酔い巫女霊夢 |
幻想郷を外から隠し、不要な客を招かぬ二種類の結界、その一つを代々守り続ける巫女が居る。博麗の名を受け継ぐ彼女達は、楽園にあって最も重要な義務を背負っていた。その義務を果たすには、並々ならぬ才能と強さが必要だった。霊夢ほどの若さで博麗の役目を十全に果たしているのは、歴代の巫女の中でも稀だった。そんな優秀な巫女である霊夢だが、本人にはその自覚はあまり無い。己の才をひけらかすような事も無い。全てをあるがままに認める性分の彼女は、結界を守る者としてだけでなく、神職に従事する者の在り方としても自然だった。まだ十代半ばの若い彼女は、その年に相応しくないほどの重い責務を背負いながら、それに十分に応えている。その役目上、多くの人や妖怪の生き死にを見てきた。彼女が早熟なのは、類稀なる才能の他に、そのせいもあった。
妖怪は人を襲う、だから妖怪は人の手によって退治される。しかし、妖怪が人間を食らうのも自然の摂理であり、そこに善悪は無い。もう一つの結界を管理する古い妖怪は、幻想郷の妖怪は実は人間が居て成り立っているので、無闇に人を食わないようにすることは、妖怪の為でもあるのだと言う。霊夢はそのスキマ妖怪、八雲紫の言に従って、幻想郷に起こった様々な異変を解決してもいた。博麗の巫女は、幻想郷の有事の際に強力な力を行使する、武力機関でもあった。ただ、霊夢はいつも、妖怪に恨みは無かった。彼女は、平等な人間だった。
「異変の解決なら、大義名分があるから平気」
枡を顔の前で抱えて、芋焼酎に立つ波を見つめて、ぽつりと溢した言葉は、喧しい宴会の騒ぎ声に殆どかき消された。理由も無く定期的に開かれる博麗神社での宴会は、中頃を過ぎていよいよ五月蝿かった。霊夢は珍しく酔っていた。隣に座ってちびちび猪口で冷やを味わっていたアリスは、普段よりずっと顔が赤くて、潤んだ目をした霊夢を気にして、それとなく水や桶を手近に用意していた。
「でもね、妖怪殺して。彼らが何したって言うの」
霊夢は誰に言ってるのか、誰にも言って無いのか、枡を見つめながら話す。反対隣で、にとりに怪しげなおもちゃについて詳しく聞いていた魔理沙も、霊夢が何か言った事に気付いた。が、さして気に止めなかった。どうやらアリスが相手しているようだと分かると、またにとりの講義に集中した。
「霊夢大丈夫? 水飲む?」
アリスは霊夢の背中を摩って、水の入ったコップを差し出した。
「ん」
霊夢は素直にそれを受け取り、顔を上に向けて一気に飲み干した。相変わらず目は眠そうだった。
「私だってほんとは」
霊夢は鼻をすすって、涙を流した。目を閉じ、顔をくしゃっと歪めて、眉間に強く皺を寄せて、俯いた。と思ったら、また顔を上げて枡の焼酎を一気に飲み干した。アリスが止めようとする暇も無かった。
「私は」
そのまま、アリスにもたれかかって、彼女の膝に頭を置いて寝転んだ霊夢は、その先の言葉を続けられないようだった。霊夢の自制心が働いているのか、頭が働かないのか、アリスには判断が付かなかった。霊夢の様子に気付いた魔理沙は驚いて、その肩を揺すって名前を何回か呼んだが、霊夢はひどい泣き顔のまま、寝息を立てていた。
「奥に運ぶわ」
アリスは霊夢を抱え、人間や妖怪や鬼の、笑い声や歌い声で騒がしい部屋を出て行った。
アリスはあらかじめ隣の広い座敷に布団をいくつか敷いていた。いつも宴会が始まる前に用意している。敷いておけば、酔いつぶれた誰かや、帰るのが面倒な誰かが使うので、無駄になったことは無い。今夜も既に他の布団で誰かが寝ていた。暗がりに目が慣れると、早苗が寝ていて、その枕元に諏訪子が胡坐をかいていると分かった。
「霊夢が潰れるなんて珍しいね」
と、諏訪子。
「ええ、本当に」
アリスは霊夢の服を脱がせてサラシ姿にし、手際よく布団に寝かせた。一旦部屋を出て、水の入った桶を持って戻って来ると、手拭いを絞って霊夢の顔を拭き、そのあと霊夢の額に手拭いを載せた。
「手拭い使います?」
諏訪子にもう一つの手拭いを差し出す。
「ありがとう。アリスはいいお嫁さんになるね」
照れてちょいと顔を逸らすアリスから手拭いを受け取り、諏訪子はアリスと同じように早苗を看病した。
「さて、私はあっちへ戻るよ。アリスはどうするんだい?」
「私は少し様子を見ます」
「そしたら早苗も任せていいかい?」
「はい」
