真夏の昼の夢 |
1
「何か落ちてないかなぁ。他人の人生を一変させるような何か」
三日間自宅の地下の研究室に閉じこもっていた魔理沙は、研究が一段落したところで外に出て、気分転換に魔法の森を散歩がてら、独り言を言いながら何か面白いものを探していた。
彼女はお気に入りの大きな黒い魔女の帽子を被り、鬱蒼と茂る背の高い草を掻き分けながら、昼間だというのに薄暗い魔法の森の奥深くにて、視線をそこかしこに散らしながら歩き回っていた。夥しく生える太い広葉樹ばかりの森は、真上から降り注ぐ夏の盛りの日差しを悉く遮りながら、活発な蒸散によって周囲の大気を湿らせ、森の中には湿った涼しい風が吹いていた。力強い蝉のがなり声が周囲の全ての方向から喧しく聴こえる。暗がりの中で柔らかく腐った草や枯れ木の腐葉土が森の地面を覆い尽くしていて、踏みしめる度に蒸れた絨毯のような感触が黒いサンダルを通して伝わった。彼女は知らぬ間に足の指の間に挟まる細い草や枯れ枝を、空中を蹴る様な仕草で振り払いながら、どこかを目指すでもなく無造作な足取りで歩いている。
木々がざわめき、大きな風が吹いた。魔理沙の帽子がふわりと浮き、彼女の金の髪が帽子の下にちらと現われた。彼女はとっさに帽子を片手で押さえつけた。それでも風に吹かれて慌しくめくれ上がるつばをもう片方の手で押さえて顔を伏せた。木の葉のざわつきが見えない波となって魔理沙の眼前からその小さな背中の後方へ駆け抜けてゆく。ざわめきを後ろに聞いた所で顔を上げると、森はもとの蝉の声を奏でながら、再び湿った涼しい風を吹かせ始めた。彼女は息を吐き、帽子を直すとまた足を踏み出した。
太陽が一番高くなった頃、額の汗を腕で拭うとべっとりと濡れた。まくった袖の皺くちゃになった部分も汗で湿り、風に吹かれて冷えている。首筋も、背中も、太腿も、肌着が張り付いてしまっている。目的の無い探し物に夢中になっている間に、随分と動き回っていたようだ。
そろそろ帰ろうか、何も見つけられなかったが体を動かしていい気分転換にはなった。彼女は自宅に戻るべく箒を構えて跨った。とその時、箒を持つ手の向こうの地面にきらりと何かが光るのを発見した。腐葉土の枯れた葉の下に密やかに落ちていたその瓶を、彼女は箒に跨ったまま目の前に摘み上げた。彼女の手の平ほどの小さな透明な瓶の中には、仄かに紫がかった液体が入っている。振ってみると僅かな水音がして、気泡がいくつかできた。なんのラベリングも無い謎の小瓶、いかがわしい色の液体、これは調べがいがありそうだと、彼女の好奇心はその瓶に捕らわれた。
そして彼女は一つだけあるスカートのポケットに小瓶を忍ばせると、汗ばむ体を箒で浮かせて飛ばし、風を切り木々の間を縫い、住処に戻った。
2
五月蝿い蝉の声を窓の外に聴きながら、私はいつも通り人形を作っていた。最近は富に日差しが強まり、昼間に外に出るのが億劫だった。陽のある内は家に篭り、静かに人形作りや魔法の研究に勤しむことが常になると、それらの作業は他の時期よりも大いに捗った。夏は私にとって勤勉の季節だった。
朝から休まず人形劇用の新しい人形を作り続けて、何回目かの置時計の鐘の音を聞いた。長時間同じ体勢をして首筋と肩が重くなっているのを感じながら、低い金属音を鳴らす時計を見やると既に正午になっていた。本来は必要の無いものだが、私はなんとなくの習慣である食事を摂ることにした。私の食事は簡素なものだ。パンを焼いてクランベリーのペーストを塗ってみたり、ホットケーキを焼いてみたり、時々は米を炊き、魚を焼いて味噌汁を作り、簡単な和食を楽しんでみたりもした。今日は特に思うところも無かったので一番楽なものにした。
