悪戯か?ご馳走か? |
十月の終わりを迎えたシュテルンビルトの街路樹は、いっせいに着替えたかのように、緑の葉をくすんだ色彩に変えた。
昨年の誕生日には確かこの辺りの路地で、訳のわからないサプライズ・バースデーに巻き込まれたな、とバーナビーは一年前の事を思い出していた。
デビューと同時にキングオブヒーローの栄冠に輝いたバーナビー・ブルックス・Jrの名前は、これからもずっとシュテルンビルトの歴史として刻まれることだろう。念願だった両親の仇も取り、そのために尽力してくれた、アポロンメディアのCEO・アルバート・マーベリックにも、恩を返すことができたはずだ。
これからは自由だ、とバーナビーは顔を上げて思う。好きな事をすればいい、頼もしい相棒と共に、シュテルンビルトの市民を護るのは、やりがいのある仕事だ。
だが見上げたダウンタウンの上空に青空は見えず、シュテルンビルト独特の階層都市の基盤があるだけだった。ブロンズ・ステージの空は、シルバー・ステージの基盤によって封じられ、夕焼け以外の太陽の光は滅多に街まで届かない。それでも活気のある大都会の気配は、バーナビーに力をくれる。
「イタズラか?ゴチソウか?」「トリック、オア、トリート!」「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞー」
遠くから子供たちが叫ぶ声が、風に乗って聞こえてきた。
「ああ、今日はハロウィンだったっけ」
商業都市であるシュテルンビルトでは、収穫祭の発展したハロウィンの習慣はそれほど一般的ではなかった。ごく一部のイベント好きな市民たちが、自主的にこうして遊ぶことはあるだけで、イベント自体を知らない市民も多い。
「また、サマンサおばさんが、誕生祝いにパウンドケーキを送ってくれているんだろうな・・・」
自宅に帰ればおそらく、冷蔵された郵便物を管理人が手渡してくれるだろう。毎年きちんと繰り返される誕生プレゼントは、バーナビーにとっては、習慣のようになものになっている。
「今年のケーキは、虎徹さんにも食べてもらおう」
アルコールが大好物な人だが、甘い物もいける虎徹なら、きっと喜んで食べてくれることだろう。
「・・・にしても、遅いな、あの人。また何かトラブってるのか?」
虎徹が見せる間の悪さは、何かに呪われているレベルだと思うしかない。全てのタイミングが虎徹に意地悪をしているところを、バーナビーは何度も目撃していた。あれはもう、本人がどうしようと何ともならないものなのだと、バーナビーも納得するしかない。
「TRICK OR TREAT!」
魔女の帽子に黒いマント、黒猫に血まみれのゾンビ、手に持った箒を振り回して、子供の集団が路地から路地へと駆け抜けてゆく。
まばたきをしたバーナビーの視界の端をかすめる黒いものは、夕刻せまるシュテルンビルトのダウンタウンに飛ぶという、小さな蝙蝠の翼だったのか。
「っ・・・」
眼鏡をかけているにも関わらず、塵が入ったかのように、バーナビーの目がちくりと痛んだ。グラスの下から指を差し込んで、痛みを覚えた瞼を押さえる。侵入したゴミを追い出そうとして、自然と涙が出てきた。
「よう、待たせたな」
あの時のように、不意打ちの声が耳元で聞こえ、バーナビーは背中を震わせた。敗北を目前にして絶望に怯え、立ち上がるのをあきらめようとした時、背中から自分を受け止めてくれた、あの時と同じ声だ。
「虎徹さん」
だが、振り向いてその人を見たバーナビーは、違和感を覚えて立ちすくんだ。
「・・・虎徹、さ・・・ん?」
「なんだよ、その顔。んー、どうした?」
そこに立っていたのは、鏑木・T・虎徹、のはずだったが、バーナビーにはどこか違う気がした。
「虎徹さん、ですよね」
「なに言ってんだ、俺が俺以外に誰だっつうんだよ。何だ、寝ぼけてんのか?」
軽快に笑う声も姿も、自分が知っているあの人と同じなのに、なんだろう、この違和感は。いったいなにが違うのかわからない。
私服で街を歩く際には、必ず装着するアイパッチは同じもので、服装もいつものスタイルなのに。
「誰が寝ぼけてなんか。貴方じゃあるまいし」
「お、言いますね、バニーちゃん」
「バーナビーです!いい加減に・・・」
虎徹にバニーと連呼されるのには慣れたが、さすがにその甘ったるい呼び方だけは我慢ができない。まして周囲に人がいる時にその呼び方をされ、苦笑を受けた時の屈辱感ときたら、その後で虎徹を罵り倒したくなるほど腹が立つ。
「いいじゃあ、ないか。おまえってば、ホントに可愛いウサギちゃんなんだからさ」
近づいてきた虎徹の両腕が、無造作にバーナビーの肩を覆って、背後から抱きしめられる。何が起きたのかと、バーナビーは全身を硬直させた。
コミュニケーションのためのスキンシップには熱心な虎徹だが、ここまで無頓着に無断で他人の体に触れる事はしない。ヒーロー雑誌のグラビア撮影などで、そういったポーズを求められれば、いくらでもしてみせるが、断りもなくこんな事をされたのは初めてだ。
首の後ろに虎徹の息がかかるのを感じて、動けなくなる。体中の神経がそこに集まってしまいそうだ。かすかに当たる虎徹の髪がくすぐったい。
体重をかけてきた虎徹は、耳元で囁いた。
「なぁ、おまえさ、お菓子持ってる?」
「お、お菓子?そんなの持ってませんよ」
「んー、やっぱりか」
にやりと笑う虎徹の口元に、何か見慣れない物が光ったような気がした。
人間に、あんな物があっていいのだろうか?それも、あの人の口の中に、あれほど鋭いものが。
「んじゃ、イタズラ決定な」
水晶のように透明な牙が、虎徹の口元から覗いている。これは、彼じゃない。彼どころか、人ではないかもしれない。
バーナビーはひきつる舌を必死の思いで動かして、虎徹の形をしている何かに訊いた。
「あなた・・・誰、です」
「コテツだよ。カブラギ・コ・テ・ツ」
「・・・嘘だ!」
「へへへっ」
虎徹と同じ笑い方をして、ソレはバーナビーの身体を自分の身体に引き寄せると、仰け反った首にためらいなく水晶の牙を立てた。氷のように冷たい感触が、バーナビーの神経を突き抜けてゆく。ネクスト能力を発動させる事もできず、一瞬で全身が凍りついたように動けなくなった。
視界に紗がかかって焦点が合わない。何とかして目を開けようとしたが、空間自体が歪んだ気がした。斜めになった地面が、バーナビーの身体を受け止める。生臭いダウンタウンの地面にぶつけた背中の痛みも、今のバーナビーには感じられなかった。
「驚いた、まだ意識あんのね。さすがヒーロー」
真上から覗き込んでくる虎徹の顔は、もういつもの表情をしていなかった。どれほどの凶悪犯罪者を前にしたとしても、本当の虎徹なら、こんな楽しそうな悪意に染まった笑みを見せたりはしない。こんな時、いつも彼は、悲しそうに微笑むのが常だ。
「おま・・・え・・・」
「俺はお前が捨てた、一年分の煩悩の塵芥。闇に追いやられたものが戻ってくるハロウィンの日に、お前らが俺にくれるのは、悪戯か?御馳走か?もしも、お菓子を出さないなら、悪戯されても文句は言えねぇ」
一人ではない嘲笑の声が、どこかで爆発した。鼓膜をつんざくような下媚た笑い声がバーナビーを飲み込んでゆく。
「僕に・・・何を・・・」
「ハッピーバースデー、キングオブヒーロー・・・」
標準よりも体温が低いはずのバーナビーですら、冷たいと思うほどの何かが、噛みつかれた傷跡からゆっくりと入ってくるのを感じて、バーナビーは総毛立った。いっそ意識を失ってしまいたかったが、どうすることもできない。
「い、や・・・だ・・・」
弱々しく拒否の言葉を呟くだけで、今は力尽きてしまいそうになる。
「嘘つきだなぁ、バニーは」
虎徹の姿をした男は、倒れたバーナビーの身体に馬乗りになって、両手を胸の上に載せた。バーナビーの心臓に吸いついた指が、鼓動を聞きながら笑う。
「あいつに触ってもらいたかったんだろう?もっと。強く抱きしめてもらいたかっただろう?たくさん。仲良くして、笑いあって、良い子だって頭を撫でてもらって、それからキスして」
「・・・違、う・・・そんな・・・」
「一緒にベッドで寝て、一緒に起きて、同じテーブルで朝ご飯を食べて、それから?」
