霊安室の中で |
病室の窓から見る景色は、山ばかりが広がっていて、なんだか心がやすらぐ。山と田んぼに夕日の光があたって、綺麗。田んぼに映え渡っている稲穂は、緑色なのに、もう収穫のときみたいに染まっている。川の水に反射する光もオレンジ色をしていた。
盲腸で入院して、なんだか凄いお医者さんがいるということで、来たこともない田舎のほうにやってきたけど、こんな景色を見れたのは不幸中の幸いだったのかも。病室に眼をもどせば、この二○二号室のもう一人の使用者がこちらを見て、にやついていた。
「なにかあったの」
用意された病院食のカレーを食べながら、サエちゃんに話しかけた。
サエちゃんは、わたしと同い年。同じく盲腸で入院していた。同い年で、同じ場所で、同じ病気になった珍しさから、わたし達はすぐに友達になった。
「ねえ、シホちゃん。肝試し、してみない」
「ええ、そんな怖いよう」
サエちゃんは、怖いものしらずだ。臆病なわたしと違って、手術が終わってからは、毎日こういった提案をしてくる。安静にするようにって言われているけれど、どこも痛いところはないし、きっとサエちゃんも同じだと思うから、体を動かしたいのは分かるけど……。
「いいじゃない。やってみようよ」
「でも……どこに行くの」
「ほら、あそこだって」
わたしは露骨に嫌そうな顔をしてしまった。わたしは勿論怖いから嫌だったし、なにより行く場所が嫌だった。サエちゃんはそんなわたしの顔を見かねてか、言葉を足す。
「大丈夫だって。こんなのは、ただのドキョーだめしだって」
サエちゃんは、少しイントネーションがおかしい物言いでわたしにそういった。
「それは、そうだけど。でも、霊安室なんて……」
「そう、レーアン室。面白そうでしょー。入院してるうちじゃないと、こんなことできないって」
わたし達が入院している病院には、霊安室があった。たまたま病院の名前をパソコンで調べた時にわたしが見つけてしまい、サエちゃんが興味を持ったのだ。
「霊安室って、幽霊がいそうで怖いよ」
「もう、なにいってんの! そうじゃなきゃ行く意味がないじゃない」
「でも、あそこは地下にあるみたいだし……それに鍵だってきっと掛かってるよ」
「それなら、なんとかなるよ。ある人に開けておくように頼んでおいたし。今日は夜まで残ってる人も少ないんだって! それに、母さん達も今日はいないし。ね、今日やるしかないでしょ」
ある人といっても、思い当たる人は一人しかいない。わたし達の担当看護婦のミズノさんが関わってるみたいだ。ミズノさんは、よくわたしたちに話を聞かせてくれる。入院をした当初から、面白い人だとは思っていたけど。特に手術の日の前の会話が面白かった。その時のことを思い出してみよう。
「シホちゃん、サエちゃん。盲腸の由来って知ってるかなあ」
花瓶の水を入れ替えていたミズノさんが唐突に、わたし達にそんなことを聞いてきた。
「ユライ?」
サエちゃんは、読んでいた本を布団の上に置くと、すぐにそう聞き返していた。
「ごめんごめん。由来ってのはね、どうしてこういう言葉になったかってことね」
「そうなんだー。知らないなあ。シホちゃんはどう?」
読んでいた本の間に指を挟んでから、会話に参加する。
「わたしも知らないね。ミズノさんはそんなことを聞くんだから、知っているんだよね」
そう言われるのを待っていたとばかりに、ミズノさんは腕を組みながら話しだす。
「もっちろん。盲腸のモウは、牛のモー。チョウは蝶々のチョウなんだよ」
わたし達でも、さすがにそれが嘘なのは分かった。
「もーミズノさんもやっぱり知らないんじゃないのー」
サエちゃんが布団にべたりとつっぷしながら、そう言った。ミズノさんは腕組みを解くと、サエちゃんのほうを向いて喋りだす。
「まあまあ、知らなくたっていいじゃない。手術中に怖くなったら、牛と蝶々を思い出せばいいんだよ。ほら、全然怖いイメージがでてこないでしょう」
サエちゃんが、うーん、と声を上げながら考えている。
「両方とも、お花畑でゆっくりと過ごしてそう」
「わたしもそうだね。ミズノさんなりの手術前の気遣いなのかな」
「あらら、シホちゃんは……そういうことは分かっても黙ってないと駄目なの。シホちゃんはそういうとこ鋭いから、なおさらね。これ大事なことよー。シホちゃんには、今いっちばん必要なことかもしれないわ」
