やまだち・鼠之話
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(一)

 

「こいつで最後だな」

 隣の桶の中にいる佐吉の言葉に、一平太はしごきに寄りかかって息をついた。その身動ぎで、汗が雫となって散る。

 一平太は仕込み桶の中にいた。桶は米が十石は入りそうな、巨大なものである。既に二つを一寸残らず洗い終わり、磨かれた木目を陽光の瀑布の中で輝かせていた。

 前垂れで額を拭っても、すぐに汗は吹き出てくる。

 少し離れた所では一馬が火を消している。桶を消毒するための湯を準備するのに使っていたものだ。一馬は既に上半身を外気に曝していた。蒸気から逃げるように立ち退き、口を天に向けて喘いでいた。

一平太もそれに倣うようにして空を見上げた。容赦ない陽射しに、一平太は目を細めた。何が嬉しいのか、どこまでも澄み渡った碧天に鼬雲が首をもたげている。

夜の風こそ秋の気配を感じさせるようになったものの、昼の暑さは緩む様子が無かった。

雨でも降ればよいのにと、一平太は思う。だが、その願いが叶う前に、仕事は終わってしまうだろう。一平太は恨めしそうに太陽を一瞥し、しごきを握り直し、腕と腰に力を入れて続きを始めた。

 一平太は、渡里にある造り酒屋・巽屋に身を置いていた。奉公を始めてすでに一年が過ぎ、その間に一平太は十になった。

 無論、ただの奉公ではない。一平太は「引き込み」として入り込まされたのだ。その「引き込み」については、無駄だと思われたのか、説明されることがなかった。ただ、連絡が来るまでは真面目に奉公しろと、甚八に告げられただけである。

 だが、二度目の夏を過ぎても一味からの連絡はなかった。ひょっとしたら、「引き込み」というのは方便で、自分は厄介払いされたのではないかとも思ってきていた。そして、そうであっても構わないとも――。

 表の方からは時折上機嫌な声が聞こえてくる。

 杉玉の飾られた店先は秋あがりとなった酒の売買で賑わっているのだ。今年の酒は出来が良く、客が途絶えることがない。

 その裏で、店は春酒の準備に取り掛かっていた。

 巽屋の名が知られるようになったのは、先代の主が酒蔵に棲みついている酵母に、撫子の蜜から分離した花酵母を混合して酒造に組み込むことに成功したときからである。そうして造られた酒は他にはない華やかな香りと風味を持つものとなり、それは京から下る旅人の間で評判になった。その成功により、巽屋は一気に成長したのである。今では質屋も営むようになっていた。

 掃除を終え、一平太は裏庭に生えた樹の根元まで行くと、糸が切れたようにへたり込んだ。一平太よりも少し早く終えた佐吉と一馬はとなりの木陰で涼んでいた。佐吉は着物をはだけさせて、突き出た腹に風を送っていた。

 横には一寸残らず洗い上げられた桶が天に大口を向けて並んでいる。その様は、桶すらも冬の酒造りへ向けて、力を溜めているようであった。

 木陰にすっと涼しい風が流れた。

「終わりか?」

 よく通る皺嗄れた声に、一平太は顔を上げた。並んだ桶の傍に、老人が立っている。先代の弟であり、今の店主と共に酒造の指揮を取る平助という男だ。皺の刻まれた強面を縁取る九十九髪が風に揺れていた。その細い目は一平太に注がれている。

「はい――」

「総て、仕上げました」

 慌てたように佐吉と一馬が立ち上がった。怠けていると勘繰られては堪らないといった様子だ。実際、平助は非常に厳しく――怖ろしい。一平太自身、しばらくは顔もまともに見ることが出来なかった。今でも、言葉を交わすときには身が強張ってしまう。

