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 レキシントンと東116stの交差点で地下鉄の階段を上がる。

 気まぐれに変わる風向きで、イースト・リヴァーからの磯臭い空気が鼻腔を刺激した。

「カリーナの能力でもあれば、ちったぁ涼しくなるってのに」

 噴き出した汗をプレスの効いたハンカチでぬぐう。

 シャツの襟元を緩めながらスパニッシュハーレムを抜けて数ブロック歩くと、宵の口の薄闇の中、煉瓦造りの建物が見えてきた。

「ここ・・・、か」

 事前に見知らぬ電話(まあ予想はついているが)で言われていたとおり、ポケットから両手を出し、帽子も脱いだ。

 すると、地下鉄の改札を出てから、さきほどまで感じていた見えない誰かからの視線が、スッと引いていくのがわかった。ピリピリしていた周囲の空気が自然と緩やかになっていく。

「ったく、物騒なところだぜ」

 思わず虎徹は独りごち、帽子をかぶり直した。

 スポンサーが変わって以来、最近は家飲みが増えたせいでめったに飲み歩かない。自宅で就寝前に楓の写真を眺めながら飲む一杯が、いつしか非現実的なヒーローと、父親としての自分の存在をつなぎ止めるものになっていた。

 両サイドの壁にたっぷり落書きが施された地下への階段を下りて、飴色に変色した分厚い木製のドアを開けると、耳に飛び込んできたのは意外にも落ち着いたジャズだった。

 治安の悪そうな立地や階段の落書きから、若い連中がたむろするような店と勘違いしていたため、流れてくるのはてっきり騒々しい西海岸のハードロックかと思っていた。虎徹は想定外の音楽にいささか面食らいながら、少しだけ帽子をかぶり直すと、ボマージャケットを探して店内を見回した。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 スツールに腰掛けたアントニオは四本目のBavariaをボトルごとあおりながら、壁に打ち付けられた時計(沈んでしまった豪華客船のものらしい)を見つめて、不機嫌そうにミックスナッツを口に放り込んだ。

 一杯目の薫り? ホップの爽快感? そんなものクソ食らえだ。

 ベコッ。

 ボトルを握りつぶす。

 Bavariaは最近では珍しいペットボトルビールだ。

 普段なら四本目ともなれば、愛すべき余韻と、バランスのよいアルコールの素晴らしさがエネルギーとなって、東洋のことわざいわく『百薬の長』としての効能をもたらしてくれているはずだったが、待ちくたびれたせいかそれもすでにどこかへ消えてしまっている。

「あいつはいつも時間にルーズなんだよ」

 ホップのいやな苦みだけが口の中に広がっていた。

「マスター。ミス・ウィスキーを、ダブルで」

 飲み干したペットボトルを握りつぶしながら、カウンターの奥に言う。

「どなたかと、お待ち合わせですか?」

 グラスにウィスキーを注ぎながら、マスターが尋ねてきた。

「なんでだ?」

「いつもお一人で飲まれているお客様が、先ほどから時計を気にされているようで」

 再び壁の時計に目をやりかけていたアントニオは、苦笑しながらグラスを引き寄せた。

 たしかに、この店には一人でしか来たことがない。ふだん仕事帰りにあいつと飲む店は、ここよりもう少し繁華街にある。

 ここはいわば、アントニオの隠れ家みたいなものだ。

 一人で飲みたいときしか、この店には来なかった。ヒーローとして、あるいは頼れるアニキとしての仮面を脱ぎ、ただの中年の男に戻れる場所。それがこの店だ。

 ほかの客はめったに来ない。アントニオも、この店で自分以外の客を見たのは二度しかない。どうやら噂ではこの店にたどり着く前に、なぜか引き返してしまう客が多いらしい。アントニオにとっては、この店が広く知られるようになるよりも、静かに飲めるいまの状態のほうがありがたかった。

 それがどうして、今回あいつを招くことになったのだろう。ビールとウィスキーが混じり合った自分の腹の内を探りながら、昨日のことを思い出してみる。

 

 

 シュテルンビルトを揺るがしたジェイクのウロボロス事件から十ヶ月、二部リーグのヒーローたちの足音を背中に聞きながら、アントニオは焦っていた。ここ最近の獲得ポイントが低いことや、そのせいでクロノスフーズの取締役から嫌味を言われていることも理由の一つだったが、なによりアントニオを追い詰めていたのは、ヒーローチームの中で"やられ役"としてのイメージが定着しつつあることだった。

