マンジャック #13
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マンジャック

 

第十三章 人を動かすもの

 

 ジオが洋館の中に一旦退くのと入れ替わりに、武装したクール隊が出てきた。彼らは即座に戦闘態勢をとり、わらわらと周囲から近づいてくるジャッカー達を迎え撃つ用意を調えた。

 その数はジオを入れて六人。渋谷での戦いで傷ついた者も、彼ら全員の持つ超人的な回復力によって既にして戦闘に参加している。いやたとえ瀕死だったとしても、彼らは戦おうとするだろう。アジトの死守という理由も勿論あるが、彼らが持ち合わせているクール隊であるに相応しい資質、すなわち何よりも彼らが戦いを好んでいるというその本能がそうさせるのだ。

「奴等は銃火器を持っていない。距離を置いて戦うぞ。」

彼らはジオの方針とは異なり、初めからショットガンを手にしていた。ジャッカーが相手なら、周りへの配慮など二の次なのだ。

 生死を分ける戦いを前にしている者としては奇妙なほどの笑みを、敵味方両者が浮かべたことが、戦いの火ぶたを切って落とした。

 

 先制したのはクール隊だ。駆け寄ってきた男の一人を、ショットガンの餌食にしたのだ。男はもんどりうって吹っ飛ぶ。同様にして二〜三人の要素体の男が、弾丸を喰らって身体のどこかを吹き飛ばした。

 それでも要素体達は全く動じる気配を見せない。彼らは死ぬことを全く畏れないのか。

 

 接近戦に持ち込むつもりだ。木陰でそのさまを見守っている操乱は思った。転移しちまえばそれまでの身体がどうなろうと構わんということか。

 

 男の一人が取り付いた。脇腹を抉られながらも、クール隊の男に掴み掛かったのだ。そしてその勢いを利用して兵士を押し倒す。

 簡単に男は、兵士の顔に手を置いた。

 転移。

 バンッ! 男の腕はしかし、組み敷かれた兵士が持ち代えた銃によってその腕を撃たれ、肩からもぎとられた。腕は兵士の襟を掴んだまま空しく地面に転がる。

 転移をしようと近づいた者たちに、同様の反撃がなされる。ある男はクール隊に近づくことすら侭ならず、地面に突っ伏す。

「転移が...」最後まで言葉を発する間もなく、男は頭を撃ち抜かれた。

 

「転移防止スーツは今度こそ効いてるじゃないか。」

兵士の一人が言った。他の者が同調して頷いた。

「俺達の勝ちだな。」

 

 何だ? 操乱は思った。おかしいじゃないか。転移できる隙はあったのに。初めの奴は血に染まった手で兵士の顔に触れたんだぞ。血が染み込んだらそれを媒介して転移が出来るはずだ。

 操乱は馳の内ポケットから携帯用の双眼鏡を取り出して眺めた。そして、先の兵士の顔面部を見てあっと叫んだ。

「は、弾いてやがる。」

 操乱は可能性を頭の中で検討した。特拘での戦闘で、生き残った奴がいやがったんだな。何が奴等のスーツの弱点か、気づいたんだ。

 

 操乱の見抜いた通り、現在兵士達の身につけているスーツは、従来の転移防止スーツに単に防水処理を施しただけの物であった。日本での活動拠点であったカタストロフ社が破壊され、しかも米軍から半独立して行動する事になったクール隊にとっては、この程度の改良しかできなかったのである。だが、単純とはいえそれが効果的であることは、実際に戦った操乱だからこそ身をもって判っていた。

「転移できないんじゃ、あいつらももう終わりだな。」

 どうやってジオの能力を手に入れるか。口だけは大きかった万丈が思ったより役に立たなかったことを罵りつつも、既に操乱は自分の目的をどうしたら果たせるかを考える事に興味を移しかけていた。だが。

「転移ができないのは誤算だったが、集団転移の真価を買いかぶって貰っちゃ困るぜ。」

 いつの間にか、操乱の脇に立った男が言った。

 

 原尾は目を開けた。最初に視野に入ったのが蛍光灯だったので、彼女はソファに横にされているのだと判った。そしてそれが照りつける眩しさに顔を横に向けると、視界の隅に薄暗い廊下の先で公衆電話に飛び付いた(原尾の持つ携帯無線は勿論電話も掛けられるが、パスワードにより彼女にしか使えないのだ。)大野の姿を見留めた。

「大野さん。」

原尾の声に彼はこちらを振り返り、財布から出したテレカを電話に入れるのも忘れて叫んだ。

「ま、マキちゃん。もう目覚めたのか。大丈夫かい?」

 心は光よりも早く己を動かす。原尾が自身の最深部で、もう一人の自分との再会の旅をしたのは、大野が彼女の言葉を聴いてから慌てて電話機の元まで走ってそこに辿り着くまでの、それほどの刹那に起こったことだったのである。

「わ、私...何か喋ったのかしら。」

原尾は、大野が遠いのと、気分が昂揚しているとの理由から大声で言った。彼女はイド催眠から目覚めた瞬間に、術中に洩らした会話を忘れてしまっていた。ために、自分の行為が無駄でなかったか心配だったのだ。

「おっといかん。」大野はうっかり忘れていたテレカを挿入口に入れ、メモを見ながら素早くボタンを押すと、近くまでやってきた原尾に言った。

「君は三人の人物の名前を言った。常盤修司、万丈司、最土修。」

 その三人が何だというの。原尾は思った。万丈はともかく、後の二人は転移心理学関係の研究者の名前だったような...。

「片っ端からジャッカーを捕まえろ。ってのが、今回のジャッカーハンターとしての俺への仕事の要求だったんだけどね。」大野は呼び出し音を聴きながら言った。

「最土修ね...、その仕事の依頼者なんだよ。」

 

 そっとドアを開ける気配がする。部屋の中の、一番奥にある机に座っている男は、そんな気配をたいして気にも留めずにコンピューターのモニターに見入っている。

 国立精神医学センター。最土修の研究室。

 入ってきたのは彼の秘書だ。しかしいくら気さくな最土に付いている秘書だからとはいえ、ノックもせずにはいるのは失礼ではないのか。だが彼女は、もっと奇妙と思えるような言葉を口にした。

「済んだぞ。」

そんな男言葉を吐かれてなお、最土はまだ彼女の方を振り向きもしない。ぞんざいな態度に馴れているということか。

 違う。最土は今の秘書をいつもの彼女とは端から考えていないのだ。それが証拠に、彼はキーボードに何か打ち込みながら背後の秘書に向かってこう言った。

「これでヤムとの縁は完全に切れてしまったな。」

 秘書は無表情だ。良くも、悪くも、何も言わない。

「じゃあ、そろそろ家に帰ろうか。置いてきた資料を見ないと仕上げられんし...。」

「資料?」秘書は微妙な口調をする。

「あぁ。忘れたのか。集団転移の...。」

 !! 最土はその時やっと気付いた。今日あの男は秘書に憑いてはいなかった筈だ。第一、戻ってくるのが早すぎる。しまった!