「ご苦労だった」

 二人を一瞥すると、平助は店の方に去っていった。

 それと入れ替わるようにして、酒蔵の裏から女が来た。手に持った笊には瓜が積まれている。

「差し入れか?」

 積まれた瓜に目を留めて、一馬が女に言った。声も明るい。

「怠けているんだったら、あげないよ?」

「冗談言うない。爺さんに聞こえたらどうする」

 店の方を窺った佐吉に、女は白い歯を見せて笑った。十人並みの容貌だが、人を清々しい気持ちに笑顔である。

 女は、名をそとと言った。

「一平太。あんたもおいで」

 二人の傍に笊を置いたそとが、屈んだままで手招きをする。日焼けしない木目細かい肌が、白く輝いている。汗で湿った着物が所々皮膚にくっ付き、身体の輪郭がくっきりと分かる。破瓜を過ぎたそとの身体は程よく肉がつき、所作にも女性の艶かしさが加わるようになった。若い一馬などは、度々そとの身体を目で追っている。

 一平太は億劫ながらも傍まで行き、瓜に齧り付いた。瓜の甘い汁が口の中一杯に広がる。裏を流れる川で冷やしておいたのだろう。喉や腹から冷たさが広がっていくのが分かった。

 二個目を手に取った一平太の頭に、ぽんと手が乗った。

「佐吉さん。桶洗いは、十の子には辛すぎやしないかい?」

そとが一平太の頭を無造作に撫でながら、佐吉に言う。そとの目は並んだ桶に注がれている。

「おれもそう思ったがよぉ、爺さんの言いつけだ。仕方なかろ」

 瓜から口を離して、佐吉も桶を見た。そして付け加えた。

「ま、根が真面目だから、一馬より仕事が速かったがな」

 ひでぇな。と、一馬が苦笑を浮かべた。

「ざまぁないねえ。一平太の方が出世しちまうんじゃないかい?」

 そとがぽんぽんと一平太の頭を叩いた。ころころとした笑い声を風が攫って行く。一平太はそとにされるがままにしていた。

 巽屋に住み込んでいるのは平助と一平太、そとの三人である。佐吉などの残り数名は近くの村から通っている。一平太を除いた全員が、店主夫婦と縁繋がりの者達である。

 そとは一平太を弟のように可愛がり、一平太もそとを姉のように慕った。世話を焼きすぎるところもあるが、さっぱりとした気性のそとが好きだった。

 一平太は裏を流れる川に目を移した。垣根の間から、行商が一人ほとりで涼んでいるのが見えた。水面はきらきらと、玉石のように光っている。

 また風が吹いた。風だけは夏の終わりを告げていた。

 

(二)

 

 琵琶湖の東に面した渡里は、西にすぐ近くまで山が迫った小さな市(まち)である。美濃へ続く東山道があるため、通りはそこへ向かう行商人たちで賑わい、その両脇には木賃宿などの宿泊施設、都の品を扱う商家などが並ぶものの、発展しているのは街道沿いの一部だけである。そこを一歩出れば、一面に頭を垂れた稲穂が黄色い波を立て、その間を縫うようにして畦道が走っている。

 東の山道を、連尺を背負った行商風の男が登っていく。歳の数だけ笑い皺の刻まれた、やや下膨れした男である。その人好きのする垢じみた顔には汗の粒が光っていた。道には人影はなく、ただ陽炎が揺らめいている。男はふと立ち止まって辺りを窺うと、足早に脇へ逸れて木々の間へと姿を消した。

 分かり辛いが、草や地面には人に踏みつけられた跡がある。

 男はその獣道を行き、少し開けた場所に出た。そこには小屋が一軒建っており、男はその中へと入っていく。小屋といっても、蔓草の間から除く土壁と外形で辛うじて判断できる程度の代物である。人々を戦から守ったかつての避難所のみすぼらしい姿が、ここの平穏の象徴ともとれる。今では全体が傾いており、わざわざ入ろうとする人間もいないだろう。

 だが、囲炉裏についた煤から近頃人が生活していることが見てとれる。

 小屋には先客が居た。薄手の長着を着流した美女――いや、それと見紛うばかりに整った顔の男が座っている。薄暗い室内において、浮き立つように白い肌を持った男だ。賢久の元にいた、白紋という青年である。

行商は土間を上がり、小屋の隅へと移動した。そこには行商の持ち物が鎮座している。

「いつ来た?」

 山袴の帯を解きながら行商が聞いた。男の顔が、商人風の凡夫の物から一変している。粗野なものが加わり、眼も鋭利な光芒を放っていた。心無しか顔の造りそのものも変わっているようである。

