あやせたん初心に返る (前編) |
「おいおいおい。あやせっ、どうしたんだよ? もう終わりか? 本気で逃げないんなら……お前を襲ってその体を堪能させてもらうだけだがな。クックっクック」
「嫌ぁああああああああああぁっ!」
わたしの悲痛な叫び声が室内に響きます。
でも、本来のこの部屋の主である桐乃は未だ部活中。
おじさまもおばさまも不在で今高坂家にはわたしとお兄さんしかいません。
先に上がらせてもらい桐乃の帰りを待とうと思っていたら、まさかこんな事態に陥るなんて……。
「ヘッヘッヘ。あのムカつく桐乃もたまには役に立つじゃねえか。こんな上玉の獲物を自分から俺のサンクチュアリへと誘い入れてくれるんだからよ」
「獲物だなんて酷いっ! わたしはお兄さんが親切に応対してくれてとても嬉しかったのに……」
時間より早く到着し過ぎてしまったわたしを歓待してくれたのはお兄さんでした。
ついさっきまで一緒にお話してとても楽しい時を過ごしていたのに……。
現在とのギャップに、涙が次から次へとひっきりなしに目蓋に溜まっていきます。
お兄さんにこんな風に簡単に騙されてしまった自分が悔しくて。
お兄さんのあの優しさが本物ではなかったことが恨めしくて。
お兄さんがわたしのことを恋愛対象ではなく肉欲の対象としてしか見てくれないことが悲しくて。
みんなみんな辛過ぎて、涙が、涙が止まりません。
「これだから清純可憐なお嬢様は世間知らずで騙すのがチョロイってんだよ。あんなのは全部あやせを油断させる為の芝居に決まってるんだろ。ヘッ」
お兄さんは鼻を鳴らしてわたしをバカにした瞳で見ます。
「わたしは親友のお兄さんと仲良くなれて本当に嬉しかったのに。酷い。酷過ぎますよぉ」
わたしの内側から生産された水の雫が床を濡らしていきます。
「タクっ。バックに白百合の花を咲かせていそうなお嬢様は頭が温か過ぎて困るっての。そんなお嬢様に俺が特別に世間の荒波ってヤツを教えてやるよ」
「い、いっ、嫌ぁああああああああああああぁっ!」
襲い掛かって来るお兄さん。
わたしは全身を必死に動かして抵抗します。
でも、非力な中学生少女であるわたしが大人の体格を持つ男性であるおにいさんに敵う筈がありませんでした。
わたしはあっという間に桐乃のベッドの上へと押し倒されてしまいました。
そして──
「あやせたんのパンツゲットだぜ〜〜っ♪」
わたしにとって悪夢としか言い様のない最悪な時間が始まったのです。
「わたしのショーツっ、返してください!」
右手でスカートの裾を抑えつつ左手をお兄さんが掲げている白い布へ向かって伸ばします。
「だが、断る」
お兄さんはわたしの左手の届かない位置にショーツを掲げ直すと、事もあろうかそれを自分の頭に被せたのです。
お兄さんがわたしのショーツを頭に被った。
恥ずかしさの余り、わたしは頭がどうかしてしまいそうでした。
「知ってるか、あやせ? パンツは履くものじゃなくて被るもの。インターネット上じゃ常識らしいぞ」
恥ずかしさで死んでしまいそうなわたしとは反対に、お兄さんは得意満面な表情を浮かべています。
「そんな常識知りませんから早く下着を返してくださいっ!」
必死になって左腕を伸ばします。
けれど、その手はお兄さんの右腕に簡単に掴まれてわたしの頭の上へと押さえ込まれてしまいました。
「バカだなあ、あやせたんは」
「なっ、何を言っているんですか! わたしの下着を被っているお兄さんにそんなことを言われたくありませんよ」
体の震えを必死に止めながら大声を上げます。せめて心だけは負けてしまわないように。