「ちがう、そんなこと・・・。僕は、もう、子供じゃ、ない・・・」
「そうだな」
がらりと低く変わった声に、はっとしてバーナビーは目を開けた。
「お前は大人になっちまった。子供みたいに優しく可愛がってやっても、それじゃ満足できなくなっちまったんだ。だから、俺が来た・・・」
正面から見つめてくる虎徹の顔をした何かの瞳が、ルビーのような赤色の輝きを灯した。 ネクストの輝きに似ているが、もっと凶々しく卑しい色を見せつける。獲物を喰らい続けている時の、獣の口元を思い出させる、生々しい赤だ。
どろりとした輝きを乗せた瞳が、バーナビーに近づいてきた。信頼すべき相棒の顔と声そのままに、蝙蝠に似たアイマスクの向こう側で、嘲笑する目を見せている。
「どうして・・・発動、でき、ないんだ・・・」
「ネクストか?ああ、あれはなぁ」
神経を集中させようとしても、肝心なところで頭が痺れて、どうやって能力を発動させていたのか、バーナビーは思い出すことができない。いつもはどうしていたんだろう、いとも簡単に、能力を発動させることができたはずなのに。
「今はこっちで借りてるから、お前のぶんはお預けー」
ライダーシャツが引き剥かれて、アンダーシャツの裾から手が入ってくる。その手はぞっとするほど冷たく、血が通っていないのではないかと思うほど堅い。しかし、指先の滑らかさは、絹の肌触りを思い出させる感触で、肌の上で指がわずかに蠢くだけで、身体が震えるのを止められない。まして、両手でまさぐられ始めると、全身に快感が走り抜け、声が漏れそうになった。
「我慢しちゃって。かーわいいね」
「・・・誰がっ、ガマンっ・・・」
「嘘ついてもダメだってゆったろー?バレバレなんだよ、お前の頭ん中なんて。ずーっと妄想でいっぱいだったくせに。こーんなことや、あーんなこと、考えちゃ。そのたんびにイケナイ事だって、闇に捨ててたろ、それが・・・」
ベルトがはずされる気配がして、カーゴパンツの隙間に手が差し込まれる。膨らみ始めていた物を、下着の上から片手で握り込まれて、バーナビーはさすがに声を押さえられなかった。
「それが、俺なんダヨ」
人間とは思えない真っ赤な長い舌が、舌なめずりをしながら近づいてくると、顔をそむけるバーナビーの口を押し包んだ。堅く引き結んで拒否しようとしても、舌先は不意に紙のように薄くなって、上下の唇の隙間から内側へと侵入してくる。
片方の手首を握られているだけで、身動きが取れないなんてあり得ない。それほど力を入れられてもいないはずなのに、どうしても身体に力が入らない。
唇を塞いだまま、ソレは好きなようにバーナビーの口腔を蹂躙し続けていた。ざらつく舌で上も下も、歯の並びも舌の付け根も、何もかもを撫で回す。吸い上げられて喉を鳴らすと、溢れそうになった唾液までがもっていかれた。このまま呼吸すらも奪われてしまうのかと、バーナビーが恐れを感じても、それは塞いだ唇から離れようとしなかった。
意識が混濁し始めてから、バーナビーはやっと誰かに助けを求める事を思いつく。自分では今の状況から脱することはできそうにない事を、ようやく認めることができた。
タ・ス・ケ・テ
虎徹さん。
誰と待ち合わせをしても、一度としてまともに時間通りに到着できた事がないが、それでも遅刻魔などと呼ばれるのは心外だ。こちらが時間を忘れてしまって遅れるのではなく、どうしようもない理由が次々に現れて進路を邪魔してくれるのだから、それは自分の責任じゃない。
「と思いたいんだけど、よっぽど前世で悪いコトしたってのか、俺」
目の前で不意に乗用車の接触事故が起こり、目撃者として足止めされるに至っては、虎徹は思わずぼやかずにはいられなかった。
「またバニー、いらついてんだろうなぁ」
いつ、腕のPDAが鳴り出すのかと、びくびくしながら待ち合わせ場所に急いだ虎徹だが、そこにいるはずの人影をすぐに見つけられなかった。
「あれ?場所間違えたか?」
ダウンタウンの高架下は、常習的に窃盗を働いてきたダイアモンドの攻殻をまとうネクストを、初めてバーナビーと協力して確保した場所だ。人気の少ない剣呑な地区ではあるが、待ち合わせが危険というほどの治安ではない。
「バニー、バーナビー、バニーちゃああん」
両手を口元に当てて、どこかにいるだろうと適当に名前を呼んだが、返答どころか気配もない。
「・・・どうしたんだ?あいつが遅刻?」
さすがに異変を感じた虎徹は、PDAを起動させた。光を発して反応を始めた通信用の相手を、バーナビーに合わせる。呼び出しのための接続まではうまくはかどったが、着信しているはずなのに、バーナビーが回線を開けない。
「待ち合わせしてんのに、通話に出ないってどういうことだ?」
何度か接続を切っては、再度繋げてみる。呼び出しに応えはないまま、時間ばかりが過ぎてゆく
「何だよ、くそ・・・!」
PDAの点滅が、一瞬変化する。
「・・・バニー?」
不意に回線が繋がった。
「おい、大丈夫か、お前、今どこにいるんだ?」
『・・・ぇな・・・』
「え?何、なんだって?」
『ピーピーピーピー、うるせぇんだよ』
聞いたことのあるような声が、PDAを通して返答してきたが、それはバーナビーの声ではなかった。
「誰だ、お前!」
『誰でもいいだろ。鏑木虎徹、お前にはカンンケーナイよ』
いきなりリアルネームで呼びかけられて、虎徹は声を失った。
「なんで?おい、バニーをどうした!」
「ウサギちゃんは、ご多忙中。邪魔すんな」
ぶつんと通信を切られた瞬間に、虎徹はネクストを稼働させていた。
トップマグ時代のマネージャー、ベンが知らせてくれたように、能力自体は強まっているが、次第に稼働時間が短くなっている。だが、今はそんな事を考えている時ではない。
年期の入ったダウンタウンの建物群を、一瞬で飛び越えて屋上まで飛び上がる。五感の全てを研ぎすませてバーナビーの気配を探ると、雑踏と喧噪の中から彼の声が浮かび上がってきた。
考えずにただ感じて、虎徹は勘が指し示す方向へと走り出す。それほど距離はないはずだ。ほんの数秒でたどり着ける。
路地と言うより建物の隙間に近い場所に、バーナビーの姿はを見つけた。だが一人ではない。背後から伸びた誰かの腕があらぬ場所を占領し、身体の自由を奪うかのように、片足がバーナビーの膝から内側に入り込んで、絡みつくように拘束している。
相手を振り払うこともできないで、壁に向かってうつむいたままのバーナビーを見れば、何かマズいことが起きているのが、察しの悪い虎徹でも理解できた。表情は見えないが、助けを求めているのは、遠くからでもわかる。
だが、バーナビーに抱きついている人物が、こちらを振り向いた瞬間、虎徹は自分の目を疑った。
「・・・俺?」
服装だけではなく、顔につけている黒いアイマスクのデザインまでもが、鏡に映したかのようにそっくりな姿をした男が、虎徹を見て、にやりと笑った。
ような気がした。
「てめぇ、何してやがる!」
虎徹が飛びかかろうとした瞬間に、男は瞳から鈍い紅色の光を発した、視界から消え失せる。男によって羽交い締めのような形で拘束されていたバーナビーが、同時に地面に倒れ込んでゆくのが見えた。
「バニー!」
バーナビーに、虎徹は駆け寄る。ネクストを発動していたのが幸いして、バーナビーが地面に倒れる前に、身体を抱き止めることができた。
自分の身体を支えることもできなくなっていたバーナビーの身体は、ぐったりと虎徹に全身を任せるようにして倒れ込む。意識は残っているようだが、身体が動かない様子だ。
「なんだ、あいつは?ネクストか?おい、しっかりしろ、俺の声が聞こえるか?」
「こ・・・てつ、さ・・・」
「意識あるな、けど、歩くのは無理そう、か・・・」
バーナビーの衣服の乱れを直してやろうとしたが、子供の服を直すのとは訳が違う。お気に入りの赤いライダースーツの下に着たシャツには、獣の爪で引っかかれたような傷痕が、いくつも残っているのが気にかかる。
「知り合いなのか?あいつ・・・」
「ちが・・・う」
バーナビーが抵抗していなかったように見えたのが、虎徹には気にかかっていた。バーナビーが能力を使った形跡もないまま、こんな酷い暴力にさらされる理由がわからない。
