け取った雅晴は、再び二人に微笑む。そして、正午を廻ったとき、二人は病院を後にすることにした。

「……さよならだ、雅晴」

 言い辛そうにしながらも、弘光は雅晴の目をしっかりと見て、はっきりと言った。

「さよなら、兄さん……」

 岬も弘光に倣い、雅晴に別れの言葉を告げる。そして、それを受け取った雅晴も、二人に向かって口を開く。

「ああ、さよなら……。岬、弘光」

 踵を返し、病室を後にする二人の背中を見送り雅晴は別れの言葉を告げた。

 ――本当の意味での、「さようなら」を……。

 雅晴は、胸に滲む虚しさと、今まで一緒に過ごせたという喜びを抱き、一人きりになって、静寂に満たされた病室の窓から、見慣れた風景を脳裏に焼き付けるように見続けていた。

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 午後を廻り、昼食を終えた雅晴が私物の整理をしていると、本日二度目の見舞いが来た。

「こんにちは、雅晴先輩」

 見舞い客は昴だった。初めて見る昴の私服姿に雅晴は新鮮な感じがしたが、それよりも知り合いが見舞いに来てくれた喜びに、雅晴は思わず口元を緩めた。

「おう」

「先輩の話は既に伺わせていただきました。……とても、残念であるとしか、私には言えません……」

「いいんだよ。それより、どっか座ってくれ。まぁ、何も出ないけど」

 苦笑する雅晴に、昴は目を丸くした。とても、自分の死期を知っている人間とは思えなかったのだ。

 昴は促されるままにベッドの端に腰を下ろす。

「それからさ、昴に贈り物があるんだけど……」

 雅晴は、紙袋の中から懐中時計を取り出し、昴の掌に乗せた。

「これは……?」

「懐中時計だ」

 蓋を開け、忙しく秒針を動かしている懐中時計を眺め、昴は何かを考え込むような仕草を見せた。そして、暫くそのままにしていたかと思えば、彼女は顔を上げ、真剣な眼差しを雅晴へと向けてきた。