「ありがとう、またね」
諏訪子は静かに出て行った。襖が開けられると、喧騒がにわかに大きく聴こえたが、諏訪子は手早く閉めた。
襖の向こうの賑やかな宴会を聞きながら、アリスはじっと座っていた。無防備な霊夢の寝顔は、見ていて飽きなかった。
「アリスさん、手拭い、ありがとうございます」
早苗の声がした。
「起きてたの」
「ええ、まあ。霊夢さん、大変なんですか?」
「こんなに酔ってるのは見たこと無いわ。なにかあったのかな?」
「そう言えば、関係あるかは分かりませんが、今日も妖怪退治の依頼で、霊夢さんに会いましたよ」
妖怪退治、という単語に、アリスは先の霊夢の胡乱な言葉を思い出す。
「私も霊夢さんみたいによく妖怪退治の依頼を受けるんですけど、今日は本当は二人で受けようって話だったんです。手ごわい妖怪だって里の人が言ってらしたので」
早苗は気持ち悪そうに、言葉を短く切りながら話した。
「無理しないでいいわよ」
「いえ、平気です。でも、二人でその妖怪を見つけた時に、霊夢さんがいきなり、早苗は帰りなさい、って言ったんです。そんなこと今まで無かったので、おかしいなと思ったんですけど、霊夢さんが言うからにはなにか理由があると思って、特に何も聞かずに私は帰りました。それで私は依頼を破棄したことになったんですけど、結果がどうなったのか気になって、詰め所で待ってたんです。霊夢さんのことだから、何も心配することは無かったんですけど、一応。それで、私が詰め所に戻ってほんの少しで、霊夢さんが戻ってきました。私は、なぜ私を帰したのか聞きましたが、霊夢さんは教えてくれませんでした。少し追求してみましたが、いつも勝気な霊夢さんが、その時は本当に済まなそうにしていたので、結局何も聞けずじまいでした」
早苗は、一息ついた。
「その手強い妖怪ってどんなのだったの?」
「夜雀の一種でした。そう言えば、なんでそんなのが手強い妖怪なんでしょう? 二人も要らないですよね。だから霊夢さんは私を帰したんでしょうか」
夜雀の妖怪に、アリスは心当たりがあった。最近、定期的に開く里の子供向けの人形劇をしている時に、子供の一人が夜雀の卵を拾ったと言っていた。その時は冗談だと思ったが、もしかしたら……
「心当たりがあるんですか?」
「いえ、憶測だから言えないわ」
そうだ。憶測だ。言うべきではない。が、アリスはなんとなく分かった気がした。きっと霊夢は豊富な経験から、その夜雀が卵を奪われて怒り狂っているのを、見た瞬間に感じ取ったのだ。霊夢は、早苗に嫌な思いをさせたくなかったのだ。子を奪われて怒り狂う親鳥を殺すという体験を、させたくなかったのだ。
「もしかしたら私のせいで今霊夢さんが苦しんでいるのかも知れません。アリスさん、どうか教えてはくれませんか? 憶測でもいいですので」
「そんなの、あれくらい私一人で十分だったからに決まってるじゃない。たかが夜雀一匹に、二人がかりも無いものだわ」
アリスが言ってしまっていいものか迷っている内に、霊夢が口を開いた。
「霊夢さん、大丈夫なんですか?」
「今日は少し飲み過ぎたわ。頭が痛くて世界が揺れてる。でも大したことは無いわ」
……早苗は部屋を出て行った。話している内に元気が戻ったらしい。
「あの子もよく喋るわね」
だるそうな霊夢の声。まだ本調子ではないのは声だけでも分かった。
「霊夢はもう少し寝てた方がいいわね。それとも、今度は私とゆっくりお喋りする?」
「ゆっくり、って所が本当にありがたいわ。自分の声が頭に響いて大変なのよ」
アリスは、先に出てきた夜雀のことが気になった。が、きっと霊夢はそれを知られたくないだろう、さて何を話そうかと考えていると、霊夢が先に切り出した。
「多分、アリスの考えた通りよ。夜雀のことも、私が早苗を帰した理由も」
「卵は?」
「私が焼いた。里の中で孵化したら、間違いなく人間を襲うから。親元に返そうにも、その行為自体が危険だった」
霊夢は淡々と説明した。真っ直ぐ天井を見て、感情が読み取れなかった。
「辛いよね。霊夢」
「それが私の役目なのよ。そりゃたまには今日みたいに思うこともあるけ……」
霊夢は言葉を途中で切った、と言うより、突然話せなくなった。霊夢は、また顔をくしゃくしゃにして泣いていた。アリスは、手拭いで霊夢の涙を拭いた。
「ごめんね、思い出させたね」
アリスも悲しくなって、一粒涙を流した。