だが知り合いだったらどうだと言うのだ。そちらにしても、あんな事を往来でしていいはずがない。
「ひでぇ事しやがって。なんだ、これ・・・」
引き破かれているのは、シャツだけではなく、カーゴパンツもあちこちが引き裂かれている。鋭い爪は衣服を刻んで、バーナビーの肌にも触れたのか、爪痕にはうっすらと血がにじんでいる場所も見えた。
「武器を持ってる感じじゃなかったし、これもネクストか?けど、ケンカしてるって感じでもなかったな。おい、いったい、何があったんだ」
「・・・」
黙ってバーナビーは左右に首を振り、自分でもわからないと意志を示した。
「俺の能力切れる前に、うち行くぞ。手当しないと」
虎徹はバーナビーを抱き上げた。お姫様抱っこと一般に呼ばれる、両腕で身体を仰向けに持ち上げる運び方だ。
「ヒーロースーツ着てる時とは逆だな、バニーちゃん」
「・・・バーナビー・・・です・・・」
かすれた声で虎徹の呼び方を訂正しようとするバーナビーに、こんな時まで、そこにこだわるのかと、虎徹は苦笑した。
虎徹はダウンタウンに数多く並ぶ、タウンハウスの一角を借りている。ワンルームにロフトがついただけのこじんまりとした物件だが、一人暮らしには十分な広さと設備を持っていた。
リビングのソファに、堅い上着を脱がせたバーナビーを寝かせると、キッチンに飛び込んで濡れタオルと気付けのウイスキーを持って戻ってくる。
ぐったりとしたバーナビーの様子が、気がかりでならない。
「なんだかなぁ。こいつがここまでダメージ受けるって、何があったんだ」
まだ起きあがれそうにないバーナビーの額に濡れタオルを乗せてやり、ウイスキーの蓋を開けて、小ぶりなショットグラスに少し注いだ。
「どうだ、飲めるか?」
「・・・」
返事が返ってこないのを確認して、虎徹はグラスに移した琥珀色の液体を、自分が代わりに飲み干した。
「お前からもらった三十年物のモルトだぞ。おいしーんだぞ。おーい、バニーちゃーん」
「・・・」
返事はないままだったが、バーナビーの胸元が上下しているのを確かめ、虎徹はボトルとグラスを持ったまま、リビングを見おろす階段へと移動する。
一時間ほど経ってもバーナビーの様子が今と変わらないのであれば、すぐに病院にかつぎこもうと虎徹は考えていた。プライベートでヒーローが病院に行くなんて、身体能力に関しては一般市民よりも頑健で健康でなければならないのに、恥ずかしいにもほどがあると、後でバーナビーにはさんざん叱られるだろうが、そんなのは知ったことではない。
「だいたい、それだけ丈夫なのに、あっさりやられちまってんだから、なんか訳があるだろーが」
【それは、不意をつかれたからです】と、バーナビーが真剣に抗議してくるのを、虎徹は容易に想像できた。
階段から見おろすと、ただでさえ白いバーナビーの顔はよりいっそう血色が悪く、青白くさえ見える。不快さが続いているのか、苦しげに表情を歪めているのが虎徹には気になった。
「あんなしかめっつらして寝てたら、せっかくのハンサムが台無しじゃねぇか。眉間に取れない皺でも入ったらどーすんだ」
バーナビーを捕らえていたのは、顔は確認できていないが、虎徹によく似た背格好の男だった。いや、そっくりだったと言っても良い。
「抵抗できない理由があるような、相手だったってのか・・・。誰なんだ、あれ・・・」
まるで玩具のようにバーナビーを弄んだのが、傷跡から想像できる。どの傷も本気ではなく、薄皮一枚だけを切り裂いているだけだ。もっとも酷いのは首筋の傷で、そこだけは出血がはっきりと確認できた。
「首筋に噛みつくなんて、吸血鬼かよ。いくらハロウィンだからって、やりすぎだろうが。サプライズってのはなぁ、もっとこう・・・」
虎徹は今日が十月の最終日だった事に気づいた。
「あれ…?んじゃ、今日がバニーの誕生日だったんじゃね?」
まだバディを組んだばかりで、互いに心許せるほどの距離感ではなかった頃に、ヒーロー達で企画したバーナビーへのサプライズバースデーは、ちょうど一年前のことだったのか。
「いや、早ぇな。もうそんなに時間経ったのか。まぁ、そりゃそうだよな。新しいシーズンも始まってんだし。だけど、やっぱり…」
一年前にはこんな事になるとは思ってもみなかったと、虎徹はグラスにもう一杯ウイスキーを注いで口をつけた。
ネクストの能力については、今でも原理など、これといった研究がなされていない。まして能力減退などという、稀なケースに対する処方箋など誰も知らなかった。
蝋燭の炎が消える寸前に、炎は大きく明るく燃えるのだという話なら、虎徹も昔から良く知っていた。それが真実かどうかは、実験してみた事がないので、あくまで噂として聞いただけだ。幼い頃に祖父に連れられて行った寄席の会場で聞いた、「死神」という落語の噺の中にも、その手のネタがあった。明々と燃えていた命の炎が、フッと掻き消える場面を壇上の噺家は、さもそこに蝋燭が燃えているかのような臨場感たっぷりに話して聞かせてくれた。まだ子供だった虎徹の背中に、冷たい汗が流れるほどのリアリティだったのを、まざまざと思い出すことができる。
「ベンさんにメモを取れって言われたからな、あれから毎日記録取ってっけど…自分で確認すんのは、ちっと辛ぇな」
ある日は一秒、ある日は二秒、前日と全く変わらない日もあったが、発動時間がもとに戻ることは無かった。能力を使える時間は、確かにじりじりと減っている。
能力減退が起きて体調がおかしいというのならまだしも、いつもの通りに身体は動き、自覚症状などは何ひとつ感じられない。ネクストを使える時間を示す数字だけが、じりじりと減ってゆくだけだ。
「このまま能力が無くなっちまったら、ヒーローどころか俺ぁ、ただの無職のおじさんになっちまうよなぁ…」
多感な子供の頃に、レジェンドというスーパーヒーローに出会い、それからは自分もヒーローになる事に憧れ続け、そしてついに夢を叶えた。あの瞬間、どれだけ嬉しかったことか。
シュテルンビルトの市民を護り、街を守るヒーロー稼業は、思い描いていたものとは多少違ってはいたが、それでも一人のヒーローとして、十年間も戦い続けることができた。イワンの友人のように熱意も才能もありながら、不運な事故でヒーローになる夢を断たれた青年もいるというのに、それを思えば何という幸せ者だろう。
妻の死に目にも会わずに務めてきた仕事なのに、最愛の娘に活躍を理解させられないまま、ヒーローを降りるのかと思うと、どうにもやりきれない気分になる。
それに相棒のバーナビーには、どう説明すればいいのだろう。アポロン・メディアの大きな企画であるバディ・ヒーローを、たった一年で終了させなければならないと彼に告げるのは心苦しい。
信頼できない、気が合わない、テンポも合わないの三拍子そろった即席のコンビが、やっと一つのチームとして働けるようになったというのに。まして、ときおり常識はずれなほど感情を持てあますバーナビーから目を離すことになるのが、虎徹には心配だった。
「一人で…やってけるのか?こいつ。いや、大丈夫、大丈夫だよなー。何しろ今年のキングオブヒーローなんだぜ。俺がいなくても、上り調子でファンも激増、ブイブイ言わせちゃう…って、でもなぁ…やっぱなぁ」
虎徹は小さなショットグラスを、バーナビーに向けて軽く差し出した。
「早く起きてよ、バニーちゃん。二人っきりでいいから、お誕生会やろうぜぇ」
バーナビーからの返事は無かったが、その代わりに妙な声が虎徹に届いた。
『戻してやろうか、お前のネクスト』
ガラスを引っかくような不愉快きわまりない金属質な声が、虎徹の鼓膜を震わせる。
「誰だ?いや、俺の空耳か?」
ショットグラスから口を離さずに、虎徹は視線を周囲に滑らせた。先ほど能力を使ってから、まだ一時間は経っていない。しかし生身の状態でも、緊急時にはすぐ対処できるように、毎日のトレーニングを行っている身としては、多少怪しげな事象に怯えている訳にはいかない。
『ドコ見てんだヨ』
低い含み笑いが聞こえてきたが、方向性を持たない声に、虎徹は眉をしかめることしかできない。まるで頭の中に直接響いてくるような声だった。
窓ガラスの向こうで何かが動いたような気がしたが、それは自分の姿だとすぐにわかってほっとする。