でも、そんなわたしの奮い立たせようとする心を折ることさえもお兄さんにとっては楽しみの一つだったのです。
「本当にバカだなあ、あやせたんは。ノーパンで男に組み敷かれていることの意味をもうちょっと考えたらどうだ? 守るべきはパンツじゃなくて純潔じゃないのか?」
ニヤッとバカにした笑みをみせるお兄さん。
その視線の先ががわたしの胸を、そしてスカートの裾で隠されている内腿を向いているのは明らかでした。
お兄さんの言葉の真意に気付き、全身に強い震えが再び走りました。
視界が滲んで震えています。体の震えと涙でわたしの目が正常に見えません。
「お、お願いですっ! それだけはそれだけは許してください。わたし、他のことだったら何でもしますから」
耐え難い恐怖に身を竦ませながらお兄さんに懇願します。
こんな所で好きな人に捧げたい純血を失ってしまうのは絶対に嫌です。
ううん。もうちょっと正確に言えば、せっかく好きな人と結ばれるのにこんなシチュエーションだなんて酷過ぎます。
せめて、お兄さんが一言でもわたしのことを好きだって言ってくれるなら。そうだったらわたしは別に、ううん、喜んで……。
でも、そんな願いもお兄さんの下種な笑いの前に吹き飛ばされるのでした。
「ヘッ! 上玉中学生に手を出せる千載一遇のチャンスを不意にできるかってんだよ。中学生なんてよぉ、頭の中身はガキ過ぎてとても付き合う気にはなれねえが、体だけなら楽しませてくれそうだからな」
「お兄さん酷い。酷過ぎですよ……」
わたしが密かに灯し続けてきた恋の炎は最も残酷な形で吹き消されてしまったのです。
お兄さんはわたしの体にしか関心がなかったのです。
わたしではどう頑張ってもお兄さんの恋人になれないと告げられてしまったのです。
全身から急激に力が抜け落ちていきました。
「さて、抵抗も弱くなった所であやせたんの体を堪能させてもらうとするか」
「…………っ」
お兄さんの手がわたしのブラウスを引き裂き、ブラが露になります。
更にお兄さんの手は伸びて今度はブラを掴もうとしています。わたしが大切にしてきたものが奪われようとしています。
でももうわたしにはお兄さんに抵抗するだけの体力も気力も残されていなかったのです。
桐乃の部屋の窓の外に見える空がとても色褪せて見えていました。
そしてお兄さんはわたしの未だ汚れなき体を──
「やっぱり、お嬢様の方がお兄さんの受けも良いですよね」
ベッドから上半身を起こし、先程まで見ていた夢を分析してみることにします。
高坂京介お兄さんは良くも悪くもノリで動く人です。漫画の主人公タイプの男性とでも言いましょうか。
お兄さんは普段自分から動くことがほとんどありません。消極的でノリの悪い人です。
わたしに自分からは一切連絡をくれない所やマネージャーの仕事を本当に渋々している所などが該当します。
でも、自分が関わると決めた問題にはトコトン全力で関わろうとするノリの良い人になります。桐乃との喧嘩を仲裁した時のお兄さんの行動力とエネルギー、そして情熱は凄いものでした。
そんな両極端な特性を持つお兄さんが望む女の子はどんな子か?
考えていくとそれは自分から行動を起こしたくなるような少女。言い換えれば守ってあげたくなるような雰囲気を発している健気で柔らかい女の子なんじゃないかと思います。
もっと端的に言ってしまえば、お兄さんはきっと昔ながらの清純派お嬢様タイプの子が好きなんじゃないかと思います。
男の子の本分を発揮して全力で守ってあげたくなるような女の子。そんなお兄さんの好みに比べてわたしはどうでしょうか?
