空色の瞳・後編
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    脱出

 

 実のところ、セレイアスにはあえて二人に言わないでいたことがあった。それは、自分がこのような旧型シャトルを操縦したことは、ほとんどないという事実だった。

 ただ、ざっと見渡したところ操縦システムは旧式でも、基本は自分が扱っていた最新の大気圏外航空機と、大差が無いように思えた。それよりも問題は、今回の飛行には外部のコントロールが、まったく当てにできないということだった。

 宇宙飛行において、外部からのコントロールがまったくないという状態は、ほとんど有り得ない。というか、そういう状態は文字通りの遭難状態で、何もしないで救助を待つというのが鉄則だった。

 完全な手動で宇宙船を飛ばすことなど、セレイアスでなくてもほとんどの宇宙パイロットにとって、訓練以外では経験するはずがなかった。ほとんど扱ったことの無い操縦システムで、これもほとんど未体験の手動操作を行なうというのは、さすがにセレイアスでも緊張した。

 ついでに言えば、飛行するに当たって基地から離脱する方法も、問題と言えば問題だった。本来、基地からの離脱、ドッキング・ポートからの切り離しには、煩雑な手続きが必要となる。煩雑な手続きというのは、基地も機体も止まっている訳ではないということから、必然的に必要となる計算や計測のことだった。

 軌道基地というものは、ほとんど止まっているように見えながら、実際には秒速何十キロメートルという速度で移動している。さらに、基地と機体はそれぞれの質量と、地球と月さらには太陽との、微妙な重力のバランスの上で、現在の状態を保っている。それらの条件を無視して飛び出すことは、実に危険きわまり無いことだった。

 今回、その危険なことを行なう以外に方法はない。史上初の大気圏外航空機の機長の一人でもあるセレイアスは、自分がやろうとしていることの危険性を、充分に理解していた。彼にとっては、これが緊急用脱出用のシャトルであることに、一縷の望みを賭けるしかなかった。

 緊急脱出を考えて設置されている以上、基地側の状態は無視してシャトルが一方的に離脱しても、構わないように設置されているはずだ。セレイアスは、そう予想していた。そして、彼の予想は正しかった。

 機長は小さな茶色い瞳で、慎重に燃料パイプや空調ダクトなど、基地側との連結部分が、すべてシャトル側で遮断されていることを確認した。

「行くぞッ!」

 自分の声に、二人の子供がわずかに息を飲むのを感じながら、セレイアスはレバーを操作した。

 主力エンジンは使わず補助の動力だけで、機長はゆっくりとシャトルを動かした。

 パイプやコードなど、基地と接続した様々なものを引きずったまま、シャトルは宇宙空間に滑り出した。やがて、それらの接続部分が伸び切り、操縦席のあちこちで警告の赤い光が点滅し、警告音が鳴り響いた。

 モニターに表示されるその場所が、すべて基地との連結部分であることを、ジェシカは確認した。確認する以外に、さすがに博士号を持つ少女にも、何もすることはできなかった。

セレイアスは、ジェシカの言葉に頷くと、警告を無視する形で主力エンジンを作動させた。大きな出力が、内部の人間、特に二人の子供の体を、たやすく座席にめり込ませた。

 機長が予想した通り、基地との連結部分はすべて自動的に、自分から離れて行った。シャトルの強引な離脱を予想した上での設計だった。

 完全に、機長がテントウムシと呼ぶところのシャトルが、ドッキング・ポートから離れると、警報は嘘のように止んだ。

 少年と少女は、それぞれお互いにわからないように、ホッと息を吐いた。少女はともかく黒髪の少年の方は、自分がなんでここまで少女に気を使わねばならないのか、戸惑っているのが正直なところだった。

すべての機能が正常であることに、機長が緊張を解いたのは一瞬だった。彼が主力エンジンの出力を下げる直前、激しい衝撃と光がシャトル全体を襲った。

 文字通り、木の葉のようにシャトルは乱暴に振り回された。回転する機体の中で、少年はあっさりと目を回し、少女も自分の体を支えるのが精一杯だった。

 ただ一人の大人であると同時に、ただ一人操縦することのできるセレイアスは、必死で操縦桿を操った。そのかいあって、しばらくすると機体の回転は収まり、姿勢が安定した。

「何が起こったの!?」

 誰よりも早く叫んだのは、栗色の髪を振り乱した少女だった。

 その甲高い声に、機長は落ち着いた声で答えた。

「わからん!」

 そう言いながら、セレイアスは忙しくその茶色の瞳を、操縦席のモニターやパネルに向けていた。

 口の中でブツブツ文句を言いながらも、ジェシカはその空色の瞳で、モニターやパネル表示を確認していた。

 そんな、前の座席の二人とは違って、後ろの座席に座るコータには気分を落ち着けること以外に、とりあえずすることはなかった。だから、最初にそれを見つけたのが彼だったのは、ある意味では当然だった。

「ちょ、ちょっとッ!あれ、見てッ!!」

 少年の緊迫した口調に、少女は迷惑そうに大人の男性は何事かと、顔を上げた。

 そして、少年が指差す視線の先に目をやって、お互いに思わず息を飲んだ。

 それは、操縦席側面の窓だった。その外には、今まで彼らが捕らわれていた軌道基地コンロンの、その巨大な中心軸の底が広がっていた。

 今の衝撃で、シャトルの向きが変わって、いつの間にか中心軸と平行の位置に来ていたらしい。しかし、問題はそんなことではなかった。

 彼らのシャトルが係留されていたドッキング・ポートは、その建設途中の中心軸の端にあった。そこはさらに長く伸びるため、様々な構造物が剥き出しのままになっている、かなり乱雑な外見をした場所のはずだった。

 それが今は、まるで最初からそうだったようにその末端の断面が、直線的できれいな平面になっていた。その後方の宇宙空間に、細かく砕かれた、まるで星屑のように散らばる破片が漂っていた。

 それらの破片が、ドッキング・ポート部分の変わり果てた姿だということを、コータが理解するまでに、それほど時間は必要なかった。

「なんてこった!中心軸末端を切り離して、爆破しやがった!!」

「アタシ達共ども爆破するつもりだったのか、それともアタシ達が離脱したから爆破したのか……微妙なタイミングね」

 一時の驚愕から、少女の瞳が元の落ち着いた色を取り戻すのに、時間は掛からなかった。

 その不吉な選択肢に、機長は無言で茶色い顎髭を撫でた。それから、おもむろにモニターの一つを調整して、その表示を読んだ。

「それで済めばいいが……今の爆発で、わずかだがコンロンが加速している」

 今度は、少女の方が無言で機長を見返す番だった。

 コータは二人のやり取りを、ただ呆然と見つめていた。

 どんなに巨大な建物だろうと、真空で無重力、正確には極低重量の宇宙空間では、どんな小さな力でも推進力に変わる。つまり今の爆発の場合、コンロンは中心軸の先頭部分に向かって、小さな力ではあっても、ゆっくりと進み始めていた。

 次の瞬間、機長の不安は現実のものとなった。

 コンロンの長く伸びた中心軸。コータ達の眼前に広がる、細長い円筒の末端部分からすこし前方に戻った付近で、支柱を輪切りにする直線的な光が走った。

「やっぱりだ!中心軸の端のブロック一つ分を、切り離しやがった!!」

 叫ぶようにそう言うと、機長は再び操縦桿を握りしめた。

 直後に、先ほどよりは小さな衝撃が、シャトル全体を揺らした。

「また来るぞ!体を支えとけッ!!」

 機長の口調は乱暴だったが、生意気な少女もそれに異議を唱えようとはしなかった。

 今度はより大きな閃光と、その直後に大きな衝撃が、コータ達を再び木の葉のように翻弄した。

 窓の外を見ていた少年の黒い瞳に、切り離された巨大な筒状の構造物が、光と共に粉々に吹き飛ぶのが映った。真空の宇宙空間で、音は伝わらない。そためかコータには、衝撃と光がより激しく襲ったように感じられた。

「間違いない!あのジョウガってヤロウは、コンロンを加速させるつもりだ!!」

 必死に、機体の安定を保とうとする機長の言葉に、自分の体を支えるだけの少女が、それでも鋭く問い返した。

「何のために?」

「さぁーねッ!とにかく、早いことコンロンに取り付かないと、最終的には置いてけぼりになるぞ!!」

 機長の言葉は正確で、そして深刻だった。

 このままコンロンが加速を続ければ、やがてシャトルでは追いつかなくなる。建物の後部を爆発させるというのは、実に原始的で乱暴な、多段式ロケットの原理だった。だが、原始的なだけに効果は確実だった。

「ジェシカ、どうすればみんなを助けられる?」

 セレイアスは、あるいは大人としては、許されないことをしているのかも知れない。

 彼は、幼い空色の瞳の少女に、自分達の行動の方向を決めさせようとしていた。それには、彼女のこれまでの状況判断が、実に的確だったという根拠があったが、大人の責任放棄と取られても仕方がなかった。

 ただ、茶色い瞳の機長は、多くの宇宙パイロットがそうであるように現実的で、合理的な精神の持ち主だった。自分よりも優れた判断力を持った人物がいるのなら、その意見に従うのが当然だった。こういう緊急の場合では、特にそうだった。

 例えそれが、年少の女の子であったしても……。

 機長の判断を、コータは頭では理解できたが、精神が反発していた。ただ、彼がそれを明らかにするためには、勇気か思い込みが足りなかった。

 しばらく考えた後に、少女は振り返って空色の瞳を機長に向けると、断固とした口調で言った。

「コンロンの、バック・アップ用サブ・コントロール・システムを乗っ取ります。確か、この手のサブ・コントロールは、メイン・コントロールからは独立しているはずですよね?」

「その通りだ。こういう事態に備えて、完全に独立した複数のコントロール・システムを設けることが、この手の施設には義務付られている。ふむ、君はサブ・システムは乗っ取られていないと思うんだね?」

 機長の答えは、ある意味では意地が悪かった。

 しかし、少女は平然と頷いた。

「思うというより、祈ります。それ以外に、マリコや他の人を助ける方法は、思い付けません」

 この時、コータは初めておやッと思った。

 黒髪の少年は、この生意気な栗色の髪の少女が、祈るなどという言葉を口にするとは思っていなかった。

「よし、それで、そのサブ・システムのコントロール・タワーっていうのは、どこにあるんだ?」

 機長は主力エンジンの出力を上げると、加速したコンロンの速度に合わせた。

 次の爆発が起こる前に、何とか内部に潜り込む。それがセレイアスの狙いだった。

「このシャトルのデーター・バンクに残っている、コンロンの設計図を見ると、中心軸の中間に設けられています。ただ……」

 ジェシカは、先ほどとは対象的に自信の無そうな口調で、言葉を濁した。

 小さな茶色の瞳に優しさを浮かべて、機長は少女を見返した。

「ただ、どうしたんだ?」

「このデーターは設計当初のものなので、現在はどうなっているのか……」

 セレイアスは、微笑を浮かべるとその手を伸ばして、軽くジェシカの肩を叩いた。

 少女は驚いたような表情で、その空色の視線を機長に向けた。

「この状況で百パーセントを望めるなんて、誰も思わないよ。君の判断は正しいし、手元のデーターではそれ以上のことはわからないんだ。それなら、後はそれを信じるしかないだろう?そう、君も言った通り、祈るだけさ。軌道基地がこんな暴走を始めたんじゃ、他からの助けを待ってはいられないからな……」

 それはその通りだと、コータも思った。

 いったい、あのジョウガと名乗る犯人の目的が何なのか、今の段階ではまるでわからない。ただ、このままコンロンが加速を続ければ、誰にも手出しができなくなることだけは、ハッキリとしていた。

 やるのなら、チャンスは今しかなかった。

 機長の言葉に勇気付られたのか、少女はサブ・コントロール中枢の正確な位置を求めて、再び操作盤に指を走らせた。

 その様子を見ながら、セレイアスは背後を振り返った。一人残された形の、黒髪の少年を見つめたのだ。

「それで、構わないかな?」

 もちろん、コータに反対する余地はなかった。

 それでも、年少の自分にも一応了解を求めるところに、この機長の誠実さと人扱いのうまさを、コータは感じないではいられなかった。

 少年は、黒い瞳をわずかに動かして、同意を示した。機長には、それで充分だった。

 その直後、再びコンロンの中心軸の最後尾が切り離された。

 影響を最小限にするために、セレイアスはシャトルを加速して、中心部よりやや前方に持って行った。

「あった!ここよッ!ちょうど、シャトルの真下!!」

 赤いリボンを大きく揺らしながら、少女が声を上げたのと同時に、三度目の衝撃がシャトルを襲った。

 今度は予想していたので、前の時ほど誰も慌てることなかった。それでも、大きく突き上げられてベルトが体に喰い込むと、コータなどは吐き気を押えることが難しかった。

 衝撃を何とか最小限に押えると、機長は青ざめた顔で隣りに座っていながら、表情だけは何とか変えずにいる少女に尋ねた。

「どこから、内部に入る?」

「外の入口は、すべてロックされていると思います。可能性があるとしたら……」

 そう言いながら、少女はあまり嬉しそうでない空色の瞳を、側面の窓から後方に向けた。

 機長は、幼いながらも頼もしい味方の言葉と態度に、自分の考えが裏付けられたことを知って、少々がっかりしていた。

「やはり、切り離される中心軸末端からしか、侵入は無理か……」

 その言葉に、コータはその黒い瞳を丸くした。

 切り離される中心軸の末端と言えば、つまり次の加速の時に爆発する、あの部分ではないか!?さすがに、少年は抗議の声を上げた。

「そんな、爆発しちゃいますよッ!!」

 それは、実に少年らしい、年齢にあった率直な意見だった。

 この時、さすがのコータ・ド・カレットも、ごく普通のありふれた少年になっていたようだ。

 そんな彼の態度に、むしろセレイアスはホッとしたものを感じていた。この茶色い瞳の機長にしてみれば、コータもジェシカもそれぞれ別の意味で、余りにも子供らしくなかった。

 栗色の髪の少女は相変わらずだったが、黒髪の少年からは、少しづつ殻が取れて行くようで、セレイアスとしては安心できるように思えた。彼は、子供は子供らしくあるべきだという、ある意味で保守的で古典的な考え方をする人間だった。ただ、宇宙パイロットという職業柄、合理的で柔軟な発想をする習慣も身に付いていた。

 子供のクセにやたら頭が良かったり、大人びた社交術を身に付けていたとしても、それだけで彼らを見下すような、偏狭な態度とは無縁だった。ただセレイアスには、ジェシカにしてもコータにしても、どこか無理をしているような気がして、仕方がなかった。

 空色の瞳と栗色の髪をした少女はともかく、黒い瞳と黒髪の少年について、それはかなり正しい見方のようだった。

「確かに危険だが、他に内部に入り込む方法はない。そして、内部に入り込む以外に、みんなを助け出す方法はない」

 柔らかい視線で、優しくコータの方を見つめながら、機長は穏やかにそう言った。

 その優し気な茶色の瞳に、少年は自分の利己的な発想が見抜かれたような気がして、思わずその黒い瞳を逸していた。逸しながらも、自分の本心を偽りながら、コータは皮肉な疑問を尋ねていた。