『鈍いヤツだなぁ。まぁだ気がつかねぇのか?』
同じ声だ、と虎徹はようやく気づいた。
さきほどから聞こえてくるのは、自分が声を発した時に自分が聞いている声と同じものだ。
夕刻の薄暗がりに包まれた戸外の鈍い風景が映る、階段脇の細長いはめごろしの窓へ、虎徹はもう一度視線を戻した。
窓に映っているのは、虎徹以外には誰もいない。少し驚いたような眼差しも変わりなく、脱ぎそびれたままのハンチングも同じ形をして頭の上に納まっている。虎徹は訝しがりながら、窓のガラスに向かって手を伸ばしてみる。
指先が窓ガラスに触れる寸前で、正面を向いていた向こう側の虎徹の唇が、おかしくてたまらないと言わんばかりに、深く三日月に歪んだ。
「…だっ!」
虎徹は窓から手を引いて、階段ぎりぎりにまで身を退いた。
しかしガラスの向こう側にいる虎徹は、そこから動かなかった。不敵にと笑った表情も変わらず、定番の呪文を口ずさむ。
『trick or treat』
「なんだっ、てめ…!」
『ハッピー・ハロウィン、鏑木虎徹』
ハンチングを深く引きかぶり、影になった暗がりからこちらを見ている影の虎徹の瞳は、紅色に輝いていた。ネクストを発動させている時のヒーローたちの瞳は、明るい蒼色に輝き続けるが、ガラスの向こう側から届く光は、炎より血の色を思い出させる、闇の色合いを含んでいた。
『悪戯か、御馳走か?』
「ふざけんな、この…出て来い!」
『ご招待、痛みいる』
影の虎徹の笑みがいちだんと深くなり、こちらに向かって手を伸ばした。
「うえ、しまった…!何やってんだ、俺…!これで何度目だよー!」
ガラスから実体化した指が突き出してくる。人ではない得体の知れない存在が、ゆっくりと部屋に侵入してくるのを、虎徹は止められない。この部屋に入っても良いと、部屋の主人である虎徹自身が、彼を招待してしまったからだ。
「この、グレムリンどもがー!」
電気も通わない遥かな昔、シュテルンビルトがまだ小さな都市だった頃から残る、ブロンズステージのダウンタウンには、今でも様々な噂と伝説が残っている。ハロウィンの夜に徘徊するグレムリンは、その中でも有名な話なのだが、このフラットを借りたばかりの頃の虎徹は、それを知らずに酷い目に合わされたことがある。ダウンタウンに住む市民たちにとっては、ハロウィンが近いた頃にお菓子を準備しておくのは常識だった。しかしシュテルンビルトとは文化の異なるオリエンタルタウンで生まれ育った虎徹に、そんな習慣が身につくはずも無く、失言を何度も繰り返しては、やつらにイタズラされている。それでも懲りないのが虎徹らしいが。
『お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞ』
「てめぇらにやるモノなんか、何にもねぇよ!帰れ!」
『せっかくお前の影が具現化して出てきたのに、冷たいこと言うなよ。もうちょっと優しくして欲しいもんだな』
禍々しい色の瞳を輝かせて、薄暗がりに立っているかのように、ぼんやりと暗い色をした自分の姿を前に、虎徹は自分の失敗を苦々しく後悔していた。
「何やってんだ、俺…」
姿かたちは、自分と少しも違わない。鏡に映った姿そのものだ。ボタンの位置が逆転している事でも、それがわかる。
『帰ってもいいが、御馳走はどこだ』
「適当にそのへんの御菓子でも飴ちゃんでも持ってけ!」
『そ』
階段から床に向かって侵入者は飛び降りた。確かに着地したはずなのに、何の音も聞こえない。風に吹かれた木の葉が、地面に降りた時よりも静かだ。
ひょいひょいと歩く姿までが、虎徹のおどけた動きとまるで同じで、虎徹はそれを背後から見せつけられて不愉快な気分になる。キャラ作りのために、日常から敢えてやっているポーズだが、それを揶揄されているように感じた。
「俺の真似してんじゃねぇよ!」
『真似ぇ?当たり前じゃないか。オレはお前の鏡に映った影なんだぜ。お前が要らないって捨てたモノ全部、向こう側に置いてきたモノ全部、そういうカケラでできてんの』
男がソファに横たわっているバーナビーに近づくのを見た虎徹は、あわててショットグラスのウイスキーを、一気に喉の奥へ流し込んだ。残った瓶の口を塞いで、虎徹も同じように階段から飛び降りる。床に着地すると、床が鈍く揺れた。
急がないと間に合わない気がする。これが現実か夢なのか、そんなのは目が覚めてから考えればいいことだ。
「バニーに近づくな!」
『へへ、睫が長くてカワイイねぇ、ウサギちゃんは』
枕元でバーナビーの顔を覗き込みながら、にやにやと侵入者は笑う。
「まさか、路地裏でバーナビーに手を出したのは、もしかしてテメぇか?」
『もちろんだ』
と、そいつは牙を剥き出しにして笑った。絵本の鬼のように鋭い牙は、水晶のように透明な輝きをしていたが、かすかに血で曇っていた。
『悪戯か御馳走か。お菓子が無いなら悪戯するぞ。ハロウィンの夜に戻ってきた、シュテルンビルトのグレムリンが、馴染みの鏑木虎徹に魔法をかけてやるって言ってんだよ。俺たちにお土産をくれるなら、減退したNEXT能力を元に戻してやる。ぴょんぴょん跳ねてお耳のながーい。カワイイ兎ちゃんを、こちらにおくれ』
「だっ!誰がやるか!」
『NEXT能力が無くなったら、自分はただのオジサンだって、さっきは、自分でも言ってたくせに。父親としても息子としても夫としても、何もかも全部中途半端にしかできない、ろくでなし。ヒーローだけが、唯一残った存在意義だってわかってるのに、それを失ってお前はどう生きる?残りの人生、どう過ごす?鏑木虎徹。自分がいちばん好きな鏑木虎徹。大切なNEXTと、大事な相棒を天秤にかけられるかい?』
「かけられる訳ねぇだろうが!俺の問題は俺のモンだ!ちょっかい出してくるんじゃねぇ!」
「ちぇ、ダメだってよ、バニーちゃん」
膝を曲げてバーナビーの金髪に、ヤツはキスをした。
「バニーに触るな!」
背後から偽の自分に腕を伸ばしたが、虎徹の手が届く寸前に身体が縮んだようになって、重さが無いような動きで、ヤツはソファの背もたれを軽く飛び越え、出入り口に繋がる扉の前に立った、
「部屋には入れても、条件付きの願望成就には、いっつもうんと言わないんだなぁ、鏑木虎徹」
「そうそう、お前らの都合良くいくか!」
「お前の気持ちはよーく判った。が、相棒のバーナビーはどう考えているかな?彼の気持ちも聞いてみなくっちゃな」
片手を上げたそいつの指は、まるで楽器のように響き、周囲の空気を震わせる楽器に変わった。変哲も無い指先が、高く掲げられた偽虎徹によって、小気味よい破裂音を響かせた。
「行くぜ、相棒」
偽虎は部屋に背中を向けたまま、片手を上げてバーナビーに呼びかけた。
ソファで力なく眠っているはずの、バーナビーの目が開く。虹彩の奥まで見通せるほど透明な緑色の瞳の中には、いまだ意志の輝きは灯っていない。ただ大きく見開かれた瞳が、正面を向いているだけだ。
バーナビーの身体は、何かに導かれたかのように起き上がり、ソファにすがるようにして身体を起こした。しばらくそのままの姿でぼうっと天井あたりを見つめている。
虎徹は急いでソファへと駆け寄った。嫌な予感がする。
「バニー?目ぇ覚めたのか?」
ソファごしに虎徹はバーナビーに声をかけたが、聞こえてはいない様子で、バーナビーの視線はどこにも向いていない。それなのに、ソファから立ち上がったバーナビーは、危なっかしい足取りで歩き始だした。
色硝子の冷たさを保ったままの瞳には、目の前にいる虎徹の姿が映らないのか、無反応のまま通り過ぎてゆく。
「ちょ・・・バニー?」
無視された形になった虎徹は、バーナビーを追いかけようとしたが、その瞬間に鋭く刺すような痛みを、片目に感じた。
「痛っ・・・!」
とっさに目を押さえたが、その間にバーナビーは虎徹の手をすり抜け、おぼつかない足取りで偽者が待つ玄関へと近づいていった。
「ちょ、待てよ!バニーちゃんてば!」
片目をこすりながら、バーナビーを追いかけていった虎徹は、信じられないものを見せつけられた衝撃に、その場で凍り付いた。
片腕でバーナビーの腰を引き寄せた偽虎は、夢でも見ているかのような表情のバーナビーの頭を抑えて、さも当たり前のように抱きしめる。
「帰るぜ、バニー」
