無音の接続詩
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−4分33秒

 

 私は月を見ていた。

今日の月は満月。教室の窓側の一番前の席にある、私の席からは窓の向こうの月が良く見える。

さっきまでは、まだ夕陽の持つオレンジ色と、青から藍へ変わろうとする空の中にあって、朧気な白い光を纏っていた月。

今は一面の黒の中に疎らに散る無数の光の中でも、一番の輝きをもたらす金の光を放っている。

 

−4分00秒

 

私は、ただ無表情に私を見つめ返すだけの月から、気まぐれに目を逸らす。

教室の中央にある、無為に一つの音を奏で続ける真円に向き合う。

二つの針は、重なり合って私の方に向いていた。

帰ろう。

私は心の中だけで呟いて、席を立った。

数度、乾いた音を教室に響かせた後、一度だけ、夜の支配者に向き直る。

黄金の姫君は、何も語らずに、ただ静かに佇む。

 

−2分00秒

 

 規則正しく並ぶ光の中を、乾いた音のみを響かせて進む。一つ歩を進める毎に、光と影は歪に乱れる。私の前に生きるものの姿は無く、私の後ろにもまた、生きるものの姿は無い。

音を放つものもまた、前にも後ろにも他になく、ただここにいる私一人。

昼間であれば、学校内で一番陽当たりの良い中央ホールに近づく。そこに行けば今宵を支配する姫君もより大きさを増すかも知れない。

もちろん、今も視線を少し右に移すなら、姫君はそこに居る訳だけど。

 

−0分13秒

 

 姫君のもたらす光の勢いが、僅かながら弱まった気がした。

 

−0分06秒

 

 中央ホールへの、最後の一歩二歩の音が響くか響かないかの刹那、微かな衣擦れの音と、静かな深呼吸の音を聞いた。

 

0分00秒

 

 中央ホールに足を踏み入れ、視線を右に移した瞬間、常設されているピアノが、その黒と白の鍵をあらわにした。

再び、微かな衣擦れの音と呼吸の音を聞いた。

 

0分06秒

 

 微かになっていた姫君の光が、その強さを再び増した。

 

0分13秒

 

 ピアノの前に座る何者かの姿が、徐々に姫君の光に照らされていく。十字架に刻まれて射し込む姫君の光に照らされて、その腰まで伸びた金の髪が輝く。

その瞬間、今宵を支配していた姫君は、哀れにもその地位を奪われた。

従者となった月光を従えて、その人は静かに瞼を閉じていた。重ねられた両手は、制服のスカートの上に静かに置かれていた。その横顔は、まるで西洋人形のようでいて、しかし確かな生命の暖かみを備えていた。

私は、自らの素直で本能的な欲求に突き動かされ、姫君の元へと歩を進めた。

 先程よりも控えめな靴音と、スカートのプリーツが擦れ合う衣擦れの音と共に、私は少しずつ、その静寂の姫君が支配する空間に忍び入った。

 

2分00秒

 

 姫君は、ただただ静寂の中にいた。

私が後数歩でピアノの横に立てる位置まで来ても、構うことなく自らの内面に広がっているのであろう、無音空間に浸っていた。

既に私の存在には気付いているだろうと思う。

今この空間に流れる音は、互いの僅かな呼吸音だけ。

私は彼女の生命の音を感じながら、その月光に照らされた横顔と、近付くことで良く見えるようになった、その細くてしなやかな色素の薄い手の甲と、制服のスカートの裾から覗く、こちらもまた細さと色の白さを月光によって強調された、ふくらはぎの辺りを交互に見つめ続けた。

 

4分33秒

 