「……雅晴先輩。付かぬ事をお訊きするようで申し訳ないですが――」

 懐中時計の蓋を閉め、手を握り、膝の上に置く。そして、一つ大きく息を吐くと、昴ははっきりとした声で続けた。

「――先輩は、まだ生きたいと思っていますか?」

 雅晴は、その質問に対して首を傾げた。そんなものは決まっているだろうと雅晴は深く頷く。

 そんな雅晴を暫く眺め、昴は安堵したように息を吐いた。

「……失礼しました。どうしても、聞いておきたかったので。そんなこと、当たり前ですよね」

「ああ。ところで、何でいきなりそんなことを?」

 雅晴の問いに、昴は少々言葉に悩んだが、特に意味は無いと茶を濁した。追求する気も無いので、雅晴はそのままその話題を終わらせた。

「それより、そっちの鬼斬り役の方はどうなんだ?」

 雅晴の問いに、昴は小さく笑った。

「あとは、仕上げだけですよ」

「そっか……」

 自分のことでもないのに、雅晴は何だか嬉しくなった。そんな彼を見た昴は、頬を染めて再び微笑む。

 だが、昴は心の中で強い決意を固めていた。

「……もう、今夜にやらなくては、手遅れになる……。信じてくれているなら、一か八か……」

 とても小さな声で呟く昴の声は、雅晴の耳には届かず、虚空へと溶けていった。

「先輩、まだ私のこと、信じてくれていますか?」

 昴は立ち上がると、再び真剣な眼差しをして、雅晴に問うた。雅晴は、当然だと頷く。

「今でも信じてるよ」

「ずっと、信じていてくださいね。絶対ですよ?」

 念を押す昴に首を傾げたが、雅晴は答えが変わったわけではないので頷いた。それを見た昴は嬉しそうに微笑んだ。

「時計、ありがとうございました。……それじゃあ、さよなら。雅晴先輩」

「ああ、さよなら」

 病室から出て行く昴の背中を見送り、雅晴は別れの言葉を告げた。

-22ページ-

 日が暮れ、夕食も終えた雅晴は、じきに来るかもしれない発作に、そして死に備え、身の周りの物を片付けていた。

「結局、那奈美は来なかったな……」

 だが雅晴は、薄情だからという理由で那奈美は来なかったとは思わなかった。寧ろ、無理も無いと彼は解釈した。

 既に、時計は三人に渡した。那奈美を除けば、あと一つ。

 雅晴は、もう誰に渡すかは決めていた。

「菫さん、忙しいかな?」

 懐中時計を一つだけ持ち、雅晴は病室を出る。

 廊下に出ると肌寒さが雅晴を襲った。もうこんなに寒くなったのかと実感し、雅晴は菫が居るであろうナースステーションへと足を進めた。

 カウンターの向こうでは、夜勤の看護士たちがカルテだと思われる書類を整理していた。その中に菫は居ないかと様子を窺っていると、近くを通った若い女性看護士に声を掛けられた。

「何か、用ですか?」

「はい。菫さん、居ますか?」

 雅晴の言葉を聞いた看護士は、一度カウンターの向こうへと足を踏み入れ、戻って来た。

「居るには居るんだけど……。今、休憩中で寝てるから……」

「そうですか……。それじゃあ、ちょっと失礼してもいいですか?すぐに終わらせますので」

 その言葉を聞いた看護士は、特に嫌がる様子も無くどうぞと言ってくれた。雅晴は頭を下げ、奥へと足を踏み入れた。

 看護士が言っていた通り、菫は眠っていた。机に突っ伏し、静かな寝息を立てている。

「やっぱり、疲れてたのかな……」

 とりあえず、雅晴は持ってきた懐中時計を菫の右手の先に置く。そのとき、菫の手の先にあった本のページが、雅晴の目に留まった。

「……重病における……発作症状と、その対処法?」

 やたらと分厚いその本には、ところどころ付箋が挟まれている。それらのページは、全て雅晴が患っている病の、発作の症状と似たところがあるものだった。

 その本の近くには大学ノートもあり、中には調べた事柄が菫の字でびっしりと書かれていた。書いては消し、書いては消しを繰り返したであろうそのノートから、雅晴は彼女の努力が伝わってくるような気がした。