「・・・はい、虎徹さん・・・」
返事を促されて、ようやく答えたバーナビーが見せた表情を見た途端、虎徹は自分の腹がひどく煮えるのを感じた。理不尽な怒りの塊が、胸の奥からわきあがる。
記憶にあるバーナビーが見せた嬉しそうな表情の中でも、その笑顔は極上のものだった。恥じらいと嬉しさが同居して、どう応えていいのかわからず、それでも相手を喜ばせたいと思った時の、豊かで満足した時の目をして、バーナビーはそいつに笑いかけていた。
そんな顔は、自分にだけ見せるものだと虎徹は無意識に思っていたのだろう。
こみあげた怒りは、一人で押さえられるほど簡単な物ではなく、虎徹は自分が激怒したのもわからないほどだ。口から出たのは、ただ感情にまかせた叫びに近いものだった。
「返せ!てめぇ、バニーを離せよ!」
偽虎は虎徹の威嚇にたいした反応も見せず、ただ口元を歪ませる。
「こいつは、自分から俺のところに来たんじゃないか。返せもないもんだ」
「うるせぇ!」
自分を押さえきれず、虎徹は偽虎に飛びかかる。
何の考えもなく、相手の腕につかみかかった虎徹だったが、一瞬で天地が逆転した。相手の手首に触れると同時に、逆手で両腕が捕らえられ、信じられないようなパワーで全身が宙に浮いた。
気がついた時には、数メートルも吹き飛ばされ、ソファの真上に自分の身体があるのを虎徹は感じた。
背中からソファのスプリングの上に落下し、激しくバウンドして床に落ちる。テーブルに脚が引っかかって、その辺りに置きっぱなしになっていた雑誌や新聞がなだれを起こした。
トレードマークのハンチングが、一瞬遅れて虎徹の上に降りてくる。
「いっ・・・て」
打ちつけた背中に打撲の痛みが広がって、すぐには動けそうにない。
「・・・虎徹、さん・・・が、二人?」
空中に投げ飛ばされて、ソファに落下した虎徹の凄まじい衝撃音に刺激され、ぼんやりしていたバーナビーの意識が上に昇ってきた。今まで見えていても見ていなかった風景が、はっきりとバーナビーに届いた。
二人の虎徹を前にして、バーナビーは目を丸くする。わずかな違いはわかったが、それだけでは、本物と偽物の区別がつきそうにない。
「どうした?」
さっきまで自分と一緒にいた虎徹が、面白そうにバーナビーの顔をのぞき込んできた。
「あな、た、虎徹・・・さ、ん?」
「何言ってんだよ。俺が誰か、わっかんないのか?」
「だ・・・?」
まだ焦点の合わない意識を持て余して、バーナビーは額を押さえ、首を左右に振った。
首筋にぴりっとした痛みが走り、バーナビーはようやく記憶を繋ぎ直すことができた。
「だ、れ・・・?」
「カブラギコテツ、だよ」
ハンチングの短いひさしの下で、暗がりに潜んでいるような男の目が、バーナビーを凝視する赤い色には、いつもの穏やかな瞳の深さはなかった。
「ちが・・・」
偽虎徹はバーナビーに向かって一歩、足を進める。同じ距離でバーナビーが背後に身体を逃すと、また同じだけ距離をつめてゆく。 キッチンセットの端に背中が当たって、バーナビーは逃げるのを止めた。
「どこに逃げるの、ウサギちゃん」
逃げ場を失ったバーナビーに、片手が伸びてくる。その右手にあるのは、緑色のラインが入ったPDAではなく、鈍い紫色をしたパワーストーンのブレスと、ワイルドなデザインの腕時計だ。
「見ろよ、俺は誰のものでもねぇんだぜ。だから俺と来いよ、バニー」
そう言った偽虎は、左手の薬指に指輪をしていなかった。代わりに右手の薬指に、リングをつけている。鏡に映った姿だからだ、と言えばそれまでだが、契約をしていない証を目の前に見せつけられて、バーナビーは自分が意識していなかった、心の棘に気づかされた。
「・・・!」
「気にしてたじゃないか。出動の時だけ契約の印をはずして、お前だけの相棒になるが、日常は絶対に指輪をはずさない、頑固なあいつの指輪を」
まだ少し身体が痺れてはいたが、差し出された男の手を、振り払う程度のことはバーナビーにもできた。鋭く打ち返した男の手は、戸惑ったかのように空中で止まる。
「だ、ま・・・れ」
「何だよ、あんなに気持ち良さそうな顔してたのに。また、キスしてやるぜ。悪戯か、御馳走か。お菓子がなければ、悪戯するぞ」
ハンチングの下で輝く赤い目が、バーナビーを狙う赤外線のターゲットロックのように、執拗に視線を合わせてくる。
耳の下から入り込んできた指先が、巻き毛の先をつまんでいじりはじめても、バーナビーは動くことができなくなっていた。
「憧れてたよな、ずっと。もっと近くに、もっと側にいたいって。あいつが他の誰も入れようとしない特別なところに、自分の居場所を作ってくれたら、どれだけ安心できるかって、想像しては諦めてきただろう?たまたまバディに選ばれたから、相棒と呼ばれるんじゃなく、あいつ自身に自分という存在を認めてもらいたいと、ずっと願っていたんだよな」
喉元につけられた傷跡に、指先が触れそうになって、身体が無意識に緊張して震える。姿は鏡に映った時と同じように逆向きだが、声は全く同じだ。同じ声で囁かれると、背中に緩い電流が走ったかのように、鋭い快楽が残った。
「こうやって、優しく触って欲しかったんだろ?」
「や、め・・・」
何もかも見透かされていると判って、バーナビーは取り繕う術を失って、羞恥に全身を震わせる。ただでさえ白い肌が、恥ずかしさに染まって赤味を増し、頬から耳朶までが真っ赤に染まる。
「だけどキスは、挨拶や冗談の軽いやつじゃ、ぜんぜん物足りない。そうだよな」
ヒーローTVのバラエティ企画や、雑誌の特集などで、演出を盛り上げるために、人前で虎徹とキスを演出した事は、何度かあったが、それはあくまで仕事の一環にすぎない。感情が入り込む前に、ただの演技としてこなしてきたにすぎない。
だが、仕事の後で思い出す度に、バーナビーは自分の胸が高鳴るのを知っていた。気にするまいと思えば思うほど、どうしても虎徹の事を考えてしまう。自分以上に、キスをこともなげに合わせてくれたのは、好意なのかそれとも、と。
「返・・・せ」
自分の頭を抱えて、バーナビーはキッチンの壁に背中を押し当てる。
「それは、僕の、言葉・・・」
偽虎の指先はひんやりと冷たくて、生きている者の温もりを感じる事はできなかったが、それでもひどく優しい動きをしてみせる。膝から力が抜けて、その場にしゃがみこんでしまそうになるのを、バーナビーは両腕に力を込めて耐えた。
それは自分が言うべき言葉だ。たとえ永久に口にできない物だとしても、他の誰かに奪われるために秘めておいた言葉じゃない。どうしてこいつが知っているのか、驚きとともに悲しさがこみ上げてくるのを、バーナビーは感じた。そんな自分が、ひどく哀れに思えて仕方がない。
「だけど、どうしても、言えなかったんだろ?可哀想なバーナビー」
「ふっざけ、んな!」
不意に虎徹の激怒した声が響き、偽虎徹の指先に飲まれそうになっていたバーナビーは我に返った。
「バニーは俺んだ!触るんじゃねぇ!」
ソファに叩き込まれて、少し痛みに動けなくなっていた虎徹だが、起きあがるなり相手を威嚇する。
「お前の?いつから?」
「最初っからだ!」
ひととびでソファの背中を飛び越えて、虎徹は偽者へと全身でぶつかっていった。両腕を広げて、敵を確保しようとしたが、それはできなかった。
「!」
そこにはもう、誰もいない。霧散する何かの残骸が、虎徹の両腕をすり抜けてゆくのが判る。まるで何百にも分かれた、小さな蝙蝠のような影になって、一気に部屋の中へと広がった。
同時に突風が部屋中を駆け抜ける。窓が開いているはずがないのに、信じがたい風が吹き荒れて、虎徹とバーナビーは身動きができなかった。
「バニー!」
膝の力が抜け、その場でうずくまってしまいそうになったバーナビーを、虎徹が両腕で抱きかかえる。台風の最中に飛び込んでしまったように、周囲を暴風が吹き荒れた。部屋の小物を巻き上げなぎ倒し、どこかに出口はないかと探しているかのように、部屋中を風が荒れ狂う。
どこかで堅い物が落下して、床を転がってゆく音が聞こえた。同時に何かが割れる音もする。
複数の笑い声が巻き起こったのはその時だ。大人とも子供ともつかない哄笑が爆発的にわきあがり、二人の鼓膜を叩きのめす。
