魔女想い、君恋し
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 自分の始まりを憶えているだろうか。

 自分が生まれ落ちた瞬間、というわけでは当然ない。自分が自分だという認識した、自意識の確立の話でもない。

 そもそもの話、私は自分が生まれた瞬間の記憶なんて持っていないし、自分という個体を自我が認識した記憶すら曖昧だ。何万、何億分の一という人材、言うなれば天才と言われる存在の中にはかなり幼い時からの記憶を擁している人が多いらしいけれど、その事を鑑みるに悔しいけれど私は凡人の域を出ないのだろう。

 案外霊夢のような天才肌の人種は、母親の腹にいた時の記憶さえも持ち合わしているのかもしれない。あの見栄っ張りの吸血鬼はきっと「私には生まれいずる以前の記憶すらあるわ」と嘯くのだろう。真祖の吸血鬼がどうやって生誕するのかは、正直寡聞にして知らないが。

 そういうことではないのだ。

 強いていえば、自分が自分であるための最初に記憶。

 自己確立。

 同一性。

 アイデンティティー。

 自分を自分たらしめたエピソード。

 博麗霊夢が博麗霊夢であるように、

 レミリア・スカーレットがレミリア・スカーレットであるように、

 私が私であるための一番始まりの記憶。

 今でもしっかりと思い出せる――いや、それは結局記憶保管のため若干の欠落や現実との齟齬がある美化された思い出なのかもしれないけれど。

 それでも忘れてはいない。

 けして。

 とんとんと扉を叩けば、自ずと向こうからドアノブが回って開くような、それほど記憶を辿るのも容易い、何かの拍子にぱっと思い出せるほどそれは私の根幹を占める。

 ずっとずっと昔。

 実際はそれほど昔の話ではないけれど、それほど長く生きていない私にとってやはり数十年以上前は遠い昔だ。

 その頃の私はまだ親から勘当されてもいなく、それこそただの凡庸な道具屋の娘だった。

 非常識が常識であるこの幻想郷でさらに浮いてしまいそうな平凡さを嫌っていた、わけではないと思う。後に家を飛び出した私がこんなことを言うのも言い訳がましいのだけれど、自分の境遇を嘆いたことはなかったし、特に悲観する理由もなかった。道具屋という家業は蒐集癖のある私には肌に合っていると思ったし、いつかその家業を継ぐことにげんなりはしたものの、それが家出の後押しとなったとは今でも思わない。

 ただ、少しだけ刺激が欲しかった。

 こんな幻想郷だからこそ。

 だからこそ、私は真新しい物がある香霖堂によく足を運んでいた。もっとも、香霖がいるだけで私がそこに足を運ぶ理由にはなっただろうし、結局のところ香霖堂は私にとって体のいい遊び場所だっただけなのだけれど。

 多くの時間をそこで過ごした。

 珍しいマジックアイテムを見せてもらったり、物陰に隠れて霖之助を困らせたり、

 外の世界の童話を読んで貰ったり。

「ねえ、香霖」

 その時呼んで貰った本の名前は、残念ながら憶えていない。自分の娘の美しさに嫉妬した魔女とその娘のお姫様、七人の小人と王子様が出てくる内容で、最終的には魔女は死に王子と姫が幸せに暮らすという物語。

 しっかりと思い出せると宣っておいてなんていい加減なと我ながら思うけれど、題目なんて私にとって取るに足りない事柄だったし、そして何よりそのタイトルはお姫様の名前から取られていたものだったから。

 私が興味を持った魔女ではなく、お姫様の。

「どうして、魔女は悪いことばかりするの?」

 見上げると、彼の顔が柔和な笑みを作る。

「そうかなぁ、僕には別に悪いことをしているようには思えないけど」

「だって、お姫様に毒リンゴ食わせたり、呪いかけたりしてるじゃないか」

「顕在的な物語と彼女の感情をなぞるのであれば、それは嫉妬、私欲私怨、確かにそれは明確な悪だ。でも、僕はむしろ魔女は善人だったんじゃないかなと思うよ。考えてもみてごらん。この話に限らず他の物語にせよ、彼女たち――ここは便宜的に悪と呼ぶけれど、彼女たち悪≠ェいなければお姫様は幸せにすらなれなかったんだ。いや、そうか、ここで幸せという概念について僕の所見を述べるのならば――」

 正直、彼が何を言っているのかちんぷんかんぷんだった。この出来事から十数年経った今でも霖之助が語る小難しい話は多少要領の得ない所があるというのに、この頃の私に理解を求めるというのも難儀な話だ。というか、霖之助も年端もいかない少女に難解な持論を繰り出さないで欲しい。

 疑問符を頭の上で浮かべている私に、香霖は小さく笑った。

「魔女もね、お姫様のことが好きだったんだ。だから自分がたとえ犠牲になっても、たとえ悪者になっても、」

 幸せになって欲しかったんだよ、と香霖は言った。

「そうかな」

「きっとね」

 広げている本に視線を落とす私の髪を彼はそっと撫でてくれる。

「魔女もね、物語において重要な登場人物なのさ」

「ジューヨー?」

「特別って意味さ」

「トクベツ!」

 その言葉に私は今まで腰掛けていた霖之助の膝から飛び降りる。

 その意味は感覚的に知っていた。

 平凡でないこと。

 凡庸でないこと。

 今ならそう言葉で表すことができるけれど、当時の私にとってそれはただの憧れの対象を縁取る言葉でしかない。

 それで充分だった。

 空を飛べる妖怪たちを羨ましく思ったように。

 その血を半分でも受け継いでいる、森近霖之助という人物に興味を持ったように。

 その言葉を魅入られた。

「香霖、私――」

 スカートを翻しながら、くるりと一回転、香霖に向き直る。

 私は自分の平凡さを呪ったことはない。嘆くこともなかったし、その必要もなかったと今でも確信がある。

 だって、だからこそ私はこんなにもトクベツでありたいと願ったのだから。

「私、魔女になる!」

 

 それが始まり。

 私が私であるための、最初の出来事。

 霧雨魔理沙が魔女を目指した始まりだ。

 

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「39℃」

 永琳は霊夢の口から体温計を取ると、ぽつりと目盛りの数字を読み上げた。手元に置いてある救急箱に体温計を仕舞い、カルテに霊夢の状態を書き込んでいく。

 カルテに視線を押したまま、永琳は口を開く。

「……まあ、風邪ね」

 その言葉を聞いた魔理沙はほっと胸を撫で下ろした。

「なんだただの風邪か。心配して損したぜ」

 うー、と布団の中の霊夢が唸った。風邪にかかりやすい季節の移り変わりとはいえ、彼女にとっては病気を患うこと自体が羞恥の出来事なのかもしれない。思えば彼女とは随分長い付き合いだけれど、こんな風に人に弱みを見せること自体魔理沙にとって真新しい一面のようにも思えた。

 不謹慎かもしれないけれど、今の霊夢がとても可愛らしく思えて思わずクスッと笑ってしまう。

「なによ」

「別に」

 憮然と睨んでくる霊夢に素っ気なく答えながら、彼女の額に置いてある濡れタオルを取り替える。

 はあ、と霊夢が聞こえよがしにため息ひとつ。

「私は魔理沙のキノコにあたったのかと思ったわよ」

「ああ、やっぱあれ椎茸じゃなくて月夜茸だったかな」

「おもくそ有毒じゃないの!」

 叫んで息が詰まったのか、霊夢はゲホゲホと咳き込んだ。

 さすがに何年もキノコの採集をしているから毒キノコかどうかの目利きはさすがにつくけれど。案外有害な素材のほうがいい魔法の材料になったりするものだ。それに、人間の肉体にとってそれは確かに有害なのだけれど、味は毒があるそれのほうが美味なんだとか。

 ……霊夢のところに持って来てしまったら、有毒だとわかっていても口にしてしまいそうで冗談でも彼女にはあげないようにしている。

「まあ、ただの風邪だってわかったし、もういいわ」

 呼吸を整えると、それ以上追求する元気もないのか、霊夢は再び身体を倒してしまった。布団を深く覆い被り、しっしっ、と二人を追い払うように手を振る。

 まったく、つきっきりで看病してやったのににべもない。

 やれやれという風に肩を竦めて、魔理沙は帽子を深く被る。

「じゃあ、私はお暇するとするぜ」

 と――。

「魔理沙」

 襖を開けて出て行こうとしたところを、霊夢が引き留める。

「その……」少しだけ言い淀んで「……ありがと」

 布団からほんの少しだけ顔を出して、こちらを一瞥すらせずにお礼を言う霊夢の姿。

 やっぱりそれがなんだか可愛らしくて、ああ、と魔理沙は半分だけ振り向いて笑って答えた。

「永琳も」

「然るべき代金はもらうけどね」

 むぅ、と小さく非難の声を上げる霊夢を背中に二人は部屋を出る。

 縁側から見上げた空は雲ひとつない。空気が澄んでいるのか、のんびりと空を滑る星がよく見える。

そういえば小さい頃、霊夢と香霖と三人でよく星を眺めたっけ。

 香霖の知識を見せびらかすような口調。それを横目に霊夢とお茶を淹れていたことをふと思い出した。

 ほう、と息を吐くとほんの微かに白く凍る。まだ厚着はしなくても過ごせるにせよ、大気は着々と冬の寒さを孕み始めていた。

「さて、私は帰って寝るとするぜ」

 くたくたではないにせよ、付きっきりの看病で疲れているのは確かだ。

 早く帰って惰眠を貪りたい。

「疲れているとこ悪いけど、頼みたいものがあるのよ」

 トーンの変化が感じられない義務的な口調で永琳は紙切れを差し出してきた。

「それに描いてある材料を取って来て欲しい」

 出来るだけ早く、と添えられる。

「あー、まあ寝て起きてからなら……」

 ふあぁ、と眠気が欠伸から音を立てる。

「期限は弥明後日の晩まで」

「そりゃ、随分とまた急ぎだな」

 微睡んだ目で紙片に踊る几帳面な永琳の文字を見る。ありふれた材料ならそうそう切羽詰まった時間設定ではないのだけれど、見るとどれも希覯なものばかりだ。とてもじゃないけれど、期限までの採集はできそうにない。やるつもりもないけれど。

