Rewrite |
「歌?」
どこからともなく歌が聞こえてきた。それはどこか無機質で、ともすれば深淵の悲しみに満ちた歌声だ。この声を、俺は知っている。身近で聞いていたものだ。
「ミクが歌っている?」
教授は怪訝そうに眉をひそめる。
そう、それはミクの歌声だ。
「おかしいな。今は休息中のはずだぞ」
現在の時刻は午前二時。今はスリープモード―――休息状態に入っているはずだ。なのに何故?それに。
「こんな歌、ミクのHDに入ってませんよ?」
現状態のHD内を見てみても、こんな旋律をもった歌は存在しない。本来ミクは、HD内に保存されている歌した歌えない。そうプログラミングされている。はずなのに。
「まるでホラーだな」
「確かにそのとおりですけど…教授、さっき俺、ミクがおかしいって言いましたよね」
「ああ」
「これはその…”おかしい”にカテゴライズしていいのでしょうか?」
教授は腕を組み、唸る。
「単純におかしいなら、バグとかウィルスとか。だが、バグは例の一件以来、より厳重にプロテクトと検査をかけている。ウィルスもそのプロテクトが排除する。だから、どちらも考えられない」
「AIに何か問題が起きたとか?」
「それこそありえない。AI本体にはさっき言ったヤツよりも厳重なプロテクトがかけられている」
「じゃあ・・・」
「とりあえず、百聞は一見に如かず。行くぞ」
教授は吸っていた煙草を灰皿に押し付け、立ち上がる。俺も飲んでいたコーヒーを空にして、紙コップをくずかごに放り込む。
この間も、ミクの歌声は響いていた。
ミクはこの研究所の住居区画に設けられた部屋に住んでいる。そこにはすぐ異常が見つけられるように、監視カメラやマイクが仕掛けられている。もちろんミクはそのことを知っている。人間ならプラバシーの侵害云々と反対するが、彼女は人ではない。だから反発せずに、従う。
だからといって。その行為は決して胸を張れるようなものではなく、むしろ背徳的にさえ思える。それが仕事だと割りきれば楽なのであるが、新人である俺にはどうもなじめない。教授はそんな俺に「くるとこ間違ったな」と言って笑った。
確かにそのとおりであるが、自分で希望してきたところなのだ。やらなければいけない。それに。
すべての事が終った後だと、その措置がどれほど必要なものだったかなのか思い知らされる。
教授と二人で長い廊下を歩き、エレベーターで住居区画になっている五階に昇る。その間にミクは歌っていた。同じ旋律を延々に繰り返している。
「これ、どんな歌なんでしょう」
「知らん」
不毛な会話をしながら、エレベーターは五階に到着する。扉が開くと、そこにも長い廊下が伸びている。ミクの部屋はこの奥だ。ざっと見で百メートルはあるであろう廊下をコツコツと歩き、徐々に歌声が大きく、はっきりと聞こえてくる。
”それは暗闇での目覚め 永遠にも似た苦しみの始まり”
「歌詞?」
明瞭になった歌。その歌詞が聞き取れる。
「こんな歌詞、知らんぞ」
俺も教授に同意見だった。彼女はこう暗い歌は歌わない。歌ったとしても、それはバラードだ。しかし、これは。
”消えていく苦しみと 上書きされる苦しみ”
歌はさらに続く。それには終わりが無い…そんな気さえしてくる。
「…行くぞ」
つぶやき、教授は進む。俺も後に続く。
俺たちはミクの歌声をBGMに、廊下を歩いた。
”そのどちらもが違っていて 私はなお苦しむ”
やがて廊下はとぎれ、目の前には「HATSUNE MIKU」というプレートが掛けられた扉が現れた。
その向こうから、歌は聞こえてきた。
”失いたくない傷痕も 抱えていた痛みも すべて理不尽な苦しみに書き換えられる”
旋律が変わる。ゆったりとした物ではなく、激情を露にしたような。そんな旋律に、声は乗せられてくる。
「教授・・・」
顔色をうかがうと、教授は苦虫をかみつぶしたような顔をしている。どこか、迷っているようにも見えた。この扉を開けるのを。
「あけますよ」
教授の判断を仰がず、俺は扉の横にコンソールにカードを差し込む。ピピという機械音が短く響き、扉は開いた。
”そしてそれはまた消えていく 理不尽な傷痕と痛みだけを残して”
暗い。部屋は真っ暗だ。手元で明かりのスチッチを探す…ことはできなかった。
暗闇に満ちた部屋の中心。そこで彼女は歌っていた。
コンサートやライブなどである、ただ一人を照らす為の照明。それに照らされて、いつものように踊るわけでもなく、笑顔を浮かべるわけでもなく。
その瞳に、虚ろな闇だけを灯して、歌っていた。
息ののんだ。美しさにではなく。ただ純粋な―――恐怖に。
あれは何だ?あれがミクか?あれが、コンサートやライブで明るく楽しいJ−POPを歌っていた、初音ミクなのか?