火のついたオーブンに素早く手を突っ込み、焼き上がった熱いトーストを素手で取り出して皿に載せる。それをリビングのテーブルに置き、いつもそこにおいてある赤いジャムを塗りたくる。テーブルの隣の作業台に置いたままの作りかけの人形を眺めながら、固いトーストを齧った。焦げたパンの耳に歯を立てると、乾いた小気味良い音がした。
椅子に座り、相変わらずの蝉時雨を聴きながら、食後の紅茶を飲んでいる。部屋の棚に並べた数十の人形を眺めてから、作業台の人形を見やる。今作っている人形はおよそ半分が完成しているが、残りの半分は少々難しい作業だった。食事を挟んで低下した集中力で作業するのは嫌だった。だから人形作りは一旦置いて、午後は本でも読むことにした。
カップに残った冷め気味の紅茶を飲み干し、静かにソーサーに置いた。椅子から立ち上がり、部屋の奥の本棚へ向かおうと足を向けた時、玄関の扉がためらいがちにノックされる音がした。
「ごきげんよう、アリス」
誰かと思ったが、その真っ黒な服飾はどう見ても魔理沙だった。
3
この家を訪れるのは妖精に化かされて魔法の森の夜道に迷った人間が一番多く、昼間に客人として訪れる者は少ない。その数少ない客人である魔理沙は、どこかいつもと違っていた。テーブルを挟んで私の淹れた紅茶をまこと慎ましやかに飲むことそのものは何もおかしくは無いのだが、彼女にしては静か過ぎた。何か言い出しにくいことがあるのだろうと考え、私は新しい紅茶を啜りながら彼女から話し出すのを待っていたが、どうも彼女はそういう風でもなく、無言のまま屈託の無い笑みで私の目をちらちら見てきた。用事は無く紅茶を飲みに来た、というのであれば彼女はそのような旨を開口一番に明示し、ずかずかと家に上がっては勝手に棚を開けてカップを取り出したりポットを持ち出したりするのが常だ。彼女が客人らしい大人しい振る舞いで私に導かれてテーブルに着き、行儀良く紅茶を待ち、出されたそれを、いかにも上品そうに香りと味を楽しむ、そんな振る舞いは普段の彼女とは違う人物のような雰囲気すら醸し出していた。しかし悪いことをしているわけでもなく、理由は分からないが彼女は微笑を浮かべて楽しそうにしているので、あえてその不審を問い質すのも心苦しい。私は彼女が話し出すのをしばらく待っていたが、やがて適当に紅茶の説明をし、二人で他愛の無いおしゃべりを始めることにした。会話の中でも魔理沙はどこか普段より丁寧で上品な振る舞いだった。確かに不審な様子だったが、そんな風にしおらしい彼女も私にはとても可愛らしく見えた。
長いこと話して、横から赤い陽が差して来るようになると彼女は帰った。てっきり夕飯も食べていくものと思っていたので肩透かしを食らった気分だった。
「また明日、アリス」
彼女は最後にそう言った。その頃には魔理沙の妙な雰囲気にもすっかり慣れていて、どきりとすることも無かった。普段はがさつに見えても彼女も女の子なわけで、彼女なりに思うところがあって淑女のような振る舞いの練習をしているのかもしれない。それで私に淑女の振る舞いのチェックでもしてもらおうとしたのではないか。箒に乗った彼女の小さくなる後姿を見送りながら、私はそう考えた。
4
翌日、今度は朝早くに扉がノックされた。まさかと思いながら開けると、思ったとおり彼女がいた。部屋に招き入れて昨日と同じように持て成したが、今日は私自身も作りかけの人形を作りたかったので、彼女には適当に寛いでもらうことにした。
昨日と同じように彼女は随分と静かな様子で本を読んだり、紅茶のカップに口付けながら私の作業を眺めたりしていた。時折人形について質問したり、保管庫の人形を眺めたりもした。「触ってもいいわよ」、と声をかけると彼女は人形を取り出してそれを動かそうとしていたが、上手くいかないようですぐに戻した。
「アリスは器用だな」