 また思いがけず欠伸が出る。

 だめだ、なんか一度眠いと思ってしまったらどんどん睡魔が襲ってきた。

 噛み殺すこともままならず、大口を開けたまま魔理沙は唸り、

 

「――恐らくそれ以上だと、霊夢の身体が保たない」

 

 永琳の冷たい声が睡魔を殺した。

「は?」

 そんな素っ頓狂な声しか上げられず、魔理沙は永琳を振り返る。

 毅然とした表情が、玲瓏たる視線が、魔理沙を見据える――こちらが目を背けたくなるほどの険相で。

「だって、ただの風邪じゃ……」

 ハッと魔理沙はその可能性に勘付いて、渡された紙にもう一度視線を落とす。

 そして、もう一度永琳の顔へ。その可能性について口を開こうとして、何度も声を発しようとするのだけれど、うまく言葉が出ない。出そうとしても喉の辺りでつっかえてしまう。

 まるで真綿を呑み込んでしまったような。

 怖い。

 その言葉を口にしてしまうことが、怖い。

 言葉にしてしまえば、その事象が確定してしまいそうな気がして。

 息ができない。

 とくんと、不気味に、魔理沙は自分の心臓が跳ねる音を聞いた気がした。

 渡された紙にもう一度目を落とす。

 わかったことは、先ほどの貴重な品ばかりだということと加えて、もうひとつ。

 ――少なくとも風邪薬を作るものなんかじゃない。

「風邪じゃ、ないんだな……?」

 どうにかそれだけを絞り出す。

 ほんの数秒の出来事なのに、すっかり喉の潤いは失せ、乾きが言葉を掠らせる。

「できるだけ早くね。じゃないと、」

 機械のように永琳が平然と言葉を紡ぐ。吐き出した言葉が凛と白く凍り付いて、夜の静寂に溶けていく。

 そして、彼女は悠然と、

 けれど、ひどく冷酷に、

 その可能性を事実にまで引き上げる言葉を告げる。

 

「あの子――死ぬわよ」

 

「――――ッ」

 その言葉が終わるや否や、魔理沙は縁側を踏み切っていた。その身が重力に引き寄せられる前に、持っていた箒にまたがって飛行を開始。星の瞬きと一緒に夜を滑る。

 そうせずにはいられなかった。

 弥明後日まで。

 それ以上だと、霊夢が……。

 ぐしゃりと永琳から渡された紙片を握り潰す。

『……ありがと』

 霊夢の言葉を思い出して、魔理沙は唇を噛んだ。

 

      *

 

「これでよかったのかしら」

 一人残された永琳は、魔理沙の背中を見送り、その方向を見上げたまま独りごちるように言葉を零す。

「霊夢をだしにして」

「魔理沙にはいい薬さ」

 闇の中で、黒い影が蠢く。それに、と影が言葉を続けた。

「己の無知に気付くには……安い代償だろ?」

 面妖な笑いの色を含んだ声が、夜の空気に溶けて消えた。

 

      *

 

「あった、ブクリョウ」

 地面から目的のキノコを掘り出す。急いで、けれどけして傷つけないように。泥だらけになった手先を拭きもせず、手の甲で汗を拭い、永琳から渡されたくしゃくしゃの紙片を確認する。

 材料はほぼ集め終えた。

 もの珍しいものばかりだったけれど、大体が一度魔法の実験や本で目にしたものだったからある程度採取できる検討は付いていた。名前も聞いたことのないものは香霖堂の店主の知識を借りることになった。こんな時間だから、店を開いてくれと門戸を叩いたらぶうたれていたけれど。

 すでに東の空が夕暮れに染まりつつある。博麗神社から飛び出して、すでに一日が経過しつつあるのだ。太陽を追いやるように、夜のとばりが空を覆い始めていた。

 その目に見える時間経過が、魔理沙の焦燥感を募らせる。

 こうしている間にも、刻一刻と霊夢の命が削れているのだと考えると気が気ではなかった。

 紙片のブクリョウの文字に斜線を入れる。

 残す材料は最後の一個。

 一番下に踊るその文字に、思わず歯ぎしりをする。

 別に下にいけばいくほど入手困難な材料という訳ではない。けれど、恐らくこれを最後にしたのは意図的な物だろう。

 ――優曇華の花、と紙にはそう書いてあった。

「鈴仙の鼻とか、そんなオチはないよな」

 まだ冗談を吐く余裕があることに、魔理沙は内心驚く。

 ――もしかしたら、それはただの現実逃避で霊夢が死ぬという事実を認められていないだけなのかもしれないけれど。

 くそ、と誰にともなく悪態をついて項垂れる。疲労で身体が棒のようだという言い回しがあるけれど、なかなか言い得て妙だとそんなことを焦燥の中無理やり考えて、どうにかやり場のない感情に折り合いを付ける。

 深呼吸ひとつ。

 落ち着け落ち着け落ち着け――焦っても何の意味もない。

 肺を巡る冷たい空気が、なんとか頭を冷静に保つ。

 優曇華の花。

 バショウの花の別称と、地上では幻とされる花の名前。

 そして、恐らくもうひとつ。

 永琳に聞いたことがある、輝夜には一度その盆栽を見せてもらったことがあった。

 月にしか存在せず、けれど月ではけして育たない花。

 恐らくバショウの花に薬としての効力はない。幻とされる花が特効薬の材料になり得るかは定かではないが、そもそも幻とされているのだからそれを薬の材料として使うのもおかしな話である。

 だとしたら――

「あるとしたら、少なくとも竹林……永遠亭か」

 すぐさま魔理沙は疲れ切った身体に鞭を打ち、妖怪兎たちが住まう竹林へと箒を向けた。

 

 

「はあ」

 もう何回目ともつかぬ嘆息と共に、中天を見上げる。竹の木々の間から、相変わらず月が魔理沙の気持ちとは裏腹にゆっくりと空を滑っていた。もうずいぶんと高い位置にある。そろそろ日付が変わった頃だろう。

 どこかで鳥の鳴き声が聞こえる。妖怪雀が歌っているのだろうか。

「くそ、案内人でもつければよかったかな。迷った」

 苛立つのを押さえながら帽子のつばをいじる。

 どちらから来たのか、どちらに行けばいいのか、前後左右同じような風景が広がっている。

 迷いの竹林。

 そういえば、ここはそんな風に呼ばれていた。

 人を道に迷わすのは妖精の仕業なのだけれど、今彼らの弾幕ごっこに付き合っている暇がなかった。弾幕尻目に突っ切ってきてしまったのが裏目に出るとは……。こんなことなら全部ぶっ飛ばしてくればよかった。

 いつも、いつもそう。

 何かを完遂しようと必死になるあまり、何かをし損じる。

 霊夢には異変を先に解決されるし、

 アリスやパチュリーたちの魔法論についていつも置いてけぼり。

 気丈には振る舞うけれど、結局私はただの魔法使いで、その事実を突きつけられる度、劣等感に苛まれる。

 私は特別にはなれないんだって。

 いつだって、そう。

 

 このまま霊夢がいなくなってしまったら、どうなるんだろう。

 

 ふとそんなことを思う。

 博麗の巫女がいなくなる。

 幻想郷のバランスは崩れるだろう。いや、幻想郷そのものがなくなってしまうんじゃないだろうか。今や博麗の巫女は博麗大結界を保守する大事なファクターだ。それがいなくなってしまったのなら、今この瞬間を形作る周りの世界だって危ぶまれるのかもしれない。

 私は、変わるだろうか。

 霊夢がいなくなって、私は変わるだろうか。

 もし、もしもだ。

 霊夢がいなくなって、それでも幻想郷は今まで通り存在して、

 自分より優秀な彼女がいなくなったら、私は変わるだろうか。

 ――箒の柄を強く掴み、魔理沙は飛行するスピードを上げる。

 かぶりを振って、その疑念を打ち払った。

 そんなことを考えている暇もないし、きっと意味もない。

 たぶん、彼女がいなくなったら得るものも多いだろう。

 異変を解決出来る特別性。

 数少ない妖怪退治屋の優越感。

 それこそ、今霊夢に寄せられている人望がまるごとそのまま自分に集まるかもしれない。

 でも、きっと、失うものも少なくない。

 よくわからないけれど――ううん、輪郭が掴みようのない、ふわふわした感情だからこそ、大事なもの。

 私の根底にあるもの。

 きっと、それを失ってしまう気がする。

 もしかしたらそれは、人を害してまで利己を追求してはいけないくだらない道徳心、倫理観、ちっぽけな矜恃とかそんなものなのかもしれないけれど。

 きっと、なくしたら霧雨魔理沙が霧雨魔理沙でなくなってしまうものだと思うから。

 そして何より私自身、けしてすべてが仲睦まじい親友との思い出とはいかないものだったけれど、それを過去のものにしたくないのだ。

 だから、私は助けなければいけない。

 霧雨魔理沙は博麗霊夢を助けなければいかない。

 それはきっと、私が私であるために――。

 と。

「見つけたー!!」

 聞き覚えがあるような声がした。

 こんな時間に、自分以外に物好きがいたものだ。けれど、丁度よかったかもしれない。一人っきりで五里霧中のこの状態にも、僅かながら好転の兆しが見えた。魔理沙は声のした方向へと向かう。

