正義の生贄
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 心のどこかで準備ができてたんだろう。鋭い痛みが背中に走っても驚かなかった。あわてたり、悲鳴をあげたりもしなかった。

 すぐに振り向いたけど、ホームの雑踏。終点の駅で降りる客はあまりにも多く、そして屋根の外は雨。誰もが傘を持ってる。僕の背を傘で刺した誰かの姿は、人ごみの中に溶けてしまっていた。

「どうしたの」

 声をかけられて、今度はゆっくり振り向いた。江里は片手でマイクを押さえて、心配そうな顔をしてた。

「またやられたよ。傘で突かれた」

「大丈夫?」

「雨は嫌いだよ。みんな傘持ってるんだから」

 この数日、いやな天気がずっと続いてた。しとしと降る雨の日と、曇り空の日が一日おきに。事故の翌日から、ずっと。

「明日は晴れるといいな」

「晴れたらきっと、傘じゃなく爪先とかカバンとかだよ。仕方ないよ、気にしないようにしよ」

「ん」

「気をつけてね」

 他人の心配をしてる場合じゃないのに、彼女はそんなことを言う。僕は乗務のあいまにホームを縦断するだけだけど、江里は休憩時間以外、ずっとここに立ってるんだ。

 小さく手を振ってから、江里に背を向けて歩きだした。背後と、頭上のスピーカーから、同時に彼女の声が聞こえた。

 「ただいま2番線にまいりました電車、8時27分発の各駅停車○○行きです。途中○○駅で急行電車の待ち合わせを…」

 ふいに声がとぎれた。振り返ると、江里は脇腹をおさえてうずくまっていた。顔が苦痛に歪んでいる。思わず駆け寄ろうとしたけど、江里はすぐに立ち上がってマイクを持ちなおした。

「…急行電車の待ち合わせをいたします。お急ぎのお客様は続いて1番線にまいります急行電車をご利用ください」

 彼女の言うとおり、いちいち気にしてたらきりがない。僕はホームの端ぎりぎりを歩く。風で流されて、この位置まで雨粒が吹きこんでくる。

 電車を降りて改札へ向かう人の波、改札から流れて電車へ消える人の波。制服姿の僕は、どちらの流れにも乗れない異質の存在。どちらの流れからも、敵意と憎しみのこもった視線が飛んでくる。気にせず歩く。

 長い階段を登る。背後で誰かが言った。「人殺し」。

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 この数日、毎日がこんな調子だった。駅員や乗務員への嫌がらせは一向に減らない、どころかますます増えている。あの事故から一週間もたつっていうのに。

 あの事故。朝のラッシュ時に起きた脱線事故。満員の乗客を乗せた電車がレールをはずれて、カーブの先にあった建物に時速110キロで激突した。死者113人、負傷者は500人以上。原因はカーブでの速度超過。いや、それだけじゃない。

 こことは違う路線、けど系列は同じ。制服も同じ、社の頭文字が入った胸のバッジも同じ。

 マスコミは社の責任を追及した。社を殺人犯として糾弾した。マスコミは、そうだった。

 ある種の乗客は違った。彼らは僕を糾弾した。僕ら乗務員を、駅員を、パートの清掃員までをも、個人的に糾弾した。

 

