レインボーガール (8/8)
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 八章

 

 アパートの壁を、大粒の雨が叩いていた。

 雄介はカーテンを少し開けて外を眺める。

 雨は少し前から降り出した。さっき見た予報だと朝までには雪に変わり、昼頃まで降り続くらしい。

 ふと、雨に濡れながらも呆然と道端に座り込む七海の姿が思い浮かぶ。

(ありえない)

 雄介は頭を振って妄想を否定する。七海はダンボールに入れられた子猫ではない。彼女にもコンビニや牛丼屋で雨宿りするくらいの知恵はあるはずだ。

 カーテンを閉め、ちゃぶ台の前に座り、もう何杯目か分からないカフェラテに手を伸ばす。

 暖かいカフェラテは間違いなくおいしい。なのに、今夜はいくら飲んでも、ほんの少ししか心を落ち着かせてはくれなかった。

 空になったカップを一度ちゃぶ台に置き、時計を見る。

(三時か)

 正確には三時五分。七海が部屋を飛び出してから四時間以上が過ぎていた。

 立ち上がり、次の一杯を淹れるためキッチンへと向かう。

 今日だって朝から仕事がある。それでも雄介は飲まずにいられなかった。

「……くそっ」

 なんでもないタイミングで悪態をついてしまうほど、雄介はひたすらにイライラしていた。

 だが厄介なことに、なにが気に入らないのか自分でもよく分からない。そしてそれが雄介の苛立ちをさらに増幅させる。

 本当に、眠れるものならすべてを忘れて眠ってしまいたいと思う。しかしどうしても眠れなかった。布団に入っても、まるで広い体育館の中心で寝ているような気分になって、一ミリも落ち着くことができなかった。

(こんなことなら、少しくらい酒を常備しておくんだったな)

 カフェラテではいくら飲んでも酔いつぶれることはできない。得られるのは、ほんの少しの鎮静効果だけだ。

 そのほんの少し、舌が熱を感じている間だけ得られる刹那の安らぎを求めて、雄介はカフェラテを飲み続けていた。

 新しいカフェラテが淹れ上がると、雄介はカップを持って玄関に向かう。

 そこには三ヶ月前、初めて七海をデパートへ連れて行ったとき買った、茶色のローファーが置いてあった。

 もしかしたら、ドアの横に靴下姿の七海が座り込んでいるのではないか。

(バカか、いるわけがない)

 靴を見るたびに繰り返される、妄想と否定。

 ドアを開けて外を見れば、はっきりと妄想を否定することができるだろう。

 が、本当に彼女が座り込んでいたらと考えると、どう接していいのか、どう接したいのか、それが分からなかった。

(本当に、俺はどうしたいんだ……)

 今年もあと六日だ。あと六日で七海は部屋を出て行く予定だった。

 その予定が少し早まっただけだ。それだけなのに、どうしてこんなにもイライラしてしまうのだろう。

 星野詩織のことを好きだった。

 望月七海のことを好きだった。

 だからこそ、この選択で良かったと思っている。ベターではなく、ベストだったと。

 では、なぜこんなにも気持ちが落ち着かないのだろう。なぜこんなにも、部屋が広く感じてしまうのだろう。なぜこんなにも、胸が苦しいのだろう。

 せめてどう接したいのかさえ分かれば、なにも恐れることなく近くのコンビニまで酒を買いに行けるのだが。残念ながら、いくら考えても答えは出なかった。

 いや、雄介は一つだけ気付く。今の気持ちは、小説で登場人物に散々悩んで喋らせた台詞がしっくりこなかったときとよく似ていた。

 こういうときは、一度寝てしまうのが一番なのだが――

(……雨がやんだか)

 いつの間にか雨音が消えたことに気付いた雄介は、窓から外を眺める。

 雨は、白く冷たい雪へと変わっていた。

 

 結局、雄介が部屋を出る時間になっても、七海が戻ってくることはなかった。

 あれから一睡もしておらず、心も体も疲れきっていたが、だからといって仕事は休めない。雄介は身支度を済ませると玄関のドアをゆっくりと開ける。

 七海はいなかった。

 ドアの周りを観察してみても、彼女がいた形跡は発見できない。

「はあ……」

 雄介はため息をつくと、傘を広げて歩き出す。予報通り、雪はまだ降り続いている。

 途中コンビニへ寄り、栄養ドリンクと眠眠打破を買って一気に飲み干す。

 店に着いて開店準備をしていると、まずは北斗が店に入ってくる。

「雄介、目の下にクマなんてつくっちゃって、どうしたの?」

 北斗が挨拶をかっ飛ばし、聞いてくる。

「寝なかっただけだ」

 シンプルに答える。嘘は言っていない。

「……あ、そう」

 その答えだけで納得できたのか、北斗はそれ以上はなにも聞かず、バックルームへと歩いていった。

 次に現れた店長にも、顔を合わすなり「Lのコスプレでもするつもりか?」と聞かれる。

「眠れなかっただけです」

「そうか。まあ、今日もどうせ暇だろうし、眠かったらバックルームで寝ててもいいぞ」

「いや、時給分は働きます」

 今日の前半はこの三人で、後半は一応七海が加わる予定だ。

 店長が最初に言った通り、昨日に引き続き今日も暇だった。学生の冬休みが始まる二三日は少しだけ忙しかったが、基本的に冬コミ直前のタイミングでカネを使いたがるオタクはあまりいない。

 雄介はもう、あまりイライラはしていなかった。モヤモヤとした謎の気持ちに整理がついたわけではない。単純に、もうイライラできるほどの気力が残っていなかったのだ。

 それでも七海が入る時間が近づくほど、雄介は自分でも緊張していくのが分かった。

 どう接すればいいのか。どう接したいのか。未だ考えはまとまっていない。

 

