うそつきはどろぼうのはじまり 30
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一瞬にして暗がりと化した部屋の中、彼女はこの世で最も望んだ腕に抱かれた。

頬を伝う涙が寝具を濡らした。幾度も拭われたが、これが最後なのだと思うと、とめどなく溢れて止まらなかった。

ちゃんと彼の顔を焼き付けておきたい。瞼を閉じれば、いつでも浮かぶように。なのに視野が滲んで、それができない。

涙を別の意味に取った彼が囁く。辛いのなら止める、と掠れた、余裕の無い声が言う。その気遣いさえも、今はとてつもなく愛おしい。

腕の中の少女は首を振る。そして精一杯の笑みを浮かべて彼に抱きついた。

アルヴィンは優しい。とても優しくて、脆い。だからこそ辛かった。その優しさを踏みにじることが。

行為の痛みは確かに彼女を襲ったが、それより心の方が遥かに痛かった。

このまま傍にいられたら、と思う。

彼が目を覚まして、照れたようにおはようと言い、二人で微笑みあう、そんな光景が目に見えるようだった。

新たな涙が頬を伝い落ちる。

この人を苦しめることになるかもしれない。自分の我侭のせいで。彼が自分を抱いたせいで。

でも、止められなかった。

ごめんなさい、と嗚咽の合間にエリーゼは謝罪を口にする。

彼はきっと傷つくだろう。あらかじめ予定されていた結婚だったとしても、頭で理解するのと気持ちの整理は別問題だ。もしかしたら、この婚姻話に乗った彼女を嫌悪するかもしれない。

それでもいい。嫌われても、信じてくれなくなっても構わない。

ただ、理解はして欲しかった。自分がこの選択をした理由だけは、わかって欲しかった。

(好きです)

愛しています、アル。今までも、これからもずっと、あなただけを。

エリーゼは覚醒した。突如として彼女の目を覚まさせたのは、愛する人からの口付けではなく、強烈な殺気であった。

(襲撃? 囲まれている?)

彼女は猫を思わせる俊敏さで寝台の上に裸体を伏せる。緑の双眸を爛々と光らせたまま、隣をまさぐる。男はいない。が、褥はまだ温い。

目だけをそろそろと動かし、部屋の様子を探る。窓際の壁に、鍛えられた上半身が見えた。男の手には既に銃があった。彼の視線は油断無く外へ向けられている。

アルヴィンが警戒していると悟った少女は手早く服を着た。物音を立てないよう、荷物を纏め上げる。大きな荷物は脱出を阻む。持って行くものは現金と水だけで良かった。到着地点は目と鼻の先なのだから、携行品は必要最低限で構わない。

立てかけてあった杖を握り、改めて窓の方を振り返る。男がこちらを見ている。エリーゼは黙って頷きを返す。

二人は比較的気配の薄い勝手口から飛び出し、一目散にワイバーンの寝床を目指した。右も左も真っ暗な林の中、魔物の咆哮が断続的に聞こえてくる。そこには、複数の人間の怒声が明らかに混じっていた。

アルヴィンが痛烈な舌打ちを漏らし、天に向かって怒鳴った。

「もう近くにいる、来い!」

烈風が吹き、目の前の木が音を立てて倒れた。騎乗者に命じられたワイバーンが、夜盗と共に周囲の木々を尻尾の一振りでなぎ倒したのだ。

魔物と併走しながら、煽られっ放しの手綱を男は掴んだ。エリーゼはアルヴィンの胴にしがみ付く。と、次の瞬間にはワイバーンの背であった。

運び屋は思い切り手綱を引き絞り、一気に夜空へ飛び出した。

「どのくらいでした?」

小屋から充分に離れた海上で、エリーゼはそっと様子を訊ねる。

「数はそんなにいなかった。いきなりワイバーンを相手にしちまうような素人を寄越すんだ。向こうも切羽詰ってるらしいな」

内容こそ軽いがアルヴィンの顔は厳しい。

実際、襲撃者が金で雇われたような雑魚だったのは幸いであった。二人が陸路ではなく、ワイバーンの飛行能力を充分に生かした行程を選択した時点で、あの小屋に泊まることは確定事項だった。これまで襲撃が皆無だったのは、待ち伏せされていたせいなのかもしれない。いくらワイバーンの翼が早くとも、リーゼ・マクシアから船であっても寄り道せず直行すれば充分、二人の到着までには間に合う計算になる。

