心眼の魔女
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=プロローグ=

 

「配置変更の命が下った」

守衛監理官が呼びつけるなり突然そう言った。

「しかし、私はまだここに来て1月しか経っておりませんが」

困惑して思わずそう口走る。

そんな指摘を監理官は気にした様子も無く、

「出向と言うやつだ。問題無い」

と事務的に言って、右手で部屋隅を指し示した。

そこには、幻影の少女が立っていた。

亜麻色で肩甲骨の辺りまで伸びた少し波打つような髪をして、気の強そうな目をした背の小さな娘だ。

「対象は、先日魔導師となったアチェッタ・ベーゼリオン嬢。即日発ってアルベイツの代官府へ出頭せよ」

質問も許されず、そう告げると用は済んだとばかりに、手で出て行くように促される。

仕方なく、守衛隊司令のクラストバーエル男爵に挨拶に行く。

男爵は表情一つ変えず、相変わらず冷やかな無表情をして、

「聞いている。ベーゼリオンを継いだ娘だろう」

と応じた。

「ご存知なのですか?」

「会った事は無い。だが、貴公も聞いた事くらいあるのではないか?」

と、暗にどうして知らないのかと問われる。

言われてみれば聞き覚えがある。

だが、名前よりも先程の幻影の少女の印象が強すぎて、名前の深い意味など気にならなかった。

「監理官から姿だけは拝見させていただきました。見た感じでは少し理知的で強気そうな可愛らしい少女にしか見えませんでしたが」

男爵は、かすかに口元に笑みを浮かべた・・・気がした。

「気を許すな。なにをしでかすか分からんからな」

見た目だけの判断は危険だと言う警告だろう。

だが、それにしては穏当を欠く表現である。

「そんなに危険人物なのですか?」

男爵は少し眼を細める。

「心眼持ちで天使憑きと聞く。・・・そう思っておけば間違いが無いと言う事だ」

色々な命の危険を潜り抜けてきた男爵が言うからには、用心をしてし過ぎる事は無い様だった。

だが、その表情と、そして最後の言葉が、何やら重大な意味を持っているように感じられた。

稀に聞く冗談なのか、それとも本気なのか、その細く鋭い目からは読み取れなかった。

「知っていると思うが人物警護は任期1年だ。途中で帰らされるようなヘマはするなよ」

それを激励と受け取って、その日のうちに荷物をまとめて出発をした。

 

=春の終わり=

 

まだ春だと言うのに、今日は初夏と言って良いほどの陽気だった。

アチェッタ守護を命じられて2日目。

ロイマスは、代官府に駐在する学院事務官から直ちにベーゼリオン家に赴いて着任の挨拶をするように命じられた。

守衛隊は、隊とは言いながら責任者は居らず、先任であり年長者である者が調整と連絡に当たるとの事だった。

とは言え、代官府に居たのはつい先日着任したばかりの1人と会えただけだったので、結局は何も教えられることは無かった。

館は代官府から丸1日はかかる、目立ったものなど何も無いただっぴろい平原にポツンと佇んでいるそうである。

常として魔術の使用は戒められていたから、面倒でも時間をかけて行かなくてはならない。

敷地までは送ってもらえたが、門からでもかなりの距離があるそうである。

一人そこに残されたロイマスは、途方に暮れるしかなかった。

日差しは強く、風はそよぐ程度で、汗ばむ事も覚悟しなくてはならないだろう。

申し訳程度に門はあったが、塀で囲われているわけでもなく、粗末な小道が花の咲き乱れる中へと続いている。

仕方なく敷地内に踏み入ると、確かに感知された感じがした。

しかし、歩みを止めずに、ただ何も無い野原の中をしばらく歩いた。

何の手入れもされていない、ただ自然に草花が生えただけの敷地。

仮にも神の血を引く公爵家が、こうもひなびれているものなのか。

遠くに屋敷が見えるところまで来た。

普通は客人用の家があったりするのだが、周囲には全く見当たらない。

自分の館に泊めるのだろうか。

見渡して、ふと視線を館へと転じると、そこに、真っ直ぐとこちらを見る少女が立っていた。

アチェッタではなかった。

少し気の強そうな、目鼻立ちが整った少女特有の両性的美しさがある。

その表情は冷たく、まさにこれから戦うかのような、静かな、それでいて単一の感情に満たされている。

ロイマスは威儀を正した。

「私はこの度、アチェッタ様の守衛役を仰せつかりました、ロイマス・レドフォードと申します。本日はその旨ご挨拶に参ったのですが・・・」

少女は敵意を少し下げたものの、不満そうな顔をして、

「あなたがね」

と、事前に聞いていたらしいことをほのめかす。

「どうぞ。アチェッタがお待ちかねですわ」

少女が身を翻す。

その堂にいった姿に、少女の立場に対しての興味がわく。

何者なのか、そういったことを今更ながら聞かされていないことに気付く。

そして、歓迎されてはいないのだということにも、改めて気付かされた。

 

館は大きいが質素で、その家柄に似合った時代を感じさせる落ち着いた雰囲気である。

ホールで出迎えたのは、笑顔の女性と、緊張を隠せない少女だった。

どちらもアチェッタではなかった。

侍女か給仕だろうその二人に、先程の少女が、

「新しい守衛だそうですわ。アチェッタを呼んできますからおもてなしをして差し上げて頂戴」

と言ってこちらを一瞥すると、少し緩めた表情を引き締めて、大きな弧を描く階段を上っていく。

「さあこちらへどうぞ。リーヤちゃん、お飲み物お願いしちゃって良いかしら?」

女性が声を弾ませて言い、満面の笑顔をする。

少女は

「畏まりました」

と一言一言確かめるように発音して、まるで時間制限でもあるかのように瞬く間に姿を消した。

すぐ隣の大広間に案内をされる。

女性は見た目の年齢よりもかなり子供っぽい人のようで、覗き込むようにロイマスの顔をうかがうと、なにやら楽しげに含み笑いをして、勧めた席の真向いに座った。

「お若いですね。優秀な方なのかしら。でも、そんな刺々しさもないし、お優しいのね、きっと」

と、恐らく事前の面談なのだろう、女性は多彩な表情を見せながら分析を始める。

少し呆気に取られながらも、僅かな間にこの女性に対しての警戒感が取り払われたことに驚いた。

魔術の行使や特性といったものは感じなかったのに。

「え?、と、お名前は?」

「・・・ロイマス・レドフォードと申します」

アチェッタの侍従女官とおぼしきその女性は、

「心配なさらなくても、きっと気に入られるわよ」

と言って嬉しそうに微笑んだ。

「失礼します」

まるで訓練所の戦士のような鋭いはっきりとした口調で申告をすると、少女が大きなトレイを抱えるようにして現れる。

危なっかしいながらもその動きはきびきびとしていて、妙な緊張感が漂う。

しかし、その女性は少女の様子よりもお茶の方が気になるのか、並べる端から自ら支度をし始める。

カップは4つ。

少女は大役は果たしたとばかりに背筋を正すと、

「それではごゆっくりおくつろぎください」

と、意味合いよりも少し言葉の方を強くした言い方をして、回れ右をして退出した。

それと入れ替わるように、

「失礼しますわよ」

と言って、目つき鋭く先ほどの少女が現れる。

そしてその後に続いて、

「ちょっと寝ちゃってたのよねぇ」

などと言いながら、当の本人が現れた。

その姿は、あの幻影よりも少し髪が短くて、快活そうな印象を与える可愛らしい少女だった。

「お初にお目にかかります。この度アチェッタ様の守衛役を拝命いたしましたロイマス・レドフォードと申します。ご不快な面はあるかと思いますが、どうぞお許しいただきたくお願い申し上げます」

立ち上がって挨拶をする。

だが、アチェッタは右手でそれに応えただけで、立って迎える女性の空けたその席に座った。

そして、その両隣に、少女と女性が座る。

と、おもむろにアチェッタは頬杖をついて、こちらを窺う。

眼の色が変わった気がした。

「私のこと、聞いてきたのでしょう?」

不敵な笑みで、アチェッタは問い質す。

「はい」

とだけ答えた。

「そ、まあ精々頑張って頂戴」

そう言って、悟ったように口元を綻ばせた。

女性がそれに合わせたようにお茶を配る。

アチェッタはそれに真っ先に手を付けた。

もっと神秘的・・・と言うか、怖い、あるいはもっと言えば不気味な感じがあるかとも思ったが、アチェッタは慇懃な態度でさえ不快無く思わせる明るくて表情豊かな少女だった。