人差し指を立てながら、わたしに言いかけてきた。なんだか釈然としないわたしを見かねてか、ミズノさんは続けた。
「難しい言葉だけどねー。沈黙は金、雄弁は銀って言葉があってね。黙ってたほうが、うまくいくってこともあるのよう。オトナになると、なおさら多いことだから大変よ」
サエちゃんはよく分からなかったようで、
「はっきり言ったほうがいいんじゃないかなあ」
と言っていた。ある意味、サエちゃんらしい。
「覚えておきますね。ミズノさん」
わたしはその言葉を覚えておくことにした。本当にそうかは分からないけど、覚えておいて悪いことはないと思うし。
「あ、言い当てられて悔しいとか、そんなことないんだからね。絶対、ないからね」
確かに沈黙は金、雄弁は銀なのかもしれない。わたしは一人で納得した。
思ったよりも、はっきりと覚えているものだと少し驚いた。
今日はわたしが本を読んでいるときにミズノさんはサエちゃんと喋っていたから、そのときにそそのかされたんだな、と勝手に予想しておく。ミズノさんは、サエちゃんをよくからかう。でも、それを承知でサエちゃんもやっているのだから、わたしとしては止めようもないし、悪い人じゃないから二人の会話を見守るしかなかった。サエちゃんは気づいてないみたいだけど、ミズノさんって嘘をつくときに腕を組むクセがあるんだよね。今までずっとそうだったから、嘘をつくときの病気みたいなものだと思う。
「やっぱりミズノさんになにか聞いたの?」
「分かっちゃったのー。なーんかおもしろさが減った気がするなー。でも、逆に安心じゃない? ミズノさんがわたし達を驚かせようと思って、なにかして待ってるって思えばさ」
でも、そこまでこだわることなのかなあと、わたしは思わずにはいられなかった。
「うーん……でもなあ」
「ここまでミズノさんがしてくれたんだから、やらないと逆に迷惑かけちゃうよ。ねえ、やろうよー。それに一人で行くんじゃなくて、二人一緒に行くんだから。怖くないでしょ。なにかあったら、もう一人が助けを呼びにいけばいいって、本に書いてあったよ!」
わたしもそんなことが書いてあった本を読んだ覚えがある。でも、その本って最後は二人とも死んじゃう結末なんだよ、サエちゃん。言わないでおくけど。
「分かった。ミズノさんにも悪いし、行ってみよう。……怖いけど」
「よーし、決まりね。やるのは九時からね! それまでカクジ準備をしとこ」
準備って、なにを用意するんだろう。たぶん、何も考えずに言ったんだろうなあ。まずは、目の前にあるカレーを食べることにした。
食器を取りに来たミズノさんに、サエちゃんは話しかけていた。わたしは本を読んでいたため、全部を聞きとることは出来なかったけど、『ちゃんと鍵を開けておいてね』と言っていたので、そのことについてだろう。サエちゃんはガサゴソと準備をしているようだったが、わたしは何を準備すればいいのか、思い浮かばなかったので、それからも本を読んでいた。
九時になった。普通なら消灯の時間。
「それじゃ、出発だね! ミズノさん以外の人にあったら、トイレってことにするんだよー。人のセイリゲンショーだから、なんとかなるってミズノさんに教えてもらったよ」
「わかった。二人でそう言おうね」
わたし達は病室の外へ出た。廊下の蛍光灯の光も抑えられ、薄暗くなっている。できるだけ声には恐怖の感情をしみ出さないようにしていたけど、やっぱり怖い。光は白いはずなのに、なんだか青白く光っている気がする。
足音が病棟の中を響いて、耳に戻ってくる。目的の霊安室までは遠いはずなのに、もう怖くなってきてしまった。
「引き返すのって――」
「駄目に決まってるじゃない」
言い終わる前に、否定されてしまったので、もう黙るしかなかった。サエちゃんの服を掴みながら、ゆっくりと進んでいく。階段まで来ると、手すりを掴みながらゆっくりと降りていく。下から誰か来ないかヒヤヒヤしてしまったけど、誰もこなかった。でも、それがなんだか逆に怖い。
一階に着いた。サエちゃんは、周りを気にせずに廊下を進んでいくので、それについていく。
「ここからどう行くの」
予定を聞いていなかったので、聞くことにした。
「ここをまっすぐいったところにある職員用の通路を通って、地下に行けるところがあるんだってさ。そこにレーアン室とカイボー室があるって」
「解剖って、そんなこともする部屋があったの」