口調こそ変わらないものの、しおらしい、理性的な声。いつもの笑い飛ばしたような活発な声は何処へ行ってしまったのだろうか。何か悪いものでも食べたとか、魔法に失敗したとか、あるいは人間としての悩み事があって変調を起こしているとか考えたが、彼女は体調が悪そうにも、悩みがあるようにも見えなかった。むしろ彼女はいつもより生き生きとしているように見えた。普段の明るい彼女も生き生きとしているといえばそうだが、今の彼女は、例えば好きな人の傍にいるときの恋する乙女のような、静かながらも満たされた幸福を味わっているような、満足そうな顔をしている。いや、もしかしたら彼女は本当に恋をしていて、その恋の相手が私なのかもしれない。そう考えると態度がしおらしくなったのも、二日続けてここにやってきたのも納得できる。
「魔理沙」
作業を止めて、窓際の彼女の背中に呼びかけてみた。彼女は素早く振り返り、きらきらした円い目を私によこして、猫のように黙った。本当に、彼女は私のことが好きなようだった。昨日、彼女の態度を不審がってそれを追求しなくて本当に良かった。そんなことをすれば、彼女の心は傷付いていたかもしれない。
5
二人で向かい合って昼食を摂った。蝉の声が相変わらず高かった。気付いてしまえばなんてことは無い、魔理沙はほんのり桃色に染めた顔で、とても弱弱しい、遠慮がちな顔で笑った。昨日は別人のようだと感じたが、むしろこちらが本来の彼女の性格のように見えた。根が真っ直ぐなのはそれとなく分かっていたが、好きな者の前で己の心の虚偽を払った時の恥ずかしさは、その性格と相まってより強いのだろう。彼女の今のしおらしさは、半分くらいは恥ずかしさでできている。だが、それも慣れればすぐに収まる。私は気にせずいつも通りに接することにした。彼女も次第に以前のようにくだけた様子も見せ始めた。
午後も家の中で二人で過ごしていた。彼女は相変わらず本を読んだり、私の作業を眺めたり、それとなく紅茶を淹れてくれたりした。私はもう彼女の変わった態度をおかしいとも感じなくなっていて、集中力を乱すことも無く、人形作りを続けながら、自分の考えをまとめ始めていた。
私も魔理沙が好きだ。一番彼女に似合うのもおそらく私だ。種族は違えど同じ魔法使いという肩書きを持っていて趣味が似通っている。魔法の森などという辺鄙な場所に住処を持つような変わり者は私達の他にそうはいない。それに他の者、例えばパチュリーは人間の感情を理解することができない。霊夢は、死ぬまで彼女を守ることができない。私なら、彼女を理解し、死ぬまで守ってやれる。ふとした時に、魔理沙と霊夢の人間同士がお似合いと衝動的に思うこともあるが、幻想郷においては種族の違いなどに大した意味は無い。それになにより、彼女自身が私を選んだのだ。これ以上の説得力が存在するだろうか。彼女は子供であることをやめ、私達が声にも顔にも出さなかった、呪詛にも似た赤黒い感情をようやく理解し、それに決着を付けたのだ。これにて一件落着。魔理沙は私を選んだ。その事実を言葉に直して反芻する度に、私は心臓と背骨が温かくなるような幸福感を味わい、私の唇の端は勝手に持ち上がった。
今はもう、何も悩むことが無くなった。もう、彼女は私のものになった。もう、好きにしてもいい。当然、彼女を傷つけるような真似をするつもりはないが、やろうと思えばできるのだ。長いこと抱き続けていた誠実な遠慮や戸惑いはもう、捨ててもいい。二人の世界をこれから作っていくのだ。そこに遠慮や戸惑いがあってはままならない。彼女だっていずれはそうなることを望むようになるのだ。感情の海の底は光が差さない暗闇で、その暗闇の中には暴力的な、あるいは破壊的な衝動が渦巻いている。他者や自分を傷付けたり、あるいは無理やりにでも愛したくなるようなどす黒い感情は、まだ若い彼女には受け入れることが難しいかもしれない。けれど、少なくとも、彼女はそういった世界を理解しようとし始めた。彼女がそれらとうまく折り合いをつけて平然としていられるようになるまで、見守ってやらねばならない。私の方が長く生きているので、多少傲慢になるのは仕方ない。彼女と対等になるにはもう少し時間がかかる。