「お兄さんはわたしのことを暴力的な女の子としか認識してませんよね」
お兄さんはわたしの顔を見るとまず震えます。もしくは顔を引き攣らせながら警戒します。
中学生の女の子に対して随分酷い反応だと思います。
確かにわたしはお兄さんにすぐ手を上げているかもしれません。
でもそれはお兄さんがわたしにすぐにセクハラをして来るから仕方なく反撃しているだけなんです。
好きで攻撃している訳じゃないんです。
なのに、なのにお兄さんはわたしを暴力女と認識してそれを改めてくれません。
その結果、いつもわたしはお兄さんの関心の外になってしまったのです。
わたし1人だけ、お兄さんの遊びの輪に加われません。
わたしがお兄さんと会えるのは偶然か、わたしがお兄さんを呼び出した時だけです。
暴力的で口が悪くておまけに狡い女が自分を良いように利用している。
お兄さんの中のわたしに対する評価ってこんなものの様な気がします。
「現状を、変えないことにはわたしに勝機はありませんよね」
現状打破。
それこそが今のわたしにとってはどうしても必要なものでした。
問題は、何をどう変えるかということですが……。
「お兄さんに認識を改めてもらう為には……根本から変えないとダメ、ですよね」
この手に幸せと言う名の栄冠を掴む為には荒療治が必要だと思いました。
「桐乃、大事な話があるの」
「どうしたの、あやせ? 急に改まっちゃって」
放課後、夕日が差し込む教室でわたしは一番の親友に話し掛けます。
大事な、大事な決意を告げる為です。
その親友はハガキ職人にでもなりたいのか、某アニメのラジオ番組宛に何枚も手紙を書いています。
幼稚園児が描いたとしか思えない前衛的なイラストを載せて。
桐乃、あんなに漫画やアニメが好きなのに絵心はまるでなかったんですね。
いえ、今重要なのは桐乃の美術の成績は散々なんだろうなあと想いを巡らすことではありません。
桐乃に人生最大級の決意を告げることです。
「で、話って何?」
桐乃が手を止めてわたしを見上げました。
緊張が込み上げてきます。
でも、自分から話すと決めた以上、話さないわけにはいきません。
「実はわたし……初心に返ろうと思うの」
「はいっ?」
わたしの決意を聞いて親友はパチクリと大きく瞬きを繰り返していました。
あやせたん初心に返る (前編)
「初心に返るって言われても、何の初心なのだかわからないのだけど?」
桐乃が面倒くさそうな表情をわたしに向けます。
『さっさとハガキの続きを書きたいんですけど』という無言のプレッシャーを感じます。
もう少し親友からの相談の優先順位を上げて欲しいです。
「わたしね、自分のキャラ作りの原点に返ろうと思うの」
「アンタ、幾らアタシたちがモデルで色々作っているからってあんまり露骨な表現使うのはやめなさいよ」
近親相姦願望が果てしなく強いエロゲーマーオタクビッチに言われると身に堪えます。
この女、キャラ作りまくりですからね。特に昔の桐乃は外面完璧超人で中身は廃人オタクでした。そのキャラ作りの大先輩の言葉だけに耳が痛いです。
でも、負けません。
「とにかく、わたしはね。清純可憐な白百合という表現がぴったりのお嬢様キャラに立ち返りたいの。ルネッサンスしたいの」
「自分で白百合とかお嬢様キャラとか言うんじゃないの。ていっ!」
桐乃の手刀がわたしの額に入ります。
「桐乃、ツッコミ厳しい」
すっかり凶暴粗暴ビッチキャラが定着してしまった桐乃にわたしの話はなかなか通じません。
きっと高坂家でも暴力妹として君臨しているに違いありません。わたしがお兄さんをそんな暴力が支配する家から救い出してあげないと。
その為にもわたしは初心に返らないとダメなのです。
「とにかくわたしは、“クケケケグギャギャ”で“中に、誰もいませんよ”的なキャライメージを払拭したいの。あやせってひぐらしかSCHOOL DAYSに出ているキャラだよねって思われたくないの」
「まあ、あやせがヤンデレとして世間様に認知されている可能性はあるかもしれないわね……」
桐乃が大きく首を捻ってわたしから目線を逸らします。
まるで、わたしはヤンデレとしか世間で認知されていないかのように。
「後ね、アニメの公式サイトのセンター絵でね……わたし、出てないの。黒いゴスロリの人と大きな人とお姉さんはいるのに……」
わたしと桐乃がセンターで6人で構成されていても良い筈なのに。わたしが、いないんです。
「えっと……それは、その、何ていうか、その……あやせは、物語的には脇役だから……」
桐乃がわたしに背を向けて何か小声で呟いています。
「おかしいよね、そんなのっ! わたしと桐乃は親友なのに……わたしだけ、外されているなんて……」
桐乃の肩を背後から掴んで激しく揺らします。
「ちょっ、ちょっ、落ち着いて、あやせっ! 痛いっ、痛いってばぁっ!」
「これもあれも、みんなわたしがヤンデレだなんて間違った認識が世に広まったからなの! 刑事訴訟を起こされそうなヤバ人間は広告に載せられないって誰かの陰謀なのよ!」
「わかった。わかったから放してぇ〜〜っ!?」
涙声を出す桐乃。
ブランブランと前後に揺れる桐乃の頭を見ているとふと一つの考えが浮かんできました。
「広告に出られるのは5人。なら1人欠員が出れば……わたしが代わりに入れるんじゃないかな?」
それは口に出してみると実に素晴らしいアイディアに聞こえました。
そして、わたしの目の前には実に無防備に見える“首”があったのです。
「ウフフ。ウフフフ。ウフフフフフ」
何だ。こんな近くにわたしが主人公の物語を作れる道筋があったんじゃないですか?