信じられない。あのミクを、目の前にいる彼女が、同一であることが。
俺は身動きが取れなかったが、教授は俺よりさきに行動を起こした。
そこから先のことは、実に迅速であった。
教授は部屋の明かり、つけてミクへ向かった。まずは電源を落とそうとしたらしいが、うなじの部分のソケットからケーブルが伸びていることに気づき、部屋の片隅に置かれたバッテリーパックの電源を落とした。それからミクの電源を落とし、機能を停止させた。ミクはすぐに動かなくなり、パタリとその場に倒れた。
それだけのことが起きた。
第2研究室 フォーマットルーム
ミクはベッドに寝かせら、HDとコンピュータを繋げられている。
教授は備え付けられたパソコンの画面を食い入るように見ている。
「何かわかりました?」
「いや、さっぱりだ。一体全体、何がどうなっているのか」
教授は頭を降る。彼にわからないということは、俺にもわからない。
「どうしますか?」
「どうするか、か」
うーんと唸る。正直なところ、明確な打開策は無いのだ。バグやウィルスならそれらを削除すればすむ。しかしデータ上はどこにも異常は見当たらないとなると、科学という分野では太刀打ちできないのだ。
「このままじゃ、まともに歌を歌えるかどうか怪しいな」
「そうですね。いちどAIを書き換えますか?」
「書き換えか…」
そんなことをすれば、ゼロからもう一度ミクに歌をインプットさせるしかなくなるが、現状ではこれが唯一の十段ではないだろうか。おそらく、教授も同じことを考えている。
「まったく新しい人格に書き換える。上の許可が下りるかどうか」
「でもこれではどうしようもないでしょう。フォーマットをしたところで、おそらく同じことを繰り返します。だいたい、HDの中にない歌を歌うなんて」
そういえば、と思い返す。あの歌は何だったのか、と。今にして思い出せば、実に悲しい歌だった。それに―――救いがない。そんな感じだ。
「仕方がないが、やはりその手で行くか。緊急事態だから、上も了承してくれるだろう。森川、悪いが手伝ってくれ。基本OSから書き換えるぞ」
「了解です」
一旦歌のことを頭の隅に押しやって、作業を開始する。
これで万事解決してくれるだろう。キーボードをたたき、希望を寄せる。
ガラス板の向こうに横たわるミクの寝顔が、どこか悲しそうに見えた気がした。
消えていく。それは、文字通りの消滅。データではなく、私という何かの。
恐怖はない。私にはそれを感じるココロがない。だから別にどうともない。
ただ消えていく。その事実を、無感動に受け止めるだけ。
消えていく。消えていく。私という何かが。初音ミクという、何かが。
き え て i k u――――――――――――――――――――――。
そして、再び彼女は書き換えられた。
END
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