 最土は椅子を慌てて回転させて振り返りざま立ち上がった。だが彼の動きもそこまでで、その姿勢のまま硬直してしまった。

 静かに微笑む秘書を見て、彼はあらためて悟ったからだ。こいつ、やはり万丈じゃない。

 そして万丈ではなく、彼に近寄ってくるジャッカーと言ったら。

「成木黄泉。...いや...。伊左輪那義(いざわなぎ)...だな。」

 微笑みを湛えたまま秘書は、その言葉に頷いた。

 

「ふふ。」秘書の中の、伊左輪と呼ばれた男は思わず笑った。「まさかその名をまた聞くとは思わなかったね。」そして一歩最土に近づいて言った。「今じゃ成木黄泉と、呼ばれ慣れてしまったからね。」

 くっ。最土は動揺を隠そうと努める。

「一体。何をしに来た。」

「おいおい。とぼけるつもりか。私を万丈と間違えた時点でお前さんはボロを出してるんだよ。ハンターなんぞを雇ってまでジャッカーを遠ざけようとした割に迂闊だったな。」

「うう。」

 穏やかに問いつめた成木は、今度は最土を弁護する。

「だが、先日お邪魔した時点でお前のことを気付かなかった私も悪かったよ。名前を変えただけではなく、整形までしてたとはね。しかもその髭、なかなか似合ってるぞ。」旧知の仲でもかなり親しかったのか。成木が”お前”と呼ぶには。

「や...、火傷を...」最土はやっとの事で答える。「火傷を隠すためだ...。」

「そうか...。だが、それにしても惜しかったよな。私も本当に危うく気付かない所だったんだから。」成木はすこし緊張を緩めた。「とは言え皮肉なもんだよ。整形までして隠しきった君の秘密は、君自身でその正体を暴露してしまったんだからな。」

 今の最土には、落ち着いてその理由を推し量ることなどとても出来ないだろう。

「何故...なぜ判ったんだ。」

「お前さん達が私に語った言葉だよ。」成木は最土に思い出させるように言った。

「ゼロ・ヒューマーとは、常盤修司が自身の論文の中で使っただけで、その後は定着しなかった言葉だ。最土修としてお前さんがその言葉を使ったときには、常盤に妙な義理立てをしているもんだとくらいに聞き流しもしたが、万丈が使ったのはまずかったじゃないか。十年も前の死語を、短期間で二度も耳にする偶然は、既に必然とすべきなのだよ。」

「!」

 考えもつかないところ所から自分の正体を見抜かれたことに、最土はショックを隠せなかった。それはまるで現代に恐竜がその首を海面に二度出してしまったようなものだったのだ。それがどれほど一瞬にせよ、どんな些細な不注意にせよ、己を世間に晒したその瞬間から、原始の怪獣はいつか人間に狩られるだろうことを覚悟すべきだったのだ。

 

 成木はついこの間も座ったソファに腰掛けた。乗っ取った秘書がミニスカートを履いているのも構わず彼は足を組む。立ち上がった姿勢のまま、ぴくりとも動けない最土とは対照的な余裕だ。

「そうそう。死んだと思っていたお前との久方ぶりの再会だ。とにもかくにも私たちが二人とも、あの業火から生き延びていたことに感謝しようではないか。そしてあれ以来のお前さんのめざましい活躍ぶりにも敬意を表しなければな。お前はあの失態から立ち直って、人生を見事にやり直す事に成功したんだ。それはひとえにわれわれの研究が実った証だと嬉しく思うよ。」

「お...俺の研究...って言いたいんじゃないのか?」最土はやっとの事で声を絞り出した。

「あっはっは。私はそれ程傲慢じゃないよ。私の方法論を吸収したとはいえ、お前さんの論文はお前自身の研究の成果だし、お前は確かに優秀な研究者なのだから。今の地位のあるのも間違いなくお前の実力だ。だからあの頃の研究だって、やはり二人でやっていたからこそのものだったと思っているのだよ。」

 腕を組み、過去を見つめるように語っていた成木だったが、そこから覚めるや、一転厳しい目で最土の方を向いた。

「だが...お前さんは今の地位に満足していないようだね。」

 成木は再びゆっくりと立ち上がる。そしてゆっくりと最土に近づく。

「あの時と同じように。」

 最土の脂汗がその額に湧き上がるのが分かる。僅かに後ずさった手に当たったマウスが机から落ちた。

 

 その時、最土の机上の電話が鳴った。外線のようだ。成木は最土を制した。

「おっと。私が出よう。電話番も秘書の大事な仕事の一つだからな。」

 

「はい。精神医学センター、最土研究室ですが。」

女の声だ。秘書かなんかだろう。大野は用件を切り出した。

「大野一色というものだ。緊急の用なので、いたら先生に代わって欲しい。ジャッカーハンターだと言ってくれれば分かる。」

 ジャッカーが関係していると聞けば、いくら転移専門の病院勤めの女性でも怯えてすぐ替わるだろう。そう思ったからこそ、大野は敢えて自分の職業を口にしたのだ。だが、電話口の女は意外な反応をした。

「先生はここにみえますわ。ですけど、あなたにはお取り次ぎできません。」

「じょ、冗談だろう。」大野は声を荒げる。「最土さんの命が危ないんだ、頼むから代わってくれ。」

「その必要はないわ。」

そして、その言葉に続く科白は、男の喋り方になった。

「君が注意を促しても、もう手遅れだからですよ。ピンぞろハンターさん。」

 大野と、すぐ横で耳を受話器に近づけていた原尾は、思わず目を合わせて驚いた。大野はその顔をみるみる怒りに震わせていく。そして思わず絶叫した。

「黄泉ーっ!!」

「ふふ。着眼点は褒めてあげますが、もう少し早く気付くべきでしたね。」

「貴様。集団転移なんぞ手に入れてどうするつもりだ。」

「やはり渋谷で聞いていたのですか。抜け目がありませんね。だが、君はもうそんなことに気を懸ける必要はないんですよ。」

「どういう意味だ。」

「判りませんか。」女の声は言う。「元々最土は自分の取引を私に邪魔されないようにするために君を雇ったのですよ。米軍との交渉が失敗した時点で君の存在価値は彼にとってもう意味を持たなくなっているということなんですがね。」

 大野も負けてはいない。

「生憎だったな。俺の受けた依頼はあくまで、”ジャッカーを狩れ!”ってことなんでな。」

「ふむ。忠告は親切で言ってあげたんですがね。そういう事なら仕方がない...。」女の口振りが殺意を帯びる。「すべての情報を集めて、集団転移法を我が物とした時は、真っ先に君を殺してあげよう。」

 手がかりを...何とか引き延ばさないと。

「わざわざ会いにくるんなら、おみやげくらい持ってこいよ。」

 だが、彼の意図は成木に見透かされている。

「時間稼ぎは無駄だよ。また会う日まで頚を洗っていたまえ。」

 電話は切れた。

 

「くそっ。」

大野は言いざま、階段に向かおうとした。

「どうするつもり?」原尾が制する。

「最土の病院に向かう。」

「落ち着いて! 間に合う訳がないわ。」

「このまま手をこまねいていろってのか。」

「冷静になりなさい。」原尾は諭すように言った。「残念だけど、今から病院に行ってたんじゃ無駄足だわ。それより、私に考えがあるの。」

「!」

 自分の方を振り返った大野に、原尾は強く語る。

「成木は電話口で、”すべての情報を集めて”と言ったわ。ということは、最土さんの研究室だけでは集団転移の知識を全部知り得ないのよ。」

 大野はハッとした。

「集団転移なんて物騒な研究を、他の医師達と共同研究でやるとは思えない。つまり成木が必要としている情報は、最土さんが研究室以外でその研究を安心して行える場所にある筈よ。」

 三文SFじゃあるまいし、最土が森の向こうに秘密の実験室を持っているとは思えない。つまり...。

「最土の自宅か。」大野は心中舌打ちした。熱くなって本質を見失うところだった。

「そうよ。もし彼に家族がいたらその人達も危険だわ。」

「ありがとマキちゃん。何とかなるかもしれんぜ。」

彼は言うや、一目散に駆け上がろうとした。

「待って、私も連れていって!」

 大野は、今度も止まった。

「あなたの邪魔になることは判っています。けど、それでも連れていって欲しいのよ。」

 今度大野が止まったのは、原尾が己の力を彼に必要とさせたほど見せつけた為であった。今の彼女は彼に付いて行く権利がある。

 大野は僅かにこちらを向いて言った。

「死ぬかもしれんぜ。」

 その言葉は少しも脅しではあるまい。だが原尾は穏やかに言った。

「私は対特の一員として、行かなくてはいけないの。」そして、少し前には、彼女自身思いもつかなかったような言葉が出てきた。

「義務感に駆られてじゃないわ。私は今、この仕事に誇りを持っているのよ。ジャッカーと世界を同じくして、しかも彼らと共にあるこの仕事を。」

 大野には彼女の心の底で、何が起こったかまでは判らない。だが、イド催眠を受けた精神への衝撃は、普通なら堪えるのがやっとだろう。なのに彼女は...、その全身から伝わる、彼女の意気は...。

