マンジャック #11 |
マンジャック
第十一章 螺旋の罠
夏日になった。少し早い本格的な暑気の到来に、道行く人々の服装は一気に軽いものに変わった。太平洋高気圧の異常発達からくるこの気紛れな気温の上昇は、彼らの行動を軽快にするのに明らかに一役買っている様だった。
そして今、日曜の昼近くともなれば、ここ渋谷の駅前には、ありとあらゆる年代、人種の男女がごったがえして、それぞれの休日を楽しく過ごそうとしている。
「ひーっ。暑い。」
電柱の脇に寄り掛かっていた馳がたまらず声をあげた。ひっきりなしに通る人々の人いきれに噎せてしまったようだ。無理もない、こんな陽気に関わらず、彼ら対特のメンバーはほとんど肌を露出していないのだ。
「気持ちは分かるが、少し辛抱しろ。」
そう諌めたのは、背中に背負ったバッグが潰れるのも構わず、電柱の反対側に凭れているパートナーの鈴鳴だ。とはいえそう言う彼もしかし、しっかり着こなした背広が窮屈なのは一目瞭然で、額の汗がそれを裏付けている。
彼らに限らず、この日対特はそのメンバーのほとんどが渋谷に集まっていた。といっても、野外集会を開くわけではない。彼らは二人一組になって、あるオブジェから50m以内の円を描くようにして散開しているのだ。服装こそまちまちで、周囲に同化しようとしているのだが、彼らの持っている独特の緊張感は、他の大多数の人々が発する楽しげな雰囲気とは趣を異にしていた。仕事をしている者とそうでない者との差は、意外な程大きいものだ。
すっかり凸凹コンビになった鈴鳴と馳の二人も勿論その包囲の輪の一組で、駅口とは道路を挟んで反対側のワイドスクリーンの下辺りにいた。よりによって一番陽当たりの良い場所だ。照りつける日光が、更に彼らを焼きつける。
いけない。しっかりしなくちゃ。馳は鈴鳴の忠告に素直に襟を正すと、また彼方の目標物に目を向けた。
馳とは対照的に、梢の陰にあって涼しげなそのオブジェは、馳の視線を無視するかのように、自分の前に集まる群衆を相も変わらず見下ろしたままだ。
しばらくはそんな時間がひとしきり...。
「...しかし。」馳のそれを見る目からちょっと緊張が消えた。いや寧ろ、疑念の表情といっても良いだろう。「ホントにあれですかね?」
「何がだ。」鈴鳴が面倒くさそうに答える。
「いや、その。」馳は口ごもってから続けた。「日付と時間は合ってるって気がするんですが、”無口な忠義者”って、ホントにあの犬なんですかね。」
馳が情けない視線を送った先には、確かに無口な忠義者、ハチ公がいた。
鈴鳴も流石にうんざりしたような口調で答えた。「仕方ねぇだろ。課長が今朝になって突然ここだって断言したんだから。」
二人はお互いに微かに肩を竦ませ、またおし黙ってから同じ方向に顔を向けた。
だが。馳は思った。こんな安直な謎でいいのか。
...。鈴鳴、殴っていいぞ。作者が許す。
「ここに違いないよ。馳君。」
突然かけられた背後からの声に、馳は心臓が飛び出そうになった。慌てて振り返ると、対特の課長である明林が、表情を顔に出さずに立っていた。
「わわわ。いや、あの。別に課長を疑っているわけではないんでございましまして。」慌てている馳は語尾が変だ。「ただ、少〜し変かなぁと。」
鈴鳴は微かな薄笑いを浮かべている。
「確かに。」明林が切りだした。「余り合法的とは言えない情報を取引するのに、こんな賑やかな場所が場違いに思えることは認めよう。だが、転じて考えてみたまえ、交渉相手が米軍などという物騒な連中であってみれば、当然交渉が決裂した場合には自分の身に危険が迫ることは十分に考えられる事じゃないかね。」
馳は、あっ、という顔になった。
「ジャッカーにとってどういう場所ならば、無事に逃げ果せると思うかね。」
人混みだ。馳は明林の言わんとしていることが判った。たとえ交渉が上手くいったにしても、その場でズドンではあまり嬉しくないだろう。だったら出来るだけそういった武力行使をし難い場所、更に盾もしくは避難場所としての人間が多いところ。
ジャッカーにとって人混み以上に安全な場所はあるまい。しかもここなら、待ち合わせている人々の多さでは他に類を見ないだろう。あのメッセージを発した者の判断は的確だ。馳は思った。謎は陳腐だけど。
「それに。」明林が続ける。「ここと睨んだのは、どうやら我々だけではないようだよ。」
明林の示した視線の先に馳も眼を移すと、駅前交番の横辺りで大道芸人と思しき一行が奇妙な芸を披露しているのが遠目に見てとれた。
「カタストロフ社でしょうか。」鈴鳴が小声で明林に耳打ちする。
「そこまでは判らない。」明林が特に抑揚を変えることなく言った。「ジャッカーかもしれない。」
「それでちょっと奇妙なんですが...。」今度は馳が切りだした。「ジャッカーである成木が何故、人為的にジャックする方法なんて知りたがるんでしょう。」
そうだ。彼は思い出していた。黄昏の臨海公園で成木は確かに言った。自分の未来の目標を見いだしたと。それが今更、転移の仕方を学ぶ事なのだろうか。
「知りたがってもおかしくは無いぞ。」鈴鳴が戯けて言った。「自分の能力についてより詳しく知るって事は大切だもんな。関西芸人に弟子入りすれば、お前のボケも治るかもしれんぞ。」
そんなぁ。弱る馳のさまを見て鈴鳴は大笑いした。
「成木が狙っているのは、別の事かもしれないな。」明林の声は、鈴鳴の笑いを止めた。
「何でしょう。それは。」馳が食い下がる。
「わからん。だが、案外早く見られるかもしれないぞ。」
終始感情を表出しなかった明林の顔に、微かな笑みが浮かんだ。
丁度その時、自らの影を慕い、己の元に最も引き寄せる時刻。正午は迫った。
長刃の剣が宙に舞う。六本の剣は、すんでの所でお互いにぶつかることなく、向かい合った二人の男が持つ逞しい両の腕の中に吸い込まれ、また相棒の方に投げ返されてゆく。原色の奇妙な衣装から成るクラウン達の見事なジャグリングに、回りのにわか観客達の拍手も惜しみない。
各々三本づつが、二人の手に納められると、進行役らしき道化の一人が、耳目を集める大声で言った。
「さて、お次はナイフ投げをご覧いただきましょう。とは言っても、リンゴを狙うくらいじゃぁ今時お喜びいただけますまい。今様のお客様には、標的が危険でなければ受けはよろしくないのですな。しかしとなれば、皆さんに喜んでもらうため、勿論私めが的にならせてもらいましょう。」
道化は、簡易にしつらえた木製の板を最寄りの電柱に立てかけ、他のクラウン達によってそこに括りつけられた。彼はその拘束が外れないことをアピールするために、面白おかしく逃げる素振りをしてから、駄目だと知るやうなだれた。と思うやすぐに、両の手を横にピンと伸ばし、磔刑のキリストを気どる。
「では、かくの如く動けぬ私めに、切っ先鋭いナイフをドンと投げてもらうことにしましょう。」
道化の合図によって、白地に青のストライプが入った衣装を身につけた痩身の男が出てきた。
彼は縛り付けられた道化の前に立つと、おもむろに後ろを向き、一歩、二歩と、まるで西部劇の決闘でもするかのようにゆっくりと離れていった。
さほど広くないハチ公像前で行われだしたパフォーマンスに、人だかりは既に二重三重と輪を作りだしている。
九歩、十歩。痩身の男はそこで足を止めると、ゆっくりと道化の方に向き直った。
「皆さん出来れば静かにして下さいよ。彼の気が散ると私は穴だらけにされてしまいますからね。」
道化が言った。が、注意されるまでもなく、少なくとも彼らを取りまいている観客達は、固唾を飲んで動向を見守っている。
痩身の男が取りだしたナイフを己が顔の前にかざす。そして眼を閉じ、一瞬の精神統一。
周囲の音が更に止みだす。気の早いセミの音が、やけに耳につく...。
男はかっと眼を開いた。その視線はまっすぐに道化の男の眼を捕らえた。
!