「望月、来ないな」

 店長がレジの奥に掛けてある時計を見て言う。

 今、店の中には客が一人もいない。少し前からいよいよ本格的にやることもなくなった三人は、レジの前になにをするわけでもなく集まっていた。

「雄介」

 北斗が軽く睨みつけてくる。

「昨日、なにがあったの」

 雄介はふと、最近は北斗にこんな目を向けられてばかりな気がした。

「部屋にゴキブリが出た」

「もしかして、七海ちゃんに殺させたの?」

「えっ、お前望月と同棲してたのか?」

 店長が聞いてくる。彼女はまだ、雄介と七海が一緒に暮らしていたことを知らなかった。

「……はい」

 雄介は肯定する。今日店に来なかったということは、おそらくはもう二度と会うこともないだろう。ならば無理に隠す必要もない。

「そんなことより、七海ちゃんに殺させたのか答えてよ」

 無視や嘘を許さぬ声で、北斗が言う。

「あいつが自分からやるって言ったんだ。やれと命令したわけじゃない」

「嘘つくなよ。七海ちゃんが自分からやるなんて言うわけないじゃないか」

「本当だ。あいつから自分がゴキブリを退治したら俺の彼女にしてくれと言ってきたんだ」

「は? お前と望月は同棲してるのに彼氏彼女じゃなかったのか?」

「店長はしばらく黙っててください」

「お、おう」

 初めて見る北斗の怒った姿に店長はたじろぐと、口笛を吹きながら店の外へと歩いていった。

「七海ちゃんはゴキブリを殺したの?」

「ああ」

「なら、七海ちゃんは雄介の彼女ってことでいいんだね」

「あいつは彼女でもないし、昨日部屋を飛び出していった。俺とはもうなんの関係もない」

 それを聞いた北斗はギュッと右手を握り締め、大きく息を吸い込んだ。

「どうしてだよ!」

 北斗が拳をハンマーのように振り下ろし、カウンターに叩きつける。

「雄介がその提案を受け入れたから七海ちゃんは行動したんだろ。なのになんで彼女じゃないんだよ。お前ツンデレだろ。いい加減デレろよ。せめて殺虫剤代わりに一緒にいてやるくらい言えるだろ!」

 今にも掴みかかりそうな勢いで北斗が一歩近づいてくる。

「七海ちゃんは雄介が好きなんだよ。分かるだろ。男なら受け入れてやれよ。いつまでも悲劇のヒロイン気取ってんじゃねえ。一度くらい振られたからなんだよ。七海ちゃんが飛び出していったってのに、どうしてこんなところにいるんだ。外は死にそうなほど寒くて雪も振ってるのに、なにも感じないのかよ!」

「心配に決まってるだろ!」

 雄介は自分でも驚くほど、自然と言い返していた。

「なら追いかけろよ。好きなんだろ。僕は雄介が七海ちゃんをもう一度振って、七海ちゃんの心の整理がつくのを待ってたよ。けどそれは間違いだった。今から他人になっても、平気なのは雄介だけなんだよ。七海ちゃんはもう手遅れなほど、雄介が好きだったんだ。なのに、どうして……」

 北斗がひたすら悔しそうに歯を食いしばる。その後、雄介に背を向けるとポケットから携帯を取り出し、どこかに電話をかける。

「クソッ」

 おそらく七海に電話し、電源が入っていなかったのだろう。北斗は携帯をポケットに戻すと、エプロンを脱いでレジの奥に投げ捨てる。

「店長!」

 北斗が呼ぶと、店の外から店長が顔だけをひょっこりと覗かせる。

「なんだー」

「七海ちゃんを探しに行くので今日は早退します」

「馬鹿なことを言うな。見つかるわけないだろ。仕事をしろ」

「馬鹿はお前だ!」

 叫びながら、北斗は雄介の両腕を掴む。そして思いっきり体をそらした。

 雄介は咄嗟に額を前に出す。次の瞬間、北斗のヘッドバットが炸裂し、二人は同時に尻餅をついて倒れる。

 クリーンヒットは回避したものの、額は本気で割れたか心配になるほど痛かった。もし鼻先に喰らっていたら、間違いなく折られていただろう。正真正銘、殺意の込められた手加減ナシのヘッドバットだった。

「七海ちゃんを泣かす雄介なんか、ゴキブリ以下だ」

 最後にそう言うと、北斗はふらふらと立ち上がり、店を出て行った。

 

          ※ ※ ※

 

 七海は待っていた。

 コンビニを渡り歩きながら、雄介が自分のことを見つけて連れ戻してくれる瞬間を、ずっと待っていた。

(お腹すいたなぁ)

 飛び出した直後にコンビニで肉まんを一個食べたが、それ以降はなにも口にしていなかった。

 レジから一番遠い場所にいるのに、おいしそうな匂いが七海を誘惑する。

 気付けばふらふらと、レジの横まで進み、中華まんのケースにトカゲのようにへばり付いていた。

「あの……お決まりでしたら……」

 気の弱そうな店員が控えめに聞いてくる。

「……いえ、大丈夫です。間に合ってますから」

 嘘だ。本当はすごく食べたい。

 が、七海にはカネがなかった。飛び出したときは小銭入れしか持っておらず、しかも足元の冷たさに耐え切れず買ったスリッパが思いのほか高く、もう彼女は六円しか持っていなかったのだ。残ったカネで一個でも肉まんを買えたのが奇跡だった。

 スリッパを買わなかったら、一個と言わず、三個は肉まんを食べることができた。だがそうすれば、もっと早くに限界が訪れていただろう。上着は脱がずに飛び出してきたので体はまだ平気だが、冬の道路に靴下一枚は厳し過ぎた。