この男は勿論行商ではない。賢久一味の人間で、新居萬叉衛門(あらい まんざえもん)という男である。以前、満叉衛門は奈良で猿楽の一座を率いていた。小さな寺の庇護を受けていた一座であったが、八年ほど前に戦で焼け出された。その際に一座も散り散りになり、放浪しているときに賢久と知り合ったのである。白紋と金次は、その数少ない一座の生き残りだ。

 萬叉衛門は変装が得意だった。化粧を施し、容貌を別人のように変えることができる。だが、萬叉衛門が変えるのは外見だけではない。萬叉衛門は中身すらも変えてしまえるのである。それは萬叉衛門に誰かの御霊が乗り移ったかのような具合で、他人はおろか、知人ですらも騙されてしまう。口寄せをした巫女のような変貌振りだ。彼の変装術はいわば新たな一人の人間を生み出すに等しいと言える。変装しているときの思考が常の自分とは似ても似つかないものになっていることを、当の萬叉衛門自身が感じているのだ。いや、それだけではない。変装を解いた時までも自分が「新井萬叉衛門」という役を演じているような気さえするのだ。

 ちなみに、一平太を売った人買いも萬叉衛門である。その後は一味と行動を共にしていたが、一月前に単独で渡里へと入り、巽屋の様子を探っていた。

「一刻ぐれえ前……かな」

「それで、何のようだい?」

「どうも美濃の方で大きな戦が起こりそうだってんでね、お頭の催促」

「美濃で?」

 白紋の説明を、萬叉衛門は袴を丸めながら聴いた。

 美濃では、少し前に家臣の一人が謀反を起こし、主君を国から尾張へ追放する事件があった。どうやら、その追放された主君が尾張と越前に支援を要請し、その逆臣を誅しようとしているらしい。戦仕事では、賢久他、武芸に通じている者達は雑兵として戦に加わる。

 一方、白紋や金次など、戦仕事には向かない者は、同じ戦場にて宝拾いに従事する。宝とは、地に骸を晒す仏たちの遺物のことである。鎧兜に刀剣の類、それに金銭だ。戦が終われば競争相手が増えるので、戦の最中――矢が飛び交い、土埃と怒号が舞い上がる横手での仕事だ。命懸けである。判断を誤れば、三途の川を渡ることになろう。金次は逃げ足だけは異様に速いし、白紋や伊助などは勘が良い。

「平太はどうだい?」

「大層気に入られているようだ」

「そいつは良かった」

「あそこの酒は美味いぜ。あの繁盛も納得の味だ」

「よく金があるなあ」

「てめぇらと違って、俺は女も買わんし博打もしねえからな」

 萬叉衛門は汗で湿った着物を脱いだ。

「ま、戦なんぞに加わらんでも十分な金銭が手に入るだろうよ」

 着替えに袖を通しながら、萬叉衛門は笑みを刻んだ。巽屋への仕込みは熟している。財物で、この小屋が埋まるのも近い。

 「引き込み」は使用人として商家に入り込み、盗みに入る際に仲間を中に引き入れる役割である。間取りと住人の日々の行動を熟知し、仕事を円滑に、そして安全に進めるための重要な役割である。周りを塀に囲まれているのなら、門を開けて置く。今まではその役割を萬叉衛門がこなしていた。

 萬叉衛門は初め、一平太を使うことに反対であった。思慮の浅く、分別のついていない子供にやらせるのは危険だと思ったからだ。

だが、今の結果を前にして、賢久は正しかったと言わざるを得ない。事を無事に運ぶには、雇い主や他の使用人の絶対の信頼を得なければ成らず、そのためには最低数年はかける。だが、一平太は二年足らずで信用を得た。子供だからこそ、疑いの目を逸らすことになったのだ。