「本当にあったわね、それにつぼみも開きかけてる」

 木々の隙間から恐る恐る声の発生源を見やると、ぴょんと二つの長い耳を立てている妖怪兎の姿。

 鈴仙がしゃがみ込みながら、感極まった様子で植物を眺めていた。

 気怠げに寄り添っていたてゐが言う。

「まあ、優曇華の花は何度か地上に送られてきてるしね。姫様の盆栽以外に存在してもおかしくはない――」

「優曇華の花だって!?」

 思わず叫んでしまっていた。

「……びっくりした、魔理沙じゃない」

 なるべく様子を窺おうと思って身を隠していたのだけれど、見つかってしまってからではどうしようもないので魔理沙はつかつかと二人に歩み寄り、少し距離をあけて対峙する。

「本当に優曇華の花なのか?」

訝しげに鈴仙の横に生えている花を見遣る。以前輝夜に見せて貰った盆栽に、確かに似てはいる。

「どうしてこんなところに……」

「だから、何度も地上に持ち込まれてるんだって」

 てゐがこれ見よがしに肩を竦めてため息を付くが、どうやら説明してくれるようだ。

「優曇華の花は地上の穢れで生長する。花を咲かせるってことは、当然実を付ける。繁殖もする――もっとも、絶対数が少ないから結局受粉することできなくて、枯れ果ててしまうことがほとんどだろうけど。これが地上で育ったのか、それとも持ち込まれたものがそのまま残っていたのかはわからない」

「じゃあ、これは何故枯れてないんだよ」

 憮然として魔理沙が訊ね、

「ここは姫様の能力の影響下だったからね」

 てゐが間髪入れず答える。

「優曇華の花は穢れがないと成長もしないし、枯れ落ちもしない。だから、こうして残ってるわけだし――だから、こうしていい案配に育っているというわけさ」

 すべての説明を聞き終えて、そうか、と魔理沙はそれだけを零す。正直理屈などどうでもいい――それが本物だというさえわかれば。

 魔理沙は八卦炉を宙に投げ、

「その優曇華の花、私が貰う」

 パシンとつかみ取り、目の前の二人に突きつける。

「なっ」

鈴仙が顔色を変え、自分と同じ名前を持つ花をかばうように両手を広げる。てゐはというと、相方とは打って変わって相変わらず気怠げな瞳で――否、少しだけその目が奸計を思いついたように悦楽に歪んだように魔理沙には見えた。

「だめよ、私たちも必要なんだから!」

 とりえあず話し合いを、と和解を図る鈴仙をてゐが手で制し、

「六枚!」

「へっ!?」

 スペルカードの提示、すなわち弾幕ごっこの開始の合図を告げる。

 それは博麗の巫女である霊夢が制定した、この幻想郷での絶対のルール。

 魔理沙ももとよりそのつもり。けれど、いつものように弾幕ごっこを悠長に楽しんでいるような時間はない。

 霊夢には、時間がない。

「――一枚だ」

 そう啖呵を切って、魔理沙は八卦炉の標準を立ちふさがる二人に合わせる。血の気が引いたように真っ青な鈴仙の顔。

 ――キシッ、と頭の奥で何かが軋むようなそんな音がした気がする。まるで噛み合わない歯車を回し続けているような、そんな不協和音にも似た違和感が思考の奥底で呱々の声を上げる。

 でも、迷っている暇なんてない。

 ギュッ、と八卦炉を掴む手に力を込めた。

 私が霊夢を助けないと。

 その言葉の熱に、疑問が焦げて消える。

 私が。

 私が霊夢を。

 私が……。

 ワタシガ!

 そして、魔理沙は、

「恋符――」

「っ! ちょっと魔理沙、そんな魔法――」

 鈴仙の制止も聞かずに、そのスペカを突きつける。

 

「マスタァァァァァァァ、スパァァァク!!」

 

「ちょ――」

 鈴仙はてゐを抱えての横っ飛びで、魔理沙の攻撃の軌道線上から決死の緊急回避。

「――――ッ」

 血の気が引いたのは魔理沙の方。

 ――キシッ、と。

 ようやく後ろ髪を引いた違和感の正体が、明確な輪郭を形作る。

 頭の芯の熱で溶かされて、見落としてしまったバカみたいに簡潔なその事実。

 鈴仙たちの後ろには何があった?

 彼女たちが立ちふさがったのは――優曇華の花を守るためじゃなかったのか?

 持っていた箒を放り投げて、慌てて魔理沙は自らが放った魔法の直撃を受けた優曇華に駆け寄る。

「花が……」

 思わず息を呑んだ。

 枯れていた。

 枯れてしまっていた。

 幹は折れ曲がり蕾は萎れ、優曇華の木は枯れてしまっていた。

「なんでしっかり守ってないんだよ!」

「無茶言わないでよ!」

 自分でもわかるぐらいに無責任な言葉に、鈴仙が涙目で抗議の声を上げた。

 くそっ、と魔理沙は舌打ちひとつ。自分の愚かさに怒りを通り越して泣いてしまいそうな自己嫌悪を噛み殺して、鈴仙を睨むことによってどうにか涙を堪える。確かに自分の軽率な行動で招いてしまった痛恨事だけれど、悔いている時間はもはやない。

 さながら道具屋にナイフ一本で押し入るちんけな強盗のように、魔理沙は八卦炉を再び鈴仙に突きつける。

「こうなったら輝夜の盆栽を……」

 鈴仙は、けれど首を横に振りながら肩を落としていた。

「無駄よ、まだ蕾すらついていないもの。だからお師匠様が探してこいって」

「師匠って……お前らも永琳に言われて!?」

「『も』ってことは、魔理沙も?」一瞬きょとんとした鈴仙は次の瞬間ああもう、と頭を抱えて「これじゃ、本末転倒じゃない」

 魔理沙はぼんやりとそれを聞いていた。憮然とそこにしゃがみ込んでいる鈴仙を、まるで他人事のように見つめる。ぽとりと脱力した手から抜け落ちた八卦炉が地面を叩く。その音がひどく遠くのように感じた。

 すべてが遠ざかっていくような感じがした。

 鈴仙が並べる不平も、風が竹林をざわめかせるその声も、なにもかも。

 ここではどこかで起こっている現象なのだと思えるほど、遠くに。

 わかっている。

 そう思いたいだけなんだってこと。

 私は何を気負っていたのだろう。

 自分の浅はかな思慮に熱くなった頭はすでに冷めて、ただ冷静な思考だけが鋭利な言葉を吐き出し続ける。

 考えてみれば当然のことじゃないか。

 ポケットから永琳に貰った紙切れを取り出す。続いて袋に詰めていた今まで集めた材料を見ようとして、八卦炉と同じように力の入らない手がそれを取りこぼす。まるで自分の身体じゃないみたいに。

 ばらまかれる材料。

 霊夢を救うための糧。

 確かにそれを集めてきたのは私だけれど……。

 別に私が霊夢を救わなくたっていいんじゃないか。

 

 ――私一人が霊夢を救わなくたっていいんじゃないか!

 

 どうして気づけなかったのだろう。

 自分が、霧雨魔理沙が霊夢を救わなければと躍起になって、冷静な判断が必要だと、冷静になれと散々自分に言い聞かせて、それでも全然冷静ではいられなかった。

 そうだ、冷静に鑑みれば、鈴仙たちが私欲で動くなんてこと滅多にないことぐらい気づけただろうに。

 私は、救えない?

 音がする。

 私は、

 霧雨魔理沙は、

 博麗霊夢を救えない?

「私のせいだ……」

 口をついて零れ落ちた言葉が、魔理沙を現実へと引き戻す。

 ざっ、気付けばその現状から逃げ出すように身体が一歩後ろへと後ずさる。吐き気がした。下らない正義感に、幼稚な責任感に吐き気がした。

 いつだってそう。

 幼びた思慮に目先を囚われて、大切な分水嶺を見誤る。

 元には戻れない、もう。

  ――キシッと。

 歯車が軋む音。

 軋んで軋んで――――大切な何かが壊れて消える。

 壊れた歯車はもう回らない。

 オ前ノセイダ。

 頭の中で誰かが叫ぶ。

「私のせいで霊夢が……」

 霊夢が死ぬ。

 でも、霊夢が死ぬのは病気のせいじゃない。

 特効薬を作り出せない永琳のせいじゃない。

 オマエガ、

 私が、

 

 ――――霊夢ヲ殺シタ?

 

「いやだ」

 その言葉がまるで、責任逃れをする子供のよう。

「……魔理沙?」

 今までぐちぐちと不平を並べていた鈴仙が魔理沙の様子に気付いて、不思議そうに見上げてくる。

 そんな視線さえ、自分を咎めているように思えた。

「いやだ!」

 魔理沙は再び、空を翔る。

 涙が目の前の景色を歪ませる。迷いの竹林のように、まるで魔理沙の行く手を阻むように。

 それでも、諦めるわけにはいかない。

 まだ、諦めるわけにはいかないんだ。

 

       *

 

「行っちゃった」

 ぽかんと鈴仙は魔理沙の小さくなっていく背中を見送った。彼女の軌跡を辿るように、幻想郷の空には星々が夜のとばりに張り付いている。

 ひどく狼狽しているようだったけれど、まあ無理もないかもしれない。

 鈴仙はふと地面に落ちている袋を気付き、それを拾い上げる。どうやら魔理沙が落としていってしまったらしい。中には確かに永琳に頼まれた物珍しい材料の数々。

 けれど、それももう必要ないかもしれない。

 優曇華の花は枯れてしまった。これでは霊夢を救う特効薬は作れない。代わりの手立てがあればいいのだけれど、さすがにこれだけの材料を必要としたのだから、別の方法があったとしても今より難度は遙かに高いものだろう。

お師匠様が面倒な方法から先にやらせるなんて――まあ、あるかもしれないけど。

それでも、もうタイムリミット残ってない。

「――って、ああ! 私たちもそんな場合じゃなかった! ああどうしようお師匠様に叱られる」

 うずくまりながら頭を抱える鈴仙に、

「そうでもないかもよ」

 てゐがすべてを見透かしたような口調で言う。

 え、と釈然としない鈴仙も、すぐにその異変に気付いた。

「花が……っ!」

 