 改札の横の詰め所に、文字通り逃げこんだ。行き交う大勢の乗客、その刺すような視線に耐えられなかったから。

 完全に逃がれるわけにはいかなかった。扉を閉めると同時に、榊さんの泣きそうな声が耳に入った。

「はい、ですからもう誠に申し訳ないと…はい、社のほうでも深く反省しておりまして…ええ、ですから対策のほうはしっかりと…いえ、そうおっしゃられましても…」

 実際、榊さんはいまにも泣きそうな顔をしてた。やっとのことで電話を切った榊さんの肩を叩いて、すぐにまた鳴りだした電話をかわりに取った。

「お電話ありがとうございます、こちら──」

『あんたねぇ、人の命をなんだと思ってんのよ!』

 自ら名乗りもせず、こっちの名乗りも遮って、いきなり相手はののしりだした。最初はとまどったものだが、もう慣れた。反射的に口から出た言葉は、

「申し訳ありません」

『謝って済むなら警察いらねえのよ。だいたい俺に謝ってどうすんのよ。筋が違うでしょ? 他に謝るべき相手がいるでしょうが。ねえ?」

 なら、どう言えっていうんだ。そんな言葉が頭に浮かぶ。もちろん口にした言葉は違う。

「申し訳ありません」

『あんた、それしか言えねえの? オーム?九官鳥?』

 電話の向こうの相手を想像することは、とっくにあきらめている。相手は決して名乗らないし、実をいえば正式な謝罪を求めているわけでもない。液晶画面の表示を見るまでもなく、どうせこの通話も非通知だ。

 適当にあいづちを打ちながら、榊さんの様子を盗み見た。椅子にぐったりともたれた榊さんは、右の手で目をごしごしこすって、左手で胃のあたりを押さえている。

 榊さんは昨日から腹痛を訴えていた。酷な話だ。もうすぐ定年だっていうのに、こんな苦行を強いられるなんて。

 罵倒がひと段落して、ようやく口をはさむ隙ができた。

「お客様からのご要望は社のほうに伝えますので。お客様のお名前とご連絡先をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 とたんに電話は切れた。受話器を置くと、すぐに鳴りだした。

「お電話──」

『調子にのらないでよ、この人殺し!』

 次の乗務まで30分の休憩。気が休まるはずもなかった。けど、僕はこの30分を耐えればいいだけ。駅勤務の榊さんは一日じゅう、電話の前にいる。

 せめて休憩中だけでもと、僕はすべての電話に応対した。すべて苦情の電話。すべての苦情が、同じ内容。いちおう記録はとってあるけど、なんの意味があるんだろう。記録用紙には相手の素性もなにも書いてなくて、ただ”事故への不満”とあるだけ。

 30分は瞬く間に過ぎた。薄汚れて雨に曇った窓越しに、電車が近づいてくるのが見えた。榊さんの感謝に満ちた視線に送られて、僕は次の乗務にむかった。

 他社路線との接続の関係で、駅の構造は多少複雑になっている。詰め所からホームへ出るには、やたらと長い階段を下らなければならなかった。上りのエスカレーターはあるけど下りはない。もちろん、僕ら乗務員はエスカレーターを使えない。特に、今は。

 長い階段を歩いて降りる。冷たい視線を背中に浴びつつ、ホームの端を歩く。雨が制服に降りかかる。江里と目が合ったけど、すこし離れていたから小さく手を振るだけにした。彼女もかすかに、手を振りかえしてくれた。

 電車のドアが開いて、乗客が吐き出される。ホームで待ち構えていた乗客が、我先にと空席へ殺到する。松葉杖を持った男性客が、他の乗客に押されてよろめく。

 乗務を終えた同僚と交代する。あまりよく知らない男だったけど、互いに同情のこもった視線を交わしあった。車掌室に入って、マイクを握った。

「お待たせいたしました。この電車は9時3分発、急行○○行きです。途中停車駅は…」

 皮肉な話だけど、この乗務のあいだだけが唯一、気の休まる時間帯だった。乗客の目も届かないし、電話の応対もしなくてすむ。

 もちろん、完全に気を緩められるわけじゃない。

「…まもなくの発車となります。ご乗車になってお待ちください」

 マイクを置いて顔をあげると、正面のガラスに一枚のメモが貼りついていた。そこには大きな手書きの文字でたったひとこと、”人殺し”。

 もう見慣れた文字だった。乗客の誰かが毎朝、メモを貼っていく。すべての列車の、車掌室の窓に。

 もちろん乗務の妨げになる。けど、手を伸ばして剥がすのは次の駅まで待つことにした。いま剥がしても、またすぐに次のメモを貼られるだけだ。

 発車のベルが鳴った。何人もの乗客が階段を駆け下りて、電車に飛び乗ってくる。『無理なご乗車はおやめください』という江里の言葉など、まるで聞こえない様子で。僕は適当なところでドアの開閉ボタンを押す。故意に乗客をはさんでやりたい衝動を、僕は必死にこらえる。