「内部に入り込めば、助ける方法があるのですか?」

 コータの良心が、胸の奥でキリキリと痛んだ。

 少年は、助ける方法が無いという口実で、自分達だけがこのまま助かるという選択肢を、暗に提示していた。しかし、さすがにそれを自覚することは、少年の良識が許さなかった。彼は無意識の領域で、疑問という形を選んでいた。

 そんな少年の心の奥の苦闘を、セレイアスは容易に見抜いていた。彼にしてみれば、この少年の精神構造は少女のそれに比べれて、はるかに分かりやすかった。

「方法はある。なにしろ、あそこにはキャメル・ナンバー3があるんだ。あれなら、この旧式の小型シャトルと違って全員が脱出できるし、第一性能も航続距離も速度もまるで違う。逃げるなら、あれに限る!」

 機長の最後の言葉には、これまでになく力強いものが感じられた。

 それだけ、実は彼がこのシャトルの性能と扱いに自信が無いことを、証明しているようなものだった。少年の精神構造が分かりやすいと、セレイアスは見抜いたつもりになっていた。その彼自身の精神構造も、どうやら同年輩の大人に比べると、かなり分かりやすいタイプのようだった。

 それに気が付いたのか違うのか、ジェシカは年の離れた二人の男性の会話に、小さくため息を吐いていた。ただ、彼女にしてみると、これはやらなければならない、当然のことだった。

「ジョウガと名乗るヤツが、何を考えているのかわからんが、乗員と乗客を乗せたまま軌道基地が加速している以上、一刻の猶予もない。わかってくれるか?」

 機長の言葉は、どこまでも暖かく優しかった。

 その言葉に、少女の冷たい言葉が続いた。

「それに、私達がこのまま脱出して、助かるかどうかわからないわ。残念だけどこのシャトルじゃ、外部からのコントロール無しに地上に降りるなんて芸当、できそうにないもの」

 ジェシカの言葉は、正直なところセレイアスには辛いものがあった。

 しかし、客観的に考えて、この少女の言葉を宇宙パイロットは、認めるしかなかった。もっとも、さすがに言葉にすることはなかった。

 そんな機長の表情を、少年もその黒い瞳で見抜いていた。表情から考えを読み取るのは、何も大人や頭のいい少女だけの能力ではなかった。大人達の間で、その表情を読みながら過ごして来たコータの方が、特に大人の表情を読む能力には、確かなものがあったかも知れない。

「わかりました。どっちを向いても危険なら、なるべく大勢が助かる可能性に賭た方が懸命ですね」

 そう言ったコータの表情には、あの機長を安心させた、子供らしいものは感じられなかった。

 やれやれと思いながらも、セレイアスは頭を切り替えていた。

「次の切り離しが行なわれたら、その根元に潜り込む。多少危険だが、爆発の余波に紛れて内部に突入するしか方法はない」

 それは、多少の危険などというものではなかった。

 切り離しから爆発まで、若干の時間差があることを利用したものだったが、下手をすればシャトルは基地の構造物に衝突して粉々になる。コータにもその危険は理解できたが、内部に突入するという危険全体から見れば、確かに大した危険には感じられなかった。

「時間との競争ね。うまく内部に入り込めても、早く次のブロックに移動しなければ、そこもまたいつ切り離されるかわからないわ」

 少女の言葉が、さらに危険の上乗せをした。

 コータは、この方法が内部に入り込んだ時点で、せっかく手に入れたシャトルを放棄することになることを、この時初めて知った。恐らく、少女は暗にそのことの自覚を、少年に求めたのだろう。

 嫌味な女の子だ。自分のことを棚に上げて、少年は少女に対して心の中で舌を出していた。

 機長は、二人に宇宙服を着せることにした。これから行くところに、必ず空気があるという保証がないためだった。

「さすがに、救命艇だけあって移動用のショルダー・ジェットと、簡易宇宙服があって助かった」

 気軽な口調でセレイアスは言ったが、もし宇宙服がなければこの方法を諦めるしかないことは、子供にも良く分かった。

 ジェシカとコータは、大人しく機長の指示に従って宇宙服を着込んだが、ここで困ったことが起こった。二人の子供にとって、宇宙服がどれも大きすぎたのだ。

 救命艇という性格上、シャトルにフリー・サイズと呼ばれるタイプの宇宙服しか用意されていないことは、当然と言えば当然だった。ただ、フリーとは言っても、それはあくまでも大人を対象としたもので、十五歳以下の少年少女の体格には、やや無理があった。

 それでも、コータはどうにかなった。やはり、難しいのはジェシカだったが、彼女は自分の力でほとんど無理矢理のように、体を宇宙服の中に入れてしまった。その結果、彼女の体はかろうじて顔がヘルメットから覗くだけで、手も足も本来それがある部分には入っていなかった。

 ただ、重さのほとんどない、いわゆる無重力の状態でなら、その奇妙な格好でもそれほど不自由はなかった。背中に載せたショルダー・ジェットの操作さえできれば、動き回ることは難しくなかった。

 そういう事態も想定してあったのか、ショルダー・ジェットは服の内部からでも、操作できるようになっていた。後は、少女の体格に合わせて、手足の余分な部分をできるだけ折り畳めば、それで何とか格好が付いた。

 三人の準備ができるのを待っていたのかのように、次の切り離しが行なわれた。セレイアスは慌てず慎重に、切り離された軌道基地の中心軸の根元に、シャトルを潜り込ませた。爆発までの短い時間に、内部へ入り込む入口に、シャトルを移動しなくてはならなかった。

 モニターに基地の断面の構造図を表示させたジェシカは、その空色の瞳で眼前の窓に広がる、基地の中心軸の断面とを必死で見比べた。彼女は、何とか内部への入口を見つけようとしていた。

「ジェシカ、急いでくれ!」

 さすがに、セレイアスの言葉にも焦りが感じられた。

 もちろん、ジェシカにも時間が無いことはわかっていた。後方で切り離された部分が爆発すれば、その衝撃で間違いなくシャトルは基地の壁に激突する。そうなれば、中の自分達が無事で済む訳がなかった。

 ジェシカの空色の瞳が、窓の外のある一点で止まった。

「あそこよ!通路が剥き出しになっている!あそこなら、中へ入れるわ!!」

 そこは、ちょうどシャトルの先端ほどの大きさがある、四角い穴だった。

 恐らく、誰も人間がいないので、隔壁をすべて厳重に閉める必要がなかったのだろう。運がいいと言えば、これほど運がいいこともなかった。

 セレイアスは即座に、シャトルの正面をその入口に押し付けた。

 その直後、後方へ切り離されたブロックが爆発した。衝撃はちょうどシャトルをその背後から、入口へ押し込むような形になった。

 鈍い音と共に正面の窓が割れ、内部の空気が激しく外へと流れ出した。もし、キチンと座席のベルトをしていなければ、三人は間違いなく外へ吸い出されていただろう。その結果、シャトルの窓枠か基地の壁か、どこかに激しく打ち付けられただろうということは、考えるまでもなかった。

「まずった!先に、ここの空気を抜いておくべきだった!」

 機長の言葉は、マイクを通じてヘルメットの中のスピーカーから、二人の子供達に伝えられた。

 宇宙服の中に、手足が入り込んでいるジェシカは、自分でベルトを外すことは難しかった。二人の手を借りてベルトを外してもらっていながら、少女は生意気にも二人を急かしていた。

「そんなことはどうでもいいから、早く中へ入るのよ!いつ、ここが切り離されるか、わかったもんじゃないわ!」

「まったくだ!」

 ボールのように丸まった宇宙服の中で、自分では何もできないジェシカの生意気な言葉に腹を立てるどころか、機長は大きく頷いていた。

 ジェシカの体を自由にすると、セレイアスはコータを手伝って先に外へ押し出した。その後から、丸まった宇宙服のジェシカを壊れた窓から外のコータに渡し、続いて自分もシャトルの外へと飛び出した。

 当然のことだが、基地内部へと続く通路に、空気はなかった。

「急ぎましょう!」

 先頭に立って、ジェシカはショルダー・ジェットのスイッチを入れた。

 手足が使えなくても動けるとなると、もはや少女の行動を止めることは、誰にもできなかった。セレイアスは、コータにその後を追わせると、自分は二人の後ろから付いて行った。

 本来なら大人である機長が、先頭に立つことが正しいのかのかも知れない。例えそうだとしても、ここまで見て来たジェシカの性格上、彼女が先頭に立つことを止めることは、まったく不可能にしか思えない。

 ならば、自分は後ろから二人を見守るべきだろう。とっさに、機長はそう判断していた。

 そこが、基地内を移動するためのチューブ・カプセルの通路だということは、しばらく進むと容易にわかった。不思議なことに、その通路はどこも閉鎖されていなかった。もっとも、空気の圧力で移動する乗り物である以上、空気が抜けてしまえば無用のものだということで、見捨てられたのかも知れない。

 それはまた、基地内にほとんど人間がいないことの証明でもあった。果して、他の乗員乗客が生きているのか?生きているなら、どこに捕らえられているのか?それを知ることが、何よりも急がれることだった。

 三人はなるべく速度を上げて、そのやや曲がりくねった通路を飛んだ。それからかなりの時間がかかったように、コータには思えた。

 突然のように、前方を飛んでいた少女がゆっくりと止まった。

「あそこが、サブ・コントロール・タワーの入口だわ!」

 シャトルにあったデーターを移し換えた、小型の探知装置をヘルメットの中で見つめながら、ジェシカは小さく叫んだ。

 少女を象徴する、栗色の髪と大きなリボンは見えなかったが、二人の男性を振り返った空色の瞳は、今までになく輝いているように見えた。

 そこは、チューブ通路に開いた扉だった。普段は、ここでカプセルを降りて、通路を自力で進むに違いない。

 その扉を前に、こんどこそ機長は少女を自分の後ろに下がらせた。

 それには、素直にジェシカも従った。セレイアスは慎重に、扉を調べた。本来はカプセルの到着で、自動的に開閉するのだろう。どこにも、操作するような装置は見あたらなかった。

 しばらく、そこかしこに触れていた機長は、ふと思い当たって、思い切って両手でその扉を押し広げてみた。すると、思ったよりもアッサリと、扉は左右に開いた。

 コータは慌てて機長の傍に寄ると、自分も扉を押し広げた。それが当然のように、ジェシカは手伝おうとはしなかったが、この場合は彼女を非難することは的外れだろう。手伝おうにも、両手足が外に出ていない状態で、彼女には無理な注文だった。

 二人の男性の力で、扉は左右に広がった。

「早く!ジェシカ、先に中へ!!」

 扉を押えながら、セレイアスがやや焦りながら言った。

 扉は容易に開いたが、手を離すとまた元に戻ろうとしていた。中に入るためには、二人の男性がそれぞれ支えていなければならなかった。

言われると、ジェシカは素直に、スルリと中に入り込んだ。機長は、その後にコータが続くように促した。コータは扉を押えたまま、体を反転させて中へ入り込んだ。同じ要領で、すぐに機長も続いた。

 二人の男性は、それぞれが扉の内側に入ると、お互いに顔を見合わせて両手を離した。扉は簡単に、音もなく閉まった。もっとも、空気が無いのだから、音が響くはずはなかった。

 三人は再び、ジェシカを先頭に通路を進んだ。ショルダー・ジェットのおかげで、移動はかなり楽だった。これも不思議なことだったが、あれほど心配していた、次のブロックの切り離しと爆発は、ここに至るまでもその気配がなかった。

 ついに、サブ・コントロール・タワーの入口に、三人は到達した。

 今度の扉は、先ほどのようには行かなかった。いくらコータと機長が押しても引いても、ビクともするものではなかった。

「参ったな……」

 ヘルメットの中で、セレイアスの呟きが聞こえた。

 調べてみると、扉の横に操作盤があった。シャトルのコンテナの内部で、偶然コータが見つけたのと同じようなものだった。

「経費の節減かな?ずいぶん、古い型を使っている……」

「メイン・コントロールから完全に独立するためには、形式も異なる方が無難でしょう。それに、よほどのことがなければ使わないものだから、型が古くても誰も困らないんでしょうね」

 相変わらず、空色の瞳の少女の言葉には、味も素っ気もなかった。

 彼女は当然のように機長の前に割り込んだが、自分の指がほとんど使えないことを知って、少し困惑したようだ。

「どうすればいいのかな?」

 機長の茶色い小さな瞳が、少しイタズラっぽい光を放ちながら、少女の方を振り向いた。

 その機長の態度が何を意味するのか、さすがにジェシカにもわかったのだろう、少し憮然として彼女は言った。

「さっきの、コータ君の魔法の呪文を唱えてみて下さい」

「でも、それはもう使えないんじゃ?」

 セレイアスは驚いたように言ったが、少女は冷静だった。

コータも唖然と見つめる中、少女は平然と言った。

「このシステムは、通常完全に外部と遮断されています。しかも、現在ではメイン・コントロールもすべて乗っ取られています。変更の命令は、たぶんどこからも入力されていないはずです……」

 落ち着いたジェシカの態度に、軽く肩をすくめるとセレイアスは言われた通りにした。

 そして、驚いたことに今度もまた、この工学博士の称号を持つ少女の判断は正しかった。小さなモニター画面に光が走ると、簡単な入力待ちのメッセージが表示された。

 後はひたすら、機長が少女の指示に従って、操作パネルのキーを押すだけだった。シャトルのコンテから脱出するときに比べれば、はるかに早い時間で扉は動き始めた。

「驚いたなこりゃ……ほんとに開いたよ!」

 セレイアスは、素直に驚いていた。

 コータにとっては、実に意外なことだったが、自分の非常用コードはまだ生きていた。三人の前で、扉はゆっくりと開いて行った。

 さすがに、まったく使用されていないだけあって、内部はほとんど真っ暗だった。どのくらいの大きさの部屋なのか、それすらもハッキリしなかった。

 機長は、二人の子供を制すると、慎重に内部に入った。

 すると、彼が入ったことを関知したのか、床や壁の一部が光った。その光に、一瞬セレイアスは動きを止めたが、それがただの照明の一種と分かってさらに足を進めた。

「機長さんッ!」

 ジェシカの鋭い声が、二人の男性のヘルメットに響いた。

 その声に促されて、セレイアスは上を見上げた。ちょうど、新たに照らし出した光の中に浮かび上がるように、中空に浮かぶ影があった。

 それが、かなり大きな人の形をしていることに、コータが気が付くまで少しの間が必要だった。

「作業用のモーター・ギアじゃない?なんで、こんなところに……」

 空色の瞳を凝らすように、少女は不自由な体を少し前に進めた。

 操作する人間の手足の力を、何十倍にも増幅して同じように動かすことのできる、人の形をした作業機械。使い方によって、そのパワーは凶悪な破壊力となった。

 瞬間的にセレイアスは、その危険を予期した。それは、彼の軍隊経験から得た直感だったのだろう。

「散れッ!逃げろーッ!!」

 機長の声がヘルメットの中に響くと同時に、部屋の扉が閉まり始めた。

 まだ、扉の外にいたコータは、とっさに空中に丸まったまま浮かんでいる形の、ジェシカの体を抱えた。突然のことに、生意気な少女が何か抗議したようだったが、少年は聞いていなかった。