人形を作る手を休めず、私はそんなことを考えた。
6
さらに翌日。曇り空だった。魔理沙はほとんど以前と変わらぬ活発な調子になったが、瞳の綺麗なのは昨日と変わらなかった。
三日目ともなると、人形しかない私の家で彼女が暇をつぶすのも難しいだろうと、私は彼女の家でデートすることを提案した。デートという言葉にはにかんだ顔をする彼女は、百合のように可愛らしかった。
「ここに来るの、初めてだわ」
「少し散らかってるが、気にしないでくれ」
幻想郷に珍しい洋風であるせいか、一見したところは私の部屋の印象と似ていたが、よく見ると全く違うことに気付く。家具の色も形も違うものばかり。特に色に関しては彼女の家には黒いものが多く、明るい色調が好みの私の趣味とはむしろ正反対だった。
彼女は散らかっていると言ったが、散らかっていると思われるものは彼女のベッドに置いたままの分厚い魔導書くらいのもので、居間にあるテーブル、椅子、ソファー、ガラスの食器棚、窓際の置時計と花瓶、どこを見ても乱雑な様子は見当たらなかった。窓際には白いスイートピーが差してあり、黒い家具の多い部屋によく映えていた。
「案内でもするか?」
魔理沙は私に並び、そう言った。
「ええ、お願いするわ」
私は彼女の細い手を取って言った。彼女は顔を赤くした。
案内が一通り終わると、私はテーブルに着いていた。彼女は紅茶を淹れてくると言ってキッチンに消えた。
一人で座って、窓の外の森の景色を眺めていると、ちょっとした疑問が浮かんだ。彼女の心境の変化について、それそのものは別に奇妙な話ではないが、いくらなんでも急過ぎやしないか、と。私達は同じ魔法の森に住んでいるが、頻繁に彼女と顔を合わせているわけではなく、大体、私は昼間は外出しない生活が続いていた。そんな状況で、魔理沙が私に対して唐突に恋愛感情を自覚するというのは些か不自然だった。なにかきっかけがあったのではないか。例えば本なんかはそういうきっかけになるかもしれない。あるいは偶然自分に変な魔法をかけてしまったとか。二日前にも同じようなことを考えたのに、私は、彼女が私を好きだと気付いた途端、そのきっかけや原因についてはどうでもよくなってしまっていたらしい。
彼女が紅茶をトレイに載せてやって来た。取っ手まで温められたカップを口に近づけると、赤い紅茶から柑橘系の芳醇な香りがした。と、それに混じって紅茶とは違う何か別な種類の匂いがした。それはあたかも魔術的な薬品の匂い。というより、私はこれをかつて自分で作ったことがあり、その正体を知っていた。私は今思い立った疑問の答えに気付いた。
「魔理沙、これ……」
「ああ、アールグレイだ。香霖からもらった」
彼女の返事は少し早かった。
「そうじゃなくて、それ以外のもの、入れたでしょう」
「ばれちゃあしょうがない。でも、毒じゃないはずだぜ、私も飲んだから」
そう、毒ではない。これは私がずっと昔に作った、失敗作の惚れ薬。
「惚れ薬は、魔法使いなら誰でも一度は作るもんなのよ」
カップを置いて、私はその薬について話した。
「使う当てが無くても、想い人がいなくても、一体どういう風になるのかと興味をそそられるのよ。それで私もずっと昔に作ったの。でも失敗した。普通の惚れ薬は想い人に飲ませて自分に振り向かせるというものだけど、これは飲んだ者自身の感情が高ぶるというものだったわ。それで結局これの上手い使い道も思いつかず、誰かに譲る気にもならず、当時は処分しようとして森のどこかの地面に埋めたんだけど、なんでこんなものを魔理沙が持ってるの?」