宙を飛ぶナイフは、それを見つめる者たちに日光を一瞬だけ思い出させて...。
カッ。歯切れの良い音がした。
道化の右頬1ミリ離れて、ナイフは壁に深々と突き刺さった。
成功だ。ふいに緊張がとぎれた観客は微かな間をおいて、やんやの喝采を送った。
痩身の男は両手を挙げてそれに答えると、宥めるようにまた静かにさせた。そしてポケットからもう二本ナイフを取り出すと、頭上に掲げた。
その時、道化ははっとした。痩身の男の唇が、自分の名を形作ったからだ。
「あれだけ近くに投げてあげたのに、眉すら動かさないなんて流石ですね。ミスター・クール。」
道化の口から思わずいつもの口癖が出る。「ほう。」
「お久しぶりですね。先日はどうも。お陰で死にかけましたよ。」
「いつの間にジャックしたんだか。大したものだ。」
二本目のナイフが投げられた。左脇の下の服を掠めて板に突き刺さる。
道化に扮したクール、痩身の男にジャックした成木は、読唇術によって会話を続ける。周りからのこれだけの耳目を集めて尚、秘匿の会話をするためだ。
「何をしに来たのだ。」とクール。
「判りきっているじゃないですか。あなたと私がここにいること自体が答えですよ。」成木が不敵に答える。
「お前にあの能力を渡すわけにはいかん。」
「いやいや。それはお互い様というものですよ。」三本目が宙を飛び、右腹の下近くの板に刺さった。「私の邪魔をしなければ、あなたも長生きできる筈ですよ。」
「言ってくれる。貴様とて我々をだしぬくような真似をするなよ。あの女のようになりたくなければな。」
痩身の男の表情がほんの一瞬曇った。
「挑発するとはいい度胸ですが、そんな状態でどうしようというのですかな。」
クールの力を持ってすれば、拘束を解くこと自体は造作もないことではあろう。が、ナイフが彼の身に到達するまでにそれが出来るとは思えない。
痩身の男が右腕を挙げた。掲げられたその手にナイフが四本も光っているのを見て、観衆はどよめきの声を上げた。
それでも尚、クールの表情に不敵さが消えることはない。
痩身の男の眼が光ると、そこには明らかに成木の発した殺意が見えた。振り下ろされた腕が空を切る。
ほとんど同時に、二人の間に男が割って入った。褐色の逞しい上半身を晒したその男は、痩身の男の方を向くと、口から巨大な炎を轟音と共に吹き出した。
火吹き男の両側をナイフが掠め、クールの磔された板の四隅に突き刺さった。
観客達の視線は同時に起こった出来事に二分された。半分は道化の方を見て彼が無事であることに胸を撫で下ろし、もう半分は...、天を仰いでいた。
痩身の男は炎を全身に浴びる瞬間、空中高くジャンプしたのだ。彼は身体を丸めて回転しながら後方に着地した。観客の作る輪のギリギリの所だ。
一瞬の後、周囲からはこの度胆を抜くショーに、惜しみない拍手を送る。
「我々が一人ではないことを忘れているのではないか? 貴様は絶えずクール隊の包囲の中にいたのだ。」
縄を解きながら、クールが唇だけで言った。
「ふふふ。危ない危ない。あんたの部下は皆優秀だな。」痩身の男は、成木の表情を見せて言った。「ひとまず退散するとしますが、包囲しているのはあなた達だけではないことを忠告しておきますよ。」
痩身の男は手を伸ばして一回転した。その手は後方の観客達のいづれかの者の手に触れたはずだ。そして男は、立ちすくんで放心した。
お前に言われるまでもない。クールは道化の下の顔でニヤリと笑った。
12時だ。どこからともなく音楽が鳴り響いてきて、その時刻を報らせたのだ。クール達を取りまいていた客のある者は食事をとるためにその場を去り、別の者がその空隙に取って入った。
「お次は皆さんに参加していただく奇術でございます。我と思わん方は名乗りを上げて下さい。」
彼らの腕について疑念を差し挟む観客はいない。しかし、日本人は周囲から積極的に浮き出す行為は嫌うものだ。面倒に巻き込まれないですむ、卑怯だが安全な一生を送るには確実な方法だからだ。
だが、そうした素地があったればこそ、この日本でジャッカーは生まれたか...。
「どうしましたか。何も不安がることはありませんよ。」クールはとどめの一言をつけ加えた。「”鷲”の様に勇気のある方は、是非出ていらして下さい。」
ほとんどの者には耳を通り過ぎるだけのこの言葉が、限られた者にだけはパスワードとなる、交渉の始まりとしての、野望の初期値としての...。
「やる。」
人の輪の一部で声と、腕をあげる者がいた。
かかった。クールは内心思った。
「ではこちらに来ていただけますか。」
道化のクールが引率しているのは、勿論名乗りを上げた男性だ。彼は四十代前半か、顎髭を蓄えた、筋骨逞しい男だ。
彼はクールに、掃除用具を入れるロッカーくらいの大きさでつっ立っている箱の前まで連れて行かれた。
「皆さん。これから我々は、神隠しの奇術をしてご覧に入れます。」クールは周囲に仰々しく大見得を切ると、箱の扉を大きく開け放った。
「さぁお客さん。この中に入っていただけますか。」
よっしゃ。というかけ声をだして、飛び入りの男はその箱の中に入った。
「どうもありがとう。」クールは男性に向かって言った。そして扉を手に持つと、観客の方を向いた。「いよいよただいまから、世紀の神隠し術をお目にかけましょう。まずは、人体切断と参ります。」
観客はさほど反応がよくない。こういった手品は、TVで割とありふれているからだろう。
「では扉を閉めます。」クールは扉の内側に向き直った。
一瞬、中の男と眼が合った。中の男は客達の間から出てきたときとはうって変わって険しい目つきになっていた。
「それでこそ。」クールは男に微笑みかけた。「でも暫くそうしていて下さい。ではしばしのご休息を。」
クールは扉を閉めた。
「何か楽しそうですねぇ。」ハンカチで額の汗を拭いながら、馳は鈴鳴に話しかけた。
「そうだな。」鈴鳴はいい加減な返答を返す。
超然とした顔でいるのは、明林のみ。
通行人が楽しそうに通過して行く中、むさ苦しい三人組はただ太陽に焦がされていた。
ズズッ。頚の辺りに位置しているらしい横穴に金属板が突き抜けた。クールは押していた腕の力を抜いた。
「これで、全ての刃物が通りました。」
箱には横から、縦に約三十cmの間隔を空けて全部で五枚の刃が突き抜けていた。おきまりの儀式めいたやりとりの後、道化は大仰に刃を引き抜いていく。
ここで、普通なら扉に開けられた小窓から中の人を見せるところであるが、この手品はちょっと趣向が違った。
道化を始めとして、全部で六人いる芸人達はわらわらと箱に近づくと、箱のいちばん上部をカパッと外した。そして、中の一人がそれを持って離れる。今まで箱のあった空間には、残念ながら入った男性の顔は無かった。
上から二つ目も外して、また一人が持って離れた。
三つ目の箱を取り去っても、まだ中にいた男性は出てこない。
ありきたりとも言える手品であるからか、観客は終始大して喜びもしていない様子であった。が、道化が彼らの考えていた予定調和を外していることに思い至って、一転ざわざわとざわめきが起こりだした。
どうなっているんだ。当然の反応が囁かれ始める。物理的に考えて、残り三つの箱の中にいる筈だが、ちょっと考えても、あんな小さな中に大の大人が入れるとは思えない。
四つ目が取り去られた。ざわめきに不安が混じる。
五つ目...男はまだその身体を見せなかった。
とうとうその場に残された箱の断片は一番下の部分の三十cmもないサイコロ状のものだけになってしまった。
一体あの男性は何処に行ってしまったんだ。箱の下はアスファルトの地面だ、地下に潜れる筈がない。かと言って持ち去られた方の箱に何か入っているようにも見えない。周囲は今やこの得体の知れない大道芸に恐怖さえ覚え始めていた。いくら何でもそんなことはと思う心の端に、最悪の状況を予想してしまう自分達に気付いたためだ。