 コータはジェシカを抱えたまま、強引に閉まりかけた扉の中に飛び込んでいた。扉の外へ逃げることは、彼の頭には浮かばなかった。

 この部屋を使うことが、自分達が助かる数少ないチャンスだという判断に、間違いはなかった。しかし、少年が部屋の内部へ飛び込んだのは、唯一の大人であるセレイアスと、離れることが恐いというところが本音だった。

 扉が閉まるのと、子供達がいた位置をレーザーの光が切り裂くのとが、ほとんど一緒だった。コータは、ジェシカを丸まった宇宙服の中に抱え込んだまま、さらに思いっきり床を蹴って飛び上がっていた。

 それは、偶然にも大きな人型の作業機械モーター・ギアの前に、舞い上がる格好になっていた。

「マリコ!?」

「マリコさんッ!?」

 黒い瞳の少年と、その少年に抱えられたままの空色の瞳の少女は、同時に同じ名前を叫んでいた。

 二人の目の前には、巨大な機械の腹の部分に入り込んで、機械の手足を動かしている女性の姿があった。胸から下は甲板で覆われて見えなかったが、機械を操る両手足と首から上は、操作しやすくするために、外に剥き出しになっていた。

 それがヘルメットと体にピッタリしたスーツで、完全に覆われていたとしても、その姿を少年と少女が見誤るはずはない。彼らが同時に、その人物の名前を呼んだ次の瞬間、二人が浮かぶ空間は、凶悪な速度の機械の手によって横に払われた。

 コータがとっさに、ショルダー・ジェットを使わなければ、二人は確実にその腕に叩きつけられ、壁に激しく激突していただろう。もしかしたら、機械の腕と壁に挟まれて、潰されていたかも知れない。

「なってこった!」

 完全に閉じ込められたことを確かめると、思わずセレイアスは呟いていた。

 そして、その呟きはヘルメットのスピーカーを通して、二人の子供達にも伝わっていた。もっともコータはともかく、ジェシカがその呟きを聞いていたかどうかは、わからなかった。

「マリコ……どうして、何をしてるの?」

 悲痛と言っていい、少女の微かな呟きを、少年は確かに聞いたような気がした。

 ただ彼としては、人型機械の次の攻撃を避けるためには、どうしたらいいか?そのことで頭が一杯で、少女の呟きに気を使っている余裕はなかった。そんなコータに、ジェシカの次の行動を予測しろというのは、かなり無理な注文だっただろう。

 突然、少女は少年の腕の中にあるにも関わらず、ショルダー・ジェットのスイッチを入れた。コータはとっさに両手を離して、体をひねったから何とか無事でいられた。そうでなければ、彼はまともにジェットの噴射を受けていたはずだ。そうなれば、彼の体は本人の意志とは無関係に、どこかの方向へ飛ばされていただろう。

 そんな、自分をかばってくれた者の苦労などにお構いなく、少女は凶暴な作業用機械の正面に飛び出していた。

「マリコ、どうしたの!?いったい、何をやっているのよぉーッ!!」

 少女の悲痛な問いかけに対して、巨大な機械の中の女性は、返事の代わりに鋼鉄製の腕を引き寄せることで答えた。

 精密作業もこなせる、合金製の長い三本の指がほぼ同時に左右から、丸い球のような宇宙服姿のジェシカを、ちょうど風船のように捉えた。

「我が名はジョウガ。我が計画を邪魔するものは、誰であろうと排除する……」

 それは、まるで機械のように抑揚の無い、無機質なマリコの声だった。

 

 

    対決

 

 体をひねった反動で壁際まで下がったコータは、無機質で抑揚の無いマリコの声に、背筋を冷たいものが走った。

 やはり、マリコはアンドロイだったのか!?すべては、彼女を作ったと言われる、ジェシカの父親の仕業だったのか……そう思って、コータは首を振った。

 それならばなぜ、父親は娘を危険な目に遭わせるのか?自分が作ったアンドロイドに今日まで守らせていながら、その手で傷付けようとするのか?有り得ない!コータは、そう結論した。ジェシカが以前に言った通り、これは余りにも矛盾が有り過ぎる。

 コータは壁を蹴ると、大型の人型機械に向かった。その凶悪な両腕は、小さく丸まったジェシカを挟んでいた。今なら、その懐に潜り込むことも可能のように思えたのだ。

「コータ!ちょっと待て……」

 セレイアスの制止する声が、ヘルメットのスピーカーから聞こえて来たが、既に反動で飛び出している少年の動きは、止まらなかった

 鋼鉄の腕をかいくぐり、黒髪の少年は機械の腹部に全身を収めている、若い女性の正面に立った。

「マリコさん!目を覚まして下さい!あなたは、自分の手でジェシカちゃんを殺す気ですか!?」

 機械に埋もれた形の、女性のヘルメットが微かに動いた。

「ジェシカを……殺す……私が……我が名はジョウガ、我が計画の邪魔をするものは……ジェシカを……排除する……」

「マリコさん!アナタには、ジェシカちゃんを守る義務があるでしょう!?」

 コータの叫びは、明らかにマリコの混乱を誘った。

 機械の中の女性は、ゆっくりとそのヘルメットを振ると、機械の腕の片方をジェシカの宇宙服から外した。

「マリコさん……!」

 それを、マリコの精神の回復と受け取って、コータは喜んだ。

 しかし、それはまったく逆の行為を意味していた。

「コータ!危ないッ!!」

 ジェット噴射の力で、ほとんど体当りのようにして、セレイアス機長が機械に埋もれた女性の前から、コータを弾き飛ばした。

 コータはその衝撃で再び壁に激突したが、それはまだマシな方だった。少年を襲うはずだった鋼鉄製の腕は、驚くべき速さで反転すると、後から飛び出して来た大人の体を、背後から打ち付けた。

「うぐぅッ!」

 苦し気な声を上げて、機長の体は床に向かって叩き付けられた。

 その大人の男性に向かって、再び鋼鉄の腕が振り上げられた。

「コ、コータ君!マリコを、彼女が人間なら、彼女を止めれば、モーター・ギアは止まる……」

 苦しそうな息の間から、ヘルメットのスピーカーを通じて、コータの耳に機長の言葉が伝わった。

 この時、黒い瞳の少年は自分の軽率な行為が、機長の予定を狂わせたことを直感的に知った。恐らく、セレイアスは自分がマリコに直接手を出すために、そのタイミングを計っていたのだろう。その直前に、自分がマリコの前に飛び出してしまった。

 とっさにコータは、ジェットを思い切り噴射して、機長を助けることしか頭に浮かばなかった。間一髪のタイミングで、自分と機長の体を床を滑らせるようにして、少年は振り下ろされる鋼鉄の腕から逃れることに成功した。

 この黒い瞳の少年としては、人生最大の大胆な行為と言っていい行動は、思わぬ効果を生んだ。激しく床に振り下ろされた鋼鉄の腕は、その長い三本の指先を揃えて、床に突き刺してしまっていた。

 長い指は勢いが余ったのか、深々と床に喰い込み、容易には外れそうになかった。

「今だ、コータ!」

「はいッ!」

 機長の言葉に、再びショルダー・ジェットを噴射した少年は、もう一度、機械の腹部に収まった女性に近付いた。

 慎重に、相手からは自分が見えない、その頭の部分から少年は接近すると、思い切ってそのヘルメットに手をかけた。

「おうッ!?」

 妙な声が、ヘルメットのスピーカーを通じて、コータの耳に届いた。

 片手が少女の丸まった宇宙服を握り、片手が床に喰い込んだまま、若い女性は少年のか弱い力に、自分が対抗できないことにもがいていた。

「機長さんッ!」

 コータの声に、セレイアスは体の痛みを堪えて、若い女性の正面に回った。

 最初から、少年の力で若い女性を止めることができるとは、セレイアスも期待してはいなかった。可能性があるとすれば、二人が力を合わせて、若い女性をこの凶悪な作業用機械から、引きずり出すことだった。

 コータがマリコの頭を押えている間に、セレイアスは外から作業機械内部の人間を下ろすための、スイッチを捜した。自分も機械も動きが取れないことで、マリコは焦っていたようだ。

 床に喰い込んだ腕が激しく振動し、なんとか自由を得ようともがいた。セレイアスもコータも、必死だった。内部の人間を保護するために腹部を覆う甲板を、外から開けるスイッチがどこかにあるはずだった。

「これだ!」

 スイッチを覆った安全用のカバーを、機長が打ち破った時、ついに少年の力が若い女性に負けた。

 マリコの首が、少年の手からスルリと抜けた。

「しまった!」

「うぎゃァァァッ!」

 コータの後悔の声と、ジェシカの悲鳴というよりは、叫び声が同時だった。

 マリコは、自由になる少女の入った宇宙服を握っている腕を、大きく振り回していた。その腕は握っているモノごと、目の前で自分を外に出そうとする人間に打ち下ろされた。

 ほとんど何の配慮もされなかったのだろう、合金製の長い指が握っている丸まったままの宇宙服を、中身共々引き千切った。

「うわぁッ!」

 もう少しのところで、機長は飛び離れるしかなかった。

 その機長に向かって、何かかが激しくぶつかって来た。

「そんな、ジェシカ……!」

 壊れたヘルメットから投げ出された、栗色の髪と赤いリボンを見て、コータは息を飲んだ。

 少女の体は、宇宙服のヘルメットから飛び出し、そのままの勢いで機長の胸元に叩き付けられた。セレイアスは、自分が壁と少女の体に挟まれることも構わず、必死でその体を支えた。

「うぐぅッ!」

 低い機長の呻き声が、コータのヘルメットに響いた。

ちょうど機長の体をクッションにした形で、少女の体は壁との激突を避けることはできた。

「ジェシカ!ジェシカ!ジェシカァーッ!!」

 繰り返し、繰り返し、コータはその名を呼んだ。

 いったいどうやって、強力で凶悪な人型の作業機械を蹴って、壁際の少女と機長の元に駆け付けたのか、まったく覚えていなかった。

 もどかしいほどの長い時間が流れ、その間に少年の目の前で、少女の頭ががっくりと仰け反った。そこから大きな赤いリボンが、まるで力尽きた木の葉が枝から離れるように、フンワリと空中に漂い出た。

 少年の黒い瞳には、解けてゆっくりとその場に広がる栗色の髪が、まるでスロー・モーションのように映った。

 恐る恐る近寄るコータに、壁と少女の体に挟まれた衝撃から立ち直ったセレイアスは、ゆっくりと首を振って見せた。機長のヘルメット内に表示されている数値は、周囲の空気が圧力も濃度も、生存を許さないほど薄いことを示していた。

 あの生意気な、およそ子供とは思えないほど強気な空色の瞳が、二度と開かれることはない。その事実を素直に受け入れるには、まだコータの人生経験は豊富ではなかった。

「なんで、なんでだよーッ!なんで、なんでジェシカが……!」

 ヘルメットの中が、コータの流す涙で曇り、視界が歪んで見えた。

 セレイアスは、言葉もなくその場に佇んでいた。

 コータは、それほどこの少女が好きだった訳ではなかった。可愛気がなくて生意気で、自分を見下していたことは確実だった。それでも、彼はその命が突然に奪われたことに、激しい怒りを感じていた。

 それが、自分との関係も含めた少女の未来を、理不尽に奪ったことに対する怒りだということに、まだこの黒髪の少年は気付いていない。ただ、その理不尽な行為を行なったのが、本来この少女を守るべき保護者だということに、彼の怒りは集約して行った。

「なぜなんだよーォッ!なぜ、なんで、どーして、マリコさんが、ジェシカに、ジェシカに、こんな酷いことをするんだよーッ!!」

 振り返った少年の黒い瞳に、ようやく床から合金製の長い指を抜き取ったモーター・ギアが、ゆっくりとこちらに向かって来るのが映った。

 その腹部に収まって、巨大な機械を操作する女性には、コータの怒りが届いている様子はまるでなかった。その姿を見て、再び少年の全身が怒りでブルブルと震えた。

 彼の人生で、これほどの怒りを感じたことも、その怒りを全身で表わしたことも、まったくなかった。自分自身で、持て余すような感情の高ぶりに、少年は完全に我を忘れていた。

「コータ……避けろッ!レーザーだッ!」

 苦しい息の下から、なんとか絞り出すようにセレイアスはそう告げた。

 怒りで我を忘れていたコータは、その声でようやく自分を取り戻した。

 振り向いた黒髪の少年に、少女の体を抱えたままの機長は、速く逃げろと身ぶりで示した。その瞬間、自分や少女を何度もかばった結果、機長は自分の体をうまく動かすことができないのだと、コータは知った。

 少女を抱いたままの機長を、黒髪の少年は両手で支えると、ジェット噴射でその場を逃れた。もう、彼の両目から涙は流れていなかった。

 その直後、彼らのいた場所をレーザーの細い光が焼いた。どうやら、切断と溶接を兼ねるレーザーのようだったが、それは大きな人型機械の頭部から照射されていた。

「このままでは、いずれ捕まる。コータ、君だけでも逃げるんだ!」

 機長の言葉に、コータは断固として首を振った。

 少年の黒い瞳は、機長の腕の中で眠るように横たわる、少女の横顔を見つめていた。

「みなさんを残して、僕だけ逃げるんなんて絶対にイヤです!そんなことをしたら、そんなことをしたら……ジェシカに、何言われるかわかりません!僕は、僕はもう、これ以上、この娘にバカにされたくありません!!」

 少年の少し滑稽で、それだけに真剣な言葉に、責任ある大人は思わず苦笑するしかなかった。

 この短時間で、この内気で消極的な少年は、どうやら少し別の性格に変わっていったらしい。いや、もしかしたら、これが彼本来の性格なのかも知れない。

 セレイアスは、心の中で微笑んでいた。何としてでも、この子供だけは助けなくてはならないという、新たな使命感が彼を突き動かした。

「ようしッ!やはり、マリコを止めないとどうにもならない!コータ、もう一度やるぞ、いいか!?」

 機長の力強い言葉に、コータも大きく頷いた。

 セレイアスは、ゆっくりと間合いを計った。

「いいか、あの手のモーター・ギアのレーザーは、バッテリーを浪費する上に、充電に時間が掛かる。一度照射すれば、すぐに次は使えない。それに、体全体の動きも速くない。気を付けるのは、あの両手だけだ!あれには、絶対に捉まるなよッ!」