 スリッパは買って良かったと思っている。ただ、雪でだいぶ濡れてしまい、そろそろ意味がなくなってきていたが。

 まだ頑張れる。しかし限界が近づいてきているのも充分に理解していた。

 できることなら椅子に座りたい。一○分でもいいから眠りたい。

 トイレを借りればそれも可能だ。実際寒さもあり、七海は頻繁にトイレを借りていた。

 だがどんなに眠くても、決して眠りはしなかった。もしそのタイミングで雄介がコンビニに入ってきたらと考えると、眠ってなどいられない。

 まだ、七海は雄介のことが好きだった。

 自分でも理由がよく分からない。なのに、なぜか嫌いにはなれないのだ。

 まるで呪いにでもかかっているようだと七海は思う。あえて解きたいとは考えなかったが。

 

 七海は外に出る。

 コンビニの中は暖かいが、代わりにおいしい誘惑で溢れている。あまり長居すると頭がおかしくなってしまう。

 外に出て空を見上げれば、いつの間にか、あと一時間もすれば夕焼けが綺麗な時間となっていた。

 雪はもう降っていない。ぐちゃぐちゃに溶けた汚い雪がまばらに残っているだけだ。

 その灰色の雪が黒いアスファルトの上に点在する景色を見て、七海は思う。

 たぶん、自分はそろそろ動けなくなる。

 もし万が一、雄介が自分を探し出してくれなかったら。そのときは、もう少し綺麗な場所で最後の瞬間を迎えたいと。

 ふと、七海の頭に繰り返された最高のワンシーンが思い浮かぶ。

 彼女はゆっくりと、エンディングへ歩き始めた。

 

          ※ ※ ※

 

 自分は選択肢を間違えたのだろうか。

 店長と自分しかいない店内で、雄介は先ほどから居もしない客を待つように1レジの内側に立ち、ずっと考えていた。

(間違ってはいないはずなんだ)

 そもそも、これはどちらが正解という話ではない。未来に大きな悲しみが待っていると知りながら、現在に大きな幸福を得ようとするか。それとも未来の悲しみを回避するため、幸福の木が小さいうちに刈り取ってしまうのか。どちらもリスクとリターンは釣り合っている。なら、どちらを選んでも間違いではないはずだ。

 いや、違う。そうじゃない。

 未来の大きな悲しみは、どんなリターンよりも黒く冷たい。それはどんな幸福を持ってしても釣り合わない。

 だから恋人なんてつくるもんじゃない。愛するなら断然二次元のほうがいい。雄介は初めての恋人が去っていったあの夜から、そう心に刻んで生きてきた。

 なのに、いつの間にか忘れていた。

(そう、間違ってはいないはずなんだ)

 では、どうしてこんなにもイライラが再燃してくるのだろう。雄介はそれが分からなかった。

 いきなりヘッドバットを喰らったから。間違ってはいないのに、お前は間違っていると否定されたから。

 簡単に思いつく理由としてはこんなところだが、どうにもしっくりこない。ヘッドバットは当然ムカッときたが、同時に頭でなく両腕を掴んで打ってきたことに上手いとも感じている。あれなら突き飛ばして回避できない。いくら間違っていると否定されても、これまでは自分が絶対に正しいと確信できていれば、他人にどう言われたって気にならなかった。

(つまり、俺はこの選択肢で正しかったと確信できてないということか)

 ならば確信できればイライラは収まってくれるということだ。

 しかし――

(くそっ)

 いくら頭の中を探しても、今の自分を肯定する材料が見つかってはくれなかった。

「お悩み中かい」

 店長が言った。彼女はバックルームから椅子を持ってきて、今は2レジの内側に座っていた。

「……ええ」

「そうか。相談、乗ってやろうか」

 久々に店長に優しい笑顔で見つめられ、雄介は一瞬彼女のことがとても綺麗だと思った。

 雄介の体には、もう一人で考え続ける力は残っていなかった。だからほんの少しだけ甘えることにした。

「俺、どうすればいいんですかね」

「んー、そうだなぁ」

 店長はエプロンのポケットに手を入れて椅子を後ろに傾ける。

「詳しい事情は分からんが、単純化して考えれば、長月はハイリスクハイリターンを、守屋はローリスクローリターンを選んだ。そうお前は考えてるんだろ」

 もう付き合いの長い店長には、今回の事情は分からなくても、心の中はほぼ正確に読まれていた。彼女なら、もしかしたら雄介自身よりも彼の心を理解しているかもしれない。

「はい。そうです」

「ふむ。まあ、どっちを選んでも間違いじゃない――と、今の世代のオタクだったら答えるんだろうな」

 店長がにやりと笑う。

「私は古いオタクだ。最近のだれともくっつかないハーレム物や、女が数人集まってぐだぐだと部活してるような漫画より、最後に成瀬川なると結婚させるラブひなみたいな話が好きだ。だから私はしっかりと答えを出す。お前は間違っている」

「……はい」

「心は変わる。熱く燃え上がった恋も、いつかは醒める」

 それは悲しいが、この世界に少なからず存在する真理の一つだった。

「でも、それでいいじゃないか。なあ、お前は吉良吉影みたいに平凡な人生を望んでいるのか? 永遠に生き続け、人を愛するとそいつの血が吸いたくなる真祖なのか? 百舌谷さんみたいにヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害なのか? 違うだろ」

 全力で間違っていると言われているのに、なぜか不思議と気分は悪くなかった。

「……はい」

「お前の書く小説はいまいち面白くない。なぜだか分かるか? それはお前が物語に中途半端に癒しを求めてるからだ。ワクワクする物語にしたかったら、主人公にハイリスクを負わせ、ハイリターンを与えなきゃな。特に男が主人公なら、なおさらだ」

