うそつきはどろぼうのはじまり 50 |
日頃から華美を嫌い、質実剛健をよしとするガイアス王であるが、ここオルダ宮に関しては別である。自分の趣味とは合わないが、かといって造り直すのも馬鹿馬鹿しいと先王時代の物をそのまま使用しているため、ここ謁見の間も壮麗な装飾が眩しいばかりだ。
「久しいなシャール卿」
緋色の絨毯の上、優雅に頭を垂れ畏まる貴婦人に、ガイアスは珍しく気さくな言葉を掛けた。王の住まいイル・ファンとカラハ・シャールは遠い。海を隔てた港町と都とを行き来するのはそう簡単なことではなく、また互いに治める領地と日々の国政があるため、ちょくちょく対話できるものでもなかった。先日彼女と顔を合わせたのは、実に数ヶ月前のことになる。
「しかしカラハ・シャールほどの要所を預かる卿が、こちらの命もなしに自ら領地を空にするとは、よほど火急の用とみえる。話を聞こうか」
拝謁への謝辞を述べ終えた彼女は、平伏したまま続けた。
「話されることがあるのは、陛下の方とお見受け致します」
「何のことだ」
「我が養女にして友、エリーゼ・ルタスの件です」
ドロッセルはゆっくりと頭を上げた。その双眸は真っ直ぐに玉座を射抜く。途端に端から官吏の叱責が飛んだ。
「シャール卿、控えよ、御前であるぞ!」
本来、誰の許しもなく直接王を見ることは無礼にあたる。顔を上げよと命じられても、せいぜい胸の辺りを見て終わりである。
だがこの時の彼女は完全に礼節を無視していた。猛る官吏だが、ガイアスが片手を挙げたのを見て黙り込む。
「陛下、一体どこまでご存知だったのかとは、もはや問いますまい。過去に拉致された人々の中には、カラハ・シャールの領民もいた。疑わしい報告も含めれば、そう少なくはない人数だった。彼らの帰還を条件とした人質交換であることは承知の上で、わたくしは政略結婚に同意した。陛下に厳命された通り、当事者である彼女には何も知らせず、送り出した。ですが」
それまで淡々と紡ぐばかりだった声が震えた。
「記憶が失われるとは聞かされておりません!」
謁見の間がざわついた。無表情を常とする王の眉間に皺が寄る。
「何だと」
「彼女と面会した、アルヴィン殿の言葉です。彼女はリーゼ・マクシアで生まれ育ったことの全てを、忘れてしまっていたと」
ドロッセルは微かな笑みを浮かる。
「今しがた、わたくしの言葉を聞いて陛下は驚かれた。演技だとは思いたくはない。エリーの記憶喪失の件は、本当に初耳だったのかもしれません。けれど、もはや信じられないのです。陛下のお言葉も、態度も。全てご存知の上で、また、わたくしを試そうとなさっているのではないかと。政略結婚と領民返還の関係について、明かしてくださった時のように」
運び屋から話を聞き出した時、また陛下に隠されたのかとドロッセルは落胆した。仕方のないことなのかもしれない。ガイアス王は旧ア・ジュールの王だ。対する自分はかつてリーゼ・マクシアの覇権を争った敵国ラ・シュガルの領主。昨日までの敵に信を置けというのも酷な話だ。だから、打ち明けて貰えなかった。
「記憶喪失の件について、俺は関知していない。シャール卿、これは事実だ」
だがドロッセルはゆるく首を振るばかりだった。
「わたくしは陛下を信じておりました。遠いア・ジュールの治世は聞き及んでおりましたし、ラ・シュガルがア・ジュールに併合された時は、密かに喜びさえ感じておりました。ああこれで圧政から解放される、もう兄のような悲劇を繰り返さずに済むのだと、本当に嬉しかったのを昨日のように覚えております。ですが、信じておりましたのは、どうやらわたくしの方だけだったようですわね」
一方的な信頼は思慕と同義だ。主人が部下を頼るように、部下も主人に忠を誓わなければ主従関係とは呼べまい。自分の寄せていた信頼が思慕であるとことは、臣下ドロッセルにとって最も悲しい事実だった。
そしてそれを主人に告げることは、尚辛いことだった。
「陛下。これは人数の問題ではありません。成程、拉致された人々は大勢おり、彼らの帰還を求めて陳情に訪れた家族は、さらに多かったことでしょう。結果、エリーゼは異国の地で全ての記憶と自由を失いました。取引をしたことで、新たな悲劇が生まれてしまったのです。多くを救うために人身御供を捧げるなど、それでは先王と変わりないではありませんか」
「シャール卿、それは詭弁だ。卿も領地と領民を預かる身なら、優先順位については百も承知のはず」
「だからこそ! 爵位も領地も剥奪されず、御前にこうして在ることを許されている身分だからこそ! 果たさねばならぬ義務があるのです」
義務。そう、これは義務だ。ドロッセルは拳を握る。
「たった一人・・・そう、犠牲はたった一人です。けれどもエリーには選択肢などなかった。逃げ道すら与えられなかった。袋小路に追い込み、彼女の未来を権力で奪っておきながら、それでも尚、大事の前の小事だと仰るのなら、あなたには人々を統治する資格などない!」
女の叫びが謁見の間を満たし、束の間の静寂が訪れた。