 萬叉衛門は手ぬぐいで化粧を落としに掛かった。拭きながら続ける。

「仕掛け時だよ。今夜ぁ十六夜だから、あと十日ばかり待つことになるが」

「……………」

「その頃には、店の方も一段落着くだろう。機を見て、餓鬼に段取りを教えておかんといけねえが」

「……………」

「納戸や蔵の中は相当なことになっているだろうぜ。全部運び出せるか、問題はそこだぁな」

「……………」

「……どうしたい?黙りこくりやがって」

 訝しんで振り向くと、白紋は沈痛な様子で眉間に皺を寄せていた。萬叉衛門の視線に気付くと、すっと目を逸らした。

「乗らねえって顔だな」

 告げるが返答はない。しばし待つと、彼の朱を引いたように赤い口唇が言葉を紡いだ。

「あのまま、放っては置くのは駄目かね」

 白紋の顔は北――巽屋のある方角に向けられている。

「話が見えねえな」

「話ってな聞くもんだぜ」

「減らず口を叩くんじゃねえよ」

 萬叉衛門が言うと、白紋は肩をすくめた。

「甚八の旦那は、平太が俺らの仲間になることを選んだって言ったがね、ありゃ選んだわけじゃない。親が死んじまって、何かに縋りたくて、あの人にくっ付いてきただけだ」

 白紋は萬叉衛門に向き直った。萬叉衛門は作業を続けながら、白紋の言葉に耳を傾けた。

「俺は肉親が死ぬってのがどんなもんかは知らねえよ。だけど、そいつに近いもんは味わった」

 白紋の瞳が小さく揺らいだ。それは戦火の残滓だったか。萬叉衛門も記憶の共有者であるため、そう感じただけかもしれない。

「あいつは、まだ真っ当な思い出を持っている。そいつを腐らしたくねえ」

 白紋の声には熱が篭っていた。

 当時の自分を餓鬼に重ねてやがると、萬叉衛門は苦い顔をした。

 だが不愉快だとは思わなかった。自分にも、その気持ちは――夜に「引き込む」ことへの後ろめたさがあった。自分も染まり切っていないらしいと、萬叉衛門は苦々しくも認めた。

 その思いを腹の深くに収め、萬叉衛門は静かに告げた。

「……で、そいつをお頭に言うのか?」

 白紋が何事か言おうとしたのを見て取ってから、萬叉衛門はそれよりも早く続けた。

「あそこに匹敵する獲物はあるか? おめえが知っているのかい。竜の首珠でも取ってくるかね? それとも火鼠の衣かよ? 三十六計巡らせた所で、まあ無理ってもんだ」

 何事か言いかけた口を閉じ、白紋は荒く肩を上下させた。その様に、萬叉衛門は微苦笑を浮かべた。

「だがよ、ことが済んだ後であの餓鬼を迎えに行くかどうかは別の話さね」

 萬叉衛門は手ぬぐいを放り捨てた。化粧を落とした萬叉衛門の顔は、四十を過ぎたばかりの初老のものであった。

 萬叉衛門は小さく舌打ちした。白紋の様子には苦悩が未だに見て取れたからである。

 やがて白紋は顔を上げた。眉間に皺を寄せたまま、指で耳の後ろ掻いた。それから萬叉衛門を窺うようにして、

「座長。平太の仕事は門を開けさせるだけにはできねえか?」

 呆れて、萬叉衛門は半眼で告げる。

「家の者に気付かれて閉め直されたら終わりだろうがよ。中だって、不慣れな俺たちじゃ余計な手間がかかるぜ」

「それだよ。撤収は迅速に。疾き事風の如くってえ、唐国の偉いお人も言ったそうじゃねえか。お頭だって、そいつは分かってるはすだ。なら、家の中まで入る必要はないってのも判るだろうぜ」

「酷え屁理屈だな。で、その屁理屈を使って俺がお頭を説き伏せろってか?」

「さすが話が早え。分かってるじゃねえか」

 萬叉衛門は頬を引きつらせたが、白紋は見て見ぬ振りを貫いていた。白紋は一平太に自分の二の轍を踏ませたくないようであった。今の生活に、少なからず空虚なものを感じているのだろう。

 浮き世への未練は、かく言う萬叉衛門も捨てきれていなかった。

 それで結局、萬叉衛門は折れた。

「……分かった。上手く諭してやるよ」

 それを聞き、白紋は嬉しそうに笑った。それは萬叉衛門でさえ、極上の美女のそれと見誤ってしまうような笑みなのだから始末が悪い。白紋から目を逸らし、ふと萬叉衛門は口角を上げた。