「……はい」

「金がないだとか学がないだとか、そんなことは別に気にしなくていいんだよ。宮元麗の言う通りさ。女はな、可愛い男と、自分を可愛がってくれる男が好きなんだよ」

「……はい」

「お前はかわいいよ」

 雄介は短く笑う。

 もう彼はイライラしていなかった。ただし、今度は疲れたからではない。

「まだ、間に合いますかね」

 このイライラは、足を止めて怯えている自分自身に対してのものだ。雄介はそれにようやく気付いたのだ。

「無駄だって言っても、行くんだろ?」

 店長が嬉しそうに聞く。

「はい」

「なら行けよ。ただし、ダメだったらちゃんと帰ってこいよ。そのときは、私の妖艶な身体を使ってたっぷり癒してやるからな」

 雄介はエプロンを脱いで店長に投げ渡す。

「それ、お願いします」

「おう、頑張れよ」

 店から出ると、雄介はまた笑った。どうやら店長にはこうなることが分かっていたらしい。

(これじゃ、客が来ないわけだ)

 階段と店を結ぶ短い廊下の真ん中には、準備中と書かれたポールが置いてあった。

 

 外に出ると、雄介はまず北斗に電話する。

「いまさらどうしたの?」

 北斗が険のある声で聞いてくる。

「七海は見つかったか」

「まだ」

 雄介は不謹慎にもホッとしてしまった。これですでに見つかっていたらカッコがつかない。それでも奪いに行くつもりではあったが。

「お前の住んでるマンションの入り口は探したか」

「最初にね。今は僕ん家の周りを探してるよ」

 それだけ聞ければいい。今は時間が一秒でも惜しかった。雄介は携帯をポケットにしまうと走って駅に向かう。

(北斗がこっちなら、俺は東模手原だ)

 七海がもし自分が追いかけてくるのを待ってくれていたのなら、きっと電車には乗らないで行ける範囲にいるはずだ。

 そう思いつつも、雄介は一応周りを気にしながら駅までの道を走る。

 駅に着くと、改札を通り、早足でホームへ向かう。急いだって電車が早く到着するわけではないが、どうしても焦ってしまう。

 電車を待つ時間。電車に乗っている時間。その一分一秒が、今はとても長く感じる。

 やっと東模手原に着くと、雄介は飛び出すように駅を出て、まずは近くのエンジェルモートに向かう。店に七海はいなかった。

 次にそこから一番近いコンビニへと走る。いない。次は牛丼屋へ。いない。次は――

 そうやって雄介は七海がいそうな場所を次々とまわっていく。

 寝不足の体にはきつい運動だったが、それでも雄介は走り続けた。

 しかし――

「くそっ……どこにいるんだ」

 見つからない。

 雄介は足を止めて息を整える。溶けた雪のせいで足元がびしょびしょだ。なのに走り続けていたせいでまったく冷たいと思わない。むしろ暑くてジャケットを脱ぎ捨ててしまいたいほどだったかったが、これは七海を見つけたとき、彼女を少しでも暖められるように着続けておく。

「考えろ……どこに行けばいい……」

 ふと、自分の影がだいぶ長くなっていることに気付く。もう、空は綺麗な夕焼けで染まっていた。

(もしかして――)

 瞬間、一つのシーン、一つの会話が頭に浮かんでくる。

 この直感が正しければ、七海は今、外にいる。

 だとしたら、こんなところで休んでなどいられない。雄介はジャケットの袖で顔の汗をふくと、再び走り始めた。

 

          ※ ※ ※

 

 好きだと言ってくれる北斗。

 好きだと言ってくれない雄介。

 良いところ、悪いところ、二人の違いは色々とある。が、やはり一番の違いはそこだろう。そして深く考えるまでもなく、好きだと言ってくれるほうが絶対に良い。

 だから七海は北斗が好きだった。

 しかしそれ以上に、七海は雄介のことが今でも好きだった。

 好きだと言ってくれること以上に大切な『なにか』がきっとあるはずだ。そうでなければ、雄介が好きだというこの気持ちは勘違い、さもなくばただの思い込みとなってしまう。

 それはイヤだ。だから七海はその『なにか』がなんなのか、歩きながら、さっきまでずっと考えていた。

(太陽、沈んじゃったな)

 七海は今、ゲーム中は何度も繰り返し訪れた美桜山の頂上にいた。いや、正確には美桜山に良く似た場所で、本当の名前は知らない。そもそもいざ上ってみると、低すぎて山というよりは丘だった。携帯のバッテリーはカラなので正確な時間は分からなかったが、今の弱り切った彼女でも三○分程度で頂上までたどり着くことができた。

(やっぱり、勘違いだったのかな)

 結局、どれほど考えても、七海には好きだと言ってくれる以上に大切な『なにか』の正体を掴むことはできなかった。

 あと少し時間があれば分かったかもしれない。

 だが、彼女にはもう時間がなかった。

 確かに雪の上に立っているはずなのに、さっきから、まるで宙に浮いているかのように足の感覚がない。

 いずれ、すべてが消えてなくなる。感覚も、意識も、体も、すべてがゼロに戻る。その瞬間がすぐそこまで来ていることを、七海は自覚していた。

(神様、お願いします)

 七海は祈る。

(あと五分だけでいいから、この世界にいさせてください)

 それ以上は望まない。なぜなら五分もあれば、雄介がきっと自分を見つけてくれる。彼女はそう信じることで寒さと飢えに耐えていた。そしてそれは、最後の最後まで変わらなかった。

 

          ※ ※ ※

 

 頂上まで続く細い道には、雪が踏み荒らされずに残っていた。

 当然だろう。頂上からの眺めは悪くないし、道もある程度は舗装されている。が、だからといってこんな日に、わざわざ丘を登ろうと考える人間などいない。いるわけがない。ただ一人――この丘を美桜山に似ていると思う人物を除いて。