新番組『俺の天使がこんなに可愛いはずがない R-18』を作る算段が。
後はこの“首”さえへし折って後は山の中にでも埋めてしまえば……わたしがヒロイン。クスッ。
「ひぃ〜〜っ!? あやせはやっぱり重度のヤンデレよぉ〜っ!」
桐乃の言葉にハッと我に返ります。
「や〜ね〜桐乃〜。冗談に決まってるよぉ〜。わたしが親友の桐乃をどうにかするわけがないじゃない♪」
「嘘だっ!」
桐乃が吼えてわたしの言葉を打ち消します。
思わず心臓が止まるんじゃないかと思ったぐらいに激しい一言でした。
でも、わたしは負けられません。
イメージチェンジに成功しないことにはお兄さんのお嫁さんになって幸せな家庭を築くことができないんです!
いえ、間違いました。
わたしをヤンデレと勘違いして大幅なイメージダウンを巻き起こしている渦の中心にいるお兄さんを認識を改めさせないといけないんです。
その為だったらわたしは何でもやります。
例えば、お兄さんがわたしを良く思っていないのはいつも妹の味方をしているからです。
だから、この小生意気で調子に乗ったビッチな妹さえいなくなれば……ハァハァ。
「ひぃいいいいいいぃっ!?」
何故か桐乃がわたしを見ながら悲鳴を上げました。
どうしたのでしょうかね?
「とにかくあやせの話はわかったわ」
「本当っ!?」
桐乃は強くしっかりと頷きました。
「あやせのヤンデレを治さないとアタシはいずれ加奈子のように殺される。それがよくわかったわ」
「もぉ〜。わたしが親友の桐乃に何かするわけがないよ〜」
右手に持っていた10億ボルトスタンガンを後ろ手に隠します。勘が良いですね。チッ。
「そういう訳でわたしはあやせがヤンデレをやめて、非暴力清純派キャラに転換することを応援するわ」
「ほんとっ!?」
桐乃の手を握ります。
2回もわたしのことをヤンデレと言い切ったことにもこの際目を瞑ります。
成功したら、ですけど。
「こう見えてもアタシは千のエロゲーをコンプリートして来た猛者。数々の作品内で人格改造されたキャラを見て来たから、人格改造のエキスパートと言っても過言ではないわ」
「わ〜。桐乃ってバリバリのゲーム脳なんだね〜」
「そんなに誉めないでよ。照れるじゃないの」
やっぱりテストの点数が高いのと頭が良いってのは別物なんだと思います。
「そのアタシが薦めるてっとり早いキャラ改変の方法。ずばり、それは催眠術よっ!」
そう言って桐乃は財布から5円玉を取り出し、ソーイングセットから出した黒い糸に結び付けました。
「桐乃みたいな人がいるからゲーム脳って言葉はいつまでもなくならないんだろうね♪」
誰にも自分の趣味を理解してもらえなかったから変な方向にひた走っちゃったんだね。
ごめんね、桐乃が苦しんでいる時に気付いてあげられなくて。今更遅いけど。どう頑張っても社会復帰は無理だろうけど。
「大丈夫大丈夫。あやせみたいに超頑固だけど単純な思い込みだけで生きている人間は、アタシの超パーフェクト催眠術に簡単に掛かるに決まってるんだから」
「桐乃、殴って良い?」
わたしは今、非常に暴力を振るいたくて仕方がありません。
ほんと、1年の間に遠い所に来ちゃったんだなあって思います。
「で、あやせに先に一つ確かめておきたいんだけど」
5円玉をブラブラと揺らす練習を熱心にしていた桐乃がわたしに振り返ります。
「何?」
「何で初心に返りたいと思うようになったの?」
桐乃の質問を受けてドキッとします。本当のことを知られるわけにはいきません。
「えっと、ほらっ。わたしもモデルだし、やっぱり男性から人気がある方が嬉しいし……」
「グラビアモデルは人前には姿を現さないんだから、別に性格云々は関係ないでしょうが」
