やまだち・序之話
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(一)

 

 風が燃えていた。夜闇に包まれているはずの大地は昼のように明々と照らされ、漂う雲も朱に染められている。

 皓月を燃やすかのように舞い上がる火の粉が夜空で星のように輝き――瞬く間に消えていった。その様は炎の中で尽きた命の残滓のようであった。

 燃えているのは村だ。家々の茅は火を噴き、立ち上がる炎が空を舐めている。焔の弾ける音が、死者の慟哭か怨嗟のように響いていた。村に動く影は無く、炎だけが生き物の如く揺らめいていた。そこにあった命を全て吸収したように、猛狂う――村は残山剰水の一部へ、刻々と進んでいた。

 その様を、一つの小さな影が見下ろしていた。歳の頃、十ほどの少年である。吹き上がる熱風に、結われていない髪が靡いていた。熱のために少年の顔は赤く焼けてきていたが、それを気にする素振りは無い。

 立ったまま命を失ったのか――微かに動く胸が、少年が生きていることを示す唯一の証だった。

 少年の小さな瞳には村の惨状が映りこみ、紅く耀いている。

 熱を含んだ風には血臭が混じっていた。肉の焼かれる、不快な臭いも。

 ほんの一刻前、この村は生きていた。人の生活する村であった。

 山の一つ向こうで合戦があり、落人を追ってきた野臥せりたちに襲われたのである。

 小さな村は瞬く間に全てを奪われ、亡者の徘徊する地へと姿を変えた。

 又一つ――

 大きな火が弾けた。

 少年の目に仄かに光が宿る。

 少年は眼下に広がる村を見渡し、背を向けた。

 名残がないわけではない。今までの、短い人生の全てを育んでくれた土地である。もっとも、その日々の半分はあまり憶えてはいなかったが。

 しかし、その土地は死んだ。死んだのだ。炎の中に消えた。

 少年は今夜、一人の坊主が遭遇するのに等しいほどの死を見た。刃の生えた父の背中、血溜まりの中に堕ちた母――絶え間なく響いた数々の断末魔。

 少年は足を進めた。月は出ているものの、森は暗かった。道なき道を行く中、飛び出た枝が足や腕の皮膚を破り、暖かい血が滴る。臭いを嗅ぎ付けて、獣たちが集まってくるかもしれない。

 少年の前方には闇が広がっていた。闇の中へ足を運ぶ。

 木々のざわめきの中に、梟の鳴く声が混じる。落人狩りをしている武士や野臥せりに遭う危険もあるのだが、少年にそれを心配する素振りはなかった。暗い森を行く少年の姿は、この世ならぬ幽鬼じみたものであった。

 実際、今は魑魅魍魎が跋扈する刻限だ。常人ならば、木々の間から見つめる複数の、異なる者たちに観られているという妄想に囚われるかもしれない。

 浅春の肌寒い空気は少年の体力を急速に奪っていった。少年の足取りは重くなり、小さな身体も傾いていった。

 少年は、自分が今歩いているのかどうかすら分からなくなってきていた。衝撃と鈍い痛みが身に走る。

 それが契機となったのか。少年の意識は闇に呑まれた――

 

(二)

 

 まどろみの中、少年は自分の額に濡れ布を当てられる感触を覚えた。手を伸ばすと、ごつごつとした、温かくて大きな手に触れた。

(おっとう……?)

 少年は夢現に、そう思った。しばし安堵を覚えた少年だったが、ふと弾かれるように目を見開いた。夜が明ける、白々とした優しい光が眼に入ってくる。まだ影が多いが、粗末な梁が巡らされた天井が確認できた。垢染みた臭いが漂っている。

 視界に別のものが入り込んだ。こちらを覗き込んでいる男の顔――少年は跳ね起きた。濡れ布がぺちゃりと音を立てて、掛けられていた筵の上に落ちた。ぶつかりそうになり、男が慌てて身を逸らしたのが眼の端に映る。