だが道化は、彼らの不安を拭ってはくれなかった。
「皆さんどうもありがとうございました。今日の芸はこれで全て終了いたしました。また会う日までごきげんよう。」
おいっ。周囲の者は誰しもそう思ったろう。ちょっと待てよ。おかしいじゃないか。誰かが放った一言が呼び水となって、我も我もと不満を爆発させるカロム反応が起こった。野次はすぐにも、怒鳴り声が混じるほどになった。
しかしその時、道化に扮したクールが最後に残ったサイコロを持ち上げた。同時に、怒号が止んだ。クールが立ち上がると、彼の前には客の輪から出てきたらしい、男が立っていた。
「どういうつもりだ。」
そうだそうだ。男が観客の意思を代弁していると思った客から、賛同の声が上がった。
「私は”神隠し”の奇術と申した筈ですが、お客さん。」
クールが戯けた顔をして言った。が、男が吐く次の言葉を聞いたとき、その表情はいつもの彼に戻った。
「貴様初めから取引するつもりなど無かったな。ヤムはどうした。奴でないと俺の技術の真の価値はわからんのだ。」
訝しげに、観衆は声を潜めた。構わず、道化のクールが応じる。
「世界を手にすれば、お前に払う金など無意味だろう。それにお前の転移術に本当に価値があるのなら、ヤムの生存さえも無価値だろう。」
「そういうことか...。ではこのバラ肉は何に使うのだ。」
男がクールの持っていたサイコロを蹴っ飛ばした。不意を付かれたクールの手を放れて、サイコロは宙に舞い、地面で弾けた。
信号が青になる寸前だったから、その音はよく響いた。
ゴロリ。
歩行者信号のカッコウの音が鳴り始めてからも、意外にも周りの人間から声は出なかった。いや、あまりのことにショックで立ちすくんでしまったというのが本当の所だろう。
周囲の竦みなど気にも留めず、クールはその頭をフル回転していた。奴はいつの間にその身体に転移したのか...。こいつは他人に触れることなしに依童の身体から抜けられるのか。あのゼロ・ヒューマンが言っていたのは本当だったのか。
「お前を捕まえようとするのはやはり無駄な努力だったな。」クールが感心して言った。「だがそれだけのために我々はお前に会いに来たのではない。」
「死体の定着思念を調べるとでも言うのか。ご苦労なことだ。」男はあざ笑った。
殺された人間の網膜を移植された人には、絞殺される寸前に見た情景、つまり犯人の顔が映って見えるという。これと同様に、死んだ者の脳は、その命が尽きるときの思念を残す。定着思念と呼ばれるそんな情報を、取り出す方法があると聞く。だがそうして得られるのは正に止め絵に等しい。欲しい情報が残っていることはまずあり得ない。
「まぁそんなところだ。お前もその一人になるかね。」クールはそう言うと、おもむろに三十八口径を取り出すや、全弾を男に発射した。
ショックに追い討ちがかかったとき、野次馬達から今度こそ悲鳴が上がった。
「しまった。あそこが動いたか。」言うなり、鈴鳴が道路に飛び出した。驚いた車が音をたてて急停車する。
ハチ公像を遠く取りまいて、同じように動き出す者たちがいることがわかる。言うまでもなく対特のメンバーだ。馳も飛び出しかけたが、ガードレールに足が引っかかって転けてしまった。
「いでっ!」
ばつが悪い思いで馳は明林を振り返ると、彼は明林が奇妙な笑みを湛えて突っ立っているのを見た。
ハチ公前はパニックになった。
こういった場合、状況も分からずに逃げまどう人が殆どだ。像の前は右往左往の人々で収拾がつかなくなった。
全身に弾が埋め込まれ、突っ伏して倒れた男を見て、クールは冷ややかに笑った。が、彼はおかしな事に気付いた。これだけのパニック状況において尚、彼らクール隊を取りまく者達がいたのだ。
その者たちは皆一様に無表情で、クール隊をじっと見つめている。
すぐに対特のメンバーがクール隊を目指して突っ込んできたが、この奇妙な一団が彼らの邪魔をする。
「な、何をするんだ。どけっ。」
鈴鳴が怒鳴り散らすが、彼らの輪は全く動じない。
そんな中、丁度クールの正面にあたる所にいる女性がクールに言った。
「愚かな者よ。俺を甘く見たな。」
次の言葉は、彼女の口からではなく、輪の向こう側の者から発せられた。
「俺が貴様らの翻意を測れぬとでも思ったか。」
はははははははは。甲高い笑いはその男から隣の者、また隣の者へと伝搬し、やがてクール隊を取りまく者達全ての叫声になった。
あまりにも揃った彼らの声は、クール隊ばかりでなく対特の者達をも戦慄させた。
「貴様らなど俺が相手をするまでもない。私をはめようとしたことを後悔するがいい。」
しかし、不意に彼らは力を失い、倒れた。そのあまりにあっけない結末に、誰しも瞬間我を失った。が、クールにはすぐに奴の狙いが分かった。
対特とクール隊を分けていた壁が、破壊されたのだ。
ははははは。狂ったような笑いはもう一人、明林も発していた。彼は今正に始まろうとしている戦いを、心底喜んでいるように笑った。
「...ジャックされてたんだ。」明林を見つめる馳は、恐怖のあまり竦んだ。
様々な服装で一般人に紛れていた対特のメンバーは、背中のバッグから出して素早く身につけた防具によって、急速にお互いの姿を似せていった。
腕と足に巻いたサポーターは、超硬樹脂で造られたもので、真正面からでなければ弾丸すら通さない特別製だ。勿論防弾チョッキも着ているから、正にテロ対策の装備と考えてよかろう。
初めから我々に絞っていたな。クールは迫ってくる彼らを素早く吟味した。そして即座に部下達に指示を飛ばす。
「ナイフで対抗しろ。装備の隙間から攻撃するんだ。」
相手は約四十人。こっちは六人...。戦力的には互角というところか。
クールの血が滾り始めたとき、戦闘が始まった。
渋谷の駅前全体が混乱の極みに達していた。クール隊と対特の攻防のとばっちりを避けようと、道に溢れかえった人々で寸断された交通麻痺が二次災害を起こしてしまったのだ。行く者、来る者、過ぎ去る者と、駅近縁はあてもなく逃げまどう人でごった返した。
そんな中、それでもようやく我に返った馳は、眼前で傍観を決め込んでいるジャッカーを何とかして捕まえる方法を考え始めた。
こんな時原尾先輩ならどうする...。スタンガンか。あれなら。
馳は元々無視されてはいるが一応明林の背中に回り込み、バッグからスタンガンを出して構えた。
行くぞ。課長ご免なさい。そっと近づいてスタンガンを突き立てようとした時だ。馳は背中を叩かれた。
あっ。と思わず振り返る。そこに立っていた男の目を見て...。
そのまま彼は動けなくなった。
「これはこれは。坊やがこの間私を捕まえてくれたそうではないか。お礼してあげたいところだが、今日はそちらの男性に用事があるのでちょっとそのままでいてくれたまえ。」
紳士風の男は、そう言って馳の傍らに立った。
なっ、成木黄泉!! 馳の声が音声の形を取らなかったのは、彼が成木の催眠術にかかったからだ。しかも成木の施術で恐ろしいことは、身体が動かないだけで精神は明瞭なことだ。今の馳は、特拘をあっさりと抜け出してきた男に横に立たれたのに指先すら動かすことがゆるされない。そんな状況で、狂気に達することが出来ない者が考えることはもはやひとつしかあるまい。
こ、殺される。
混乱は混迷を生み、混迷は混沌を生む。そして混沌のあるところ、ジャッカーが存在する。今、逃げまどう人々を背景として、世紀末の悪魔が再び動き出した。
成木は言の通り馳には目もくれず、明林の背後に立った。
「久しぶりだな。常盤修司。」
明林が成木の方に振り返った。
「気の毒だが人違いをしているようだ。俺は万丈と言う者だ。」
紳士は笑みを湛える。
「自分からジャッカーであることをばらす度胸は褒めてやろう。だがとぼけるなんて水臭いじゃないか。対特の刑事の中で邂逅したときのあの感覚...。」紳士はセピア色の思い出を掘り起こしているような表情を見せる。