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 事故の直後から嫌がらせがはじまった。けど、これほどひどい状態になったのはその二日後から。マスコミが事故の詳細を報じはじめてからのことだ。

 事故の直接の原因は、カーブでの速度オーバー。110キロ、カーブでの制限を40キロも超えていた。

 その電車は遅れていた。運転士は遅れを取り戻そうと必死だった。急ぐあまり、手前の駅でオーバーランをやらかしてしまった。それでさらに電車が遅れ、運転士は焦っていた。

 乗務員には罰則がある。電車が一分でも遅れると、車掌は始末書を書かされる。運転士の場合は、それに加えて再研修を受けさせられる。乗務員室で上司の説教を聞かされてから、専用紙に何枚も反省文を書いたり、意味もなく就業規則を書き写したり、掃除や草むしりなどをやらされたり。それが数日にわたって続く。その回数はカウントされて、査定で考慮される。

 事故を起こした運転士は、僕や江里と同期の男だった。真面目なやつだった。月に何度も再研修を受けていた。あれは辛いよ、と何度も愚痴をこぼしていた。二度と受けたくない、とも言ってた。彼にとっては研修そのものより、乗務を外されることのほうが苦痛みたいだった。

 だれも死者の悪口は言わない。おそらく真っ先に死亡した彼を、マスコミは個人的に攻撃したりはしなかった。かわりに、社の体質を問題視した。電車が1分遅れたからって、どうだっていうんだ。そんなことで運転士を責めるなんて、筋違いもいいところじゃないか。労組いじめ、という表現を使う新聞もあった。それは限りなく実態に近い表現だった。

 世論はマスコミに同調した。手紙やメールで正式に苦情を申し立てる人もいた。そうでない人は、もっと手軽な形で不満を示した。駅員や乗務員に、個人的な攻撃を与えた。

 

 ほとんど眠れない仮眠をはさんで、最後の乗務を終えたのは午後7時過ぎ。やっと仕事から解放される。この制服から、冷ややかな視線から、ようやく逃れられる。

 乗務を終えたこの駅は、僕の家がある駅じゃない。僕の駅は路線の反対側、江里が勤務している駅だ。ここからさらに1時間、電車に乗って帰らなきゃならない。けど、それはそんなに苦じゃなかった。帰宅ラッシュとは反対方向だし、それに僕はもう私服に着替えている。この格好なら、ほかの乗客と立場はおなじ。白い目で見られることもない。先頭車両の空席に座ると、すぐに電車は動き出した。

 携帯が振動した。江里からのメールだ。江里はとっくに勤務を終えて、この時間は寮でくつろいでるはず。

”おつかれ。今日も大変だったね”

 どう大変だったのかは書かれていない。だいたい想像はつくけど。

 僕のほうは、すくなくとも昨日よりはましな一日だった。昨日は誰かが操縦席の窓ガラスに赤いペンキをぶちまけて、大急ぎでそれを拭き取らなきゃならなかった。以後の電車は10分以上遅れた。制服の袖口についた赤い色は、まだ落とせないでいる。

 明日食事でもどう、と江里をさそってみたけど、返信はなかった。

 携帯に気をとられていると、電車が急停止した。僕は顔を上げた。

 先頭車両にいた乗客は、せいぜい数十人。それまで押し黙っていた乗客たちは、いまは口々になにかしゃべっている。運転席側の窓ガラスにとびついた客もいる。なにを期待しているんだろう。線路の先に死体でも見られると思っているんだろうか。