「はいッ!」

 軍隊経験を持つ機長の言葉に、少年は頼もしさを感じた。

 二人は冷静に、両手足をゆっくりと動かす、巨大な人型機械を見つめていた。

 やがてその動きが止まると、頭部が彼らの方を向いた。レーザー照射の、タイミングだった。

 二人は同時に左右に分かれ、しかも正面のモーター・ギアに向かって飛んだ。巻き込まれないように、機長は抱いていた少女の体を、そっと空中に放り投げた。

 レーザーは、再び直前まで彼らがいた場所を焼いた。しかし、今度は相手も彼らの動きを計算していた。

 左右に飛んだ二人に向かって、正確に鋼鉄製の腕が振り下ろされた。ただ、今度はコータにしてもその動きを予測していた。

 少年は、ジェットの力で体を垂直に飛ばした。同じ時、機長は反対に下へと方向を変えていた。

 鋼鉄製の両腕は、若い女性の前で空しく交錯した。その隙間を縫うように、上からコータが下からセレイアスが、同時にマリコに飛びかかった。

「あなたの、あなたのせいでーッ!」

 そう叫んだ少年は、今度は遠慮無しで、直接その喉元に両手を食い込ませた。

 女性のヘルメットが、思わず上を向いた。

「ぐふぇッ!げぇぇッ!!」

 女性の低い呻くような悲鳴が、ヘルメットのスピーカーから、コータにも聞こえた。

 しかし、今度は彼の手から力が抜けることはなかった。

 その間に、機長は先ほど見つけた、外から甲板を開けるスイッチを操作した。突然、弾けるように甲板が外れた。

「うわッ!」

「なんだ、これは!?」

 少年と大人の男性は、期せずして驚きの声を上げた。

 マリコの体は、胸から腹部にかけてが甲板に隠れていた。その若い女性の胸から腰にかけて、気味の悪いゴムのようなものが、輪のように巻き付いていた。

「危ないッ!」

 甲高い声が、コータのヘルメットに響いた。

 少年が振り返ると、その黒い瞳に自分めがけて突進して来る、合金製の細長い指が見えた。コータは思わず目を閉じた。とっさに逃げ出すには、余りにも距離が短かった。

 自分を貫くか、挟み込むだろう金属の恐怖に、しばらく怯えていた少年は、いつまでたっても次の衝撃がないことに気が付いた。

 ゆっくりと開いた少年の黒い瞳の前には、一面に栗色の薄い幕が広がっていた。

「なかなか、やるわね。見直したわよ!」

 留めてあったリボンが取れてしまったためか、栗色の髪が空中をベールのように覆うジェシカは、振り返ると明るい笑顔でそう言った。

 言われた少年は黒い瞳を見開いて、まるで夢でも見ているように、ただ唖然とその光景を見つめていた。

 呼吸できるほどの空気もなく、気圧もほとんどないに等しい場所で、少女は当り前のように、素顔と素肌のままで立っていた。しかも彼女の片手は、少年を襲った合金製の長い三本の指を、それも束ねた状態で支えていた。

「いったい、これは……」

 まず、自分が外した甲板の下から現れた、若い女性の体を包む奇怪なものに驚いたセレイアスは、今度は突然現れた少女の姿に仰天していた。

 そんな、ほとんど茫然自失となった機長にも、合金製の指がかなりの速度で襲い掛かっていた。

 自然な動作で、スッと体を滑らせた少女は、ちょうど自分の背後に二人をかばうようにして、凶悪な合金製の指の前に立った。一瞬にして、運動エネルギーのすべてを失ってしまったかのように、合金製の長い指は、その先端を揃えた状態で止まっていた。

 少女の小さな手がその危険な先端を、何でもないことのように握っていた。コータはもちろんセレイアスにも、目の前の出来事が理解できなかった。

 少年と大人の男性の目の前で、年端の行かない女の子が、作業用モーター・ギアの強力な腕を、その細腕で二本とも押えていた。呆然と見守る二人に、その少女が振り返った。

「何をボヤボヤしてるの?早く、マリコをそこから引きずり出して!」

 そう言うジェシカの口調は、相変わらず生意気で可愛気がなかった。

 だが、その口調にコータとセレイアスは我に返った。二人は、ともかく凶暴な機械の腕は少女に任せ、自分達は奇妙なゴムのようなものに包まれたマリコを、外に出すことにした。

 なんとしても二人の力では、マリコを包んだゴムのようなものは、その体から離れなかった。結局、ジェシカが言った通り、かなり乱暴だったが、力づくで人型機械の操作部分から、若い女性を引きずり出すしかなかった。

 しかし、マリコは大人しく引きずり出されるのを、待っていてくれなかった。彼女は最後の力を振り絞ると、少年と男性から逃れるべくその両手足を動かし、巨大な機械を操ろうとした。

 足の動きは遅かったが、自分を引き剥そうとする二人を、大きく振り回した。さらに、鋼鉄製の両腕があらん限りの力で、自分を押えている少女をクシ刺しにしようとしていた。

 少女の顔に、さすがに苦悶の表情が浮かんだ。その細腕は、機械の力を受けて細かく震えていた。

「くぅぅーッ!」

 小さく呻くようなジェシカの声が、コータとセレイアスのヘルメットに響いた。

 二人が振り返ると、口を大きく開けた少女が上を向いたまま、両腕で必死に機械の腕を押し返していた。思わず、その容姿と年齢に不似合いな力と、苦しそうな表情に少年と機長は目を見張った。

 二人が呆然と見守る中、少女の状態に変化が起こった。まず、その栗色に広がる髪の毛が光り始めたかと思うと、その色素が抜けるように純白に輝き始めた。

 苦悶を浮かべていた少女の顔は、徐々に正面を向き直り、やがてゆっくりとその両目が開かれた。少女の透き通るような空色の瞳が、これも光り輝くと、やがて真っ赤な色へと変わった。

 純白の髪は、まるで少女の力が増幅するのを表わすかのように、逆立っていった。そして、赤い瞳が燃えるように輝いたかと思うと、ジェシカが短く息を吐き出したように、コータには見えた。

 次の瞬間、少女の細腕はそれぞれ握っていた合金製の指を、そのまま一気に引き寄せると、自分の胸の前で交差させるように引き千切った。反動で巨大な人型作業機械は、仰向けに倒れ込んで行った。

 コータとセレイアスは、飛ばされないように、慌ててその機械の体に捉まり直さなくてはならなかった。

 ただ、巨大な体が倒れてくれたおかげで、操作部分からマリコの体を引き出すことは容易になった。

「しっかり、支えていてくれよ!」

 黒髪の少年に、若い女性の体を支えさせると、機長はその機械の操作部に入り、今度は自分がそれを動かした。

 どうしても、マリコの体を包んだ物質が取れないので、それをモーター・ギアのレーザーで焼き切ろうとしたのだ。

「間違っても、マリコに当てないでよね!」

 そう言いながら、コータの反対側から若い女性の体を支えたのは、髪も瞳も元の色に戻った少女だった。

 その言葉に苦笑いしながら、セレイアスは切断用レーザーの照準を合わせた。

 一瞬で、ゴムのような気味の悪い物質は焼き切れた。

 スーツのような、体の線にピッタリとした簡易宇宙服姿のマリコは、そのまま気を失ったようによろめき倒れた。

「だから、言ったでしょう?マリコが、アンドロイドのはずはないって!」

 スーツの上からマリコの体を調べた機長が、脈拍や呼吸に心配はないと言うと、ジェシカはイタズラっぽくそう言った。

 その言葉に、ゴックリと唾を飲み込んだコータは、相変わらず素顔と素肌を、気圧も濃度も薄い外気に剥き出したままの少女に尋ねた。

「そ、それじゃぁ、あのジョウガの言っていた、アンドロイドっていうのは……」

「ええ、アタシのことよ。自己成長型大気圏外作業用アンドロイド、確かにMK18ってコード・ナンバーもあったわね。もっとも、作ってくれたゴドワナ教授がいないのに、そんなコード・ナンバーに、なんの意味があるんだか……」

 実にあっけらかんとした少女、いや少女の姿をしたアンドロイドの言葉に、少年と大人の男性は顔を見合わせるしかなかった。

 大人の面目もあって、態勢を立て直すために小さく一つ咳払いをしたセレイアスは、とりあえず重要な問題から解決することにした。

「君がアンドロイドだということはよくわかったが、するとこのミス・マリコは?」

「機長さんは、たぶん予想しているんじゃないのかな?マリコは、本物のゴドワナ教授の娘さんよ。アタシは、言わば彼女のボディガード。こんな時のために、マリコに付いていたんだけど……やっぱり、少し経験が足りなかったみたい……」

 その言葉は大人びていたが、どこか子供っぽさが抜け切っていなかった。

セレイアスの茶色い瞳が、穏やかにそんな少女の姿を見つめた。

「自己成長型というのは、そういうことか……マリコは正真正銘、君の教育係だったんだね?」

 機長の言葉に、ジェシカは少し反論したそうに眉を上げたが、結局は肩をすくめるしかなかった。

 二人の会話の間に、コータは精神的な打撃から、ようやく回復し始めていた。そんな少年の状態とは無関係に、少女アンドロイドと機長は、お互いに理解を深め合っているようだった。

「前から思っていたんだけど、ほんと機長さんて察しがいいのね。それって、元軍人さんだからなの?」

 それは、まさしく年端の行かない少女の言葉だった。

 そんな人間の少女らしい無邪気な質問に、機長は微笑みながら答えた。

「いや、そういう訳じゃないと思うが……」

 この元軍人の宇宙パイロットには、目の前の少女が人間でないといって、扱いや言葉遣いを変える必要性は、感じられなかったらしい。

 少し照れたように、セレイアスはヘルメットの上から頭を掻いた。

 自分が人間でないことを知っても、まるで態度の変わらない機長に対して、ジェシカも元の信頼感を取り戻したようだった。

「機長さんの言う通りよ。アタシは、マリコに育ててもらっているの。マリコを守ること以外、生まれたばかりのアタシは、本当に能無しだったんですもの……自分でも、結構よく育ったと思うわ」

「確かに、そう思うよ……」

 間を置かないセレイアスの返事に、ジェシカは大人の素直な誉め言葉を聞いた少女のように、いやまさしく少女として、嬉しそうに微笑んだ。

 少女と大人の男性の間に、人間的な優しさと思いやりが流れるのを感じて、黒髪の少年はようやく自分の素直な疑問を、口にすることができた。

「あの、ちょっといいですか?何で、ジェシカの声が僕達に届くんですか?」

 コータは、先ほどからこの奇妙な違和感に、悩まされ続けていた。

 少女の空色の瞳が驚いたように、機長の茶色い瞳が意外なものを見るように、同時に少年を振り返った。

 黒い瞳の少年は、自分が余りにも場違いで意味のない質問をしたのかと思って、いささか自分の軽率さを恥じた。彼の引っ込み思案な性格が、少女の復活と同時に、またぞろ顔を出したようだった。

 機長は、そのことに少し残念そうな表情をしたのだが、コータには伝わらなかったようだ。

「ああ、それはアタシの発声が自動的に、ヘルメットのスピーカーに同調しているせいよ。真空、正確には真空じゃないけど、空気の希薄な場所に出ると、アタシの中の機能が適応転換するの。自慢じゃないけど、これでも大気圏外対応型ですからね!」

 充分自慢気に、ジェシカは答えた。

 その言葉に、セレイアスも無意識に頷いていた。

「大気圏外で活動できるばかりか、自分で成長する人工生命体など聞いたことも無い。自分の目で見ていなければ、信じられるもんじゃない……とてもアンドロイドとは思えない!」

 機長の独り言に、時代を超越した存在となる人工生命体は、少し誇らし気に微笑んでいた。

 どうやらコータの質問は、それほど相手の気を悪くはしていなかったらしい。そんな消極的な理由で、黒い瞳の少年はホッとしていた。

 コータ自身は気付いていなかったが、彼もまた無意識の内に、この人工の生命体である少女を、特別な存在だとは思っていないようだった。そもそも、この少女が特別な存在だということは、彼が以前から感じていたことだった。今さら特別だと感じる理由が一つ二つ増えても、大した違和感はないのかも知れなかった。

 少女にとって、表情には表わさないものの、それは充分に喜ぶべきことのようだ。マリコは、それが当然のように、彼女に人間としての感情を育んでいたらしい。

「さてと、いったい何がどうなっているのか、時間が無いからマリコに目を覚ましてもらって、説明してもらわないと……」

 そう言うと、ジェシカは横たわっていた若い女性の体を抱き起こした。

 その様子を見ながら、セレイアスは素朴に尋ねた。

「君は、この事件の真相を……」

「知らないわ。アタシが持っている記憶は、マリコに与えられたものだけ。そしてマリコは、自己暗示を使って自分がアタシの保母で、アタシがゴドワナ教授の娘だと思い込むようにしたの。何でそんなことをしたのか、今日までアタシの存在を世間から隠すためだとばかり、思っていたから……アタシが機能転換をすると、マリコの暗示は解けることになってるの」

 自分の教育者であり、守るべき女性の胸に手を当てた少女は、そこから電流のようなものを軽く放射した。

 その瞬間、一時的に少女の栗色の髪が白く発光した。

「気にしないで、この髪はエネルギーの収拾と変換装置を兼ねてるの。一度の多量のエネルギーを使うと、どうしてもこんな風に発光しちゃうのよ」

 少女の言葉は、まるで熱を持った子供の顔が赤くなることの説明のように、難しく無い当り前のことのようだった。

間もなく少女の髪が栗色に戻ると、若い女性の胸が大きく上下を始めた。

「痛いッ!頭が割れそうだわ……」

 そう言いながら、若い女性は少年と同じ黒い瞳を開いた。

 ヘルメットのスピーカーを通じて、ようやくマリコの肉声を耳にしたコータとセレイアスは、今度こそ本当にホッとしていた。

「えっと、何で私はこんなところに?あれッ?何で、こんなもの着ているの……」

 マリコの顔付きは、どこか夢から覚めたばかりで、寝ぼけているような表情だった。

 その黒髪の女性に、少女はゆっくりと自分の顔を近付けた。

「ヘルメットは取らないでね、空気も気圧も薄いから……どう、アタシが分かる?」

「えっと、ジェシカよね?そう、あなたはどうしてこんなところに?あなたはまだ教育中で……うんッ?空気も気圧も弱いのに、そんな格好をしているってことは、そうか!機能変換したのね!?ということは、ヤダ、私の暗示も解けちゃったの!?」

 どうやら、この事件の鍵を握る女性は、ようやく正常な意識を取り戻してくれたらしい。

 彼女はしばらく、ヘルメットの上から自分の顔を両手で押えて、頭の中を整理しているようだった。

「そうか、私達、捕まったのよね。ジョウガ、月の女神にして夜の支配者……ジョウガ・プログラムの発動ってことなの!?ヤレヤレ、面倒なことになったわね!」

「よろしかったら、説明していただけますか?ミス・マリコ……」

 独り言を呟きながら、頭の中で前後関係をまとめているらしい若い女性に、礼儀正しく丁寧に機長は話しかけた。

 実のところ、セレイアスは焦っていた。どうやら、軌道基地中心軸の末端ブロックを爆発させて、加速するという乱暴な現象は収まったらしい。だが、この基地が加速中であることに変わりはないはずだった。