 外灯が、白く綺麗な雪道に残る一人分の足跡を照らしていた。

 間違いない。七海はこの上にいる。

 雄介の心臓は限界寸前だった。

 しかし今、七海のほうがもっとつらくて危険な状態なのは容易に想像できる。

 湧き上がってくる後悔と苛立ち。そして不安と焦り。

 七海が仕事でどれほど稼ぎ、どれほど貯金をしているか、雄介はかなり詳しく把握している。だから部屋を飛び出したときの懐具合も当然分かっていた。なにか食べるとしても、おそらくは牛丼一杯が限界だろう。そんな状態で、ほとんど眠らず、靴も履かず、冷たい雪の上を頂上まで歩いていくなんて、まさに自殺行為だ。

 急がなければ、七海は死んでしまうかもしれない。それを考えると、一秒でも立ち止まってはいられなかった。

 雄介は限界を超えて走る。

 足だけでなく、もはや全身の筋肉が悲鳴を上げている。激しい呼吸で喉が渇く。額から大量の汗が噴出し、びしょびしょに濡れたシャツがべったりと体に張り付いてくる。ひたすらに体が熱い。胃を絞り潰されているような吐き気がこみ上げてくる。

 雪の上に寝転がり、三○秒だけでいいから休みたいと思う。

 そんな休みたい衝動に抗いながら、雄介は走り続ける。

 今はなによりも、七海を失ってしまうのが怖かった。

 やがて頂上が見えてきた。もうこれ以上は無理だと思っていたスピードが、ほんの少しだけ上がる。

 頂上は少し開けた場所になっており、木で作られた柵の少し手前で、街を見渡すように七海は立っていた。

 雄介は彼女の背中が見えた瞬間、叫ぶ。

「七海!」

 それと同時、雄介は動かし続けていた足を止めてしまった。

 声に反応し、七海が緩慢な動きで振り返る。

 こちらに向き直った彼女は、まるで魂の抜けた人形のごとき完全な無表情だった。

 まさか、体の前に心が壊れてしまったのだろうか。

 ありえない話ではない。雄介の背中に先ほどまでとは違う冷たい汗が流れる。

(大丈夫だ。そんなこと、あってたまるか)

 もしそうだとしても、七海は生きている。なら、失った心を呼び戻すだけだ。

 雄介はゆっくりと息を吐き出して無理やり呼吸を整えると、壊れてしまった彼女の心を呼び戻すべく、魔法の呪文を唱え始める。

「今から俺が言うことはすべて本当だ。絶対に、なにがあっても、永久に、未来永劫、訂正はしない。

 俺は食欲旺盛で髪の長い黒猫を飼うつもりはないと言ったな。あれは嘘だ。今年中に部屋を出て行けと言ったな。あれは嘘だ。俺が好きなのは二次元の望月七海だけだと言ったな。あれは嘘だ。

 星野は佐久間と付き合うことになった。しかし俺はそれでいいと思っている。恋人になれば次に待っているのは悲しい別れだけだ。かといって、永遠に友達以上恋人未満を続けることもできない。悲しみが大きいか小さいかだけで、どんな関係にも別れの瞬間はやってくる。

 お前との関係も、昨日で終わるはずだった。まだ悲しみが小さいうちに別れることができて、良かったと思っていた。でもそれは間違いだった。

 いいわけあるか。お前は――三次元化した望月七海は俺の嫁だ! お前のどこが好きか知りたいなら、終わりのクロニクルよりも分厚く書いてやる。この世界で一番お前を愛しているのはこの俺だ。

 もしもお前が北斗と恋人になれば、いずれ避けられぬ別れが待っている。

 だが俺なら違う。俺はお前のことを未来永劫愛し続ける。なにがあっても嫌いにならない。絶対にお前よりも長生きする。だから、これからも俺と一緒にいてくれ」

 儀式は――成功した。

 七海の顔にうっすらと表情が戻る。

「雄介さんの、嘘つき」

 そう言うと、彼女は一滴の涙を流しながら、最高にかわいい微笑をプレゼントしてくれた。

 だがそれをじっくりと喜ぶ暇など、雄介には与えられなかった。

 彼女は地面に膝を落とし、まるで手を離したモップのようにパタンとうつ伏せに倒れる。

「七海<double>!?</double>」

 雄介はすぐさま彼女の元に駆け寄り、体を仰向けにする。

「――っ」

 雪のおかげで顔などに怪我はなかった。ただ、七海の体に触れた瞬間、雄介はゾッとした。

(やばいな……)

 彼女の体は、まるで氷のように冷たかった。

「しっかりしろ」

 顔の雪を払い、体を揺さぶると、彼女はうっすらと目を開けた。

「雄介さんの手、暖かいですね」

 そうだろう。彼女にとって先ほどまで必死に走り続けていた雄介の体は、まるで真夏の太陽にすら感じられるはずだ。

 しかし残念ながら、現実には雄介の体にそれほどの効果はない。ここで七海の体をギュッと抱きしめれば彼女は喜ぶかもしれないが、それと引き換えに命を失うことになる。

 すぐにでも暖かい場所へと連れて行かなくては、七海は死んでしまう。本気でそんなことを考えてしまうほど、彼女の体は冷たかった。

 雄介はジャケットを使って七海の上半身を自身の体と密着させ、おんぶする。彼女が買ったであろうスリッパはここに捨てていく。

 五分にも満たない休憩だったが、かなり回復できた。もう吐き気もない。問題なく足も動く。雄介は全速力で雪道を下っていく。

「私、雄介さんのことが好きです」

「ああ、分かってる。だから死ぬなよ」

「……ごめんなさい」

「謝るな。諦めるな。大丈夫だ、絶対に助けてやる」

 丘を下り切り、少し広い道路まで来ると、雄介はアパートとは逆の方向に走る。

「部屋に帰らないんですか?」

「病院に行く。途中で手頃な民家があったら殴りこんで、温まりながら救急車を待つ」

「待って。病院には行かないでください」

「却下だ。カネなら心配するな」

「違うんです。私は……今日で消えちゃうから」

 瞬間、体が凍りつく。

 彼女が、消える。

 それは以前から頭の片隅で考え、恐れていたことだった。

 科学的根拠などない。が、七海は元々、違う次元で生きてきた存在だ。今まで見てきた漫画やアニメなどのお約束と照らし合わせれば、異世界から訪れた人物は最終的に消えるか、元の世界に帰るのが自然な流れといえるだろう。

(だからって、どうして今日なんだよ!)

