廊下の影
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 夜の学校は不気味だ。幾何学的な視界が闇に丸くうずもれているせいか。長く長く続く廊下は安い光で照らし出されている。

 自分の足音にさえも何か空恐ろしいものが潜んでいるようなそんな気配。

 ――だめだよ。

 背後から囁かれた気がして、思わず振り返ってしまった。

 

「そこにはぼんやりと白い人影がー!!」

 ぱらり、とレポート用紙が捲られる。

「……マッチ、あのね、話聞いてた?」

「ん、聞いてたけど? それでどうなったわけ? ――ここの式間違ってる」

 友人である芥千里の課題レポートをチェックしながら、松壱は顔も上げずに答える。

「え、どこ?」

「ここ。マイナスが途中から消えてる」

「あ、うそーん。解きなおしかよ――って、おい、こら。人がせっかく怖い話を披露したのに、ちょっと反応が薄すぎないか?」

 横から肘で突いてくる千里に、松壱はレポート用紙を閉じてため息をついた。

「何? 俺に悲鳴を上げろと言っているのか?」

「うん。ちょっと想像できなくて、どんな感じかなーなんて思ったのがはじまり」

 レポート用紙を受け取りながら、千里はまじめな顔で頷く。

「俺は人外のものでは驚かないと決めてるから」

 さらりと答える友人に、千里は目を細めた。

「じゃあ、何なら驚くってんだよ。そんな怖いモノなんかないような顔して」

 長い睫毛を伏せがちにして、松壱は千里を見つめて薄い笑みを浮かべた。

「人間が怖い」

 千里は息を呑んだ。脳裏を過ぎったのは、雨、濡れた髪、赤――吐き捨てられた言葉。

 唇が急速に乾くような錯覚を覚えながら、声を絞る。

「……お前、それは……ないだろう。そんなまるで……借金取りか何かに追われてるみたいじゃないか」

 松壱は千里の言葉に相好を崩した。

「借金なんかないよ。馬鹿だな」

「馬鹿って言うな」

 浮上してきた記憶を沈めながら、千里は唇を尖らせた。それから表情を変えると、にやりと口の端を持ち上げる。

「さっきの怪談さ、実話なんだぜ。取れたて新鮮、ホットな話題」

 関心を持ったのか、松壱が眉を寄せる。

「どういうことだ?」

 片目を閉じ、千里はもう一方の手の人差し指を立てた。

「東高の話さ」

 

      *      *      *

 

「ああ、東高校ね。最近、何人か幽霊を追い払ってくださいってお願いに来てるよ」

 松壱が沖に問うと、彼はあっさり頷いて見せた。そのままのんびりと茶を啜る。その反応を見て、松壱は首を傾げた。

「お前はガセだと思ってるのか?」

「最初はね。妖気もなにも感じなかったからさ」

 湯飲みを置いて沖は視線を上げた。

「でもね、今夜はとうとう動かなきゃかなーって思ってたところ」

「……まさか」

「そ、優が来たんだよ」

 羽山優。昨年の秋にも沖に頼みごとをしに来た。彼女は現在、東高校の生徒であるのだ。

「優も見たらしいよ。その白い影っての」

 他よりも霊感の強い彼女が「見た」と言うのだから、幽霊話は本当である可能性が高い。

 ただ、と沖は続ける。

「優は怖くもなんともなかったらしいよ」

 しかし友人が怖がって仕方がないので、オキツネ様にお願いに来たのだと彼女は言っていた。

 見えたが怖くなかった。それは優が初めて沖を見たときと同じで、つまり悪意のある者はそこにはいなかったということだ。

「じゃあ、害のない妖怪か何かが住み着いてるだけじゃないのか?」

「たぶんね。まあ一応見てくるよ」

 それから、沖は手を合わせてお願い事をする姿勢をとって見せた。

「というわけで、マツイチ、制服貸して」

「は?」

 にこりと微笑まれて、松壱は眉を寄せた。

「だって、学校の中まで入るのに、普通の格好じゃ怪しいでしょ。マツイチ、まだ制服持ってたよね?」

 松壱は東高校の出身で、無論、制服もまだある。

「何で俺が貸さなきゃいけないんだ。妖力でその和服を制服に見せればいいだけだろう」

「それはそうだけどー、着てみたいんだもん」

 なおも言い募る狐に松壱はお断りだと手を振った。

「なんと言われても貸さない」

「ケチー」

「ケチで結構」

 と、それっきり顔を背けられて、沖は頬を膨らませた。が、すぐに無駄だと悟ってため息をつく。

(本当に、ちょっと着てみたかったんだけどなー)

 沖の知らない松壱が来ていた服。どんな気分になるのか気になっていたのだ。

 だが、松壱が貸してくれないだろうということは予想のついていたことだ。沖は松壱を見つめて、微苦笑を浮かべた。

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 夏の日は長い。いつまでも明るくて、うっかり油断してしまう。

 昇降口で真っ暗になってしまった外を眺めて、優はため息を零した。空の月は丸く、銀色で、近頃暑くなってきた空を涼しげに見せている。

「沖様、そろそろかな……」

「あ、優!」

 響いた声は背後からで、優はびくっと肩を跳ねさせた。胸元を押さえながら振り返る。

「……しーな、驚かさないでよ」

 後ろに立っていたのは、クラスメイトの橋田椎奈(はしだしいな)だった。髪を肩口で切りそろえ、切れ長の瞳は黒目がちの、日本人形のような少女である。

「ごめん、ごめん。噂の幽霊だと思った?」

 椎奈は笑って謝る。優はこぶしを掲げて見せた。

「おかげでいつもの倍は驚いちゃったじゃん」

 本当は純粋に驚いただけだ。相手が幽霊なら声をかけられる前に気づくのが、優の持つ特性である。だが、それをいちいち説明するのは面倒だし、冗談だと受け取られてしまうことが多い。