誰も、何も言わなかった。無礼を咎める声すら上がらなかった。
「その理屈からすれば」
王が玉座から立ち上がる。途端に長身から溢れる覇気に、官僚と憲兵はたちまち竦んだ。
「ならば、お前も資格を持たぬことになる。事情を知っていながらエリーゼ・ルタスの譲渡を黙認した点においては同じことだからな」
「ええ。ですから暇乞いに参ったのです」
あっさりとドロッセルに頷かれ、王は若干怒気を削がれた。
「元々は、これからエリーの挙式に参列します故、お別れのご挨拶に参ったのです。ですが咎人となった以上、今生の別れとなりそうですわね」
「成程。自分が罪人ということは認めるわけか。その意気は認める。ならば出立前に領地を返還してもらおうか」
当代シャール卿は未婚である。跡継ぎはいない。故に王の要請は妥当であった。
しかしドロッセルは首を振った。
「返還は無理です。カラハ・シャールは独立国。あの土地は等しくリーゼ・マクシアの物ですから」
「そのリーゼ・マクシアの統治者が返還しろと言っているのだ。屁理屈を捏ねるのもいい加減にしろ」
「いいえ」
彼女は王の言葉を静かに否定する。立膝を突いていた脚をすっくと伸ばし、その場で仁王立ちとなった。
「言ったはずです。返還は無理だと。わたくしの一任では不可能なのです」
「どういう意味だ」
すると彼女は懐から一枚の紙切れを取り出した。駆け寄ってきた侍従に突き出すように手渡してやると、速やかに玉座前に運ばれた。
ガイアスは折り畳まれていた用紙を開いた。それは書状だった。述べられているのはカラハ・シャールの統治権の譲渡についてである。
「・・・次の統治権を譲渡されたことを証明する。現統治権保有者ドロッセル・K・シャールは、カラハ・シャールを譲渡人ミラ・マクスウェルに譲渡する。・・・何だと!?」
ガイアス王は目を剥いた。公文書の末尾、譲渡人欄に記された鮮やかな墨書。それは。
「ミラ・マクスウェル・・・」
あまりの名に謁見の間がどよめく。無理もない、と思う一方でドロッセルは一歩前に踏み出して書状を指差した。
「はい。それはリーゼ・マクシアのみならず、この世をあまねく統べる御方の署名を頂いた、相続財産の証明書です」
傍らに控え続けていた侍従が震える声で最後の希望に縋りつく。
「ぎ、偽造である可能性は・・・?」
「宿屋の帳簿から辿れるだろうが、同じだろうな」
ガイアスは冷静に答えていた。筆跡鑑定をするまでもない。本当にミラ自身の署名なのだろう。そうでなければ、ドロッセルが切り札として用いるわけがないからだ。
「そ、そんな・・・!」
侍従は悲鳴を上げてへたり込む。ガイアスは書面を握り締めたまま、ドロッセルを睨んだ。
「貴様・・・!」
だが当の本人は至って涼しげだった。寧ろ笑みすら浮かべて王の覇気を受け流していた。
「その証書が作られたのは五年前、まだナハティガル王が存命だった頃です。兄の跡を継ぎ、シャール卿となったわたくしは、領主としてあまりに未熟でした。しかしナハティガル王の苛政は続いていた。いつ何時カラハ・シャールが火の海となってもおかしくはなかった。危機を覚えたわたくしは、当時旅の最中だったミラと相談し、王には内密で譲渡証明書を作成致しました。万が一があった時に公開し、カラハ・シャールがどこにも属さぬ独立国として生きていけるように。あの土地は既にミラ・マクスウェルの物。今まではミラの代理人として、わたくしが統治していたに過ぎません」
「貴様は俺を脅すつもりか。カラハ・シャールの領主だったお前が、あの街の重要性を知らないはずがないだろうに!」
「勿論、良く存じております。存じておりますからこそ、この譲渡証明書は生きるのです。ガイアス王――いえ、ガイアス。尚もその署名の真偽を問い、また内容に異を唱えるというのなら、それは精霊王マクスウェルへの冒涜に他なりませんわ!」
金髪を揺らしながら、ドロッセルは鋭い舌鋒を玉座へ向け続ける。
「わたくしたちは、命を与えられた。リーゼ・マクシアだけではなく、エレンピオスと共に歩むだけの、猶予という名の命を与えられた。今ここで利権に囚われ、民の人生を軽んじ、悪しき策謀に加担することは、命を自ら絶つということです。彼女の信を裏切ることです」
女は胸に手を宛がった。兄さん、と心のうちで呼びかける。
(兄さん。わたしは、わたしが正しいと思う選択をするわ)
「わたくしはシャール家の血を継ぐ者。反骨の貴族の二つ名は、我が一族の誇りです。いかなる為政者の時代も、変わることなく先祖が貫いてきた意志を紡ぐこと、それがわたくしの役割」
ドロッセルは居並ぶ列候をぐるりと見回す。
「王が道を踏み外そうとしているのに、それを正さないなど、何のための貴族、何のための領主ですか! 王から領土を委譲され、その統治を任されている以上、我々はその義務、その責任を果たすべきです」
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