 大野は原尾の方に向かい、手をさしのべた。

 ほの明るい電灯の元に照らされた彼の手に、彼女は喜びをもって自分の手を重ねる。

 突然、大野はその腕を引いた。原尾は風のように素早くそれに引かれて...。

 大野は原尾を抱きしめていた。そして彼女に呟いた。

「強いな。君は。」

 イド催眠から覚めて間もない原尾はまだしっかり動くことはできないだろう。大野は現実的な問題として、彼女が枷になることを分からぬ訳ではなかった。戦闘になったら、彼女が足手まといになることは判っている。だが...。彼は右腕に一層力を込めた。反対に、指令を忘れられた左腕は、木偶のように降ろされている...。

 唐突に抱きしめられて、原尾は驚きを隠せなかった。しかし、どうしてそう思えるのかは判らないが、自分の背中を押さえる大野の腕から、初めて彼の本音が伝わった気がして、ほのかに安心していた。

「行くぞ。マキちゃん。」

「ええ。」

 今度こそ大野は、原尾の手を引いて階段を駆け上がった。

 

 万丈の分身である要素体達との戦いの最中、クール隊の兵の一人は、仲間が一人倒れたことに気付いた。そして彼はそれが、先制攻撃によって先ほど、分身の一人の男の腕を吹き飛ばした兵士だと判った。兵は即死のようで、頚を奇妙な角度に曲げて横たわっていた。

 何だ。頚骨が折れたことが死因のようだが、どうしてそんなことが起こったんだ。

 そう考える、彼の疑問は当然だ。吹き飛ばされた腕はともかく、片腕を失った分身はその勢いで距離を開けていたのだ。殺せるはずがない...。

 

「お前が司令塔か。」林の中の操乱が言った。

「察しがいいな。この男の中にいる俺が、万丈司としての本体さ。」

呼びかけられた男はニヤリと笑った。

 油断ならねぇ奴だ。操乱は思って、奇襲を受けないように男との間に木を置いた。

 遂に本体を現した万丈であったが、分身達の戦いは必ずしも良いとは言えない。にもかかわらず、彼の表情には余裕の色さえ読みとれる。

 操乱はそんな万丈に現実を認識させようと、遠巻きに見ているクール隊と万丈の分身との戦いの方に向けて顎をしゃくった。

「かいかぶるななんて、いい加減なこと言うなよ。ありゃどう見たってやられっぱなしって感じだぜ。」

「どうかな。」

 

 果たして、万丈の余裕が虚勢かどうかを確かめる状況になった。突然頚を折って死んだ兵の持っていたショットガンを、分身の一人が手にしたのだ。

 ちぃっ。もう一人の分身と戦っていたために、その瞬間まで気を回せなかった兵が毒づいた。

 だが、流石にプロは早い。彼は、片腕でもたつく分身にショットガンの銃身を向けるや、迷うことなく引き金を引いた。

 バン。重い音と共に、弾丸は分身の心臓に突き刺さって爆発した。そして、先に無くなっていた右腕の方に爆風が多く逃げたためか、その頭と左腕は、肋骨一本で辛うじて胴体にぶら下がった格好になった。

 兵はニヤリとしたが、己の戦う相手に隙を作る結果となった。彼が視線を戻したとき、眼前の分身は既に、彼の胴体を抱え込んでいた。

 しまったぁ! 彼は死に物狂いになって腰から拳銃を取ると、抱きついてきた分身に立て続けに撃ちこんだ。だが、蜂の巣のようになりながらも分身は力を緩めない。どころか、ますます強く彼の身体を締めつけ、その自由を奪ってゆく。

 と、兵士は、自分に絡みつく分身の腕が、急速に冷えていくことに気付いた。死後硬直...。一瞬、そんな言葉が脳裏を過ぎる。

 そしてその思いが核心を探らせたのか、彼はその恐るべき意図に思い至った。その意図、つまり、この状態で自分を拘束しようとすれば、半死半生の人間に最期の余力を出させるよりも、死後硬直によってその腕を硬化させた方が効果的だということに。これはジャッカーが計算づくでやっているということか!

 し、信じられん...。彼は恐怖で心臓が爆発しそうになった。ジャッカーはそんなこともできるのか!

 しかし、彼はわざわざそうまでして相手が自分の動きを止めた本当の理由を知って、真にその血を凍らせた。彼は見たのだ。さっきしとめた筈の男の、やっとの事で下半身からぶら下がっている胴体に付いた腕が、手にしたショットガンを自分の方に向けているところを。同じく逆さまになった頚が、笑みを浮かべてそのスコープを覗き込んでいるところを...。

 

 うっ。

 その光景を見て、操乱は思わず戻した。ショットガンに撃たれた二人が組み合ったまま爆発し、撃った方の半人間もその手と頚と胴を反動でバラバラにしたからだ。彼とて殺人を厭わないが、そんな彼をしてすらこの異常な光景には堪えかねたのだ。

「な、なんて奴だ...。」操乱は万丈を見て、苦しげに呟いた。

「判ったろ。」万丈が憑いた男はにたにた笑っている。「集団転移の利点は、多人数に憑けるとかいったことだけにあるんじゃない。俺の集団転移の真の恐怖は、憑いた先の人間達を捨て身扱いにできるその度合いにあるのだ。

「いくら転移先の依童の身体を自由に出来るからといっても、所詮一対一でしかないお前達ジャッカーでは、身体酷使にも限度がある。依童が死んでしまっては自分も危ないのだから当然だ。すなわちどうしてもそれは、逃げ道を用意した上での攻撃になる。」

 操乱の方を向いた万丈の顔は、正に偏執とすら思える目を湛えていた。「その点集団転移を使える俺は違う。俺にとっては、要素である分身がどうなろうと知ったこっちゃない。集団転移によって俺が操っている依童どもは、俺の意思の及ぶ限りその身体を酷使し尽くされる。そしてそんな者達が繰り出す捨て身の攻撃は、常軌を逸した強さを持つのだ。それは最早無敵だ。だってそうだろう。躊躇いを捨て去った攻撃に勝てる者などいないのだから。」

 操乱の視界の隅でまた爆発が起こった。手榴弾による人間爆弾が炸裂したのだ。もう転移防止したところでどうにかなるといったレベルの戦いではない。

 こ、こいつ...。歯の奥で不快な笑い声をたてる万丈を見上げて、操乱は思った。狂ってる...。

 

「茶々が入ったな。」成木は、秘書の手にした受話器を電話に戻しながら、最土との話を再開した。

「お前さんは今の地位を築き上げてもなお、満足することが出来なかった。

「だがそれは今に始まった事じゃないよな。それはお前が元々持ち合わせていた資質だったんだから。

「それはまるで陸地を目指す首長竜のように、じわじわとお前の深層より這いあがってきたものだ。」

 成木の追及に際し、最土は涙を流していた。

「や、やめてくれ、私にあんな恐ろしいことが出来るはずがない。」

「そりゃぁそうだろうさ。今のお前はあくまでも常盤の表層に過ぎないのだからな。」成木は戯けて見せていたが、一転変わったその声は、最土を震え上がらせるに十分だった。「だが、それは薄っぺらな言い訳でしかない。お前には悪魔が確かに存在する。お前の中での残酷な一面は、貴様と共にあるあの男がすべて兼ね備えているのだ。」

 

