うそつきはどろぼうのはじまり 41 |
トリグラフに到着してから、まもなくのことだったよ、とバランは語り始める。
運び屋は己の耳を塞ぎたかった。そんなものは、今に至る経緯など知りたくもなかった。
だが、聞かねばなるまい。聞かなければ、彼女の身に起きたことを知ることはできない。彼が知っているのだ。婚約者として身柄を引き取った、この自分の従兄弟だけが。
男はこの苦行に耐えた。従兄弟の襟首を掴んだままの手が、動揺のあまり細かく震えている。
「彼女の発言に、異変がみられたのはね。忘れもしない、あれは三日目の朝食の席だったよ。食卓についた彼女が、変な顔をしてたもんだから、何かあったのって訊ねたんだ。そしたら彼女の、目が覚めたら窓辺に鳥がいた、って言ったんだ。真っ白い鳥で、荷物を背負っていました。窓を開けたら部屋の中に入ってきたんですけど、あれ、なんでしょうね、って」
なんでしょうね、ではない。話の中の鳥は、間違いなく伝書鳩に使われるシルフモドキだ。幾度となく手紙の遣り取りをしているエリーゼが、知らないはずがない。
カラハ・シャールの領主からの手紙が不着だった理由がこれか、と男は奥歯をきつく噛み締める。伝書鳩の存在を忘却した彼女は、書簡を届けに来た鳩を改めもせず、そのまま送り返していたのだ。
「はじめは、からかっているのかと思った。でも彼女は至って正気だった。慌てて色々検査したり、問診してみたのだけれど、どうやら彼女は、自分の過去が不透明になっていることにすら、気づいていないようだった。僕らも焦って、何とかして記憶を留めようとしたさ。けど、手をこまねいているうちに、リーゼ・マクシアでの記憶は徐々に失われて、書き換えられていった。つじつまが合うように――今現在の状況に、都合の良いようにね。今では、自分はエレンピオスで生まれ、研究所内で育ったと思い込んでる」
少しずつ、男の手から力が抜けてゆく。掴み上げていた白衣の皺が徐々に消え、手のひらが離れ、指先が離れた。
バランは従兄弟を文字通り支えた。手を貸さなければ、男はその場に崩れ落ちると思われたからだった。
「アルフレド、しっかり。気を確かに持つんだ。記憶を取り戻す術はきっとある。まだ見つかっていないのは、僕らが探し方を知らないだけだ。僕は一秒でも早く、それを見つけるために、彼女を屋敷ではなく、ここに連れてきた」
「・・・ああ・・・うん、分かってる。分かってるさ、バラン」
男は何度も頭を振っていた。相手の言葉を理解している自分を演じたいのか、そうすることで自分をも納得させようとしているのか、何度も分かっていると呟いた。
「お前は昔から頭が良かった。だから、お前なら見つけられる。俺はそう信じている」
「アルフレド・・・」
ひきずるような足取りで居室を出て行く従兄弟の後姿を、白髪の技師は痛ましそうに見送った。
男は実験室の扉を静かに閉ざす。がちゃりと手の中で取っ手が回り、シリンダーの刺さる音が、廊下に響き渡った。
人気の寂しい、薄暗い建屋の壁に寄りかかる。そうしなければ、とても立っていられなかった。
再び真っ直ぐ立っていられるようになるまでに、かなりの時間を要した。男は細く入り組んだ廊下を進む。
(なかなかワイバーン、なついてくれないみたい、ですね)
騎獣を着陸させることに失敗し、あちこちに泥汚れをつけたまま現れた男に、苦笑と共に差し出された手拭き。
(巻き込みたくないんです)
眼下の惨劇を目の当たりにして尚、他者を思いやる気持ちを忘れなかった硬い声。その直後、彼女は美しく結い上げていた金髪を、自らばっさり切り落とした。
(手持ちの刃物は、これくらいしかなくて)
確かそう、あれは男の繕い物をしていた時だ。指摘すると、はにかみながら糸切り鋏を裁縫箱にしまっていた。
(もしあなたが前の旅の後、出自と身分を明かし、生まれた家に戻っていたら。この旅の結末は、違っていたんじゃないかって)
君は正しい。間違いなく今とは異なっていただろう。少なくとも、君が記憶を失うには至らなかった。
(エリー・・・)
「アルフレド様?」
男は思わず足を止めた。振り返るとそこには、目をまん丸にした彼女がいた。だが驚いたような顔は、すぐさま満面の笑みに変わる。
「やっぱり、当たりました。そうじゃないかと思って、声をかけてみて、良かったです」
無邪気に笑う少女に、男は訊ねた。何せ彼女は今も、開け放った扉から上半身だけを廊下に差し入れたままなのだ。
「そこで、なにを?」
男の記憶が確かなら、そこは屋上のはずだった。先の旅で、魔装獣の一匹が陣取っていた因縁の地でもある。
「お庭作りです」
「お庭?」
はい、と少女は悪戯っぽく笑った。
「リーゼ・マクシアの方なら、きっと気に入って頂けると思うんです。もしお時間があるなら、是非ごらんになって、感想を聞かせて欲しいんです」
誘われている、と気づいて男は大いに躊躇った。が、結局彼女の笑みにあらゆる意味で負けた。
「――わかりました」
「では、どうぞ」
促されるままに足を踏み入れた兵装研究棟の屋上には、未だ太陽が照つけていた。当初眩しさにやられていた視力が、だんだんと明るさに慣れていく。そして目に飛び込んできた光景に、アルヴィンは息を呑んだ。
高く聞こえた鳴き声に、彼は顔を上げる。
あれは雲雀の声。空を見上げれば、双翼を広げた黒い影が視野に入った。影は続けざまに甲高く鳴きながら、ゆるやかに降下する。茶斑の翼を捲り上げるように羽ばたいて、一本の枝に足を絡めた。着地の振動で、揺れた大輪が芳しい香りを放つ。
それは見事な花だった。薄紅の花弁が幾重にも織り込まれて、枝葉の緑と相まって清楚さを醸す。それだけでも充分綺麗なのに、輪をかけるように甘く香るものだから、眼にした者はもはや見蕩れるしかできない。
宵口の風に揺れる花は、リーゼ・マクシアでプリンセシアと呼ばれる品種だった。呆然と巡らした視界の隅々、屋上の一区画全てが、淡い桃色で埋め尽くされている。
軍基地に似つかわしくない庭は、既に黄昏のときを迎えていた。一日の最後を締めくくる赤い光がほんのりと世界を染めている。それはプリンセシアを慈しむ彼女とて例外ではない。
「どうですか? 綺麗に咲いているでしょう」
エリーゼは少し誇らしげに微笑み、庭園の石畳にしゃがみ込んだ。エレンピオス宮廷の様式を模した庭は、少し高い所から見渡せばその見事な造形美を楽しむことが出来そうである。
「もうご存知だとおもいますけど、エレンピオスには緑が少ないです。だからリーゼ・マクシアの植物を持ち込むことはできないかって」
提案した日を懐かしむように、少女はくすりと笑った。
「それに、折角育てるのなら、綺麗なお花の方が育て甲斐があると思いませんか?」
「プリンセシア」
男の唐突な発言に、エリーゼは目を瞬かせた。
「え?」
「この花の名は、プリンセシアという。リーゼ・マクシアでは、そう呼ばれている」
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