うそつきはどろぼうのはじまり 20 |
風が甲高い音を上げている。地上から遥か遠い、白い雲の中を突っ切る二人の間には、重い沈黙が落ちていた。
運び屋は時折そっと前を窺うが、少女は口を真一文字に結んだまま見向きもしない。
このまま黙っているわけにもいかないと、アルヴィンはなるべく気さくな調子で声を掛けた。
「・・・なあ」
「降ろして貰えませんか」
彼が何かを言う前に、少女が遮った。周囲を吹き荒れる風を物ともしない、強い語気だった。
「エレンピオスには、わたし一人で向かいますから。どこか適当な港で降ろしてください」
アルヴィンは予想外の言葉に目をむく。
「いったい何を言い出すんだ」
「何をって・・・他に何があると言うんです」
そう言い切ると同時にエリーゼが振り返った。
アルヴィンは思わず息を呑む。
こちらを初めて見た瞳は強固な意志の光を放ちながらも、どこか歪んでいた。涙が浮いていたが、その雫でさえ、頬を伝い落ちる前に風圧で飛ばされる。
痛々しいまでに押し殺した声で、エリーゼは言う。
「アルヴィン。わたしは、あの頃のわたしとは違う。何も知らなかった、友を欲しがってただ泣いていた世間知らずの女の子じゃない。野宿のやり方も、旅をする方法も、お金の稼ぎ方だって知っています。あなたの助けを借りる必要なんて、どこにもない」
頭から己を否定されて運び屋は閉口する。だが目の前の少女は大真面目だ。
男は軽く息をつく。この少女には、妙に頑固なところがあったことを遅まきながら思い出していた。
「・・・仮に港に降ろしたとして。どうやってトリグラフまで行くつもりだ」
「海路を使って。定期船が出ているのは知っています」
男は思わず声を荒げた。
「馬鹿かお前! 船上で襲われたら、逃げ場なんてないんだぞ!」
アルヴィンの脳裏にカラハ・シャールの一件が鮮やかに蘇る。
町中を逃げ惑う人々と怒号。蹂躙する物々しい武器の数々。領主とその養女を求め、間を詰める兵士の群れ。
あと一寸でも自分の到着が遅かったら、一体どうなっていたことか。想像するだけで背筋が凍る。
彼も場数を踏んだ男だ。いくつもの修羅場を潜り抜け、生死の境すれすれの場所を駆け抜けてきた。
だから分かることがある。あれは惨劇に直結する襲撃だった。回避できたのは、運が良かったとしか言いようがない。
そんな現場を見せられて、単身でなど放り出せるわけがなかった。
だが当の本人は困惑した面持ちで首を振る。
「アルヴィン。お願いですから」
少女の声音には、どこか嘆願の響きがあった。頼まれる謂われはないのに、と怪訝そうに眉を寄せたのが分かったのか、エリーゼは気まずそうに視線を逸らす。
「巻き込みたくないんです」
巻き込みたくない、と呟いたエリーゼは、出奔してきたカラハ・シャールの街を思い出していた。
灰色の煙で塗りつぶされた港町。それは夥しい煙だった。屋敷をはじめとする街のあちこちに、火が放たれたのだ。自分を捕らえられなかった腹いせに、彼らは美しい港町を火の海にした。
自分のせいだ。自分が大人しく婚姻を承諾しなかったから、だからこんな惨劇が起きてしまった。
もうこれ以上、自分のせいで誰かが犠牲になる場面を見るのは――。
「アルヴィンがわたしのせいで傷つくなんて、そんなの、耐えられない」
嗚咽で絶え絶えになる呼吸の中に搾り出した、それはまさに悲鳴だった。
男は胸がしめつけられた。
自分を逃がすために、囮となろうと言っているのだ。この少女は。
だが彼はあくまで運び屋という立場を崩さなかった。手綱を握っていたことが、幸いにして彼を冷静にさせたのだった。
「あんなことがあって尚、エレンピオスに行くと言って貰えるのはありがたいな。仕事がやりやすくなる」
アルヴィンは無感情に突っぱねる。
「俺の仕事は、お前をエレンピオスまで運ぶこと。それが今回、俺が請け負った仕事だ。前金を貰った以上、俺はお前を無事に送り届けなければならない義務がある。道中、仮に嫌だと言い張っても、首に縄をつけて引きずっていくつもりだ」
エリーゼは黙考した。その緑の瞳には、理性の光が戻りつつある。
「分かりました。依頼者との契約があるなら、仕方ないです。おそらく面倒をお掛けすることになると思いますが、宜しくお願いします」
折り目正しくぺこりと金髪を下げてきた少女に、男は深い溜息をついた。
「まったくだ。しかし・・・屋敷でのあれ、一体どういうことだ?」
胸の前からは、わかりません、と小さな返答があった。
「どうして、追われている?」
「分からないんです、本当に。もうティポもいないのに、どうして・・・」
大体、とエリーゼは洗いざらい運び屋に打ち明ける。
「迎えの人間が誰なのかさえ、知らなかったんですから。学校を中退してからは外出もできなくなってしまったし・・・。ただ出発する日と、エレンピオスに向かう、ということしか聞かされてないんです」
前金の多さはそれか、と男は納得せざるを得なくなる。厄介事の可能性があるなら、前もって話をしておいて貰いたいものだと、アルヴィンは遠い国の従兄弟に向けてぼやいた。
「・・・とにかく、変装しないとな。結婚の件は大々的に報道されちまってる。追っ手を撒くためにも、色々整える必要があるな」
男は手綱を引き、ワイバーンの首を右へ向けた。海岸線を飛べば、一番近い街へ辿り着くことができるだろう。
下降を始めることを察したエリーゼが、鞍にしっかりと掴まる。
「そうですね。カラハ・シャールでの事件が、どれくらい報道されているのか、把握しておく必要はあると思います」
二人を乗せたワイバーンは雲海を抜け、大海原へ躍り出た。
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