うそつきはどろぼうのはじまり 27
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胸騒ぎがした。

顔見知りの人間の側まで来ておきながら、何も言わずに黙って立ち去るなど、これまでの彼の行動からはおよそありえないことだったからだ。

エリーゼはがばりと身を起こし、服についた砂を大雑把に払った。宿の室内は灯りがついているが、油断はできない。

浜辺から続く階段を軽やかに駆け上がり、少女はそっと扉を押して中の様子を伺った。部屋の明かりは皓々とついているというのに、物音一つしない。それでも人の気配は確かにあるので、足音を忍ばせつつ、慎重に様子を探ってゆく。

年端のいかないうちから前線で戦ってきた少女の勘は、室内においても遺憾なく発揮された。気配を最も強く感じていた居間には、確かに人間がいた。エリーゼは瞬く間に警戒を解く。

長椅子にもたれていたのはアルヴィンだった。地図を卓に、地元紙を膝の上に広げたまま船を漕いでいる。握っていたであろう筆記具は、手から滑り落ち、床に転がっていた。

(・・・寝てる・・・)

エリーゼは忍び足で近寄る。耳を澄ますと、規則正しい寝息が聞こえた。

自分がそうだったように、男も疲労が蓄積していたのだろう。久々に追っ手の気配に神経を尖らせずに済むとあれば、気が緩むのも当たり前だ。

今まで気づかなかったが、そういえば少し、やつれた気がする。

(アル・・・)

少女はそっと自分の二の腕を抱いた。見ると、窓の外はもう真っ暗だ。地理的に南国とはいっても、夜になると気温はぐっと下がる。

エリーゼは上着を取りに行くついでに寝台から上掛けを剥がし、男の長身にそっと着せ掛けた。風邪を引かれては大事である。

造り付けの台所で温かい紅茶をポット一杯に沸かして、エリーゼは居間に戻った。一旦飲み物と器を卓に置いてから、入り口に脇に寄せておいた私物を漁る。目当ての荷物を手に取ると、そのまま男の向かいに腰掛けた。

布張りの長椅子の手すりに、外套が放り出されている。先の旅から着続けているアルヴィンのコートだ。確か、叔父から譲り受けた物らしい。

エリーゼはそれを手に取り、膝の上に置いた。裾の部分を丹念に広げ、ある場所を見つけて手を止める。彼女が気になっていた破れれがそこにあった。

やっぱりあった。見間違いなどではなかったのだと確信を深めつつ、少女は針と糸を取り出し、裏から丁寧にかがっていく。

時折茶器を傾けつつ、黙々と針を進めていると、ふいに男が寝返りを打った。

「うー・・・ん?」

どうやら目が覚めたらしい。男は寝ぼけ眼の黒い瞳で、こちらをぼんやりと見てくる。そのあまりの緊張感のなさに噴き出しそうになるのを堪えながら、エリーゼは律儀に挨拶をした。

「おはようございます。といっても今は夜ですけど」

彼女の声で、ようやく現実を再認識したらしい。アルヴィンは突如、文字通り頭を抱えた。

「やべっ・・・うわー寝ちまってたか・・・。エリー、俺どんぐらい寝てた? ってか起こせよ!」

「その言葉はそっくりそのままお返しします、アル。浜辺でうたた寝していたわたしを、すぐ側まで来ていながら、声も掛けずに部屋へ戻ってしまったじゃないですか」

男は言葉に詰まった。どうやって自分の接近を知ったのかは分からないが、ここまで言い切っている以上、下手に、近づいてなどないと嘘をつこうものなら、鼻先に物的証拠を突きつけられそうである。

しかし、だからといって起こさなかった理由を言うわけにはいなかった。言えない。口が裂けても言える訳がない。寝顔に見惚れて思わずキスをしそうになったなどと馬鹿正直に告白する性根は、生憎持ち合わせていないのだ。

「・・・それよりエリー、お前人の寝顔見ながら何してたの。広げてるそれ、俺のコートだよな?」

エリーゼは男に、もう一つの茶器を手渡してやる。保温器から出したての陶器は温い。アルヴィンはポットから熱い茶を注ぎながら訊ねた。

「裾に穴が開いていたんです」

「え、まじで!?」

「結構前からですよ。気づいていなかったんですか?」

言いながらもエリーゼは縫う手を休めない。同系色の糸でかがり終え、端を慣れた手つきで切る。彼女が握っているのは糸切り鋏だ。携帯用だから柄も刃も小さい。

その刃に、男は金の色を見た。木綿にしては細く、艶やかな光沢がある。そう、例えるなら絹糸のような――

アルヴィンは思わず指差していた。

「その鋏だったのか・・・」

手元を指摘されている理由が飲み込めず、エリーゼは小首を傾げる。

「はい?」

「いや、お前が髪を切ったのって・・・」

ああ、と合点がいったらしく、少女は大きく頷いた。

「ええ、そうですよ。手持ちの刃物は、これくらいしかなくて」

あの時は急いで変装するする必要がありましたしね、と刃の付け根に絡まっていた髪の毛を丁寧に取り除く。

「よくそんな小さい鋏で切れたな」

男が感心したように言うと、エリーゼはくすぐったそうに笑った。

「布以外の物を切ったら、刃がなまって肝心の糸が切れなくなるかもって心配してたんですけど。――大丈夫ですよ、ちゃんと切れましたから」

一張羅を駄目にされでもしたらと危惧していると勘違いしたのか、エリーゼは笑顔でかがった部分を広げて見せた。彼女自ら針と糸を持ち出しただけあって、裁縫の腕も確からしい。引っかき傷はものの見事に修復され、よくよく顔を近づけないと縫ってあることすら分からない程だった。

「へえ・・・見事なもんだ。助かったよ、ありがとな」

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