 一週間前ならみんな、急停止くらいじゃ顔を上げもしなかった。

 僕は席を立たなかった。30秒ほどたってから、車掌のアナウンスが流れた。

『お急ぎのところご迷惑をおかけします。ただいま○○駅付近にて、線路上に異物があるとの通報がありまして、安全確認のため一時運転を見合わせております。発車までもう少々お待ちください。お急ぎのところ…』

「本当に迷惑よね」向かいのおばさんが聞こえよがしに声をあげる。

「まったく」となりのおばさんが応じる。「鉄道会社がしっかりしないと、すぐ乗客が迷惑するんだから」

 線路に物を置いたのは職員じゃない。誰かのいやがらせだ。もちろん、おばさんもそんなことはわかってるんだろうけど。

 乗客のざわめきは長続きしなかった。僕は手すりにもたれて、携帯に目を落とした。

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 事故のあったあの日、僕は乗務してなかった。社のイベントに出席していたんだ。あとになってマスコミに非難されることになる、あの親睦会に。

 事故のことなんて知らなかった。一部のひとは知っていたらしいけど、そんな大惨事だとは夢にも思わなかったらしかった。もちろん、会を中止すべきだなんて声もなかった。社のイベントだ。会場は半年も前に予約してあった。簡単に中止なんてできるはずない。

 大事故が発生した時、誰が誰に連絡をとり、誰がどこに集まるか。そんなことを定めた規約は存在しなかった。現場では誰もがうろたえていた。本社にさえ詳細は伝わってなかった。僕らが行動できなかったのは当然だった。

 内輪で開いた二次会にも、僕は出席した。事故のことを知ったのは移動の最中。たいした事故だとは考えなかった。二次会を中止すべきだ、なんて考えもしなかった。榊さんの送別会もかねていたんだ。詳細がわかったのは帰宅してから。テレビのニュースで知った。

 真っ先に気になったのは江里のことだった。彼女は会には出席しなかった。勤務についていたんだ。もちろん路線は違うし、江里のいる駅は振り替え運転の対象にもならない。けど、何事もないとは思えなかった。

 当日のことを、彼女はなにも語らない。僕もあえて聞くつもりはない。

 マスコミはすぐに宴会のことを嗅ぎつけた。週刊誌には、二次会の会場で働いていたバイトのインタビューまで載っていた。”終始ニヤけていたじいさん”というのが、バイトから見た榊さんの姿らしかった。その記事が載った翌日、榊さんは胃痛を訴えだした。

 嫌がらせはどんどんエスカレートしていった。”人殺し”のメモが現れたのもその頃だ。一日おきに雨が降った。僕は背と腕を傘で刺された。江里の制服の背中はぼろぼろになった。晴れた日は靴のつま先が僕らを襲った。

 

「申し訳ありません」

 翌日、改札横の詰め所。僕はまた電話を受けている。昨日とすこしも違わない内容の電話を。榊さんは長椅子に横たわって、左手で胃のあたりを押さえている。乗務員室に電話機が一台しかないのは、まったく幸運だった。

「申し訳ありません」

 うつろに繰り返しながら、僕は記録用紙をぱらぱらとめくった。”事故への不満”という無記名の用紙が何枚も。めくりつづけて、事故の前の日付をさぐった。

 まったく違う内容の苦情が、詳細に記録してある。何時何分発の電車が何分遅れた、おかげで仕事に遅れた、とか。名前と連絡先も記してある。

 この類の、電車が遅れたことへの苦情は、この一週間は皆無だった。皮肉なものだ。電車の遅れと、それに対する乗務員への罰則のことが報道されると、乗客の誰ひとりとして、遅延に文句を言わなくなった。もちろん、それに代わる苦情はたっぷりあるわけだけど。