「にしても、あなたも若いわね。アルタナの守衛隊にいたのでしょ?」

体の火照りを冷ます涼しげな香りと味のするお茶を一口含んだところで、アチェッタが話し掛けてきた。

「いえ、そこには着任したばかりでしたので、一月も居りませんでした。それに、新任者はそこで教育される事もありますから、過度に評価を受ける身ではありません」

なぜ自分が抜擢されたのか、その事に疑問を持っていた。

言ってみて、それがもしかしたらアチェッタを蔑ろにしたもので無かったかと、少し心配になる。

だが、アチェッタは気にした様子も無く、それを素直に信じた。

しかも、何故かご満悦な様子で。

隣の少女は面白くもなさそうな顔でそれを見ていた。

その後は色々と個人的な事を尋ねられ、

「歓迎を兼ねていつも夕食に誘うのよ」

という既定の予定を告げられて、それまで一息つけるよう個室を与えられる。

笑顔であればアチェッタとはまた違う魅力があるであろう少女に、相変わらず不機嫌な様子で部屋へと案内された。

「すぐお茶を持ってこさせますけど、ついでに何か他に必要なものがあれば用意させますわよ」

事務的で、つっけんどんな言い方をされる、その理由は一つしか思い当たらない。

「いえ、宜しければ少し仮眠をしたいのでお茶だけで構いません」

と言うと、少女は少し渋い顔をした後、

「では後ほど」

とだけ言って出て行こうとした。

「あの、それよりも少しお聞きしたい事が・・・」

ロイマスは慌てて問い掛ける。

少女は扉を開き掛けた手を止め、肩越しに振り向いて、

「・・・なんでしょう?」

と、表情の温度を下げてねめつける。

「お名前をお聞きしておりませんでした」

ロイマスが申し訳なさそうに聞くと、少しバツの悪そうな顔をして、

「ベルーチェよ」

と少し独り言のように放言して名乗った。

「では先程の女性は?」

ベルーチェは少し顔をしかめて、

「アチェッタの隣にいたのは、私のお母様でシータ。お茶を運んでいたのが見習いのリーヤ。・・・これで宜しいかしら?」

やはり嫌われているらしい。

「いえ、ありがとうございます。お名前をご存知無かったのは失礼かとは思いますが、あなたにお尋ねしておかないと、もっと失態を演じてしまうような気がしたのです。守衛を気に入られない気持ちはわかります。気に障るようでしたら申し訳ございません」

ベルーチェはそれを神妙な面持ちで聞いている。

そして聞き終えると、少女は先程と同じような少し渋い顔をした後で、

「それこそ勘違いですわ」

と不機嫌そうに言い捨てて、部屋を出ていった。

ますます理由がわからずに困惑する。

まもなくリーヤが来てお茶を淹れていった。

それは、シータの淹れてくれたものとは似て非なるものだった。

ロイマスは考える事を諦め、ソファーに横になると、大人しく仮眠をすることにした。

 

アチェッタは、夕食の時もご満悦のようだった。

「あなた、結構変わっているのよ?」

その言葉にどう反応して良いのかわからずに曖昧に愛想笑いをする。

ベルーチェを見ると、時々眼を合わせるが渋い顔をして目を逸らされた。

「普通、警戒したり気味悪がったりするものなのよ。それだけでも、私の守衛を命じられる理由になり得るわけ」

話ながらで行儀悪いようなのに、アチェッタは文句無しの優雅さで器用に食べ進める。

「そんな事だけでですか?」

信じるに足りる理由ではなかった。

だが、アチェッタは含みのある挑発的な笑みをして、

「私にまともに付き合えるかどうかが、私の守衛に必要な第一の素質だと思わない?」

と問うた。

確かにそうかもしれない。

守衛隊はアチェッタの護衛が任務であるが、決して味方ではない。

アチェッタがもし世界に害を成すようであれば、捕らえもするし、最悪殺害する事もある。

嫌われてもいけないが、好かれてもいけない。

「少なくとも傍にいる以上、私に耐えられないといけないでしょ? あなたは私に会った時、どうして私の存在を認めたの? 色々と聞いて来たと言ってたのに、どうして情報より自分の感性を信じたの?」

不思議そうでも無く、怒っているようでもなく、楽しそうにアチェッタは続け様に問う。

答えられなかった。

その事がアチェッタを不快にさせるのではないかと思ったが、

「あなたは直感で、自分の味方と敵を識別しているようね。ベルーチェとは逆ね」

と言って皮肉っぽく笑った。

それを複雑な表情で受ける二人は、お互い顔を見合わせて、更に表情を混迷の中に漂わせていた。

 

正式には、西方地区第一一七特別守衛隊と言う。

守衛隊とは、学院直轄の重要施設や学院指定の重要人物を、良く言えば警護、悪く言えば監視する臨時に組織される武装組織である。

常設ではなく特設なのは、その形態が千差万別であるから。

有名なアルタナ霊廟守衛隊は、創設から150年を越え、現在ではアルタナ地区特別守衛部の元、三つの守衛隊からなる大きな組織で所属する守衛は150人を超える。

一方で、通称アチェッタ守衛隊と呼ばれる第一一七特別守衛隊は、つい一年前までは男女二名からなっていた。

警護というよりはあからさまな監視が目的だったのには訳があった。

それは、彼女がベーゼリオンを継ぐ人物だった事、心眼能力が確認された事、そして天使憑きだった事・・・・・・以上に、彼女が精神的不安定だったことだ。

最古参のエルバールと言う壮年の戦士から、基本的な情報を聞かされる。

ロイマスの知るアチェッタからは想像が出来ないことが、現実にはあった。

ベルーチェを特別な目で見るようになったのも、それを確信してからの事だ。

守衛の仕事は、交代で近侍に付く以外に、事務官の補佐と言う事で色々な雑務が課せられていた。

ロイマスは結局、一週間ほど任務につくことなく過ごした。

「出番がようやく回ってきたのね」

アチェッタが皮肉っぽくそう言うものだから、

「申し訳ございません」

などと言う変な返事になってしまう。

「何ですの、それ」

相変わらず不機嫌そうに、ベルーチェは遠慮なくそう言った。

アチェッタにとって監視役は疎ましいはずであったが、しかし敵対的で居る必要もないと言って、積極的に交流を持とうとしていた。

無論、気に入ればであって、決して媚びたり寛容であることではない。

対立して更迭されたり、自分から配置転換願を出して、任期途中に交代する事もあった。

もっとも、アチェッタに気に入られるのはよほどの事で、逆に苛められて逃げ出すと言うのが本当のところだった。

だから、他の守衛は一様に無関心であるか、遠慮に過ぎた。

であったから、

「他の守衛はあなたを体の良い外壁か何かと思っているのですわ」

と言うベルーチェの言葉に、ロイマスは敢えて

「光栄だと思うように努力します」

などと言って、ますます渋い顔をさせるのだった。

そうは言っても、基本的に守衛の仕事は近侍であって、それ以上の仕事は無い。

役務の時は、その殆どを館に詰めて過ごす。

ロイマスは、度々食事やお茶に誘われる事はあっても、警護や護衛で供をする事は無かった。

「守衛が2人と言うのは、どうなのでしょうか?」

同僚でロイマスよりも半年近く前に着任しているエイリルに尋ねた。

「少ないのだろう。だが、彼女自身の能力は、余程の術師であっても抑えきれまい。それに・・・」

エイリルは、詰所の扉を窺う。

「彼女には常に身辺を守る頼もしい守衛がおいでだしな」

言葉程に、好意的な温もりは感じられなかった。

それは皮肉のように聞こえたのだ。

ベルーチェは、それが任務であるかのように、忠実かつ勇躍してアチェッタの護衛を務めていた。

いや、それ以上に献身的だった。

それがどういう想いなのかは知る由も無い。

ただ、異母妹である彼女が、アチェッタを心から案じていたのには違いない。

どう言うわけか、反感を持たれているベルーチェとは縁がある。

アチェッタが普通そうに見えて未だに掴めないのとは対照的に彼女は分かりやすかったから、必然的に、彼女は迷惑そうではあったが、色々と話をするようになった。

しかし・・・。

「ここに来る前に想像していたのです。アチェッタ様は、色々と話を聞かされてきましたがどれほどの方なのだろうと。でも、あんなに明るくて元気な方だとは想像していませんでした」

そう言ったロイマスに、ベルーチェはいつも以上に不機嫌そうな顔をして、

「分からなくて良いのです。ええ、私があなたの察しの悪さに不機嫌になる必要など無いのですわ」

と睨み付けられた。

自分の言った言葉に、どれほどの意味が含まれていたのかを、非難された初めての経験だった。

 

=夏=

 