「もしかして――」

 ふと、雅晴は前に菫が口したことを思い出した。

『雅晴くんは、奇跡って信じる?』

 確かに、彼女はそう言った。

 そして、雅晴は自分で起こすものだと返した。それを聞いた彼女は、自分からすっきりしたと言って、何かに吹っ切れたように去って行ったのだった。

「まさか……俺のために?」

 自分のために、寝る間を惜しんで病を治す方法を探していたのだろうか……。雅晴は、安らかに寝息を立て、肩を上下させている菫を見て、いたたまれない気持ちになった。

 ――最後に、どんな些細なことでもいいから、彼女のためになることをしてあげたい。

 ナースステーションの室内を見回しても、特に今の菫のためになるような物は見当たらない。

 だが、限りなく冬に近い今の季節、廊下で肌寒さを覚えたことを思い出した雅晴は、直ぐに自分の病室へと戻ると、毛布を持って再びナースステーションへと向かった。

 そして、未だに机で眠りこけている菫に、そっと毛布をかけてあげた。

「……ありがとう」

 雅晴は、聞こえていないとは分かっていても、感謝の言葉を言わずして去ることは出来なかった。

 例え奇跡を起こせなくても、自分のために頑張ってくれたことが嬉しくて、雅晴はそれだけで胸がいっぱいだった。

 優しく微笑み、雅晴は告げる。

「さよなら、菫さん」

 懐中時計の蓋を開け、意識が覚醒したときに時間を見ることができるように、位置を簡単に調整してから、雅晴はナースステーションを後にした。

 道中、那奈美に渡す分は手紙を書いて誰かに渡してもらおうと考え、病室に戻ってからすることを決めた。

 そして、病室の扉の前に辿り着いたときだった。

「――居ない……、まさか……」

 ――誰か居る。

 見舞いにしては遅すぎる時間だ。誰だろうと考えていると、雅晴は真っ先に那奈美のことを思い出した。

「(……来てくれたのか?)」

 雅晴は、病室の扉を開き、中の様子を窺った。

「誰だ?」

 雅晴の声に気付いた入室者は、すぐに扉の方へと駆けて来た。

「――よかった!もう、手遅れかと思いました……」

 入室者は、荒い息遣いでやってきた。服装は装束と思われる和装をしていて、左手には緩い弧を描いた黒い棒状のものを持っている。

 その人物は――

「す、昴か?」

「はい……」

 呼吸を何とか落ち着ける姿から、病院まで全力疾走してきたのかと雅晴は思った。だが、それよりも彼は知りたいことがあった。

「何で、こんな時間に?」

 雅晴の問いに、昴は真剣な眼差しを向け、口を開いた。

「――大切な、話があるんです。ついて来てくれますか?」

 断る理由もない雅晴は、敷地内ならばと返すと、昴は屋上に続く階段へと足を進めた。

 ――何か、昴は大きなことを変えようとしている。

 雅晴は、昴がそういったことをしようとしている気がしてならなかった。

 だが、雅晴は同時に、決して昴に逆らうことはしないと心に決めていた。

 ――それは、間違いなく彼女を信じているからという確証を持てるほど、強い決意だった。

-23ページ-

第10章:Little Distance

 

 

「雪だ……」

 屋上へと出ると、夜空には白い雪が舞っていた。寒いだけあると雅晴は納得した。

「……雅晴先輩」

 昴は、屋上の中央で足を止めると、雅晴を振り返った。その目には、強い決意と小さな不安が滲んでいるように雅晴には思えた。

「……単刀直入に、言いますね。私は――」

 徐《おもむろ》に、左手に握っている黒い長物の先端を右手で握り、前へと引いた。すると黒い筒の中から、禍々《まがまが》しく月光を反射する鋼の板が顔を出した。ただの模造刀などとは違うその迫力に、雅晴は、それは間違いなく真剣であることを悟った。

「――あなたを、斬ります」

「俺を……?」

 昴は深く頷き、刀を居合いの型で中段に構える。

「そのために、この戦装束《いくさしょうぞく》を纏い、ここまでやってきたんです」

 戦装束とは、普通の和服とは違い、呪《まじない》を絹糸と一緒に織り込んである特別な装束で、鬼斬り役の正式な戦闘服なのだと昴は言った。

「それにしても、何故俺を?」

 首を傾げながら、雅晴は昴に問うた。藪から棒に斬るなどと言われた雅晴の頭の中は、疑問でいっぱいだった。

「……そういえば、言ってませんでしたね。この件は、本来なら鬼斬り役のみが知っておくことでしょうけど、あなたも無関係ではありませんからね。お教えましょう」

 構えを解き、昴は一旦深呼吸を挟んでから、雅晴の目をしっかりと見ながら再び口を開いた。

「鬼斬り役の仕事は、前にお教えしましたよね?」

「ああ。『人ではないもの』を斬る役職……、だったよな?」

「はい。つまり、あなたを斬るということは、あなたが……正式には、あなたの中に『人ならざるもの』が潜んでいるからです」

 雅晴は、昴の言葉に我が耳を疑った。何かが憑いているなどという話は聞いたことが無く、霊を見たり、心霊現象を体験したりしたことが無いため、そのような物事には、全く心当たりが無かったからだ。

「――だから、私はあなたを斬る。この、柊流鬼斬り役が担う伏魔の剣《つるぎ》、景満《かげみつ》で」

 ふわりと舞う粉雪が、雅晴と昴の手の上に落ちる。だが、その雪はすぐに溶けてしまい、水へと姿を変えてしまう。それは、「人間の命は儚いものだ」と証明しているようだと雅晴は思った。