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「そんなものあるはずがないだろう」

 香霖堂の店主は、大きな欠伸を隠そうともせず、聞こえよがしに不機嫌な声色を響かせる。こんな夜中に店の門戸を壊れるほど――形容ではない――ノックしたのだからその仏頂面に文句を言える立場ではないのだけれど、でも、今は緊急事態なのだから許して欲しい。

「別に優曇華の花じゃなくてもいいんだ、それの代わりになるものでも」

 そうは言われてもねぇ、と霖之助は棚から読む書物を選んでいる。その悠然とした態度に魔理沙は苛つくけれど、これ以上私情で事を損じるわけにはいかないとぐっと堪えた。

「なんなら万病薬とかでもいいんだ、霊夢の病気さえ治せるなら」

「あのねぇ、魔理沙」本を数冊抜き取り、霖之助は椅子に深く腰掛けながら「薬は言ってしまえば科学の産物、外の世界の分野だよ。確かに書物には古くから万病薬の存在がほのめかされているけれど、結局あれは科学者の理想の対象なんだ。残念ながら、発展した外の技術力でもそれにはたどり着けてない。まあ、月の薬師の技術は別としてね。それなのに未だ外界に存在し得ないものが、ここに存在し得るはずがないだろう」

 霖之助はお得意の薀蓄を飄々と披露し、パラパラと本を捲り始める。

「万病薬なんてものが幻想入りするとすれば、それが発明された時じゃなくて外界に病気という概念がなくなった時さ」

「ご託はいいんだよっ」

 ダンッ! と魔理沙が痺れを切らしてカウンターを叩く。感情をむき出しにしている場合じゃないとわかっているはずなのに、焦燥が堰を切らせ感情をうまく制御できない。

「早く別の手を見つけないと霊夢がっ」

 声が自然と上擦る。叩きつけた右手がじんじんと痛んだ。零れる涙は、その痛みのせいじゃないけれど。

 俯きながらどうにか言葉を絞り出す。

「幻想郷だってこのままじゃ――」

「消えないよ」

 ただ一言。

 霖之助は口調を変えることなく、いつものように無駄な知識を高説するような調子で、それだけを言い放つ。

「紫がまた代わりを見つけるさ」

 何を言われたのか、一瞬わからなかった。

 思考が止まる。脳が突きつけられた言葉を理解出来ない。いや、理解しようとしてくれない。

「疑問に思わなかったのかい? 何故霊夢の親族が悉く幻想郷にいないのか」

 眼鏡の位置を直しながら、ようやく霖之助は魔理沙を見据えた。

 いつもと同じ口調、それでもそこに明確な真剣味を乗せて。

「博麗の巫女というのはね、外の世界で神隠しにあった人物なんだよ。その能力があるものを紫がさらってくるんだ」

「……だったら、なんだって言うんだよっ」

「疑問に思わなかったのかい?」

 霖之助が言葉を重ねる。少しだけ、彼が吐くその温度が下がった気がした。

「自身の存在で結界が完結する紫が、どうしてわざわざ人間にその権限を譲っているのか」

 博麗大結界と呼ばれる、百数年前に形成された結界。

 確かに博麗の巫女、現在でいう霊夢の存在はその結界の重要なファクターだ。でも、彼女はそれを管理しているだけであって、その実大結界が成り立っている最大の要因は世界を分け隔てるという強力な境界の能力を保有した妖怪、八雲紫の存在である。

 その彼女が何故、人間である霊夢に管理権を与えているのか。

 嫌な、予感がした。

「言ってしまえば、それは妖怪と人間の友好の証なんだ。妖怪は人間を襲わなきゃ自身のアイデンティティーを保てない。けれど、この幻想郷という限定された空間だろう? 逃げ場がない人間が一人もいなくなってしまえば元も子もない。だから、妖怪には手出しが出来ない、加えそれに拮抗し得るほどの能力を持った人間の存在を作る必要があった。それが博麗≠ニいうシステム。歪な、それでも絶妙なバランスで妖怪の人間の均衡が保たれているんだ。そしてその友好の象徴であることが、巫女たちの役割なんだよ」

 昔の鬼と人との契りと似たようなものだね、と霖之助は言った。

 人にとっての恐怖であること、その存在理由のために人を攫う鬼と、

 恐怖心に打ち勝つこと、そうすれば無傷で仲間を取り戻せる人間と、

 その一見ひどく歪んでいるように思える友好関係と似ている、と彼は言う。

 そして続ける。

「誰も誰かの代わりなんてできない――そんなのただの綺麗事さ。僕がいなくなっても、別の誰かが外界の骨董品屋を開くかもしれないし、珍しい道具をご所望ならそれこそ山の河童に頼めば事足りる。魔理沙、君は霧雨店の一人娘だけれども勘当され絶縁状態だろ? そうしたら、きっと大手道具屋である霧雨店を継ぐのは、霧雨魔理沙の代わりである誰か≠ウ」

「……何が言いたいんだよ」

 いや――。

 言いたいことは、もう嫌ってほどわかっていた。

 ただ、納得したくないだけだ。

 それを言葉にして、確定したくないだけだ。

「魔理沙、それは君の思い違いだよ」と言って欲しいだけなんだ。

 ただ少しでも長く、目を反らしていたいだけ。

 それでも霖之助は突きつける。

「そもそも、霊夢だって誰かの代わりなんだ」

 だから、と彼は続けた。

「人間であるなら、」

 冷酷に、その事実を。

 

「別に霊夢じゃなくてもいいんだよ」

 

 霊夢が死んでも問題ないという、その事実を。

「……彼女にこだわる理由がわからないね」

 霖之助の言葉が神託のように響き渡って、生まれた静寂に消えていく。

 それは幻想郷に住まう者としての言葉だろうか。

 それとも、森近霖之助一個人としての言葉だろうか。

 魔理沙は彼の顔を見遣る。丁度彼の眼鏡が光を反射して、瞳に宿る感情の色は窺えない。霖之助はいつもと変わらない様子で本に目を落としていた。ページを捲る度擦れ合う紙と戸棚の置き時計の時を刻む小さな音だけが、その場の空間を繋ぎ止めていた。

 霖之助にとって、霊夢と過ごした日々は掛け替えのないものではなかったのだろうか。

 ――ああ、違う、そういうことじゃないんだ。

 もしも、霊夢がいなくなったら、と考えた時のことを魔理沙は思い出す。

 自分は変わるだろうかと。

 優秀な彼女がいなくなったら、自分の評価が高くなるのだろうかと。

 そう、考えてしまった時のことを思い出す。

 でも、きっとそんなことないのだ。

 彼女がいなくなっても、

博麗霊夢が死んだとしても、

世界は変わらずに回っている。霖之助の言うとおりだとしたら、幻想郷はそこにあるだろうし、きっとそこにいる私たちも変わらない。

森近霖之助は森近霖之助だろうし、

霧雨魔理沙は霧雨魔理沙なのだろう。

ただ、少しだけぽっかりと穴が開くだけで、何も変わらない。

だって、いつかその穴も埋まってしまうだろうから。そして、それが当たり前になってしまう。

霊夢がいないこの世界が、当たり前になってしまう。

いつか、それが日常になってしまう時がきっと来る。

 それが普通。

「香霖」

 

 ――だから、そんなのくそったれだ。

 

「誰かの代わりなんて誰でもできるさ」

 霧雨店の跡継ぎが魔理沙以外の誰かのように。

 神社に住まう巫女が霊夢以外の誰かになるように。

 ぽっかりと抜け落ちた穴は、きっと誰かが埋め合わせる――それが世界の仕組み。

「でも、誰も霊夢にはなれないんだ」

 それでも、きっとぴったりと嵌るものなんてどこにもない。

 路傍に転がっている石でも、けして同じ形のものがないように、きっと抜け落ちたその空白を完全に埋めきれるものなんてない。

「私は霊夢がいいんだよ、香霖」

 埋めきれなかった代替物が隙間に擦れ、その痛みを悲しみというのなら、

「霊夢じゃなきゃいやなんだ!」

 ――私はそれを愛しいとは思わない。

 それを日常だと甘受することはしたくない。

 だって、そこに霧雨魔理沙はいないから。

 悲しみを受け止めてもなお健気に前を向いて生きていくなんて――誰だそいつは?