 父ではない。父と同じくらいの年齢のようだが、知らない男である。

 見回せば、ここも自分の家ではない。少年が寝ていたのは八畳ほどの板の間で、火の焚かれた囲炉裏の傍に寝かされていた。土間には小さい釜戸があり、種火が紅く輝いていた。

 そう判断したのと同時に、昨晩の恐ろしい光景が一気に蘇ってきた。

 少年は目を見開き、声にならない嗚咽を上げた。口元を手で押さえる。胃液だけが手を汚した。涙が溢れ、頬を伝っていく。

 少年が惨なる記憶の再生に襲われている間、男は座り直した後は身動きせずに少年が泣き止むのを待っていた。

 半刻ほどで衝動が治まり、少年はやっと男の方に注意を向ける余裕ができた。

「おっちゃん……誰?」

 少年は唾液と涙で汚した顔を手で拭った。

 男は蓬髪を結い上げた、巌のような顔つきであったが、不思議と怖いとは思わなかった。土臭い印象を持ったせいもあるだろう。

 自分と同じように焼け出された近隣の村の人間かと見当を付けた。

 男の口が開いた。その動作までも岩戸が開くような、重厚さがあった。

「わしは甚八という。坊、おまえの名は?」

 白い息と共に紡がれたのは短い言葉。その声音は静かな山鳴りのようでもある。

「一平太」

 少年――一平太は甚八に告げた。

 甚八は手拭いを一平太に手渡してくれた。それで顔を拭けということらしい。

「水を飲みたいか?」

 拭きながら頷くと、甚八は立ち上がって、水瓶から水を茶碗に移して持ってきた。

 礼を言って、一平太は一息に水を飲んだ。水が喉を通るとき、あまりの冷たさに喉が焼けるような心地がした。

 人心地がついて、一平太は自分がいる場所が気になった。訊くと、簡潔な答えが返ってきた。

「おまえが倒れていたところから、二里ほど北だ」

 その自分が倒れていたところを憶えていないのだが、自分の村からそう遠くまで行ったとは思えない。もっとも、今まで村から出たことのない一平太にとっては、二里でも随分の遠出だった。

 外から、草鞋が霜を踏む音が聞こえた。簾を捲って入ってきたのは、角頭巾を被った一人の老爺であった。防寒のために継ぎ接ぎをした大きな布を肩に掛け、手に持った笊には野菜が積まれている。