「間違えよう筈がない。常盤よ。私はかつてお前を親友と思っていた事すらあったのだから。」
混乱に染みいるように、その声はやけにもの悲しく周囲に消えていった。
「気の毒に。」万丈は笑って言った。「俺があんたの親友だっだって? たいそうな勘違いだな。」
「そのうちわかるさ。」
「私を捕まえられると思っているのか。」と明林の中の者。「よしんばこの男にジャックしてきても、また消え去るだけだぞ。」
「今日はお前の正体が確認できたことだけでも収穫なのだよ。それに...」成木の口調には驚きが篭る。「まさかこれほどの集団転移法まで拝めるとはね。」
集団転移! 成木が唐突に発した言葉は、発せられたときの雰囲気からは想像だに出来ない重い意味を持っているのだ。
「流石だな、判っていたのか。」明林は感心したように言った。「未知の、しかも無限の魅力を秘めた転移法だ。だが、だからこそ俺の敵となるような者に、この力渡せるものかよ。」
クール隊と対特との戦いは奇妙なものになった。命を張っているにも関わらず、端から見るとまるで集団で喧嘩しているように見えたからだ。
というのも、対特の連中の身につけた防具の特殊な繊維に、クール隊のナイフはすぐに刃が欠けてしまったのだ。といって接近戦になった今更銃は使えない。対特についても同様で、主装備はもともと警棒とスタンガン位なものだ。となると、両者にダメージを与える最も効果的な方法は、己の拳のみとなる。
「いてててて。この野郎。」
「ガッデム!」
あまり上品とは言えない言葉が飛び交う乱闘戦になってしまうわけである。
対峙するジャッカー二人が火花を散らす。
「私についてもあのアメリカ産のタフ男についても。」成木が冷笑する。「お前はみくびり過ぎているようだ。我々は数少ないチャンスを決して無駄にはしない。」
「どういうことだ。」万丈は訝る。
「今回ここにやってきたのも、物見遊山だけではないのさ。」
「なんだと。」
「自分の能力を誇示すれば我々が畏れを成すとでも思ったのか。だとしたら愚かな思い上がりよ。」成木の言葉は力強く、自信に満ちた響きを伴った。
「我々が自ら手にしようとしているものが強大でしかも危険であるほど、我々の食指は更にその手を広げ、そこに生まれる渇望は逆に、行動する力の更なる糧となるのだ。」
「ぐっ。」明林が憎悪の表情を作った。
「私とあのアメリカ産。貴様を追い詰めるのは、果たしてどちらかな。」
成木は不敵な笑みを浮かべた。明林がわずかに気圧される。
だが。
「遂に見つけたぜ...。この獣姦野郎。」
三本目の柱、ジャッカーハンターの登場だ。
乱闘戦になって、最もめざましい勢いを見せているのがクールであった。
既に二人のクール隊がスタンガンによって伸されていたが、彼の奮戦によって、未だ三十人を下らぬ敵を相手に一歩も引けを取らぬ戦いをしていた。
バキッ。クールの拳がまた決まり、後方にいた三人を巻き込んで男が吹き飛ばされた。
「何て奴だ。」対特のメンバーにも戸惑いが見える。しかし無理もない。彼らは今、豹と化した河合と互角に渡り合った男を相手にしているのだ。その力の差に愕然としない方が不思議というものだ。
「奴だって人間だ。タフさにも限界がある筈だ。負けるな。」
鈴鳴が叫んで三度目のアタックをする。そしてまた5m吹っ飛ばされる。
ちっ、確かに。クールは状況の悪化を冷静に認めた。今のままの消耗戦ではいくらなんでも我々が不利だな。多少こいつらを甘く見たようだ。
最終手段を使わねばならんかもしれんな。
「ふふ。随分前から潜んでいたようだが、我慢できなくなったか。ジャッカーハンター。」
大野の登場に成木は大した驚きも見せない。そして万丈に向かって言った。
「これもやはりお前の罠の内なのかな。」
「まぁそう言うことだ。」明林はさも当然といった顔をした。「今回の取引は、そもそも邪魔な奴を一掃する目的もあったんでね。」
「用意周到だな、まさに。では最後にもう一度聞こう。」成木は大野との距離に気をつけつつ言った。「お前は常盤なのだろう?」
万丈は一瞬だけ遠い目つきをした。
「俺は常盤であって常盤ではない。今の俺はマンジャッカー、万丈司だ。だが常盤には伝えておこう。ゼロ・ヒューマーになってまで再会を遂げたい相手がいるとな。じゃあな。今日は楽しかったよ。」
そこまで言うと、万丈は身体から離れたらしく、明林はその場にくずおれた。
ジャッカー二人が同士討ちするかと思ったからこそ、大野は隠れて傍観していたのだが、成木が言ったまさかの科白。集団転移という言葉に仰天して飛び出してしまったというのが正直なところだ。
よりによって集団転移とは...。大野は成木が狙っている真の目的がそれであると知ったとき、眩暈のするほどの戦慄に襲われた。もしそれが本当なら、それは大野の想定した最悪の結果を、更に甚大に上回る程恐るべきことなのだ。集団転移が成木の手に渡る。それは、今でさえ敵のいないゼロ・ヒューマンである彼に、誇張ではなく世界征服すら為しうるだろう力を与えることになるかのだ。
まずは万丈を何とかしなくては。大野は周りに気を飛ばす。彼は既に、自分達から数m離れたところで自分達のやりとりを見ている者がもう一人がいたことに気付いていた。その男、ようやくパニックが収まりかけたこの近辺だったとはいえ、それでも立ち止まっているような人間は目立つので、大野が秘かにチェックしている一人だったのだ。しかも明林が倒れ、その男がそそくさと立ち去るに至ってはもう、間違いあるまい。
あいつに万丈の真の精神が憑いてる。
「馳太一!!」
大野は叫んだ。ビクッとした馳は思わず。
「な、何ですかいきなり。」そして自分の身体の変化に気付いた。
「あれっ。う、動けるようになった。」
大野はニヤリとした。成木は俺にかなり神経を集中している。馳に掛けた術は僅かなショックで消えるものになっていたのだ。
「あの走って行くTシャツの男を追え! 奴が行き着いた先に万丈の本体がいる筈だ。行って二度目の大手柄にしてこい!」
「は、はいっ。」
馳は訳も分からずとにかく大野の指示した男を追った。
万丈は人工的にジャッカーになった男だ。大野は反芻した。つまり、奴が他人に憑くには一定の儀式がいる筈だ。いったん本体に戻ってしまえば普通の人間。馳でも捕らえることは可能だろう。
ハンターを持ち駒の一つにしやがって...。大野は去って行く万丈に心中で呼びかける。俺の前からのうのうと逃げ切れると思うなよ。
「さて。」
ほぼ同時に、大野と成木は言った。あらためて向かい合った二人のうち、次に言葉を発したのは成木の方だった。
「さっきの罵詈からすると、ソーニャは獣になったようだな。」
それは、彼女が人前でその姿を曝したということが、彼女にとってどういう事態を招いかについて十分弁えた上での科白だった。
「おう。」大野は声を震わせた。「彼女はクール隊に殺されたんだ。」
「ちょっと待て、それなら私に怒りをぶつけるのは筋違いというものではないかね。」成木は顎をちょっと動かし。「あそこにいる連中と殴り合ってくればいいではないか。」
成木の指示の先では、またしても鈴鳴がぶっ飛ばされた所だった。
「俺はこれでも分は心得てるんでね。」大野は肩を竦めた。「あいつらは対特が懲らしめてくれるというんだ。俺が出しゃばるつもりはない。それよりも。」
大野の表情が一転して険しいものになった。
「何故彼女を巻き込んだ! 何故彼女をジャッカーの闇に引きずり込んだ!!」
大野の心の奥深くから湧いた一喝だった。
冷酷だった成木がその笑みをなくした。そして、彼が沈黙を破るのには、意外にも数秒を要した。
「ソーニャは孤独だった。...それだけの理由だ。」
「!!」
意外な答えに大野は当惑した。その一瞬の隙をついて、成木が跳びすさった。
「逃がすか!」
大野が開いた成木との距離を再び詰めようとダッシュしかけたときだ。
キーン!