桐乃の顔が険しくなりました。
「でも、ほらっ。お兄さん……じゃなくて、男性に人気を得る為には内面から変えないといけないと思っただけよ」
「初心に返りたいのって……アイツの為だったんだ。ふ〜ん」
桐乃から氷のように冷たい視線が突き刺さります。
「ち、違うよ。わ、わたしは、お兄さんのことなんか全然好きじゃないんだから!」
首をブンブンと力強く横に振ります。
超ブラコンの桐乃にわたしの本当の気持ちを知られてしまったら大変です。
何としてでも隠し通さないといけません。
いえ、本当の気持ちと言っても、単に親友のお兄さんとは仲が悪いままでいるのは良くないというだけのことですよ。
別に彼女になりたいとか、結婚したいとか、子供の名前は男の子だったら小鷹、女の子だったら小鳩にしようとか全然考えてませんからね!
「へー。そうなんだー」
桐乃はまるで納得していません。
「ち、違うのよ。別に桐乃が勘ぐっているような変な意味じゃないのよぉ!」
「じゃあ、どんな意味なのよ?」
お兄さんと知り合うようになってから桐乃が見せるようになった絶対零度の視線。
将来の小姑は明らかにわたしに疑いを掛けています。疑われるような進展は何もないのに……。
「あっ、えっと……お兄さんが、全然、相手してくれない、ことが問題、かな?」
トーンダウンします。
改めて問題点を口にしてみると、その次元の低さに悲しくなります。
わたし、一応人気モデルの筈なのに……。
「何でアイツに相手されないとあやせにとって問題なのよ? 学校違うんだし、アタシの家に遊びに来ても顔合わせなければ良いだけだし、問題は何もないと思うんですけど?」
桐乃があからさまに嫌そうな表情を向けて来ます。
「そ、それはあれよ。ほらっ、やっぱり、親友のお兄さんなんだし仲良くしておいて損はないと思うの」
「その親友が仲良くする必要はないって言っているんですけど?」
桐乃の細められた冷淡な視線がわたしを捉えます。
チッ! 察しろよ、このブラコン。
「まあ良いけどね。アイツが誰と付き合おうとアタシには全っ然関係ないし!」
全然関係ないと言いながら、桐乃のわたしを見る視線は親の仇のようです。
これ以上話していると、更なる怒りを買ってしまいそうです。
「ほらっ、もうすぐ完全下校の時刻だし、早くその催眠術を試してみようよ」
多少強引にでも話題を進めます。
「そうね。あやせを最初の原点に戻してあげないといけないわよ、ね……」
桐乃が一瞬、唇の端だけ曲げて邪悪な笑みを浮かべたような気がしました。
でも、次の瞬間にはいつもの表情に戻っていたのでわたしの気のせいだったのだと思います。
「さあ、高坂桐乃の一世一代の大魔術を披露してあげるわよっ!」
右手を上げた桐乃がわたしの目の前で5円玉を左右に揺らします。
「あなたは段々眠くなる〜眠くなる〜」
桐乃がお決まりのフレーズを唱えながらわたしに催眠を掛けようとします。
でも、それはどこかコミカルな光景で笑いを誘ってしまいます。
「あはは。やっぱりこういう催眠術ってテレビでも信じられないなあって思っていたけれどやっぱり……ク〜……」
わたしの意識は急激に霞んでいきました。
催眠術って本当にあったの、ですね。
わたしの意識はそこで完全に途絶えたのでした……。
今日の俺は無性にあやせに罵られたい気分だった。
「あぁ〜っ! 街中で妹みたいな年下の女の子、要するにあやせに口汚く罵られてぇ〜っ! 唾を吐かれて足で踏まれてこのゴミ豚がと蔑まれながらゴミ箱に蹴り入られてぇっ! 年下の女の子、というかあやせ限定でっ!」