 一つ大きく息を吐き、昴の話を全て聞いた雅晴は口を開いた。

「……いいよ。どうせ、もう長くない。こんな命でも使い道があるのなら、使ってくれ」

 小さく笑い、雅晴は昴を真っ直ぐに見つめる。それを見た昴は、何も言わずに再び居合いの構えへと戻った。

「……安心してください。あなたを苦しめるようなことはしません。それから、くどいようですが、もう一度言わせてください」

 冷たい風が吹きぬけ、昴の長い髪を揺らす。吹き付ける白い粉雪が、昴の黒髪と綺麗なコントラストを描き、幻想的に映えた。

 そんな昴の口からは、雅晴は何度も聞いた台詞が漏れた。が――

「――私を、信じてください。絶対に、あなたを救える、と」

「……救う?」

 言い含められていたその言葉に、雅晴は首を傾げた。

 今までの「信じる」という言葉は、自分が鍛錬を耐え凌ぎ、強くなれることを信じて欲しいと言っているのだと思っていた。だが、今回は何から自分を救うのかも分からず、雅晴は頭を掻いた。

 そんな雅晴を見た昴は、彼が首を傾げていることを理解した。だが昴は、詳細は口にしなかった。

「――私を、信じてください」

 昴はもう一度、今度は先程よりも強く言った。

 雅晴は、救うという言葉の意味は分からないが、昴のことを疑ったりしたことはない。だから、雅晴は昴のことを信じているという自信はあった。

 ――大切な、仲間として。

 雅晴は、一つ深呼吸をしてから、真剣な眼差しを昴へと向けた。

「……ああ、信じているよ」

 はっきりと答え、雅晴は微笑んだ。その微笑みに、昴は安堵したように笑みを返す。

「……ありがとう」

 昴は一つ大きく息を吸った。そしてゆっくりと吐き出し、気を引き締める。

 脚を開き、右足を前に出す。そして、刀を鞘に収め、柄を右手で握り、しっかりとした居合いの構えをとった。

「すぅ……」

 瞳を閉じ、再び大きく息を吸い、昴は気合いを籠めた。そして瞼を開き、大きく左足を踏み出す。

「……はぁっ!」

 ――気合一閃。鞘走った鋼の刃は、昴の一歩前の空間を逆袈裟に薙ぎ払う。その刃は雅晴には触れず、完全に空を切った。

 だが、昴の太刀筋からは、不可思議な『力』が放たれる。それは雅晴へと向かって進み、遂には彼に接触する。

 雅晴は瞳を閉じ、にじり寄る真空の刃を待ち構えた。

 ――ぐちゃり。

 何か、水気のあるものが潰れる音がして、雅晴は開放感のようなものを感じた。

 自分の身体を何かが通過するような感触が去ってから、雅晴は恐る恐る瞼を開く。眼前には血海も無ければ、血飛沫も無い。彼の眼前には、肩で大きく息をする昴が、刀を振り抜いたままの恰好で立っていた。