 私らしくもなんともないぜ。

「邪魔したな」

 魔理沙は毅然と踵を返して出口に向かう。霊夢を救う手立てがここにないというのなら、もう長居する意味もない。いくら店主と論議を重ねようと、時間を無駄に消費するだけだ。

 ドアノブに手をかけたとき、魔理沙、と呼び止められる。

「僕にはこだわる理由が理解出来ないね」

 背中越しに声を掛けられる。いつものように堅苦しい、それでもいつか童話を読み聞かせてくれたように柔和な声色。

 きっと、微笑んでいるのだろう。振り返りはしなかったけど、魔理沙にはなんとなくわかった。

「さっきも言った通り、薬は科学。でも、ここは精神と魔法の文化が根付く幻想郷だよ。何故外の世界のものに頼ろうとするのか、僕には理解出来ない」

 ねえ、魔理沙、と霖之助は優しい口調で彼女に問うた。

 その言葉に背中を押されるように、魔理沙は扉を開ける。

 

「どうして君は魔法使いになったんだい?」

 

 パタン、と。

 魔理沙は振り返らずにそのまま香霖堂を後にした。

 

-4ページ-

 

 夢を見た。

 懐かしい夢。幼い頃、香霖堂で童話を読み聞かせもらった時の記憶。

 霧雨魔理沙の始まり。

 夢に見るまでもなく、私の奥底にしまってある、記憶の扉をコンコンとノックすれば未だに容易に思い出せる物語。今更こんな夢を見るとは思わなかった。

 眠る前に香霖堂へ行ったからだろうか。

 それとも最後に彼があんな言葉を投げかけたからだろうか。

『私、魔女になる!』

 幼心に誓ったあの日。

 トクベツになりたいと願ったあの日。

 

『どうして君は魔法使いになったんだい?』

 

 まだ人間の域を出ない普通の魔法使いだけれど。

結局、トクベツには程遠い存在だけれど。

私はあの頃の自分に胸を張れる私になれただろうか。

 記憶のなかの少女は無垢に笑っている。

 今の私はその笑顔から目を背けずに、見つめることができるだろうか。

 

 

 鳥の鳴き声に目を覚ました。目覚めとしては非の打ち所がない朝だけれど、如何せん帰宅後にぶっ倒れるようにソファーに横になったので、毛布すら掛けられていない身体はあちらこちら寒さに軋んでいた。鳥のさえずりがなくとも寒さに目を覚ますのは時間の問題だったか、もしくはこのまま目を覚まさなかった可能性もあるかもしれない。

 寝ぼけ眼のまま上体を起こす。すでに日は昇っているけれど、恐らく三時間ほどしか眠れていない。すでにタイムリミットは半分以下になってしまっていた。

 お湯を沸かして、随分前に香霖堂からくすねてきた珈琲を淹れる。和食派なのだけれど霊夢のところに朝食をたかりに行くこともできないので、簡単なトーストを平らげた。

 霊夢がいなくなったら、パンを食べた枚数も憶えていられなくなるかもな。

 そんなことをぼんやりと思う。

 たっぷり一時間、簡素な朝食と女の子として最低限の身支度を済ませると、魔理沙は玄関の扉を開ける。

 朝日のまぶしさに、思わず眼を細める。人一人が命の危機にあるというのに、空は思わずぽかんと口を開けて見上げてしまうほどいい天気だった。

 扉を閉める前に家の中を振り返る。

 家の中に所狭しと、まるで部屋丸ごとを道具箱に見立てたかのように様々なものが雑多に詰め込まれている。

 蒐集するだけして特に整理もしていないがらくた。

 あちらこちらから半永久的に借りてきたグリモワール。

 魔法の研究用に採取したキノコに、それを元に作り出した怪しい薬品の数々とその試行錯誤を記録した書類の山。

 それが魔女になると決意したあの日から、自分が積み上げてきたもの。

 あの日から、それだけを積み上げてきた今の私がここにいた。

 だから。

 たったそれだけしか積み上げられなかった霧雨魔理沙では、博麗霊夢を救えない。

 魔女は、お姫様を救えない。

 それが、今のすべて。

 

 

 紅魔館、その中に収まっている大図書館は相変わらず埃臭かった。

 図書館の中央に置かれたテーブル、横に紅茶を淹れる使い魔を携えて、そこの主である魔女が来客にちらりと視線を向ける。その先には毅然と佇む魔理沙の姿。

「何用かしら? また本でも奪いに来たの?」

 ため息交じりの言葉はどこか諦観の色を孕み、本を持って行かれることに対して彼女はもう済し崩しに受け入れているのかもしれない。もしくは、ここに所蔵されている書物の内容を彼女は既に記憶に留めてしまったのかもしれない。

 知識という語をその名に関し、「動かない大図書館」と揶揄されるほどの絶対的な叡智。

 魔法に対する森羅万象を内包したその深い造詣。

 霧雨魔理沙という人間の一個体では絶対に辿り着かない境地。

 その博識さを、今はただ単純に羨ましく思う。

「私はさ、今まで自分のために魔法を使ってきたんだ」

 圧倒的な殲滅力で相手を倒すために。

 圧倒的な破壊力で己の欲を満たすために。

「弾幕は火力だから、ほとんどが攻撃魔法でさ。それ以外の魔術はからっきし。補助の魔法なんて興味なかったし、あの人≠煖ウえてはくれなかった」

 かつて、自分が師匠と呼んだ人。

 ふらふらと今はどこにいるのかさえわからない悪霊。

 圧倒的な火力で的をなぎ払い、

 ただ自分のために魔法を使う。

 その背中に、ただただ私は憧れていたんだ。

 そして、今の私がここにいる。

 今まで火力のある魔法しか作ってこなかった私だから、

 今まで私欲のためにしか魔法を使わなかった私だから、

 今の霧雨魔理沙がここにいて、今の霧雨魔理沙では博麗霊夢を救えない。

 私は間違っていたのかもしれない。

 私が成りたかった魔女という存在は、それほど特別なものではなかったのかもしれない。

 ――でも。

 魔理沙はパチェに向かって八卦炉を突きつける。

 構えるのはスペルカード。

 戦う意志。

 でも、今までの生き方は変えられないから。

 今まで積み上げてきたものを否定はできないし、否定してはいけないと思うから。

 間違ったとしても、理想と現実が食い違っていたとしても、

 ここに霧雨魔理沙は確かにいるから。

 だから、なかったことにしてはいけない。

 今まで積み上げてきたものが例えちっぽけだったとしても、否定してはいけないんだ。

 霧雨魔理沙が霧雨魔理沙であるために。

「私は今までの生き方を否定しない。今まで通りのやり方で、今の私を変えてやるぜ」

 だから、と魔理沙は言い放つ。

 弾幕ごっこの合図を。

「私が勝ったら正々堂々、お前の知識貸して貰うぜ!」

「……上等じゃない」

 パチュリーは持っていた本を放り投げて、慌てて小悪魔がキャッチした。お互いに符を相手に付きだし、地面を蹴りつけ宙を舞い、

「「6枚!」」

 二人分の咆哮が響く。

 

 

 ――魔女になりたかった。

 だって、この幻想郷はこんなにも非科学的なことであふれているのに、ただの道具屋の娘で終わるなんて、そんなのもったいないじゃないか。

 いつしかそんな風に思うようになっていた。

 特別になりたかったんだと思う。

 物語に出てくるような、トクベツ≠ネ存在に。

 でも、私は結局一番にはなれないんだ。

「霊夢」

「霊夢さん」

「博麗の巫女」

 そればかり。

 わかっていた。結局はただの凡庸な人間の一人。

 物語の主人公にはなれなくて。

 お姫様になんてなれやしなくて。

「……沙」

 でも、それでもいいと思ったんだ。

 小さい自分は今の私を見てどう思うだろう。思い描いていた魔女の姿には程遠くて幻滅されるだろうか。こんなの私じゃないと、同一性を否定されるだろうか。

 格好悪いかもしれない。

トクベツ≠ニは程遠いかもしれない。

 でも、それでもいいと思ったんだ。

「魔理沙」

 彼女が、霊夢がそう呼んでくれたから。

 霧雨魔理沙はそれでいいと思えたんだ。

 あいつがいれば、それでいいと思えたから。

 あいつが笑えば、それで幸せだと思えたから。

 だから――。

 胸を張って今の私は答えよう。

 昔思い描いていた魔女ように格好いいとは言えないけれど、

 昔思い描いていた魔女ようにトクベツ≠セとは言い難けれど、

 それでも、霧雨魔理沙は確かにここにいる。

 どこかで間違えたのかもしれない。

 どこかで履き違えたのかもしれない。

 それでも、あの日……魔女を夢見たあの日の私から、確かに今の私は繋がっているから。

 あの日の延長線に、霧雨魔理沙は立っているから。

 だから、私は魔法を使うんだ。

 特別な存在じゃない私にとって特別な、彼女のために。

 

 一人の魔女として。

 

       *

 

「あれ?」

 本日四度目の珈琲を小悪魔が淹れてきたとき、すでに図書館中央の円卓には黒き普通の魔法使いの姿は忽然と消えてしまっていた。

 当たりを見回しながら小悪魔はとりあえず、ルーチンワークのように本を読み耽るパチュリーの前にカップを置く。

「魔理沙さん、お手洗いですか?」

「帰ったわ。出来上がった薬を持ってね」

「え、もうできたんですか? まだ半日も経ってないですけど」

「生成するマジックアイテムの構想は練り上がっていたし、第一あれ以上のものを作るとなると絶対的に時間が足りないわ」

 ふーん、と小さく唸りながら魔理沙の分のカップに口を付けながら、小悪魔はパチュリーの対面に腰掛ける。

「そんなもので、助かるんですかね」

「十中十十無理でしょうね」

「百パーセントじゃないですか……」

「魔理沙も重々承知よ――――それでも、」パチュリーはページを捲る。「知っててもなお、何もせずにはいられない。魔女ってそういう生き物よ」

 ねぇ、とパチュリーは自分の使い魔をちらりと見遣る。

「魔女はどうして知識を蒐集するのだと思う?」

「んー」珈琲を飲みながら、少し上目遣いで考える小悪魔「暇だからでしょうか」

「それもあるわね。妖怪っていうのは、何もせずに生きるのには長寿だから。魔女だから知識に魅入られるのか、知識に魅入られたから魔女になるのか、それは不毛な問題だけれど――魔女が知識の渇望するのはきっと無知だから。少なくとも私はそう」

「紅魔の知識を詰め込んだ不動の大図書館が無知、ですか」

 パタンと、パチュリーが本を閉じて小悪魔に微笑みかける。優しく、儚げな、どこか憂いを帯びているとも取れる弱々しい笑み。

「いくら知識を集めようと、いくら造詣が深かろうと、私たちはいつか根本的解決ができない困難に邂逅する」そんな時思うのよ、とパチュリーは笑った。「ああ、私は無力だ……ってね」

「そんなの……」

「みんな同じ? そうかもしれないわね。でも、人一倍叡智に長ける私たちは、やっぱり人一倍そのことに敏感なのよ。だから、魔女は知識を蒐集する。すべての知識を内包することを夢見て」