 残酷な面を持った男、万丈は、表にいるクール隊がほぼ壊滅したことを認めて林から出ていった。

「お前も来いよ。なに、心配するな。奴等も残り少ない。それに、俺の敵じゃないことは分かったろ。」

 促されて、操乱もおそるおそる後ろについた。

 洋館に近づくにつれ、硝煙と死臭が鼻に浸く。万丈の分身もほぼ全滅したとみえる。敵味方双方の半死と化した男達の中を二人は歩く。

「私に逆らった奴等の末路だ。当然だとは思わんか。」

絶大な傲慢さをもって、万丈は語りかける。流石の操乱も胸の悪くなるのを禁じ得なかった。

 二階建ての洋館が、自身に被さるように見える位置まで二人が近寄った瞬間、バルコニー越しに兵が一人飛び出してきて機関銃を一射すると、すぐさま建物の影に隠れた。弾は万丈の左腕と腹部に当たり、貫通した。

 万丈はこの奇襲にもさほど動じる様子をみせない。どころか寧ろ笑いさえする。本当に痛くないのだろう。

「くく、それで隠れたつもりか。」

言うや、万丈は少し離れた所で朽ちかけている分身の一人に、その手にした銃を撃たせた。ギャッと、裏手で声がした。

「俺から見て死角でも、分身からは見えているんだよ。」

 撃たれた兵もすぐに反撃した。分身は銃の掃射でボロボロに吹き飛ばされ、五体の繋がっているのかすら怪しいほどになった。

「必死だな。トドメは俺がさしてやる。」

万丈はそう言うや、近くの死体から拳銃を奪った。そして洋館の壁に近寄ると、操乱に向かって言った。

「面白い事をしてやろう。」

そして彼は、蔦がいいようにつたう壁にへばりついたまま、銃を手にした腕だけを壁向こうまで伸ばした。そして、向こうが見えもしないのに、パン、と一発だけ発射した。

 バカな。そんなで当たるものかよ。操乱はタカを括ったが、案に相違して、手応えのある音がした。

 万丈はその後すぐに、つかつかと向こう側に行ってしまった。操乱は躊躇していたが、ちょっと待っても事態が急変した様子はないようなので、おそるおそる万丈の自信に従う。

 

 洋館の向こう側に回ると、やっと来たかという様子で万丈が彼の方を振り向き、倒した獲物を指し示していた。操乱が見ると、機関銃を持った兵がこめかみを撃ち抜かれて即死していた。

「なっ。」操乱は訳が分からなかった。「どうやって照準をつけたんだ。」

「あいつさ。」万丈は顎をしゃくって促した。その先には、ボロボロにされた分身が横たわっていた。

 操乱がまたしても戻しかけたのは、そんな形も定かではない肉塊の中で、血に染まった眼球がぎょろぎょろとこちらを見つめているのと目が合ったからだ。

「さぁ、中に入ろうぜ。クール隊が全滅するところを見せてやろう。」

 

「同一人物?」大野の車中で、原尾が頓狂な声を上げた。

「そうだ。」大野が言った。「十中八九、間違いない。」

「常盤修司と最土修。そして万丈司は同じ人間だ。」

 原尾が驚くのも無理からぬ事だ。自分がイド催眠から掘り出した三人の名前から、大野が何故最土の危険を演繹し得たかを問うた、その答えを導く命題の一つとして彼が提出した仮説がこれだったからだ。

 異端の医師だと医学界を追われたと言われる常盤、対して、今や押しも押されぬ学界の重鎮と化した最土修、そして人工転移と集団転移を操るジャッカーである万丈司が同一人物であるなどと、誰が信じることが出来るであろうか。

 原尾の驚きを乗せて、大野の車は爆走する。かなり粗い彼の運転に、たまらずタイヤは悲鳴を上げた。

 バランスを崩した車体を立て直すようにハンドルを切りながら、同時に大野はまず、今回の一連の事件の火付け役となった男から、説明の口火も切ることにした。

「俺達が巻き込まれているこの事件は、万丈がヤムに人工転移の方法を売りつけようと目論んだことから始まったよね。」

 原尾は頷いた。この死累を山となす日々の始まりだ、忘れるものか。

「だけどさ、考えてみるとそこからして疑問が湧くじゃないか。人工転移だけでも凄いことなのに、万丈は集団転移まで体得しているんだよ。そんなものを普通のジャッカーが偶然身につけた、とはちょっと考えにくいし、そもそも万丈って誰だ。」

 大野は原尾の顔が疑問を持ったものであることを確認する。危ないからちゃんと前見て運転してろ。

「こういった疑問は、もし最土が人工転移や集団転移を発見したとすればすんなりくるんだよ。だからここではそれが事実と仮定して話を進めるよ。

「最土がなした世紀の発見、つまり人工転移と集団転移のノウハウは、そこに費やしたであろう犠牲と労力の割に、得をするどころか、よしんば公表すれば途端に世間からはマッドサイエンティスト扱いだろう。気の毒だとは思うが、それはやはり表の世界では報われることが決してない業績なんだよ。

「だが、だとしたら、最土がそれを別方向に活用して、手っ取り早く金と力を手に入れようとしたとしても不思議は無いやね。そしてそこに繋がるのが万丈司だ。万丈とは最土の、闇を暗躍する顔として持っていたもう一つの顔じゃないのかとは考えられないか。」

 大野はそう考える根拠を示す。

「最土は若くしてトントン拍子に出世してるけど、そこにも万丈が見えかくれしているよ。以前、転移心理学会の委員へ彼を推薦する問題が持ち上がった時、最初は若年だから時期尚早だと反対が多かったらしいんだけど、そんな下馬評を覆して、あっさり過半数を採ってしまったなんて事とかね。」

 その裏にジャッカーの顔を持った万丈の活躍があったのではないかと暗にほのめかす、大野の推論に無理はない。そこまでは原尾にも合点がいくところだ。

「確かに、そう考えれば、一ジャッカーである万丈が、アメリカの医学界の権威であるヤムにコンタクトを取れたことも不思議じゃなくなるわ。

「でも、常盤修司はどう? 最土との繋がりはその話には全然認められないわ。そもそも、穏和で知られる最土氏が、そんな物騒な研究を始めるなんて無理があるわ。」

 大野は軽く手を挙げて原尾の言葉を受けとめた。

「俺は商売柄、逆恨みする輩に填められないために、仕事を受けるときには依頼人の事を少々調べさせて貰うんだ。勿論内緒でだけどね。」

 彼はそう言って原尾にウインクすると、常盤と最土の空白を埋めるというもう一つの謎を解くための材料。乃ち最土について調べたことをかい摘んで原尾に話し始めた。

「最土はその経歴に謎の多い人物でね、学会の権力者になっている程の男なのに、火事とかで出身校に経歴さえ残っていない有り様なんだよ。

「そんな胡散臭い男だが、その業績は本物だ。転移心理学に於けるここ数年の論文の数とその質は、他の者の追随を許さないほど素晴らしいと評判だ。

「とはいえそれほどの男が、うだつの上がらない世間に名も知れぬ半生から、突然堰を切ったように学会の寵児になるなんて事、ちょっとおかしいだろ?」

 原尾も同意した。だがその首肯は、車が赤信号で急激に止まったため、前に投げ出されたものと区別がつかなかった。

「だから俺は思ったんだよ。彼がその頭角を現す前の論文が残ってないかってね。」大野はいらいらと歩行者が前を過ぎるのを見守る。「結論から言えば、残念ながら彼名義の論文は無かったよ。だけどね...。」

 大野は焦らすように言葉に間を取った。

「最土の専門は転移精神行動学だ。この研究は、表向きは精神異常の治療を目的として行われているものだから聞こえはいい。だがその実彼の論文は、依童の身体制御の生理効果とか、同じく脳気質の利用状況とか、ちょっと意地悪く言えばジャッカーの研究をしてるのと紙一重だ。

「そうした視点から同じ研究分野を伐ってみたら興味深い物を発見したんだよね。

すなわち、今の一見穏便研究の最土とアプローチこそ違え、同じ視点を備えた論文を見つけだんだ。」

「つまり、それを書いたのが...、常盤...修司だって言うの?」

「そうだ。」

 急発進する大野の車は、答えを探し求める彼自身のように後部を蛇行させて加速した。

 