 早いとこ、この危険な基地から乗員乗客共々脱出したいというのが、機長として当然の考えだった。

「えっと、その前に……機長さん、コータ君、操られていたとはいえ、乱暴してゴメンなさい。我ながら、だらしないったらありゃしない!」

 ペコリと頭を下げる素直な態度と、自分を責めるマリコの様子に、コータもセレイアスも悪い感情は持たなかった。

 ただ、そんなことよりも、早く事件の真相が知りたいことは、年の離れた男性二人に共通していた。もっともその理由は、微妙に異なってはいた。

 機長にとって乗員乗客の安全が、何より優先するのは当然だった。それに比べて、コータには純粋な好奇心の占める割合の方が、明らかに大きかった。それが、実に彼の年齢にふさわしい、興味の持ち方だということに、本人はまるで気付いていなかった。

 ゆっくりと考え考え、マリコは遠い過去を思い出すように話し始めた。

「えっと、詳しいことを説明していると時間がないから、とりあえず結論だけね。このコンロンは衛星軌道を一周して、軌道ステーション・オアシスと衝突、その後で軌道基地オリンポスにぶつかるように加速しています。で、どうすればいいかというと、衝突のコースを変えて、このコンロンを月面の裏側に衝突させます。その衝撃で、恐らくジョウガは沈黙するはずです」

 若い女性の言葉は、その穏やかな口調とは裏腹に、余りにも大胆で過激な内容だった。

 とっさに、少年も大人の男性も言うべき言葉を失っていた。そんな二人に代わって、少女が外見の年齢にふさわしい素直さで質問した。

「ジョウガって、何者なの?」

「そこに、さっき私を包んでいたモノがあるでしょう?あれが、ジョウガの一つの形よ。もっともあれは、外部用の末端みたいモノで、本体ではないけど……」

 黒い瞳の女性の言葉は、かなり乱暴で省略が多かった。

 そのことは、少年と大人の男性の視線でマリコにも理解できたらしい、彼女は改めて説明し直した。

「ジョウガっていうのは、お父さんが予想した月の原住生命体のことよ。生命体って言うのは、それが精神体みたいのモノで、実体がないらしいってことなの。かつて、どのくらい昔かわからないけど、月が今ほど不毛でなかった頃に繁栄して、月の表面が今みたいになると、地下に退避して休眠状態に入った。と、お父さんは思ったのね……」

 ハッキリ言って、コータはこの話を素直に信じることはできなかった。

 セレイアスも同様のようだったが、事態が事態なだけに、頭からそれを否定することは、何とか自重していた。

 そんな二人の態度を感じたのか、軽く肩をすくめると口調を変えた。

「信じる信じないは勝手だけど、月に何かがいるって伝説は、昔から地球上のいたるところにあるわ。しかも、そのほとんどが地上から月に逃げたり、帰ったりして、あまりいいイメージはないでしょう?オマケに、月の輝く夜に人間の精神が異常になりやすいことは、近代まで言われ続けていたわ。その原因が、ジョウガだとお父さんは考えたのね……」

「そして、その危険性を訴えたが、軌道開発に乗り気になっていた各国は聞く耳を持たなかった……」

 その声は、その場の四人とは別のところから聞こえて来た。

 素早くジェシカが振り向いたが、その耳元を赤く細い光の筋がかすめた。

「動かないで!これは、人間にも電子部品にも効果のある電磁衝撃波よ。焦点の操作で、背後の電子機器には影響の無い優れモノ。その、アンドロイドお嬢さんも無事では済まないハズよ」

 落ち着いた低い声は、しかしどこか皮肉な気配を感じさせながら、全員のヘルメットのスピーカーから響いていた。

 

 

    真相

 

 いつの間にか、入口の扉がほんの少し開いていた。その扉を背にして、逆光の中に立つ少し大柄な人影があった。

 その宇宙服とヘルメットが、自分が操縦する機体の装備だということに、セレイアスが気が付くためには、多少の時間が必要だった。しかし、それに気が付くと、スペース・クラフトの機長は、その中の人物が誰であるか、その声と体格から容易に想像が付いた。

「モニカ……!」

 上司に名前を呼ばれた大柄な女性副操縦士は、ヘルメットの中で少し皮肉に微笑んだ。

「こんな形で再会するとは、思いませんでしたわ機長……」

「あなた、世界警察の人?」

 近付いて来る女性に、マリコは穏やかだが、やや刺のある口調で尋ねた。

 有名な宇宙工学博士の娘は、耳元を電磁衝撃波が通過したショックで膝を折った、少女アンドロイドを両手で抱き上げたところだった。

「あなたから見れば、お父上を氷漬けにした人達の同類でしょうね。でも仕方がなかったのよ、月にジョウガとかいう精神生命体がいるから、月面開発を中止しろなんて言い出して……」

「聞き入れられないとなると、軌道ステーションもろとも破壊しようとしたんですものね。あなた方に言わせれば、大悪人でしょうね……」

 それは文字通り、女性同士の火花を散らす皮肉の応酬だった。

 いったい何がどうなっているのか、コータにはさっぱり分からなかった。ただ、そこに込められている冷たい憎悪と敵意は、嫌でも感じられた。

「まったく、大したものだわ。娘の年齢や遺伝情報を、そっくり偽のデータに書き換えるとはね。まさか、ゴドワナの娘が日本人だとは、誰も思わないわよ。しかも、ガード用のロボットと入れ変えるなんて、すっかり騙されていたわ。でも、今回の事件はやり過ぎたわ。こんな大芝居までして、お父上の意志を継ごうとするなんて、大した孝行娘だわ。今時貴重な人物よね、博物館に陳列してあげたいわ」

 モニカの口調は柔らかく、聞きようによっては誉めているように、聞こえないではなかった。

 もっとも、その銃口がピタリとマリコに向けられている以上、それが誉め言葉だと信じる者は、その場には誰もいなかった。

「それで、あなたは私達が宇宙に出る時に備えて、スペース・クラフトの会社に就職した訳?気の長い話ね……」

 マリコの口調にも、嫌味の味付けが山盛りだということは、コータも認めるしかなかった。

 もっとも、そんな若い女性の嫌味ごときに、動じるような相手ではなかった。

「潜入待機は、こういう秘密捜査では当然なの。それに、機長さんに誤解のないように断わっておくと、私にとってはパイロットが本職で、秘密捜査の方が副業みたいなものなの。もし、あなた達が現れなかったり、現れても何も起きなければ、私はこのまま航空会社に居座るつもりだったのよ。結構気に入っていたのよ、副操縦士って仕事も……」

 最後の言葉が、機長に向けられた皮肉であることもまた、疑いはなかった。

 何とも奇妙な立場に立たされて、苦笑するしかないセレイアスを横目で見ながら、秘密捜査官はゆっくりとマリコ達に近付いていた。

「お父さんを冷凍監禁したように、私を氷漬けにでもする気なの?」

 黒髪の女性は、自分に向かって微動だにしない銃口を睨みながら、近付いて来る大柄な女性に、挑戦的な質問をぶつけた。

秘密捜査官が、そんな挑発に乗るはずはなかった。彼女は穏やかに、それが当り前のことのように答えた。

「それは、私の役目ではないわ。でも、恐らくそうなるでしょうね。永久に知られることのない、史上最高の親子犯罪者としてね」

 最初から黒髪の少年は、このモニカという女性に好意を持てなかったが、このことで完全に嫌いになっていた。

 いったい、この女性副操縦士、いや世界警察機構かの何かの秘密捜査官らしい人の言っていることは、正しいのだろうか?仮に正しいとしても、どうしてこの女性はこんなに悪意と皮肉に満ちた、暖かみに欠けた言い方をするのだろう。

 同じ髪と瞳の色を持つためだろうか、コータはどうしても、マリコに同情的だった。そんな少年の、単純だが分かりやすい気持ちを、機長が代弁してくれた。

「ちょっと、待ちたまえ。すると君は、このミス・マリコが今回の事件を、すべて企んだというのかい?」

「そうです。ジョウガと名乗って、自分の乗る機体を乗っ取らせ、あたかも被害者のごとくふるまう。機長達も、襲われたのでしょう?彼女は邪魔者を排除するのに失敗すると、今度はもっともらしい理由を並べて、自分の行為がさも正しいように演じて見せたのです」

 見方が違うと、見たものが同じでも正反対の結論に至る。

 知識として理解はしていても、目の前でこうまで極端な現実を見せつけられて、コータは軽いめまいを感じていた。

「ではなぜ、彼女のボディ・ガードは我々を助けて彼女の行為を止めたのだね?ジェシカを作ったのも、同じ彼女の父上なのだろう?」

「分かりませんか?ただのミスです。このアンドロイドは、マリコを守るために作られた。従って真相がどうであれ、最終的には自分を守る立場になる。それならば、最後までアンドロイドを娘に仕立てておいた方が安全だと、考えたのでしょう。まさか、機長とお坊ちゃんが一緒にやって来るなど、予想はしなかったでしょうから……」

 あくまでも喰い下がるセレイアスを、モニカはほとんど鼻であしらうつもりのようだった。

 それでも、機長は忍耐強く質問を続けた。

「では、わざわざジョウガを名乗ったのは?」

「もちろん、父親の無実を証明するためです。ほぅーらッ!やっぱり、ジョウガはいたでしょう!?お父さんは正しかったのよッ!ってね、今そう言っていませんでしたか?だいたい、ジョウガというネーミングはゴドワナ教授が行なったものです。語るに落ちるとは、このことではありませんか!?」

 グウの音も出ない、見事な論理展開だった。

 幾年にも渡る、周到で執念深い犯罪計画。今一歩のところで挫折したのは、余計な機長達の行動と地道な秘密捜査官の活動のためだった……。

 辻褄は合うように思えたのだが、どうしてもコータには信じられなかった。もし、全部モニカの言う通りだとして、いったいどうやってコンロンのみならず、他の軌道基地のコントロールを、みんな支配したのだろうか?

 少年の真面目な質問に、目の端で笑うように女性捜査官は答えた。

「すべては、ゴドワナ教授の企みなのよ。マリコは、父の仕掛けた計画に合わせて、行動したに過ぎないのでしょう。どうやったのかは、専門家の調査を待つしかないわね。たぶん、ゴドワナは軌道開発計画の基本プログラムか何かに、時限式のウィルスのようなものを仕込んでいたんでしょうよ。それが発動する時、自分の娘の行動も計算していたとすると、その意味では実に優秀な人物だわね、ゴドワナ教授とその娘は」

 立て板に水と言った感じの、まことに理路整然と鮮やかな説明だった。

 悔しいかな、コータには反論することは不可能だった。それでも彼は、父の意志を継ぎ無念を晴らすとしても、マリコがそんな無謀な行為に走るとは、どうしても思えなかった。

複雑な表情を浮かべる、自分と同じ髪と瞳の色をした少年の胸の内を、知ってか知らずかマリコは意外な言葉を口にした。

「そのことは、本当です。お父さんが、軌道開発の基本システムに、プログラムを仕込んでいました。ただ、それはジョウガが活動を始めた時に、作動するようになっていたのです。ジョウガの活動を止めるために……」

「ありがとう、ようやく認めてくれて。でも、もっとマシな言い訳を考えないと、裁判では不利になるだけよ。秘密裁判だから、弁護士もアテにできないんだから」

 どこまで行っても、永久に交わらない平行線。

 宇宙服とヘルメットに身を包んだ二人の女性は、まさにそういう関係だった。その間にほとばしる火花すら、コータには見えたような気がした。

「さてと、これ以上無駄な時間は過ごせないわ。あなた達を逮捕して、この基地のコントロールを回復しないと……ここにあなた達がいてくれたおかげで、手間が省けたわ」

「すると、君もここからコントロールするつもりで?」

 機長の質問に、女性副操縦士は振り返ろうともしなかった。

 彼女は、専門家に口を出すなと言わんばかりの態度で、手錠のようなものを取り出すと、マリコとジェシカの手首を繋ぎながら言った。

「運が良かったんですね。閉じ込められた場所の鍵が壊れていて、しかもそこがドッキング・ポートの近くだったんです。一緒にいた乗客にも手伝ってもらって、機体の空気と気圧を回復して……私は宇宙服を手に入れると、すぐにここに直行しましたけど、他の人達は閉じ込められた人達を助けに行きました。もう、みんな助け出された頃でしょう……」

 その話に不審を感じたのは、コータだけではなかった。

 軽く首をかしげながら機長は何気ない口調で、しかし慎重に秘密捜査官に尋ねた。

「すると、君はこのコントロールを起動する方法を知っているのか?」

「軌道基地の標準コードぐらい知っていないと、この仕事はできませんから。あなた方と違って、私は正規の方法で起動させます」

 どうして彼女が、コータ達のシステム破りまがいの行動を知ったのかは、この際余り問題ではなかった。

 問題は、彼女が正規の方法でシステムを起動しようとしていることだった。正規の方法を取れば、一時的にしろメイン・コントロールと接続することは常識だった。

 セレイアスの視線とマリコの視線、そしてようやく意識を取り戻したジェシカの視線が、同時に空中で絡み合った。

「待った!これは罠だッ!モニカ、システムに触れるなッ!!」

 言葉と同時に床を蹴った機長に、副操縦士は正確な動作で銃口を向けた。

 セレイアスは空中に浮かんだまま、ジェット噴射で静止するしかなかった。

「大人しくして下さい。これまでのことはともかく、これ以上邪魔をすると、共謀容疑で逮捕しますよ!」

 そう言いながら、手早くモニカはパネルを操作した。

 たちまち部屋中が明るくなり、壁には様々な色の光が明滅した。

 最後に、メイン・パネルのモニターが明るくなった。どうやら空調装置も作動したらしく、流れ込む空気がヘルメットや宇宙服をわずかに揺らした。

「これで、いいわ!さて、コントロール回路の接続は……」

 モニカの指が、いくつかのスイッチに触れると、空中に浮かぶ機長の目の前に、三次元表示の立体画面が突然のように現れた。

 その大きな立体表示に圧倒されて、機長はコータの傍らに降りた。

 本来なら、その立体画面に、基地全体の回路図が現れるはずだった。ところが、明るく光り輝くばかりでだけで、回路図が現れる気配はなかった。それどころか、他のすべてのモニターや表示用の画面も、光り輝くばかりで、意味のあるメッセージを表示しなかった。

 この時、初めてわずかにモニカの表情が曇った。

『我が名はジョウガ、我が体内であがく蛆虫達よ、その報いを受けるが良い!』

 どこからともなく響く、抑揚の無い声に、コータは腹の中をいきなり握られたような気がした。

 世界警察の女性捜査官は、表情こそ変えなかったが、その指の先がわずかに震えていた。

「そんなバカな!なんでサブ・コントロールまで……あなた達、なにをやったのォ!?」

 振り返った大柄な女性は、自分が手錠で繋いだ少女が、その栗色の髪を純白に輝かせて、ゆっくりと立ち上がるのを見た。

 ジェシカの空色の瞳が光り輝き、やがて燃えるような赤色に染まった。その直後、彼女はまるで紙細工のように、軽がると手錠を引き千切った。

「何をやったって?やったのは、あなたよ!わからないの?まんまと利用されたのよッ!?あなたは、この基地のコントロールを回復する唯一の手段を、ジョウガに渡してしまったのよッ!!」