「暑いわねぇ」

部屋の中は涼しいのに、わざわざ外に出て、アチェッタは呆れたようにそう言った。

部屋に居れば良いだろうと、そう思ったがもちろん言わない。

と、薄い部屋着のままフラフラとどこかへ歩いていく。

「どちらにおいでですか?」

無視するわけにも行かずに呼び止める。

アチェッタはこちらを一瞥すると悪戯っぽく笑って、

「涼んでくるわ」

と言って、優雅な足取りで歩いていった。

同僚と顔を見合わせると、文句を言う前に追いかける。

止める権利はないが、彼女を守る身としてはついていく権利がある。

だが、それは付き合わされるのと同義だった。

何時の間にか追いかけてきたベルーチェが、我々を追い越してアチェッタと並ぶ。

「もう、行くなら声掛けてくれてもいいじゃないっ!」

「だってあんた、行くって言うと必ず嫌な顔するじゃないの」

そんな会話を妙な胸騒ぎを覚えつつ聞く。

同僚も自分より半年早く来たと言う事で、怪訝な顔をして二人の後をついていくしかなかった。

小川は、幅が10フィート程度しかなく、しかも深いところでも膝に達しない。

冷たいが流れは緩やかなので、川辺で涼を取るには丁度良いのかもしれない。

そう思った矢先、アチェッタは歓声を上げて川へと足を踏み入れた。

呆気に取られて成すすべも無く見守る。

そういった行為を、ロイマスは知識として得ていなかったのだ。

「アチェッタ様!」

ロイマスの声に、アチェッタはしてやったりという魔性の微笑をして聞き流す。

「何を言っても無駄ですわよ」

ベルーチェがそう言って嘆息すると、ブーツを脱ぎ捨てて後に続く。

「おい、どうしたら良いのだ?」

そう同僚に言っても、明らかに困惑してすがるような眼で逆に問い返された。

そして、取りあえず大した危害は無いだろうと納得するしかなかった。

川で水遊びをする事など、考えにもよらない行為なのだ。

歳の頃合からすると、こういった遊びをしてもおかしくは無いだろう。

だが、若年にして魔導師となった魔術師であり、守衛隊に身を守られるような人物が、こんな事をしていると言って誰が信じるのか。

涼を取りたいなら、部屋の気温を下げて快適に過ごす事くらい訳が無い。

不可解な事この上なかった。

これまで以上に、この少女が「普通でない」事だけを理解した。

初めは乗り気で無かった直情のベルーチェは、結局は策士のアチェッタに引き込まれてひとしきり川遊びに付き合わされると、びしょ濡れにされてうんざりした表情で戻ってきた。

「ちっ、だらしないわね。私よりタフでなきゃ、私を守るなんて大言壮語吐かないで欲しいわ」

とアチェッタが笑う。

ベルーチェがこちらを見る。

嘲っているのではないかと窺っているようだ。

「いつもああなのですか?」

雰囲気を逸らすために敢えて聞いてみる。

「ええそうよ。理由が聞きたいなら自分で聞く事ね」

そのまま近くの木の根元へと歩んで座り込む。

言いたくも無いとその態度で知れた。

「あー気持ち良かった」

と言って満足げな顔をしてアチェッタも戻ってくる。

「ベリスが居れば彼女も付き合わせるのにね?」

と、同僚の魔法戦士の名を挙げた。

彼女に聞けば、少しはアチェッタの行動について予備知識を得られそうだ。

「あら、そんなに気になる?」

と、声を掛けようとして逆に問いかけられる。

「はい。どうしてわざわざ水遊びなどと言う事をするのですか」

んー、と考えるようにもったいぶる。

そして、アチェッタは、少し憂いを帯びた艶やかな笑みをして、

「私の好きな人がね、自然と戯れるのが好きだから、よ」

と今まで見せた事の無い照れを含めて言った。

その、「好きな人」と言う単語が、似つかわしいのか似つかわしくないのか判断がつかないほど衝撃だった。

「全く、どこが良いのやら分かりませんわね」

ベルーチェが呆れたように言い放つ。

「分からなくて良いのよ。私に必要なものがベルに分かったって仕方ないじゃないの」

と、華麗なほどのいやらしい笑みをして、挑発的に言い返した。

ベルーチェが悔しげな顔をしてそっぽを向く。

性格を知っていて、わざとそう言い返したのだろう。

わざわざこじらせるような事を言わなければ良いのにと、ベルーチェを気の毒に思った。

 

「ロイマス守衛官、面会の方がお見えです」

分厚い記録簿から目を離す。

受付の女性事務員の言った事を理解するのに、一拍の間があった。

「面会・・・ですか?」

「はい。ベーゼリオン家に縁の方だそうですわ」

そう言われても、全く心当たりは無い。

「すぐ参ります」

慌ててそう告げると、

「では応接室にご案内しておきますね」

と言って、心なしか少し笑みをこぼして、戻っていく。

取りあえず記録簿に目印をして、同僚に席を外す事を告げ、別棟にある応接室に向かった。

一旦外を抜けるその石畳の廊下に、その男は居た。

こちらに気付いて顔を向ける。

柔らかい穏やかな表情をした、人に警戒感や不安感を与えない、不思議な男だった。

「ロイマスさんですね?」

そう問いかけられ、この人物が客人だと知れた。

「そうです。すいませんお待たせしてしまいましたか?」

そう時間をかけたわけではなかったはずだが、緊急の用件だったのかもしれない。

しかし、男は少し困ったように笑って、

「いえ、外の方が気分が良かったものですから」

と言って、子供っぽく後頭部に手を当てて顔を伏せた。

「そうですか?」

朝方に雨が降って、気温の上昇とともに、少しむっとする湿度に不快を感じる。

快適さで言えば、室内の方がまだマシではなかろうか。

「お仕事中に申し訳ございません」

心から本当にそう思って出た言葉に、ロイマスは咄嗟に

「いえ、あれは時間潰しなようなものでして・・・」

と仕事内容を説明する。

申請のあった実験の経過を、わざわざ記録簿で確認をするという、余り必要性を感じない嫌がらせのような仕事である。

昔はこうした事は魔術で簡単にこなしたそうだが、個人ならともかく、組織や部署では様々な人が触れる。

中には、そんな簡単なことでも干渉できない人が増えた、という事なのだろう。

「そうですか。でもそれは、必要な事かもしれません」

男は、寂しそうにそれを肯定した。

「それは、この世界の現実を認め始めた、いや、目を向け始めたと言う事でしょうから」

「?」

「申し遅れました。私はルーヴィス・アルカイトと申します」

呆気に取られた、と言うのは適切な表現ではない。

頭のどこかで、そうではないかと思っていたのだ。

だが、実際に会うと、その影響・・・衝撃と言おうか、それに驚かされた。

「あなたが? いや、失礼しました」

意外のような言い方を慌てて訂正する。

男・・・ルーヴィスは、慣れているのか表情を変えることは無かった。

「変わり者と良く言われます。どうかお気になさらずに」

温和ではあるが、どこか現実味のない存在感。

ロイマスはアチェッタが惹かれる理由が分かった気がした。

「あの、それで私にお話というのは?」

そう言ってから慌てて、

「いや、応接室に行ってから聞きましょう。失礼しました。何分気の回らない粗忽ものにて、アチェッタ様には良く叱られております」

と言って苦笑した。

「そうですか? 私も良く叱られますよ」

ルーヴィスも釣られる様に微笑んだ。

「私のことはお聞き及びのことと思いますから、その説明は省きましょう」

応接に移って、お茶が出されるとすぐルーヴィスはそう切り出した。

聞いている、と言ってもそれはほんの数日前、あの水浴びの一件で同僚のベリスに話を聞いた流れで耳にしただけだ。

自然を愛する異端の魔術師。

精霊術師と呼ばれてはいるが、精霊におもねるものとして、あからさまに魔術師には侮蔑されているとも言う。

彼がこうしていられるのは、ベーゼリオンに従う魔術師として、准貴族に列っせられているからだ、とロイマスは聞いていた。

だが、そうした理由を、ロイマスは素直に受け入れられなかった。

アチェッタに気に入られている。

そのことにこそ、彼を理解できる、ロイマスを納得させる理由がある気がした。

「どうか、アチェッタのことを宜しくお願いいたします」

ルーヴィスの言葉に、ロイマスは理解しかねて目を丸くした。

一瞬の静寂。

「え? 今、何と仰いました?」

ロイマスは驚いて聞き返した。

変わり者と聞いていた心構えもあって、意外なものにも驚きはすまいと、何処かにそんな慢心があったのだろうか?