「あまりにも純粋だったんだ。だから君は気付かなかったんだよ。」最土はしゃくりながらもようやく話した。「君が業績を上げる度に僕を突き放していくことを、君が論文を仕上げる度に僕の憎悪が溜まってゆくことを。」最土は恐怖で精神退行を示しだした。だがそれ故にその吐露には真実と本音が混じる。

「僕がゼロ・ヒューマーの研究で学会での評価を落としたとき、それでもなお、社会的地位の危険を承知であんな転移論を研究したのも、全て君に追いつくためだった。

「起死回生を狙って、僕が君の制止も聞かずに学会で発表したのも、君と肩を並べるためだったんだよ。」

啜り泣きと嗚咽で最土は先が言えなくなった。

 私はこれでも、あの頃本当に生き甲斐を感じていたのだ。最土の告戒を聞きながら、悲嘆げに、成木は回想していた。お前と新しい精神医学を築こうとしていた心は、当時確かに純粋に人という方向を向いていたのだ。

「だからお前はあんな事をしたというのか? そんな告白が私への贖罪になるとでも思っているのか。」成木は秘書の顔に怒りを表出させた。

「お前が転移論の失態を取り返すには、最早ゼロ・ヒューマンの実証しかない。そう言うお前に私が力を貸したのは、真にお前の名誉の復帰を願ってのことだった。」

 

 集団転移は十年前、常盤修司という転移学研究者が発表した論文の中で指摘された。それは、個人の意識が他の一人の人間に転移することが可能なら、転移先が複数人になることは可能だという主旨の主張だった。現在の転移可能者の研究から演繹的に導き出される結論に過ぎなかったにも関わらず、それは必要以上に学会からの非難を受けた。確かに常盤にとっては理不尽と思われたろうこの仕打ちも、言ってみれば仕方の無いことだったろう。原子爆弾の製造が受ける非難と同程度なまでに激しい排斥の感情の源泉は、それが現代社会そのものを脅かす存在であることを、他の人間達が本能的に悟ったことにあったのだから。功を焦った常盤はしかし、それに気付かなかった。そしてその彼への非難の中で、論文中の集団転移やゼロ・ヒューマンという概念が、空論の展開に過ぎないとの反論をうけたことに憤慨し、自身でこの忌まわしき理論の実証をしようと思い至ったのだ。

 

 成木と最土の間には、心で熾した炎が燃え盛っていた。それは十年前のあの日の炎。

「ゼロ・ヒューマンの実証、それは言うまでもなく、ゼロ・ヒューマンを作り出すことで果たされる。だが勿論、それは犯してはならない禁忌だった。」

 成木の心は十年前に飛び、転移した自分を外に連れ出す常盤を映していた。

「お前は優しい男だった。だが同時に、その心根の底に悋気を宿らせている弱い人間でもあった。

「かりにもお前の親友だった私だ。それに気付かなかったとでも思っているのか。だが...。」

 

 その理論を証明せねば、己の名誉は失墜したままだろう。だがそこには越えてはならない壁がある。では自分は一生、友の背を追いかけるだけなのか...。当時、常盤は常にそんな不安を頭によぎらせたのである。

 壁、壁...。壁はそんなに高いのか...。

 失望、動揺、自尊、限界、焦燥、嫉妬、野心、誘惑...。

 二律背反の苦悩は、そんな常盤をして何を決意せしめたか...。

 

「常盤の意志をあたかも継承するかのような位置に最土がいる。となれば...。」

大野は大きく息を吸った。

「常盤が実験室の大火によって行方不明となってしまったのが十年前、最土が降って湧いた様に学会で注目されだしたのが八年前、二年間のブランクは火事の時の怪我の治療期間だったと考えればどうだ。ゼロ・ヒューマンと集団転移の起草者として、マッドサイエンティストの名を冠された常盤の汚名は大火と共に消え去ったことを幸いとして、ハト派の視点から研究と人生をやり直したのが最土と考えればどうだ。最土修となって成功したとはいうものの、自分の心血注いだ理論が貶められたままであることに堪えきれず、再び悪魔の研究に手を染めたと考えればどうだ!」

 蟠っていた疑問を押し流すような勢いで一気にまくしたてた大野の息は、ここでやっと肺への逆流を許された。

 そして大野はゆっくりと、三人の関係に最後の線を引いた。

「そして常盤の理論を、実際に使いこなしている男がいる。まるで常盤の野心を具現化したような男である万丈司が。」

「...。」

 原尾は大野の口から次々と証される三人の男達の数奇な関係に、ただただ驚くばかりだった。

 常盤−最土−万丈。全く関連性を持たないかと思われた三人が、こうして一つの線に結ばれたのである。

 今やそれは揺らぐことのない絆で結ばれて...。

 何という事実。何という関係。

「よく...。そんな。」

「確かにとんでもなく大胆な仮説だ。言ってる俺だって、常盤の論文見つけたときは似てるなぁって印象しかなかったし、万丈に至っては繋がりなんてまるでなかった。」大野は優しく言った。「そう。君が命がけでイド催眠を行ってくれなかったら、俺だって絶対にこんなことは思わなかったさ。」

 彼の言葉に、原尾は眩暈にも似た感情が全身を駆けめぐるのを感じていた。

 

「だが実は、もう一つ驚いて欲しいことがある。」大野は言った。「俺はまだマキちゃんの質問に答えていないからね。この仮説を踏まえた上でないととてもじゃないが納得できない答えをね。」

 そ、そうだった。原尾は思い直した。彼女は、大野が最土の危険をどうして知ったのかを問うていたのだ。それに対する答えの一環としての”常盤,最土,万丈”の同一人物仮説であったのだが、それ自体にインパクトがありすぎて当初の質問が霞んでしまうところだった。(ちなみに、この様に果てしなく本筋からそれてゆくことを、筆者は”竜の子太郎効果”と呼んでいる。何故そう呼ぶかは見れば分かる。)ではその答えとは。

「さっきの論文の話に戻すよ。常盤の論文は、現在の最土のそれに似ているとはいっても、非の打ち所のない最土のものに比べると、内容に些か欠けている所があることも事実でね。それは、彼がマッドサイエンティストなんて呼ばれたことからも推察できると思うけど、いわゆる世間がその研究に利を感じるかどうかって点が完全に抜け落ちちゃってる。ぶっちゃけて言うと、我が道を行ってるんだな。

「だがそこからが不思議なんだが、別の論文...、ん、正確に言うと、さる人物の存在が、その穴を補うかのように浮かび上がって来るんだ。

「ではその人物とは誰か。っていうと、常盤と同じ研究室の、伊左輪那義って人なんだけどね。」

「伊左輪...さん?」

原尾が疑問を顔に出した。

「博識のマキちゃんでも流石に知らないか。伊左輪って人はね、当時でも珍しい転移セラピストの一人だったんだよ。」

 大野の言に原尾は心中ハッとした。転移セラピストとは、幼き彼女の中に入り込んで、人格分離型の自閉症児だった彼女を一瞬で治癒せしめた転移療法士のことだ。伊左輪という男はあの時の優しき男と同じ仕事をしていたのか...。

「彼は実証主義的な論文を多く発表することで、当時の学会での評判を高めていた人物だったようだよ。一流の転移セラピストだった彼が、具体的な治療に裏打ちされた研究成果を発表してるんだから当然だぁね。でもそんなとこが、机上論に陥りがちだった常盤と対照的だって思うんだ。

「そういうことから転じてもう一度最土を見ると、新生最土の成功は、常盤と伊左輪という、そんな両者の特徴を兼ね備えた研究をしているからこそのものじゃないかって思えてくる。学会での高い評価を得られるようになったのも、この二人の天才の力を融合させたが故のことだったかのような気がしてくる。んだけど、じゃあ、まるで自分の方法論をかっさらわれた様な形になった伊左輪って人はどうなったのって思うだろ。」

「どうなったの?」

 大野はしかし、そこまで言って言葉を途切らせた。この章では解説ばかりしていることに不満を抱いた...のではなく、これから告げる重い事実にあらためて胸を打たれたのだ。

