不思議的乙女少女と現実的乙女少女の日常5 『ネクロノミコン Saint1』 |
ヤカが奇妙な物を持って来訪するのは………………滅多に無いが、まあ、有る事だった。
奇妙な物というと、なんだかとても如何わしい物を想像してしまうが、実を言うと、本当に如何わしい物なのだ。
リコはそうしたヤカの行動に慣れている。では、慣れている事と驚かない事は、果たして両立するものだろうか。それは、およそほとんどの問題に対して両立するのだろう。
だが、迂闊な事に、リコはヤカがそういう物を持ってくるまで、その事実を忘れている事が多い。何しろそれは新種のインフルエンザの様なもので、基本的に対抗策が無く、突然やってくるのだ。
だから、日曜の朝、ヤカがそれをこちらに提示してきた時には驚いた。
リコの部屋の窓。その外から、ヤカは満面の笑みでそれをリコに見せていた。
その問題の物とは。
「えーと、ネ…クロノ…ミコ……ン?」
恐ろしく古ぼけた本だった。
リコが戸惑いつつ読んだ、『ネクロノミコン』というタイトルが英語で書かれている。表紙にはイラストが描かれており、しかし、それは本当にイラストであるのかと疑いたくなるほどに複雑な曲線で表現されており、何が描かれているのかは判別できなかった。人間の様にも見えるが。
タイトルと表紙の奇妙な絵は、エンボス加工で浮き彫りにされていた。
なんというか、リコはタイトルだけでもうお腹一杯だった。表紙の絵で胸焼けが追加オーダーされた。
リコは目線を上に上げた。
ああ、今日は良い天気だな。快晴とはこの事だ。空に落とされたのは鉛色では無く、また白色でもなく、もちろん黒でもない。かと言って空色なのかと問われれば、それもノーと言わざるを得ない。眼も覚めるような青色だ。事実、起き掛けのリコの眼は空を見上げるうち、次第に覚めていった。
暑いのは気に入らないが、夏で最も厄介なのは湿気だ。あの湿気の野朗が最大の敵だ。奴が居なければ、きっと日本の夏は23倍くらい過ごし易いに違いない。数字に根拠は無いがそんな気がする。
眼を閉じて、大きく深呼吸。
ともあれ、快晴なのは良い事だ。今日はなんだか良い一日になる様な気がする。
「ヤカ」
「ん? なぁに、リコ」
「帰れ」
言葉と同時に、リコは窓とカーテンを閉めた。
鍵を閉めようとした所で、ヤカが窓を開いた。
「なんで閉めるの?」
「どうして開けるの」
「開けないと入れないのだよぅ」
「家に変な物を持ち込まないで」
「変なものじゃ無いよ」
ヤカはバッと窓から入ってきた。その拍子にカーテンが無造作に開かれ、風の無い部屋にたなびいた。
「朝、家の前に落ちてたのを拾ったの」
「何故拾う」
ヤカはカラカラと後ろ手に窓を閉めていった。現在時刻は朝の8時。日曜という事もあって、家の中や家の周辺は静かなもので、薄暗い部屋に、窓を閉める音が異様に良く響いた。
「読んでみようと思ったけど、中見ても全然意味が分からなかったからさ。リコに視てもらおうと思って」
「そんな事のために、アンタは壊れんばかりの勢いで窓を叩いて私を起こした訳ね………………」
「だって、あれ以上寝てたらきっとベッドと一体化してたよ、リコ。リコじゃな
くてむしろベッドになってたよ」
「なるか!」
差し出してきた本を、リコは叫びながら受け取った。あまり受け取りたくはなかったが。
昨日はあまり寝てい無いのだ。それ故に若干気だるかった。昨日、ヤカが夜遅くまでリコの部屋に居たためだ。そう考えると、リコとヤカの睡眠時間にはそれほど差が無いはずで、ヤカの元気な姿にただ感心するばかりだった。特に羨ましいという事は無かったが。
リコは受け取った本をもう一度眺めてみた。
なんだか生暖かくて嫌な感じがする。これはヤカが先ほどまでこの本を握り締めていたから、というわけでは無く、もっと別の理由が有る様な気がした。
表紙を開いて目次。
「…………ん?」
中身は日本語で構成されていた。
リコはチラリと、一瞬だけヤカを見た。
ヤカは、時々意味の分からない事を言う時はあるが、正真正銘の日本人であ
る。
ヤカの言葉から、表紙と同様、中身も英語で構成されているものだとばかり思って居たが。
どうやら違うらしい。序章のページを開いてみても、文章は日本語だ。
と、言う事は、文字が読めなくて意味が分からないのでは無く、書いてある内容の意味が分からないという事か。
リコは序章に眼を通してみた。
『生に満ちた存在は果たして不死を体現しているだろうか。
死に満ちた存在は果たして不死足りえるだろうか。
我は天を求める。
我は地を求める。
無限に堕ち続ける裏切り者は果たしてどんな顔をしているだろうか。
有限に歩き続ける事しか出来ない仮面の男は死の花に眼を奪われるだろうか。
ある少女が言った。
それらはただの現象だと。
アルケミストに従わされた囚人が物を考える事を許されるか?