しかし、その言葉の意味するところは余りにも予想外で、ロイマスを驚かすに十分だった。

「あなたを随分と気に入られています。別に肩入れをして欲しい、と言う意味合いではありません。ただ、アチェッタを拒絶しないで欲しいのです。彼女はどんなことであっても、それがあなたの想いであれば受け入れます。無視したり取り繕おうとされるのを何より嫌います」

そのことは、ロイマスにも理解できた。

アチェッタの先入観や分け隔てのない人柄は、反面それを恐れている現われのように思われた。

しかし、ロイマスが驚いたのはそんなことではない。

「私は守衛官です。もちろん彼女の身を守るのも任務ですが、もし彼女が王国の秩序を乱し、世界に損失を与えるようなことがあれば、私は彼女を討たなくてはなりません」

自分で言っておいて、どうにも形式的な言い方だと思った。

それでも、そう言わざるを得なかった。

そして、そのことに少なからぬ衝撃を覚えたことを、ロイマスは自覚をして内心動揺もしていた。

「もちろん承知しております。あなたは、あなたの責務を全うされますように。私が言いたいことは、それとは違うのです」

ルーヴィスはそう言うと立ち上がった。

「アチェッタを知れば自ずと分かります」

リーヴィスは別れ際に、

「宜しくお願いします」

と繰り返し、帰って行った。

 

=秋=

 

事件が起きたのは、日が傾くのが早くなったことを実感し始めた、哀愁を誘う秋のとある日だった。

「どういうこと!? ふざけんじゃないわよ!」

館に入るなり、そんな声が耳に入った。

リーヤが慌てた様子で通り過ぎるのを呼び止めた。

「何ですか、あの声は?」

「あ、あの、それが姫様が大変なお怒りで、いえ、それよりも姫様がお怪我をなされて、あ、でも、お怪我は大したこと無いと仰るのですが、すぐ処置しませんといけませんから」

そう言うとあの給仕服で素早い身のこなしをして部屋に飛び込む。

全く要領を得ない。

とにかく応接室へと向かった。

一方的にまくし立てる声。

それは、あの少女が出しているとは思えないほどの激しさである。

「失礼します」

そう声をかけたが、部屋に居た誰一人にも聞こえたようではなかった。

それでも、姿を認めてベルーチェが眼で何事かを合図してきた。

しかし、付き合いが浅いロイマスには、まだそれが何を意味するのか判るはずも無かった。

「ロイマス!」

間髪入れず、アチェッタがロイマスを見止めて鋭く呼びつける。

「ご無事で何よりでした」

と言ったのを、渋面で受けた。

「・・・聞いて、来たのよね?」

ロイマスは頷く。

理由も分からずに怒鳴りつけるほどの冷静さは失われてはいなかったらしい。

「どう言う事!? 事務官はなんて言ってるの!」

ロイマスは眉根を寄せて、

「過失は明らかなので、本人たちの意向を汲み、更迭するそうです。追って後任を送るとのことです」

と言うな否や、

「後任? 後任ですって!?」

と吐き捨てるように言い放った。

怒りを通り越してアチェッタの口は皮肉に歪んでいた。

「あれは私の責任だと言ったはずよ! 彼らは私の意を汲んだに過ぎないと、ロイマスからもう一度伝えなさいっ!!」

その口調はまるっきり命令調だった。

「お気持ちはしかとお受けいたしました。しかし、我らはアチェッタ様をお守りすることが優先されます。それは例えアチェッタ様の命とは言え・・・」

パシンと、ロイマスが纏う防御膜を魔力が弾いた。

これまでに見たことも無いような冷たい表情をして、アチェッタはその見通すような深緑の瞳で睨み付けた。

それは、威圧と言うものではない。また、殺意と言うようなものでもなかった。

力及ぶ全てのものを見限ったかのような、見放されたかのような印象だった。

「皆、一緒か」

そう呟いて、アチェッタは部屋を出て行った。

ベルーチェを見た。

責めるようなことは無く、沈んだ様子で俯くように床を見つめていた。

「詳しい話は聞いていないのですが・・・」

そう切り出して、ロイマスはベルーチェから事情を聞くことにした。

事の経緯は、領地内の人間の街を視察して歩いていたときのことだ。

貴族をひけらかさないベーゼリオン公爵家の当主は、お供を数人連れただけで領内を歩き回ることが多い。

領主として、人間を他の魔術師から守るという理由のためだけに庇護下に置いているため、いわゆる税や生贄としての搾取を行わず、一部で慕われてさえいた。

しかし、全く悪意を抱かれない、ということも無かった。

不満は様々であるし、責任転嫁や思い違い、八つ当たりだってあるだろう。

そのことにさえ、ベーゼリオン家は寛容だった。

だから、人間に襲いかかられる事も稀にある。

寛容であることと、慈愛に満ちていることは違う。

その教訓は、死を賜ることで、身をもって知らしめられるのだ。

この時も、アチェッタは堂々と受けて立った。

もちろん、付いていた守衛が2人、悪く言えば自ら招きこんだ危難から守らされる盾となって人間に対した。

ところが、今回は単に頭数や力押しではなかった。

守衛の二人は、人間たちの動きに翻弄され、アチェッタの警護に隙を作ってしまった。

本来は自分が受けるつもりだったのだ。

それが義務であるとさえ思っていたアチェッタは、その自分に向かってくる人間に、容赦なく、そして威風堂々と受けてたったのだ。

その人間は、魔術でこしられた武具を持つ、魔法戦士だった。

人間を囮に、アチェッタの暗殺を謀ったのだ。

結果は、ベルーチェの活躍もあって事なきを得た。

油断があって、左頬に軽い切り傷と腰の打撲、そして足を擦りむいた程度。

アチェッタは、これが失敗だ何てちっとも思っていなかった。

ベルーチェは、軽いとは言えアチェッタが傷を負ったことを気にして悔やんだ。

また、守衛二人も、対象を危険にさらしたことで自己の責務に対して非常に責任を痛感し、アチェッタに詫びた。

「皆無事だったんだから良いじゃないの」

その言葉が言霊であったなら良かったのに。

それは、本当にたいした事じゃなくて、気にすることなんて無いということを表すような軽口だった。

翌日、その事件を知ったアルベイツ学院事務所は、守衛2人に職務の停止と待命を命じた。

守衛の2人、ベリスとエイリルは、即日辞職を申し出て、更迭が決まったのである。

「アチェッタは、あの2人を自分の軽率さで失ったことに責任を感じているのですわ」

その気持ちは分からないでもない。

しかし、守衛隊はアチェッタ個人の警護で居るわけではない。

「私は、取り急ぎアチェッタ様の様子を見てくるように、と命じられて参ったのです」

俯いていたベルーチェが、焦燥の中にも僅かな疑問を受けて、こちらに顔を向けた。

「場合によっては・・・アチェッタ様の様子次第では、こちらに守衛隊を派遣するそうです。私はここで見聞きしたことを、帰って報告しなければなりません」

ロイマスは自分の心情を抑えて、勤めて冷静に、ベルーチェにそう告げた。

守衛隊、というのは今居る守衛隊ではなく、緊急かつ重大な事態に対応する新たな守衛隊のことである。

ベルーチェの顔は色を失った。

「アチェッタをどうするつもりですの!?」

その表情に、ロイマスは即答できなかった。

「アルベイツに、第一二一守衛隊が向かっています。先日、変異体である人間を処断した部隊です。あのご様子では、恐らくこの館に詰めての軟禁、と言うことになるかもしれません。最悪、学院にて拘禁・・・」

ベルーチェは、ロイマスを睨み付けて立ち上がった。

「そんなことさせませんわ! 私が説得してきます」

そう言って勢い良く立ち上がるが、歩き出そうとしてよろめく。

「ベルーチェ様!」

ロイマスは慌てて支えた。

熱い!?