「どうしたんです。」

「う...、ごめん。...伊左輪那義氏ね、焼け死んだんだよ。常盤との共同研究中に、火事にあってね。」

「例の、実験室の大火、という...。」

 大野は無言で頷いた。

 彼がもう一度口を開くのに、二人を乗せた車はたっぷり二キロは進んだ。

「最土氏が何故危険か...。そう思ったのは、伊左輪氏が生きているかもしれないと思ったからなんだ。

「そう。君の考えるように氏は確かに死んだ。当時その焼死体も見つかったらしい。...だがそれでも尚俺が引っかかっていたのは、氏が転移セラピスト、つまりジャッカーだったって事だった。」

 原尾がその言葉を受けてつけ加える。

「もし伊左輪氏が生きていれば、最土氏に奪われたものを取り返しに行くってこと?」

「そうだ。最土修が俺を雇って、ジャッカーを捕まえさせたのも、ひょっとしたら彼を畏れたからかも知れない。だがそんな、本体を失っても生きていられる存在なんて、他に考えられないよね...。」

 原尾はその意味が心に浸透した途端、湧き出す戦慄に総毛立つのが分かった。そんな、そんな...。

「ゼロ・ヒューマン!!」

 原尾の叫びに頷いてから、大野はやりきれない面持ちで言った。

「思い出してみよう。ギルバートの人工転移を狙い、その中に万丈の、ひいては常盤の影を見て歓喜したのは誰だったっけ?

「新米君から聞いてるだろうが、おそらく集団転移を手にすることに、己の人生の目的を見いだすとすら述べていたのは誰だったっけ?」

 イド催眠によるサイコダイブで知った、あの男にジャックされた時の出来事、そしてあの男の逮捕劇を馳から聞かされたときに彼が言ったという謎の言葉が、原尾の脳裏に去来する。だが、それにも増して決定的な言葉を、彼は突きつけた。

「そして最後に氏の暗示的な名前だ。ズバリ言っちまおう。日本神話で、イザナギが行って、戻って来たのは何処だったっけ?」

「!!」原尾はめくるめく思いに、頭を紅潮させていた。

 彼はあの時、”生還”と言った。先日のあの男とのキャロットの、今にして解るその心理...。彼女はその衝撃の名前を、辛うじて絞り出すのがやっとだった。

「黄泉...。」

 

 彼は力一杯に叩いているのに、その扉は頑なに彼を拒む。そうしている間にも、彼の心にタイムリミットが迫っていた。そんな、一体どうしてこんな事に...。依童に転移した彼の周囲にはもうもうと煙がたちこめ、今や彼をもその火の手は襲おうとしている。にも関わらず彼の離魂体はまだ実験室の中にあり、扉を開けることが出来る常盤は何処に行ったかわからない。

 もう後僅かであれが起こる...。そう思うと、冷静さを失って彼は扉に取り付いた。丸く取り付けられたガラス窓はあまりにも透明で、中を覗き込むとそこに、手が届きそうなほど近く自分の身体が横たわっている。

 く、ぉぉおお。頭も割れよ、手も砕けよとばかりに彼は扉を叩く。扉は相変わらずそれに動じない。それでも彼は諦めない。

 額から流れる血に染まったガラス窓を拭った時だ。彼はその時、窓の向こう、実験室を挟んだ向かいの扉の同じく丸いガラス窓から、男が覗いているのを見た。こちらを同じように覗き、心なしかほくそ笑んでいる、扉の向こうのその男...。

「常盤ーっ!!」

 その時、時間となった。実験室内に置かれた彼の離魂体がゆっくりとその両手を挙げ、口を開き...、全身から水分を吹き出したのである。

 想い人を求めるような格好で寂寥の最期を遂げる離魂体の最終現象、ヴァンパイヤが起こったのだ。その身体の持ち主である、伊左輪那義本人の目の前で...。

 同時に、それを見つめる彼にも火がついた。見る見るうちに炎に包まれるその全身。

 炎が誘う激痛と、己の身体の悲劇を憂う悲鳴と、彼の叫びはどちらだったろうか。

「あああああああああああああ!」

 

 成木は十年の重みを込めて最土への糾弾を続ける。「私を実験に用いるとは考えたではないか。失敗しても私が死ぬことで、お前の嫉妬の根源は絶たれるわけだ。どちらに転んでも貴様に損はない。見事なほどに利己的な決断ではないか。」

 成木の前の昔日の炎は、忌まわしき光景のスクリーンとなって、彼の最期をまた映し出す。

「気付いてみれば、離魂体が燃え尽きても私はその生をこの世に残していた...。

「皮肉なものじゃないか。お前の仮定は誤っていて実験は失敗したのに、そのこと...、信頼を裏切られた事への怒りが、私をゼロ・ヒューマンにしたのだから。」

彼の言葉は自戒でもあったのか。

「皮肉なものじゃないか。私は一流の転移セラピストと呼ばれていながら、一番身近なお前の心が見えなかったのだから...。」

成木は沈痛に語り続ける。

「私はあの時、お前が私と共に死ぬつもりなのかと思った。それは言うなれば、お前の心を読めなかった私自身が起こした悲劇だと、あの時の私は思っていたのだ。

「だが、お前は生きていた! 私の身体を焼き付くして尚、十年あまりものうのうと生き延びていた!!」

「僕には...僕には...」

 下を向いて抗う最土にも、成木は弾劾の言葉を緩めない。

「そう。私には分かるよ。優しいお前には出来ないとな。だが事実として私の身体は燃え尽きた。それは何故だ。お前の心はどこにあったのだ!」

 成木は、すべての始まりとなったこの事件の謎を解くその言葉を最土に突きつけた。

「簡単だ。己の欲望の達成、しかしそこに生じる良心の呵責...、貴様はその双方を同時に満足させるために、己の心を二つに分けたのだ!!」

 

 分かたれた心の片割れは、宿命の火事以降、最土の心の中に久しく眠っていた。それを再び揺り起こしたのは、禁忌の研究に再び手を染めた最土の心の弱さから来る必然であったろう。そして人工転移術を最土が解明したとき、普通なら離れることの出来ない多重人格の一つの心は、万丈という名を持つもう一人の最土として生きることも出来るようになったのである。

 しかるに、万丈が語る一人称は同時に最土のことでもある。彼は、彼の恐るべき研究について操乱に話していた。

「集団転移とは、転移した先の依童を最早”個体”として扱う必要すらないのだ。そこではいわんや依童が頭を失っても、その肉片の一切れに血が通って生命活動を続ける限り、集団の中の必要要素として存在することが出来るのだ。しかも要素は常に全体との関わりの中でその役割を見いだす。だから本体である俺は、その要素の見た物を己の視界とし、その要素の手にした物を己の武器に転じることが出来るのだ。」

 さっきは、あの目ん玉で敵の位置を知っていたのか。万丈について洋館の中を散策しながら、操乱は震撼した。

 館の中は、中央にぶち抜きの広間を持つ二階建て構造で、殺風景な雰囲気は所々に置かれた銃火機で更に助長されていた。

 万丈はその中を、まるで誰もいないかの様に信じ難い大胆さをもって行動する。

 もう勝ったと思ってやがる。操乱は思った。少なくとも俺の目標であるジオは(おそらく最初に見張りをやっていた奴だろう)まだ死んじゃいないんだぜ。

 操乱はそう思えばこそ、いつでも逃げられるように万丈との距離を開けていた。

 それが幸いしたか、彼は次に起こる攻撃から辛うじて逃れられた。

 ダンッ。二階の廊下を歩いていたときだ。万丈がその前を通り過ぎた瞬間、大きな音を立てて傍らの扉が開いた。操乱と万丈の間に、ジオが割って入ったのだ。

「!!」万丈は振り返る間もなく、一閃するジオの刃の餌食にあって、銃を手にした方の腕を伐り飛ばされた。そして万丈の喉元にそれを突きつけ、操乱に銃を向けた。腕が手すりを飛び越えて、一階の広間の中央床に落ちたのは、それから一秒も後のことだった。