「ああそうだ。てめえの取り分の半分は貰うからな」

 その言葉に白紋の笑みが固まるのが見えた。

 

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(三)

 

 刻限は五つ時を過ぎ、辺りは闇に包まれていた。続く残暑を掻き消すように吹く金風に掻き消されぬようにと、虫たちが涼やかな唄を奏でている。空に浮んだ半月は甍や地面を仄白く照らし出していた。

 巽屋は市の川の辺(ほとり)に構えているため、近くに他の家の影は無い。その閑散とした中に、巽屋の一室から明かりが漏れていた。それはさながら寂しげな蛍の光のようである。

 さて、畳が敷き詰められた十畳ほどの床の間に三つの人影が、火皿の中の炎で揺らめいている。

 座しているのは店主である吉兵衛、その妻のまつ、そして平助である。

 吉兵衛は、痩せた川獺のような平助とは違って頬や腹に多少の肉がついているが、口元や目元はどことなく似たものを持っている。

 吉兵衛の、固く結ばれていた唇が開いた。

「――平助さんは、あの子をどう思う?」

 吉兵衛は腕を組み、神妙な顔をしている。となりに座るまつの表情も同様である。平助の表情は変わらないが、しかし少し違うようでもある。空気が張り詰められているわけではないが、重苦しいものであるのは確かだ。灯心がじじと音を立てた。

「怠けるということを知らないのか、よく働く子だよ。そして何より、物覚えが早い」

 平助の、皺枯れた抑揚ない声が流れた。だが、付き合いの長い夫婦は、平助が心底賞賛していることを感じ取っている。

 夫婦の顔に、安堵した優しい笑みが浮んでいる。

「あの子は見所があるね」

 あの子とは一平太のことである。吉兵衛・まつともに四十近いが子が無かった。努力はしたものの、そればかりは天からの授かり物――財は増やせても子宝には恵まれなかったのである。

 ならばいっその事、親戚から養子でも取ろうかという話になった。無論、これは夫婦と平助の間で話されたことであり、他の縁者には知らせていない。言えば、どうしても諍いが起こるからである。

 丁度その頃、人買いが子を連れてきた。戦災にて親を失い、縁者もいないと、その人買いは言った。吉兵衛は人を買うということに嫌悪を抱いたが、平助は買うことを薦めた。親類縁者に争いを起こすよりは、無縁の者を跡取りとした方が禍根は残らないとの見解であった。まずはその子を奉公人として扱い、その器が跡継ぎに相応しいようならば改めて養子として迎える。それが平助の提案だった。

 果たして、その子を奉公人として迎え入れた。親を亡くした衝撃から抜けきれないのか、最初の内は無口な子であったが、次第に口を利くようになった。

 まつの遠縁の娘であるそとと、実の姉弟のように仲良くしている様子は微笑ましかった。

「叔父御、いつあの子に話せばよいと思う?」

 まつの言葉に、平助は思案気に眉を寄せた。顎に手を当て、

「もう少し奉公させて経験を積ませた方が後々役に立つとは思うが……もっとも、しばらくの間は今とやることは変わらん。早めに話してあげた方が、双方のためかもしれんな」

 平助は障子を開けた。涼しい夜気が入り込んでくる。微風に炎が揺れた。平助は一礼すると丁寧に障子を閉め、自分の床へと戻っていった。

 それからしばらく灯影は縁側を照らしていたが、やがてそれも消え、巽屋は完全に眠りに就いた。

 

(四)

 

 夕餉の片付けのため台所(だいどこ)に入ろうとしたとき、一平太は平助に呼び止められた。そして、明朝、朝餉の前に旦那様の座敷へ来いと告げられた。

「大事な話だ。忘れるなよ」

 質問をする間もなく、平助は行ってしまった。

 背中を見送ったまま、しばし一平太はぽかんと主人夫婦の膳を抱えたまま突っ立っていた。

「どうしたんだい?」

 先に台所の中で動いていたそとの声がかかった。それに答える。

「明朝、旦那様の座敷に来いって」

「さては何かしでかしたンじゃないかい?」

 いたずらっぽく笑ったそとの言葉に、一平太は心臓が跳ね上がる思いがした。膳の中の食器ががたりと音を立てる。

 というのも、一平太の心を奪っていたのは平助の告げた言葉ではない。三日ほど前、使いに出た一平太は振り売りに呼び止められた。三十半ばほどの浅黒い男で、一平太の知らない顔であった。返事に窮していると、振り売りはにやりと笑って、甚八の仲間だと告げた。一味は自分を放置していたわけではなかったのだ。