 乗務の時間が近づいてきた。榊さんと交代するのは気がひけたけど、そうしないわけにもいかなかった。榊さんはしわだらけの顔で悲しげに笑って、僕を送り出してくれた。すぐに鳴り出す電話機に立ち向かう姿は、絶望的な戦場に向かう敗残兵みたいだった。

 

 空は曇っていたけど、雨は降っていなかった。その日は傘で突かれることはなかった。けど、ホームを歩いて江里のところまで行くわずかのあいだに、僕は二回足をひっかけられた。膝の裏を蹴る乗客もいた。「馬鹿野郎」と背中に叫ばれもした。

 江里の顔を近くで見ると、頬に大きな痣ができていた。

「どうしたの、それ?」

「ちょっとね」

 弱々しい江里の笑顔は、彼女の姿をますます悲壮なものにした。いつもよりメイクが濃い。なんとか痣を隠そうとしたんだろうけど、無駄な努力に終わっている。

 言葉が見つからなくて、僕は黙ってその場を離れようとした。いきなり肩をつかまれた。

「あんたたちね、もっと乗客を大切にしなさいよ。乗客は金のなる木じゃないんだから。みんな生きてるんだからね」

 僕たちだって生きてる。そんな台詞を必死に飲み込んだ。初老の婦人は身なりもよく、口調も仕草も上品だった。ただ、その言葉と表情には有無を言わせない強引さがある。

「すみません、私は乗務がありますので、そのお話は…」

「なに言ってるの。そうやって乗客の声に耳を傾けないから、あんなことになるのよ。私の話を本気で聞いてるの? そういう態度がいけないの」

 振り切るのにはひと苦労だった。江里がフォローしてくれなければ、確実に電車を遅らせていただろう。矛先を江里に転じた婦人の声を背に、僕はその場を去った。

 けど、あの婦人はまだましなほうだ。いきなり背中を蹴られるより、ずっといい。

 ホームの端を歩いて、同僚と交代した。車掌室の窓に白いメモ。”人殺し”。

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 僕自身、事故のことをどう考えていいのか、いまだによくわからないでいる。社に責任の一端があるのは確かだ。僕らにも。

 時刻表より安全を優先するべきだ、乗務員の誰もがそう思ってたけど、それを表立って口にした者はいない。誰かが口にしていれば、状況は変わっていたかもしれない。いまさら手遅れだけど。

 会社がなぜ、それほどまでに時刻表を重視するのか。そこにはちゃんとした理由がある。社員以外にはわからない理由が。

 僕はその理由を知ってる。けど、対策はない。どうすれば事故が防げたのか、僕には見当もつかない。

 この事故から僕が学んだことは、たったひとつ。理由さえあれば、人は簡単にいじめっ子になれる、ということ。

 乗客たちの一連の行動は、場所が学校ならば”いじめ”と呼ばれるものと同様。いい歳をした大人が、何の疑問もなく、自分が正義だと信じきって、職員をいじめている。学校でのいじめがなくならないのも当然だ。大人がやめないんだから、子供がやめられるはずがない。

 いじめられる側に対策はない。黙って耐えて、嵐が過ぎるのを待つ以外、できることはない。

 事故で亡くなった人や負傷者、遺族については気の毒だと思う。

 けど、それ以外の乗客は。

 彼らに対して申し訳ないとは思わない。そんな気には、とてもなれない。

 

 帰宅途中の電車のなかで、僕は携帯を開いた。江里に今朝の礼を言いたかった。文面を考えている最中、逆に彼女からメールが届いた。

”がんばろうね。”

 それだけ。たった一行。

 まとまりかけていた感謝の言葉は、頭から消え去った。

”なにかあった?”