掴んだ二の腕は、あきらかに熱を帯びていた。

クッと歯を食いしばって、ロイマスの手を払い除けようとした。

しかし、それは叶わないばかりか返って体勢を崩して抱えられてしまった。

「取りあえず座りましょう」

非好意的な視線にさらされながら、ロイマスは自分の発言に配慮が欠けていたことを悔やんだ。

ベルーチェが、熱い息を吐いた。

「アチェッタは、世界から裏切られてきたのですわ」

ため息を吐くように、ベルーチェはソファーに体重を預けてそう言った。

「裏切られる、とは?」

言ってから、ベルーチェは説明すべきかどうか悩んでいる。

「・・・子供のころの話ですわ」

しばらく無言の前奏曲を奏でた後、ベルーチェはそう言って重い口を開いた。

幼い頃、アチェッタの触れたものはたった一つだった。

それは、アチェッタに対する好意。

本心であろうと、歓心を得るためだろうと、それは濃淡の違いに過ぎなかった。

しかし、言葉を発するようになると、アチェッタは簡単に裏切られた。

心眼とは、ものの本質を見抜く能力である。

それは、この世界をたった二つに区別した。

本当のことと偽りのこと。

正しいかどうかではない。

しかし、アチェッタには在るものが本物だった。

偽りも建前も、儀礼ですらアチェッタには理解の出来ないものだった。

それを指摘した。

是か非か、それだけならまだマシだった。

そんな単純で簡単ではなかった。

知ってしまうが故に、アチェッタは期待する事を絶たれたのだ。

心を閉ざす。忌避する。悪し様に扱われる。

誰もが、アチェッタに好意を示さない。

恐怖だった。

それまでの世界は一変した。

大人は、身内も含めてことごとく信用できなかった。

子供はまだマシな方であったが、それは悪意として統一していたに過ぎなかった。

不気味だと言われ、何を考えているか分からないと言われた。

だから言い返した。

「本当の事を言っただけ! 私が悪いんじゃない! お前たちが悪いんだっ!!」

それは何の独創性もないものだった。

しかしそれで、アチェッタは相手が恐れた事を知った。

それまでの他人への恐怖が克服できたのだ。

恐れおののいていた日々が、一転して他人を憎み、激しく罵り、蔑む日々となった。

その苛烈さは、これまで受けてきたものを返して余りあるほどである。

そして、精神的に不安定となり、10日も寝ない日々が続いたり、周囲に人を立ち入らせないかと思えば、私を避けていると言って世話をする人を罵倒した。

学院は、ベーゼリオンの後継者を封印指定とし、守衛隊を送って別邸に軟禁した。

無論、この頃にはアチェッタの面倒を見ようと思う者は居らず、守衛が囚人に対するがごとく、応じていたに過ぎなかった。

まだ10歳に満たない時である。

リーテルシュバイン家は、将来の当主になるアチェッタ守護にも奉じるべく、父親である現当主に強く申し入れをしていた。

しかし、それはあえなく拒絶されていた。

元々、リーテルシュバイン家は、主ローデニオンの命を受けてベーゼリオンの当主を守護している。

その目的のためならば、現当主の命に従わなければならないということはない。

しかし、当の本人が精神的に不安定であって、本人がそう望まないばかりか、命の危険にさらされる恐れもある。

自己の能力を把握していない未熟な魔術師であることが、返ってアチェッタの命を生き延ばさせていた。

心配するものは多かったが、どこか覚めていたし、出来れば関わりあいたくなかった。

だが、3棟続きの同じ別邸に、アチェッタを心配する母娘がいた。

それが、シータとベルーチェだった。

「私、アチェッタに会ったときは怖くて母様の後ろに隠れて震えてましたの。でも母様は違った。調度、私と遊ぶことに新鮮味が欠けていると感じていて、一緒に遊ぼうと誘ったのですわ。アチェッタは、最初それに関心も示しませんでしたけど、母様に駄々をこねられて、甘えられて、アチェッタはいつしか母様の勝手気ままな行動に付き合わされるようになったのですわ」

精神的に落ち着いたことで、アチェッタの軟禁は解かれた。

しかし、それは永遠に、ではない。

いつまた再び、アチェッタが激発して、世界に損失を与えないとも限らない。

そのため、あまりアチェッタを刺激しないよう、守衛隊は男女2名からなり、守衛にはある特定の傾向がある者が選ばれたのだった。

如何に巨大な力を持っていても、それを使いこなすには、その技量と意思がいる。

ただその力は、単に強大ではなくて、知ってしまう、見えてしまう、拡大するものだった。

それだけに、その扱いにはアチェッタも持て余し気味だった。

それであるが故に、知り過ぎてしまうが故に、アチェッタは至らない者への絶望と、諦めを、抱いてしまうのだ。

「最近は落ち着いていましたのに、ベリスを失い、ロイマスからは見捨てられて、またあの時のように、この世界における自己の存在価値の喪失感に耐えられなくなったのですわ」

「私は、アチェッタ様を見捨てたことなどありません」

ベルーチェの言葉に、ロイマスは驚いて反論した。

「分かっていますわ。いえ、アチェッタも分かっているのですわ。でも、認めてくれる人からあのような言われ方をされたら、いえ、ロイマスが本心を隠してあのようなことを言ったら、アチェッタは自分の失敗で2人を失わせたばかりではなく、ロイマスも自らアチェッタから離れていったと思ってショックを受けたのですわ」

ロイマスは衝撃を受けた。

アチェッタの能力や存在が特殊なものであるということを、時に忘れそうになる。

言葉も行動も、前向きで積極的で、影も闇も感じさせなかった。

「アチェッタ様も、同じように笑っておられました」

ロイマスがそう呟くと、

「アチェッタは、皆と同じように笑っていたのではありませんわ。皆が笑っているのを、嬉しくて笑っていたのです」

と、ため息混じりに言った。

以前、ベルーチェに察しが悪いと言われたことを思い出した。

あの時、まだアチェッタに対しては遠慮や戸惑いがあった。

そうであれば、もう少し思い至ることも出来たはずであった。

今日の対応に欠けていたものは、同じ笑い顔でも、その裏に背負ってきたものは人それぞれ違うのだと言う、無言の理解であったろう。

ロイマスは、受け止めてあげなくてはいけないものを、流してしまったのだ。

守衛という役割に拘り過ぎていた。

立場をわきまえることと、守衛であると言うことは、同じではなかった。

どうせ一緒にいるのなら分かって欲しい。

いえ、分かってくれなくても、仲良くしていたい。

人よりも抱えるものは大きく、より深刻だったはずだ。

押し黙るしかなかった。

ベルーチェも、落ち込んでいるせいか、気疲れもあっていつもより意気消沈していた。

その時、叫び声が聞こえた。

いや、呼び声か?

「ベルさまっ!」

突然リーヤが飛び込んで来た。

「姫様が外に!」

その狼狽する様子に、ベルーチェは立ち上がった。

「外へ出たの!?」

リーヤは声を失って大きく頷いた。

ベルーチェは体調が落ち着いたからか、はたまたアチェッタへの想いが強かったのか、立ち上がるとそのまま部屋を飛び出していった。

慌ててロイマスも追う。

既に正面の扉は開け放たれて、涼やかさを通り越した闇の寒々とした空気を流し込んでいた。

ここには、館を中心とした結界がある。

この中では、空間転移や跳躍といった移動に関する魔術が効力を発揮しないように制約がかけられていた。

それは当主と言えど同様で、まだ毛足の長い外套を着たアチェッタの背が見える。

ベルーチェが、今まさにそれに追いつこうとしていた。

「どうしましょう?」

こうした事態には慣れていないリーヤは、血相を変えてすがる様な目でロイマスを見る。

自分よりもよほど護衛に適するその少女に、

「大丈夫です」

と言って、足早に二人に近づいていった。

「放せ!」

「嫌ですわ」

そんなことを幾度となく繰り返し、アチェッタはベルーチェを引き剥がそうとする。

そして、近づいてくるロイマスを見止めると、

「私が直接話しにいくだけよ。邪魔をするなら容赦しないわよ」

と、ベルーチェを腰にまとわりつかせながら威嚇した。

「アチェッタ様、どうかご理解ください。私の言葉が足りませんでした。もう少しアチェッタ様のお気持ちを察して差し上げればよかったのです」

「うるさい! 賢しいことを言うな! あなたは正しいことを言ったんだ。でも、それが本当のことではない。分かりもしないことで謝るな!」

その目は、先ほどのような冷たいものではなく、激しい熱を持っていた。

その事に、どうしてだか安心をした。

「そうです。私にはアチェッタ様が何に対して怒られているのか分かりません。でも、私が言っていることは決してアチェッタ様を蔑ろにしているのではありません。あの二人は、アチェッタ様にこれ以上の迷惑がかからないようにするために辞職を申し出たのです。無論、自分の責任だと激昂するかもしれないと思っておりました。でも二人の好意を無にしないで下さい。もしこれがアチェッタ様の責任によるものだとすれば、学院はアチェッタ様の守護を厳しくせざるを得ません。でも、守衛の落ち度であるならば、アチェッタ様の自由を失わせずに済む。そう思ったのです」

アチェッタは黙って聞いていた。

しかし、

「それはお前たちの勝手な言い草だ。私は喜ばない」

とアチェッタは苦々しげに言いつつ、ロイマスから視線を地面へと移していく。

「分かっています。これは我々の勝手な望みです。でも、アチェッタ様が我を通されれば、双方の好意が無になってしまいます。あの二人の方が先んじておりますれば、どうかアチェッタ様にはあの二人の好意に免じて、今回はお引きくださいますようお願いいたします」