「成功……、です……」

 膝から崩れ落ち、昴はその場にへたり込んでしまった。雅晴は慌てて昴へと駆け寄る。

「大丈夫か?」

「はい……。もう、雅晴先輩は、大丈夫ですよ。発作に、悩まされることもありません……」

「それって……」

 雅晴は、昴の言葉にまさかと思った。彼の考えを察した昴は、大きく頷いた。

 息を整え、昴は続ける。

「あなたとご両親の発作と寿命は、病気の所為などではありません。他ならぬ、『鬼』の仕業です。それを斬るのが、私の役目です……」

 刀を鞘に収め、昴は大きく息を吐いた。

「そうだったのか……。助けてくれて、ありがとな」

 心なしか身体が軽くなり、楽になったような気がすると雅晴は思った。

 雅晴は、自分を助けるために力を使って疲れ切ってしまっている昴に、手を差し伸べた。

 昴はその手を取ろうとしたが、何かに戸惑うような仕草を見せてから、出しかけた手を引っ込めた。

「……行かなくて、いいんですか?」

「え?」

「那奈美先輩、来ていないのでしょう?彼女のところに、行かなくても良いんですか?」

 昴は、力強い眼差しで雅晴を見る。その目は、自分は大丈夫だということを語っているようだった。

「それは……」

「私は、大丈夫です。あなたを助けることができただけで、満足ですから」

 その言葉を聞いて、自分のするべきことは何かと雅晴は自問自答する。昴をそのままにして行くのは後ろめたいが、那奈美のことが心配なのは事実だ。

 ――会いたい。

 ――会って、話をして、あの時計を贈りたい。

 心の中に過ぎった想いを信じることを決め、雅晴は迷い無く言った。

「……俺、行くわ」

 差し伸べていた手を引っ込め、雅晴は昴へと微笑む。その表情に、昴は微笑みを返すが、雅晴はその笑顔に寂しさのようなものが滲んでいるような気がしてならなかった。

 だが、雅晴は自分で決意したことを曲げる気は無い。昴に再び礼を言い、頭を下げてから屋上を後にした。

 粉雪が舞い落ち、夜風に凍える屋上には、昴が一人だけ取り残された。

「……全く。私は何をしているんだ……」

 正直、強がりだった。昴は、本当は雅晴に助け起こして貰いたかったのだ。

 だが、今は那奈美のことを優先してあげたいと思っていた。それは、昴の精一杯の優しさだった。

 今年、偶然出会った自分よりも、幼い頃から一緒に育って、ずっと雅晴のことを好きでいたという那奈美の気持ちの方が、重いものだと思ったのだ。

「……だが、満足だ……」

 好きな人を救うことができて、強くなることも出来た。それだけで、昴の胸の中には満足感が広がっていた。

 やがて、雪が昴の肩に浅く降り積もった頃、彼女は独り誰にも見つからぬように病院を後にした。

-24ページ-

 雪が降る中、雅晴は穂野村家へと走った。コートを羽織った彼の手には、先日買った懐中時計が握られている。

 幸い、受付には誰もおらず、ナースステーションも迂回して出口へと向かったので、病院を出るときに誰かに見つかることはなかった。

 やがて、見慣れた家が見えてくる。雨戸を閉めてはあったが、その隙間からは電灯の明かりが微かに漏れていた。

 雅晴は門の前で足を止め、チャイムを押した。

『はい、どちらさまですか?』

 那奈美の母親と思われる人物が出た。

「雅晴です。那奈美さん、居ますか?」

『ま、雅晴くん!?あなたは確か、病院に――』

「すみません、大切なことなんです。那奈美さんを呼んでください」

 驚いた那奈美の母親に、雅晴は強く訴えた。その言葉に気圧されてか、彼女は雅晴について追求することは無かった。

『……那奈美は、まだ帰ってないんです。雅晴くんのことを聞いたら、泣いて出て行ってしまって……』

「そうですか……」

 ――泣いている。

 それだけで、雅晴は再び足を動かすことができた。

 那奈美の母親に礼を言ってから、雅晴は那奈美が居そうな場所へと向かった。それは、ほとんどしらみ虱潰しのようなものだった。

 神社、公園、学園……。雅晴は走り続ける。息が上がり、足が痛んだ。だが、何処にも那奈美の姿は無い。

 乱れた息を整え、雅晴は膝に手を当てる。

「那奈美……、何処に居るんだ……?」

 心当たりを頼りに、雅晴は再び足を進める。那奈美が行きそうな場所……。どんな場所に行きたいと思うのか……。