「優は何でこんな時間まで残ってたの?」

「んーと、部活の用事で……。しーなは?」

「私は委員会。もうすぐ生徒総会が近いでしょ。プリント作りよ」

 と言って、椎奈はあっと声を上げた。

「教室に筆箱置いてきちゃった……」

 椎奈は顔を歪ませる。幽霊の噂がある今、教室まで戻るというのは、なかなか勇気がいる。

「ついていこうか?」

 優は足元に置いていた鞄を抱え上げながら、そう言った。椎奈は顔の前で手を打ち合わせる。

「恩に着るー」

「なんの、なんの」

 二人は三階にある自分たちの教室を目指して、歩き出した。

 

 真っ黒の窓とそれに映る蛍光灯。シューズを履いているので、そう硬質でない足音が響く。優は視線を巡らせた。

「うーん、まあ、不気味と言えば不気味かなー」

 さして怖くもなさそうに呟く友人に、椎奈は眉を寄せた。

「相変わらずねー。ちょっとは怖がったほうが、女の子らしいんじゃない?」

「あはは、柄じゃないなー」

 優はふんぞり返って笑った。

 柄じゃないとか、そんなことより、彼女にはもっと大事なことがあった。

 幽霊を怖がるということは、その線上にいる沖やユキを怖がることに繋がるのだ。それを思えばこそ、優は幽霊なぞ怖くないと自分に言い聞かせるのだった。

 怖い感じがしない、というのも事実である。

 大鬼――自分に取り憑いて生気を食っていたのだと、高嶺神社の宮司に聞いた――は、怖かった。あの時感じた、あの恐怖。それがここにはない。

「幽霊なんてのはさ、大半は人間の恐怖心が正体だよね」

 そう言ってみると、椎奈は眉を下げて笑った。

「『幽霊の正体見たり、枯れ尾花』? そうね、そんなものかもね」

 でも、と続ける。

「正体がそんなものでも、恐怖したのは本当だよね。それが『幽霊』じゃないかな」

「むー、哲学的ね」

 唇を尖らせる優に、椎奈は呆れてみせる。

「そんな難しいことじゃないわよ。要するに、怖いものは怖いってこと」

 そんな会話をするうちに教室に到着した。

 机の上に放置してあった筆箱を鞄に入れ、椎奈はほっと息をついた。

「よし、じゃあ、今度こそ帰ろう」

 ぐっと手を握ってみせる友人を見ていた優はぴくっと顔を上げた。視線の先には何もない。その猫のような動きに椎奈は不穏なものを感じた。

「優?」

 不安になって声を掛けると、優ははっとして椎奈を見た。

「あ、ごめん。唐突にさ、ビデオの録画予約し忘れてたこと思い出しちゃってさ」

「もー、驚かさないでよ」

「ごめん、ごめん」

 謝って、教室を出ながら、優は双眸を細めた。

(何かいる……)

 気配がある。だが、それは人のものでない。

(沖様……ううん、違う)

 沖ではない。だが、怖いとも感じない。

(全然怖くないわけじゃない。変な感じ)

 怖いものがあるような気がするのに、気のせいではないかと思ってしまう。それほどに弱い感覚だ。

 廊下の先――。

 優は思わず息を呑んだ。

 何か、立っている。

「――っ!」

 声を上げたのは椎奈だった。

 悲鳴を上げて、優にしがみ付く。

「しーな、落ち着いて」

「っ無理!」

 即答する友人に優は思わず笑みを浮かべた。

「走って、玄関まで」

「な、何? 一人で?」

 震える声で問うてくる椎奈に片目を閉じて見せる。

「こういうときはダッシュよ」

「優は?」

「ああ、私は大丈夫。この手のことには慣れてるの」

 ひらひらと手を振る。

「ごめんね。黙ってて。いわゆる『見える人』なんだ、私」

 幽霊の噂を聞きながらいつも苦笑を浮かべていた友人を思い出し、椎奈は目を瞬いた。

「……本当? 大丈夫?」

「大丈夫」

 しっかりと頷く。

「余力があるなら、高嶺神社のオ……宮司さんを呼んできて」

 オキツネ様と言いかけて、優は言いなおした。椎奈は首を傾げる。

「宮司さん?」

「そ、本物の霊能力者。優しーい人だから、泣きついたら絶対来てくれるわよ」

 含み笑いでそう告げる友人に、椎奈も顔を綻ばせた。

「そういう人なのね」

「そういう人なの」

 椎奈は意を決した様子で、頷いた。

「分かったわ」

 鞄の取っ手をぎゅっと握る。それから、笑って見せた。精一杯の笑みなのだろう。少し震えていた。

「廊下は走っちゃいけません、って習ったんだけど」

 優も笑った。

「私が許可する」

 何の権限もないのにそう言って、優は椎奈の肩を叩いた。そのまま彼女は駆け出す。やがて足音は階段を下りる音に変わり、遠のいて消えた。

「さて、と」

 優はない袖を腕まくりする仕草をした。

(うん、怖くないもんね。沖様みたいな妖怪かな?)

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「だめだよ」

 側までおそるおそると進んでいくと、暗闇の中に佇む人物がそう告げてきた。

 思わず立ち止まる。

「だめ? 何が?」

 優は首を傾げて尋ねた。

 聞こえた声は子どものようで、やはり恐怖は感じられなかった。

「だめだよ、怖いのが出てくるから」

 声は言う。

「……怖いの?」

 それはほんの少しだけ感じる気配のことか。

「怖いよ」

 こくんと相手が頷いたのが分かった。

(怖い気配は確かで……、でもこの子じゃない)

 弱々しく感じる恐怖感は気のせいではなかったようだ。それでもその正体は目の前の人物ではない。優はそう考えて、闇の中の子どもに近づいた。

「ねえ、あなたは誰? どうしてそんなことが分かるの?」

 相手はほんの少し戸惑った様子だった。

 今まで、怖がらずに近づいてきた人間がいなかったのだろう。

「おいら、おいらはね」

 間近までやってきた人間の少女を見上げる。

「豆腐小僧っての」

 答えた子どもは古い和服を着ていて、その手に豆腐をのせた盆を抱えていた。

 