萬叉衛門と名乗った男は、強張った表情の一平太を屈むよう促した。端から見れば、商人に捕まって、その売り物の口上を聞かされている小僧という様だっただろう。

 そんな格好で、一平太は巽屋の様子――間取り、寝泊りしている人間、戸締りの状況のことなどを細かく問われた。それに多少迷いながらも逐一答えると、萬叉衛門は笑みを深くした。

 そして、三日後戸締りの見回りが済んだ後を見計らって、裏門を開け、後は寝ていろと命じられた。それを告げると萬叉衛門は雑踏の中に消えていった。

 つまり今夜、襲撃があるのだ。

 萬叉衛門と会ったことを見られていないかという心配と、そして自分がこの店に仇なすことへの躊躇が一平太の胸中で渦を巻いていた。

 一平太は首を振った。内心を悟られないように、なるべくゆっくりと。

 どのみち、そとはあまり気にしていないらしい。ちらと見ただけで、膳を閉まっている。たとえ悪さをして、それを隠しているのだとしてもたかが十の子供のすることと高を括っているのだろう。

「何にもしていないんなら、きっといい話なんじゃない?」

 からりとした口調でそとが告げた。

 そうかな。と一平太は生返事をした。

そこで話を打ち切り、一平太は膳をそとに渡した。格子窓から差し込むやわらかい光に、そとの顔は茜に染まっていた。

 

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(五)

 

 亥の刻を過ぎた頃、針のように細い月がやっと南東の空に顔を出した。しかし、辺りの闇は濃いままである。風も無く、滔々とする川のせせらぎと虫の音の控えめな音が広がっているだけで辺りは森閑としている。揺れる江月が薄らと光の粉を撒いていた。

 昼間の暑熱で膨らんだ生暖かい夜気も今は萎んできている。

陰を縫うようにして、二台の荷車を伴った十人ほどの人影が巽屋の裏手で息を潜めていた。全員が暗色の装束に身を包んでいる。

 賢久率いる山立ちの一味の面々である。

 六尺を優に超える、頭抜けた巨躯を持つ男が門扉を押すと、乾いた音を立てて内側に開いた。

 大男は仲間たちを振り返った。覆面の間から炯炯とした双眸が覗いている。

 八つの影が足早に中へと踏み入った。三人が見張りに立ち、残りは蔵の中身を運び出す役割らしい。

 細身の男が蔵の戸に手を掛けた。

 

 何かの軋む音によって、吉兵衛はまどろみより引き戻された。

 耳を澄ますと、僅かではあるが――かといって聞き間違いとは思えない程度の、複数の足音のようなものが聞こえる。

 隣からの衣擦れの音で、まつも身を起こしているのが知れた。

 明かり障子には、伸びてきた外の光が薄く映っていた。雨戸はしっかりと閉め、確認した筈なのに、だ。

 二人はいつものように床に就いたのだが、一平太へ養子の件を告げる明日のこと、そして子供を迎えた明日以降のことを熱心に話し合っていたために眠りに就いたのは九つを過ぎた頃だったのだ。

 音は裏の方から聞こえてきていた。

 吉兵衛は布団からそっと抜け出した。

 

 柔らかく、そして重みのあるものが地面にぶつかったような音で一平太は目を覚ました。

 身を起こして、頭を掻いた。目を開けてはいるが、総てが闇の中にぼんやりと沈んでいるので大して変わらない。

 横で小さく伸びをするような呻きが聞こえた。

「また小便かい?」

 隣で寝ているそとが言った。声は寝惚けているのか、くぐもっている。

 一平太は萬叉衛門の言いつけ通り、吉兵衛と平助が戸締りを見回ったのを見計らって、裏門の閂を外しておいた。

 気のせいかと思ったとき、裏庭の方から短い悲鳴が今度ははっきりと聞こえた。少し遅れて倒れた音も。声は平助のものだった。

 そとも聞こえたのだろう。ばさりと掛け布が音を立てた。そとが身を起こしたようだ。

 一平太は自分の顔が強張っていくのを感じた。明確に表現することの出来ない感情――強いて言えば、恐怖だろうが――が全身に広がっていく。湿り気を含んだ空気は暑さを残しているのにも関わらず、震えが走った。

