真夜中のチョコレート |
二月十三日。ツォンはエアリスの襲撃に遭っていた。
「ちょっとね、用事があったの」
そう言いながらエアリスはツォンの部屋にあがりこんでいた。時刻は夜の二十三時を過ぎ。若い女性が出歩いていい時間帯ではない。真夜中に独りで外出することについて何か言ってやりたい気持ちをぐっとこらえ、ツォンは黙って玄関のドアを開けたのだった。
「どうかしたのか」
冬の匂いが外から流れ込んでくる。二月ももう半ばになろうというこの季節の夜は、真冬と大差ないほど気温は下がる。エアリスはイヤーマフをつけ、厚手のマフラーを巻き、厚手のウールのコートとブーツという重装備だった。紅潮した彼女の頬が、寒そうに見えた。
エアリスは腰を落としてブーツを脱ぎにかかっている。脱いだブーツを揃えて玄関の隅に置くと照れくさそうに笑った。
「うん、ちょっと」
一人暮らしの、来客などめったにないツォンの部屋に、あるじ以外の人間の気配が、よそよそしく空気を揺らしていく。彼女の体からは、何やら甘いにおいがしていた。いつもの、花の香りを纏わせていた彼女とは違う気配だった。
「ちょっとね、お願い事があったの」
リビングに通すと彼女はそう言って、ソファに座った。イヤーマフを外してから、マフラーを滑らせるように首元から取り去ると、ぱちぱちと静電気が起きた。エアリスはそれを丁寧に畳み、トートバッグの上に置いた。そのトートバッグは、「ちょっと用事」という言葉とは裏腹に、一泊旅行のそれでもあるように大きく膨らんでいる。まるで家出でもしてきたかのような大荷物だ。
「なんだ、それは」
顔をしかめてツォンがそう言うと、「これ」とエアリスはトートバッグの中から取り出した紙袋をがさがさといわせた。
紙袋の中から取り出したのは小さなプレスチック製の密閉容器で、その蓋をあけると、彼女の体から放たれたものと同じような甘いにおいが漂ってきた。そのタッパーウェアーのなかには、こげ茶色の粉がかかった、ハート形のチョコレートがきれいに並んでいた。
「ね、食べてみて」
「……いきなり、なんなんだ」
エアリスに促され、しぶしぶツォンはそのチョコレートに手を伸ばした。本当ならツォンは、真夜中に押し掛けてきていきなりチョコレートを食べろという理由を聞きたかったのだが、今日の彼女はツォンが口をはさむ余地を与えず、いろいろな手続きを巧妙に省いていた。ツォンがそれを許してしまったのは、この展開に狼狽しつつも、ほんの少しの期待で舞い上がっていたのかもしれない。
つまんでみると、チョコレートは手のひらで簡単に溶けてしまいそうなほど柔らかいものだった。ツォンはココアパウダーが床に落ちるのを気にしながら恐る恐るそのチョコレートを口の中に放り込んだ。
チョコレートは簡単に口の中で溶けて、カカオの苦みと甘さが口内に広がっていく。甘いものが苦手なツォンにとって、その甘さは真夜中の眠気を覚ますほどの刺激的な糖分に思えた。
「……甘い」
思わずそう口にすると、「あ、やっぱり?」とエアリスがこの世の終わりを知った予言者のごとく悲壮な表情をした。
「やっぱり! ちょっと甘いのかなって、思ったんだけど、でも、甘さを控えめにすると苦くなっちゃうから、すごくね、迷ったんだけど。やっぱり甘いよね」
「いや……、別にそういう意味で言ったんじゃない。味は……美味しかった」
大げさなほどに嘆いてみせるエアリスに、ツォンは宥めにかかった。
「だけど、食べてすぐ、甘いって、思ったんでしょう? 男の人の率直な意見で言うと、やっぱり甘いってこと、だよね?」
エアリスはそう言って、ツォンと同じようにしてタッパーウェアーの中身を口の中に放り込むと、「やっぱりだめかなあ」と小さくつぶやいていた。
「……エアリス」
一人盛り上がっているところを申し訳ないが、とツォンが声をかけた。
「なに?」
「一体、おれは何を食わされたんだ?」
ツォンがそう尋ねると、エアリスが「え」と言いながらこちらを見た。何をいまさらと言いたげな表情だった。甘い香りはまだ室内をよそよそしい顔で漂っていて、ツォンはまるで自分の部屋ではないような気がした。
「だからね、チョコレート。バレンタインの」
「え?」
「あれ、いってなかった? それね、わたし、作ったの」
しばらくの沈黙の後、ツォンが息を吐いた。
こんな風にして、以前もエアリスは自宅に来た時のことをツォンはぼんやりと思いだしていた。そうだ、彼女に騙されてはいけない、期待してはいけない。
「……おれはその、毒味役というわけか」
「ちがいます。味見で、試食」
かわいらしくむくれて、人聞きの悪いと付け加えながらそう訂正するエアリスに、ツォンはやれやれと立ち上がった。毒味だろうが試食だろうが、彼女の真夜中の訪問の意図するものに、何ら変わりはないのだ。つまり、ツォンは今、他の男の口に入るだろうチョコレートの味を見ているのだから。