 老爺は一平太を見ると、歯の欠けた口で笑いかけた。歯の間から漏れた空気が、幾筋かの白い線を描く。

「坊、この男に感謝しろよ。わざわざこの小屋に運んできてくれたのだからの」

 言うと、老爺は甚八へと目を向けた。

「今からで間に合うか?」

「……無理でしょうな。まあ、管井屋に身を寄せておれば、いずれ遭えましょうや」

 笊を板の間の上がり口に置く老爺に、甚八は告げた。それを聞いているのかいないのか、惚けたように老爺は続けた。

「今朝方、ハヤセが帰ってきての。『渡里』だそうじゃ」

 一平太には何のことか分からなかったが、甚八は合点が行った様だった。甚八は不精髭の生えた、がっしりとした顎を右手で撫でた。小さな苦笑が刻まれている。

「どこまで見通しておるのやら……」

「あの人ぁ、昔からそうさね」

 その言葉に、老爺は短く笑う。甚八は入り口の方に目を向けた。

「では、吉蔵は鷹を休ませに行かれたのですな」

「きちぞう……?」

 野菜を手に取りながら、訝しげに老爺は呟いた。

「お弟子の――」

「ああ、猿か。名前なぞ言われても分からんぞ。そんな上等な名前でなく、猿でいいんじゃ猿で。いっちょ前に人の名なんぞ、勿体無い」

 老爺は快活に悪罵を吐くと、一息ついた。

「もうそろそろ帰ってくるじゃろ。朝餉を用意してやるから、その間に用件を済ましておけよ」

「承知」

 老爺の背に甚八は頭を下げると、一平太に向き直った。

「一昨日、小さな合戦があった。お主はそれに巻き込まれたのだな?」

 察しは付いているのか、甚八の口調は確認を取るようなものであった。

「野臥せりが来た」

 告げる。同時に浮かび上がる光景を、一平太は振り払った。

 間髪置かずに、甚八は次の質問を浴びせた。

「一平太、おまえの親御は――死んだか?」

 『死』という言葉に、一平太はびくりと身体を振るわせた。だが、すぐに――半ば睨みつけるように甚八の眼を見て頷いた。

「村に戻ったとして、親類縁者――頼れる者はおるか? または他の村には?」

 一平太は村の有様を脳裏に浮かべた。生き残った人間がいるのかどうかすら怪しいほどの状態だった。一平太が首を振ると、甚八はふむと口の中で呟いた。

「予想した通りじゃな」

「そのようで」

 口調も表情も変わらないが、甚八の頬に微かな苦笑のようなものが刻まれたのが分かった。一平太にそれが分かったのは、彼の父親も感情を顔に出すことが少なかったからだ。

「雲安殿。昨晩申した通り、この子を此処で養っていただけますかな?」

 口調を改めた甚八を、雲安と呼ばれた老爺は肩越しに見た。

「よかろ。一人くらい増えても、まあなんとかなる」

 すでに段取りは決めてあったらしい。老爺は外に出て行った。

 驚いて凝視している一平太に、甚八は諭すように言った。

「一平太。おまえのことはこの爺様が世話をしてくれる。人柄は誉められたものではないが、信用できるお人じゃ」

「人柄がどうこうとは、おまえらにだけは言われたかねえなあ」

 聞こえたのだろう。糒を手に戻ってきた雲安がからかい口調で言ったが、一平太の耳には殆ど入らなかった。

 初めて会った、そしてほとんど会話もしていない人間なのに心細さを感じた。

 その湧き上がる感情に自身も混乱しながらも、一平太は恐る恐る言った。

「甚八さんは行っちまうのか?」

 その声音は子が親に縋る様な、か細いものであった。

「わしには仲間がいてな。行かねばならぬ」

 もう、甚八は既に一平太を見てはいなかった。これからの道程を考えているのか、視線は宙にある。返事もどこか上の空だ。

一平太は思い切った調子で口早に、だがはっきりと気持ちを口にした。

「……おいら、甚八さんと行きたい」

 甚八の眼はすぐさま一平太へと向けられた。

「一緒に行っちゃ駄目かい?」

 甚八は一平太から目を逸らし、頬を指で掻いた。視線は、囲炉裏を挟んだ向かい側で鍋を掻き雑ぜている雲安へと向けられていた。助け舟を求めたのかもしれないが、雲安は気付かないようだ。無視しているのかもしれない。

「一平太。わしらはおまえの村を襲い、親御を殺した者どもと同じ類の人間だ。わしらも似たようなことをやる。わしに付いてくれば、おまえが昨夜に見た光景と同じものをまた目にすることになる。いや、おまえ自身が同じ事をしなくてはならなくなる」

 甚八の穏やかな瞳の中に映っている自分を、一平太は見つめた。その中の自分は一平太を睨み返していた。

 今度は甚八も目を逸らさなかった。

「そうであっても、一緒に来たいのか?」

 甚八の、一語一語噛み締めた問いに、一平太は頷いた。ろくに考えもしなかった。ただ置いて行かれるのが嫌であっただけだ。

 甚八が大きく息を吐いた。手が頭を荒く掻く。

「必ず後悔するぞ」

 甚八は鋭く告げると、立ち上がって土間に降りていった。

 そのころには良い香りが漂ってきていた。

「その子の好きにさせたらええ。一人くらいなんとかなるとは言ったが、実の所それほど余裕はないでな」

 味見をする雲安が無責任に言う。

 かさりと音を立てて男が外から入ってきた。

「爺様、おれが用意しますに。そこまで腹が減ってたんか?」

 浅黒い猿に似た風貌の小男が、これまた猿に似た甲高い声で告げた。

「気にするな。おまえの分は作っておらん」

 にべもなく告げられ、男は憮然とした表情を浮かべる。本人は面白くないだろうが、その様は元の風貌も相成って笑いを誘うものであった

 その男の脇を通って、甚八が椀と箸を持って戻ってきた。

 雲安は細い目で一平太を見た。

「飯は出来た。昨日の残りものだがの」

 甚八から椀を受け取り、雲安が雑炊をよそった。そして、それを一平太に手渡しながら告げる。

「早く喰ってしまえ。この男と一緒にいくなら、ぐずぐずしてはおれんぞ」

 

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(三)

 

 木漏れ日の中を大小二つの影が歩いていく。大きい影は甚八、小さい影は一平太である。

 雲安の小屋を出て半日、二人は近江へと入った。

 知らぬ者には、山道を行く二人の姿は近隣に住む百姓の親子に見えたかもしれない。だが、そこまで連想した時に、その者は首を傾げるだろう。違和感の正体は大きい方の影の腰にある。

 甚八は三尺を優に超える大太刀を背負っているのだ。甚八の、割と小柄な体格のこともあって、その姿は酷く不恰好であった。しかも、鞘に収められている刃は、実はなまくらである。殴れば骨こそ折ることはできようが、虚仮おどし以外には効果の薄い代物だ。

 甚八自身、人前で抜いたことは殆ど無かった。

 時折後ろ振り返り、甚八は小さな影の様子を窺う。

「休むか?」

 小さい影の上体が動いた。首を振ったのだろう。

 足取り重く、息を切らしている少年に、また何度も同じ提案をしているのだが、彼は一度も承服しなかった。

 強情な子だと、甚八は感心半分に思う。

 一平太の足に合わせてはいるが、子供にこの朝からの跋渉はきついものだ。だが、日が暮れる前には仲間たちと合流しなくてはならない。自然と早足になってしまう。甚八は太陽と頭の中にある行き先を比べ、あとどのぐらいで着くか、大よその見当をつけた。