表情は変わらない。

しかし、その勢いは明らかに消沈した。

と、アチェッタの腰に抱きつく格好だったベルーチェが、地面へと崩れ落ちた。

「ベルーチェ様?」

ロイマスが声をかける。

倒れこんだまま、ベルーチェは身動きをしなかった。

「どうされました? ベルーチェ様!」

「ベル?」

二人が横たわるベルーチェを覗き込む。

血の気を失って気絶していた。

「これは・・・」

魔力に対する拒絶反応だ。

昔、人間相手に行われた実験に立ち会ったことがある。

極度に魔力を失うか、過剰に干渉すると現れる反応で、そのまま死んでしまうこともある。

「アチェッタ様、館へ運びましょう」

そう言うと、ロイマスはベルーチェを抱えあげた。

慌てた様子のリーヤが飛び出してきた。

「どうされたのですか?」

「魔力酔いよ」

アチェッタが即答する。

ロイマスは、それでこれが初めてでないことを知った。

「銀織りの法衣を持ってきて。ロイマスはそのままついて来て。ベルーチェの部屋よ」

リーヤは色をなした表情をしながらも、その動きには無駄がなかった。

アチェッタについて階段を上がる。

「ところで、シータ様はいずこに?」

「生家よ」

アチェッタは事実だけを言った。

そこには、今回のことが絡んでいるのだと言う示唆が含まれていた。

部屋へと入る。

「ベッドへ。すぐ脱がして」

ベッドへと運ぶロイマスは、

「え? どうするのですか?」

と思わず問い返す。

「脱がすのよ、早く!」

アチェッタは外套を脱ぎ捨てると、部屋の片隅にある燭台を引っ張って来た。

「何してるのよ? 脱がし方も分からないの?」

ロイマスの手際の悪さに、アチェッタは横から手を出してきてあっという間に剥ぎ取った。

もちろんその一部始終を見ていられようはずもなく、顔を背けるのが精一杯だった。

「お待たせしました」

リーヤが自分の背丈ほどの大きさの平たい木箱を持って飛び込んできた。

「今、お水をお持ちします」

箱をロイマスに託すと、すぐまた飛び出して行った。

「着せて!」

アチェッタの容赦ない要求に、ロイマスは従うしかなかった。

アチェッタよりも肌の色が濃いが、艶やかな質感を持った綺麗な体だった。

成長過程にあるとは言え、その造形は完成されたもののように整っていて、女性の裸体であると言う意識が薄れて思わず見惚れてしまう。

触れることに呵責はあったが、その柔らかさに驚き、ついでその高い体温で現実に引き戻される。

苦労してようやく、法衣を着せた。

アチェッタは燭台の上に布を敷き、そこに小さな水晶球を置いた。

「魔力を安定させて、静かな状態にするのよ」

水晶球がわずかに白い輝きを見せる。

「お水をお持ちしました」

リーヤが小さな水差しを持ってきた。

「少し含ませてあげなさいな」

リーヤは頷くと、不慣れな感じを見せながらその役目を成し遂げた。

「よくあることなのですか?」

心配げに見つめるアチェッタに、ロイマスは問う。

「元々ね、魔術師には向いてないのよ」

そうとだけ言った。

ロイマスはそれ以上聞けなかった。

「アチェッタ様、私は一旦戻ります。アチェッタ様に変わりがないことを伝えれば、きっとあの二人が罪に問われることはないでしょう。私からも、アチェッタ様の意向を強くお伝えします。それと、二人が挨拶にこられるように致します。残念ですが、今回はそれでお許しください」

ベルーチェを気遣って小声で告げる。

アチェッタはベルーチェから目を逸らさず、小さく肯定するように首を傾げた。

 

=冬=

 

随分と、風に身を竦ませる様になったと思う。

それほど厳しい寒さにはならないと聞いていた。

それでも、1年のほとんどが温暖な郷里から比べると、過ぎる秋を名残惜しむのも致し方ないだろう。

それは、恐らく暖かい何かを失わせるような喪失感を感じるからではなかろうか。

ただでさえ人の訪れる事の少ないここは、冬にはまさに春を忘れた庭園のように、整然として凛とした気高さの中にも、彩りと温もりを失った物悲しさに包まれるのだろう。

ベーゼリオンのアチェッタは、そんな少女だった。

自ら求めず、失われるものを惜しまない。

それは、何かしら達観をした諦めなような感じがした。

それが無理をしているように見えない事が、殊更にロイマスの考えを肯定する。

「運命を受け入れている?」

いや、そう断言できないものがある。

守衛になってもう半年を過ぎた。

だが、まだ知らない事があることを、任務で訪れた先で知った。

それは、濃い灰色の空と、昼になろうというのに肌寒いもうすっかり冬を思わせる日のことだった。

「いらっしゃいませ」

お世辞にも笑顔とは言えないぎこちない表情で、リーヤが出迎える。

「遅くなりまして申し訳ございません。トーレスが先に来ているはずなのですが」

リーヤは凛々しいという表現の合う顔をして、

「はい」

と言って、詰所としているホール脇の部屋の扉を窺った。

立場は違うが、アチェッタを守ることにおいて、彼女とは何か通じ合うものがあるらしい。

そうした共感が、彼女との間に無言の信頼のようなものを与えてもいる様である。

もっとも、それは先日の件に基いたものである事は疑うべくも無い。

会釈をして扉に向かおうとするのを、リーヤは引き留めた。

「姫様が、ロイマス様がおいでになられたらお連れするようにと、仰せつかっております」

衛兵のごとく、きびきびとした動きと明朗な声で、リーヤは有無も言わさない勢いでそう断言する。

この間任務で訪れた時に挨拶に伺わなかったことをまだ怒っているのだろうか?

ところが、案内された先は、二階のテラスだった。

「来たわね」

アチェッタが、厚手の外套に身を包んで、待ち構えていた。

そこに居たのは、アチェッタと、人とは思われないような美しい見慣れない女性だった。

アチェッタは、少し責めるような不満げな顔をしていた。

遅れた理由を求めているのだと悟る。

「遅くなりまして申し訳ございません。役務により途中で届けなければならないものがありまして・・・」

本来報告の義務など無いのに、ロイマスはどうしてかアチェッタの下問に礼をもって答えてしまう。

だが、決して従属ではない。そんな事を求めているのではない事くらい、ロイマスは察していた。

「あらそ」

それだけで納得する。

テラスのテーブルに居た女性は、それを困ったような微笑みをして見ていた。

「ロイマス、あなた以前に私が天使憑きなのはどうしてか知りたがっていたわよね?」

突然そう言われて、意図が掴めずに困惑する。

そんな反応を無視して、

「彼女がその天使よ。シューディア?」

と、女性を紹介する。

「初めまして。あなたがアチェッタのお気に入りの守衛さんね」

それはこの寒空でも不快に感じない、夏の涼風のように澄んだ声だった。

それはとても同じ人間とは思われない造形だった。

確かに、彼女を天使だと言われれば信じるに足りただろう。

整えようと思っても、とてもこのような、恐らく美と言うものを突き詰めたところで達しないだろう、完成された美しさを持つ女性。

しかし、それはある意味不自然だった。

人間味が感じられない美しさと言うものは、確かに感銘は与えるが、感情として惹かれるものではない。

「天使と呼ばれる方にお会いするのは初めてです。私はロイマス・レドフォードと申します。以後、宜しくお見知りおきのほどを」

「これはご丁寧に。でも、本来は早々お目にかかれないのですよ?」

と言って、悪戯っぽく微笑んだ。

それで、これはアチェッタの差し金だと気付いた。

「知られて困るものでもないけど、一々私から話して聞かせるものではないでしょ? ま、シューディアが来るなんて早々無いし、今のところ受ける気も無いから、ならその役目を話して聞かせるのも良いかと、そんなところかしら」

そう言ってテーブルに近付くと、カップを手にして煽るように飲み干す。

「話してしまって宜しいのでしょうか?」

シューディアがアチェッタを窺う。

それを手で適当にあしらわれる。

それを了解ととったのか、シューディアは向き直って苦笑いをした。

「あなたは大丈夫なので話しますが、一応質問をさせてください」

そう前置きをして、

「アチェッタ様の事、どう思われます?」

と聞いた。

質問の意図がわからない。

だが、それは恐らく、アチェッタに対する感情的な事だろう。

「いや、・・可愛らしいと思います」

いくらでも表現方法はあっただろう。

しかし、アチェッタの気に入りそうではない表現で、ロイマスは正直に答えた。

思わずアチェッタの反応を窺う。

アチェッタは上目使いで何事かを考えたようだが、ちょっと困った顔をしただけで見向きもしなかった。

「それは好ましいという事ですね。愛しているわけではないと」

妙な確認をする。

確かにそのような感情は無かったから、何故か汗をかきながら肯定する。

思考の端で、ベルーチェの不機嫌そうな顔が見えた気がした。

シューディアは満足そうに頷くと、

「分かってはいるのですが、話の都合上、確かめておきたかったのです」

と、こちらの気持ちも考えずに気軽に言ってくれた。

「愛していれば、相手の全てを奪いたくなります。汚したくもなるでしょう。当然です。それが生物としての本能ですから」

穢れとは無縁であろう純白の乙女が、捉えようによっては怪しくもある優しげな笑顔で、ロイマスの感情を刺激する。

「つまり、あなたがアチェッタ様に性的欲情を覚えるか、という事を確かめたかったわけです」

アチェッタを性的な欲望から守る。

それが私の役目だと、シューディアは説明した。

そのことが、どうして天使を呼ぶのか、ロイマスには理解できない。

「知っていてもらうのは、私としても助かる事ではあるのですが・・・」

口外は余りして欲しくないと、控えめにお願いをされる。

「無論です。と言うよりも、私などに聞かせてしまって宜しいのですか?」

それは二人に対して言ったことだが、アチェッタはまるで自分のことではないような顔をして、

「良いんじゃないの」

と気も無く言って、テーブルに置かれたベルを鳴らす。

まもなく、リーヤが来てアチェッタのお茶の催促を受けて降りていった。

「そう言えばベルーチェ様は?」

「あぁ残念ね。ちょっと別邸へ行ってるわ」

何が残念なのか意味がわからなかったが、前当主の元へ行っているらしかった。

「あなたは、ローデニオンとベーゼリオンの話を聞いたことがありますか?」

そう問われて、ロイマスは首を横に振る。

「では、少し分かりにくいかもしれませんね。私は主ローデニオンの天使なのです。元よりアチェッタ様を守ることがその務め。ただ、少し事情がより切実なのです」

そんな事を、微笑みながら言う。

「アチェッタ様は、本質的に、特定の人間を惹きつける力があります。それに感応すると、どうしようもなく彼女に情欲をおぼえてしまうのです。アチェッタ様の魂は、それが主ベーゼリオンの望むがままに、自然にその魂を分かとうとする」