「そういえば、シホちゃんは最後までパソコンを見てなかったね。病院の霊安室の近くにはよく解剖室があるらしいよ。なんでかは知らないけど。きっとオトナのジジョーってやつだね」
一階の廊下は二階よりも明るかったけど、これから向かうのが人を解剖したところの近くなんて……。
霊は存在するものだとわたしは思っている。
死ぬのが怖いから、死んだ後にそうなる人がいてもおかしくないと思う。わたしだって、死んだら嫌だ。学校の友達も、サエちゃんも、お母さんも、お父さんも。会えなくなるなんて悲しい。だから死にたくないし、死んでもここに残っていたいって、わたしだったらそう考えるに違いない。
「着いたよ。ここから通路を進んでいくと、また階段があって、そこを降りて、左側にカイボー室と右側にレーアン室があるって」
前の扉の上には『職員用通路』と書かれた緑のプレートがあった。サエちゃんが手を伸ばしてノブを引くと、中に入っていく。通路を入ってすぐのところに、トイレがあった。患者と同じものを使えないから、ここにあるのかな。サエちゃんとわたしは、まだ見たことがない世界の中を進むような心地で、キョロキョロと周りを観察しながら進んでいく。壁の色は、なんだか少し黄ばんでいる気がした。わたし達みたいな患者が普段見るところは壁を塗りなおしてあるけど、ここだけはしてないみたい。
トイレを過ぎると『事務室』があった。
「シホちゃん。あれってなんて読む?」
緑のプレートを指さしながら、尋ねてきた。
「ジムシツだよ」
それを聞いたサエちゃんは、腑に落ちない顔をしていた。その後に、
「でも、病院で体を鍛える人なんているのかなあ」
と、言ってきた。勘違いしているのは分かっていたけど、説明するのは肝試しが終わってからにしようと心に決めて、答えた。
「いるかもしれないよ」
シホちゃんは、そっか、と納得してしまったようだ。あとで説明するのが大変そうだなあと勝手に思う。
事務室を過ぎると左手のほうに、下へと続く階段が見えた。奥には職員用のロッカールームがあるみたいだったけど、そっちのほうにはいかない。ゆっくりと進んでいると、事務室の中から声がした。まさか、と思ったけれど幽霊ではなく、中で働いていた人らしかった。
サエちゃんが口に人差し指を当てながら『しー』とやってきた。わたしは黙って頷いて、二人で音を立てないように階段へ急いだ。
地下は、電灯の豆電球だけをつけたときみたいに暗かった。サエちゃんが用意していた小さな懐中電灯を点けた。まだ、なんとか見える程度には明るかったけれど、それでもないよりは、あったほうが怖くない。
暗さよりも、理科室みたいな薬品独特の臭いのほうが気になった。地下だから消臭とかを気にする必要がないからなのかな。
ここからは一本道で、通路も短い。奥の壁も見えている。サエちゃんの言っていた通り、左手に解剖室、右手には霊安室のプレートがあった。解剖室のほうがどちらかと言うと恐ろしい。死体をわざわざ刻んだ部屋なんて……。霊安室は、見るからに安易に入ってはいけないような扉をしている。幽霊も恐ろしいけど、病院の人に見つかったら大目玉を食うのは間違いない気がしてきた。
わたしとサエちゃんは霊安室の前に立った。よく考えてみれば、ここまで来られたことは凄いことだと思う。誰にも見つからずに、ここまで来られるなんて。わたしはハッと気づいた。出来過ぎじゃないかな、と。もしかしたら、この中に来るように幽霊がわたし達を誘っているんじゃ……。
「やっぱり、引き返したほうがいいんじゃないかな」
出来るだけ声を小さくして、そう言った。
「い、いまさらになってそんなこと言わないでって。さっきも言ったじゃん」
最初こそ普通の声だったけど、声はどんどん弱々しい口調になっていた。サエちゃんももやもやとだけど、変なものを感じているのかもしれない。それでも、振り切ったようにわたしに声をかける。
「いいから、早く中に入ってみようよ。一度入っちゃえばなんともなくなるに決まってるよ」
わたしに呼びかけるように、サエちゃんも自分で確認するように言っていた。なんて答えたらいいか悩んでいたら、サエちゃんがノブに手をかけた。
「早くしないと誰か来ちゃうかもしれないし、まずは中を見てみようよ。何もせずに見つかったら、一番イヤじゃない」
サエちゃんを説得するのは諦めよう。何も起こらないことを祈るだけしかできそうにない。
「じゃあ、サエちゃんがそのまま開けてね。わたしも後ろから覗くことにするから」