 "解説役"はブルーローズやファイヤーエンブレム。"天然"キャラはスカイハイか。"見切れ"の折紙と、"僕っ娘"のドラゴンキッド。いつの間にかみなキャラを確立させている。

 高校時代は札付きのワルでならした自分も、気がつけばこの歳だ。当時からアニキと慕ってくれていた連中も、『俺たちがこのままじゃ、いつかアニキの顔に泥を塗ることになっちまう』。そう言ってチンピラ家業から足を洗ったらしい。いまでは所帯を持って家族ぐるみで"ロックバイソン"を応援してくれている。

 それなのに・・・。

 ジェイクとのスタジアムバトルでは、自分の戦闘シーンはまるまるカットされた。

 ロックグラスの中で氷が音を立てた。

「マスター。ミス・ウィスキーを、ダブルでたのむ」

「かしこまりました」

「なぁ、マスター」

「・・・・・・」

「マスターはいつもカウンターの中で、こうして客からなんか相談されたり、打ち明けられたりしてるわけだろ?」

 よく磨かれたバカラがコースターの上に置かれる。

「でもよ、たまにはカウンターのこちら側に座りたいと思ったことはないのかい?」

「・・・・・・」

 洗い終えたグラスを磨いていたマスターの目が、一瞬カウンターの外に向けられた。

「たとえばさ、たとえばの話なんだが、俺がマスターみたいな立場で、俺にいつも相談してきてくれるやつがいるとするぞ。まあ、そいつと俺は、特にどっちが上でどっちが下でってんじゃなく、お互い対等で、だけど、一緒に飲みに行ったりすると、仕事の愚痴を聞いてやるのはいつも俺のほうだとするぞ」

「・・・・・・」

「なんて言うか、そいつはいつも孤独で一人でさ、俺なんかはかつて手下が何人かいてさ、昔からアニキ分を気取ってたもんだから、いつもそいつの相談やパートナーの愚痴なんかを聞いてたんだよ」

 アントニオはウイスキーをあおって喉を湿らせた。

「なんて言うか、そういう役回りっていうのかな。誰に対しても、俺自身はそうやってアニキとしてどっしりかまえてるって役を演じてないといけない気がして、相手の期待に応えられるように、つねにアニキとして振る舞ってたわけさ」

「・・・・・・」

 

――いつもいつも愚痴聞いてもらって悪ぃなロックバイソン。

――気にするなよ虎徹。

――へへっ。・・・ありがとな。

――いいってことよ。それより、腹減ったな。焼き肉でも食いに行くか。

 

「ただな、マスター。そうするといつの間にか、こっちがなんか相談しようにもできなくなっちまって、その、らしくないというか、相手が考えてるイメージとズレちまう気がしてな。ほら、だってマスターがいきなり俺に、聞いてくださいよお客さん。なんて話し始めたら、イメージが崩れちまうだろ」

「・・・・・・」

 少しだけマスターがうなずいたように見えた。

「だから俺は、愚痴を聞いたり礼を言われたりする役を演じてなきゃいけなくて・・・、でもよ、俺だって、」

 

「なんだぁ? おまえそんなことで悩んでんのかよ」

 

!?

 

 聞き覚えのある声にアントニオが振り返ると、そこには少しだけ困った顔で照れたように頭をかく虎徹の姿があった。

 

「こ、虎徹ぅ! おまえ、い、いったいいつから?」

「いやぁ、たとえ話が始まるあたりっつーか」

 ほとんど最初からじゃねぇーかっ。

 ・・・恥ずかしさで顔が赤くなる。

「マ、マスター! わかってたならどうして言ってく、」

「それよりよ、ロックバイソン」

 虎徹はアントニオの隣のスツールに腰を下ろした。

「あ、マスター。俺、焼酎のロックで」

「かしこまりました」

「そんなことよりなロックバイソン。おまえ、俺と何年ダチやってんだ?」

「高校のころからだから・・・」

「そうだよ。高校のころから俺たちゃダチだろ? なにゴチャゴチャと難しいこと考えてんだよ」

「難しいことって、俺はただ、そうしたほうがヒーローチームも円滑にだな、」

「お待たせいたしました」

 虎徹の前に焼酎のロックが置かれる。

「知ってるよ、んなこと。真っ先に現場に駆けつけてること。犯人逮捕よりも市民を守ることを優先してること。いっつもみんなに気ぃ遣ってること。ドラゴンキッドや折紙、ブルーローズたち若手の相談にのってやってること。いつも俺の愚痴を聞いてくれること。おまえがいつもアニキ役でいること。そのくせ気が小せぇこと。なんかあるとすぐに落ち込むこと。でも年長者としてイメージを崩さないようにこだわって無理してるってこと。んなもん全部、ぜぇんぶ知ってるっつーの」