 返信して、すぐに後悔した。なにかあったか、だって? 愚問もいいところだ。なにもないはずがないじゃないか。

 返事は来なかった。僕は携帯を開いたまま、いつまでも待っていた。

 

 翌朝、電車は遅れに遅れた。僕の乗務する列車は、途中駅で立ち往生していた。

「ただいま○○駅で人身事故が発生しました。そのため、電車大幅に遅れております。お急ぎのところ…」

 同じアナウンスを何度も繰り返した。内心、気が気じゃなかった。

 現場は江里のいる駅だ。彼女がどんな苦労をしてるか、そう考えると、いてもたってもいられなかった。動かない電車がもどかしかった。

 ──僕の心配は無用なものだった。江里は苦労などしていなかった。事故の当事者だったから。ホームから転落した彼女の上を、電車が通過したんだ。即死だったそうだ。苦しまなくて済んだのは幸運だった。

 雨が降っていたのも幸運だった。僕が到着するまでに、彼女の残骸は慈悲深い雨が洗い流してくれていた。

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 上の空で勤務をこなした。帰宅してからも似たような調子で、ただ呆然とテレビを見つづけた。ニュースになるとチャンネルを変えた。

 真夜中近くに来客があった。いつもならとっくに寝てる時間だ。無視してもよかったけど、気分を変えてくれるものなら、なんでも歓迎だった。

 その思惑は外れた。気分を変えてくれるどころじゃなかった。玄関に立っていたのは刑事だった。

「金子江里さんの件で、ちょっと」

 ドアを開けたことを激しく後悔した。

「何か? 僕はなにも知りませんよ。その場にいなかったんだから」

「彼女とは親しかったんでしょう?」

「ただの同僚ですよ」

 そう答えた、半分は自分に向けて。ただの同僚、そう思いたかった。そう思いこもうとしている自分に、その時気づいた。

「ときどき一緒に食事したりはしたけど、それだけです。特別な関係じゃありません」

「最近、彼女にかわった様子はありませんでしたか? なにか悩んでいたとか」

「悩んでなかったと思いますか?」

 思わず声が大きくなった。刑事は苦笑した。

「失礼、最近の状況については聞いています。それとは別に、ですね。…個人的に恨まれていたとか、そういったことはありませんでしたか?」

「はあ?」

 僕の反応がよほど喜劇的だったんだろう。同情心を催したらしい刑事は、本来は漏らしてはいけないことを教えてくれた。

「金子さんがホームから落ちたのは、何者かに背中を押されたからだ、という目撃証言があるんです。いえ、まだ確認がとれたわけじゃないんですがね」

 なぜかショックは受けなかった。そんなもんか、と思っただけ。

「事故と事件、それに自殺の面でも調べています。彼女は悩みを誰かに相談したりせず、自分のなかに溜めこむタイプだそうですね。この数日の状況を考えると、自ら命を絶った可能性も否定できないわけで…」

「帰ってくれませんか」

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 江里がいてもいなくても、列車は運行しなければならない。次の日も勤務だった。

 苦情の電話はようやく下火になってきた。休憩時間には乗務員室で新聞を読む余裕もできた。榊さんはあいかわらず、胃の痛みと戦っているけれど。

 事故関連の記事は一面から追いやられていた。かわって紙面のトップを飾っているのは、大手建設会社の談合の記事。僕たちがマスコミや乗客に叩かれ続けているあいだに、連中は政治家におべっかを使うだけで、いとも簡単に金を稼ぐわけだ。

 事故の続報は三面に移動していた。そのついでみたいに、江里のことが報じられていた。ろくに読みもせず、新聞を畳んで机に置いた。

 

 電車は終点に向かっている。江里のいない駅に向かって。空は曇っていた。いっそ雨になってくれればいいのに。

 途中駅に停車する。満員の車両はほんの数人の乗客を吐き出し、その何倍もの人数の乗客を飲み込もうと、小さな口を懸命に開く。

「次の電車まいっております。無理なご乗車はおやめください」

 そんな駅員のアナウンスを聞いても、乗車をあきらめる乗客はいない。他人の体を押しやり、押しつぶし、自分の乗る空間を無理にこじ開けようとする。その間、僕はドアをなんとか閉じようと無駄な努力をくりかえす。何度も開いては閉じるドアを見て、遅れてやってきた客がさらに乗車を試みる。