 その少女の声に促されたように、中空に浮かぶ三次元モニターが様々な色に輝き、やがてその光が一つの形を作り上げた。

 その形がまとまりかけると、大柄な女性捜査官も含めて、その場に居た者全員が息を飲んだ。

「ジェシカ……?」

 コータの言葉が、全員のヘルメットの中で、押し殺したように響いた。

 確かにそれは、輝く光に彩られてはいたが、白色の長い髪をたなびかせた顔の輪郭と赤い瞳は、そこにいる少女と同じものだった。

『待っていた。MK18、我が手足……一度は、ゴドワナの悪知恵にすっかり欺かれたが、今度こそお前を手に入れるッ!』

 光で作られたジェシカの顔は、笑っているのだろうか醜く歪んで見えた。

 その顔の前に、本物のジェシカはモニカを除く全員を、その背中にかばうように立っていた。

「ジョウガが精神生命体である以上、自由に動く手足が必要なことは分かりきっている。ゴドワナ教授は、そのことを知っていたんだ。自分が作ったアンドロイドが、やがてはその役割に最も適してしまうということを……だが、娘を守るためにはジェシカが必要だった。娘と入れ換えたのは、警察とジョウガと、両方の目を誤魔化すための苦肉の策だったんだ!」

 唸るように呟くセレイアスの言葉には、コータも同感だった。

 マリコは、自分を守ろうとする少女の肩を、そっと叩いた。

「お逃げなさい、ジェシカ。あなただけなら、逃げられます。人間をいくら操っても、大気圏外での行動には限界があります。あなたは大気圏外で自由に、しかも無限に活動できる、今のところ唯一の存在です。そんなあなたを、ジョウガの手に委ねる訳にはいきません!そんなことをすれば、それこそすべてが終わりです!!」

 そう言う本人を守るために作られたジェシカは、当然のことながら首を振った。

 ヘルメットの奥の、マリコの哀しそうな微笑みを、同じ色の瞳でコータは見たような気がした。

「いい娘ね、ジェシカ。私が育てたにしては、上出来よ。きっと、お父さんも誉めてくれるわ……」

 そう言ったマリコは、そっと純白の髪を輝かせる、赤い瞳の少女の耳元に軽く口付けた。

 その瞬間、軽い電撃でも走ったかのように、ジェシカの全身が震えた。その直後、髪の毛と瞳が元の色に戻り、力が抜けたかのように両手足と首が軽く傾いた。

 見開かれたままの両の目を、その手で優しく閉じたマリコは、ジェシカの体をそっと抱き上げ、セレイアスの前に歩み寄った。

「この娘をお願いします。今回のことで父の正しさが証明され、冷凍監禁から解放されたなら、父に渡してやって下さい。父なら、この娘を回復させるキー・ワードを知っているはずです……」

「あなたは?」

 少女の体を、半ば無意識に受け取った機長は、不審気な視線を黒い瞳の若い女性に向けた。

 ヘルメットの中で、明らかに黒髪の女性は微笑んでいた。

「せっかく名誉を回復して目覚める父を、二人もいる娘がどちらも出迎えないなんてこと、恥ずかしくてできません。姉として、妹を助けることぐらいはしてやらないと……秘密捜査官さんの話では、どうやら乗員乗客のみなさんは、無事にキャメル・ナンバー3に戻っていらっしゃるみたいです。この娘とコータ君のためにも機体に戻って、自力でここを脱出して下さい」

 女性の言葉に、強い決意を感じたのはコータだけではなかった。

 辛抱強く、機長はもう一度同じ質問をした。

「あなたは、どうする気です?」

「何とか、この基地を父の計画通り、月の裏側に衝突させます。月面基地は、月の表に集中していますから、コータ君の御両親達にも影響はないはずです」

 そう言うと、マリコは優しくコータの頭を、ヘルメットの上から撫でた。

 自分と同じ瞳の色の女性が、自分の両親のことまで覚えてくれていたことに、少年は息が止まるような思いでいた。

「おっしゃる通り、精神体であるジョウガは、手足となるものがない限り、コントロールを支配する以外は何もできません。先ほど、私が使ったモーター・ギアには、この基地の中心軸を爆破させた爆薬が積んであります。これを使えば、何とか進路を月の裏へ変えることが……」

 そこまで、マリコが淡々と語った時、それまで呆然と立ち尽くしていたモニカの顔色が変わった。

 大柄の女性捜査官は、持っていた銃をゆっくりと構え直すと、その銃口をマリコに合わせていた。

「ダメよッ!絶対にダメッ!!月の裏側に、コンロンを衝突させることはできない!やってはダメよッ!!」

 その言葉に、機長よりも先にコータの方が限界を越えた。

 少年は、床を蹴って飛び上がると、大柄な女性の銃を持つ腕にしがみついた。

「まだそんなことを言っているのか!アンタは、アンタはあれが見えないのか!マリコさんが、どんな思いで、どんな思いで……」

 少年の必死の行動は、確かにモニカの不意を突いた。

 大柄な女性捜査官は、しがみついた少年を振り払おうと激しく銃を持つ腕を振り回した。さらに、もう片方の手で少年の顔を引き離そうと、そのヘルメットを力づくで持ち上げた。

 とっさに、子供を振り解く方に注意を向けたモニカは、セレイアスの行動を見ていなかった。

「やめなさい!子供相手に、みっともない!!」

 少女の体を抱いたまま、女性捜査官の腕を押えるのは、重さをほとんど感じない、極低重量状態だからこそできる離れ技だった。

 その間に、マリコはジェシカがその指を引き千切ってしまった、大きな人型作業用機械の点検を始めた。

「落ち着いて、落ち着くんだモニカ。落ち着いて、何がダメなのか説明しなさい。俺は簡単に冷静さを失うようなパイロットと、一緒に飛んだ覚えはないぞ!」

 機長の声に、ようやく女性副操縦士は自分を取り戻したようだった。

 自分の腕にしがみついたまま、宙に浮いている少年を、モニカは少し意外そうな顔付きで見つめた。

「このお坊ちゃんに、こんな力があるとは……私も、ヤキが回ったようです。少し、副操縦士稼業が長過ぎたのかな……」

 そう言うと、モニカは銃をコータが押えている腕から、機長に押えられた腕の方に持ち変えた。

 それを見て、機長は自分が押えている腕を離した。

「コータ、もういいよ。離しなさい……」

 少年は、疑惑のこもった黒い瞳を女性に向けたが、大きく息を吐くと両手を離して床に立った。

 モニカは少し乱れた宇宙服を直すと、顔を上げてマリコの方を向いた。

「月の裏側には、核融合プラントがあります。マリコさん、コンロンが衝突したらどうなるか、考えるまでもないでしょう?」

 そのモニカの一言に、黒髪の若い女性の動きが止まった。

 静かに立ち上がると、マリコは低い押し殺したような声で尋ねた。

「お父さんの計画では、核融合プラントは使わないことになっていましたが?」

 モニカは、小さく一つ息を吐いた。

 少年は油断なく、その大柄な女性を見上げていたが、もはや先ほどのような、慌てて狼狽えるような表情はなかった。

「確かに、ゴドワナ教授の当初計画では、動力はすべて太陽発電で賄うことになっていました。月面基地の開発が余りに順調に行ったので、大陸機構と日本が、勝手にプラントを増設したのです。より安定的に、莫大な動力を得るために……もちろん、これは国際協定違反ですから、極秘にされています。でも軌道開発関係者の間では、周知の事実です。いわゆる、公然の秘密というヤツです……」

 人型機械の壊れた指の部分を手に取りながら、マリコは上を向いたまま、しばらく動かなかった。

 コータは、大柄な女性と自分と同じ髪と瞳の色の女性を、交互に見つめた。少年の瞳に、その秘密捜査官の女性がこの部屋に現れて初めて、自分ではどうにもできないことに苦労している、よくいる大人のように映った。

 中空に浮かぶ三次元画像のジェシカの顔は、その時まで機能を失ったかのように、沈黙を守っていた。だが、その場の人間達の会話が聞こえたのか、再び気味の悪い形に口を開いた。

『我が名はジョウガ、愚かなり人間と呼ぶものども。自らが作りし道具で、自らを滅ぼすものども。選ぶが良い、我らと共に自らも滅ぶのか、我らが支配する世界から退去するか……』

 醜く歪んだ笑い顔を残し、そう言うと立体画面は消えた。

 同時に部屋の動力も切られたのか、壁面や操作パネルの明りも消え、空調装置も停止した。最初に機長が部屋に入った時の明りだけは、非常用だったのか、そのまま残ってボンヤリと内部を照らし出していた。

 突然の停電のように、暗くなった部屋の中に三人の大人と、二人の子供が取り残された。

「我らが支配する世界から退去するって、どういうことです?」

 暗がりに怯えるのを押し隠すように、コータは傍らのセレイアスを見上げて尋ねた。

 完全に動かなくなった少女の体を抱えたまま、穏やかに機長は答えた。

「軌道開発、つまり宇宙進出を、諦めろということだろうな。最初に自分達のことを闇を支配する者と言っていたが、あれは月を含めた衛星軌道ということだったんだろう」

「核融合プラントを破壊すると、僕達も滅びるんですか?」

 コータの質問は、単純で深刻だった。

 そんな少年の態度に、セレイアスはむしろ彼の成長を、見たような気がしていた。機長は、優しくその手を少年のヘルメットの上に置くと、言葉を続けた。

「プラントが爆発すると、恐らく月は粉々に砕けてしまうだろう。そうすると、引力なんかのバランスが一度に崩れて、地球自体がとんでもないことになる。人類が滅びるかどうかはともかく、まず世界規模で気象異変が起こることは確実だ。犠牲が少ないとは思えないな……」

 知らず知らずの内に、コータは小柄な機長の宇宙服の端を、しっかりと握りしめていた。

 そんな黒髪の少年を、セレイアスは優しい茶色の瞳で見つめていた。

「方法は、あるわ……」

 暗がりの中で、モーター・ギアを点検していたマリコが、ヘルメットのマイクに向かって独り言のように言った。

 彼女がその腹部に入り込むと、ぎこちない動きながら、巨大な人型機械がゆっくりと立ち上がった。その操作をする若い女性の声が、全員のヘルメットの中に静かに響いた。

「細かい計算が必要ですけど、加速の途中でコンロンの中心部、つまりこの部屋を爆破して、コンロンを真っ二つに分けるのです。うまく行けば、片方は月の裏側を通過し、片方は地球の大気圏に突入して燃え尽きるはずです。残念ですが、ジョウガを再び沈黙させるという当初の父の計画は、放棄するしかありません……」

 無念だとか残念だとかいう気配を、その口調から感じることはできなかった。

 マリコは淡々と、自分にできることを冷静に判断していた。その黒髪の女性の態度が、もう一人の女性の考えに少し影響を与えたらしい。

「マリコさん。あのジョウガという精神生命体が存在するとして、なぜ今蘇ったのです?月面開発は、ずいぶん前から本格化していたのに……どうして、あなたの父上、ゴドワナ教授はそれを事前に予想できたのです?」

 モニカの疑問は、もっともだった。

 コータとしては、いまさら何を言うんだという気持ちが強かったが、その答えには興味があったので、大人しくマリコの返事を待った。

「ハニカムホーム、あの月面に作られた六角形のモジュール基地です。あのデザインが、月の原住生命体であるジョウガ達の覚醒を促すということに、父はどこかで気付いたのでしょう。気付いた時には、基本設計は完了していて、変更は不可能だった。そもそも、あのモジュール基地の基本設計は父のものです。父の後悔は、相当なものだったようです」

「六角形がジョウガを目覚めさせる?どういうことです?」

 機長の疑問も、当然だった。

 巨大な作業用機械の腹部で、両手足を使って操作の具合いを確かめているマリコは、その場で軽く首を振った。

「わかりません。父は、月の女王は蜂の女王と同じだと、呟いていました。六角形のデザインが、ある程度月の表面を覆った時、ジョウガは覚醒するということだったようです。私の推測ですが、精神活動に必要な環境が、そのデザイン・パータンによって形成されるのではないでしょうか?」

「蜂の女王……確かに、ハニカムホームには蜂の巣という意味もあるが、まさかそんな!」

 機長は信じられんという口調で、独り言のように呟いた。

 コータは以前、両親から送られた月表面の画像写真を、思い出していた。それはまさに蜂の巣のように、六角形の連続した建築物が整然と並んで、月の表側のほぼ半分を埋め尽くしている画像だった。美しいとか立派だとか思う前に、何となく不吉なものを感じたことを、彼は覚えていた。

 その予感が、まさかこんな形で当たるとは!コータは思いもかけない展開に、心に重いものを感じていた。月面基地の形とその拡大が、月の奥深くで眠っていた精神生命体を覚醒させる。もし、それが本当だとすると、自分にも何かの責任があるように思えた。

 自分の両親は、実際にそこで働いているし、祖父の企業グループも月面開発の恩恵を、受けていないはずはない。コータは、自分だけが月面開発と無関係だなどと、とても思うことはできなかった。

 複雑な心境でいる少年の心中を知ってか知らずか、同じ髪の色の若い女性は自分の考えを説明していた。

「今回のことで、ジョウガの存在は多くの人が認めるでしょう。元々、父はジョウガと対決しようと思っていた訳ではありません。ジョウガが目覚め、何も知らない人間達と敵対した時のために、今回のプログラムを残しておいたのです。時間をかければ、お互いに知性のある生命体です。共存の方法があるかも知れません。父は、単なる時間稼ぎの手段を講じたに過ぎないのです……」

 マリコの言葉を、モニカはじっと聞いていた。

 セレイアスもコータも、何を聞くべきか何を言うべきか、簡単には思い浮かばなかった。

 月に潜む知的な精神生命体。その存在を知った科学者は、自分の立てた計画がその覚醒を促すことに気が付き、警告を発する。しかし、誰もそんな途方もないことに、聞く耳を持たない。

 科学者は、止むなく自分の手で計画自体を白紙に戻そうとする。それは彼の進めて来た計画そのもの、そしてそれを支えて来た人々に対する裏切り行為に他ならない。発覚し、捕らえられ、極秘の内に冷凍監禁されてしまった科学者。

 その科学者の娘は、父の汚名と当局の監視の目の中で、自分自身に自己暗示をかけてまで素性を偽り、父の予想した万が一の日に備えた。それが、どんな日々だったのか、コータには想像することすら難しかった。

 少年は自分の黒い瞳を、機長が片手に抱く少女に向けた。あどけない、本当に幼い子供の寝顔のような、アンドロイドの顔。彼女もまた、自分に与えられた使命を守りつつ、普通の少女としての教育を受け、普通の少女として成長していたのだろう。