      *      *      *

 

 椎奈は走っていた。

 東高校から高嶺神社まではそう遠くはない。広いグラウンドを抜けて、道に出たあとは住宅の光と街灯の光があって、もう怖くなかった。なにより人の気配が多いことが救いだ。

 優のことを思って走っていると、前方に人影があった。先ほどのことがあったので、思わず立ち止まる。

 近づいてくる相手が街灯に照らし出され、椎奈はほっと安堵した。人間だ。白い薄手のパーカーを着た青年。黒髪が人口光にしっとりと輝いている。

「そんなに慌ててどうしたの?」

 息を荒げている椎奈に、青年は微笑んでそう尋ねてきた。

 見ず知らずの人間に話しかけられたら、普段なら変な人だと思って無視するのだが、なんだかその青年はそんな感じがしなかった。柔らかな容貌と落ち着いた声がそう思わせるのか。

「いえ、あの、高嶺神社に急用で……」

 そう答えると、相手は目を瞬いた。

「うちに?」

 その聞き返しに、今度は椎奈が驚く。

「えっと、あの、神社の人ですか? もしかして宮司さんとか……」

 宮司と言うからもっと年配の人を想像していた。

 しかし――いや、やはり、青年は首を振った。

「俺はその従弟。宮司はマツイチっての」

「ああ、じゃあ、行かなきゃ」

 呟く椎奈に、青年は首を傾げる。

「何かあったの?」

 宮司の従弟なら何か分かるだろうか。そう思って椎奈は先ほどのことを話した。

「じゃあ、俺がとりあえず行ってみるよ。椎奈さんは念のために、マツイチに知らせて」

「は、はい」

 指示を受け、椎奈は頷いた。

 気負っている様子の少女の頭を、青年は笑って撫でた。

「大丈夫。落ち着いて」

 静かな声が心地よく響く。

 椎奈はゆっくりと呼吸をした。

「じゃあ、行っといで」

 ぽんと優しく肩を叩かれて、優のことを思い出す。

 椎奈はまた駆け出した。

 不思議なことに今まで走っていたはずなのに、足は非常に軽かった。一直線に神社を目指す。

 

 遠ざかっていく少女を見送り、沖は東高校の方向を振り返った。

「ちょっと遅刻しちゃったかなー」

 頭を掻く。

 ただ、あれほど霊感のある優が自ら残っても大丈夫だと判断したのだから、やはりそう悪くないものなのだろうと思う。

(まあ、のんびりしていていいわけじゃないよね)

 沖は地面を蹴って、椎奈とは逆方向に駆け出した。

 

      *      *      *

 

 珍しく夜にインターホンが鳴り、松壱は食器を洗う手を止めた。

(誰だ?)

 東條山背が夜に来たためしはないし、千里なら来る前に連絡を入れるはずだ。

 ユキがぱたぱたと玄関へ向かう足音が聞こえてくるが、気になって自分も向かう。

「あの、宮司さんに用事があって来たんです」

「えっと、ちょっと待ってくださいね」

 制服姿の少女にそう告げて、ユキが振り返ると、同時に松壱が現れる。

「あ、高嶺、お客さん」

「ああ」

 頷きながら、松壱は少女を見て双眸を細めた。

 紺のブレザーにネクタイリボン。

(東高校の生徒か……)

「俺が高嶺神社の宮司ですが、何か御用ですか?」

 営業度高めに微笑む。

 椎奈は松壱を見上げて、二、三度目を瞬いた。結局、宮司は若い人だったようだ。

「えっと、マツイチさんですか?」

「……マツヒトです。従弟に会ったんですね?」

 笑顔で訂正してくる宮司に椎奈は慌てて手を振った。

「そ、そうなんですか。ごめんなさい! えっと、はい、従弟さんに会いました」

 真っ赤になる少女に、松壱は苦笑を浮かべた。

「落ち着いてください。深呼吸をして」

「は、はい」

 椎奈は言われるまま従う。息を吐き出して、再び顔を上げた。

「あの、東高校で幽霊が出たんです。それで優が残ってて……従弟さんにそう言ったら、先に行ってるから宮司さんに知らせてって」

 松壱は目を閉じた。

(幽霊らしきものが出て、羽山さんがこの子だけをこちらに寄こした。そして途中で沖に会って、沖はそのまま高校に行った)

 与えられた情報に補正をかけ、目を開ける。

「分かりました。俺も高校のほうへ行きます」

「あ、はい。案内します」

 頷く少女に松壱は首を振った。

「結構です。OBですから。それより、早く家に帰って親御さんを安心させてください」

 そう言って、靴棚の上の時計を指す。時刻は午後九時を回っていた。もうそんな時間なのかと椎奈は驚く。家には八時頃に帰ると連絡したのだ。

「……はい、分かりました」

 椎奈の言葉を聞き、松壱は振り返った。

「玖郎」

 声を掛けると、すぐに背の高い男が顔を出す。

「何?」

「話は聞いてただろ」

 契約上、玖郎は松壱の命令を聞くことになっている。

 玖郎は面白がるような笑顔で頷いた。

「学校の幽霊って久しぶりだ」

 ついてくる気満々の妖狐に、松壱は冷たく告げた。

「皿洗っとけ」

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  ――妖怪もね、人間のことが好きで悪戯とかしてくるのがいるよ。河童とか相撲が好きだしね。害がないのには豆腐小僧とか――