 出会いも唐突ならば、別れも唐突だ。

 いや、昨日の今頃までは、まだ七海は自分の目が届く範囲に居たのだ。きっと兆候はあったに違いない。しかし星野に振られたことを引きずっていたせいで気付けなかった。雄介はそのことを深く深く後悔する。

 雄介の目から涙がこぼれる。彼が泣いたのは、約一年ぶりだった。

「最後の瞬間は、あの部屋がいいんです」

「……ああ、分かった」

 

 濡れた靴下とウールコートを脱がせ、ベッドに寝かせる。いつもは控えめのエアコンの設定温度も今日はMAXまで上げた。

「なにか、して欲しいことはあるか」

 雄介は七海の冷え切った手を握り締めながら聞いた。

「おいしいご飯が食べたいです」

「任せろ。すぐに作ってやる」

 ご飯はおじやを作ることにした。これなら比較的短時間で作れ、衰弱した今の七海でも食べやすいはずだ。なにより手間がかからない。ほとんど放置するだけで作れる。これは一秒でも長く彼女の隣にいたかった雄介には、とても重要なことだった。

 ふと携帯が鳴った。北斗からの電話だ。

「七海は見つかった」

 一方的にそれだけ告げ、電源を切る。悪いとは思うが、今は時間がもったいない。

 あとは頃合を見計らって卵を落とすだけというところまで料理を進めると、一旦七海の元に戻る。

「ほかに、俺ができることあるか」

 できることは、なんだってしてあげたいと思う。いや、しなくてはならない。雄介は七海を期待させ、裏切り、怒らせ、悲しませた。だから今度は時間の許すかぎり、彼女を楽しませ、喜ばせ、幸せにしなくてはいけなかった。

「側に、居てください」

 断る理由などなにもない。雄介はベッドの横に座って七海の手を握り続けた。

 しばらくして七海が言う。

「いい匂いですね」

 そろそろおじやも完成だ。雄介は七海をいわゆるお姫様抱っこというやつで持ち上げると、ベッドの上で壁に寄りかからせるように座らせる。その後キッチンで最後の仕上げを済ませ、完成したおじやを持って彼女の元へ。

「ほら、できたぞ」

 七海は最初、スプーンを見つめる。次に雄介と見つめ合い、最後に目を閉じてひな鳥のように口をあける。

 なにを望んでいるのか、言われずともその動作だけで雄介は理解する。

 スプーンでおじやをすくい、充分に息を吹きかけて冷ましてから、七海の口へと運ぶ。彼女はパクッとスプーンに食いつくと、まるで大好きな骨をかじる犬のようになかなか放してくれなかった。

「熱くはないか」

「はい、平気です。だから、もっといっぱいください」

 雄介がおじやを七海の口まで運び、彼女がスプーンに噛み付いて幸せそうに笑う。おじやがすべてなくなるまで、その幸福な労働は繰り返された。

「足りないなら、もっと作るぞ」

「もう、大丈夫です。次は、甘いカフェラテが飲みたいです」

 お安い御用だ。雄介はすぐさま作業に取り掛かる。

「持てるか?」

 完成した砂糖山盛りの激甘カフェラテを右手に、雄介が聞く。

 すると七海は頭を横に振り、言う。

「戦国乙女で、ノブナガがヒデヨシに風邪の薬を飲ませた方法で、お願いします」

 一瞬、七海の言ったアニメが思い出せなかった。が、彼女の期待するように目を閉じている姿を見て思い出した。

(口移し、か)

 息を吹きかけてカフェラテを冷ますと、雄介はゴクリと唾を飲み込んでからカフェラテを口に含む。

(あ、甘いっ)

 一番好きなのはブラックのエスプレッソである雄介にとって、カップの底に溶け残った砂糖が沈殿しているこのカフェラテは甘すぎた。店でこんなものが出てきたら即座に噴出してぶち切れているところだ。しかし七海はこの甘さを望んでいる。吐き出すわけにはいかない。

 七海の肩を持ち、ゆっくりと顔を近づける。外で触ったときよりはマシになってはいるが、それでも彼女の体はまだまだ冷たかった。

 もう、雄介はためらわない。たとえこれが七海とする最初で最後のキスになろうとも。

 七海と、そっと唇を重ね合わせる。

 瞬間、彼女の胸が大きく膨らみ、幸せを噛み締めるようにゆっくりと下がっていく。

 カフェラテを飲ませるにはまず七海に口を開いてもらう必要がある。が、彼女はなかなか口を開いてはくれなかった。

 もしかしたら、キスをする口実のためだけにこんなカフェラテを作らせたのかもしれない。雄介がそう考えていると、七海はようやく口を少しだけ開ける。そしてまるで赤ん坊が母乳を飲むように、チュウチュウと音を立てて彼の唇を吸い始めた。