「でも、」

 小悪魔は目を伏せて言い淀む。

 わかってしまったから。

 魔女の、その不器用な在り方。

「集めた知識が、自分を傷つけて――自分を無知たらしめる。鼬ごっこじゃないですか、ただの」

 そう言われて、それでもパチュリーは笑った。

「だから言ったじゃない、それでも何かせずにはいられない。魔女ってそういう生き物なのよ。特に大切な人のためとなったらね」

「そうですか……そうですよね……」

 持っていたカップをテーブルにおいて、小悪魔は嬉しそうに笑う。

 どこか、その答えを返した自分の主が誇らしくて。

「大切じゃなかったら、わざわざ必死で考案したマジックアイテムの知識を分け当たるわけありませんよね」

「――――ッ」

 不意の言葉に珈琲が肺に入ったのかゲホゲホと咳き込むパチュリー。

「小悪魔、あんたね……」

「え、や、別にパチュリー様が魔理沙さんのこと大好きとか、そういう意味合いで言ったわけじゃ、えっと、全然あるんですけど、いや、そのですね――」

「小悪魔」

「は、はい!」

 ビクッと身体を震わせる小悪魔。

 も、もしかしたらお仕置きでしょうか。それともうちに帰らしてもらえず、ひたすらに蔵書を棚に戻す残業パーティーとか! あ、あれ、なんかいつもと変わらない。だったら、多少の変化があるお仕置きでも別に悪いことではないんじゃ。

 身構えたまま思考に耽る小悪魔に、けれど折檻の言葉はひとつもなく、パチュリーはどこか優しげな眼差しを投げかけていた。

 カップに口をつけて、訊ねる。

「小悪魔には、そういう人はいる?」

「わたしは、」

 突然の質問に小悪魔は少し驚いて、その言葉を胸の中で反芻させる。

 それでも、すぐに表情を緩ませた。

 少しだけ照れながら。

 だって、答えなんて最初から決まっていたから。

「わたしは、パチュリー様のお側にいられればそれで充分です」

「そう」

 素っ気なく返すパチュリーに、えへへと小悪魔は笑う。

 大きな図書館で、テーブルを挟んで二人きり。けして隣同士には立てないかもしれないけれど、それでもこうしていられることがきっと何よりも幸せだと思うから。

「あ、それで結局魔理沙さんは誰のために薬を作っていたのでしょう?」

 ――ガシャン、と。

 パチュリーの手からカップ重力に引かれてテーブルに落ちた。幸い飲み干していたらしく、テーブルには琥珀色の水滴が数点飛び散っているだけ。

「パ、パチュリー様?」

「あんたね……」

「あ、その顔少しヤです」

 見事に渋い顔の三白眼で睨まれていた。

 カップを片付けている小悪魔をよそに、パチュリーは頭痛でもするのか頭を押さえている。何かまずいことでもいったのかな、と主の顔を伺う小悪魔。大切な人が大切に想っている人≠フ話は、避けた方がよかったかもしれない。

「魔理沙がそこまでするやつなんて、博麗の巫女に決まってるじゃない」

 程なくして、パチュリーが苦々しくつぶやく。どうやら、小悪魔の察しの悪さに頭を抱えていたらしい。

「え、でも――あ、そうだ」

 忘れていましたと、小悪魔は一枚の紙片をパチュリーに差し出す。

「何これ?」

「宴会の招待状です」

 小悪魔もどこか釈然としない様子で首を傾げていた。

「博麗神社の」

 

       *

 

 博麗神社の境内は、見覚えのある様々な面子が蔓延っていた。

 妖怪、神様、天神に亡霊、魑魅魍魎がそれぞれお酒を片手に騒ぎ立てている。

 ……なんだろう、これ。

 途中で魔力が底をついてからは自らの両足を駆使して全力で駆けてきたせいで、脳に酸素が行き足りていなかった。考えがまとまらない。肩を上下させながら、魔理沙は目の前の光景をぼんやりと見つめていた。

「霊夢の通夜、か?」

 少しずつ定まりだした思考回路が、今までの顛末の目の前の現状をどうにか結びつける。

 目を背けるなと。

 最悪の結果から目を背けるなと、頭の中で誰かが呟く。

「私は、間に合わなかった、のか」

 ふいに、魔理沙の膝がかくんと折れた。

 どこまでもどこまでも落ちていくような感覚。深層の闇のなかに放り出されたような錯覚に囚われた身体は、けれどあっけなく地面に支えられる。尻餅をついた衝撃で、鞄の中から唯一魔理沙に残された霊夢を救う可能性を収めた小瓶が転がり落ちる。

 魔理沙はそのマジックアイテムを拾おうともせず、まだ憮然と妖怪たちが織りなす宴会模様を見つめている。

 皆、酒を片手に、

 各々の相手を前に、

 何を肴に話しているのか、

 いつものように楽しげに、

 そう、いつものように――笑っている。

 いつもと違う、霊夢がいない光景の中で。

 どうしてこいつらは笑っているのだろう。

 彼女たちだって、霊夢との記憶を共有してきたはずなのに。

 どうしてこいつらは笑えるのだろう。

 頭の端っこでそんなことを思うけれど、けして薄情だと喚き散らしこともせず、義憤に身を任せることもせず、魔理沙はやはりその光景を傍観していた。

 受け入れろと。

 目の前の光景を受け入れろと、頭の中で誰かが囁く。

 結局、凡庸な魔法使いも、そして恋い焦がれた博麗の巫女も、世界の隅っこで機能する部品のひとつ。代わりはいるし、人間より圧倒的な長寿を持つ妖怪にとって変わりゆく景色の中の一部分。

 それは当たり前で、

 怒るのもバカらしいほど平凡な、

 笑い飛ばしてしまいたくなるほど冷酷な、世界の真理。

 それを魔理沙は見つめている。

 嘆きもせず、怒りもせず。

 ――だってそれは、あまりにもこの幻想郷らしい風景だったから。

 だから、これといって怒りもなければ哀しみも浮かんできやしない。

 代わりにあるのはひとつ。

「霊夢は――――死んだのか」

 あまりにも簡単に、その事実を受け止めてしまえる自分だけ。

 けれど、

 

「勝手に殺さないでよ」

 

 降ってきたのはそんな言葉と、何かに叩かれたようなかすかな頭の痛み。

 見上げると、酒瓶を片手に――いつもの無愛想な霊夢の顔。

 頭の痛みはその酒瓶で叩かれたからだろう。不満を身体で示すよう腰に当てて、魔理沙の後ろ側から、霊夢は彼女を見下ろしていた。

「霊、夢」

 ぽとりと、言葉が落ちる。

「なによ」

「霊夢?」

「だから、なんだって――」

「霊夢!」

「うわぁっ」

 思わず魔理沙はくるりと身体を反転させて霊夢に飛びついた。ふいに抱きつかれ支えきれなかった霊夢が押し倒される形になる。

「いっ――」

 たぁい、と地面に打った後頭部の痛みを噛みしめるように霊夢が呻く。

 その頬にぽとりと、涙が弾けた。

「なに泣いてんのよ、あんた」

「泣いてない!」

 魔理沙はごしごしと目を擦るけれど、涙はけして止まってくれなかった。不思議そうに霊夢が魔理沙の頬を撫でる。

 なんでこんなに涙が出るのだろう。

 死んでしまったと思ったときは、何も出てきやしなかったのに。

 嬉しいのに、涙が止まらない。

「お前のほうこそ、なんで生きてんだよ」

 魔理沙は嗚咽交じりに、どうにかその言葉だけを絞り出す。

「なに? 死んでて欲しかった?」

 未だに悲しみの欠片が頬に残る魔理沙に、それを揶揄するように霊夢がからかいの笑みを向ける。

 魔理沙をどけて霊夢は立ち上がり、ぱんぱんと土で汚れてしまった巫女服を叩く。どこか具合が悪そうなところは見当たらない。酒のおかげか頬も上気して健康そのものに見えた。

「身体は大丈夫なのか?」

 少しだけ冷静になって言葉を慎重に選ぶと、それだけしか聞けなかった。

「当たり前でしょ、ただの風邪よ。永琳の薬でいっぱつ」

「いや、風邪ってのは嘘で……」

 あれ? 何かが頭のなかで食い違う。

 なんだろう、何かがおかしい。

 風邪は永琳が霊夢を慮っての嘘で。

 だから私は材料集めに躍起になって。

 でも、優曇華の花は枯れてしまって。

 香霖のすがりつくも、結局駄目で。

 パチェと一緒に薬を作って。

 それでも結局間に合わなくって。

 けれど、永琳の嘘が嘘で、霊夢はただの風邪で。

「あれ?」

 状況を整理しようとした分、魔理沙の思考回路は空回り。

「霊夢、なんでお前生きてるんだ?」

 結局、その疑問がぬぐえない。

 と――。

「あーっはっはっは」

 近くで馬鹿笑いが聞こえた。

 見ると太陽のデザインを縁取ったとんがり帽子に、紫色のツーピースのドレス。

 いつか、魔女を夢見た自分が師と崇めた亡霊の姿。

「最高だ、傑作だよ魔理沙」

 永琳と肩を並べ、転がりそうなほど腹を抱えて笑う――。

「魅魔様!?」

「いや、まさかここまで見事に踊ってくれるとは思わなかったよ」

 くくくっと、未だ噛み殺せない笑みを口元に残したままの魅魔を、魔理沙はあんぐりと口を開けたまま見つめる。やがて、ギギギと機械じみた動きでその視線を永琳へと変えた。

 やれやれと、永琳はあまり気乗りではなかったのか小さく肩を竦ませた。

「まあ、一芝居打たせてもらったってわけ」

「な、な、な」

 酒が入っていないのに、魔理沙の顔が上気していく。

「あっはっは。聞いてくれよ霊夢、こいつなー」

「――――ッ」

 今度こそ、顔を真っ赤に染めながら魔理沙は腹の底から叫んだ。

「魅魔様!!」

 怒声が宴の喧騒に消えていく。

 

