ブルーローズあるいは夢の名残 |
青い匂いの風が渡る。新緑のみずみずしさを含んだ空気が、ふわりとアスフェリートに届いた。
まどろみに沈んでいた意識が浮かび上がってゆく。窓からこぼれる光をつかむようにして、彼は目を覚ました。隣にいるはずのぬくもりに、そっと手を伸ばす。と。
「……あれ?」
白い掛布のその隙間から、あるべき存在が忽然と姿を消していた。半ば夢うつつの意識が、突如として現実に引き寄せられる。いくら探ってみても、彼の掌は空しい動きを繰り返すばかりだ。
「ルセリナ?」
呼びかけても返事がない。泡を食った彼は、寝乱れた夜着をそのままに跳ね起きた。辺りを見回す。
と、白いカーテンが視界を掠め、アスフェリートはようやく、昨夜閉めたはずのテラスへの扉が開いていることに気がついた。誘われるようにして近づく一歩ごとに、庭のばらの香が強くなっていく。初夏のさわやかな風が、華やかさを増していった。
揺れるカーテンを払い扉を押すと、彼の視界に生命のいろどりが満ちてゆく。
「――みつけた」
そしてアスフェリートは、そのいろどりの中に探していた輝きを見つけた。
「ルセリナ!」
庭の彼女に呼びかけて、アスフェリートはくるりときびすを返した。着替える間も惜しいと、そのままの格好で部屋を駆け、階段を転がるようにして降り、居間を抜けて裸足で庭に降りる。
「アスフェリートさま!」
白いばらを抱えたルセリナがこちらに駆け寄ってくる。彼が眠っている間にすべてを終わらせるつもりだったのだろう、その顔には驚きが満ちていた。
「朝起きたらきみがいないから」
探したんだ、と問いかけの先回りをして、駆け寄ってきた彼女の体を受け止める。抱きしめようとしたら、『そうではありません!』と怒られた。彼の乱れた襟を直す仕草をし、解けかけている帯を締め直す。
「いくら家の中とはいえ、もう少し気を遣ってください!」
アスフェリートさまは自覚が足りません、と、美しい顔を怖くする。
さすがに、朝っぱらからの夫婦喧嘩はいただけない。正直に頭を下げると、ルセリナも『黙って出てしまって申し訳ありません』と彼の意を汲んで言ってくれた。
*
「今日の朝は特別早いんだね。何かの記念日?」
いくらルセリナが早起きとはいえ、いつもならふたりそろって夢の中の時間のはずだ。
理由を問うと、彼女は少し恥ずかしそうに、腕の中の白いばらを一輪、空にかざした。
「記念日というわけではないのですが……。この白いばらはこの時期が一番美しいのです。この、開きかけのつぼみの時期が。朝露に空の青が映って、まるで青いばらのように」
一日が本格的に動き出す少し前のやわらかな朝の光に、わずかに残った朝露がきらりと揺れる。
ルセリナはばらが好きだった。それをよく知っているアスフェリートは、だからなのかと納得する思いで、ルセリナの腕の中のばらを見つめた。
やわらかにほころびかけている蕾は、ほの甘い香りをアスフェリートにも届ける。
「――本当だ。空の青が綺麗に映ってるね。幻みたいだ」
伸ばしたルセリナの腕に手を添えて、彼女より少し高い位置から空へ伸びるばらを見つめる。薄い青にも銀にも見えるようで、不思議な気分だった。
「青いばらはこの世に存在しないから、不可能の象徴なのだそうです。……でも」
これは兄から聞いたのですけれど、と呟くように付け加え、ルセリナはくるりとばらの茎を回す。朝露は陽にきらりと光って儚く落ちた。
「でも?」
「この世に存在しないということは、もしかしたらいつか存在するかもしれないということだと。だから、『可能性の象徴』といってもいいのではないかと」
いつかかなうゆめのかたちです。
囁いて、ルセリナはそっとはにかんだ。
「そういう解釈もありかもしれないね。でもとりあえず」
はい? と尋ねる顔をしたルセリナを覗き込む。
「今日の夢を覚まさないと、次の夢は叶えられないよ」
おはよう、と、忘れていた挨拶とともに、ふたりの間で押しつぶされたばらが香る。
Fin.(初公開:2008/5/29)
説明 | ||
以前、サイトのブログにて公開していたSSです。 本編終了後15年以上のちの、あるひととき。 王子とルセリナは、騎士長と特別行政官のまま、ひとつの屋敷で暮らしている設定。 |
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