飛行日和
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「こんにちは」と、猫族の少年は言った。

「こんにちは」と、天使族の少女は言った。

 白いワンピースを着た少女は、丘のうえに腰かけて、ぼんやりと空をながめていた。Tシャツに半ズボンの少年は、少女のとなりに腰をおろした。

「いい天気だね」少年は言った。

「そうだね」と、少女は言った。

「なにしてるの?」

「なにも」少女はこたえた。「あなたは?」

「散歩。天気がよかったから、外に出たくなって」

「そう」少女はこたえて、また空を見あげた。少年も真似して、晴れた空にうかぶ雲を見つめた。

 ふたりはしばらくだまって、空をながめた。つよい日差しがふたりの背中を焼いて、丘の斜面にふたつの影をつくった。おおきな翼のある影と、あたまのてっぺんにぴょこんと耳のとびでた影。

 ゆるやかな風が、丘の草と、少女の黒い髪と、白い翼と、少年の長いひげをゆらした。雲がゆっくりと流れていった。

「どこから来たの?」少女がたずねた。

「あっち」少年はこたえて、丘のふもとの町を指さした。

「ぼくの部屋は五階にあって、窓からここがよく見えるんだ。きみがいつもここに座ってるの、いつも窓から見てた」

 少女はびっくりした顔をしたけれど、なにも言わなかった。少年はことばをつづけた。

「天気のいい日には、いつもここに座ってるよね。ここでなにしてるの?」

「なにも」少女はこたえた。「ただ座ってるの」

「ただ座ってるだけ?」

「ただ座ってるだけ」

「たのしい?」

「ううん」少女はこたえた。

「たのしくないのに、どうしてただ座ってるの?」少年はたずねた。

「することがないの」少女はこたえて、空を見あげた。

 太陽の光がまぶしくて、少女は目を細めた。おおきな雲のかたまりが、ふたりの頭のうえにやってきた。

「あの雲」

 少年はいいかけて、とちゅうで口をつぐんだ。少女はくびをかしげて、たずねるように少年を見つめた。

 しばらくたってから、少年はまた口をひらいた。

「あの雲。きみの翼みたいだ」

 少女は視線をうえにむけた。ほそながい雲のかたまりは、端のほうが細くなっていて、翼をひろげた天使のすがたに見えなくもない。

「部屋の窓からだと、ちょうどあんなふうに見えるんだ」

「そうなの」少女は言った。「しらなかった」

 ふたりはしばらく黙ったまま、天使のかたちをした雲が頭のうえをながれてゆくのを見つめていた。雲は太陽をよこぎって、ほんの一瞬、あたりがすこしだけ暗くなった。

 鳥が一羽、ふもとの町のほうから飛んできて、ふたりの頭上を飛びこえていった。白いちいさな鳥。遠くにいるから、ちいさく見えただけかもしれない。

「飛ぶのって、どんなかんじ?」少年はたずねた。

「しらない」少女はこたえた。「飛んだことないの」

 少年はびっくりした。「いちども?」

「いちども」

「どうして?」

「飛びかた、しらないの」少女は足元に視線をおとした。

「ママはあたしが小さいころに、飛びかたを教えてくれるまえに死んじゃった。パパは犬族だから飛べないし」

 少年はちかくの草をむしって、ほおりなげた。風が草をひろいあげて、どこかへ運び去っていった。

「教わらなくても、飛べるんだと思ってた」少年は言った。

「そういうひとも、いるかもしれないけど」少女は言った。

「きみは、ちがうの?」

「わかんない」少女はかぶりをふった。「やってみたことないもの」

 少年がなにもこたえないので、少女は気になって、少年の横顔を盗み見た。少年はまたひとつ、足元の草をちぎってなげた。草は風にのって、どこかへ飛んでいった。

 少年の耳がぴくぴく動いて、うしろをむいた。車が一台、丘のうえをやってきて、ふたりの背後で停まった。

「ぼく、もう行かなきゃ」少年は立ちあがった。

 少女も立ちあがって、うしろをふりむいた。車から猫族の女性がおりてきて、ちいさく頭をさげた。顔は影になっていて、はっきりとはみえなかった。

「ぼく、ほんとは、ここに来ちゃいけなかったんだ」少年は言った。

「そうなの?」少女はたずねた。「どうして?」

 少年はこたえなかった。だまって車のほうへ歩いていくと、うしろの席のドアをあけて乗りこんだ。半透明のガラス窓をあけて、少女をふりかえった。

 風が草の波をつくって、少女の足元でゆれた。太陽の光が反射して、草の波はきらきらひかって見えた。

「ばいばい」少年は言った。

「ばいばい」少女は言った。

 少年をのせた車が丘をくだって行くあいだ、少女は立って見送った。車がふもとの町にはいると、少女は丘のうえに腰かけて、車の行く先を目で追った。

 車はおおきな病院のまえで停まった。

 少女は空を見あげた。いつのまにか、天使の姿をしていた雲は空のずっとむこうにあって、風ですっかり形がくずれてしまっていた。

 少女は急に帰りたくなった。家まで走って帰った。

 

 つぎの日の朝、少女は病院のまえまで行ってみた。とおりがかりの看護婦が、病院にいる猫族の少年についておしえてくれた。うまれつき肌が敏感で、太陽の光によわいこと。つよい日差しにあたると、肌がやけどしたみたいにはれあがってしまうこと。昨日その少年が病院をぬけだして、母親につれもどされたこと。いまはからだじゅうがあかむけてしまっていること。

 その日の午後、少女は丘のうえにのぼって、腰をおろした。病院の、下から五つめの窓を数えてみたけれど、遠すぎてだれかいるかどうかはわからなかった。

 風はきょうもゆるやかに吹いている。見あげると、ちいさな雲が頭のうえを通りすぎてゆくところだった。

 立ちあがって、ワンピースのおしりについた砂をはらった。風はふもとのほうから、丘の斜面を吹きあげてくる。前髪をまきあげて、翼をゆらした。

 いい天気だな。と、少女は思った。

 

 

説明
よく晴れた丘の上で2人は出会った。しっぽの生えた男の子と、翼の生えた女の子。――ちょっとした出会いのお話です。
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