うそつきはどろぼうのはじまり 44 |
我ながら不思議だった。以前の自分なら、自棄を起こしてとっくの昔に逃げ出している頃だ。今回の場合は命を絶つという手段で嫌なことから背を向けるはずなのだが、何故か未だに自分は生きている。
どうしてだろう。アルヴィンは小雨混じりの街並みを眺めつつ顧みる。生き延びたのは医師ジュードのお陰だ。医療関係者であるかつての仲間は、男の症状を的確に見抜き、迅速に処置してくれた。考えてみれば、そもそも、イル・ファンに不時着した、ということ自体が幸運だ。そうでなければ到底高度な治療は受けられず、今頃は行方不明者名簿に名を連ねていたことだろう。
一時は生死の境を彷徨ったものの、意識を取り戻して以降は人間らしい日々を送れていた。日の出と共に目覚め、プランが運ぶ食事を摂取し、見舞い兼診察に来るジュードと言葉を交わし、完全に見舞い人の立場のレイアからワイバーンの様子を聞き、暗くなる頃に就寝である。もしかするとワイバーン跨って世界中を飛び回っていた頃より規則正しい生活かもしれない。
「アルヴィン、ローエンがお見舞いに来てるよ」
いつものように回診をしていた若い医師が面会を告げたのは、長雨が終わりかけた午後のことだった。
男の表情が真剣になる。
「単なる見舞いじゃない。そうだろう?」
「うん。話を聞きたいって」
何の話を老宰相が求めているのかは嫌でも察しがついた。年貢の納め時か、と男は小さく嘆息する。
「分かった」
久方振りに見るローエン・J・イルベルトは、相変わらず地味な文官服姿だった。白髪を後ろに撫で付け、深緑の上下を着込んだ宰相は、深い皺の刻まれた頬に安堵の色を浮かべた。
「お加減は、如何ですか?」
「この間、点滴が抜けた。まだちょっとだるいが、咳が出るくらいだな。ジュードが治療してくれたお陰だよ」
上半身を起こした状態で出迎えると、ローエンは笑った。
「これはこれは、珍しいですな。あなたがこれほど素直に感謝の気持ちを仰るとは」
「それくらい弱ってるってことさ」
「・・・現在進行形で、ですか」
「ああ」
会話をする男二人を尻目に、若い医師が出て行こうとしている。名残惜しそうなその表情を見て、男は思わず苦笑した。
「おいジュード先生よ。トリグラフでの顛末、聞きたくないのか?」
「いや、そりゃ聞きたいけど・・・いいの?」
男は肩を竦める。
「話すなら、いっぺんにした方が二度手間にならなくて済むしな。どうせ外にレイアの奴もいるんだろ? だったら尚のこと、好都合だ」
男の枕元から点滴の機材がなくなって久しい。狭い病室とはいえ、三人分の場所くらいは充分にある。
雁首揃えた三人を前に、男は口を開いた。
「さて、と。どこから話せばいい?」
その言葉を聞いた途端、身を乗り出したのはレイアだった。
「エリーゼは!?」
「・・・直球だな」
男は一瞬言葉に詰まった。受け流すための苦笑いが浮かべられないほど、胸が痛む。
「無事なの? 会えたんでしょ、元気だった?」
彼女は、音信不通の仲間を心底心配していた。だが今の男にとってその名は禁忌だった。名前を口にすることはおろか、耳にするのでさえ辛い。
知らずうち、投げ出していた手が寝具を握っていた。
「あいつか・・・あいつは・・・」
「記憶を失っていた。違う?」
あっさりと答えたのは勿論、男ではない。無情な声の主はジュードだった。
男は信じられないようなものを見る目で医師を見つめる。
「知って、いたのか」
「知ったのはごく最近だよ。父さんが論文を寄越してくれてね」
彼は嘆息交じりに、手にしていた文書を興味津々のローエンに渡してやった。宰相は、すぐさま項をめくり出す。
「これ、大先生からのお土産じゃない! ・・・お土産ってレベルじゃないんですけど・・・」
少女の顔がひきつっている。故郷を出るとき、渡してやってくれと頼まれた物が、こんなに大変なものだったとは露ほどにも思わなかったのだ。
「なんで大先生も、あたしなんかに預けるかなあ・・・。あちこち寄り道するってことは伝えてあったはずなんだけど。せめて郵送とか、それこそアルヴィン君とかに頼んで配達してもらった方が良かったんじゃないの?」
「そうすると目立っちゃうから。父さんはなるべく穏便に、けど確実に僕に届く方法を取った。それだけの内容だったんだ」
批難がましいレイアに、ジュードが父親を擁護し続ける傍らで、論文を読み終えたローエンが溜息をつく。
「いやはやまったく・・・。貴方のお父様は大変な発見をなさったものです。これで全て辻褄が合う」
納得顔で疲れたように首を振るローエンに、アルヴィンは説明を求めた。
「平たく言ってしまえば、増幅器を使用したことに因る障害についてです」
「副作用のこと? それはもう、五年前の時に知られていたことじゃない」
レイアが首を傾げるのももっともだった。増幅器は以前、ファイザバード沼野を行軍する際に、大量生産に成功したア・ジュール軍が使用していた。その時立ち寄ったラ・シュガル軍幕で、一行は増幅器を借り受けたのだが、貸し与えてくれた兵卒は、これはあくまで噂ですが、と前置きをした上で教えてくれた。
曰く、増幅器を使用すると副作用が起こるらしい、と。
「だがそいつは、マナ以外にも体力を消耗して、最悪死に至るって奴だろ? 記憶とはなんの関係もないはずだ」
「そう。長時間の使用は、作業者に生命の危険が及ぶ。今では一般的に認知されている事象ですね。ですが副作用の内容は、増幅器の作られた世代によって異なるようなのです」
それがこの論文の肝なわけですが、とローエンは手の中の図表を眇めつつ続ける。
「マティス博士によると、副作用の内容は大きく二分されるそうです。五年前に既に明らかとなっていた全身への倦怠感は、第一世代と第二世代、及びこれを元に作られた派生型に限定される。より使用者との適合性を重視し制作された第三世代型では、霊力野を含めた大脳全体への影響が大きく、それが記憶障害となって現れる、とあります」
前にジャオさんと話をした時に言っていたと思うけど、と前置きしてジュードは寝台へ顔を向ける。
「アルクノアにいた頃、アルヴィンが盗み出したのは第一と第二世代だったね? それがア・ジュールに広まって、遅れてラ・シュガルにも伝わった。リーゼ・マクシアでは第一と第二の後継機が主力なんだよ」
「しかしアルクノアと繋がりがあったエレンピオスは違います。第三世代型の情報は、彼らの手によってエレンピオスへ齎された。その飛躍的な向上、マナ回収率の効率性、小型化、そして副作用の軽減。どれをとっても、旧世代とは比べ物にならないほど、利便性が増しています」
「つまりエレンピオスでは、第三世代型が主流ってこと? 使ったら記憶をなくしちゃうようなものを、どうして」
震える声でレイアは訊ねる。この言葉にジュードはいかにも学者らしく、淡々と返した。
「構わないって思ってるんじゃないかな。源黒匣を作るには、二つの材料がいる。精霊の化石とマナだ。このうちマナは、元々リーゼ・マクシアの人にしか生み出す霊力野はない。そこから無理やり搾り取る道具に、倫理的な問題は考慮されていないんじゃないかな。・・・エレンピオスの人の前で、こんなこと、あんまり言いたくないけど」
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