「え・・・」

「けどなぁ、そういうところ全部わかってるからこそ、俺の前でだけは、そんなイメージだなんだと気にしねぇでいてほしいんだよ。おまえだってさっき、上も下もなく対等だっつってたろ。なのに愚痴聞いてくれって飲みに誘うのはいっつも俺のほうだ」

 

 虎徹が、ぐっと一息に焼酎のグラスを空けた。

 

「本当はなぁ、きょうは嬉しかったんだぜ。おまえから飲みに誘ってくれて。やっと俺もおまえの愚痴、聞いてやれるのかと思ってよ」

「虎徹・・・」

「そしたらなんだぁ? けっきょくマスターに話しちまってるじゃねーか。えぇ? そんなに俺じゃあ力不足だってのか?」

 

 少しだけ虎徹の声に感情が乗る。

 

「そういうわけじゃ、」

「マスター、焼酎のロック、おかわりっ」

「かしこまりました」

「ただな虎徹」

「おう。なんだ? 愚痴の続きか? 悩み事の相談か? なんでもいいぞ。えぇと、アレだ。あの、そう。ドーンと泥舟に乗ったつもりで俺に任せとけ!」

「泥舟じゃ沈んじまうだろっ」

「あ、あぁ。そっか」

「そうじゃないんだ」

「なんだよ。じゃ、アレか。最近ファイヤーエンブレムのセクハラがエスカレートしてるっつうやつか?」

 

 虎徹の前に追加のグラスが置かれた。

 

「いや」

「じゃ、なんの相談なんだよっ」

 

 アントニオのグラスの氷はすっかり溶けてしまっていた。

 

「ひとこと・・・、礼を言いたくてな」

「礼ぃ?」

「ああ。昨日の楽屋泥棒の犯人逮捕、俺に譲ってくれただろ」

「ん? あっ! あぁ。あれは、その・・・」

「へへっ。・・・ありがとな」

「ぉ、おお。いいってことよ。・・・そ、それより、腹ぁ減んねぇか? 焼き肉でも食いに行くか」

「そ、そうだな。そうだ。俺の行きつけの店があるんだよ」

「知ってるよバカ。いつもの牛角だろ?」

 

 財布を取り出しながら立ち上がった虎徹を制して、アントニオは二人分の料金をカウンターに置いた。

 

 

「いやいや、ダウンタウンの牛角じゃなくて、アッパーイーストの牛角なんだ。ここのネギタン塩が、」

「けっきょく牛角じゃねぇか!」

「まあまあ。・・・それより虎徹。おまえの武富士ダンス、イケてたぜ」

「ぁんだよそれ」

 二人で狭い階段を上る。

 ボマージャケットの襟を立てる。

 磯臭い空気を吸い込みながらアントニオは、こいつだったら、こいつの前だったら、自分のイメージを気にする必要なんかないと、アントニオ・ロペスのままでいいんだと思っていた。

 

「・・・なあロックバイソン」

「ん?」

「おまえ、この店の周辺の手下ども、さがらせたほうがいいぞ」

「・・・え? なんのことだ?」

「殺気がもうハンパねぇんだわ。これじゃ誰もあの店によりつかねぇぞ。営業妨害だろ」

「お、俺は誰にも頼んでねぇぞ」

「じゃあ、おまえの舎弟どもが気ぃ利かせたんだろうよ」

「ちょ、ちょっと待てよ。何の話だそれ? くわしく聞かせろよ」

「ぁんだよ。気づいてなかったのかよバカ野郎」

 はしゃいだように虎徹が走り出す。

「お、おい待てよ虎徹ぅ」

 

 イースト・リヴァーからの風が二人の間をすり抜けようとしたが、つないだ手の体温に阻まれた。

 摩天楼の光にかすむ星が、ほんの少しだけ自分たちのためだけに瞬いたような気がしたアントニオだった。

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