 その間に追いついてきた一平太は、足を止めている甚八を不思議そうに見上げた。甚八はその視線に告げる。

「わしは疲れた。足も痛いし、少し休もう」

 甚八が腰を下ろすまで、一平太は立ったままであった。その様子に、甚八は胸中で苦笑を刻む。

 へたり込むように座った一平太に水を渡してやる。

 今の世、親と家を失う子は珍しくはない。そうであっても、哀れと感ずる事は禁じえなかった。

 隣から嚥下の音がないので見てみると、一平太は水を口に運ぶことも忘れたように何かを凝視していた。それを辿ると、はるか遠くの山の尾根に建てられた山城に注がれている。南北に長い城はさながら地上を睥睨し、監視しているようであった。

「あれが気になるか?乃祇というお城だ。小さな豪族だが、あの堅固な山城のおかげで今まで生き残っておる。あそこにおわす姫君は、おまえと同じぐらいの歳らしいぞ」

 言ってから、失言だったかと甚八は悔いた。

 ほぼ同じ歳でありながら、こうまで境遇が違うのだ。見たこともない姫君を、一平太はどう思っただろうか。

 だが、それは杞憂であったようだ。一平太は特に気にした風も無く――そもそも甚八の説明すら耳に入った様子もなく、口を開いた。

「向こうにあるのは海?」

 乃祇城の向こうに煌びやかに光り輝く水面が見えていた。一平太の心を掴んでいたのは、そのことらしい。透明な光が乱舞し、遠目にも目が眩むようである。ふむと、甚八は顎を撫でた。

「海を見たことが無いか。あれは近江の海とも言うし、海といえば海だが」

「あれが海かあ」

 一平太は感嘆の息を漏らした。甚八は慌てて訂正した。

「いやいや、あれは湖だ。本物の海は、ここよりもっと北か南に行かねば見えぬ」

「……なんだ。海じゃないのか」

 心なしか沈んだ声音で、一平太は水を含んだ。甚八は苦笑を浮かべる。

「がっかりしたか?ま、いずれ本物を見るときも来よう」

 そのいずれがいつかは分からないが。と胸中に付け足す。

「さて、そろそろ行こうか。足の痛みも取れたからの」

 甚八が立ち上がると、一平太も慌てて倣った。

 甚八たちが渡里に到着したときには、日が傾き始めていた。黄金色の雲の隙間から、光が幕のようになって遠くの山々を包んでいた。

 峠を上りきると、十人ほどの男達が思い思いに過ごしているのが見えた。

 甚八は毎年冬に信濃にある村に帰っていた。その年の自分の取り分を届けるためである。戦というものは冬に多いものだが、甚八は戦そのものに参加することは殆ど無い。それゆえに、甚八の帰郷は黙認されていた。通例として、初春に一味は乃祇の城下にある管井屋という商家に集まっているのだが、甚八が遅れたために不破の関に近い渡里へ移動してきたのだ。そしておそらく、渡里で一仕事するつもりなのだろう。

 男達は甚八に気付くと声を掛け、そして付いてくる一平太には好奇の視線を送る。

 久方ぶりに会った仲間への挨拶もそこそこに、甚八は奥の古びた小屋に入った。

 簾の向こう、二人の男の視線が出迎えた。二人の前には、自前の地図が広げられている。次の仕事の打ち合わせでもしていたのだろう。

 眠そうな目をした白髪混じりの初老と、粗造りな面相の隻眼である。二人の、計三つの目も一平太に注がれている。

 甚八は初老の男の正面に座った。右に置いた刀の鍔が床の上で鈍い音を立てる。一平太は甚八に隠れるようにして、少し後ろに座ったようだ。

 二人が座に着くのを待って、初老の男が口を開いた。

「遅れた仔細は後で聞くとして――その餓鬼は何じゃ?」

「こいつがその仔細で」

 肩越しに一平太へ視線を送りながら、甚八は答えた。

 その答えに眉をひょいと上げると、初老の男は立ち上がった。そして、一平太の正面まで行くと屈み、覗き込むように見つめた。虚空のような瞳で、一平太を寸分残さず観尽くすと、甚八に振り向いて告げた。