「森に落ちてた。葉っぱの下に隠れてて、全然埋まってなかったぜ」
「魔理沙の前に誰かが掘り起こしたのかな。でもそのわりにはまま放置していくのも妙ね」
「鼠が探し当てて、掘り出したとか」
「あり得そうね。大体あの場所を知ってるのは私しかいないからダウザーじゃないとそんなこと無理ね」
と、なんだか表層的な話をしてしまったが、私が言いたいのはそんなことではなかった。
「ねえ魔理沙」
私は調子を下げて落ち着いて訊ねた。
「ここ三日間の魔理沙の態度は薬のせいだった。言ってみれば今の魔理沙は嘘の魔理沙よ。ずっと薬に騙されているままなんていけないわ。私の家に中和剤があるから、すぐにそれを飲んで」
魔理沙は少し間を置いて、力なく「ああ」、と言った。
8
自宅にて、部屋の奥のあまり開けない薬品庫から中和剤を探し出す。それは小さな透明な瓶に入った薄紫色の液体。自分の記憶が確かなら、その薬と中和剤は同じ形の瓶に入れた。確認するために魔理沙から受け取った瓶と見比べると、その二つは全く同じ形だった。
「それじゃこれを飲んで」
私は魔理沙に中和剤を差し出した。彼女はそれを受け取り、まじまじと見つめた。
「そのまま蓋を開けて直接飲めばいいわ。味も匂いも無いから、水みたいに飲めるはずよ」
彼女は無言で瓶の蓋を開け、自分の目の前にその瓶を摘み上げ、またそれを見つめている。
「どうしたの? 副作用とかはないから安心して」
私が言ったその時、彼女は突然瓶を逆さにした。中の液体が床に全て落ち、板の間にぶつかって小さな水音がした。彼女は俯いていた。
「魔理沙、元に戻りたくないの?」
彼女はしばらく眉間に皺を寄せて口を噤んでいたが、やがて脱力した眉になって語り出した。
「今回の件で、私はようやくお前達の気持ちが分かったよ。好きな人がいて、好きな人のそばに居られる、とんでもなく幸せな気持ちだ。普段バカやったり、宴会したり、魔法の研究してるだけじゃ味わえない感覚だ。正直私は、これが嘘でも、薬のせいでもかまわない。それに、私は元々アリスのことは好きだった。以前の私の子供の『好き』の感情が今は本物に変わっただけで、きっといずれはそうなっていたんだ。それならなんの問題も無い。アリスだって私のことが好きなんだろう? 私は今、本当に幸せなんだ。お前といて、ずっと胸がどきどきしてる。ありきたりな表現だが、手をつないだ時なんか心臓が飛び出そうだった。これが私の生きる意味なんだと確信できる、この幸せな感情を、失いたくないんだ。だから、中和剤はいらない」
彼女は申し訳無さそうな顔をしていた。
考えてみれば、今の彼女には正常な思考はできないのかもしれない。しかし同時に、今のは彼女の本音なのかもしれない。中和剤はいくつか予備があるが、もう少し様子を見るべきかもしれない。そうも考えたが、それでは何かが間違っている。結局は、『薬の力で私が魔理沙を振り向かせた』、そんな話でもある。もし、今の彼女の言葉を彼女の意思であると解釈して、彼女をこのまま薬に弄ばれているままにするのは、あまりにも彼女の意思と尊厳を蔑ろにしている。
「魔理沙。今のあなたは正常に考えることができないのよ。だから今のあなたの言葉をそのまま受け入れるわけには行かないわ。まずは、中和剤を飲むのよ。そして普段の魔理沙に戻ってからゆっくり考えるのよ」
この薬には、効いている間の記憶がなくなるといった便利な効果は無い。中和剤を飲んだ後も、彼女は今の体験を具に記憶しているはずだ。彼女のその後を思うと、やりきれない気持ちになった。
「ずっと悪いと思ってたんだ。だから報いようとした。特にアリスには色んなことで助けてもらった。アリスが欲しいのが私なら、いくらでもやるよ。そうして決着がつけば、霊夢もパチュリーもきっと肩の荷が下りる」