大野の背後を何かが掠め、すぐ脇の電柱の端を削った。
狙撃! まだ落ちつきが十分ではない周囲の一般人は気付かなかったようだが、彼は今のが銃弾だったと見抜いた。が、どうする。何処から撃ってきたかも判らないのに...。
「流石に運がいいな。」成木は感心した。「だがいつまでその幸運が続くかな。」
その言葉を最後に、成木は走り出した。
「待てっ。うっ。」
今度は手前の地面が弾けた。跳弾が低い角度で空を切る。
東からだ。慌てて大野は電柱に身を隠した。すぐに一発、電柱の反対側に当たる感触が伝わってきた。
成木はのうのうと逃げて行く。大野は歯咬みするも、今のままではどうすることもできない。彼は完全に成木の罠にはまった。彼とても狙撃の可能性は考えたが、落ち着いて射撃できるような、そんな人のいない場所が渋谷くんだりにあるとは思えず、そもそもこれだけの人間が集まる場所では、狙撃対象を見つけること事態至難の業だ。となれば、想定される攻撃手段から外す方が寧ろ自然であろう。
孤独だった...だと。大野は遠ざかる成木を見つつ思い出した。あらためて怒りが湧いてくる。それで豹を憑かせたのか。それでジャッカーと関わる不幸な人生を彼女に与えたのか。
「お前は間違ってる!!」
消えた成木に聴こえたのか。大野の叫びは雑踏の中に吸い込まれていった。
大野の潜む電柱に、また弾が命中する。周りの人々はその小さな変化に気付かない。
「おいっ。俺は狙われてるんだ。俺の近くから離れろ。」
大野は通行人に叫んだ。が、人々は彼のことを変人扱いの目で見て遠巻きに避けて行くだけだった。
とりあえず目的は果たせたからいいや。大野は複雑な気持ちで納得し、当面の危機に思考と神経を集中させた。
だが一体誰が、どこから狙っていやがる。電柱に穿たれる穴は殆ど同じ場所だ。くそっ。自分の腕を見せつけてやがる。大野は忌々しげに認める。俺が動かなかったら最初の一発は当たっていただろう。まだ生きていられるのは、奴のミスというより、引き金を引いてから着弾するまでに俺が偶然動いたからに過ぎないだろう。つまりそれほどの遠くから撃ってるということだ。
一体何処だ。
ええい。大野は危険を顧みず一瞬だけ電柱から出て、狙撃位置を探ろうとその左腕を突き出した。
内蔵のマイクの集音域を極端に狭める。
チーン。心臓を狙ったであろう一撃が、偶然左腕で弾かれた。大野はワンテンポおいてから電柱の影に隠れる。
音は拾えた。サイレンサーを使っているらしいが弾丸の空気を切る音は隠せない。大野はその音を解析してすぐに飛弾ベクトルを割り出す。その結果。6.3度。この角度から発射できる建物といったら...。大野は素早く顔を出して仰天した。東京電力の電気館の向こう、大気に霞むほど遥か彼方に工事中の高層ビルがある...。
とてつもない距離だ。2.5キロは軽くある。何て腕だ。どんな奴が撃っていやがる。
「ちっ。また外したか。」
窮地に陥っている大野の命運を、2600mの彼方から握っている者がいる。日曜日で工事が停まっている建設中の高層ビルの最上部、まだ鉄骨がむき出しになっているところに、彼はうつ伏せになってライフルを手にしている。警備員の制服を着ているから、休日時のビルの保安係だろう。
だが中味まで警備員とは限らない。現に彼は二時間前に、地上でジャックされたのだから。
彼にとり憑いた男、操乱春名は緊張で口中に溜まった唾を吐き捨てた。遥か落ちて行く間に、それは独特のモーメントを持ったダンスを踊った。
操乱は成木を通じて、クール隊の一人が持っていた射撃の能力を得ていたのだ。特拘前の荒れ放題の草っ原で、成木からその力の流入を感じたとき、操乱はその素晴らしさに総身に震えが走ったものだ。
流石はクール隊だ。その時彼は思った。その腕はオリンピック選手並、いやそれ以上かもしれない。
操乱自身、その力を引き出していることは判っているからこそ、なおのこと大野をしとめられないことで苛立ちが募っていた。狙ったときと着弾時との二秒ちょっとのタイムラグさえなければ全部大野の心臓を貫いていたろうに。
「それにこいつの身体。何て汗臭いんだ。」彼は一人ごちた。「集中できやしねぇ。だから俺自身の身体でやらせてくれと言ったのに。」
くそ。止まってさえくれれば。いやせめて、規則的な動きでもいいからしてくれないかな。
えっ? ピンぞろハンターさんよ。
どうする。どうする。大野は混乱した頭を必死に整理していた。このまま電柱の陰に隠れていれば安全ではあるが、それでは何も進展しない。かと言って歩道をのこのこ逃げれば一般人に当たる。
「車道...。」
大野は呟いた。車道を横切って駅側の建物の横に入るというのはどうだ。車道側に出ることは狙撃手も考えていないだろうから、出鼻に当たることはあるまい。すぐに俺の意図を読み取って撃ったとしても、弾丸の速度を秒速1000mとして着弾までに二秒強。つまり大体三秒以内に方向転換をしつつジグザグに向こう端まで走りきれば助かるわけだ。
いける。幸いさっきの事故の渋滞は緩和してきているから、次に赤になって車が途切れたときが勝負だ。
周り雰囲気のいつの間にか平静に戻りかかっていることに気付き、大野はつとクール達の方を見た。凄まじい乱闘がパニックの現況であることを聞きつけた警官隊がそろそろ集まってきていた。それが逆に民衆の関心をかきたてたのだろう。あろうことか人が群がりだしている。事情を知らないにしても危険すぎる。大野は心中不安が広がった。クールは何するかわからんぞ。
ダッ。大野は飛び出した。進路クリアー。建物まではざっと50m。
1・2・3。それっ。大野は横っ飛びする。案の定、彼のいたところには銃弾が掠める。うまい。これなら何とかなりそうだ。
彼は道路の真ん中でもう一度方向を変えた。やはりその脇に空を切る音。
よし。もう一発避ければ助かる。大野は計画の成功に楽観しかけた。が、次の瞬間、その視線に自転車に乗った少年を見つけた。
なにーっ! このままでは俺のコースと真っ直ぐぶつかっちまうじゃねぇか。だいたい渋谷に自転車で来るかふつう。そもそもちゃんと信号で渡りやがれ...って俺も人のこと言えないか。いや一人コント言ってる場合じゃない。ええい。今のままではあの子に当たる。
「伏せろ坊主!」
叫んで、大野は頭からジャンプした。少年は突然の事に反応が出来ぬまま、大野に頭を抱えられ、そのまま自転車から投げ出された。
大野は少年を庇って宙を飛ぶ時、頭上を弾丸が飛び過ぎるのを実感した。腕の中を見ると、彼を見つめる少年の目は恐怖に強ばっている。
「!」大野はその目を見たとき、遠い時間を感じた...。
遥かな昔...この目は。...この目は。
大野は少年を抱えたまま道路に落ち、転がった。そして三回転した後、側溝の段差に当たって止まる。
大野は半身を起こして少年を見つめる。大野に覆い被さられた少年は、ひきつった顔で視線を返す。
「よし、生きてるな。俺が退いたら反対方向にとにかく逃げろ。いいな。」
大野の勢いにわけも分からず、少年はただ首肯する。
「いい子だ。長生きしろよ。」
大野は言葉を残して前に跳ね飛ぶ。一回転して片膝を付き。
あろうことか、両手を広げて身を曝した。
「さっさと逃げろ、坊主!」
弾かれたように逃げ出す少年の足音にほっとして、大野は彼方のビルを睨み付ける。
操乱は驚いた。ライフルのスコープから見る大野と、目が合ったような気がしたからだ。
「面白い。その度胸に免じて一撃で殺してやる。」
躊躇いなく、操乱はトリガーを弾いた。
三秒以内に死ぬな。大野は思いつつも、その実感は微塵もなかった。
そして自分の中の、意識では推し量れない何かが、自分の命を奪うものが近づいてくることを知らせた。彼は目を閉じた...。
ドッカーン!!