 それが偽りの生活だったのか、それとも平凡な日常だったのか、コータには判断できなかった。ただ、自分ならば絶対に耐えられない立場だということだけは、彼にはわかっていた。

 そこまで考えると、少女の名がジョウガによく似ていることにも、何となく納得できるものがあった。ジョウガに似ているが、ジョウガではない。この娘はジェシカだ!という、何か祈りのようなものすら、少年は感じることができた。

 今は機能を停止させられている少女と、コータはまた生意気な言い争いをしてみたいと、本気で思っていた。このジェシカという娘には、空色の瞳に栗色の髪、何よりも赤いリボンが似合っていた。

 少年が、そっとその額に触れようと手を伸ばした時、わずかにその少女の瞼が動いた。

「えッ!?」

「どうした?」

 コータの声と態度に、セレイアスが振り返った。

 少年はイタズラを見つかったかのように、思わず口ごもった。

 その時、部屋の中空が突然明るく輝き、再び光で作られたジェシカの顔が浮かび上がった。

『人間なるものよ!今度こそ、我が手足を貰い受ける!!』

 突然、その顔から青白い電流のような光が放射され、機長の腕の中のジェシカを襲った。

 とっさに、セレイアスは少女をかばおうと思ったが、最初の一撃で抱いていた片腕が痺れ、思わず手を離してしまった。

「しまった、プラズマ電位転送だわ!早く!モニカさん、モニターを撃って!!」

 機長の腕を離れたジェシカの体は、部屋の中空に浮かび、同じく中空に浮かぶ、光で作られた顔と向き合っていた。

 光で作られたジェシカの顔は、醜く歪みながら少女の全身に、プラズマ放射を浴びせ続けた。ほんの一瞬、女性捜査官はマリコが何を言っているのか、わからなかった。

 だが、中空に浮かんだジェシカの体と光の顔が向き合った時、それどういうことなのか理解した。改めて銃を構え直すと、モニカは中空に浮かんだ光の顔に向けて、引金を引いた。

 赤い筋が、光るジェシカに似た顔に吸い込まれた。しかし、何の変化もなかった。わずかに光の顔が、歪んだ笑みを浮かべたような気がした。

 モニカは、視線を光でできた立体的な顔に向けたまま、黒髪の若い女性に叫んだ。

「ダメよ!これは、電子機器と人間の体内電流には効果があるけど、立体映像には何の効果もないわ!」

「それじゃァ、この部屋のシステムそのものを破壊するのよッ!」

 言うよりも早く、マリコは巨大な人型機械の鋼鉄の腕を振り上げると、手近な操作パネルの上に振り下ろした。

 電気火花が散って、内部の基盤が砕け、配線が千切れた。

 モニカも周囲の壁に向かって、次々と赤い光を放った。

『うぉッ、もう、もう遅い……この手足は、我らの……もの……』

 中空に浮かぶ光の顔が、大きく歪むと苦し気にそう言った。

 二人の女性は、同時にシステムの中枢部分を破壊した。

 ついに、中空に浮かんだ光で作られた少女の顔は、激しく歪んだかと思うと、白色に光り輝いて消えた。

後には、同じく中空に浮かんだジェシカの姿があった。その髪の色が次第に白く変わり、顔や腕がゆっくりと起き上がった。

「ジェシカッ!」

 声を上げたのは、コータだった。

 顔を起こし、ゆっくりと瞼を開いた少女の瞳は、赤く染まっていた。

『我が名はジョウガ、闇を支配する者。計画を邪魔するものは、すべて排除する……』

 それは、あの生意気で可愛気の無い、でもどこか憎めない少女の口調とは、まるでかけ離れたものだった。

 白い髪に赤い瞳の少女の前に、巨大な人型の影がゆっくりと立った。

「もう、時間がありません。みなさん、早く脱出して下さい。ここを爆破します。計算している時間はありませんが、二つに分かれればいくらかは被害が減るはずです」

 マリコの声は、相変わらず淡々としていた。

 機長と副操縦士は、一瞬の間に視線を交わしていた。何時間かぶりに、二人の間に職業的な連帯が回復したようだった。

「モニカ、キャメルに急げ!乗員乗客の無事を確認して、脱出するんだ。自動操作は一切無しで、すべて手動だ!できるな!?」

「機長は?」

 大柄な女性は、完全に副操縦士としての立場に戻っていた。

 簡潔な質問に、セレイアスは相手の頼もしさを再確認していた。

「機長には、乗客の安全を確保する義務がある。それにこういう時、独身の美しいヒロインと協力するのは、独身男性の義務だ。君は、この坊ちゃんを連れて、すぐに機体へ向かえッ!」

 機長の言葉と視線に、コータは大きく首を振った。

 マリコとジェシカを置いて、自分だけが助かるなど、今のコータには考えも及ばないことだった。もし、機長が個人的な感情でマリコを見捨てられないのだとしたら、コータもまた個人的な理由で、ジェシカを見捨てることはできなかった。

「僕は、ジェシカとマリコさんが、一緒でなければ戻りません!みんな、一緒に戻るんでしょう!?」

 コータは、その黒い瞳を上げて真っ直ぐに、機長の茶色い瞳を見つめていた。

 少年の表情から、説得は無理と判断したのか、単なる時間のムダと思ったのか、セレイアスは視線をモニカに戻した。

「前にも言った!機長に何かあれば、機体と乗客に対する責任は副操縦士のものだ。君は、何としても他の人達を安全な場所へ!この三人は、特別な乗客だ。機長である俺が、最後まで必ず面倒を見るッ!!」

 ほんの少し、大柄な副操縦士にして秘密捜査官の女性は、どうしたものかと考え込んだ。

 マリコの操る人型作業用機械は、中空に浮かんだ白い髪と赤い瞳の少女と、静かに向き合っていた。

「ジェシカ、お願い……正気に返って!」

『我が名はジョウガ、闇を支配する者。邪魔するものは、排除する!』

 声と同時に、目にも止まらない速度で、ジェシカの体が人型機械の横に回った。

 マリコが、その鋼鉄の腕を動かす間もなく、白髪の少女はその片腕を両腕で抱えた。凄さまじい力が、巨大機械を傾けた。

 とっさにマリコは、バランサーを操作してモーター・ギアを反転させた。同時に、残った機械の腕で少女の体を挟んだ。合金製の指が使えないために、肘の部分に挟み込むしかなかった。

 ジェシカの白い髪が逆立ち、その瞳が燃えるように輝いていた。若い女性もその黒い瞳を見開き、必死で鋼鉄の腕を操った。

 その光景をモニカは、一瞬だけ息を詰めるような表情で見た。直後に、大柄な女性は機長の方を振り返ると、持っていた銃を彼に向けて投げた。

「気休めくらいには、なると思います。ですが機長、すべての責任はあなたにあります。そのことを忘れないで下さい!機内でお待ちしています!!」

 そう言った後の、彼女の動きは素早かった。

 さすがは、秘密捜査官だとコータは思った。床を蹴った思ったら、次の瞬間には、もう扉の前に向かっていた。

 鋼鉄の腕と格闘していながらも、ジェシカの赤い瞳は、その姿を見逃しはしなかった。強力な肘打ちと膝蹴りで、マリコの操る腕を振り解くと、少女は直線的にモニカに向かった。

 その行く手を、とっさにセレイアスが塞いだ。白髪の少女の手が、目に見えない早さで、機長の首筋に伸びた。

「うぐぅぅッ!」

 何とか、ジェシカの細腕をその両腕で防いだ機長だったが、少女に握られた両手首の痛みに、思わず気を失いそうになっていた。

 マリコが、慌てて巨大機械で助けに行こうとしたが、移動速度においてモーター・ギアは、少女アンドロイドに遠く及ばなかった。いち早く、少女の背後から組み付いて、機長を助けようとしたのはコータだった。

「離せッ、ジェシカ!君は、こんなことをする娘じゃないだろうッ!?」

 そんな黒髪の少年を、少女は白髪を一振りするように、片腕を伸ばして首筋を押えた。

 片手でセレイアスの両腕を、片手でコータの首を捉えて、その二人ともほぼ失神寸前の状態に、ジェシカは追い込んでいた。

 それは同時に、赤い瞳の少女の両腕が、塞がっていることを意味した。黒髪の女性は、その機会を逃さなかった。巨大な人型機械は、勢いをつけて少女に全身でぶつかって行った。

 激しい衝突の力は、両手に二人の男性を持ったままの少女を、一気に壁まで運んで叩きつけた。部屋の壁面と大きな機械の体に挟まれ、さすがのジェシカも、すぐに身動きは取れなかった。

「今の内です、モニカさん!急いでッ!!」

 どうにか自分の体が通り抜けるられるほど、部屋の扉をこじ開けた大柄な女性は、その声に振り返った。

 少女が動けないことを確かめると、モニカは大きく頷いて扉に滑り込んだ。その時、ヘルメットのマイクに向かって、女性副操縦士は叫んだ。

「機長!今です!銃を使って下さいッ!!その娘には、効果があるはずです!!」

 その声を、遠のきかけた意識の中で聞いたセレイアスは、何とか頭を振ると気を取り直した。

 機長の目の前には、両手をだらりと下げている黒髪の少年がいた。そして、自分の両手は塞がっている。

「コータ!こっちを見ろ!これを使って……」

 そこまで言ったところで、ジェシカが両足を蹴り上げた。

 その衝撃力は、自分を押え込んでいた強力な人型機械を、簡単に宙に浮かべた。その時、少年の首筋を押えていた力が、いくらか緩んだ。

 黒い瞳の少年は、そのぼやけた視界の中に、機長が腰のベルトに挟んだ銃を捉えた。ほとんど無意識に、彼はそれを手に取っていた。

 少女の赤い瞳が振り返り、首を握る手の力がより強くなった。コータは意識がなくなる直前に、その銃をジェシカの顔に向けると、引金を引いた。

 赤い光が、赤い瞳の間で炸裂した。一瞬、少女の動きが止まり、その両手から力が抜けた。

 コータとセレイアスは、その悪魔的な力から解放され、フワフワと宙を漂った。

 とっさに、マリコは動きの止まったジェシカを、その鋼鉄製の両腕で抱えた。そして一気に、その巨大な機械ごと、部屋の一番奥へと運んだ。

「機長さん、コータ君!このモーター・ギアの背中には、爆薬が積んであります。私が、ここを爆破します!今の内に逃げて下さい!!」

 マリコの声に、まずセレイアスが頭を振りながら、姿勢を立て直した。

 目を開けた機長は、空中を漂う半分気を失った状態の、コータの手を取った。その手には、しっかりと自分が渡した銃が、握りしめられていた。

「そんなことを言っていないで、君も逃げなさい!ジェシカは、機能を停止したのだろう!?」

「いいえ、ショックで一時的に停止しただけです。すぐに回復します。こうやって、押え込んでおかないと、また何をしでかすか……」

 そのマリコの言葉が終わらない内に、ジェシカの瞳が再び赤く染まり始めた。

 少女の細い両腕が、ほぼ同時に、自分を押え込む人型機械の腹部に、抜き手の要領で突き刺さった。その部分には、マリコの体があった。

「あぅッ!」

 若い女性の悲鳴が、コータの意識を呼び覚ました。

 その少年に、大人の男性はマリコとジェシカの様子を見せまいとするように、両腕に抱え込んだ。

「どうしたんです機長?何があったんです?マリコさんは、ジェシカは、どうなったんです!?」

「いいから、コータ、ここを脱出しよう!」

 そう言って、セレイアスは少年の体を抱いたまま、扉の方へ飛んだ。

しかし、コータはその言葉に従うことはできなかった。少年は、思い詰めたような黒い瞳を機長に向けると、ずっと握りしめて離さなかった銃を向けた。

「人間にも、効果があるそうです。機長、離して下さい!」

 少年の黒い瞳と、機長の小さな茶色の瞳が、真っ正面から衝突した。

コータの気迫に押されたのか、一瞬セレイアスの腕から力が抜けた。そのわずかな隙を、少年は見逃さなかった。

 扉を背に立つ機長に銃口を向けながら、コータは素早く部屋の奥へジェット噴射の力を借りて、飛び下がった。

 ちょうどその時、少年の背後で悲鳴が上がった。

「ひぃぃーッ!」

 振り返った少年の黒い瞳は、巨大な人型機械の背中が割れて、そこから何かの影が、のっそりと立ち上がるのを映した。

 それは、片手にスーツのような宇宙服を着た若い女性を、ぶら下げるように持った白髪の少女の姿だった。

 少年はゆっくり体を回転させると、自分の黒い瞳を少女の少し濁ったような、赤い瞳に向けた。二人の視線は、空中でハッキリと絡み合った。

「マリコさんを、離してよジェシカ……」

 コータの言葉は静かで、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 その言葉に、確かに少女は何回か、瞬きをしたように見えた。

『我が名はジョウガ、我を妨げるものは……』

 抑揚の無いジェシカの言葉を、コータは最後まで聞いていなかった。

「君はジョウガじゃない!ジェシカだ!そして、その手に、その手に持っているのは、君を妹だと言ったマリコさんだ!君の姉さんだ!わかるかッ!?」

 感情的なコータの言葉はジェシカ自身よりも、その片手にぶら下げられた、若い女性の耳から消えかけていた意識に届いた。

 マリコの体がピクリと動き、その動きにジェシカの視線が動いた。

 とっさに少年は、少女に向かって飛んでいた。ジェットの力を借りても、残念ながら早さでは相手の方が上だった。

 ジェシカは苦もなく、コータの片腕を取ると、その動きを押えた。しかし、それは少年の予定の内にあった。彼は、そのまま残った手で少女の額に、銃口を押し当てた。

「君は、ジョウガじゃない!ジェシカだぁーッ!!」

 残念ながら、このコータとしては実に良くできた動きは、完全に白髪の少女に読まれていたらしい。

 銃口を持った手は、額に押し付けられる直前に、もう片方の手で握られてしまった。それは同時に、ジェシカがほとんど動かなくなったマリコを、手放した証拠だった。

 若い女性の体は、布切れのように空中に投げ出されていた。だが、少し前に意識を取り戻した彼女は、その機会を待っていた。

 動かない体を、必死の思いで回転させたマリコは、少年の持つ銃をその手に取っていた。両手をジェシカに握られたコータが、骨が砕けるような痛みに耐えかねて、思わず銃を手放したのはその時だった。