健全な男子なら一度は囚われるに違いない、少女から蔑まれたい衝動。
衝動は心の内から体を揺り動かす外傷へと変わる。
心臓が、全身がビクンビクンと跳ね上がる。
頭が熱くなって冷静な判断ができない。40℃近い熱を出した時のような立っているのも辛い状態。
この発作を収めるにはあやせから罵倒される以外に方法はなかった。
「こんな時こそあやせたんが必要だ。ラブリー・マイ・エンジェルの怒声と暴力が俺にはどうしても必要なんだぁ〜っ!!」
あやせの罵りが、スタンガンが、パンツまで見えてしまうハイキックが俺のサバイバルには必要だった。
「あやせぇ〜〜っ!」
救世主の名を大声で叫ぶ。
俺の嘆きが大空を伝って彼女に届くように。
「はいっ、呼びましたか?」
「って、近くにいたのかよっ!」
突如目の前に現れたマイエンジェルの存在に驚かされる。
「こんにちはです、お兄さん」
ペコッと頭を下げるあやせ。
さすがお嬢様だけあって礼儀正しい。
でも、何か変だ。
何かこう、あやせの反応に違和感を覚える。
「それでお兄さん、わたしに何か御用でしょうか?」
ニッコリと笑みを浮かべながら尋ねるあやせ。
その瞳は優しさと清らかさに満ちている。
か、可愛い。
さすがは俺のラブリーエンジェル。顔だけなら間違いなく俺ランキングぶっちぎり1位の心の清涼剤。
でも、やっぱりおかしい。
あやせがこんな清純で無垢な笑顔を俺に向けるなんて、うちで初めて会ったあの日だけだぞ。
何故、そんな万人を魅了するようなスマイルを今の俺に向ける?
去年の夏コミ以降あやせはいつも俺を警戒し、軽蔑し、バカにする表情を向けていた。
何かというとゴミを見る表情を向けてきた。そして罵り、蹴って、スタンガンを放って来た。
常に警察の存在をちらつかせ、何かある度に実際に防犯ブザーを押しやがってくれた。
そのあやせが何故今日に限って、俺に優しく笑い掛ける? 一体、どうなっている?
「怪訝な顔をして、一体どうしたんですか?」
心配そうな表情であやせが俺を覗きこんで来る。
その瞳は澄んでいて、いつものような俺を蔑み遠ざけようとする色が見えない。
コイツ、本当に新垣あやせなのか?
「いや、何でも……クッ!?」
心臓が跳ね上がりやがった。
痛てぇ。胸がズキズキしやがる。
「あの、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ」
あやせに笑って返そうとしたが顔が痛みで引き攣ってしまう。
罵られたい発作はまだ収まってないってのかよ。
やっぱりあやせに罵倒されて蹴られないとこの苦しみからは解放されねえ。
機嫌良さそうな所を悪いがいつもの通り俺を罵ってくれ、あやせっ!
「あやせ……大事な話があるんだ」
心臓を右手で押さえながら話を切り出す。
「大事な話、ですか?」
あやせの体が一瞬ビクッと震える。
「そうだ。今、ここであやせにどうしても伝えないといけない大事な話なんだ。心して聞いて欲しい」
「心して聞いて……は、はいっ。わかりました!」
あやせの背筋が伸びる。
けれど、その顔は僅かに横を向きながらチラチラと目だけで俺を見ている。
何故か知らないが頬は赤く染まっている。
よくはわからないが、聞く姿勢は整ったと見て良いのだろう。
「いいか、あやせ。俺はな……」
「はっ、はいっ!」
あやせがギュッと目を瞑った。
「お前に蔑んで欲しいんだっ! 罵って欲しいんだっ! 蹴って欲しいんだっ! 無慈悲にスタンガンで感電させて欲しいんだっ!」
俺の胸の内を素直に吐露する。これで、気持ち悪いとあやせたんから罵声と共に蹴りがお見舞いされるはずだ。
そうすれば俺はユニバースへと導かれるっ!