サエちゃんはこちらを見ずに、
「シホちゃんの、イクジナシ」
と、言ってから扉を開いた。
中は暗く、よく見えなかった。サエちゃんが持っていた懐中電灯を使って、中を照らしていく。何か冷蔵庫みたいな扉が見えた。それ以外は何があるのか分からない。
「ねえ、シホちゃん。あれ、なにか分かる?」
「見たこともないよ。あんなの」
「だよね。中、入ってみよう」
止める暇もなく、中に入っていってしまった。わたしは後ろを確認して、誰もいないことを確認してから中に入った。扉は開いたままだった。外からの光と、懐中電灯の灯りでうっすらとだけど、中の構造がわかった。冷蔵庫みたいなものが四つあって、仏壇みたいなものがあった。
「これが、やっぱり体を入れるところ……なのかな」
「そうだね。でも、何も出なくてよかった……」
そんなことを言った時に、わたし達以外の声を聞いた。かすれて、今にも消えそうな声だ。
「サエちゃん。な、なんの音」
「落ち着いてシホちゃん。携帯の音だよ。誰かが着信音をそういう風に設定してたみたい」
そういって、シホちゃんが懐中電灯をあてる先には、確かに携帯電話が置かれていた。このからくりを理解した。きっと、ミズノさんがどこからかわたし達を見張っていて、このタイミングで掛けてきたのだろう。
「なんだ。驚いて損をしちゃった。もう戻ろうよ。何も起きなかったし。ね?」
外のほうに歩きながら、
「うん……でも、あの携帯は持っていったほうがいいよね。え、あれ……」
サエちゃんの声のトーンが急に変わった。わたしも振り返って、そちらを見る。
「どうしたの」
携帯がある近くには、幾つかのものが落ちていた。懐中電灯の光で、はっきりと見ることができる。
「え……」
わたしもサエちゃんと同じように声を漏らしていた。
――眼。腕。足。
ミイラみたいに、しわしわになった体の断片がそこにはあった。
わたし達は声にもならない声をあげながら、そこから病室へと戻った。幸か不幸か、誰にも会うことはなかった。ベッドはもちろん二つあったけれど、わたし達は同じベッドに入って、頭まで布団を被って、二人でがたがたと震えていた。
そんなときに、病室のドアが開いた。サエちゃんがわたしの手をぎゅっと握った。誰がこんな時間に来るんだろう……。
「あらら、そんなに怖がっちゃったかあ」
ミズノさんの声だった。その声を聞いて、わたし達は飛び起きた。
「ミズノさん、あの時、携帯を鳴らしたのってミズノさん?」
わたしは半ば泣きそうになりながら、そう質問していた。
「そうそう。そんなに驚くなんて思わなかったんだけど。ごめんね」
これまでの恐怖がふっとほどけた気がした。
「それじゃ、あそこに置いてあったのも……」
あのたくさんの死体の断片みたいなもの。あれがミズノさんが用意したものじゃなかったとしたら……。
「ああ、コレのことでしょ。スーパーボールをちょっと削って塗装したものだよ。よく出来てるでしょー」
そういって、ミズノさんはポケットからさっき落ちていたものと同じ『眼』を取り出した。
「そうだったんだ。偽物でよかった……」
サエちゃんがそう呟いた。
沈黙は金、雄弁は銀という言葉を教わったけど、やっぱり言ってくれたほうがいいことのほうが多いとわたしは思った。
「よく作りましたね……。手と足のほうはどうやって作ったんですか」
「手と足って?」
その言葉を聞いて、わたし達は顔を見合わせて青ざめた。
やっぱり、あれは――。
「手と足を用意したのって、ミズノさんじゃないんですか……」
恐る恐るわたしは聞いた。ミズノさんは少し黙っていた。そして明るい口調で笑いながら喋りだした。
「ごめんごめん。冗談が過ぎたよ。私ってイジワルだから。おいうちをかけたくなっちゃったのよね。二人の反応が予想以上でね。腕と足も発泡スチロールを切って塗装したのよ。ここまで準備するの大変だったんだからねー。どう、いい経験だったでしょ。これでもう一生怖いものなしだね!」
「もう、ミズノさんったら。ほんとこわかったんだからね!」
サエちゃんは笑いながらそう言っていた。
わたしは、さっきの言葉を取り消そうと思う。
やっぱり沈黙は金、雄弁は銀だと思い直した。
ミズノさんは、さっきだけ腕を組みながら、そう喋っていたからだ。
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