「聞いたぜ。お前があの亡者どもを操っていた本体らしいな。」ジオは万丈の首に微かに傷を付けながら言う。「我らクール隊をここまで追い詰めたその力、聞かせて欲しいもんだな。」

 さしもの集団転移も、本体がこうなっては絶体絶命であろう。だがしかし、この場においてもなお、万丈は笑みを絶やさない。眉間に照準を定められて動くことのできぬ操乱とは対照的だ。

 万丈は、自身の皮膚から流れ出す血を感じつつ、ジオに言った。

「自分達を皆殺しにされた集団転移のことが聴きたいか。だが、残念ながらお前じゃ役不足だな。」

「なんだと。」

 銃声がした。何! 俺はまだ...。ジオは思った。だがジオにとって更に信じられないことに、その音で放たれた弾丸は、ジオの身体を貫いたのである。

「なっ。」

バカな。こいつら二人以外に残っていなかった筈だ。ジオは痛みと驚愕に顔を歪めながら、己を貫いた弾の弾道を辿って下を見た。

 何ということか、信じられないものをそこに彼は見た。そこには先ほど切り落とした万丈の腕が、手にした銃の狙いを自分に付けていたのだ。

 更に二発の銃声がして、弾はことごとくジオに当たった。腕はそこでバランスを失い、後は発射の反動で回転しながら狂ったように残弾を乱射した。

 そ、そうか。首を折られて死んだ仲間が、彼の身体に取り付いていた腕にやられたことに思い当たりながら、ジオは体のバランスを崩し、手すりを越えて階下に落下した。

「集団転移、それは俺という指令中枢を核とした一つの生命体であり、いわば”集団という個”なのだ。」

 ぞっとしたように自分を見ている操乱に、万丈は下のジオを促した。「お前はあいつの能力が欲しかったんだろう。死ぬ前に手に入れてきたらどうだ。」

 言われずとも。気を取り直して、操乱は階段に駆けていった。

 

 操乱はジオに駆け寄ると、その傍らに立った。ジオは銃創と落下の傷からかなりの出血をしていた。

 ざまぁねぇやな。普段の操乱ならそう言っていただろう。だが、彼は自分でも思いもかけぬ科白を吐いた。

「お前達は何故そこまでクールに忠誠を尽くせるんだ。まるでやられ役のように死んでいく事に何故我慢できるんだ。」

な、何だ。俺は何言ってるんだ。操乱自身にもそれは意外で...。

「俺にはさっぱり分からない。お前達には上にいる万丈ってバケモンとは別の意味で、個人というものが無い。何故だ。お前達を駆り立てるものはいったい何なのだ。」

 虫の息になっているジオだったが、操乱の言葉はしっかりと耳に入ったようだ。

 操乱の問いもこの場に合わぬ唐突なものであったが、その問いを踏まえたジオの答えもまた、奇妙なほどに静かになされた。

「俺達は...、クール隊はなにもクールに盲従しているわけではない。クール隊のそれぞれが目指すものを同じくし...、合理的にそれを得るための最良の手段としてクールを戴いているに過ぎない。」

「究極の軍隊を創生するのが全員の目標か。俺にはとてもそうとは思えんがね。現にクールが人工転移を欲しがるのはそれだけが理由ではあるまい。」

「あんたの言う通りだよ。...だが、クールは理想を実現した後の、次のステップの目標を持っているというだけだ...。そんなものは我ら全員同じ事、究極の軍隊はそれぞれの隊員達にとって通過点に過ぎん。」

 複雑な想いが操乱を包む。こいつらは別の意味で今もフロンティアを追い求めているという事か...。

「だが、お前は志半ばで死んでゆく。そのことがお前には悔しくないのか。」

「俺達は元々...戦いに存在価値を見いだす人間達だ。クールと共にいれば、戦いの日々が送れた。しかもそこには目標すらある。...。

「夢を追いつつ死んでゆくのは...、寧ろ充実した生だったと俺は思うが?」

 血の気を急速に失いつつも、そう語るジオにしかし、操乱は気圧されていた。

 突然、操乱はその脳裏に、林の中にあったクール隊の墓地のイメージが浮かんだ。そしてここでやっと彼は気付いた。自分にはさほどインパクトを持たなかった場所が強く感じられる理由はただ一つ。自分が今乗っ取っている馳の思念がジャッキングに影響しているのだ。

 クール隊の墓地を作ったあの林の中の空間は、四方からアーチ状に木々の枝が張り出して、まるで教会の中にいるかのような雰囲気を醸し出していた。その場所を仲間の墓地に選んだという、彼らとは奇妙に不釣り合いに思える敬虔な感覚を、馳が疑問に持ったことが端緒となって、操乱にこんな議論をさせていたのだった。

 ジャッカーに対して思考のフィードバックをかけてくるとは。操乱は正直驚いた。この新米もボケだけで対特に入ったのではないということか。

「生憎。」馳の思念を抑えつつあらためて操乱は言った。「夢は叶えてこそ幸福だと、俺は思う質でね。お前のナイフ捌き、いただくぜ。」

 彼はそう言うとジオにジャックした。

 ジオの技術を盗み取るうち、操乱にはジオの命の消えていくのが分かった。が、そこにはジオの先ほどの言葉通りの安寧があって、操乱は閉口した。

 彼は死んだジオから馳に戻ると言った。

「集団の個と、個の集団...。どっちも俺にはついていけねぇ。」

 

 上階では個の集団、集団転移を持つ万丈が散策を続けていた。

 彼はジオが落としていった銃を手に、一部屋ずつ開け放っては何か無いかと中を窺う。

 どうやらあの男で最後だったようだな。万丈は次の部屋に向かった。クールがいなかったのは残念だが、ここを叩けば奴は活動の拠点を失うのだから、最土にまで至る証拠を集めることは困難になるだろう。そうとなれば、奴の身体はその時間に堪えられまい。どっちにしろ、俺の勝ちは決まったな。

 だが、万丈のその確信は、次の部屋のドアを開けるまでの間だけだった。

 万丈がその部屋を開けたとき、今までとは明らかに違うアンモニア系の匂いがしたので、彼は一旦ドアの脇に隠れて銃を身構えた。

 一瞬、でかい水槽が見えた。ヤムの研究にあった強化細胞用の培養槽か...。ならばここにクールがいるかもしれん。

 体制を整えてから、彼はもう一度部屋の中に入った。片腕のまますぐに銃をその身の前で構える。

「!!」だがそこに見たものは、剛胆な彼でさえ目を見張るほど驚くべきものだった。万丈は思わず呟いていた...。

「ギ、ギルバート...」

 

 何だ。誰かいるのか...。万丈の様子を見に再び上がってきた操乱だったが、万丈が何か言うのを耳にして中に入るのを止めた。壁に貼り付いて中の様子を窺うと、万丈が何かの水槽の前で話しているのが見える。が、残念ながら、操乱の位置からではその中に何が入っているかまでは見えない。

 くそっ。わざとらしい伏線張りやがって...。操乱は奇妙な悪態をついた。やがて中から別の男の声が聞こえてきた。

「いよう。それ程驚くところを見ると、貴様は万丈だな。」

「お、お前は死んだ筈ではなかったのか?」

「この姿を見れば一度は死んだことは分かるだろう?

「そして俺が生きていることの意味も、お前なら察せられるだろう...。」

 万丈は今までにないほどその目を恐怖に染めた。クールが死体を集めていたのは残留記憶を探るためなんかじゃない!!