 沖の言葉を思い出して、優は目の前の少年を見つめた。

 一つ目なのにはさすがに驚いたが、あとは極普通の子どもだ。鉄に青を混ぜたようなくたびれた着物に、草履。手には盆にのった豆腐がある。

「豆腐小僧、くん? ねえ、何が怖いの?」

 質問を続けると、豆腐小僧はうつむいた。

「えっと、えっとね」

 上手く言葉で説明できないのか、言い淀む。

 そこへ、明るい声が響いた。

「あー! 豆腐小僧の洋太じゃん!」

 聞き覚えのあるその声に、優は振り返った。

 短い黒髪と白いパーカーは久しぶりに見る。放課後に見たときは袴姿だった。――沖だ。

「ごめん。遅くなっちゃったね」

 駆け寄ってきて、沖は優に謝った。

「いいえ」

 優は首を振りながら、椎奈が呼んできたにしては沖の到着が早すぎると思った。もともと沖はこちらに来る予定だったのだから、途中で椎奈と会ったのかもしれない。

「あの、沖様、椎奈って子と会いませんでしたか?」

「ああ、うん。神社に向かわせたよ。たぶん、今頃はマツイチが家に帰るように促してるんじゃないかな?」

「そうですか。よかった……」

 安堵の笑顔を見せる少女に、沖も笑う。

 それから彼は豆腐小僧に向き直った。

「久しぶりだねー。元気だった?」

 気さくに話しかけてくる大妖怪に、豆腐小僧――洋太はこくこくと頷く。

「お、お、お久しぶりです。元気です」

 優は背後で首を傾げる。

「お知り合いですか?」

「うん。世間は狭くなったものでね」

 答えるその言葉は、情報網、伝達手段が発達して遠い人も身近になった現代――その裏側、住処を追われて身を寄せ合うしかなくなってきた妖怪たちの社会のことを指していた。

 優は一人でうつむいた。

「そっか。洋太だったら、優が怖がらないはずだよね。悪いことをする子じゃないもん」

 納得がいった様子で沖は笑った。だが、すぐに首を捻る。

「あれ? でもなんで、洋太はこんなところにいるの?」

 

      *      *      *

 

 夜道を歩きながら、松壱は胸の奥がさざめくのを感じていた。

(嫌な感じだ)

 心中で呟く。

 霊的な感知能力の低い松壱であるが、なぜか悪いことが起こるという予感だけは――嬉しくないことに――いつも当たっていた。

 そして今、感じる気配はとてつもなく重い。

 認めたくない、と思う。

 ナイフの刃で頬を撫でられるような、ざらついた恐怖感。この気配は「奴」を髣髴とさせる。

(沖は悪い妖怪の気配はしないと言っていた……)

 ならばこれは「人」に因(よ)るものだ。

 松壱は不安を打ち消すように首を振った。

(……冗談じゃない)

 あいつはもういない。いなくなった。

 ――私をおいていってしまった。

 どれだけせいせいしたことか。

 ――まだ、終わっていないのに。

 松壱はぴたりと足を止めた。暗いアスファルトに映る自分の影を見つめる。

(……終わっていない?)

 ――終わってない。

(何が?)

 ――復讐。

 ぞっと全身が粟立つ。

「な、に?」

 誰の意識だ。

 何が、ここに、いるのだ。

 松壱は影を瞠目した。

 

      *      *      *

 

「え?」

 洋太の言葉に沖は自分の耳を疑った。

「鬼門が、開く?」

 自分の言葉を繰り返す妖狐に、洋太は必死に頷く。

「開く。危険。怖い。……出てくる」

 校舎の一角。そこを横切って、一本の道が通っている。鬼の歩く道だ。それを鬼道といい、その出口を鬼門という。

 だが、平時は現世とは完全に遮断されており、鬼がこちら側へやってくることはない。

「鬼門が開くとどうなるんですか?」

 厳しい顔つきをする沖に優が恐る恐る尋ねる。

 沖は答えるように、しかし独り言でもあるかのように口を開いた。

「鬼門が開くと鬼が出てくる。鬼は危険だから、人が近づかないように洋太が立っていたんだ……」

 洋太を見れば、人は恐れて逃げていく。つまり洋太は人が鬼門に近づかぬよう、危険標識の代わりをしていたということだ。

「いつ?」

 沖は洋太を振り返った。

「鬼門が開くのはいつ?」

 洋太はひどく言いにくそうに、か細い声で答えた。

「今夜……もうすぐ」

 沖は息を止めた。

 視線をゆっくりと、滑らせる。洋太の立つ位置を横切った鬼道――その先には何がある?

 神社や寺はなぜ、「そこ」に立つ?

「……マツイチ」

 呟いた沖の背後、暗い窓の中、皓々と輝く月が笑った。

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 寺社の取り壊しも工事も、何も鬼門に関連するようなことはなかったはずだ。

 それでも開くのはなぜか。そして、下級の豆腐小僧がその前兆に気づいていたのに、なぜ自分は気づかなかったのか。

 沖は不可解なことばかりの今回の事件に違和感を覚えていた。

(黒刀は気づいていた? いや、それはない。そうなら言ってくるはずだ)

 上級の妖怪だけが気づかなかったのか。それとも揺草山の妖怪だけか。

「……とにかく、ここを離れよう」

 そう結論づけて、沖は優と洋太に手を広げてみせた。

「本当に鬼門が開くなら、ここにいるのは危険だ」

 鬼門が開くのを止める術がないわけでもない。だが、大量の妖力を必要とするその術が必ず成功するとは限らない。まず、優と洋太を避難させることが先決である。

「はい」

 優は頷いて歩き出す。洋太も促すと、ついてきた。

 そして、三人が校舎を出ると同時に青白い光が地面を走った。

 

      *      *      *

 

 皿を洗い終えた玖朗は、夜風になびく髪を押さえながら、鳥居の上に立った。見下ろす街の間を縫って、青い鬼火が線上に走っている。

(おいおい、人為的に開く気か?)

 彼の目は鬼門を開こうとしている人物を簡単に見つける。

(さて、どうしようか)

 沖のことも心配だがあれも玄狐の端くれである。それよりも一人で出ていった契約者の方が気になった。

(……どうにも)

 彼は業が深い。

 

      *      *      *

 

 一筋、地面に走った光。

 それがどこを通っているのか、松壱にはすぐに分かった。

(鬼道?)