露出した人間の腸に意思が宿る事は有るのか?
それは相対的でもあり絶対的でもある。それが故にただの現象足り得るのだ
と。
少女は不死者だった。
少女は不完全だった。
少女は偽善に満ち溢れた存在であり、少しばかりの慈愛を有していた。
少女は普通の人間だった。
少女は普通の人間では無かった。
少女は剣に倒れたのか?
少女は弾丸に貫かれたのか?
少女は死をばら撒くのか、生に希望を見出すのか?
厳然たる掟が少女を取り巻いていた。
死の掟の表象。
それ故に…………私は彼女をネクロノミコンと名付けた。』
序章を読み終えて、リコはウンザリとした様子で言った。
「ああ…………確かに意味不明だわね」
「でしょ? あー良かった。私だけ分からないかとばかり」
「文章は意味が分かるように書いて欲しいわね」
最も、専門書というのはこういうものなのかもしれないが。あるいは、リコとヤカに、この本を読むに当たっての知識が足りないかだ。
ヤカの兄、ケイヤは理系の大学生であるが、リコは彼が勉強している教科書を見せてもらったことが有る。リコは成績が良い方ではあるが、何を書いているのかさっぱり理解できなかった。
この本もそういった類のものなのかもしれない。
まあ、誰かが適当に書いた自費出版の産物か、あるいは適当に書き綴った自己満足の産物を丁寧に装丁したものが偶然ヤカの家の前に落ちていただけかもしれないが。何しろ、値段が記載されていなかった。
著者名は『ジョン』とだけ記されている。 外国人なのにわざわざ日本語で書いたのか、とリコは呆れた。翻訳されているのかもしれないが。
「ま、もういいでしょ。意味の分からない本だし、捨てるかなにかしたら? 元有った場所に戻しておくとか」
リコはパラパラと本を捲りながら、そんな事を言った。
その中で、眼についた文章が妙に印象に残ってしまった。
『罪が許されるとしたら、それは聖人を殺す以外に無いのではないだろうか』
馬鹿らしいと思いながら、妙に印象に残ってしまった。その感覚が嫌で、さっと本を閉じる。
そして、ヤカに手渡した。
「むぅ。捨てるのも勿体無いからケイ兄の本棚に置いとくよ」
「どんな嫌がらせよそれ。怒られるわよ」
リコは欠伸を一つ、ドアに向かって歩く。
「顔洗ってくるわ」
「リコ先生のお料理教室は?」
「昼から母さん達出かけるから、それからね」
「分かったー」
ヤカの返事を背中に受け、リコは部屋を退出した。
残されたヤカは、自分が持っている、リコの家の前で拾った本を開いた。リコ
は勘違いしたかもしれないが、これはヤカの家の前で拾ったのではない。リコの
家の前に置かれていたものだった。
その本に書かれているものの全ては。
「むー。やっぱり意味分かんないなあ。何語だろ?」
見たことも無い、曲線ばかりで表現された文章らしきもので。
日本語は、何一つ書かれていなかった。
説明 | ||
『Saint1』という事で、しばらく後にSaint2があったりするかもしれないですね。 | ||
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