三分の一 |
◆ 三分の一
「あの蜘蛛が」
祖父のやせ細った青白い指が、私の視線を玩ぶ。
眠気に負けて取り外し、膝に置きっぱなしだったメガネを取り上げてかけ直す頃には、人差し指がやっと一か所を指して止まっていた。
「なに?」
聞き返すと、祖父は億劫そうに胸を上下させて応える。
「あの蜘蛛が」
指し示す窓枠の隅の方に、黒い点のようなものがある。ちいさな蜘蛛だった。この暗い中、私がすぐに見つけられなかったものを、祖父は見つけたのだ。蜘蛛は忙しく足を動かしながら、しかし極めてゆっくり窓ガラスを伝って上へと登っている。
「あの角に」
祖父の腕がレバーか何かのように、あるいはそれらしい軋る音さえ聞こえてきそうなぎこちなさで、空中をスライド。窓の上の、ちょうど今蜘蛛が居る隅の対角のあたりを指して止まった。
「辿りついたらば、おれは死ぬ」
私はとぎれとぎれの祖父の言葉を補完した。口の中だけで「あの蜘蛛が、あの角に、辿りついたらば、おれは死ぬ」と呟いた。
「なにを言ってるの?」
祖父はまた荒々しい呼吸を挟んでから、
「だから、あの蜘蛛があすこへいったらば、おれは死ぬんだ」
乾いた笑い声を立てた。私は洒落を云う気分でも、聞かされる気分でもなかったから、盛大な溜息を吐く。
「そんなこと…… 第一、それはあの落ち葉が―― ってやるものじゃないの?」
「落ち葉じゃあ、だめだ」
「どうして?」
たしかに、窓の外の木には葉がないけれど。それを言ったら、「そうじゃない」と祖父は言う。
「あれは、いつか必ず落ちるだろう?」
「そう。でも、だからそういう言い方をするんでしょ?」
「それが気に入らない。必ずそうなるものを賭けの対象にしたのじゃ、話にもなりゃせん」
病気に臥すまえの祖父は、大の博打好きだった。とはいえ、数年前に祖母が先立ってからは「賭け」をやめて、友人同士で何事も賭けにしては遊んでいた。やりとりされるのは、煎餅や乾物が多かった。
「あの蜘蛛が、どこに辿りつくかなんてのは」
祖父が寝たきりになってから、途切れがちな言葉を辛抱強く待つ癖がついた。
「わからない。蜘蛛がこっちの話を理解して、おれを死なせようとして登ってゆかない限りは」
私は、祖父から視線を外して蜘蛛を探した。
蜘蛛は暗闇の中、窓ガラスを半分ほど登りきっている。なかなか上まで辿りつかないのは、右往左往しているからだ。
私は蜘蛛を見ていて、これから予想される結末は三通りだと思った。
三分の一は蜘蛛が祖父の指した角に辿りつく。
三分の一は蜘蛛が祖父の指した角の反対側に辿りつく。
三分の一は蜘蛛が気紛れを起こして、どこかへ行ってしまう。
「あれがおれの言った場所に着いたら、おれは死ぬ。もしも違っても、そのうち死ぬ」
身も蓋もない祖父の言い草に呆れつつ、私は言った。
「それじゃあ、結局同じじゃない」
「いや、同じじゃない」
祖父は咳をしながら笑った。
「もしも外れたら、おれはまた、おれの命で賭けが出来る」
呆れた根性だ。私は溜息を吐き、蜘蛛の行方を追った。
「あっ――」
蜘蛛は、いつの間にか祖父の指した角に辿りつこうとしていた。そして、私が息を飲むうちに角の隙間に吸い込まれるようにして、姿を消した。
私はそこに至って、結果が三分の三でなかったことに気付いた。
あり得なった三分の一は、私が蜘蛛を払いのけてしまうこと。しかし、もう何もかも遅い。私が「三分の一」だと思った時に、結果は三分の一でしかありえなくなった。
「ねえ」
「わかっているよ」
祖父が優しくそう言ったので、私は二の句が継げなかった。
祖父はそれから一切の賭けごとをしないで、三日後に亡くなった。
祖父が大好きだった私。祖父が死んでしまった悲しみは、三分の二。
残りの三分の一は、少しの違和感と疑問を巻き込んで、冬に消えた。
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