「小っ汚い餓鬼だの……」

「が、餓鬼じゃねえやい。一平太だ」

 少し身を反らしながら、一平太は精一杯の強がりを吐いた。一平太の肩は強張っている。

 その様子に、男は一声、かっと笑いを飛ばした。

「名乗りだけは一人前か」

 そう言ってから、男は外へ大声で叫んだ。

「金次、白紋。ちっと来い」

 少しして、二人の男が入ってきた。二人とも、少年から大人へと変わる途中の年頃である。片や、骨太で、墨を引いたように太い眉が目立つ精悍な顔立ち。片や、女のように肌が白くて柔らかくほっそりとした体つきで、涼しい目元にすらりと通った鼻筋と、形のいい細い顎。種類は違うが、二人とも美形である。

 男は一平太を立たせると、二人に告げた。

「この小僧に、ここいらを案内してやれ。遠くに行っていいぞ。なんなら、帰ってこなくても構わん」

 その言葉に二人は苦笑を浮かべる。男は初めに座っていた位置へと戻った。

 一平太が甚八を見た。甚八は行って来いと、顎で示す。

 一平太は色黒の青年に手を引かれて、甚八に背を向けた。

 二人が何事か告げ、一平太が何かを答えた。そのまま簾の向こうへと消える。

 三つの足音が遠ざかるのを聞き届けると、初老の男が再度口を開いた。

「甚八よ。もう一度訊くが、ありゃあなんだ?」

「戦で焼け出されていた所を拾ったもので」

「雲安の所に寄ったのだろ?」

「はあ。雲爺の処で夜を明かしましたが」

「なぜ、雲安に預けてこなかったのだ?」

 隻眼の男で非難するように質した。

 甚八はそちらに顔を向けた。男の眉間には幾層にも皺が寄っている。

「一平太の奴が、わしと共に行きたいと言い張ったもので、仕方なく」

「だとしても、置いてくる法はなんとでもなっただろう」

 隻眼の男が苛立たしげに言った。

 甚八は黙って頭を下げた。弁解の余地もない。

 初老の男が、甚八たち山立ち一味の頭目で葵賢久(あおい かたひさ)。隻眼の男はその副頭目で乾耀膳(いぬい ようぜん)という。

「あの二人ですら、面倒だからの。女を抱いてもいないのに、餓鬼だけ増えていたら堪らんわな」

 賢久が笑みの混じった声でぼやいた。その笑いを収め、賢久は甚八を穿つように見据えた。重そうな瞼の奥に、鋭く光る瞳がある。

「おまえさん、あの小僧をどうするつもりだい?飼うのか」

「へぇ」

 賢久は低く笑った。耀膳は口を引き結び、腕を組んでいる。

「まさか、真っ当に育ててやりたい。なーんて世迷言は言うつもりはないだろう?」

 口調は穏やかだが、賢久の目は真冬の湖底のような静けさを湛えていた。

「ここに連れてきた以上、そんなもの期待するだけ無駄で」

「使い物になるのか?只飯喰らいが増えただけじゃ」

 耀膳が刺すように言った。耀膳は子供を連れてきたことよりも、刻限を破ったことが許せないのだろう。そういうことに拘る男である。一方、頭目は然程気にした様子はない。非道を多々行う一味であるのに、然程に荒んだ感じがないのは賢久の瓢然とした雰囲気にあるのだろうと、甚八は見ている。

 この二人について甚八は殆ど知らない。西国出の者によると言葉に丹波のものが混じっているという話だが、知れたのはそこまでである。

 賢久が地図を手に、ぱたぱたと手を振った。顔にはへらへらとした薄い笑みが浮んでいる。

「そう冷たくするもんじゃねえよ。ものは使い様だからの」

 賢久は三人が出て行った方を一瞥し、あくびを一つ噛み殺した。

 

(四)

 

 一平太の視界一杯に、夕日を浴びて煌びやかに光り輝く水面が広がっている。透明な、それでいて力強い赤が煌く空に、ゆっくりと夜が迫っていた。

 一平太たちは高台に立っている。岸近くまで広がっている街並も一望できた。地上を照らす光は柔らかくなり、薄闇がすでに眼下に広がる市を包み始めているようだ。桟橋に繋留する船は、もう黒い影となっていた。

 金次とは白紋は何か言い争っていたが、一平太の耳には入っていなかった。ただ、近江の海の日暮れに魅入っていた。

 太陽は紅の霞を彩りながら、対岸の山へと沈んでいく。

 

 

 

序之話・幕

 

 

説明
心持、戦国時代中期を舞台にしたなんちゃって時代劇です。
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時代劇 戦国時代 アウトロー 和風  日本 

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