自分と同じ姿をした何者かに、バーナビーが特別な笑顔を見せた時に感じた腹の煮え具合は、今まで虎徹が体験したことのないものだ。なぜだ、と心の中で意味もなく叫ぶ自分がいる。理由が知りたい訳でもないのに。
その笑顔は自分にだけ向けられるものでなくてはならないし、他の誰にも見せたくない。これほど自分の中にバーナビーに対して、独占欲が育っているとは、虎徹自身も知らなかった。バーナビーにとってバディである自分は、世界中にたった一人しかいない、特別な存在だと、無意識のうちに信じているという事を、虎徹はたった今思い知った。
永久に誰にもその笑顔を向けないでいるのなら、もしかしたら耐えられるかもしれない。だが他の誰かがいてはダメだ。それは許せない。なぜならバーナビーは。
バーナビーは、自分のものだから。
ぎょっとするほど簡単な答に、虎徹は身体が熱くなるほど恥ずかしさを感じる。まるで、恋を始めたばかりの少年のようだ。今さらそんな言葉がでてこようとは、想像もしていなかった。
「くそ・・・!」
「虎徹、さ・・・」
「出てけ!俺んちで遊ぶな!さっさと出ていきやがれ!」
虚空の何者かに向かって叫ぶ虎徹には、バーナビーには見えない物が見えているように思えたが、何かが判っている訳ではない。ただ、勘で怒鳴りつけているだけのことだ。
「いいか、こいつは俺のだ!二度とちょっかい出すんじゃねぇ!」
覆い被さる形でバーナビーの身体を支えていた虎徹は、何者かに宣言すると顔の向きを変えて、まだ痺れの残るバーナビーに唇を重ねた。
驚きに目を閉じることも忘れ、バーナビーは仕事で交わすキスよりもずっと、濃厚で熱い口づけに身体を震わせる。挨拶でも冗談でも仕事でもないキスを虎徹と交わすのは、初めてだったからだ。
荒れ狂っていた部屋の中の嵐が、いつしかなりを潜めてゆく。接吻中の彼らの耳には、おそらく風がおさまった事も伝わらない。自分の鼓動が激しく鳴り響いているのを、鼓膜の奥で受け止めるだけで精一杯だったろう。
しん、と静まり返った部屋の中で、そこだけが生きていた。
ゆるゆると互いの唇が扉を開け、内側の温もりを確かめることを許し合う。象牙の門を越え、ふくよかな舌先が睦みあいを求めて、何度も行き来を繰り返した。
虎徹に強く舌先を吸いあげられると、まだ痺れのとれないバーナビーの頭の芯が、じわりと現実から遠ざかろうとする。このままどれぐらいなぶられたら、意識を失えるのだろう。体中が震えて、虎徹にすがりつきたくなる。内側に入ってくる彼の身体の一部に、どう応えればいいのかと、それだけが気にかかる。
かき回された口からようやく唇が離れると、飲み込み損ねた唾液の一滴が糸を引くように、互いを繋いでいた。
「・・・悪かったな」
「こ、てつ・・・さ・・・?」
「俺が悪かった、許してくれ」
虎徹はまっすぐにバーナビーを見つめながら、そう言った。
「あんな奴に先に言われちまうなんて・・・。自分はなんつー、不甲斐ない…。俺だって、薄々、判ってたんだ。なのに、おまえが気を使ってくれるのを良いことに、知らない素振りを決め込んで・・・大丈夫だ、このままで良い、きっと気のせいだ・・・そう自分に言い聞かせてきた罰だ」
「僕、あなた、の…、って?」
まだ舌の痺れが取れていないバーナビーは、うまく話すことができない。切れ切れに問いかける言葉に、虎徹は複雑な笑みを向けた。
「その後の事ばっか考えちまうんだよ、年取るとな。好きだからどうしたいか、なんてことより、伝えた後にどうしたらいいんだろうとか、もしワルイ影響が出たらどうするんだとか、全部外側に問題を見つけようとして、身動き取れなくなっちまう。ずっと…」
唇の端から滴っているバーナビーの唾液を、虎徹は親指で上向きにぬぐい取ってから、もう一度軽くキスをする。
「ずっと前からお前はオレのだって、確信してんのにな。愛してるぜ、相棒」
本音を言うよりも先に軽口が出てくる虎徹の舌が、愉快な単語を選ぶよりも前に、伝えるべき言葉を選んだのは、目の奥に入り込んだ小さな痛みが、気を逸らすことを許さなかったからだ。
いつでも口にする準備をしていながら、いざその場になると腰が引けてなんでもなかったかのように、さらりと別の言葉に変わってしまう虎徹の悪い癖を、小さな異物は怒ってでもいるかのように、繰り返し虎徹を刺した。
うっすらと涙目になる程度の、ほんのわずかな痛みでありながら、何もなかった事にはできない今を、虎徹に思い知らせるには十分だ。
身も心も預けられる誰かが隣にいる事は、束縛だと嫌っていたのかもしれない。誰にも心許せず、ただ一人の虚しい日々を過ごすことが自由だと宣言していたに過ぎない。
その手に触れたい。いつでも自由に、どこででも、許されている事を実感したい。誰の目も気にせず、見返りも求めず、支払う代価などなくても、ただ甘えていたい。無邪気な子供のように、ばかばかしくなるほど自由にだらしなく、あなたの腕にすがりたい。冷え冷えとして甘えることを許されないバーナビーの日常、彼が生涯この日々が続くと思い込んでいた日々は、すでに遠いものとなった。
小さな生き物のように、ただ甘えるだけで可愛がってくれる誰かを求めてもいいのだと、バーナビーはようやく知ることができた。この人と二人きりでいる時だけは、小さな子供に戻ってもいい。誰もが皆そうなのだ。どんな人間だって、みんなそうなる。
人は愛されても愛しても幸福になれるけれど、甘える相手が必要だ。呆れるほど甘えたい。崩れるほど素直になりたい。意味の無い言葉を並べて、あなたの膝で眠りたい。あなたの優しさが染み込むまで、抱きしめられていたい。
「ぼ…くも…」
胸の奥から嬉しさと共に熱い涙が膨れあがってきて、バーナビーは喉がつまる。どうにも声を出すことができずに、ただあふれ出す涙をそのままにして、棒立ちになっていた。止めどなく流れてゆく涙が頬を伝い、耳朶の後ろを回って生え際までを濡らす。
「スマン、いきなりで、驚いただろ」
「ちが、うれ、しく…て…」
息を吸うことはできるが、なかなか吐き出す事ができず、身体を震わせていたバーナビーは、虎徹の腕にすがりつくようにして、頭を落とした。虎徹の胸に額が当たると、上から手が伸びてきて、子供の頭を撫でるかのように髪の毛をかき回される。
子猫が喜びで親猫に身体をすり付けるのと同じやり方で、バーナビーは愛情深く頬で虎徹を慕った。
「嬉しいです、僕は…僕だけが、ずっと僕だけが、こんな気持ちでいたんだと、そう…思っていたから…」
「んな事あるかよ」
頭を撫でていた虎徹の手が止まり、指先が髪に差し込まれてしっかりと頭を抱く格好になる。
「こんなにキレイで可愛いバニーちゃんを、欲しくないヤツなんかいるか?いねぇよな。いるはずがない…ダロ?」
そのままバーナビーの頭を持ち上げて、頬ずりする虎徹の髭が少し痛い。
キッチンセットを押さえていた腕をはずし、バーナビーは虎徹の肩に両腕を回した。体重をまかせていた壁から背中を離し、虎徹に自分の身体を密着させる。力をこめるでもなく、二人は容易に重なりあった。
アイパッチをつけたままの虎徹の顔が近づき、まだ止まらないバーナビーの涙を舌先で受け止める。涙の跡を舐め取られてゆくのをじっと待っているうちに、虎徹の手はバーナビーのカーゴパンツを飾る白いベルトに触れていた。
ベルトを緩め終えるには、張りつめた箇所に何度も触れることになる。いつになく硬質に変わっている内側を感じて、バーナビーは羞恥に全身を浸した。
虎徹が下着と一緒にカーゴパンツを引き下ろすと、布の力で押さえつけられていたバーナビーのシンボルが、若さを知らせるかのように屹立していた。
髪の毛よりもわずかに濃い色をした陰毛に囲まれてそそり立つバーナビーの若さを、虎徹はそろえた指の背中側でそっと下から撫で上げた。
「お前のって、普段とそれほどサイズ変わんねぇんだな。いや、心配して損したわ」
「ちょ…何言ってるんですか、ムードの無い」
「おお、すまんすまん」
緊張をほぐそうとした虎徹の軽口に、バーナビーは少し笑った。
「あ、あの…」
「どした?」
おずおずとバーナビーは、虎徹に願いを告げる。
「アイパッチを、はずしてもらえませんか…その…汚してしまいそうで」