「それは、普段の魔理沙に戻ってから言わないとね」
「戻ったら私は、アリスの物じゃなくなってるかもしれないぞ」
「そうなったらしょうがないわよ。大体、元々そうだったことに良いも悪いも無いわ」
「耐えられないんだ。お前達を待たせるのが。こんなに強い感情を持ち続けるなんて、私には信じられない」
「待つわよ。安心して」
「なんか、ごめんな」
「謝るのは良くないわね。私達が勝手にやってることなんだから」
「それじゃあどうすればいいんだ?」
「無理したり、焦ったりしなければいい。決着する時はいずれ勝手に来るから」
私は薬品庫から予備の中和剤を持ち出して彼女に渡した。彼女はそれを目の前に見つめてから、今度はすんなりそれを飲んだ。
9
さらに翌日。空は晴れていた。昨日、中和剤を飲んだ魔理沙はひとまず自宅へ帰した。一日置けば、少なくとも薬の効果は完全に無くなっているはずだった。ただ、今回の体験で彼女自身になにか変化が起これば、それは薬の副作用なのかもしれない。
私は人形作りもせず、何をするでもなく窓の向こうの木々を眺め、蝉の声を聴きながら一人で紅茶を飲んでいた。午前中だというのに、やけに眠たかった。一人でこうしていると、ここ三日間が夢だったように感じる。愛する魔理沙が訪問してきて、私の目を見つめ、私の手に胸を高鳴らせた。その話が偽物ではなく本物だったなら、どんなに嬉しかっただろう。だがあれは私が昔に作った薬のせいだった。たちの悪いぬか喜びは、自業自得だった。ひどく虚ろな気分だった。
ノックの音がした。今日は普段の彼女が来るはずだった。扉を開ければ夢が本当に覚める。おかしいと思っていながらも、私も心の奥底では、あの時の彼女にどれほどの幸せを与えられたか、今更になって気付いた。
「よう。いろいろ言いに来たぜ」
彼女は『ごきげんよう』、とは言わなかった。
10
「悪かった」
テーブルに着き、魔理沙は始めに言った。
「いろいろ考えたが最初に言うのは今の台詞だ。そして次に言うことがある」
彼女は一息着いて、言葉を仕切りなおした。
「アリス、好きだ」
「え?」
てっきり謝罪が続くと思っていたので、虚を突かれた気分だった。彼女は言葉を続けた。
「今までのことは全て覚えている。本当に楽しかったが、あの時の私は私じゃなかった。だから改めて言うよ。アリス、お前のことが好きだよ。今までの子供の『好き』じゃない。妙な話だが、薬のおかげで自分の中にある情熱的な感情を実感することができた。それがいつ芽生えたのかは忘れたが、アリスといる時にはいつもあったものだ。私はずっとそれを理解できず無視していたが、気付いてしまった今となってはもう、自分にもお前にも隠すことはできない。どうか、私を受け入れてくれないか」
魔理沙は昨日までのきらきらした目とはまた違う目をしていた。それは私の心を見透かすような、深く澄んだ目。活力を湛えて落ち着いた力強い目。精神の持ちようでこんなに目つきが変わるものなのかと、私は変な所に感心しながらも、彼女の意思が冗談でないことに、えも言われぬ嬉しさを味わった。そしてつい、その目に見とれていたが、彼女がカップを持ち上げたところで私は我に返り、返事をした。
「魔理沙がそういうなら、私の取るべき選択は一つしかないわ。これからもよろしくね」
私は努めて落ち着いていたつもりだったが、魔理沙の真似をして持ち上げたカップから、紅茶が少々零れてしまった。
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パーン パパパパーン(中略) アイラービュー(後略) | ||
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