 思い出のある場所……。そして何より、好きな場所……。

「那奈美の、好きな場所……」

 何とか脳に酸素を送り、雅晴は心当たりを探った。

「(思い出せ……。何か、ヒントみたいなものがあったはずだ……)」

 雅晴は頭をフル回転させ、記憶を探った。それは、ごく最近の出来事だ。

 文化祭で、那奈美は何を求めたか……。何処に、行きたがったか……。そして、何をしたか……。

「那奈美……」

 ――演劇を観た。劇名は、「リトル・ディスタンス」で、テーマは海に面した田舎町で、男女の恋を――

 ――海。

 雅晴は、その瞬間はっとした。薗橋市にも、海に面したところはあるのだ。

「一か八か……」

 ここしかないと、雅晴は再び駆け出した。海の見える場所は、ここからはそう遠くはないはずだ。

 もつれそうになる足を進め、雪が降る寒い夜空の下を、雅晴は独り駆けて行く。

 やがて、波の音が聞こえてきた。そこに、一つの人影があった。雅晴は、乱れた息を整えながら、その人影へと歩み寄る。それは、雅晴が思った通り、見慣れた後ろ姿だった。

「ここに……、居たのか……」

 雅晴の声に、その背中はびくりと跳ねる。

「……どう、して……?」

 だが、那奈美は雅晴を見ようとはしなかった。そんな彼女に、雅晴はもう一言かける。

「俺、治ったんだ。もう、大丈夫なんだよ」

 その言葉を聞いて、ようやく那奈美は振り返る。だが、涙を湛えたその顔からは、不安の色しか見えなかった。

「……抜け出しただけじゃ、ないんですか?」

「まぁ、抜け出したことは事実だが、治ったことも事実だ」

 いつもの調子で答える雅晴に、那奈美は今まで堰を切ったように泣き、口を開いた。

「そんな簡単に治せる病気じゃないんですよね!?そんなこと言って、私を安心させたいだけなんでしょう!?だったら、病院に居てくださいよ!!」

 真剣な表情で言う那奈美に気圧され、雅晴は自分の言い方が誤っていたことに気付いた。彼は、直ぐに自分も真剣な表情へと顔を作り変える。

「そんなことじゃない。本当に、治ったんだよ。検査はまだだけど、もう発作も寿命も、心配無い」

「そんなの――」

「信用無いかもしれないけど、俺を信じてくれ。本当なんだ」

 那奈美は、自分の言葉をかき消して、真剣な表情をして信じてくれと言う雅晴を見て、言葉を失った。

 ――お互いに見詰め合う。雅晴は、視線を逸らさず、那奈美の視線を真っ直ぐに受け止めた。

……どれだけの時間を経ただろうか。互いの頭や肩に、薄く雪が降り積もった頃、那奈美は、不安は拭いきれてはいないが、それでも涙を拭って微笑みを作った。

「信じて……、いいんですね?」

 那奈美の問いに、雅晴は深く頷く。

「勿論だ。俺は、嘘は言ってない」

「雅晴さん……」

 那奈美は、雅晴の胸に顔を埋めた。雅晴は、そんな那奈美の頭を優しく抱く。

「ごめんなさい。私……諦めてました」

「そりゃあ、俺だって同じようなもんだろ」

「……いいえ。雅晴さんは、『覚悟』でしょう?諦めとは、違いますよ……」

 そうかと言って、雅晴は那奈美の頭を優しく撫でる。

「演劇の主人公は、最後はハッピーエンドで終われたのに、雅晴さんは悲劇で終わりなのかなって、思ってました……」

「おいおい、演劇はフィクションだろ?」

 小さく笑う雅晴に続き、那奈美もそうですねと笑う。その平和な空気に、雅晴の胸は夜の空気に反して温かくなっていた。

「那奈美。これ、受け取ってくれ」

 雅晴は、コートのポケットに入れていた懐中時計を、那奈美の掌へと滑り込ませた。蓋を空け、それを確認した那奈美は、一瞬驚いたような表情を見せたが、刻印を見てから頬を染めて嬉しそうに微笑む。

「……ありがとうございます。大切にしますね」

 そして、那奈美と共に同じ時間を歩めるようになった今、雅晴はふと大切なことを思い出した。

「そういえばさ、那奈美」

「はい?」

 すっかり不安も泣き顔も姿を消し、微笑みを浮かべた那奈美は、顔を上げて雅晴の顔を見る。

「前の、那奈美の告白の返事だけど――」

 雅晴が続けようとした瞬間、那奈美ははっとして雅晴の口を塞いだ。そして、彼女は徐に口を開いた……。

-25ページ-

エピローグ

 

 