霊夢が泣き疲れて眠りに就いてから一刻、三十人程あった面子の殆どは帰ってしまい、日を跨いだ宴会はほぼお開きとなった。残ったのは、魔理沙にアリスに萃香に、命蓮寺の面々だけだった。
アリスと、白蓮率いる命蓮寺のメンバーは無駄の無い動きで後片付けをしていた。
「しかし、妙蓮寺は礼儀正しいねえ、まさか後片付けを手伝うなんて。今までそんな奴いなかったよな」
「あんたも手伝ってもいいのよ」
萃香と肩を並べて、変わらず飲み続ける魔理沙に、アリスは呆れたように言う。
「お気になさらずに、我々が勝手にやっていることですから」
「なんだか、私が白蓮さんに悪い気さえしてくるわ」
片付けはあっという間に終わった。
「それでは今夜はこれにて、皆様ごきげんよう」
ほの赤い顔で、にこやかにお辞儀をして、白蓮達は帰って行った。他の面々も白蓮に倣っていた。
「彼らには一生勝てる気がしないぜ」
「あのチームワークには、相当な強い絆を感じるわ」
魔理沙とアリスは、神社の長い石階段を降りる六つの背中を見送りながら、腕組みをした。
広い宴会の間から、普段の居間に場所を移し、ちゃぶ台を囲んで三人で静かに飲んでいた。
「霊夢と白蓮って似てるのかもね」
アリスが猪口に口付けた。
「霊夢は妖怪を退治する。白蓮は妖怪を助ける。どの辺が似てる?」
と、魔理沙。萃香は黙って自分の大きな杯を傾けた。
「白蓮は妖怪をかばって人間に封印された。霊夢はそんなことしないだろうけど、きっと誰よりも白蓮の気持ちが分かるわ」
「霊夢にとっては、妖怪も人間も、みんな同じだね。その点だけは白蓮と同じだろうね」
萃香は、アリスにそれとなく同調した。
「でも、性格や考えが似てても、二人の立場は真逆だね。それと、霊夢は、博麗の巫女が自分の与えられた役割だと思ってる。それに対して白蓮は、何か私情があってあんな寺をやっているように私には見える。その点も二人は少し違うね」
萃香はまたクイっと杯を傾けた。
「アリスの言いたいことはなんとなく分かるよ。白蓮と霊夢を比べると、霊夢の過酷な役目がよく分かる。白蓮は好きで妖怪を助けている。霊夢は義務で妖怪を殺している。二人は同じ心を持ちながら、その立場は全く逆だ」
「今日はちょっと辛そうにしてたから、気になったの」
「いきなり泣きながら倒れたやつか。あんな霊夢初めて見たぜ」
「あの子あの後、私の前でもう一度泣いたの」
「そりゃ重症だな」
「でも博麗の巫女は、少なくとも今は霊夢にしか出来ない。紫も、霊夢のことを心配していろいろ考えてるけど、結局は霊夢が自分で納得するしかないんだよ」
「私達に出来るのは、宴会を盛り上げるくらいだな」
「結局それくらいしか無い、か」
アリスは、襖を見て、その向こうの霊夢を想った。
翌日、アリスは水場で四人分の朝食を作っていた。魔理沙と萃香は、霊夢の隣で静かな寝息を立てていた。朝食といっても、宴会で出された料理の残りを皿に分けなおす程度の簡単なものだった。アリスはそれに豆腐の味噌汁を新たに付け加えた。アリスの朝餉の支度が出来た頃、霊夢がサラシ姿で居間にやって来た。
「悪いわね」
「別に、大したこともしてないわ」
「昨日は迷惑かけたわ」
「それも、大したことはしてないわ」
「アリス」
「なに?」
霊夢は、アリスに後ろからそっと抱き付き、耳元でささやいた。
「アリスが居てくれて良かった」
「大げさね」
そこでアリスは思い至る。
「もしかして、起きてたの?」
「喉が渇いて居間の方に行ったら、あんた達が話してたわ」
アリスは、少しだけ恥ずかしかったが、それよりも、話が早いと考えることにした。
「辛かったら、少しくらい頼ってもいいのよ。私達も、霊夢のおかげで今の幻想郷があるのを分かってるし、なにより、友達が苦しい思いしてるのを見てるだけなんてのは耐えられないわ」
「うん。ありがとう、アリス」
二人はしばらくそのままの体勢でじっとしていた。
そして、しゅんしゅんと、味噌汁の鍋から音がして、アリスと霊夢は慌てて鍋をかまどから上げた。
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霊夢が心配シリーズのひとつめ。 | ||
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