凄まじい音がした。大野はあまりの大音響に心臓が喉から飛び出るかと思ったが、同時に、作者の語彙力を疑った。あんた、波動砲撃ってきたんじゃないんだからさぁ。だが変だ。もう一度彼は思った。彼は自分の何処も痛くないことに気が付いたのだ。
訝って瞼を開けると、眼前には車、それも...自分の軽自動車がその横っ腹を見せていた。
「乗って! 事情は大体見ていたわ。」
ドアを開けて運転席から顔を出したのは...原尾だった!
「な、な、な。」
「いいから早く! 死にたいの?」
助手席に退きながら原尾が怒鳴る。?を左右の脳に満たしつつも大野は自分の車に乗り込んだ。そして素早くギヤをバックに入れると、前輪を載り上げた歩道から降ろした。ホイールの辺りに弾が当たる音がする。
ギアを入れ直してアクセル全開!
「ここを離れるぞ!!」
「畜生!!」
操乱は目一杯の罵りの言葉を叫んで、右手で鉄骨を叩いた。
何てこった。あの状況で取り逃がしちまった! 彼は上半身を起こすと、もう一度鉄骨に拳を叩きつけた。
...。拳から流れる血を見ること数秒。彼は煮えたぎる怒りから、それでも自分を取り戻した。
この場を立ち去らねば。
だが、焦ることはない。彼は笑った。よしんば大野がここに向かったとして、いったい何分かかるかを考えれば、それも当然だろう。
奴が着いた頃には、もぬけの殻でご苦労さんってところだ。
「ここならあなたが絶対来ると思ったから、車を返せるかもと乗ってきたの。」原尾は助手席から大野に説明する。「でも仕事上は無断で来ちゃった手前、みんなと合流するわけにもいかないから遠巻きに張ってたのよ。そうしたら、あなたが車道の真ん中でダンスしてるじゃない。」
「ダンスじゃねぇ!」
「冗談よ。それより停まってよ。何処に向かってんのよ。」
原尾が言うのも無理はない。大野はアクセルを全く緩めず、かなり無茶をして車の間をすり抜けているのだ。
大野はニヤリと笑った。
「黄泉を逃がした上に死にそうな目にあったんだ。お礼言わなくちゃ合わない。」
「じ、冗談でしょ。」原尾は呆れた。「スナイパーのいるっていう工事中の高層ビルって、どれだけ離れてると思ってるの?」
「ダッシュボード開けて。」
大野の言うとおりにすると、中には使用途も定かではないあやしげな薬品や小物の他に、パトライトと小型拡声器が...。
「ちょっ、ちょっとこれ。」
「もたもたしないで屋根につけてよ。現職が乗ってんだから文句無いでしょ。」
「私いま謹慎中なのよ。」
苦笑いしつつ原尾は両方とも屋根に取り付けた。大野はマイクを取ってアクセルを更に踏み込んだ。
「緊急車両です。退きなさい。」
「滅茶苦茶するのね、あなたって。」原尾はもう一度呆れた。
Tシャツの男を追って、馳は地下街に入っていた。
男は地下に入って安心したのか、その歩みを急に弛め、他の人間と同じくらいの歩調にしている。
目立たないようにしているのか。馳も出来るだけ気取られないように尾けてゆく。
男はやがて地下鉄の切符売り場に辿り着き、切符を買う。馳も反対側の機械で、一番遠距離の切符を買う。
男はゆっくりと改札に近づき、自動改札を抜ける。とその瞬間、彼は全速力で駆け出した。
「し、しまった!」
馳もすぐに反応し、自動改札を飛び越えた。
「切符は持ってますよ。」
馳が階段に来たとき、Tシャツの男は既に半ばまで降りている。
「待て!」馳は一応叫ぶが、向こうもやっぱり止まらない。
階段の半分を駆け下りたとき、馳はホームに停まっていた電車の発車の合図を聴いた。
ガタン。
Tシャツの男と馳は、電車の扉一枚で隔てられた。
「こ、この。」馳は離れたところにいる駅員に怒鳴る。「開けて! 乗りたいんだ。」
駅員の反応は無く、空しく電車は動き出した。
馳が見ると、Tシャツの男はバイバイをしていた。
「くそっ。何てドジなんだ僕は。」馳は切符を床に叩きつけた。奴がとっくに僕に気付き、タイミングを測っていたことにも気付かなかったなんて...。
こんな事では駄目だ。馳はトンネルの彼方に消えてゆく電車を見て思った。
そこのけそこのけ。大野はまるで大名のように車を脇に退かせて行く。それでもギリギリを掠めての運転だから、原尾は気の休まる暇がない。
「もう少し安全運転してよ。」
「これ舐めてな。」大野は懐からアメを取り出すと、原尾の口に放り込んだ。「心臓にはこれがイチバンってね。」
「ほんなほろひったって(そんなこと言ったって)。」
原尾はまた文句を言いかけたが、大野の表情の厳しさに唇を止めた。
「あいつは子供まで巻き添えにしようとしやがった。許さねぇ。」
「ほーのはん(大野さん)...。」
キキキキキッ!
タイヤを鳴らして無理に角を曲がった時、大野と原尾は眼前に今までの三倍の交通量を見て絶句した。
「くそっ。」静かに悪態をつく大野。「東京ってのは休みでも...。」
原尾は彼の表情を見かねた。ええい。
「貸して。」彼女は大野からマイクをひったくった。そして。
「警視庁危険物処理班です。この車はただいま爆発物を積んでいます。」これは驚く。だが彼女は更にそしてトドメの科白を吐いた。「死にたくなかったら道を空けなさい!!」
そんなことを言われてまともに走る車がいるわけがない。大野達の前方にいる車は残らず両側に寄る。中には慌てすぎてガードレールに車体を擦るものもいる。
こ、こえーっ。大野は心底思った。トンデモねぇウグイス嬢だ。
「毒ガス積んでると言わないだけ良心的だわ。」そう言って、左頬を膨らませた原尾は大野にウインクした。
クール隊vs対特。長く続いた戦いもようやくケリが付こうとしている。
クール隊でまだ立ち上がっているのはクールともう一人のみ。しかも、さしものクールも息が上がっている。それに比べて、対特はまだ二十人近い人間で二人の周りを取り巻いている。周囲には普通の警官もわらわらと集まってきているのが見える。
これまでか。クールは思った。力で負けるとは、屈辱もいいとこだ。
最後の攻撃に備え、ジリジリと包囲の輪を縮める対特...。
「ミネルヴァ。聴こえるか。」クールは背中合わせの部下に小さく声をかけた。「伸されてる者たちにあれをつけろ。最後の手段だ。」
ミネルヴァと呼ばれた隊員は目を見開いたが、すぐに戦闘を放棄して周りの隊員に寄った。
「対特とか言ったな。」クールは大声を上げる。「俺達をここまで追い詰めたことは称賛に値する。素直に負けを認めよう。」
対特のメンバーに安堵の表情が走る。やっと終わるのか。
「だが我々は生憎捕まろうとは思っちゃいない。」
クールは懐から缶のようなものを取りだした。そしてそれを地面に置くと、足で踏みつけた。
爆弾かと思ったときは一瞬肝が冷えたが、ふんずけても何も起こらなかったことに、一瞬対特のメンバーは気を抜いた。だが、鈴鳴は微かに、甘い匂いを嗅いで仰天した。
「毒ガスだ! 全員離れろ!!」
一瞬の判断が命運を分けた。クールを取り巻いていた対特の男達は、バタバタと倒れてゆく。
マスクをつけたクールは言った。
「やれやれ、我々が必要な死体は一つで十分なんだがね。」
ハチ公は黙ってそれを見つめる...。
キキーッ! 大野と原尾は車が停まるや否や飛び出した。
二人の眼前には、仰ぎ見るほどの鉄骨の固まりが聳え立つ。完成すれば天をも貫くかと思われるビルは、今はまだ大半が白い幕で覆われている。
二人は板張りの工事塀を反対側に走る。入り口は何処だ。
角を曲がって、大野はトラック搬入用の大扉を見つけた。