 やっとのことでドアが閉じても、また次の駅でおなじことの繰り返し。そうして列車は運行し続ける。そうして電車は、徐々に遅れてゆく。

 終点に到着したときには、トータルで10分の遅れになっていた。乗客はぶつぶつ文句をいいながら改札へ向かう。なぜ電車が遅れたのか、考える人はいない。

 トラブルでもあったのか、交代の乗務員はホームで待機していなかった。引継ぎを待つあいだ、僕の思考はいつもとおなじ方向へ向かっていた。

 ──満員の車両にむりやり乗りこむ客。階段を駆け下りて、閉じかけたドアに突入する客。そのたびにドアは開閉をくりかえし、そして時間が過ぎる。乗客の多くは気づいていないだろうけど、僕は知ってる。列車の遅れのほとんどは、これが原因だ。無理をする乗客がいなくなれば、電車は時間どおりに運行する。邪魔しているのは乗客だ。

 電車が遅れれば乗客は怒る。その原因についてはすこしも考えずに。怒った乗客はどうするか。駅に電話をかけるんだ。電車が遅れたおかげで乗り継ぎに失敗した、会社に遅刻した、学校に遅刻した、大事な会議に遅刻した、デートに遅刻した、云々。10分早く家を出れば済む話なのに、そういうふうには決して考えない。

 苦情を受けたからには、会社は対策を講じなければならない。その結果が運転士への罰則、再教育、研修、始末書。

 もっと余裕をもたせればいい、そういう客もいる。ほんのすこし停車時間を長くするだけで、客の乗り降りに余裕ができる。そうすれば列車は遅れずにすむ、と。

 けど、その余裕をなくしたのも乗客の要望だ。一分でも早く、一秒でも早く目的地に着きたい。それが乗客の望みだった。社はその要望に答えただけ。

 要望は社から運転士に伝えられる。その要望と研修への恐怖が、運転士に圧力をかける。運転士は一秒でも遅れるまいと、限界まで速度を上げる。

 その結果が、あの脱線事故。

 事故の本当の原因は、速度オーバーなんかじゃない。運転士がノイローゼ気味だったからでもない。無理な運行スケジュールのせいでもない。会社にも原因の一端はあるけど、それだけじゃない。

 本当の原因は乗客だ。乗客が列車のスピードを上げさせ、列車を脱線させて、113人の命を奪った。

 114人だ。江里も含めて。

”人殺し”。

 どっちが。

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 その日の乗務は午後2時で終わった。

 僕は帰りの電車を降りた。この時間だとホームに人もまばらで、足を蹴とばされる心配はなかった。もちろん、線路に突き落とされる心配もない。

 改札への長い階段を上る。周囲に人影はなく、唯一、会社員らしい中年男が階段を降りてきているだけだった。

 顔がはっきり見える距離まで近づいたとき、会社員の胸のバッジに気がついた。談合の中心となった建設会社の社章。

 今の僕は私服だ。階段の上にも下にも人影はない。天井には監視カメラがあるけど、その映像は録画されていない。モニターを監視する人もいない。榊さんは電話の応対中か、でなければ胃を押さえて長椅子に横になっているはずだから。

 会社員とすれ違う瞬間、僕は背中を押してやった。会社員は悲鳴をあげながら長い階段を落ちていった。その悲鳴が消えるより早く、僕は階段を上りきって、足早に改札を抜けた。

 罪悪感はなかった。それどころか、この数日感じたことのない開放感が僕の全身を包んでいた。ざまあみろ。

 市民の怒り、思い知ればいい。

 

説明
あの脱線事故の日から、全てが変わった。乗客から浴びせられる冷たい視線。嫌がらせや暴力の数々。鉄道会社の社員である僕と江里はひたすら耐え続けたが、やがて江里は――。とある事件をもとにしていますが、完全にフィクションです。
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