「その手を離しなさいッ!ジェシカーッ!!」

 言葉と同時に、マリコは妹と呼んだアンドロイドの耳に向けて、銃を発射した。

 赤い筋が、少女の耳を左右に貫いた。

「き、君は……ジョウガじゃない、ジェシカだ……」

 両手を締め上げられ、ほとんど止まりそうな息の下で、コータは少女の濁った赤い瞳を自分の黒い瞳に映した。

 少女の赤い瞳が、細く閉じようとする、少年の黒い瞳を映した。

『我が名は、我が名は……ジョウ、ジョウ……ジョウガ、じゃない……アタシは、アタシはジェシカ……ジョウガじゃないッ!』

 薄れるコータの視界の中で、ジェシカの赤い瞳から、徐々に光が失われて行った。

 銃を撃った後、ほとんど姿勢を維持することもできない若い女性の体を、そっと機長が背後から支えた。彼の小さな茶色い瞳は、少女の白髪が徐々に栗色に染まるのを見た。

「ア、アタシ……なにを?えッ!?何してるの、アンタは?」

 元の少し生意気で可愛気の無い、でも憎めない口調に戻った少女は、自分が両手を持っている少年をマジマジと見つめた。

 まだ、その力が抜けていないために、遠くなりかける意識を引き戻しながら、コータは皮肉に口を歪めた。

「君が……握り潰そうと、してるのッ!」

「あら、やだッ!なんで!?」

 少年の言葉に、ジェシカは慌てて両手を離した。

 そこには、まるで自分は悪くないと言いたげな表情があった。

 破壊的な力から解放されたコータは、もう身動きすることすら面倒で、ただ体が部屋を漂うままに任せた。

 同じく力尽きていたマリコは、それでもセレイアスに支えられたままではあったが、本当に少女が元に戻ったのか慎重に見つめていた。

「ジェシカ、記憶がないの?」

「えッ、ちょっと待って……あッ、ダメ、マリコに機能停止コードを入れられてから今まで、何も覚えてない」

 少女は、空色の瞳を不安気に若い女性に向けた。

 マリコとコータ、それに機長。腹部から背中にかけて、大穴が開いたモーター・ギアと、すっかり壊されたサブ・コントロール・タワー。

 これだけのものを見て、自分が無関係だと結論するには、ジェシカの理解力は成長し過ぎていた。

「いいのよ、あなた本来の自己判断機能が停止した状態でのことだし、一応みんな無事だたんだから。それよりもジェシカ、急いで計算してちょうだい。どこで、どの位の爆発を起こせば、このコンロンが月にも他の軌道基地にも衝突しないで済むか!」

 ジョウガを沈黙させるために、ゴドワナ教授が予定していた、コンロンの月への衝突が不可能になったことを、少女は知らなかった。

 マリコの手短な説明を受けて、ジェシカは必死に計算した。本来、機械であるはずの彼女が、眉間に皺を寄せて頭を抱える様子は、それを知っている者にとっては、何とも奇妙な光景だった。

 だが逆に、それがただ頭のいい幼い女の子だというのなら、実に自然な表情だった。力なく部屋を漂いながら、やはりどうあってもジェシカを人工の生命体だとは感じていない自分に、コータは気が付いた。

「大変ッ!今すぐやらないと……マリコ、爆薬はどこ?」

 突然顔を上げたジェシカは、その空色の瞳で、すがりつくようにマリコを見た。

 黒い瞳の女性は、モーター・ギアの背中を指差した。

「あそこ……でも、あなたが壊しちゃったから、起爆装置は使えないわ」

 その言葉と同時に、栗色の髪をベールのように広げたジェシカは、自分が完全に破壊した、人型作業用機械のところへ飛んで行った。

 少女は、その場で何かゴソゴソとやっていたが、手早く起き上がると、その両手に筒状の爆薬を何本も抱えていた。

「みんなは、この部屋に居てちょうだい。ここは、外からの衝撃に対して最も安全な部屋の一つだから、たぶん爆発にも耐えられると思う……」

 ジェシカに言われるまでもなく、それはコータにもわかっていた。

 メインのコントロール・タワーに次いで、ここは基地の内部で最も重要な施設の一つだった。強度が、並み大抵のはずはなかった。

「あなたは、どうするの?」

 マリコの言葉に、部屋の扉に向かった少女は、振り返って笑顔を向けた。

 それが余りにも、自然な動作だったので、誰も特別なことだとは思わなかった。

「起爆装置が壊れた爆薬を、残り少ない時間で、正確な場所で爆発させるためには、他に方法がないのッ!起爆装置にもなるアタシの体って、便利でしょう!?」

 ジェシカの言葉の意味が、その場の全員に伝わるまで、ちょっとした時間が必要だった。

 その間に、少女は行儀悪く足を使うと、扉をこじ開けた。

「ちょっと待って!ジェシカ、それじゃ、それじゃ君は!」

 もう完全に体が動かないはずのコータは、泳ぐように扉の方へ向かった。

 少年を止めようと動きかけて、セレイアスは自分の動作を中断した。いったいどちらを止めるべきなのか、彼にも判断はつかなかった。

「うるさいわねッ、怪我人は大人しく浮いてなさいッ!アタシは、あなたを助けるために、こんなことするんじゃないからッ!マリコを助けるためにやるのッ!!アンタと機長さんは、ただのオマケ!ついでよ、ついで!!勘違いしないでよねッ!?」

振り返るために、上半身をきれいに反転させたジェシカの周りに、栗色の髪が美しい弧を描いて広がった。

 その瞳は、初めてコータが見た時と、まったく変わらなかった。どこまでも晴れ渡った青空のように、一点の曇りもなく澄み切っていた。

 始めて見た時、少年はその瞳の色を眩しい感じた。その髪の色を、美しいと感じた。

 そんな素直な気持ちを、どうしてあの時、言葉にしていなかったのか?コータの胸の内で、後悔が膨れ上がった。

 無意識の内に少年の指は、ショルダー・ジェットのスイッチに伸びていた。彼は、少女を止めようと思った。呼び止めようと思っていた。

「待って、待って、ジェシカ!僕は……」

 しかし、コータはそれ以上、声を出すことはできなかった。

 少年の指が、ジェットのスイッチに触れる直前に、彼の背中を一筋の赤い光が貫いた。少年の背後で、機長に支えられたマリコが、銃を構えていた。

 それを見ていたジェシカの口が、小さく開かれた。少女はその空色の瞳を、黒い瞳の若い女性に向けた。

「大丈夫なの?」

「もちろん、これは人にも電子機器にも有効な、優れモノだそうよ……ジェシカ」

 二人の、同じ人物を父と呼ぶ女性同士が見つめあった。

 お互いにお互いが保護者であり、守られる人だという、不思議な関係の二人が、見つめあっていた。

 少女の空色の瞳が、潤んでいるように見えたのは、セレイアスの気のせいかもしれなかった。

「マリコ、アタシのこと妹って、言ってくれた?」

「何も、覚えていないんじゃなかったの?嘘を吐くことなんか、教えなかったはずよ……」

 若い女性の黒い瞳が潤んでいることは、疑いようがなかった。

 大人の男性は、自分が支える女性の体が、細かく震えることに気が付いて、目を伏せた。

「ありがとう、姉さん……」

「ジェシカ!」

 言葉と同時に、栗色の髪がもう一度弧を描いて、扉の外に消えた。

 マリコは、セレイアスの手を振り払うように、空中に足を進めた。

 扉のわずかな隙間が、外の力で閉められ、ロックする振動が床から伝わった。

「行かないで……ジェシカ、僕は……」

 薄れ行く意識の中で、扉の外に消える少女の背中に向かって、少年はさらに手を伸ばそうともがいた。

 すると、その手の先が何かに触れ、無意識に彼はそれを引き寄せた。手の中には、赤い大きなリボンがあった。少女が、ただの少女であった時の、それは生意気な彼女を象徴するアクセサリーだった。

 赤いリボンを手の中に握りしめながら、少年の意識は薄れて行った。

 力を失ったマリコと、気を失ったままのコータの二人を、セレイアスは両手でしっかりと抱きしめていた。その三人を、部屋全体を揺るがすような衝撃が襲ったのは、それからしばらくしてからのことだった。

 壊れた傘のようなコンロンの先端約半分が吹き飛び、サブ・コントロール・タワーを含む中心軸は、折れた小枝のように反対方向に飛んだ。

 月の軌道近くで、突然のように輝いた爆発の光は、月面基地からも肉眼で観測された。すべての通信が断たれていた人々は、ただただ不安気にその光を見つめるしかなかった。

 その中に、コータの両親もいたが、彼らだけは何があっても平気な顔をしていた。その二人にしても、その爆発のすぐ傍に自分の息子がいたのだと知れば、それほど平気な顔ではいられなかっただろう。

 

 

 

    再会

 

 大気圏外航空機の特別席で、少女の空色の瞳が、生意気な顔で少年を睨んでいた。

「あのねぇー、誰のおかげで助かったのか、よーく考えて返事しなさいよッ!」

 睨まれた黒髪の少年は、髪と同じ色の瞳で少女を見おろしながら、これも意地の悪い口調で言った。

「だいたい誰のせいで、こんなことになったんだと思っているんだ!?少しは、反省しろよなーぁッ!!」

 少年の頭から顔に至るまで、そのほとんどが治療用の白いフィルムで覆われていて、片手も白いテープで固定されていた。

 栗色の髪と、首から上の頭だけの姿でありながら、ジェシカはそんなコータに向かって、思いきり舌を出して見せた。

「ふんッ!いくらそんな顔をしても、体がないんじゃ恐くないやッ!だいたい、その体だって僕のお父さんや、お祖父様達が協力してくれなきゃ、できないんだぞ!その辺ことが、わかっているのかーァ!?」

 コータは、自分が膝の上に抱えた少女の顔に向かって、うっかり白いテープで固定された腕を振り上げようとして、思わず顔をしかめていた。

 そんな少年の態度に、まるで反省の様子が無い少女は、自分の明るい空色の瞳を隣りの座席に向けた。

「あーら、命があっただけ、よかったじゃないのねーェ!そうでしょぅ、お姉さんッ!?」

 同意を求められて、少年と同様に体中を白いフィルムで覆われた上に、黒髪も短くなった若い女性は苦笑した。

 自分の態度に、首だけの少女が機嫌を悪くしたことを察して、マリコはその黒い瞳をチラリと横に向けた。

「まッ、とりあえず、みんなが無事で何よりでした!今度こそ間違いなく、軌道ステーション・オアシスに到着します。コータ君の御両親も、御二人の父上も、お待ちかねですよ」

 座席に脇に立っていた機長は、そう言って小さな茶色い瞳で笑った。

 その機長の片手がしっかりと、黒髪の若い女性の肩に回っていることに、ジェシカが気付かぬ訳はなかった。

「まったく!機長がこんなところで油を売っていて、また乗っ取られたらどうするの!?」

 首だけの少女のその程度の皮肉で、この機長が動じるはずもなかった。

 自分もまた顔や、制服に隠れた体のあちこちに、白いフィルムを張り付けていながら、セレイアスは涼しい顔で肩をすくめて見せた。

「なに、コクピットには、世界警察から引き抜いた優秀なパイロットがいますからね。完全手動操縦でも、心配ありませんよ!」

「何かというとすぐに銃を撃つ、おっかない人でしょう?だから、心配なのよ!」

 少女の生意気で可愛気のない一言に、今度は機長も苦笑するしかなかった。

 その時、コクピットで一人操縦に専念する大柄な女性副操縦士は、派手にクシャミをしていた。彼女は、クシャミが自分の悪口を言われたために起こるという、古い言伝えは知らなかった。

 知らなかったからこそ、世界警察の現役を引退した女性は自分のクシャミの責任を、その場にいない機長に押し付けていた。何しろ、客室の様子を見に行ったきり帰って来ないのだから、彼女が責任転嫁をしたくなるのも無理はなかった。

「二人が座るように設定されている場所なんだから、一人足りないと風通しが良すぎて、体調が狂っちゃうわョ!これで操縦ミスしても、私の責任じゃありませんからね!!」

 文句を言ながらも、彼女の操縦に不安気なところは、まったくなかった。

 大気圏外航空機は地球を下に見ながら、星空を穏やかに進んでいた。その正確な進路の先に、軌道ステーションの姿が見え始めていた。

 軌道ステーション・オアシスには、コータの両親を初めとして、多くの軌道開発関係者が集まっていた。

 今回の事件で、かつてゴドワナ教授が警告した、月の原住生命体の存在が明らかとなり、その対策のための集まりでもあった。相手が高度に知的な精神体だということは、今後の展開の難しさを感じさせた。

 当然のことだったが、ゴドワナ教授は冷凍監禁から解放され、その名誉を回復されていた。そして、コータの両親や祖父の企業の援助で、ジェシカの体を再生する作業を、軌道基地オリンポスで行なうことになっていた。

 月の原住生命体ジョウガの問題のためだけなら、コータはどんなに両親に誘われようと、二度とスペース・クラフトに乗るつもりはなかった。ただ、生意気で可愛気のない女の子の、元の姿を取り戻すために必要と言われると、話は別だった。両親の見え透いた口実とわかっていても、彼に断わることはできなかった。

「そうそう、忘れてた……」

 言いながら、黒髪の少年はポケットから、赤い大きなリボンを取り出した。

 自分の膝の上に抱いた少女の、栗色の髪を軽くまとめると、コータはそのリボンで優しく留めた。

「アタシ、これ子供っぽくて嫌いだわ!」

 ジェシカは、少年にされるがままだということに、大いに気を悪くたようだ。

 不満そうな少女の空色の瞳に、コータは自分の黒い瞳を向けると、穏やかに微笑んで見せた。

「やっぱり、君にはこれがいちばん良く似合う。その空色の瞳と、栗色の髪に映えて、とってもきれいだよ……」

 少年の、なんのてらいもない素直な言葉に、少女は何か言おうとして口を開きかけたが、結局は何も言わずにうつ向いた。

 自分の妹と言うべき少女が、わずかに顔を赤らめたことを、若い女性の黒い瞳が、嬉しそうに見つめていた。その傍らで、大人の男性も瞳と同じ色の顎髭を撫でながら、微笑みを浮かべていた。

「皆様、お疲れさまでした。間もなく、軌道ステーション・オアシスに到着となります。機長!いらっしゃらないと、勝手にオアシスに突っ込みますよ!いいですか!?さっさと戻って下さい!!繰り返します……」

 聞き覚えのある女性のアナウンスが機内に流れ、子供達の無遠慮な笑い声と若い女性の忍び笑いが、やや小柄な機長を赤面させた。

 そそくさとコクピットに戻る機長の背中を、笑いながら見送ると、コータは視線を窓の外に向けた。

 月との中間点である、軌道ステーションに近付くに連れて、当然だが月は異様に大きく見えて来た。表面には、六角形を連ねた通称ハニカムホームと呼ばれる居住施設が、まるで蜂の巣のように広がっていた。

 その中心に、巨大な女王蜂の影が見えたような気がしたのは、少年の子供らしい錯覚だったのかも知れない。

 

 

END

説明
澄み渡る青空の下、少年は自分が乗り込む巨大な大気圏外航空機を見上げている。少年の名はコータ。今年十五歳になる彼は、たった一人で成層圏外に出ることに、内心では不安を感じている。そんな少年の臆病な心境を、今日の澄み切った空と同じ色の瞳で、栗色の髪を大きな赤いリボンで留めた少女が見抜いていた。ジェシカという名のその少女は、生意気で可愛気の無い態度を、堂々と内気で臆病な少年に示す。2人の想いを振り払うかのように、キャメル・ナンバー3は軽快に離陸し、やがて地球の成層圏を離脱した。
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