 ――桜。

 すっかり冬が去り、春を迎えた薗橋市は、例年と変わらない状態だった。

「ふあぁ〜……」

 春休みが終わり、入学式と始業式が控える本日、弘光は久しぶりに早起きをしたので眠気が残っており、大きな欠伸を漏らした。

「眠いのはこっちだよ……」

 その隣を歩く雅晴がぼそりと呟いた。冬で絶えると言われていた命は、今も変わらず此処にある。

「ぶぇっくしょい!……っか〜!この季節は花粉が飛んでて困るぜ!」

「忙《せわ》しい奴だな……」

「まぁ、先程の兄さんの言い分も分かりますよ。だって、治ってもまた検査入院で缶詰ですからね」

 くすりと笑い、岬が言う。彼女の言う通り、雅晴は昴のお蔭で発作が治った後も、検査入院で外出禁止にされていた。無論、入院中は精密検査の連続だった。

 おまけに昴に斬ってもらった日の夜に、那奈美を捜すために外出していたことが発覚し、こっ酷く叱られた。

 そして今春、ようやく雅晴は退院することができたのだった。

「やっぱり、シャバの空気はうまいなぁ〜……」

「兄さん、犯罪者ですか?」

 雅晴の言葉に、岬はくすりと笑った。

「……雅晴先輩」

 ふと、後ろを歩いていた昴が雅晴を呼ぶ。雅晴が振り返ると、その頬はうっすらと桜色に染まっていた。

「……あなたは、鬼を引き入れ易い体質です。いつ何時《なんどき》、また憑かれるか分かりません。ですから、これからは私も傍に居させていただきます」

 昴の言葉に、雅晴は確認する必要があるのか疑問だったが、心強いことには変わりないので宜しく頼むと言っておいた。

「雅晴さん」

 今度は那奈美に呼ばれ、雅晴は彼女の方へと顔を向ける。那奈美の鞄には、前に贈った懐中時計がキーホルダーとして引っ掛けてあった。外れてたりして、落として壊してしまわぬよう、普段は鞄のポケットの中に入っている。

 ――結局、那奈美は雅晴の口を塞いで、「あの告白は無かったことにして欲しい」と言ってきた。何故かと尋ねても教えてくれない。仕方なく、雅晴は今まで通りの接し方をしようと決めたのだが、未だに少しだけ気になっている。

 ちなみに、雅晴は病院を出てから、家を売ってしまっているので身寄りが無いことに気付いた。しかし、彼の生活場所は、退院後すぐに目処が立った。那奈美の両親が、真っ先に場所の提供を提案してくれのだ。那奈美も了承したので、現在は穂野村家で居候《いそうろう》させて貰っている。

 とはいえ、彼は残された貯金だけで小遣いを賄うのは、将来のことを考えるとあまりよくないと思ったので、薗橋市民病院で掃除のバイトをすることにした。そのため、よく菫とも顔を合わせ、子供達の世話も今まで通り、変わらず行っている。

「式が終わったら、皆で何処か行きませんか?」

「おっ!いいねぇっ!!」

 那奈美の提案に、真っ先に弘光が喰いついた。遅れて、岬と昴も賛成する。

「いいな。そうしよう」

「決まりですね」

 全員一致で、式の後に正門に集合する約束をすると、背後から聞き慣れた声がした。

「それじゃあ、私もいいかな?」

 振り返ると、そこには見慣れない私服姿の菫が立っていた。

「今日は非番だからさ、お姉さんも一緒に遊びたいの。いいでしょ〜?」

 バイトでもよく顔を合わせる菫に、雅晴はいつの間に居たんだと苦笑した。

「いいですよ」

「ありがと!雅晴くんなら、絶対にそう言ってくれると思ったわ〜♪」

 入院中とはあまり変わらないスキンシップで、菫は雅晴に引っ付いた。そして、雅晴は入院中と同じように苦笑した。

-26ページ-

 那奈美は、他に好きな人が出来たから、雅晴への告白を取り消したわけではない。彼女は、自分以外の人物も、雅晴に好意を持っていることに気付いたから、断ったのだった。

 ――恋は平等。想いも平等。那奈美らしい考え方だ。

 だけど、今は一緒に時間を歩める、このありふれた日常を楽しみたい。それは彼女だけではなく、岬も、昴も、菫も一緒だ。

 だからこそ、誰一人として今は、一歩を踏み出そうとはしない。

 だが、いずれはその一歩を踏み出すときが来るであろう。

 それまでは、この小さな距離《リトル・ディスタンス》を、彼女たちは保ち続ける。

 やがて、その距離を縮めようと奮闘するとき、それは彼女たちにとって、大切な戦いの始まりを意味する。

 ――そう。彼女たちの「恋の戦い」の始まりは、すぐそこまで迫っているのだ。

 

 

Fin.

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長編 過去作晒し リトル・ディスタンス オリジナル 

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