思わずアチェッタを見る。

彼女は聞いているのかいないのか、相変わらずまるで気を見せない。

カチャカチャと、また不器用そうにリーヤがお茶のセットを持ってきた。

「遅くなりました。シータ様がお菓子もお持ちするよう言われましたので、準備に戸惑った次第です」

ロイマスに対しての言葉が含まれる時、リーヤはどうもそんな口調になる。

見かけの少女らしさに合わないのが、妙に可愛らしく感じる。

アチェッタとロイマスにお茶を淹れる。

そして、リーヤは少し表情を厳しくして、シューディアを見つめた。

「シューディアは?」

アチェッタの問いに、リーヤから顔を逸らさないまま柔らかい表情をして、

「丁度冷めたようですから、私のはこのままで結構ですよ」

と、リーヤに告げる。

リーヤは表情を変えずに少し頭を下げた。

そして、

「ごゆっくりどうぞ」

と、ロイマスに向けて、変わらぬ意味よりも言葉に重く言い方をして立ち去った。

姿が見えなくなると、皆がカップに口をつける。

「気になったのなら、聞けば良いのよ」

アチェッタが突然そう言った。

「嫌われているのは仕方が無い事です」

シューディアが口を挟む。

「嫌われているのですか?」

ロイマスが、違和感を明確に表現して問うた。

アチェッタが初めて面白そうな顔をする。

「そりゃそうよ。私に死んでくれと言ってるんだもの」

厭らしく笑って、シューディアに振る。

微笑みに少し困った様子が含まれた。

「そう取られても仕方ありませんね。ただ、あなたの誤解を解くように言わせていただくと、アチェッタ様はこの世界においては、その存在が超越してしまっているのです」

探るように、シューディアがロイマスの顔色を見る。

「この世界にそぐわない能力がある。死ぬ・・・と言う表現は少し違うのですが、でも、アチェッタ様を慕う方々から見れば、この世界から退去していただくようにお願いする私は、天使ではなく、死を運ぶ悪魔とか死神とか言われる存在と変わらないのでしょうね」

諦めたようにそう言い放った。

いや、そんな投げやりな言い方ではなく、理解されない事を残念に思っている、と言う感じだった。

しかし、ロイマスには返す言葉が無い。

余りにも自分の存在から超越した話だった。

自分が守衛としてやっていけるのだろうか? といった問題に心悩ませる程度なのだ。

そのようなことを自分に話したところで、一体何の意味があるのだろうか。

母親が見せるような、穏やかで包み込むような優しい微笑をして、シューディアが見ていた。

そのような疑問や悩みでさえ、受け入れてくれるような包容感。

「ほら、惑わされちゃだめよ」

と、アチェッタが鋭く注意する。

「ふふ、察しが悪いわけではないようですね。でも安心しました。これでまた私の仕事、いえ、心配が減ると言うものです」

そう言ってシューディアは立ち上がった。

その仕草に、ロイマスはどう応じるべきかアチェッタを見た。

しかし、アチェッタは反応することも無く、見もしなかった。

「ではまた参ります」

そう言って微笑むと、

「アチェッタ様のこと、宜しくお願いいたしますね」

とロイマスに向かって言った。

「え?」

それを、ロイマスは以前聞いたことがあった。

「どうして私に?」

思わず、そう聞いていた。

「あら」

その問いをシューディアは意外そうに受けた。

「アチェッタ様をお守りするのがお勤めなのでしょう? それは私の願いでもあります。同じじゃありませんか」

と、いたずらっぽく笑った。

しかし、任されるほどの力量など無い。

そこに、僅かな不快感があった。

アチェッタは、相変わらず少し不機嫌そうに顔を背け、こちらを気にすることは無かった。

シューディアは、裾を上げるように服を摘むと、ふわっと浮き上がって消えた。

 

=春の始まり=

 

対峙をしたその時にも、ロイマスの気持ちはまだ揺れていた。

しかし、リーヤはいつもよりも自信に満ち溢れた表情でそこに居た。

小柄ながら、身の丈よりも長い湾曲した鎌が付いた槍を構えて。

いつもの、少し背伸びをした少女の姿は、そこにはなかった。

これまであまり見せたことのないその精悍な表情と鋭い目に、ロイマスは僅かにも手を抜くことは許されそうにないと悟った。

リーヤは鎌槍をくるりと回転させると、腰だめに構える。

「参ります」

そう告げて、勢いをつけて一足飛びに突っ込んでくる。

早い!