「お前なら察せられるだろう? 俺がお前を道連れにするために生きているという事も...。」

「うわああぁぁあぁぁあぁあ!!」

叫んで万丈は、手にした銃を全弾発射した。

 

 ガラスの割れるカン高い音がし、何かに引火する厭な音を操乱は聴いたので、部屋の中に入ろうと身を乗り出したが、刹那に入り口から流れてきた何かの溶液の濁流と、それに流されて来た万丈によって遮られた。万丈は手すりに当たって背中を打ちつけることで、やっと止まることができた。

「どうしたんだ。」

「ク、クールが...。」万丈の慌て様は尋常ではない。「は、早く戻らねば...。」

あたふたと立ち上がろうとする彼を見て、操乱は理解した。万丈の動揺、焦燥。それが何を意味するかを...。

 操乱は万丈の前に、わざと立ち塞がるようにした。

「き、貴様...。」万丈は苛立ちは悲鳴のようですらある。「邪魔だ。そこを退け。」

「あぁ、そのことね...。」操乱は思いだしたように言う。「そのことならもう手遅れだと思うよ。」

 そして、操乱の言が正鵠を射ていて、しかもハッタリではないことが、次の一言で万丈に思い知らされるのだった。

「ね。最土修さん。」

 

 自分の身を朽ちさせた憎むべき相手、そんな男への怒りに心を滾らせていても、成木の抜かりなさが察せられるのは、外の気配を窺うために、自身を窓際に位置していることだろう。彼は、外の景色の中に、警戒すべき男の気配を感じて、それまで最土に対してとっていた余裕の表情に緊張を戻した。

 おっ。とうとう来たか。思ったより遅かったのは何か企んでいたか...。

 そしてこのひとときの再開に、終止符を打たねばならないと心を決めた。

「さて、そろそろ覚悟をしてくれないかな。」そう成木に軽く言われた科白はそれだけに、最土には一層の恐怖を伴って響いただろう。

「た、助けてくれ...、君は集団転移法が欲しいのだろう? 全てを話すから見逃してくれないか...。」

 命が危ないことが、最土を幼児退行から現実に引き戻したようだ。そこには大人の狡猾な取引が出来得るだけの理性が戻っていたが、さて、彼の哀願は届くか。成木はそも、聴く耳を持つか。

「確かに、昔から集団転移が私の追究する夢だった。それが手にはいることが何よりも喜ばしきことに決まっている...。

「だが、ゼロ・ヒューマンと化したあの時、私は確かにお前への憎悪を生への糧とした。今、お前が生きていることが私に知れてしまった以上、私をつき動かすものにお前さんへの殺意が加わったとて、不思議ではあるまい。」

「そ、そんな...。そ、そうだよ。私を殺せば集団転移のこれ以上の進展はないとは思わないか。私の価値を、お前なら分かるだろう?」

 成木は蔑みの笑みを浮かべた。

「それこそ思い上がりだろう。お前の集団転移の研究成果の半分は、転移可能者として監修した私の力だということを忘れているぞ。下手な命請いは止めるんだな。それに...」成木は外を促した。「よしんば私がお前を見逃しても、そこまで来ている兵隊さんはそうは優しくないだろう。どのみち、お前は既に追い詰められてるんだよ。」

 

 成木は女の口であるからこそ現実を語るか。

「社会に巣喰いながら称賛は浴びたい。だがあくまでもそれは平和な家庭を維持した上で...。お前の欲望と希望の端緒は所詮その程度だろうよ。お前の下卑た野心など知る価値も無い。だが、お前はやはり悪魔の誘惑に打ち勝つことが出来なかった。そして私を使って失敗したゼロ・ヒューマンの作成ではなく、常盤の理論を実証するもう一つのキーワード、すなわち集団転移の実証実験を再開したのだ。

「その研究は見事に成功したようだね。それには勿論おめでとうというよ。だがそれはお前自身の破滅の一歩だったのだ。そうだろう。それは副産物として万丈を造りだし、私を惹き寄せたのだから。

「もっとも...」と成木は言葉を止め、自分の後方を促すように顎をしゃくった。「人間をモルモットにした時点で、お前に人間として生きる価値はなくなっているがな。」

 成木のその言を聞いた時の最土の驚きは、死の宣告を受けた者よりも重かったろう。

「あのE級患者達に対してお前が施したのは最早治療ではない。権力欲に負けて人命をもてあそんだおまえは、医師としても失格なのだよ。」

 最土は遠くから流れてくるE級患者の遠吠えを聴いた。集団転移の完成過程で犠牲になった、魂の抜けた亡者達の悲鳴を。

「あぁ、あ。」

 最土は死に物狂いで耳を押さえた。だが成木は、そんな最土の手を包み込むように、秘書の手を当てた...。

 

「ああああぁあぁぁあぁぁああぁぁぁ!!!」

万丈はその時、彼方の心と時を同じくして、凄まじい叫び声を上げていた。

「あああぁぁあぁぁぁぁ!!」

二行にも及ぶ絶叫は、さしもの操乱をもたじろがせた。万丈はその隙を縫って操乱をやり過ごし、一気に廊下を駆け出した。それは勿論、一歩でも本体に近づくために...。 

 だがその願いも空しい抵抗に過ぎなかった。彼の精神の崩壊は、最早依童の身体すら十分に扱えなくなっていたのだ。万丈は階段で足を縺れさせ、階下まで転がり落ちた。

 しかし、彼の生への執念だけは見事と言わずばなるまい。万丈は制御の効かなくなった依童の足を引きずって、両足が動かなくなれば今度は唯一残された一本腕で、洋館の出口に向かって這い進んでいた。

 万丈が引き起こした出火で、階上は早くも火が回り始めていた。

 その炎を背景に背負って操乱がゆっくりと階段を下りてきた。

「せっかく仲間にと誘ってくれたが、残念ながら辞退することにするよ。

「俺とて成木に肩入れする気はないが...。」操乱は苦々しげに言った。「人為的に転移ができる様になったあんたには、所詮俺達ジャッカーの気持ちは判らんよ。」

 彼を見つめて語るうち、操乱は万丈に変化が起こり始めていることに気付いた。

 足だ。足が水分放出を始めているんだ。操乱は悟った。なんてこった。ヴァンパイヤ化してやがる。

 精神がその身体を制御しているうちは絶対に起こり得ない身体の最終現象、ヴァンパイヤが起こっていたのだ。

 万丈は操乱の見ている前でその身体を急激にやせ衰えさせていった。頬はこけ、肋は浮きだし、見る見るうちに半世紀を洞窟で暮らした修験者の様な姿になってゆき...、すぐに全身の硬直が始まった。

「し...ぬ...。」

 操乱はその光景に恐怖しつつも、万丈の脇に立った。いや、そこに釘付けにされたと言った方が正しいか。

 生きながらヴァンパイヤ化してゆく万丈の痛みは、どれほどのものか想像すらできない。

 万丈の腕が上がりだしたことに、操乱は彼の最期を予感する...。

 だがつと万丈の腕が縋るものを求めてさまよい、あっと言う間もなく操乱の足を掴んだ。

 ひっ! 短い悲鳴を上げて思わず操乱は逃げようとした。硬直しかけた腕はしかし、全く外れない。あまりの恐怖に理性を失いかけた彼は、離れることが無駄だと知るや銃を構えた。バケモノめ、撃ち殺してやる。

 だが、引き金は弾けなかった。何かが邪魔をして...。

 く。馳か...。思い当たって操乱は心中毒づいた。こいつも何とかしなくては...。

 彼の頭のどこかがブチ切れそうな程の恐怖がどれほど続いたのか、結局その体勢のまま、ヴァンパイヤは終わった。同時に火の手も回ってきたので、操乱は足を強く振った。足を掴んでいた腕は、既にミイラと化していたので、ポキンと折れて、床に転がった。

 ようやく心臓の鼓動が落ち着いてくると、操乱は言った。

「あんたの集団転移は確かにとてつもない代物だ。だけどそれを扱うあんたの方に限界があった様だな。」

 言葉を残して彼は洋館を出た。火の手が館全体に及ぶのを見届けながら、操乱は呟いた。

「ということは、ゼロ・ヒューマンが集団転移を手に入れたら、そいつは正真正銘無敵って事か...。」

-----------------------------

 

第十四章へつづく

 

説明
精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。
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