「お、お兄さんのことはとても素敵な男性だと思います。でも、あの、その、わたし、まだ男女のお付き合いとかよくわからないですし、お兄さんのこともよく知りませんですし。
でも、だからといって、わたしは、お兄さんのこと……えっ?」
「はっ?」
俺たちは互いによくわからないという風に顔を見合わせた。
「お前、何を言ってるんだ?」
「お兄さんこそ、一体何を言ってるんですか?」
会話が噛み合わない。おかしい。いつものコミュニケーションが成立しない。
俺がセクハラしてあやせが暴力を振るうという俺たちのいつものコミュニケーションが。
「俺はただ、いつものようにあやせに暴力を振るって欲しいと思ってお願いしたんだが」
普段なら回し蹴りの2、3発はもうもらっていてもおかしくないのに。錐もみ回転しながらアスファルトの地面に叩き付けられて尚且つ罵声を浴びていてもおかしくないのに。
「わたしが大切な親友のお兄さんに暴力を振るえるわけがないじゃないですか。何を言っているんですか、まったくもう」
あやせは頬をプクッと膨らませて可愛く怒ってみせた。
「はいぃ〜っ!?」
けど、その受け答えを聞いて俺は本気で驚いたね。
桐乃にオタク趣味を暴露された時よりも数倍、いや、数十倍驚いたね。
「あやせ、お前、どうかしちゃったのか?」
いや、聞くまでもなくあやせはどうかしている。
暴力のないあやせなんて、ツンのない桐乃みたいなもんで気持ち悪くて仕方がない。
いや、もう別の人物と呼んだ方が俺的には理解し易い。
「わたしは普段通りの新垣あやせですよ、お兄さん」
敵意を感じさせない天使の笑みを浮かべるあやせ。
あやせがこんな可愛い表情を浮かべるなんて絶対におかしい。いや、もう確信した。
「なあ、あやせ。最近頭を打ったとか、変なものを食べたとか、妙な催眠術に掛かったとかそういう体験はなかったか? こう人格に影響を及ぼすような」
あやせは思い込みが凄く激しいヤツだから、意外と簡単に催眠術に掛かって変な暗示に掛かってしまいそうな気がする。
こう、目の前で5円玉を揺らされただけで人格が変貌しちゃうとか。あやせなら十分にあり得るからなあ。
「変わったことなんかありませんよ。大体、催眠術で人が変わるなんてお話の中だけのことですよ。お兄さんったら冗談ばっかり」
クスッと可愛らしく笑うあやせ。
その笑みには俺をバカにする気配が感じられない。
「そ、そうだよな。催眠術なんて非科学的だよな。あっはっは」
「そうですよ。クスッ」
あやせに合わせて笑う俺。
やべぇ。これ、マジやべえ。
あやせの態度がいつもと違い過ぎる。
何でこんなに俺に優しいんだ?
新手のイジメのスタンダードか、これ?
「そ、それよりもですね。お兄さん……」
あやせは急にモジモジし始めた。
いつもの何か計算を感じさせる仕草と違い、凄く可愛い。
さすがはマイ・エンジェル。
「何だ?」
「お、お兄さんは年下の女の子のことをどう思いますか?」
「どう思いますか、とは?」
質問の要領が得ないのもいつものあやせらしくない。
いつものあやせは俺にお願いというスタンスを取った命令しかして来ないからな。
「ですからその、恋愛対象として年下の女の子というのはお兄さん的にはどうなのかなあと思いまして……」
「恋愛対象として、か?」
年下の女……桐乃のことか?