 どれだけの時間をそうしていたのだろう。

永遠に続くように感じられたその至福の時間にも、終わりの時は訪れる。

姫君は瞼を閉じたまま、鍵盤を再びの暗闇に戻すと、こちらを向いて瞼を開いた。

「どうでしたか?」

 笑顔で彼女は私にそう尋ねた。初めて見る彼女の瞳の色は、どこまでも深い、静けさを湛えた碧色だった。

「とても、素敵でした」

 私は素直にそう答えてしまった。何か演奏を聴いた訳でもないのに。

 私は間違えた、と思ったものの。

「そうですね、素敵でした。月の音と、私の音と、そして貴女の音。今日はとても良い演奏が出来ました」

 と、笑顔のままで彼女が言ったので、私の返答は間違っていなかったようだ。

「今の演奏ではピアノは弾いてなかったみたいですけど…どういう曲ですか?」

 私は一番疑問に感じたことを素直に聞いてみた。

「今の曲は『4分33秒』ジョン・ケージ作曲です。楽譜は無音。この空間に響いた全ての音、この空間全てがこの曲の演奏なんです」

 そんな曲もあるんだな、と私は思った。そして、この人になんて似合っている曲だろうと思った。

この演奏をしている時の、この人の全て、この人を取り巻く全てが音楽になっている。

「私は、音無月乃。音が無いって書いて、月に乃木大将の乃。見た目はこんなでハーフだけど日本生まれの日本育ち。貴女のお名前、聞かせて頂いても良いかしら?」

 彼女の自己紹介を聞き、私は納得する。

「私は、月島陽子です。月の島に、太陽の陽に子供の子です。私も日本生まれの日本育ち、純粋な日本人です」

 私は彼女の自己紹介を受けて、そう答えた。

「それは見れば解るよ〜綺麗な長い黒髪に、吸い込まれるような黒色の瞳。どこから見ても和の雰囲気が素敵だね。二人とも月の字が入ってるなんて奇遇だね〜」

 そんな風に褒めてもらった。ちょっと照れて、私は思わず右手で頭を掻いた。

「よろしくね、陽子」

 そう言って、月乃さんが差し出した左手に、私も左手で握手した。

「よろしく、月乃さん」

 思わずさん付けにしたら、やっぱり突っ込まれた。

「さんは要らないよ〜」

「いや、さん付けの方が慣れてるので。私の事は呼び捨てで大丈夫です」

 思わずそんな言い訳をした。どうにもさんを付けないで呼ぶことに抵抗があったのだ。

「そっか、了解。陽子がそれが良いならそれで行こう。取り敢えず、もう遅いし帰ろう」

 月乃さんは、そう言ってペンダントにしているピアノの鍵で鍵をかけ、脇に置いていた自分の鞄を持って、私の左手を引いて歩き出した。

月光は、少しその勢いを弱め、私達二人を静かに照らしていた。

 

∞分∞秒

 

 昇降口では、月乃さんが三年生である事が解った。私は二年生、さん付けで正解だった訳だ。

校門の警備員さんの所で、ちょっとだけ事情を聞かれた。二人とも微妙に違うけど、適当に部活が長引いたと伝えておいた。

学校と、私達の住む団地との間のクロス歩道橋に差し掛かる。

「陽子は何号棟?私は4号棟、ちなみに、実を言うとこないだ引っ越してきたばかりの転校生です」

 クロス歩道橋の中央、街頭の灯りに月乃さんの笑顔が映える。私は多少ボーッと見蕩れながら、答える。

「33号棟です」

「じゃあ、左だね。私は右。おお〜、また奇遇だね。4号棟と33号棟、二人で4分33秒!」

 そう言って、月乃さんはクロス歩道橋の真ん中でクルクル廻った。

フワフワと跳ね回る金色の長い髪が街灯の光に照らされてキラキラと輝いていた。

街頭の更に上には、今夜の主役を月乃さんに奪われた満月。私は思わず、

「月が綺麗ですね」

 と、月乃さんを見つめながら呟いた。ピタッと、月乃さんが止まり、マジマジと私を見つめる。瞬間、私の方に走ってきて、顔と顔を近づけて囁く。

「本気にしちゃうよ?」

 そう言って、ニイーッと今日一番の満面の笑みを浮かべると、反転翻って右の通路へ走り出す。

「じゃあね〜また明日」

 言いながら手を振る姿が、通路を走りぬけ階段を降り、闇の中を4号棟の方に消えていった。

 私はその場にへたり込み呟いた。

「…キス、されるかと思った」

 今夜の主役の月は消えて、主役を奪われた月だけが残った。

ただ光をもたらすだけになったその月は、月乃さんには適わないまでも、やはり綺麗だなと思った。

 

 ただ、その時には私は月乃さんの言葉の意味を良く解っていなかった。私が無意識に漏らした言葉が、その言葉通りではない特別な意味を含んでいる言葉だと言うことを知るのは、もう少し後の事だった。

 

 

BGM

4分33秒/ジョン・ケージ

説明
オリジナルの百合小説です。

私は月を見ていた。
月光の下で出会う、少女と少女。

BGM
4分33秒/ジョン・ケージ
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オリジナル 小説 創作 短編 百合 エス 

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