やはりカラハ・シャールの襲撃は夢ではなかったのだ、とエリーゼもまた暗い顔で海を見つめた。

ワイバーンは海上すれすれを飛んでいる。あまり高度を取ると、エレンピオス軍に未確認機と間違われ、攻撃されてしまうらしい。

良く晴れた、静かな夜だった。真っ黒な夜の闇が、全ての色を奪っていた。

かろうじて月の光が姿形を浮かび上がらせ、雲の淵や波飛沫を青白く染め上げるが、全てはまるで水墨画のように押し黙っている。

洪水の如く色が押し寄せる昼間とは違う、白黒の世界が目の前にあった。

安堵を感じるのは、彼女があまりに見慣れているからだろうか。

思い返せば、幼い頃から目を開ければ、そこは常に闇であった。

場所は異なっていても幽閉されていた事実が変わるわけではない。開けても閉じても変わらない風景を当然のことと思っていたから、闇に対して恐怖や悲壮を感じることは無かった。

抱くのは安息。一人きりの世界。自分の他には誰もいない、孤独な今。

そして闇もまた彼女を許容した。闇は幼子に驚異的な力を与え、高度な術者として生きる可能性を、彼女に与えた。彼女はその意味を理解する前に会得し、自分の物とした。

確かに闇はエリーゼに生きる術を与えた。だが孤独を癒すには至らなかったのである。

(わたしは・・・友達が欲しかった)

エリーゼは心通わせる相手が欲しかった。自分を信じ、背中を預けても良いと思える存在を渇望していた。

巡り会ったその人は、笑顔の絶えない人だった。

いつだって笑っていて、冗談を言い、何かにつけ、よくからかわれた。

けれどその完璧な笑顔が上辺だけの代物だと気づいたのは、孤独な自我の匂いを嗅ぎ取ったからだ。

精霊のいない、機械仕掛けの街に雪の降った夜、彼女は男の自我の声を聞いた。

何もかもが終わってしまった。公園の遊具に腰掛けていた男は言った。

いつだって正しいことをしようとしてきたはずなのに、結局は悪い方へ転がってしまうと、溜息混じりに零した。

彼は自身の腕の中で夢を見続けていた。このまま自分も他人も偽り続けて、どうにかして上手くやっていく未来を、長い間抱え続けていた。抱え続け過ぎて、周囲が暗闇と化していることに気づくのが遅れた。

何もかもを失ってから自覚して、ようやく前に進み出そうと決めても尚足が竦んだままの男に、エリーゼは手を伸べた。

手を取ってくれと、導いてくれと、助けを求めて暗闇の中で震え慄いているアルヴィンに、エリーゼは信頼の証を贈った。自分がいる。自分が側で支えてあげる。結果が怖くて勇気の出せない貴方の代わりに、わたしが声を出してあげる。

そう心に決めた夜から、五年の歳月が流れた。白い、冬の贈り物が舞い降りた夜は、それでも昨日のことのように覚えている。

全てが去ってしまった。何もかもが変わってしまった。自分達は決して、以前と同じではない。

それでも進み続けなければならないのだ。外が嵐であろうと、結果が明らかに不毛に終わろうと、立ち向かい、歩き続けなければならないのだ。答えを見つけるためには、目を逸らすことなく挑み続けるしかないのだから。

エリーゼは静かに前方を見つめる。トリグラフの鉄塔の群れは、もう目の前まで来ていた。

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