 口の中のカフェラテをすべて吸いきると、七海は次に舌を使って雄介の唇をこじ開け、唇の裏や歯茎に残ったカフェラテを舐め始める。

 雄介は彼女が突然始めたその無垢で淫靡な行動に驚き、ただ呆然と受け入れることしかできなかった。

 やがて口の中から舌が抜かれ、彼女が言う。

「もっと、ください」

「……ああ」

 カップを傾け、カフェラテを口に含む。相変わらず激甘だが、もうあまり気にならない。

 チュウチュウと音を立ててカフェラテを飲む七海。そしてカフェラテを飲み切ると、彼女はまた舌を侵入させてくる。

 今度は意図的に口を開けてみる。するとさっきは歯が邪魔で進入できなかった部分まで彼女の舌が入り込み、すべてを奪っていく。

 絡み合う舌と舌。

 彼女の舌はとても甘いのに、まったく不快ではなかった。むしろ、このままずっと味わっていたいと思う。

 舌が抜かれ、彼女が言う。

「もっと」

「ああ」

 カップを傾け、カフェラテを口に含む。ただし、今回は量を二回目のときより少なくした。そうやって少しずつ、彼女にカフェラテを飲ませていく。

 すべてを飲ませ終わる頃には、まるで媚薬でも飲んだかのように七海の呼吸は荒く、淫らなものへと変わっていた。

 七海のほうから頭を引くと、二人の舌と舌の間で唾液の橋が完成し、シーツに落ちていく。

「雄介さん」

 顔を赤く染めた七海が、俯き、恥ずかしそうに見上げてくる。

「私に……思い出をくれませんか」

 脳が桃色に染まり切った雄介には、七海がどんな言い方をしようと、もはや想像することは一つしかなかった。

 七海とするには今日しかない。しかしすれば、翌日には間違いなく激しい絶望が待っている。キスまでの相手と体を求め合った相手では、悲しみの大きさは違う。雄介はそれを最近知ったばかりだった。

 が――

(知ったことか)

 一度吹っ切れてしまえば、もう雄介はただの快楽を貪る雄でしかない。いや、正しくは七海を世界で一番愛している雄だ。最後の障害である彼女自身がかまわない、むしろしてほしいと言っているのに、止まれるわけがなかった。

 

 そして――二人は愛を確かめ合う。

 

 存分に愛の確認作業を堪能すると、二人は未だ火照った体をシングルベッドに並べ、じっと見つめ合う。

「なあ」

 雄介は七海の髪をなでならがら聞く。

「どうして俺を選んでくれたんだ?」

 彼女が自分のことを愛してくれているのは間違いない。それは確信している。ただ、物書きの性というものだろうか。どうしても理由が気になってしまうのだ。北斗を選ぶこともできたのに、しなかった。その理由が。

「それは、雄介さんが優しいから」

「俺はそんなに優しくないよ」

 七海はこちらの瞳を見つめたまま、顔を小さく左右に振る。

「雄介さんは優しいです。だからこそ最初の恋人に裏切られたとき、絶望した。けど、自分がされたように誰かを裏切るようなことはしなかった。自分からは私と星野さん、どちらも切り捨てることができなかった。でも最終的には、私を選んでくれた。明日には消滅してしまう、私を。それは雄介さんが優しいから。違いますか?」

「……全部俺が怖がりの臆病者だっただけだ」

「なら、私も臆病者です。だから欲しかった。未来永劫、ずっと私を愛し続けてくれるという保障が。そして雄介さんは、一年間も次元の違う私を見つめ続けてくれた。雄介さんがそんなことをするから、私は信じ続けてしまった。頭では、人は永遠に一人を愛し続けるなんてありえないと理解していたのに。心では、きっと雄介さんは――雄介さんだったら私を愛し続けてくれる。そう信じてしまったんです」

 分かってしまえば理由は単純だったが、だからこそ納得できる。所詮人間は臆病で欲張りだ。隙あらば愛されたい、そして愛され続けることを望む。

「私のスカート、拾ってくれませんか」

「ん? ……ああ」

 雄介は手を伸ばし、さっき脱がせてベッドの下に落としたスカートを拾い上げる。

 七海にスカートを渡すと、彼女はポケットから携帯を取り出し、充電器に繋げる。次に電源を入れると、白く細い指でしばらく携帯を操作する。

「これ、貯めたお金で買ってもいいですか?」

 そう言って見せてきた携帯の画面には、大型の液晶テレビが映っていた。サイトはアマゾンだろうか。結構な値段だが、それでも彼女がここ三ヶ月で貯めたカネでギリギリ足りる額だ。

「別にかまわないが……」

「じゃあ、お急ぎ便で買っちゃいますね」

「なんの意味があるんだ?」

 七海は指の動きを止め、寂しげに笑った。

「本当は私のフィギュアとかがよかったんですけど、前に探したとき見つからなかったから。じゃあ、テレビかなって」

 つまり彼女は愛し合った思い出を雄介が忘れないため、なにかこの部屋に残るものが欲しいようだ。

「テレビを見るたび、私のことを思い出してください。そしていつかテレビが壊れたら、そのときは私のことを……忘れてください」

 それはなんとも現実的で、優しく残酷な願いだった。

 七海が消えた毎日を想像すると胸が痛む。こうして彼女の髪をなでている今だって、すでに寂しさが幸福を押し負かそうと暴れていた。

 しかしそれ以上に、疲労による睡魔がすべてを塗りつぶしていく。

 寝たくない。寝ればもう七海と触れ合うことができなくなる。

 だからといって雄介は人間だ。二次元の絵とは違う。もう四○時間近く起きている。気合でどうにかなるレベルはとうに超えていた。

「七海」

 限界はすぐそこまで迫っている。次の波は絶対に耐えられない。

「ありがとう」

 七海が現れたことで、星野との甘く曖昧な関係はあっけなく終わりを迎えた。

 もし彼女が現れなかったら、星野との関係は変わることなく、いずれ緩やかな最後を迎えたはずだ。しかしそんな終わり方では、あと一歩踏み込めなかった自分に苛立ちながらも、いつまでも自分の本当の気持ちに気付くことなく、同じ失敗を繰り返していたことだろう。