バーナビーに言われるまで、虎徹は自分がまだ顔に、外出する時には必ず装着する、トレードマークの黒いアイパッチをつけていることを忘れていた。
「ああ、わかった」
片手でアイパッチを引きむしると、虎徹は無造作にキッチンセットの上に投げた。
素顔に戻った虎徹の顔に向かって、まっすぐな視線を向けようとしたが、バーナビーは恥ずかしすぎて視線を送ることができない。
「うまくできっか…あんま自信ないんだけどな」
指を絡めて、先端の最も柔らかい部分を親指の腹でなぞる。亀裂から薄く滲み出てきた体液が、指先から次第に広がっていった。
「は…ぅ」
押しつぶしながら行き来する虎徹の指先を感じるだけで、今にも達してしまいそうなバーナビーの身体は、細かく震えている。
「ま、なんとかなるダロ」
虎徹はペロリと自分の唇を舐めてから、おもむろにバーナビーのものに口をつけた。
「・・・!」
がくんとバーナビーの膝が揺れて、今にも崩れ落ちそうになるのを、壁に当てた背中で支える。両腕を広げて壁にしがみつくと、やっとの事で高さを保つことができた。
バーナビーの綺麗に剥けきっている先端の柔らかい部分を、虎徹は唇の裏側で挟んで吸い上げる。舌先に当たる、ぬるつき始めた亀裂に、そのまま先端を食い込ませると、バーナビーがかすかに声を漏らした。
温かくしなやかな物が、体液を舐めてゆくのを感じて、バーナビーは痺れにも似た心地よさにじっとしていられなくなる。わずかに腰を蠢かせ、もどかしい気持ちを慰めようとしていた。
「・・・ぅ」
身体に感じる快感よりも、胸を押し包むような幸福感が、バーナビーを支配している。愛されているという証明を、身体で示される幸運に、今は酔いしれても良いと、ようやくバーナビーは理解できた。
「い・・・ぃ・・・気持、ち・・・い・・・」
「そっか」
一瞬だけバーナビーから口を離して答えた虎徹は、再び口にした時には、思い切り喉の奥深くまで、勃起したままの男根を飲み込んだ。
「・・・ふぁ・・・あ・・・」
喉の奥に当たる部分を、微妙に動かしてやると、バーナビーの喘ぎが喉から押し出される。
「虎徹、さ・・・ぁ・・・ん・・・」
ぎりぎり根本まで飲み込めるかどうか、というほど膨張している物を口にしては、返事をする事はできない。
その代わりにゆっくり上下に擦り上げては、また飲み込む事を繰り返す。粘膜の洞窟に包まれた肉体が、かすかに痙攣したような気がした。
「あ・・・ぁ・・・あ!」
バーナビーの両手が壁からはずされ、虎徹の髪をつかむ。強引にバーナビーから引き離された虎徹の顔面に、白濁した精液が降り懸かった。
「っ、おい・・・早ぇな・・・」
「そん、な・・・事、するから・・・」
全身をがくがくと震わせながら、バーナビーは少しも衰えない自分の物を持て余すかのように、その場にしゃがみ込んだ。
「・・・すみません・・・やっぱり、汚しちゃった・・・」
小さな子供のように床に座り込んで、膝と頭を抱えてしまったバーナビーに、虎徹は胸を突かれた。
思わず金色の髪に手を突っ込み、子犬と遊ぶ時のように、何度も頭を乱暴に撫でる。
「なぁに言ってんだよ。俺がそうなるようにしたんじゃねぇか。ばぁか言ってんじゃねぇよ」
「でも・・・」
「しっ、もう言うな」
べとつく体液を片手で顔から拭い、虎徹はバーナビーの顔を起こした。
「虎徹さん」
今にも泣き出しそうなバーナビーの顔に、たった今出したものを、斜めに塗り付けると、虎徹は頭を引き寄せてキスをした。
「なに・・・」
「汚れちまおうぜ、相棒。これぐらいの汚れなんか、全然気になんないぐらい、ぐっちゃぐちゃにしてやるよ」
蜂蜜色の瞳が、翠玉色の瞳を真っ直ぐに見つめている。
「虎徹、さ・・・」
「だいたい、汚れたって、後でシャワーで落とせばヘーキ、だろ?」
悪戯っ子のように、いつまでもくすくすと笑う虎徹に、バーナビーもつられて笑った。
「そう、ですね。洗えば、きれいに、なるんですよね・・・」
「気にすんなってば。良いんだよ、好きなだけ汚しちまえよ。こんな時までおまえはさぁ」
よしよし、と虎徹はバーナビーの頭を胸に抱いた。
調味料棚からオリーブオイルのボトルを降ろすと、手のひらいっぱいに上等のバージンオイルを滴り落とした。男の掌に余るほどのオイルなら、足りないということはないだろうからと、床が汚れるのも気にしない。
バーナビーの下だけを脱がせて、赤いライディングブーツだけになった姿が過剰にエロティックに思えて、虎徹は直視することができずにいる。
「床、何が落ちてるかわかんねぇからな。それ履いとけよ」
「…はい…」
恥ずかしさが先に立つからか、バーナビーはいつになくしおらしい。抗議の気配も見せずに、虎徹に言われるがまま服を脱いだ。
細く赤い痕跡が、肌のあちこちに浮かび上がっている。それはどれもが襲撃者の爪に傷つけられた痕に間違いなく、虎徹は悔しさに顔を引きつらせた。あんなヤツにこれだけの暴虐を許したのかと思うと、待ち合わせに遅れる自分に腹が立って仕方がない。
最も色の濃い肩口の傷跡に口をつけ、舌先で傷を癒そうとする獣のようにしばらく舐めてみる。すぐに傷が消えるはずはないが、それでも虎徹の気持ちは少し落ち着いた。
「…後ろ、向いてみな」
キッチンセットに腕をつき、背中を見せたバーナビーの下肢を左右に割って、虎徹はオリーブオイルにまみれた手を差し込んだ。とろりとした油が指先を伝って深みにまで達する。肌に触れて温もりを持った油は、体温と同じ暖かさを保ち、バーナビーの身体をすくませるような事はしない。
門の前面を行き来し続ける虎徹の指先が、次第に細道を圧迫を増してくるのを感じ、バーナビーは息を深く吸った。最初にするりと潜り込んで来たのは、短いが太さのある親指に違いない。
「…っ」
声にならない吐息で、バーナビーは感触を虎徹に伝えた。
「痛くないか?」
小さな声で尋ねられて、バーナビーは黙ったまま首を横に振った。身体の内側を、親指の腹がなぞってゆくのがわかる。関節の限界まで指し込まれた後は、挿入される指の本数が増えた。
ゆっくり、時間をかけて、後ろ側が拡張されてゆく。
本数が増えるたびに、声を抑えるのが困難になるのは判っていたが、もうどうしたらいいのか、バーナビーにはわからない。ただ、虎徹に身体を任せるだけで、何も考えられなくなっている。
「あ…あああ、あ…」
「これだけ、入るようになりゃ…まぁ、何とかなる…。なってくれよ」
勃起した自分のものに手をかけて、虎徹はオイルで濡れたバーナビーの腰を抱いた。さっきまで弄っていた場所へ、慎重に自分を押し当てる。
力を込めて身体を前へ進めると、狭隘な感触が伝わってきた。それでも強引に推し進めると、狭い隙間を押し開けてゆく感覚が続き、途端にバーナビーが身体を跳ね上げて短い悲鳴を上げた。
「ひ…!」
「すまねぇ」
もう途中で止めることはできそうにないと、最深まで虎徹はバーナビーに中へと潜り込ませる。
「あ、あ、あ…・」
何も見ていないバーナビーの、碧玉の瞳が涙に包まれる。
この人とひとつになったのだと、身体ではなく心が歓喜したのが聞こえた。
「も・・・しんでも、い・・・」
「何言ってんだ」
交ぐわったまま、バーナビーの背中に重なるように身体を重ね、虎徹は相棒の耳元で囁く。
「まだこれからじゃねぇか」
声の響きに、ぞくりとバーナビーの身体に痺れが走ると、身体の奥が痙攣したかのように深く引き絞られて、虎徹をもっと奥へと誘う。
「少し、動くぞ」
「は・・・い」
重なった腰が小刻みに奥を叩き始める。さざ波が細やかに打ちつけてくるような感覚に、激しい痛みを想像して構えていたバーナビーは、思いがけない刺激に戸惑った。
「こ、てつ、さ・・・」
「前、触っていいか?」
「ん・・・」
嫌も応なく、ただバーナビーはこくりと頷く。
「ど、ぞ・・・」
油にまみれたままの虎徹の手が、バーナビーを握って緩やかに上下し始める。自分のもの扱うときよりもずっと、丁寧に愛撫しているのだろうと、動きの柔らかさに感情を見つけた。
その間もコツコツと突き上げてくる堅い衝撃は、次第にバーナビーを高みに追いつめていった。重なってゆく感覚が、ある一点で激情に変わる。
「あ・・・ぁ?く・・・!」