       *

 

「今でも覚えてるよ、あいつが私に魔法を教わりたいと弟子入りしてきた時のこと」

 宴の喧騒から少し離れた場所で、魅魔と永琳が杯を交わしていた。

 どんちゃん騒ぎの中心では自棄になった魔理沙が萃香と飲み比べをしている。魅魔はそれを柔和な笑みで眺めていた。

「面白いだろ、悪霊に魔法を教わりにくるなんて。でもさ、幽霊に魔法を教わるなんて、標本から学ぶのと大差なんだ」

 視線を戻してグラスを仰ぐ彼女の目には、どこか憐憫の色が揺れている。

「霊っていうのは、過去に生きたものだからさ」

 彼女の言う通りだとしたら、と永琳は思う。

 きっと魅魔は魔理沙を通して、過去の自分を視ていたのだろう。書物が内包している知識は、記憶されている文字以上のものにはけしてならない。だとするならば、霊から学んだ魔理沙はきっと魅魔の分身に他ならないのだろうから。

「私はあいつに人に害をなす魔法しか教えられなかった。魔理沙はど派手な魔法を扱うことで自分が魔法使いだという矜恃を持ちたがってたし、」

 なにより、と魅魔と言葉を区切って、グラスの中に揺れる透明の液体を見下ろす。そこに映る自分を見るように。

「私はそんな魔法しか知らなかったから」

「意外ね。魔女なんて種族、魔法の知識なら問答無用に蒐集していると思ってたわ」

「ねぇ」魅魔がニッ、と笑う。「魔女を魔女たらしめる条件≠チてなんだと思う?」

「だから、飽くなき神秘への探求心でしょう?」

「それはあくまで素質さ、魔女の所以じゃあない」

 魅魔はグラスを小さく揺らす。水面に映る魅魔の顔が波紋に消える。彼女はそれを飲み干した。

「魔女を魔女たらしめるのは知識への探求心ではなく、希求心さ」

「似たような意味じゃない」

「一線を画す、ってやつさ。探求心はあくまで好奇心。でも、好奇心は猫をも殺すってね。魔女は知識に食い殺された妖怪なんだ。神秘の叡智を神格化し、いつしかすべてをそれで解決できると錯覚したとき、魔女は本当の意味で魔女になる」

 希うって言うだろう? と魅魔は言った。

「こいねがう……」

「そ、つまりさ、救いを知識に求めた瞬間に、魔女になっちまうってわけ。まだ、私には知識が足りないだけだ、事を成す術を知らないだけだって。そうして知識欲の循環が始まる。解決できない問題は新しい知識で、それでも解決できないものはさらなる知識で、ってさ」

「なるほど、そのためのグリモアというわけね」

「そういうこと」

 元来、魔法というのは門外不出の秘術だ。永琳が扱う医療という技術とは違って、普遍させるものべきではない。遍く浸透した魔法は、それこそ神秘ではなくなってしまうから。思えば、形として残す魔術書というのは異形のものなのだ。広めてはいけないのなら、それこそ自分だけの知識として墓までもっていけばいい。

 それでも、形として残されているその理由。

 願わくば、自分が切に求め続けたその知識が、さらなる知識の糧として、知らない誰かの救いとなるように。

 それが魔女というシステムなのだろう。

「際限なき知識に救いを求めなかった私は、そのシステムの外にいたのさ。お笑いぐさだろ。魔理沙が師として慕ってた私は、大魔女≠気取っていた、ただの非凡な少女だったわけさ」

「あなたは、」

 永琳は少しだけ言い淀んだ。それを聞いてしまって、彼女の心に触れてしまわないだろうかと。

 心の傷は肉体のそれと違って、やすやすと他人が触れていいものではないだろうから。

「酒」と魅魔は手を伸ばす。「飲まないなら私が飲むよ」

 永琳は手つかずのグラスを魅魔に渡す。酔いを醒まさないというのが、その先に踏み込んでいいという不文律の提示のように思えた。

「あなたは、求めなかったの? 救いを」

「必要なかったからね」いや、と魅魔はグラスをあおる。「知識にそれを求めるほど、私の心は強くなかったんだ。必要になった時には、もう何もかもが遅すぎたんだよ。私にとっても、彼女≠ニっても」

「…………」

「ひどい時代でさ、毎日人間と妖怪が殺し合ってた」

 くくくっ、と魅魔は笑う。ひどく悲しげに、どこか自嘲げに。

「信じられないだろ、今でこそ人とあやかしが友好な関係を築けているけれど、ここもそんな殺伐とした時があったんだ。今ほど強力な結界は張られていないけれど、かつてからここは妖怪たちと閉じ込めておく牢獄みたいなものでさ。一緒に閉じ込められた人間はひたすらに妖怪退治を強いられて疲弊、ついには疑心暗鬼になって奇妙な力を持つ者は妖怪の仲間だと村八分にされた」

「魔女なんてなおさらね」

 永琳ができるだけ軽い口調で言う。それに調子を合わせるように、魅魔もくくくと笑った。

「そうそう。だから、開き直って大魔女≠ネんて開き直ってた。でもさ、一人だけ人間扱いしてくれた少女がいたんだ」

 その瞬間、ふと魅魔に張り付いていた笑みが消え失せた。渡された酒をぼんやりと見つめている。遠く遠く、ここではないような場所を見つめているような眼差しで。

 やがて、二杯目の酒を一気にあおる。

「巫女だよ」

「巫女? でも、博麗の巫女は……」

「いや、あの頃は博麗≠ネんてシステムはなかったから。ただの、巫女さ。普通の人間で、普通の優しい女の子で、ただその能力の高さから妖怪退治の筆頭を担ってた」

 能力、と永琳は小さく呟いて押し黙る。察しがつくだろと、魅魔は笑った。

「殺されたんだ、里の人々に」

 祭りの歓声が一層高くなる。魔理沙と萃香の飲み比べがヒートアップしているらしい。やんややんやと周りの輩が盛り上げていた。永琳はその中に霊夢の姿を見つけた。

「優しすぎたんだよ、あの子は。妖怪も必要以上に殺さないようにしていた。だからこそ、人々に勘繰られたんだけど」

 そういえば、と魅魔は笑う。それだけは今までの嘲笑とは違い、本当に心の底からの嬉しさがこみ上げて来たのだと永琳はそう感じた。

「一匹……ううん、一人だけいたよ、巫女に懐いていた妖怪。あの頃はまだ、こんなに小さくてさ」

「あの頃?」

「こんぐらいかな」

 首を傾げる永琳を余所に、魅魔は座った自分の胸の辺りの高さに手を持って来る。

「あの頃は可愛げあったけど、クソ生意気なところは今も同じで――ああ、あの頃は私も相当生意気だったからおあいこか」

 そう魅魔は一笑した。

 

「大嫌いだったよ」

 

 魔理沙に向けるときのように、ひどく優しい目つきでそんな暴言を吐く。

「なんで妖怪が人間に懐いているんだって。お前らがいるから私は虐げられてこんなに苦労してるっていうのに。あんまりあの子に愛想良く――はないか、いつも仏頂面だったし――まあ、一緒にいるもんだから巫女のほうが調子乗って、妖怪の力の源に赤いリボンを結んだんだ。『これが結んである限り人を殺しては駄目よ』って無茶苦茶な約束と一緒にさ。あの時の呆れ果てたあいつの顔、お笑い種だったなぁ」

 でも、と魅魔は言葉を句切る。

「本当に笑い種だったのは私のほう」

 お酒に口を付けようとして、魅魔はすでにグラスが空だったことを思い出したようだった。手持ち無沙汰にグラスを揺らして、飽きたようにそれを置く。

「あの子が殺された時、私にできたことは村人を皆殺しにすることだけだった。無駄なことだろうけど、彼女を生き返らせる術を探す選択だってあったろうけど、私はただ今持てるすべての知識を駆使して彼らを殺すことしか頭になかった。まあ、結局殺しきる前に返り討ちにあったけどね。それでも消えない復讐心が我が身を悪霊と化して――いやはや、そのおかげで長生き出来た。長生きはするもんだよ」

 いや、死んでるかと、やはり魅魔はくくくと笑う。

「私は何もできやしなかったけど、それでもあいつはちゃんと守ってたんだな、あの子の約束を、あの子の夢も一緒に」

「夢?」

 そ、と魅魔は宴の喧騒に目を向ける。

 丁度ダウンした魔理沙に代わり、霊夢が萃香との飲み比べを始めるところだった。宴もたけなわという言葉を知らないだろうか。宴の盛り上がりはさらにヒートアップを見せている。

 魔理沙と霊夢、そんな二人を中心にあやかしたちはやがて輪を作る。

「――妖怪と人間が笑い合う、そんな幻想の世界を」

 そこにいる誰もが笑っていた。

「すべてを守ろうとして、そのすべてから裏切られたあの子の夢だけは、ちゃんとあいつが守ってたんだ。思えば、博麗≠ネんてシステムは、あの子への償いきれない悔悟の表れなのかもな」

 私は結局何もできやしなかったけれど、と魅魔は永琳に向き直る。

「すべての魔女がお姫様を幸せにできるわけじゃない、そういうお話だってあるんだ」

 いつか、毒リンゴを食わされたお姫様が王子様と出会えたように、

 いつか、茨の揺りかごで百年の時を越えてお姫様が王子様と出会えたように、

 すべての魔法が幸せな結末を導くとは限らない。

「魔理沙が本気で魔女を目指すなら、それは彼女の勝手さ。けれども、いつか魔理沙を魔女たらしめる%]機が来る。そして、私から学んだ魔理沙はきっと私と同じ結末を辿るだろう」