 絶対に裏切らない二次元こそ至高だと言う人もいる。雄介もそう思っていた。

 だがそれは勘違いだった。本当は愛する者と触れ合いたかった。キスしたかった。共に人生を歩きたかった。今まで傷つくことを恐れ、ずっと胸の奥で燻らせていた願望を、七海は思い出させてくれた。

 ローリスクローリターン。ハイリスクハイリターン。どちらもプラマイゼロになるのなら、自分に正直に生きたほうがいいに決まっている。

「本当に、ありがとう」

 雄介は心の底から彼女に感謝する。

 直後、最大級の睡魔の波がやってくる。雄介はその言葉を最後に、深い深い眠りへと落ちていった。

 

 

 

 

  エピローグ

 

(ありえない)

 翌日。久々に昼過ぎまで眠ってしまった雄介は、激しい銃撃戦の音によって目を覚ますと、目の前の光景に驚愕する。

 部屋には新しいものが二つあった。一つは昨日アマゾンで注文した液晶テレビと、もう一つはそれが梱包されていたと思われるダンボールだ。液晶テレビは台の上に置かれ、元々そこに置いてあったブラウン管テレビはすぐ横――床の上にどかされていた。

 今、液晶テレビはフルHD画質で戦場を映している。映像の綺麗さには驚かせれるが、雄介目を釘付けにしている部分はそこではない。

「なっ……」

 雄介の目の前には、消えるはずだった望月七海の姿があった。

 彼女はパジャマ姿で、いつものようにゲームをしていた。そして雄介が起きたことに気付くと、視線はテレビに向けたまま、言う。

「あ、おはようございまーす」

 それは犬の散歩中に近所の人と遭遇したときのような、とても軽い挨拶だった。

「いやぁ、それにしても大きい液晶テレビはいいですねぇ。これまで潰れて読めなかった文字が見えるんですよ」

(俺は夢を見ているのか?)

 いや、違う。ヘッドバットをして確かめるまでもなく、未だ全身に残っている疲れ――特に足の筋肉痛がこれは現実だと教えてくれる。

 だとしたら――

「なんで消えてないんだ」

 雄介はさっき言いかけた疑問を今度はなんとか言い切る。

 すると視線はテレビに向けたまま、七海は小首をかしげる。

「……消える?」

「そうだ。自分で消えるって言っただろ。なのに――」

「おおー、そういえば」

 彼女は妙に芝居がかった口調でそう言うと、こちらへ振り返る。

「あれは嘘です」

 瞬間、雄介は恐ろしくマヌケな顔で固まった。

「もしかして雄介さん、知らなかったんですか?」

「……なにをだ」

 なんとか声を絞り出し、聞く。

「三次元は、嘘をつくんですよ?」

 七海はニッコリと笑って答える。

 その後、彼女はしばらくまっすぐに雄介の目を見ていたが、

「……くふっ」

 やがて堪え切れないといった感じで噴き出すと、腹を抱えて床の上をゲラゲラと笑い転がる。

 雄介は開いた右手で顔を隠し、頬を緩める。

(完全に騙された)

 人は裏切る。三次元は嘘をつく。しかしこんな嘘らなら、いくらでも大歓迎だ。

「あひゃ、はっ……ひひ、ふは……へへへ」

 七海は涙を流して笑い続ける。よほど自分を騙せたのが嬉しく、面白かったのだろう。今回だけは存分に笑わせてやろうと雄介は思う。

 が――

「ふへ……くっ、ふふふ……うひ、はは」

 いつまでも笑い続ける七海に、次第に雄介も少しだけイラッとしてくる。

 どうにかして反撃したい。だがいまさら昨日の言葉は全部嘘だったと言っても、七海は驚かないし、絶対に信じないだろう。彼女には昨日の夜に、自分がどれほど望月七海を愛しているのか知られてしまった。

 かといって、このまま笑わせておくのもムカつく。

 雄介はベッドの上であぐらをかき、考える。七海を驚かせる、反撃の一手を。

(――これでいいか)

 思いついた一手は、恐ろしく幼稚な嘘だった。しかし期待させておいて突然反対側に持っていくという基本は押さえている。問題はないだろう。

(大げさにしてまた飛び出されても、こう体が痛いんじゃ、すぐには追いかけられないしな)

 そう自分に言い訳すると、雄介は攻撃を開始する。

「七海」

「はっ……はひ」

「朝のキスをしよう」

 雄介がそう言うと一瞬で笑い声が止まり、七海は嬉しそうな顔でこちらを見つめてくる。

「はい!」

 ニコニコと笑いながらベッドに両手をつくと、七海は目を閉じて実に掴みやすい位置に頭を突き出してくれる。雄介は彼女の後ろにちゃぶ台やコントローラーなどの危険なオブジェクトがないのを確認してから、しっかろと頭を掴む。

 そして全力で体をそらし――

「ふんっ」

「ふぎゃっ」

 衝突する額と額。七海の体が床に倒れる。

 彼女はすぐさま文句を言ってくる。当然だ。

「なっ、なにするんで――」

 しかし七海の口は、文句を言い切る前に雄介の唇によって塞がれてしまう。

 暖房のせいか二人とも唇に潤いがなく、少し苦かった。

 だが愛する者とのキスは、そんな少々の苦味など簡単に打ち消し、どんどんと心の中に幸せを流し込んでくれる。

 やがて心が幸せで満たされ、二人はゆっくりと唇を離す。

 彼女はコツンと額を触れ合わせ、言う。

「これからも、ずっと愛してくれますか?」

「もちろんだ」

「嘘じゃないですか?」

「本当さ」

 雄介はそう答えると、七海を思いっきり抱き寄せだ。

「もしも信じられないなら、死ぬまで俺のそばにいて、ずっと俺を見ていてくれ」

説明
この作品はコミックマーケット81で配布したものからR18要素を抜いたものになります。
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