ツォンの口内に残る甘さとカカオの苦みは何故か分離して、何とも言えない後味が広がっていた。早くコーヒーが飲みたい、そんな気持ちでツォンは台所へと向かった。カカオ豆とコーヒー豆が違う植物で本当によかったと何故かツォンはこの時思っていた。
電気ポットのスイッチを入れてお湯が湧くのを待つあいだ、ツォンはカップを二つ、用意した。
ツォンはリビングとキッチンの境に立ったまま、彼女の隣へ座ろうとはせず、この真夜中の訪問者に冷やかな視線を向けていた。
「本人にでもない男に、味見させたって意味はないだろう」
「そうだけど」
「それに、チョコレートひとつで、相手の、君への評価が変わるわけでもない」
「……だって、わたし、その人にとって一番じゃないかもしれないだもの。その人ね、けっこう、いろいろな女の人に、声、掛けたり、遊んでたりするみたいだし。だから、バレンタインには、今、わたしができる最高のものを、形にしたいなって思ったの」
お湯が湧いたことを知らせる電子音に、ツォンはそのままキッチンへと戻った。そうして、コーヒーを二人分作り、リビングへと戻る。
エアリスの真向かいに座り、ツォンは一口、コーヒーをすすった。馴染んだコーヒーの苦みに口内が洗われて、ようやく平静を取り戻したような気がした。
エアリスはマグカップを手のひらに包み込むだけで、コーヒーを口にしようとはしなかった。彼女があまりコーヒーを好まないのは知っているが、紅茶葉はこの家にはないので、客にはコーヒーを出すしかなかったのだ。
「けっこう、むずかしいの、片思いの場合」
神妙な顔つきでエアリスがそう言うと、ツォンは実感を込めたもっともらしい顔で頷いて「そうだろうな」とさり気なくつぶやいた。
「どういうふうに、気持ち、伝えたらいいかわからないし」
甘い香りはすっかり部屋に沈澱している。ツォンは壁に掛けられた時計を見た。日付は十四日になり、すっかり終電はなくなっている。これからどうするつもりなのか、どうすればいいのか。
ツォンはため息の代わりに、空気を飲み込んだ。
「……好きだよ」
空気が変わったような気がした。
エアリスが「え?」と言って顔をあげた。そうしてツォンを見た。何を言われているのか分からないといった表情に、ツォンは息を吐いた。
「……だから、好きだって、伝えたらいいんじゃないか? シンプルに」
「ああ、そう。そうね。……でも、言葉と一緒に、チョコレート、必要だと思うの、ね?」
ツォンはコーヒーを飲みほした。先ほど放った「好き」という言葉は、ツォンのさり気ない軌道修正により、恋とは違った軌跡を描いて消えていった。
「そうだな」
「ねえ、やっぱり、甘かった?」
「そうだな、甘いな」
「今から、作り直していい? そのためにね、道具、持ってきたの」
エアリスはにっこりと笑うと、膨れたトートバッグから、ごちゃごちゃとした調理道具を並べ始めた。
「台所、使わせてね?」
彼女の疑問形には、こちらの拒否権を奪うような強引な響きがあった。
最後の砦だったこのエアリスの大荷物の正体が暴かれた。ここに泊るというつもりは、毛頭ない様子だ。
やれやれといった風を装いながらツォンは立ち上がった。
「仕方がないな。それに、いつまでもこうして居座られても迷惑だ」
エアリスはごめんなさいと言ってうつむいた。
「……たくさん、練習しても味見しても不安だったから、おもわず来ちゃったの。ツォンなら許してくれるかなって、思ったから」
エアリスはいつだって、空気を読まずに自分の懐に転がり込んでくる。それなのに、彼女の醸し出すイノセントさに、どうしようもなくやられているのだ。
他の人を好きになってみたい、とツォンはなぜだか思った。
けれどもそんなことは当分、出来そうもなかった。
隣でエアリスは、無邪気な表情でチョコレートを刻んでいる。
ツォンは、忘れ去られたタッパーウェアーから、さきほどの、義理以下であろう毒味用チョコレートを一つつまんで、口に入れた。やはり甘い。甘くて口の中であっという間に溶けていく。けれども、ツォンは何故か、それをコーヒーで洗い流すことしたくないと思った。
この甘さが、必死に幸せを引き寄せようとしている寂しさを癒してくれないかと、期待していたのかもしれない。
説明 | ||
初投稿です。FFオンリーで配布したツォン×エアリスなバレンタイン小説です。 | ||
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エアリス ツォン ツォンエア FF7 | ||
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