 まさか、鬼門が開くのか。

 松壱はとっさに光筋を断ち切るための霊力を地面に打ち込んだ。口早に術文を唱え、展開する。

(止められるか?)

 開く予兆はなかった。

 ならば、故意に鬼門を開こうとしている人物がいるはずだ。相手の正体が分かるなら、そこを潰せば早い。術は術者が使用するものだ。

 だが、今はそれがどこの妖怪か人間かは分からない。

(分からない以上は……、力勝負だ)

 切断の術を仕掛けたことに、相手は気づいたらしい。抵抗が腕に伝わってくる。

 松壱は更に力を込めた。

「……っ」

 ぴっと鎌鼬(かまいたち)にあったように、手の皮膚が裂ける。

 抑えようとすればするほど、反発してくる。敵は並みの力の持ち主ではない。

 その時だった。

 声が。

「邪魔をするなよ」

 背後から響いた。

 どっと冷や汗が出るのを松壱は自覚した。自分の真後ろに、鬼門を開こうとしている術者がいる。

 いや、もはや鬼門はどうでもいい。

 今の声。

 腕が震え始める。

「それ以上やると、そんなかすり傷程度じゃすまないぜ?」

 相手の警告に、松壱は唇を引き結んだ。その間にも手の傷は増えていく。

「聞き分けのない奴だな」

 近寄る足音に、眩暈すら覚える。

「やめろって言うのが分からないのか?」

 背後から腕を掴まれ、松壱の術は強制的に解除された。そのまま持ち上げるように立たせられる。

「傷なんか残らないように、遊んでやってたんだ。俺の苦労を無駄にするなよ」

 そう囁いて、相手は松壱の傷をぺろりと舐めた。あっという間に傷が癒える。

「なあ、松壱」

 支配者の声だ。

 松壱は命じられたかのように、男を振り返った。

 満月の光を背負い、薄い笑みを浮かべた男は金色の双眸を、狂喜の色で染めていた。

 こちらを振り返った青年の頬をざらりと撫でる。

「邂逅だなあ。会いたかったぜ」

 松壱よりも色の薄い髪、黒刀を超える長身――。

「離せ!」

 叫んで、松壱は相手の手を打ち払った。

 男はきょとんとして自分の手を見下ろす。松壱は構わず声を荒げた。

「どうして、ここにいるんだ!?」

 去ったはずだ。

 もう、会わないですむと思っていた。

「松之(まつゆき)!!」

 男は自分の唇を舐めた。

 腕を組んで、松壱を見つめる。自分とよく似た容貌を持つ青年。

「親父を呼び捨てにするなよ、松壱」

 まるで態度を変えない男に苛立ちさえ覚え、松壱は腕を振った。

「俺はお前を親だとは認めない!」

「なぜ? あんなに可愛がってやったのに」

「ふざけるな!」

 悲鳴と変わらぬ声で松壱は叫んだ。

「お前がしたことは……っ!」

 言葉は紡げなかった。

 金にも見える淡い茶色の双眸が、自分をぴたりと見つめている。全身が震えた。

 ――怖い。

「松壱、まつひと、待つ人……お前は俺を待っていたはずだ」

 待ってなんかいない。

「お前には俺しかいないんだ」

 違う。

 違うのに。

「松壱」

 もう記憶もあやふやな時代から、体中に刻まれてきた、恐怖。

 支配者は松之だ。

 打ちひしがれて、地面に膝をつく。

 

「助けてあげようか?」

 

 声は空から響いた。

 柔らかく弧を描いて降り立つ、一頭の獣。漆黒の姿は闇の具現のよう。

 だが、松壱はその闇を怖いと思ったことはなかった。

「玖郎……」

 ずっと憧れていた存在と同じ血に連なる男を見上げ、松壱は掠れた声でその名を呼んだ。

「どうして欲しい?」

 片膝をついて、玖郎が問うてくる。松壱は差し出された手を握った。

 ある。松之以外のものが、自分の中には存在している。

 沖も、黒刀も、ユキもいる。千里に、山背すらいる。他にも――

「玖郎、鬼門を開く術を阻止しろ」

 強い声でそう命じ、松壱は松之を見据えた。

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「イエッサー」

 契約者の命令を受け、玖郎は指を組んで鳴らした。

 突然現れた玄狐を、松之は興味深そうに眺める。

「玄狐は沖以外すべて滅んだと聞いていたが?」

「残念ながら、そこまでヤワな一族ではないんだよ」

「往生際の悪い血だな」

「なんとでも言うがいい。同胞亡き今、お前の下劣な言葉など俺一人が捨てればよい」

 そう言って、玖郎は両の手の平に妖力を集めた。

「松壱、鬼門を封じるだけでいいの?」

 背後の青年に問う。

 松壱は玖郎を見つめた。視線を受け、玖郎は振り返って残忍そうな笑みを浮かべて見せた。

「ドッペルゲンガーを見たらね、死ぬんだよ」

 青い双眸が月光を弾く。冷たい湖面を思わせるその光。

「このドッペルゲンガー、殺しておこうか?」

 松壱は息を呑んだ。

 沖とは違う。目の前にいるのは、狩ることを忘れていない獣だ。

「簡単に殺すのどうのと言って欲しくないな」

 松壱よりも先に松之が口を開く。

「玄狐如きが」

 玖郎は松之に視線を戻した。

 悠然と立つその人間はまるで負ける気がないらしい。

(面白い人間だ)