桐乃のことなのだろうな。だとすると面倒くさい質問だ。
俺はいつまで近親相姦兄を演じ続けないといけないんだか。
あれは嘘だってあやせにはとっくにバレている気もするし。
それ以前に、嘘がバレた所で壊れるような関係でも2人はないだろう。
けれど、せっかく2人が仲良くしているのに、わざわざ俺がヒビを入れるような真似をしても仕方がない。
なら、俺に取れる選択は一つしかない。
「俺は妹大好き人間だからな。当然恋愛対象は年下に限るぜ。あっはっはっは」
我ながら実にバカっぽく笑いを発してみる。
俺はこの先もずっとこんなアホな演技を続けないといけないのかとちょっぴり泣きたくなりながら。
「年下っていうのは、その、具体的に何歳差のことを意味しているのですか?」
まだ聞くか、このいじめっ子は。
俺を高度な揺さぶりで圧迫しようというのか。
こんな間接的に首を絞めて来る攻撃じゃ気持ち良くなれないってのに。
まあ、あの大喧嘩の火種は俺が作ってしまったことも確かだし、まだ乗ってやるか。
「俺は妹大好き人間だから、妹基準で3歳違いなんか最高だな。あっはっはっはっは」
ちょっとだけ言いながら死にたくなってきた。
何で俺、天下の往来で変態シスコン兄貴を気取っているの?
「じゃ、じゃあ、中学生の妹的な女の子はお兄さんの恋人になれる可能性があるってことでしょうか?」
「それは……」
かなり面倒くさい質問が来てしまった。
これはあれか?
俺が桐乃を愛しているのかという確認なのか?
それとも俺が桐乃以外の中学生に手を出すかもしれない可能性への警告なのか?
どっちとも取れる。
そして、どちらで答えてもあやせは理不尽に怒りをぶつける気がする。
この近親相姦変態男がぁ〜〜っ!
この変態ロリコン浮気者男がぁ〜〜っ!
うん。きっと結果は同じだな。
普段であればそれは最悪な選択。
だが、今の俺はあやせに罵られたくて堪らない。
つまり、どんな選択肢を選んでもアヴァロンに到達できるのだ。
何だ、最高じゃないか。
となれば、回答に躊躇う理由など存在しない。
「妹っぽい女の子ならオールオーケーに決まってるさっ!」
歯を光らせながら親指をグッと立てて見せる。
さあ、俺のこの美しい顔に鋭い蹴りを入れてくれっ!
「……それって、つまり、わたしでも恋愛対象として見てくれるってことですよね?」
「あの、何を言ったのか聞こえなかったのだが?」
あやせの声が小さ過ぎて聞こえない。けど、変だ。
あやせはまず暴力を振るってから言葉で激しく罵ってくる。
だから、俺はもう地面に倒れ伏してなきゃいけない筈なんだ。
なのに何故、俺は無傷のままなんだ?
おかしいだろ、これはっ!
「なあっ、あやせっ!」
「は、はいっ。何でしょうか……?」
あやせが俺の声に驚いて体をビクッと震わす。
違うだろ。その反応は俺がお前にするものじゃないか!
「頼むからっ! いつもみたいに俺を罵ってくれよ! 俺を蔑んでくれ! 蹴ってくれ! スタンガンで感電させてくれっ!」
今のあやせは俺にとって我慢できない。
こんなの、俺の知ってるあやせじゃちっともねえ!
頼むから、俺のマイ・エンジェルに戻ってくれぇ〜っ!
「し、親友のお兄さんに酷いことなんてできるわけがありませんよ」
「なっ!」
呼吸が、止まった。
「今日のお兄さんはきっと受験勉強のし過ぎで疲れているんだと思います。だからおかしなことを口走っちゃうんですよ。たまには気分転換しないと駄目ですよ」
優しく、諭されてしまった……。
「それではわたしはこれからモデルの仕事がありますのでこれで失礼しますね」
「あ、ああ」
呆然としながら失われてしまった少女を見る。
“あやせ”は俺に向かって丁寧に頭を下げると去っていった。
「天使が……消えちまった。天使が、この世界からいなくなっちまった」
あやせの豹変をそう結論付けるしかなかった。
後編につづく
説明 | ||
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