勇んで近づくと、彼は横にある作業者用の扉が半開きになっているのを見つけた。
ここか。大野は扉を開け放って中に飛び込む。
入り口を入ってすぐには、資材置き場にするための広い区画があるのだが、その一番奥、ビルのそこから生えているという際のところに、なんとライフルを持った警備員がいたのである。
二人は目が合った。そして、同時に声を上げた。
「うっ。」
「えっ。」
二人とも、相手の登場があまりにも早すぎて、心の準備が出来ていなかったのだ。
それでも警備員は反射的にライフルを構え、大野も反射的に横に走る。
ちぃっ。警備員は狙いもそこそこに速射で三連射した。逃げる大野の尻をすり抜けて塀に風穴が開いていく。
「ひーっ!」大野は慌ててダンプカーの影に逃げ込んだ。
当たるとは思っちゃいない。狙撃用のライフルなんて、接近戦にはかさばるだけだ。操乱はライフルを投げ捨てた。そして懐から出したロシア流れの拳銃を構えて大野を追い詰めにかかる。
「ピンぞろハンター!!」操乱は叫んだ。「俺が分かるか!」
「じゃ、ジャッカーさんの誰かだとは思うけどぉ。」ダンプに貼り付いた大野は猫なで声で言う。「恨み買いすぎちゃって特定できないのぉ。」
こ、こいつは。操乱は呆れた。
「てめぇをぶっ殺すために特拘から抜け出してきた操乱だ。」
そしてダンプカーの脇に躍り出る。
再び相見える大野と操乱。
「あ。あははは。そうかそうか。元気だったぁ。」
「この。」
大野のおふざけに逆上した操乱は銃を乱射した。わたたた。大野は一目散に荷台の後部に逃げ込む。
「ま。」待てと言いかけて、操乱は閃くものがあった。
操乱は静かに運転席のドアを開ける。しめた。キーが刺さってる。彼は乗り込みつつ、サイドミラーを覗き込む。大野が半身を出して車体に凭れているのが見える。
「見てろ。」操乱は小さく呟くと、サイドブレーキを外し、クラッチを入れたままでイグニッションを入れる。(あれ、トラックって軽油だからプラグはないよねぇ。ま、適当に解釈して下さい。作者は本筋と関係ないところには気を使ってません。)
ガクンと僅かだけ車体が前進した。が、その程度でも身体を預けている大野を倒すのには十分な筈だ。
もう一度操乱はサイドミラーを覗く。ひっくり返った大野の足が投げ出されているのが見える。にたりと笑って彼はギヤをバックに入れる。
「踏み潰してやる。」
操乱はキーを入れた。シャフトが悲鳴を上げ、今度は2m近く車体が後退する。左後方のタイヤに微かだが鈍い感覚...。
手応えあった! 操乱は内心嬉々として反対側のドアから転がるように降り立った。とうとう奴を倒したぞ。
「!」操乱は暫く声を失った。大野は...死んでいなかった。
だが。
「あっはっはっは。」操乱は突然大笑いした。「ざまぁねぇな。」
大野は確かにぴんぴんしていた。が、横に逃げる際に左手をタイヤに踏まれていたのだ。二輪二列の後部タイヤの一本にその掌を上にしてもろに下敷きにされている。彼はタイヤに頭をもたせかけ、操乱の方を向いて苦笑いした。
その瞬間、作業者用入り口の扉を開く音。操乱は振り向きざまに三発発射する。
原尾は危うく難を逃れ、塀の脇に身を伏せる。
「逃げろマキちゃん! 操乱だ。奴は銃をもってる。」大野が叫んだ。
「黙ってろ!」操乱は大野に威嚇射撃する。銃弾は大野の顔を掠める。
操乱ですって。原尾は信じられないといった表情をする。スナイパーはジャッカーだったなんて。それに大野さんのあの格好。撃たれたの?
原尾は銃を無くしたことで謹慎うけてた筈だ。大野は現状打開の方策を必死に練る。彼女に援護を期待するのは無理か。ん? 大野はふと閃くものがあった。
原尾が沈黙したことを受けて、操乱は大野の方を向いた。そしてゆっくりと狙いを定める。
こ、こりゃなりふり構っちゃいられない。
「どわわわわ。」大野は悲鳴を上げた。「マキちゃん援護援護! 石投げてでもいいからとにかく助けて!!」
援護しろったって...。原尾は困惑した。拳銃がないのは知ってるくせに。原尾も勿論、大野を助ける方法を懸命に考えている。石投げてでもなんてどうかしちゃったの? はっ。投げる...。
「往生際が悪いぜハンターさんよ。」操乱は叫ぶ。「今楽にしてやるからな。」
「操乱!」
叫ぶと同時に原尾が姿を見せた。と、振り被って何かを投げつけた。
操乱は反射的に、自分の方に飛ばされた小さな固まりに狙いを付け、撃つ。
ドカン!! それは凄まじい音を出して空中で爆発した。操乱は思わず身を伏せる。
原尾は呆然とした。か、噛まなくて良かった...。
一瞬の間の後、時間が再び動き出す。
操乱は我に返った。一体何があったんだ。俺には何の影響も無いみたいだが。
「はっはっはっは。」大野が今度は大笑いした。「俺の爆発アメにびびってやがる。はっはっはっは。」
何がなんだかという顔でいた操乱も、事情が分かってくるにつれて怒りが湧いてきた。
「て、てめぇ。ハッタリだったのか。」大野の方にゆっくりと歩きだした。「最後までコケにしやがって、いたぶり殺してやる。」
「俺の車にさんざ穴開けやがって、このくらいのお返しはかわいいもんだろ。「もっとも...。」大野は突然口調が変わった。「もしあの坊主が死んでたら、貴様を殺してるところだ。」
ゾクッ。操乱は背中に震えが走った。
「な、何言ってやがる。そんな格好でどうしようって言うんだよ。」
そしてとうとう、彼は大野の目の前に来た。
アメを投げてすぐに退避した原尾は気が気でない。どうもあれでよかったみたいだけど、大野さんは動けないようだ。一体どうするつもりなの。
「遺言くらい聴いてやろうか。」
操乱にそう言われて、大野は静かに笑った。
「お前らジャッカーは、人の心を見れちまうせいか、総じて傲慢な奴が多いんだよ。だからそんな自己本位的な姿勢でいりゃあ、周りへの判断が甘くなっちまうのは当然だよな。」大野の目が光った。
「覚えとくがいいさ。今がそうだってな!」
彼は言うや、跳ね起きた! そして左手で銃口を抑え、右手で操乱の腕を取った。
ば、馬鹿な。どうやって! 操乱は警備員の目を飛び出させんばかりに驚いた。そして、視線の隅に大野の左手を敷いていたタイヤの萎んでいるのを見るにつけ悟った。こいつ、義手の指でタイヤを破ったんだ。あの爆発は、その時の音を隠すためだったんだ。
が、それ以上の思考は出来なかった。何故なら...。
「ぎゃあああああぁあぁああぁあああ!!!」
資材置き場を埋め尽くすほどの絶叫が、警備員の口から発した。それは、警備員の身体がその全身で操乱を拒絶したことに対する、操乱の苦痛の表明であった。
「ああっ。があああぁあぁ!!」
操乱は身体痙攣で引き金を引いてしまうが、大野の左手は弾丸などものともしない。
「ううっ。あああぁぁあぁぁあ。」
操乱は死に物狂いで腕を引き矧がそうとし、全身をうち揚げられた魚のようにもがいた。
どんどん身体制御が操乱の元から剥離していくのが分かる。こ、このままでは...。
操乱の恐怖が依童の身体に吹き出させた脂汗で、大野の手が遂に離れた。二人は反対方向に弾け跳ぶ。
しまった。大野は背中から倒れた。うまくぐるりと回転して攻撃姿勢をとったものの...。離れたらまずい、撃たれる。
操乱の持っていたロシア銃は、彼が倒れた際に飛ばされていた。しかしそれは大野から見て操乱を挟んだ丁度向こう側だ。
「ちいっ。」ダッシュする大野。
「ぐっ。うううっ。」大野の行動に気付いた操乱も銃に向かって走りだす。
くっ。大野は歯咬みする。間に合わねぇ。