 それと同時に癇に障るのも事実だ。

「松壱、どうする?」

 松之の台詞には答えず、玖郎はもう一度松壱を振り返った。

 松壱は月光に溢れる双眸を玖郎に向ける。

「あいつの好きにさせるな。それだけだ」

 冷たく響く声を、玖郎は心地よいと思った。この声で「殺せ」と言われれば、必ず殺してみせるのに、そう口惜しくも感じる。

 ただ、それは沖の望むところではないだろう。

 玖郎は苦笑を浮かべて、目を閉じた。

「仰せのままに」

 答えて、松之に視線を向ける。

 闘う意志を見せてこちらを向く妖狐に、松之は笑みを深くした。それは玄狐と闘うことを喜んでいるかのような表情だった。

「燃えろ、魂魄」

 呟きとともに、松之の霊気が膨張する。

「刃よ」

 声がその霊気を固め、鋭く研ぎ上げる。松之の周りに青白い光の筋がいくつも浮かんだ。

 馬鹿な、そう玖郎は思った。背後で松壱が口を開く。

「あれがあいつの技だ。あいつは術式を用いずに霊力を制御する」

「……人間らしからぬ、だな」

 つまり、自分の好きな言葉で術を扱うということか。術の発動も速いだろう。

 玖郎は両手を左右に掲げ、その上に火球を作り上げた。

「さて、殺さずに、鬼門を開かせぬために、そのための体力を奪うことにしよう」

 

(玖郎だ)

 大気を震わすほどの妖気を感じ、沖は北東の空を見上げた。

 そしてもう一人。

「……松之」

 なぜ、と思わずにはいられない。

 十年ほど前にふらりと姿を消して以来、この街には訪れていなかったはずだ。

 青褪める沖を見上げ、優が口を開く。

「沖様?」

 名を呼ばれ、沖ははっとして少女を振り返った。

「あ、……えっと、鬼門、開くまでにもう少しかかりそうだから、今のうちに家に帰ったほうがいいよ」

「……そうですか」

「うん。洋太もね。揺草山が安全だよ」

 揺草山は神域であるし、いざという時は黒刀もいる。

 洋太はこくりと頷く。

 不安を孕んだ表情でこちらを見ている少女の頭を沖は撫でてやった。

「大丈夫だよ」

 優しく紡がれる声と温かい手に優は目を閉じた。

「はい」

 返事をして、目を開ける。

「沖様、気をつけてくださいね」

「……うん」

 沖は短く答えると、地面を蹴って駆け出した。人ではないと分かる速さで闇の中に消えていく青年を見送って、優は小さく息をついた。

(気をつけてくださいね)

 心の中でもう一度呟き、彼女は家に帰るべく足を踏み出した。

 

 相手の刃をかわし、玖郎はその背後に回ると地面を脚で叩いた。地の脈を松之に向ける。

「駆炎」

 炎が燃え上がって、松之を襲った。

 金の双眸はそれを見下ろし、霊力を豊富に乗せた声で応じる。

「鬱陶しい。消えろ――否、帰れ」

 ぐんっと押されるようにして、炎が玖郎の方へと向きを変えて走ってくる。

「術の途中変更なんて詐欺だなあ」

 玖郎は苦笑を浮かべ、片手で自分の放った炎を振り消した。

 二人の戦闘を見守りながら、松壱は奥歯を噛み締めた。

(術の発動直後にそれを解除し、更に別の術を発動させる。……あの短時間で……)

 松之は天才だ。

 だが、それほどの才能を持ちながらも彼は高嶺を継がなかった――継げなかった。松壱の祖父は自分の後継者に六花を選んだのだ。

「どうした、玄狐。つまらないな」

 松之は笑う。

「そんな調子では鬼門が開いてしまうぞ」

 そう言う彼の背後では、地面を走っていた青い光が細長く立ち昇っている。玖郎はそれを見つめて口を開いた。

「……なぜ、鬼門を開く必要がある?」

 よくぞ聞いてくれた、と言う顔で松之は自分の胸に手を当てた。

「お前は齢一千年を越えると見受ける。お前には分かるだろう」

 一度言葉を止め、松之は松壱を見た。顔をしかめる息子ににやりと笑う。

「俺は糸を断ち切りたいのだ」

 ――糸?

 心臓がどくんと大きく脈打った気がした。

 松壱は呆然と松之を見つめた。

「断ち切って、もう一度“奴”を殺す。二度と俺の輪廻には関わらせない」

 玖郎はなるほど、と呟いた。

「そのために鬼門を開く……というのは前準備だな。現れた鬼どもの妖気をまとめて奪う気か」

 それは人間に出来ることではない。松壱は指先が震えるのを感じた。

「いかにも」

 答えて、松之は片手を高く掲げた。その手の平には膨大な霊力が集められている。背後に浮かぶ月が歪んで見えた。

「鬼に人間を襲わせようというのではない。――まあ、そうしても構わないとは思うが――まずは力を蓄えたい。だから、邪魔をするな」

 玖郎は青い眼差しで、契約者によく似た男を見つめた。だが、契約者とはまるで違う。松壱は己の霊力を危ぶみ、恐れている感がある。一方、松之はそれを受け入れ、更に大きくしようとしているのだ。

(おもしろい親子だ。……しかし)