射精感とは少し異なった、身体の奥からの絶頂感が迫ってくる。
恐ろしくなったバーナビーは、無意識に両手を前に出し、何かから逃げるかのように、キッチンの枠をつかんでいた。もがくバーナビーの手に触れて、無造作に置かれていた食品のパッケージが床に落ちる。
「・・・く、る・・・」
「おまえに飲み込まれそうだぜ。奥がびくびくしてやがる」
「こん、な・・・あ!」
つま先立ちになって、バーナビーは前と後ろの快感に耐え続けていたが、ついに全てを吐き出した。内部から吹き上げる痺れるような陶酔と、解放されてゆく熱気に、意識が真っ白に消されてゆく。先端に被った虎徹の掌に、一滴残らず出し終えると、深いため息をついて全身の力が抜けた。
握り込んだ虎徹の指の間から溢れだした体液は、手のひらだけではなく、甲を伝わって床まで滴った。
粘つく白濁液にまみれた右手を、虎徹がざっとシンクの水で洗い流す間、バーナビーは息を弾ませて、キッチンの上にしがみついたままでいた。熱をもった身体を冷ます金属の感触が心地よく思える。たった今まで身体の内を満たしていた虎徹の高まりは去ったが、残像のような感覚がいつまでも両脚の間に残っていた。
「バニー」
優しい声音と共に肩を抱かれ、振り向くとキスが迎えに来た。
舌を巻き内側をなぞり、喉の奥にまで入り込もうとするほどの深く激しい口づけに、むせてしまいそうになる。
「もう少しいいか?大丈夫そうか?」
心配げに訊ねる虎徹の目に、飢えた光を見つけて、バーナビーはぞくりと背中を震わせた。この人に必要とされている実感に、胸が苦しくなる。誰かに必要とされる事そのものが喜びとなるバーナビーだが、それが虎徹であればなおさらだ。
「あ、あなたこそ、大丈夫なんですか?」
バーナビーは余裕があるように振る舞ってみせたが、声がうわずってしまい、あわてて口を押さえる羽目になった。
「年上を舐めるなよ、若造」
にやりと笑った虎徹の中にも、あの偽虎の片鱗があるように思えたのは、気のせいだろうか。
(お前たちが捨てたイラナイモノ全部で出来てるんだヨ)そう言った口の中に見えた、透明の牙が記憶の中で光る。だが本物の虎徹の八重歯は、ごく普通の白さを整えて、今も静かに囁いていた。
「シャワー浴びてから、ベッドに行こうぜ。夜って言うには、まだ早いけどな」
陽が落ちたばかりの秋の夜は、始まったばかりだった。
虎徹が心配していた通り、部屋の床からソファの上までが、割れたグラスや食器が散乱していて、とても使えたものではなかった。無傷で残されていたベッドルームで、それから数時間、彼らは存分に愛しあった。一人暮らしの虎徹の部屋だが、ベッドはダブルサイズのものを使っているため、二人で使っても狭くはない。
一般市民の何倍も身体を鍛え、身体能力も高いはずの彼等が疲労を感じるほど、歯止めが効かない時間を過ごす。明日の仕事やインタビューのアポイントメントのスケジュールが脳裏に浮かびはしたが、一瞬でかき消えてしまうほど、止めどなく愛しあう。
堰を切って流れ出た濁流のように、どこまでも身を浸す悦びと満足は、虎徹が抱え込んでいた不安までも押し流してしまう。きっと、どうにかなる、こんな思いが奇跡のようにかなうのなら、もうひとつの願いもあるいは聞き届けられるのではないかと、虎徹は根拠の無い希望を胸に抱いていた。
誰にしろ確かめることは恐い。結果をはっきりと見定めないていられるのなら、そこにはいつでも希望があるように思えるからだ。過去という美しい幻に支えられている現実に、ピリオドを打ちたい者がいるはずがない。
受け入れられる奇跡を求めるより、届かない哀しみを味わうことを選んでしまう。本当に耐えられないのは、いったいどちらなのだろう。
手を伸ばしかけては消え、なんでもなかった振りをして目を逸らすことの繰り返しに慣れてしまった自分に、諦念すら憶え始めていた。情けないと思うのだが、より愛しいとも思う。我々は皆、自愛に満ちた罪深き生き物だ。自分を愛するように誰かを愛したいと思うようになった時、ベクトルとエネルギーは革命のように転換を起こすのだろう。
いつかこの世界から退場することを運命づけられているからといって、人を愛してはいけない理由はない。心を寄せて抱き合うのに、どんな資格が必要だろう?何もいらない。ただ、相手を愛しく思う気持ちだけがあれば十分だ。
かき抱いた腕にバーナビーの重みを感じ取りながら、虎徹は自分に言い聞かせる。
大丈夫だ、なんとかなる。どうにかなると信じて、どうしようもなくなったとしても、考え続ければきっと何かができる。生きていれば、知恵があるなら、誰かに望むのではなく自分で求めに行きたい。
もし、そうなったとしても、きっと…。自分は一人じゃない。
すでに深夜にさしかかった部屋で、くたくたに疲れた二人はベッドに並んだまま、ぼんやりと天井を見上げ、互いに指を触れたままでいた。
使いこなされた柔らかいシーツをかぶって、少しうつ伏せ気味にバーナビーは虎徹を見た。シーツにも枕にも虎徹の匂いが染み着いているのを感じて、バーナビーは深く息を吸い込む。今日はここに、自分の匂いも混じるのだと思うと、なぜか嬉しくなった。
「それで…あれは、誰の・・・悪戯だったんです?今年のサプライズは、ちょっと手が込みすぎじゃないですか?」
「ああ、去年はバニーのバースデーサプライズを、みんなでやったっけなぁ。赤いウサギちゃんの抱き枕とか準備して・・・って、これサプライズじゃないから!」
「そうなんですか?」
「だよ!俺が仕掛けたんじゃないからな」
「・・・なぁんだ・・・」
「なんだじゃない!サプライズで、俺の部屋こんなにされてたまるかっての」
朝になったら片づけようと言って、とりあえず手をつけずに放り出してあるが、相当の手間がかかることは、簡単に予想できる。大嵐に遭った部屋の中は、まさに惨状だった。
「それじゃ、あれは、いったい何だったんだろう・・・」
今まで培ってきた常識の中には、まず存在しない出来事についてバーナビーは考えたが、答えがでてくるはずはない。グレムリン、ハーントゥ、ピクシー、そんな絵本の中にしか居ないはずの存在が、日常に顔を出すなんてあり得ない事だ。
「さぁなぁ。この辺には、なんか昔っからいろんなモノが棲んでるって聞いてっけど。ま、俺たちみたいなネクストが、普通に暮らしてんだから、まぁ、他に何が棲んでたって俺は別に…」
シュテルンビルトのダウンタウンには、虎徹でも知らないような案件が、数え切れないほどあるらしいが、それを全て知るものはいないという。
「不思議な・・・モノ・・・」
「いっぱい、あるよな。わっかんねぇ事も、いっぱい…」
虎徹はゆるやかに欠伸をすると、自然に目を閉じていた。
「いっぱ・・・ある・・・」
「・・・おやすみなさい」
シーツを肩まで引き上げて、バーナビーもこみあげてくる疲労と眠気に、身を任せることに決めた。
目を閉じればすぐに、夢の扉がバーナビーを迎えにやってくる。どこからが現実で、どこからが夢なのか、区別がつかないほど曖昧に。
『ハッピーバースデー』『ハピバースデー・トウ・ユ』『ハッピー・ハロウィン』『ハッピー・ハピー・バースディ』
耳元で小鳥のような囁きが繰り返されたが、眠りの国の扉をくぐったバーナビーには、もう届いていなかった。
『ハッピー・バースディ。バーナビー・ブルックス・Jr』
明かりの消えた窓の向こう側に、何か大勢の気配がうごめいていたようだが、日付が変わる瞬間を知らせる短い電子音と共に、彼らは一瞬にして消え失せた。
シュテルンビルトのブロンズ・ステージ、古くからの街ダウンタウンには、人では無いものが沢山棲んでいる。彼らは寂しい子供を放っておくことができなくて、ハロウィンの夜になると、お節介に走り回ると言われている。
悪戯か?御馳走か?
NC1978のハロウィンが終わる。
終わり
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Tiger&Bunny コテバニです。 バーナビーのお誕生日用に書いたSSだったのが、どんどん広がってしまいました。 |
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