ロイマスは、その動きに応じられるように低く構える。

避けるのはさほど難しくない。

リーヤは間合いに入ると槍を突き出した。

それを避ける。

リーヤは、点から線へと、槍から鎌へと軌跡を変える。

その特殊な武具は、突いて引く際に鎌で足を払うのだろう。

それを背側で剣で受け、

「礎より生まれしその現されしもの、与うるもの・・・」

と、至近で詠唱をしつつ鎌を避ける。

懐に入られた形のリーヤは、しかし槍を短く持つと、鎌を引くのと合わせて柄の部分で足を払いにかかる。

長物は、自身が余り立ち位置を変えないのが常識だ。

必然的に直線と円運動になる。

その際、リーヤは背を見せた。

とっさに、ロイマスは一歩引く。

背を見せるということは、背中に目があるからだ。

案の定、目の前を鎌が薙ぐ。

こうしたことが出来るには、1年や2年の鍛錬では身に付かない。

「従え!」

リーヤの防御膜に干渉し、火属性に変える。

効力を否定せず、その属性を変えて自分の得意な状況を作り出す。

魔法戦士は、魔術では魔術師にはかなわない。

属性の変更は割と簡単であるが、それを再変更したり再構成するには、一旦干渉を解除してまた魔力干渉を行わなければならない。

対抗よりも同調、解除よりも変更、というのが魔法戦士の戦い方。

リーヤは、それで言うと魔法戦士ということになる。

魔術は使えない。だが、家としての守りはある。

それを弱めてしまえば、魔術が使えるロイマスの方が優位になる。

「?」

しかし、どうもその感触に違和感があった。

いや、確かに効果はあったはずだ。

リーヤの纏う魔力は、火属性の魔力となった。

それを理解しているのかどうか気にした様子も見せず、リーヤはロイマスの間合いで鎌を振るう。

意図的に手や足を狙うが、時折首を狙ってくる。

狙われている場所がわかっているのに、その鋭さと早さは、ロイマスに対処を余儀なくさせた。

長物を扱う相手としてはこれまで感じたことがない間合いの狭さ。

自分の身長を超えているのに、その長さを感覚として把握しているのか、回転や向きを変えること以外で地面を衝くことがない。

「集え、統べる原初の源より明らかなるものよ。示して与えよ。それは炎なるもの」

風が炎を纏ってリーヤを吹き抜けた。

しかし、その効果を全く見せず、返って籠手を鎌に捕らえられ、小楯がバンドごと弾けた。

思わず引いたその位置は、鎌槍の有効範囲である。

ロイマスは悟った。

リーヤの防御膜は、変わってもそれに自分が合わせられるものだ。

以前聞いたように、リーヤの魔法防御力は魔法戦士が訓練をして得るものよりも一段高い。

放つことは出来ないが、受けることに関しては絶大なのだ。

が、

遠心力を利用した薙ぎを、ロイマスは地面を穿つような剣の振りで止めると、懐に飛び込んでリーヤの胸元に小剣を突きつけた。

リーヤの動きが止まる。

まだ、この鎌槍に依存しすぎている。

これを奪われても、同等の動きと意思を保ち続けられなければ。

「参りました」

凍りついた表情を、笑みが溶かしていく。

守衛任務最後の日、請われて応じたリーヤとの模擬戦は時間的には短なものだった。

どうして任務に赴いたあの時ではなく最後となった今なのだろう。

礼をして、互いに武具を収める。

「ありがとうございました」

リーヤが鎌槍を胸元に抱えて走り寄って頭を下げた。

晴れやかな表情で、納得をしたかのような落ち着きを見せる。

それまでの戦士の姿はなく、教えを請う生徒のようだった。

ロイマスは、守衛隊にあってはそれほどの能力はない。

しかし、その採用基準は魔法騎士団よりも高く、戦闘技術はもちろんのこと、特に魔術についての素養が求められる。

その点で言えば、リーヤはロイマスから実戦指導が得られることに感謝していた。

「こちらこそ。アチェッタ様の守衛になって此の方、満足に訓練もできませんでしたから相手として務まるのか心配しておりました。不甲斐ないことです」

そう言って握手をする。

「ちょっと、もう気が済んだでしょ!」

シータと同じ格好をしたアチェッタが、焦れたように声を上げた。

「あ、姫様が」

リーヤが首をすくめる。

「行きましょう」

ロイマスはそう言って、アチェッタからの矢面に立つ。

「無理を言いまして申し訳ございません。お相手していただいてありがとうございました」

リーヤはアチェッタの手前、恐縮しつつ早口で詫びた。

「いえ、・・・お安い御用ですよ」

いつでもお相手いたしますよ、と言いそうになってロイマスは笑みに苦味を含ませた。

「それにしても、魔術を体現している、というのは凄いですね。出来れば私が教えて頂きたいです」

素直に出た何気ない一言。

「秘伝、と言うことではないのですが、やはり身内の者以外には・・・。でも、ベルーチェ様のご意思しだいですね」

リーヤの言葉に、ロイマスは聞き逃せないものがあった。

「ほら、早くなさいな。冷めてしまうでしょ?」

アチェッタが、役務を終えて帰還するロイマスのために、パンを焼いていたのだ。

こうしたことを、アチェッタは好んでやっていた。

そんなことをする身分では、少なくともロイマスがこれまで見てきた貴族ではありえないことだ。

ここへ来た当初、アチェッタの行動や言動に接してそう思ってきた。

しかし、今ではもう違和感はない。

この世界にそぐわない超越した能力をもっていた。

そして、これまで想像し難いほどの呵責や絶望を見てきた。

それでも、今こうしてこの世界に拘ってしがみ付いているのはどうしてなのだろうか?

周りに、アチェッタに自然に接している人たちがいる。

媚びへつらうわけでもなく、偽ろうともせず、ただあるがままを受け入れることの出来る人たち。

そういうものがあったからこそ得られた今の幸せだろう。

「菓子というわけではないけど、果物を使っているから甘いわよ?」

アチェッタはそう言って、その出来に自身ありげに胸を張った。

春の訪れには少し早いが、穏やかで心地よい陽気。

小さな名も知れぬ花が咲き乱れる手入れなどされていない野原に、無造作に置かれたテーブル。

そして、そこに並ぶ少々不恰好なパン。

「リーヤちゃん!」

館からトレイにカップなどを載せて、シータと、こちらも同じ格好をしたベルーチェがやってくる。

ベルーチェは、相変わらず少し不機嫌そうで、ロイマスが視線を向けると顔を背けた。

「私、お手伝いしてきます」

リーヤがそう告げて駆け出していった。

こんな雰囲気も、今日で最後なのだ。

任務をやりきったという達成感よりも、暖かくも感じる僅かな寂しさと、そしてこの人たちに巡り合えた感謝に、ロイマスは満たされた思いだった。

 

=エピローグ=

 

数年後、思いがけずアチェッタと再会した。

「ロイマスはまだここに居たのね」

「お目にかかれて嬉しく思います」

アルタナ霊廟を見学に寄ったアチェッタは、少しだけ背が伸びたように見えた。

それが少し嬉しく感じられる。

だが、その後ろに居るはずの少し小生意気な少女は居らず、代わりに隠れるようにして付き従う酷く怯えた少女が居た。

何故か俯いていてこちらを見ようとしない。

「ベルーチェ様は、今日はご一緒ではなかったのですか?」

「少し調子が悪くてね、明日遅れてくるの。そうそう、明日みんな揃ったら食事をしましょう。今日は本を借りに来ただけだから」

アルタナ霊廟は、学院に次ぐ所蔵量を誇る文庫がある。

一つの大きな街であるアルタナの中であれば貸し出しもしているので、ここに滞在して研究や調査をしている魔術師も多い。

「で、そちらの方は?」

話題が自分に及んだ事を察し、少女があからさまに動揺する。

出来る事ならそのまま隠れてしまいたいというくらい、アチェッタの後ろで小さくなる。

「この娘は私が預かっているサフィリスと言うの。ほら挨拶して」

たったそれだけの事に、気の毒に思うほど物凄く深刻そうな顔になる。

少女はこちらを窺うようにちらちらと見ると、少し逡巡した後で、

「・・・・・・・・・」

と言った。

見る間にアチェッタの顔が険しくなる。

「・・・サフィー」

アチェッタの呼びかけに、不安な様子で戸惑う。

「もっとはっきり言わないと分からないでしょ! 自分ばかりでは無く、相手のことも考えるのよ。言えば良いのではなくて、分かり易く、はっきりと!」

少女は改めてこちらに小さく礼をすると、消え入りそうな声ではあったが、

「サフィリス・エストナークと言います」

と言って、アチェッタの反応を窺う。

「人見知りする上に自分に自信が持てないから酷く臆病なのよ。ごめんなさいね」

やれやれというように苦笑いすると、サフィリスを横に無理やり引き立てて抱き寄せる。

困った顔をしながら、それでもその時のサフィリスの顔は、怯えの無い恥かしげで嬉しげなものだった。

ただ、アチェッタの方が妹に見えてしまうのが、ベルーチェ同様微笑ましく見えた。

基本的に非番の無い守衛隊は、申告をすれば休暇が取れる。

ロイマスはアチェッタの招請を受けた旨を伝え、翌日、アチェッタらが滞在するコールエル伯爵の別邸に赴いた。

居間に通されて、ベルーチェとも久しぶりに対面した。

アチェッタを横目に、美しく成長したその姿とは裏腹に、その顔に生気は無かった。

一目見て分かる。魔力に当てられたのだ。

許容量以上に魔力を扱う者には、避けては通れない宿命。

「ベルーチェ様・・・」

「相変わらず捉えどころのない人ね。でも、だからアチェッタには気に入られるのでしょうけど」

心配が言葉ほどには顔に表れてはいないようだった。

それにしては妙に引っかかる言い方ではあったが。

今日はアチェッタが作ると言う事で、居間にはロイマスとベルーチェだけが残された。

「ベルーチェ様は、療養されているのでしょうか?」

その問いを、ベルーチェは軽く首を振って余りに気安く否定する。

「ですが、無理をすればお命に関わります」

「で、生き長らえて、私は長く生きた事だけが取り柄になってしまうのね」

そう言って寂しげに笑った。

「ですが」

「私は姉さまを助けたいの。そうでないなら、長く生きたところで何の意味があるのかしら」

以前のような先鋭的な感情は無く、それは大人になったからか、それとも病のせいか、情欲を誘うような少し艶めかしい笑みで見つめられる。

「アチェッタ様は?」

「もちろん知っていますわ」

と、清々しいほどの即答。

「怒られはしなかったけれど、私のために死ぬなんて言って、私の責任なの? なんて言われましたわ。だから言ってやりましたの。姉さまを守ることは私のためだって」

昔のように、挑戦的で、挑発的な力のある笑み。

ただ、生気だけが欠けていた。

ほんの一瞬、静寂が訪れる。

ベルーチェの纏う雰囲気が少し和らいだ。

「サフィリスね、向こうでは疎まれて居たそうなの」

と、唐突に話題を変えた。

「余り恵まれていたようではないそうですね」

「ま、どこでも似たようなものですわ」

他人事のように言い放つ。

「あの娘、私以上に、アチェッタの助けになるでしょうね」

その言い方に、不満も、そして嫉妬も無かった。

それだけに驚かされる。

「姉さまは言わないけど、私のためでもあるみたいですわ。あの娘は魔力に関わる能力が桁違いに高いの。私の病を癒せるほどに」

だが、そう言ったベルーチェの顔は、嬉しそうではなかった。

「長生きできるのなら、あなたの子供を産んでみても良かったですわ」

と、またいきなり話題を変えた。

しかも、かなり衝撃的な事をさらりと言うので、ロイマスはかなり動揺した。

「あなたの純朴さはどちらかと言えば愚かしいのでしょうけど、アチェッタが認めるほどですもの、きっと間違いも許せる優しい子になるでしょう」

遠く、届かない夢を見るように、ベルーチェはそう言った。

だがすぐ、いつものように挑発的に微笑んでロイマスを見た。

からかわれたのだろうか?

ロイマスは確証を得ぬまま、それをからかわれているように受け止めて見せた。

ベルーチェが満足そうに頷く。

恐らく、初めて彼女に認められたのだと思った。

 

おわり

説明
オリジナルのファンタジーノベル。魂で物の真髄を見抜く『心眼』と呼ばれる魔法的能力を持つアチェッタが、家督を継ぎ、また魔導師となったことで、魔法王国における認識された魔術師となった年のお話です。
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ファンタジー 魔術師 魔導師 魔法 魔法使い 

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