うみでんしゃ
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 最寄り駅への電車を駅のホームで待ちぼうけ。ちっぽけな手のひらの上、使い古した携帯電話が世界じゅうのニュースを小綺麗に映し出している。昼間だというのに冷たい風が肌を突き刺し、かじかんだ指はうまく動かない。それでも、この携帯を手放すには至らなかった。次の電車が参ります。案内音声が僕の耳に届けられる。画面から目を離すことはない。どうせ今時の電車など、正確無比に停車位置の褪せた印字を守るのだ。鋭く冷たい風の波と共に、目の前に電車が来る感触。ぴんぽーん。ドアの開閉を知らせる音。僕は顔を上げた。

 

 水。

 

 残念なことに僕の前にあったのは、生来より馴染み深い白っぽい車体ではなく、まったく水色で染め上げられている、やわらかそうな電車のようなものだった。それは明らかに鉄製ではなく、電車を象った氷細工のよう。いや、見たままを言えば、水細工だ。開かれたドアの向こうでは、やはりやわらかそうな水がぴちゃりぴちゃりと湛えられている。ドアが開いたのだから水もこぼれるはずだろう。そんな現実めいた考えは現実に無視され、水は生き物のように呆然としていた僕に迫り、ぐにゅりと飲み込んでしまった。僕は呆気なく飲み込まれてしまった。ぴんぽーん。ドアが閉まる。

「がっ、がぼっ」

 僕はすっかり水の電車に捕まえられた。口から空気が漏れ、白い泡が天井へ向かう。携帯が僕の手から離れ、漏電しながら床へと落ちていく。息苦しさに責め立てられて、なんとか水上へと上がろうと僕の手足は勝手にもがいた。それでも、ぴっちりと水で満たされた、車内のどこにも空気はない。しかし、不思議とパニックにはならなかった。頭の奥にひんやりとした芯が突き刺さっているよう。息苦しさはいつしか薄れ、代わりに僕の意識がまるで夢の中にいるように、おぼつかないものになっていく。口から全ての空気が吐き出され、僕は電車に抱かれたモノになった。

 

 そうして、電車は静かに動き出した。車内の広告も、吊革も、水に浸っているから、動くことはない。もちろん僕も動かない。窓の外から見えるのは、普段から見続けたいつもの景色。近くに見えるのに、もう遠い世界。それは見続ければ見続けるほど、どんどん色が失せていく。形ばかりが残り、あとはすべて水色に染まっていく。気づけば輪郭すらも揺らいで、少しずつ、風景がなくなっていく。少しずつ。壁も。吊革も。広告も。服も。そして携帯電話も。水に溶けていく。景色も。電車も。世界も。溶けていく。深い、水色の中へ。

 

 残ったのは、僕がひとり。

 

 そこは静寂の海だった。僕はそこで浮かびながら、空を眺めているだけ。揺らめく太陽の光があまりに遠くて、僕の体を照らし出してくれない。目がそっと閉じられ、暗闇に落ち込んでいく。このまま音もなく沈んでいく。深い深い水の底へ。深く、深く、深く……

 

 嫌だ。

 

 そんな衝動が、確かに僕の中に芽生えた。僕の中の冷たい芯が抜け落ちて、刺さっていた場所に熱が篭もる。僕は見るために目を開いた。どくん。胸が鳴った。

 しかし、僕の体の中に息苦しさが舞い戻り、心は再びきつく締め上げられた。この深い海の中、僕はもがくことすら出来はしない。冷えきった身体。

 僕は泳げやしなかった。もともとそうだったから。それでも、僕はここで泳がないといけない。空気を吸わないと。今すぐ、ここから出ないと。たとえ、どれだけ冷たいとしても。

 その思いが、僕の曖昧な形を変えてくれた。この海で沈まないために。

 すでにふやけて輪郭の弱い僕の体は、形を変え始める。土気色をしていた僕の皮膚は、剥がれるように色を落とす。それは純白へと化すこともあれば、そっと黒く染め上がることもある。僕の体は肥大化し、輪郭はなだらかなものになっていく。風船のように四肢と体が膨らんでいく。勢いをつけて水の中を昇る。体全体をつかって、水の中を切り割くように。そのための体ができあがっていく。手は指をなくし、長さを失う。それでも、水の中を正しく泳ぐ為の胸鰭は、間違いなく僕の役に立ってくれる。小さい足などよりも、太く長く力強い尾鰭こそがふさわしい。新たに生まれた背鰭が、僕の動きを後押ししてくれる。首も顔も境目が消えて、流れるような身体は、すっかり水を支配していた。

 体を動かし、水を動かす。水の上へ、太陽の下へ、体を、僕を、思いきり、跳ね上げるーー

 

 僕の新たな巨大な体躯は、水の上、空気のもとで、その輪郭を確定させていた。黒と白の美しい色合いが濡れた体の上で煌めいた。流線型の、海を永久に泳ぐことの出来る身体。僕は大きく体を海面に打ち付けて、僕の体が完全に変わり終えたことを知った。もう一度水に包まれる。それでも、海は今の僕にとって不必要なものではない。動くために必要で、ちゃんと空気を吸いにこれるもの。僕はそっと顔を海上に出して、遙かに広がる海原を感じた。頭の上から大きく息を吸って、もう一度海の中へ潜っていく。確かな海の冷たさを感じながら、それでも広く止めどない海の中へと。

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