 玖郎は松之の霊力によって巻き起こる風に遊ばれる髪を押さえ、微笑を浮かべた。

「却下だ。お前の望むようにはさせるなと命じられた」

 松之は頬を引き攣らせて、歪んだ笑みを玖郎に向けた。

「交渉決裂か」

 そして、腕を振り下ろす。

「開け!」

 玖郎は腕組みをしてそれを眺めた。自分が動く必要はもうなかった。

「鎖結!!」

 若い玄狐の声が闇を貫いて、松之の術を刺した。

-7ページ-

「沖か……」

 松之が振り返って、地面に手の平をついている玄狐を見つける。沖の手は鬼道を押さえていた。

 沖は冷や汗混じりに、立ち上がる。

「……ひー、間一髪。玖郎も黙って見てないで、動いてよね」

「いやいや、友人の息子に活躍の場を与えてあげようと思ってね」

 そしてにこりと愛情の感じられない笑みを返す。

 舌打ちをしたのは松之だった。

「相変わらず、生意気なガキだな」

 吐き捨てる松之に、沖は険悪な笑いを向けた。

「ガキだなんてよくも四百歳も年上に言ってくれるね」

「精神年齢の問題だ」

 松之はさらりと答える。玖郎が笑いを堪えるのを沖は睨んだ。

「そんなことより――なんで、ここにいるのさ。出て行ったんじゃなかったの?」

 六花が死んで、松壱が高嶺を継ぐ準備に入ったころ、松之はふらりと姿を消したのだ。

 松之はくたびれたジーンズのポケットに片手をつっこんだ。煙草を取り出して口にくわえる。

「何、そろそろ松壱が待ってるだろうと思って帰って来たのさ」

「俺はあんたなんか待ってない!」

 松壱が叫ぶ。

 松之は色素の薄い双眸を向けた。自信たっぷりに言い返す。

「嘘だな。お前の魂は俺を待っていたはずだ。お前は震えるほどに喜びを感じただろう?」

 松壱は拳を握り締めた。

 違う、と声を絞る。

「……まあ、いい」

 嘆息と紫煙を一緒に吐き出して、松之は空を見上げた。

「そのうち思い知るさ」

 月を見た瞳が松壱を映す。

「それがお前の業だ」

 松壱は息を呑んだ。

「俺にはあんたの方が業が深いように見えるけどね」

 沖は腰に手を当て、松之を半眼で見つめる。松之は笑って沖を見た。

「それはそうだろう。俺と松壱では勝負にならん」

 唇を歪ませる沖に片手を振って見せ、松之は煙草を吐き出すと足でもみ消した。ふと、思いついたように顔を上げる。

「そうだ、黒刀にもよろしく言っといてくれよ。『ただいま』ってな」

「断る」

 ぴしゃりと撥ね付ける沖に、松之はそれ以上何も言わなかった。ただ、冷たい笑みをその狐に向ける。

「行くぞ、是炬(ぜこ)」

 彼がそう呟くと同時に、何もない空間から一人の若者が現れた。松之の背後に降り立つ。真っ白い髪に赤い瞳、尖った耳と額の角が彼が鬼であることを示していた。

 鬼は松壱を睨むと、その袖を一振りした。音もなく松之と鬼の姿が掻き消える。

「空間移動か。鬼が使うってことは鬼道を利用しての地点と時点の転換かな?」

 冷静に分析してから玖郎は、落ち込んでいる様子の二人を見た。それから両手を上げてみせる。

「とりあえず鬼門が開くことは防いだんだし、喜んでいいんじゃないかな?」

「松之、鬼を使役してるんだね……」

 ぽつりと呟く沖に玖郎は片眉を上げる。

「松壱は玄狐を使役してるけどね」

(しかし、さっきのは契約していると言うよりは……鬼のほうから松之を慕って協力してるって感じだったよな)

 美しい鬼だった。術を使う際に見せた妖気からして、並みの者ではないだろう。

(あれほどの鬼を人間が従えることが出来るだろうか……)

 玖郎は松壱を見つめた。

 答えは、「出来る」。

 あの松韻の血に連なる者達だ。

(『鬼をも惑わす――』か)

 玖郎は息をつくと、うつむいている松壱の肩を叩いた。

「松壱、大丈夫かい?」

「……『糸』ってなんだ?」

 松壱は睨むように玖郎を見上げた。何のことかと沖は眉を寄せる。

 玖郎は笑みを消した。松壱がその服を掴む。

「あいつが言ってた『糸』とか『奴』とか、なんでお前は分かるんだ?」

 口早に捲くし立ててくる契約者に、玖郎は落ち着くように両手で抑えるような仕草をして見せた。

「まあまあ。俺は一千年も生きてるわけだし、松壱より物知りなだけだよ」

「……じゃあ、教えろ。あれはどういう意味だったんだ?」

 あの時、こちらを見た松之のあの笑みが、松壱の頭から離れようとしない。とても嫌な感じだった。

 玖郎は首を振る。

「答えられないね」

「どうしてっ――」

 責め立てようとする松壱の額を、玖郎が指先でとんと突く。

 そのまま気を失って崩れ落ちる青年を片腕で支え、玖郎は答えた。

「君がそう興奮しているからだよ。立っているのもやっとだろうに、無茶しいだね」

 二人のやり取りを黙って見ていた沖が近寄ってきて口を開く。

「……糸で特定の誰かと繋がれていれば、必ず近くに転生する……」

「そうだ」

 玖郎は頷く。沖は不吉そうな面持ちで首を傾げた。

「ねえ、松之は誰と繋がってるの?」

 沖の青い双眸から視線を外し、玖郎は目を閉じた。

「例え、お前が高嶺を守る契約をした者だとしても……そこまで関与してはいけない」

 運命は当事者にすら見えないものだ。

 松之とて糸が視えているわけではない。ただ、彼は知っているのだ。自分に糸がかけられたことを、かけた相手のことを。

 しばらく難しい顔をしていたが、やがて沖は息を吐き出した。

「……そうだね」

「じゃあ、帰ろうか」

 松壱を抱えて、玖郎が促す。沖は頷いて歩き出した。

 

 強制的な夢の中で松壱は「声」を聞いていた。

 ――やっと見つけたぞ。嬉しいことだ。

(嬉しい?)