 そんな一平太を温かいものが包んだ。そとが優しく抱きしめたのだ。目を向けるが、そとの輪郭がようやく浮んで見えるだけで、どんな表情かは分からない。零れた髪が一平太の顔を撫でた。

 そとはそのまま声を潜めて告げた。

「一平太。姉ちゃんが今から出て行って大声で騒ぐから、あんたは表から逃げな。そして、佐吉さんでも一馬でもいいから、人がいる所に行きな。呼んで来なくていい。ただ匿ってもらいな。ね?」

 何が起こっているのか分かったのだろう。そとの声は落ち着いていて、その優しい声音は覚悟の響きがあった。一平太たちが寝泊りしている部屋から店に出るのは通り庭を通らねばならず、そこは裏庭から丸見えである。

 一平太はそとの着物を掴んだ。

「行っちゃ駄目だよ……姉ちゃん、行っちゃ嫌だ」

 掠れるような声が一平太の口から毀れた。

「愚図っちゃ駄目だよ。姉ちゃん、困っちゃうからさ」

 諭すような、どこまでも優しいそとの声に、一平太は涙が迫り出てくるのを止められなかった。自分のせいなのだと、自分が引き込んだのだと、何もかも吐いてしまいたかった。だが、そうすればそとは、自分を汚らわしい者として見るだろう。そのことが怖くて、一平太は喉元まで出掛かっているものを外に出せないでいた。

 そとの身体が離れた。立ち上がったそとは振り返った。拍子で流れた髪が一房、闇の中で踊った。

「いいかい。脇目も振らずに行くんだよ」

 その時、すぐ外で大きな音がした。雨戸が内側に倒れ、障子に月光が滑り込んだ。青白い戸に大きな影が映ったかと思うと、乱暴に開け放たれた。踏み入ってきたのは刀を下げた大男だ。刀身の先から何かが滴っている。むっとするような、生臭い鉄の臭いが男から発せられている。

 そとは一平太を背中で隠した。一平太の眼前に、そとの細い背中が広がる。居丈高な声が響いた。

「血生臭いねえ。なんだい、あたしもそれで斬るのかい?ほら、あんたの前にいるのはほんの小娘だよ? 小娘殺すのに、そんな大層な刃物が必要とは情けないんじゃないか?」

 そとが手で一平太を叩き、押した。早く逃げろと――

一平太は心を決めた。

 そとの前へ転がり出ると、一平太は両手を広げて立ち上がった。

「おれだよ! 一平太だ! やめてくれよ!」

 一味の者を斬ることは無いだろうという考えからの行動だ。ばれても、もう構わなかった。そとが死ぬ方が恐ろしかった。

 一平太は覆面の中にある闇を睨み付けた。その中の、見えるはずの無い双眸が血笑に歪んだのが分かった。下げられた刀の影が男の身体に隠れた――

 突然、一平太は背中を突き飛ばされた。一瞬前、一平太の上体があった空間を颶風(ぐふう)が駆け抜けた。そして肉を裂き、骨を断つおぞましい音を背中で聞いた。

 壁に、天井に、畳に、大量の水が撥ねかかる音が続く。畳に倒れた一平太にも、その温(ぬく)い水が降り注いだ。後方で何かが崩れ落ちた。

 ようやく、一平太は後ろを見た。

 外の仄かな光が、逆袈裟に振り抜かれた刀身を鈍く照らしていた。

 部屋の血臭は一段と濃くなっていた。

 男は一平太を見下ろした。刀が上段に構えられる。

 そのとき、別の人間が部屋に飛び込んだ。

「待ちなって! 旦那、その子はうちの者だ!」

 その声は金次のものであった。一平太の麻痺した脳は、辛うじてそう判断した。

 男は刀を下ろすと、店の方へと去っていった。他にも幾つかの足音が続いた。

 金次の影はその場に留まっていたが、外から呼び声がかかって行ってしまった。

 そういった一連の動きも、一平太には見えても聞こえてもいなかった。

 残された一平太は這うようにして、部屋の奥――影の中へと入った。畳に広がっている暖かくて粘り気のある液体が手や膝を動かすたびに音を立てる。

 手探りで、一平太はそとの身体を探し当てた。その肢体には温もりがまだ残っていた。一平太は闇の中、それに抱きついた。だが、そとが抱き返してくれるはずはなかった。そとはもう何も言わない――。