ダメージを喰らっているとはいえ倍の距離差だ。操乱は先に銃に辿り着いた。
!! しかし、操乱はその手に再び銃を掴むことは出来なかった。原尾が拳銃を蹴っ飛ばしたからだ。
畜生。操乱は毒づきつつ、四つん這いになりながらも何とか銃を手にしようとする。
だが、彼が地面に落ちた銃に再び近づいたときには、銃は空しく大野の足の下に収まっていた。
操乱が見上げると、大野は不敵に笑った。
「ひいぃいぃいいい!」
操乱は後ろ向きで這い進み、すぐに立ち上がって逃げ出した。
大野もすぐに追いかける。既に半ば依童である警備員の身体制御を失っている操乱は、走り方がぎこちなくなっていたので、忽ち二人の差は詰まる。
「く、喰らえっ。」操乱は苦し紛れに手にした砂を投げつけた。
が、これが効いた。まともに顔に浴びてしまった大野は、速度を緩めざるを得ない。操乱はまんまと作業者用出入口に達した。原尾が大野を伴って追いかける。
操乱は出口を抜けた。だが振り向くと、大野と原尾はいましも彼に取り付かんとしている。
彼は冷静さを完全に失って、不注意にも車道に走り出る...。
ドンッ。
「ああっ!」
原尾は悲痛な叫びをあげた。大野がようやく薄目を開けたとき、操乱の憑いた警備員は宙に舞っていた。
警備員は、操乱は車に跳ねられた。彼は道路に鈍い音をたてて落ち、一回バウンドしてから俯せに倒れた。彼を跳ねた車はその身体を踏まないのが精一杯というギリギリのところで停車した。
「何てこった...。」大野は絶句した。こんな結果になるなんて。
操乱を跳ねた車は、助手席のドアをゆっくり開けた。大野はてっきり中からおそるおそる人が出てくるのかと思ったのだが、違った。人は出ず、下の方から腕だけがゆっくりと突き出されたのだ。青白いその腕は、まるで自分の意識がないといった様子で伸ばされ、警備員の頬に触れる...。
「ま、まさか。」大野が小さく呟いたときだ。その腕は車内に引っ込められ、同時にドアも閉められた。
「しまったぁ!!」
大野は駆け出すが、時既に遅い。急発進した車は、大野の爪が掠っただけで走り去った。
「ちぃぃ。」大野は振り向きざま、自分の車の方に走った。
動きだした!
走りながら、大野の心に浮かぶのはその言葉だった。成木や万丈が本気を出していないうちに姿を消してしまったことは、今の事件がただの前哨戦にすぎなかったことをまざまざと示している。そして実際、何か大きなものが音を立てて動き出した事を、彼の本能が告げていた。
そしてそれは彼の血を滾らせることによって彼を急かす。奴等を狩れ、と。
が、原尾が警備員の頚部に手を当てているのが大野の目の隅に入った。彼は思わず叫ぶ。
「生きてるのか。」
「微かに。」原尾が言った。
ぐっ。彼は車へ向かう慣性を止めた。道の彼方には、いましも姿を消そうとしている成木達の乗った車があり、此方には死に瀕している人があり...。
今逃がしたら...。究極の選択に、大野の脳が悲鳴を上げる。内蔵が軋みをたてて縮まる...。
だが、彼の中のある境界線を越えたとき、大野は不意に脱力した。
やっぱ、命が先だわな。彼は電話ボックスに走った。
成木は運転しながら、助手席の男に向かって声をかけた。
「な。ジャックしといて良かっただろ。」
「ふん。」助手席の男、本体に戻った操乱はふてくされてシートに沈み込んだ。
操乱はあまりの屈辱に震えていた。そして痛感していた。
あの拒絶波を何とかしない限り勝ち目はねぇ。
彼は頭を垂れて、接近戦を有利に運ぶにはどうすればよいかを考え始めた...。
同時刻に車に乗っている者達がもう一組、対特の連中を再起不能にしたクール隊だ。彼らの乗ったバンは包囲を突破して、その場を立ち去ろうとしていた。
だが勝ったとはとても言えない状況だ。クールを除くメンバー全員が全身傷だらけで呻いているのだ。警官の一人が発砲した銃にやられた一人は、息も絶え絶えになっている。
携帯電話が鳴る。一人がやっとのことで応対し、クールに回す。
短い電話を追えて、クールは部下達に言った。
「喜べ、二人も目覚めたらしい。」
クールの野心もまた一歩前進したようだ。
車に揺られるに任せて、ただ下を向いていた操乱がポツリと言った。
「なぁ。ジオって奴はまだ生きてるのか。」
運転しながら、成木はその名をちょっと考えてから思い出すと、操乱の意図を察してニヤリとした。
「あぁ。今日の芸人の中にもいたようだよ。」
挑発的に成木は言った。後は操乱の中でそれが醸造されるのを待つだけだ。
車は信号で停車した。
その時だ。地下鉄の出口から上がってきたその男に、成木が偶然目を止めたのは。そして彼は、その目を大きく見開いた。
「最土修...。」
最土修は蓄えた髭の上からでもわかるほど怯えた顔をして歩道に出た。だが、その表情は次の瞬間には不機嫌なものに変わった。
「ふん、金づるはヤムだけではないさ。」
「あの研究の価値が解る者がそうそういるもんか。」
最土は回りの歩行者に気付かれない程度の小声でぶつぶつ言っている。
「今日は無駄足だったばかりか、わざわざ自分の頚を絞めるような事をしたんだぞ。」
彼は地面に足で八つ当たりした。
「後始末に公僕などをあてにしたのが間違いか...。」
その表情は目まぐるしく変化する。それは回転する万華鏡のよう...。外面に現れた不安定性の要因は、心の中の何であるのか...。しかしそれはやがて、光と影の表情に二分された。
「俺がやるしかないようだな。」
「も、もう止めてくれ、これ以上危険な目に遭うのはたくさんだ。」
「止める気もないくせに。」影の表情が言った。「それに、あのアメ公共はお前の居所を突き止めて、お前から直接転移法を聞き出すつもりだったんだぞ。災いの根は早めに絶っておいたほうが良かろう?」
なおも不安げでいることを見たのか。
「成木を畏れてるのか。あいつにはお前のことはわからんよ。」
その後彼は再び無口になって、人混みに消えた。
「おいっ。とっくに青だぜ。」操乱が促して、ようやく成木は車を発進させた。
ミラーから最土の姿が消えるまで彼の姿を追っていた成木は、操乱に向かって告げた。
「万丈の居所が分かったよ。」
「何だって、じゃぁ今すぐ襲うのか。」
操乱は煽った。成木は小さく頷いた。
「ああ。」彼は氷の微笑を浮かべた。「だが君は行きたいところがあるんじゃないかな。」
こいつには隠せんな。驚きつつも操乱は首肯する。
「今度こそハンターを倒せるかも知れないぜ。」
「それは頼もしい。では、それが終わったら先に戻って儀式の準備をしていて欲しい。」
操乱は目を大きく開いた。彼も成木の意図が判るのだ。口の端を大きく上げて言う。
「本気だな。今度は。」
成木も、少し笑って頷く。
「私は、彼に相応しい報いを与えた上で、あの力を持って帰るとするよ。」
車から、一人だけ降りた。車は、男を残して立ち去った。
大野,クール,成木ら三人はこうして一旦離散した。しかしそれは勿論、もう一度火花を散らしてぶつかり合うためだ。
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第十二章へつづく
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精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。 | ||
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