 ――待っていた。

(俺は……俺は待ってなんかいなかったのに……)

-8ページ-

 翌日の昼下がり。

「松之が出たんだってな」

 いつものように境内の掃除をしている松壱に、黒刀が話しかけてきた。

 箒の先を見つめたまま、松壱は答える。

「出たって……化け物じゃないんだ」

「でも、お前は化け物を見たときより怖かっただろう?」

 からかうような台詞。渋面を浮かべて顔を上げると、黒刀は別に笑っていなかった。

 思いのほか真摯な眼差しがこちらを見ている。

「……黒刀」

「何かあったら俺を呼べよ」

 黒刀は松壱の側に近寄りながら、そう告げてきた。

「お前には借りがある」

 借りとは幼少時、致命傷を負った黒刀に霊気を大量に分け与えたことを指している。

 松壱は眉を下げて小さく笑った。

「十分返してもらったよ」

 殊勝な態度に黒刀が薄く笑う。

「何を言ってるんだ。お前らしくもない。百倍にして返せと言ったのはお前だぞ」

 きょとんと松壱は黒刀を見た。

「……覚えがない」

「俺は覚えてる」

 きっぱりと答える黒刀に、松壱は思わず笑い出した。

「おい、笑うところじゃないぞ」

「だって、馬鹿だ。やっぱりお前は鳥程度の頭なんだな」

 黙っておけばいいのに。律儀に守ろうとする必要なんかないのに。

 呆れられて、黒刀は不満そうに眉を寄せた。

「俺は天狗だぞ。そこらへんの鳥と一緒にするな」

「鴉なんだろう?」

 不安感は笑い声をあげることで払拭されていく。黒刀の拙い言い訳に笑いながら、松壱は昨夜の恐怖を薄めていった。

 

「可愛い笑顔だねえ」

 神社の屋根の上から松壱と黒刀を見下ろしながら、玖郎が笑った。横で沖がむくれている。

「松壱もああいうふうに笑うんだな。俺に笑いかけてくれないのは、やっぱり時間の問題かなあ」

 幼少の頃から松壱と付き合いのある黒刀と、つい最近現れた玖郎とでは信頼度が違うのは歴然である。

「じゃあ、俺はどうなるんだよ」

 むっつりと呟く沖の背中を、玖郎は笑って叩いた。

「なに妬いてるんだ。お前は先代高嶺の世話をしていて、実質松壱と遊んでやってたのが黒刀君なんだろう? お前だってまだ足りないんだよ」

「……そんなの分かってるよ……」

 沖は膝を抱えて袴を握り締めた。分かっているから、自分も早くそうなりたいと思うのだ。

 松之が現れた以上、このままの平穏は続かない。沖はそう確信していた。

 眉間に皺を寄せている沖に、屋根に寝転びながら玖郎は気楽に言う。

「あんまり悩む必要はないんじゃないか? お前もいるし、黒刀君だっている。それに俺だっているんだからさ。……そう怖いものなんてないと思うけど?」

 気持ちよさそうに日光浴をしている大妖怪を見下ろして、沖はため息を零した。

(それもそう、かな?)

 確かに不安要素を打ち消すほどの力はあるかもしれない。

 沖は青く広がる空を見上げて、それから立ち上がると屋根から飛び降りた。足音に気づいて、松壱と黒刀が振り返る。

「俺も混ーぜて」

 にこりと笑うと、松壱が眉を寄せた。

「何に?」

「じゃれあい」

 即答して二人を指差す。

「じゃ、じゃれあってなんかねえよ!」

 普段は高嶺は高慢だのなんだのと吐いている黒刀が否定する。沖はにやりと笑って黒刀を肘で突いた。

「なーに言ってるの。まるでお兄ちゃんみたいな言い草しといてさー」

「おにいっ!?」

 ずさっと後退さる黒刀の頭上から、間延びした声が降ってくる。

「黒お兄ちゃーん」

 相手の神経を逆立てるのが目的としか思えない呼び方をして、空中から降ってきた玖郎が黒刀の肩にぶら下がる。

 案の定、黒刀は眉を吊り上げた。腕を振って玖郎を引き剥がそうとする。

「離せ!! この中年!」

「わっ、このスベスベお肌の美青年を捕まえて中年だなんて。酷いなあ、黒お兄ちゃんは」

「お兄ちゃんて言うなー!」

 二人のやりとりを見ながら、沖はけたけたと笑う。

「うーん、六百歳と一千歳超じゃ勝負にならないなあ」

「玖郎が中年じゃなくて青年だったらお前たちはどうなるんだ?」

 顎に手を当てて問うてくる松壱に沖は首を傾げる。

「うーん、少年? 俺、美少年?」

「お前はバカ狐。じゃあ、ユキは?」

「バカは余計でしょうも。幼女?」

 その会話に噴き出したのは玖郎だった。

「バカ狐って凄いなあ。馬鹿狐だよ? いや、まさに妖怪の代表だねえ」

「ああ、なるほど」

 松壱がぽんと手を打つ。

「そうか、だからお前は妖怪なのか」

「違う、違ーう。馬鹿はいらないんだってば!」

 首も手も振って否定する沖を黒刀が鼻で笑う。

「バカはその自覚がないんだぜ」

 きっと沖は黒刀を睨みつけた。

「なんだよ、背中に玖郎なんかくっつけてる黒刀にそんなこと言われたくないね!」

「なっ……この、離れろ! 玖郎!」

 べしっと額を叩かれて、玖郎はしぶしぶと黒刀を解放した。

「黒お兄ちゃんてばケチだなあ」

「お兄ちゃんて言うな。神域結界から強制排除するぞ」

 山の守護者の切り札を持ち出され、玖郎は笑顔で口を噤んだ。

 それらの下方で、ため息が漏らされた。皆が視線を下げるとそこにユキがいた。

「いやあねーもう。いい年してなんて恥かしい会話かしら」

 彼女は両手を上げて首を振り、それから四人の男たちを見上げた。

「あなたたちをユキが形容してあげる」

 どう形容するつもりなのか、思わず皆は黙って少女の言葉に聞き入った。ユキはまず自分の胸を指し、それから順に沖たちを指差した。

「ユキと愉快な仲間達」

 朗らかな笑みと零された言葉。

 ぴちちと小鳥が鳴いて、陽光にその影が舞う。穏やかな一瞬の後、色の違う四つの声が青空に響いた。

「違う!」

説明
シリーズもの5作目。1作目:http://www.tinami.com/view/361157
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タグ
現代ファンタジー

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