 だから、と魅魔は続けた。

「魔理沙には、私と同じ道を歩んで欲しくなかったんだよ。私の唯一の弟子だから」

「ひどい師匠ね、教訓のためにいたずらに乙女心を弄んで」

 だから言ったろ、と魅魔はやっぱりくくくと笑った。

「そのくらい安い代償だって。この物語が幸せに終わるのならね」

 

-5ページ-

 

不意に。

がしっと、魅魔は首根っこを掴まれた。そうやって人の体温に触れるのも、なんか嫌な予感に肌が粟立つのも幽霊にとって珍しい経験だったりする。

「魅魔様、なーに隅っこでちびちびやってるんですか」そこには酔いに酔った魔理沙の姿。「さんざん私のコケにしたんですからね、付き合ってもらいますよ」

「おい、魔理沙! お前いつから霊体掴めるようになった、おい!」

 またもや幽霊にしては珍しい経験であろうに、魅魔はずるずると引きずられていってしまった。

 永琳はそれを呆れながらも微笑みを湛えて見送って、鈴仙を連れて宴を後にした。

「本当によかったのでしょうか?」

 道中、鈴仙が足を動かしながら永琳に問うた。

「何のことかしら」

 一瞥してくる永琳の顔を窺ってから、鈴仙は視線を落とす。

 言葉を選んでいるのか、それとも聞くことを悩んでいるのか。顔を上げた彼女は、やはり煮え切らない態度で少し逡巡してから、どうにか言葉を繋いだ。

 

「本当に霊夢は死に至る病気だったってことです」

 

 永琳が立ち止まり、鈴仙もそれに従う。

「言ったでしょう、一芝居打たせてもらったと。役者が劇を語るほど興が冷めるものはない」

「でも、」

 言いかけていた言葉は永琳の鋭い視線によって制される。

 優しすぎる彼女は得心がいかないのだろう。彼女もいつか知る時がくる。その優しさはすべてを救うわけではないこと。すべての知識は何よりもいい結果を導くわけではないこと。

 優しすぎたいつかの巫女が、その優しさ上に人々から忌み嫌われたように。

 聡明すぎたいつかの魔女が、殺戮の知識の豊富さから復讐に駆られたように。

 まだ月日の積み重ねが浅い彼女に、この世の理不尽を学ばせるのはひどく難しい。

 それは、きっと諦観にも似た感情に心を汚されてはいないということだから。

 鈴仙はかすかに聞こえる宴の音に振り替える。そして、永琳の意図を噛み砕けない代わりに、質問を変えた。

「霊夢は、一体どんな症状だったんですか?」

 腕組みをしながら永琳は鈴仙を見据える。少し気弱そうに眼を細めるけれど、今度はけして目を反らさない。医者の弟子として、それは一線を引けぬラインなのかもしれない。

「……疑問に思わなかった? 博麗大結界は敷かれてまだ百と少し。それなのに博麗≠フ名を冠する巫女はすでに十数代」

 ため息をひとつ付いてから、永琳はしゃべり出す。

 博麗というシステムについて。

「幻想と現実を隔てるほどの結界、その主導権を握らされているのだもの、当然負担は並大抵のものじゃない。故に巫女は短命であり、そして――」

「そして、それ故に巫女はすべての関係を断ち切られた、外の世界の孤児や独り身が選ばれる。いくらでも替えが利くように」

 永琳の言葉を引き継ぎながら、どこかで面妖な声がする。

 唐突に、空間が避けひょっこりと一人の妖怪が顔を出した。

 最強にして最古の妖怪。

 八雲紫。

 鈴仙は思わず身構えて、それを永琳が手で制す。

「でも、今回の巫女は外れだったかもねぇ、あまりに強く人を惹きすぎる」

 そのあまりに冷酷な紫の物言いに、心なしか鈴仙が顔を顰めた。

 けれど、永琳はふふっと思わず笑みを零す。

「そんなことないんじゃないかしら」

 そんな言葉を添えて。

 恐らく、博麗の巫女に大結界の主導権を与え、その弊害として彼女たちの命を縮めてしまっていることに誰よりも心を痛めているのは紫自身だろうから。

 ――スキマ≠ノ結わえられた赤いリボンを見て、永琳はそう思わずにはいられない。

 だからこそ、今回の目論見が行われたのだろう。

「あなたの言った通り、優曇華の木は見事に花を咲かせたわ」

 他の材料は魔理沙がかき集め、運良く鈴仙たちの前に置いていってくれた。

 おかげで永琳が特効薬を作り上げ、霊夢は今も生き延びている。

「けどね、魔理沙が魔法を使わなかったのならどうするつもりだったのかしら」

「使うわよ」

 紫はけれど、あっけらかんと即座に言ってのけた。

「彼女の弟子なら、絶対に」

 それは攻撃魔法しか使えなかった彼女への皮肉なのか。

 それは攻撃魔法しか使わなかった彼女への信頼なのか。

 考えるまでもなく、永琳はやはり笑みを零す。

 むっ、と紫は眉を顰める。きっと、彼女のそのいつも飄々とした態度も照れくささや、鈴仙のような純然たる想いを相手に見せないための隠れ蓑だろう。

 それが看破されて面白いはずがない。

「それです」と鈴仙は思わず話に割って入った。「優曇華の花、どうみても魔理沙の魔法の熱でだめになったはずなのに、どうして咲いたのでしょうか?」

 あらあらあら、と紫は信じられないというふうにセンスで口元を押さえる。永琳もそれに同調するようにため息ひとつ。

「無知な弟子ねぇ。あなたもちゃんと教育したほうがいいんじゃない?」

「そうね、今回の一見でも参考にさせて頂くわ」

「えぇ……」

「鈴仙、優曇華の木々は穢れを吸い成長する、それは知っているわね」

「はい、だからこそ月には持ち込まれた穢れにすぐに対処できるように、優曇華を埋めているんですよね」

 永琳は小さく頷いてみせる。

「月にはない考えだからね、今のあなたにはすぐに理解できないかもしれない。穢れは寿命を生むでしょう?」

「はい」

「そして、限られた僅かな命は思考を生むの」

「思考……死に対する恐怖、でしょうか」

「そうね、確かにそれもある。けどね、少し違う。最初は、ただの本能なのよ。種を長く存続させるために、自分とは違う他の個体を求めるようになった。やがて人に知能が付き、その行為にも思考が生まれ、意味が不随するようになる」

 永琳は少しだけ微笑んだ。

「魔理沙の魔法は膨大な熱と光。それはあらゆる植物の害をなす……けれどね、確かにそれは魔法なのよ」

「……どういうことですか?」

「魔法は精神力、つまりは想いの欠片。他人を求め、生まれる感情とその想い」

 永琳は先ほどの宴の場での会話を思い出す。

 魔女というシステム、彼女はそれを知識の循環と言った。

 魔女たちは叡智を引き継いでいく。

 昨日よりも今日、今日よりも明日、そうしてさらなる未来の悲劇がなくなりますようにと。

 きっと、それは人間も、そして妖怪も、生きとし生けるものも同じことなのかもしれない。

 昨日よりも今日、今日よりも明日、そうしてさらなる未来までも幸せになりますように。

 そんな命の循環。

 願わくば――そう、願わくば。

 大切な人と一緒に。

 永琳は神社のほうを見遣る。

 きっと、魔理沙と霊夢は笑いながら杯を交わしているのだろう。

 幸せそうに。

 

「地上ではそれをね、恋≠チて呼ぶのよ」

 

 ――――昔、ひどく遠い昔、一人の大魔女≠ェ大切な人を想い、生み出した魔術。

 けれど、けして想いは少女を救わずに、

 想いは憎しみに変わり、

 悲しみに染まり、

 多くの人に呪いをもたらし、

 復讐に駆られた剣となって、

 それでも確かにひとつの形をなした――恋の魔法。

「なんだ」

 永琳はそのことに思い至り、やっぱり笑った。

 彼女は、自分は魔女の条件である希求心がないと言ったけれど、

 彼女は、自分は魔女のシステムの外にある者だと言ったけれど、

 きっと、そんなことない。

 だって、彼女の想いは確かに誰かに宛てられたものだから。

 だって、彼女の想いは確かにひとつの形を成したのだから。

 恋焦がれて、その身を焼き尽くすほどに。

「希い、恋い願う」

「え?」

「……彼女の魔法はけして人を救う形にはならなかったけれど、気が遠くなるほどの年月を越えて、確かに大切な人の、その想いを守ったのよ」

 願わくばさらなる知識が誰かの救いとなりますように――そんな魔女のシステム。

 その中に確かに彼女はいたのだ。

「そうでしょ? 最古の妖怪、八雲紫?」

「知ったこっちゃないわ、魔女も、その弟子もね」

 嘔吐くように、紫は見事な仏頂面を永琳に返した。

「そうだったんですか。でも、それならなおさら彼女たちに教えてあげたほうが、」

「あら、私たちは魔女じゃないもの。だから別にいいじゃない」

 と、鈴仙の言葉を紫は軽くあしらう。

「誰かの幸せなんて望まなくたって」

 その言葉に照れ隠しなのだろうかと思うと、永琳は再三の笑みを浮かべた。

「何かしら、さっきから。気色悪いわね」

「別に、やけに魔女≠ノこだわると思って」

 当然、と紫は笑う。

 

「大嫌いだもの」

 

 きっと、あの魔女が見たら懐かしいと感じるのだろう、ひどくあどけない笑顔で。

 

 

説明
例大祭SP(2011年9月19日)『 @ga1 』にて頒布された同人誌の原作を、SS用に大幅改変、増筆したものです。というか変わりすぎてて別物です。

なんかつらつらと書いていたら、とんでもない分量に。
拙い文章で、俺設定がかなり多めですけれども、楽しめていただければ幸いです。

誤字は文化なんで気にしないで下さい。
でも、こっそりと教えてくれると助かります。
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