 そとから体温が失われていくのを、一平太はどうすることもできなかった。

 やがて、一平太から総ての感覚が沈んだ。

 

(六)

 

 翌日。太陽が雲を黄金色に照らす頃、甚八は巽屋を訪れた。

 いつもの大太刀は背負っていないため、誰が見ても百姓にしか見えまい。

 暑さは残るが、傾いた日差しは秋のものになってきていた。実った稲を狙ってか、川の向こうで雀が群れをなして飛び交っている。

 それらを甚八は憂鬱な眼で眺めた。

 萬叉衛門が一平太を想って色々と心を砕いてくれた。このまま一平太がここで酒屋の小僧として暮らしていけるようにと。

 ――だが、そうはならなかった。

 小さく溜息を吐き、甚八は視線を元に戻した。

 店の前には行商が数人、顔を付き合わせて話し合っていた。小さく笑い声が混じることから、巽屋と縁の深い者たちではあるまい。

 甚八は彼等から目を逸らした。深呼吸をし、店に入る。

 中は、昨夜踏み荒らされた後が無惨に残っている。数人の人間が働いてはいるものの、その動きは緩慢で覇気がない。作業も遅々として進んでいないようであった。彼等が行っているのは再興ではなく、ただの後始末なのだから仕方のないことかもしれない。

 それでも一人が甚八を見つけて寄ってきた。

 甚八は困惑した表情を作り、一平太の叔父で甚平という者だと名乗った。そして、以前より一平太を捜していた旨を告げた。

深く聞かれたときのための返答を用意してきたのだが、それは必要なかったようだ。佐吉と名乗った中年は何ら疑うこともなく――そこまでの余裕がないのだ――甚八を裏に案内した。

 襖の取り払われた座敷には四つの布団が敷かれており、掛布から土気色の足がはみ出ているのが見えた。

 土蔵や酒蔵の周りにも人影は幾つか見えるが、表の者と同様に覇気が無い。

 その中に一平太が混じっていた。着替えたのか、着替えさせてもらったのか、顔にも衣にも金次が言っていたような血の跡はない。だが、一平太の瞳は薄く、他の奉公人以上に生気がない。返り血とともに心まで拭い取られてしまったかのようである。

 だから言ったではないか。と甚八は口には出さずに罵った。

 声を掛けるが、一平太には届かなかった。仕方ないので傍まで行き、肩を掴み、無理やり顔を向けさせた。掠れていた眼(まなこ)が多少色を取り戻していく。

「……甚八さん」

「迎えに来た。帰るぞ」

 甚八が促すと、一平太はふらふらとよろけながらついてきた。

 甚八は店の者達に別れの挨拶と悔やみの言葉を告げ、巽屋を後にした。

 歩いていく内に一平太は正気を取り戻してきたらしい。足取りはもうしっかりしている。だが、その表情は甚八が目を瞠ってしまうほどの憤怒と憎悪に歪められていた。

 一度塞がりかけた一平太の穴は抉られ、更に大きく深くなった。その穴を、それらの激情で覆うことで己を保っているのかもしれない。

 山小屋へ向かう山道を行く途中で、一平太の足音が止まった。

 振り返ると、一平太は立ち止まって夕闇に沈み始めた渡里の市を見つめている。琵琶湖の煌く湖面の中を帆影が行きかい、通りにも喧騒が溢れていた。渡里の日常は、昨日と少しも変わることなく一日を終えようとしている。

 その光景を眩しそうに見つめる一平太の影は、山陰の中に混じって分からなくなってしまった。

 

 

鼠之話・幕

 

 

 

 

 

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心持、戦国時代中期を舞台にしたなんちゃって時代劇です。
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