うそつきはどろぼうのはじまり 55 |
エリーゼは思わず胸元に両手を宛てた。単にまどろんでいるだけなのだと言われた効果によるのか、先ほどまでとは異なる、何かの気配が感じられた。
(わたしの中で眠っている・・・。あるはずのない記憶が、ここで・・・)
少女の思いに、ティポが呼応する。
「あるはずがない、なんてこと、それこそあるわけがないよ。エリーゼは体験したんだ。その目で見て、耳で聞いて、色んなことを思った。話したんだよ、ちゃんと。なのに思い出してくれないなんて、寂しすぎるよ〜」
「あなたにも、寂しさという感情があるの?」
縫いぐるみは答えなかった。寂しい寂しいと、ぐるぐると首から上を動かし続けている。
「僕だけじゃないよ〜。せっかくリーゼ・マクシアから僕を運んでくれたのに、はじめましてはひどいよ〜」
エリーゼは首を傾げた。誰のことを言っているのか、さっぱり分からなかったからだ。ただティポの言う内容に合致するのは、一人しかいない。
「・・・アルフレド様のこと?」
「アルヴィンだよ」
「アル、ヴィン・・・?」
その名を口にした途端、一つ鼓動が響いた。
(・・・リー・・・)
少女の動きが止まる。手も足も、腰掛けた寝台に張り付いてしまったかのように微動だにしない。
紫色が、ぱたぱたと房を上下させ、彼女の目の前に浮かび上がった。
「アルヴィン君はアルヴィン君でしょ? 嘘つきで寂しがり屋の、アルヴィン君だよ」
目の奥が急速に窄まってゆく。頭痛がした。耳鳴りが先ほどから止まらない。
ゆるゆると脳裏に立ち上った映像は、目の前の光景と酷似していた。始めのうち、霞がかかったようにぼやけていたそれは、ゆっくりとではあるが輪郭を現しつつあった。
(・・・エ・・・ー・・・)
遠くから声がしている。反響している上に断続的で、何を言っているのか良く分からない。
閃光のように一瞬だけ強烈に現れては消えゆく数々の光景。滲み歪んでいる青黒い天井。皺のよった寝具。人型の影の中にある二つの光に、熱が宿る。
視覚だけではない。触覚もまた蘇りつつあった。重ねられた腕の重み。顔にかかる吐息の荒さ。首筋を啄ばむ羽毛のような接吻。そして。
(エリー)
少女は激しく首を振った。髪の毛を引き抜く勢いで、頭を押さえつける。
(エリー)
涙が頬を伝い始めた。先ほど流した涙とは違う、後悔ゆえの涙が。瞳は極限まで見開かれ、顔からは血の気が引いている。わななく身体を必死に抱き止める。
あの夜、彼がそうしてくれた感触を確かめるように。
(エリー)
「アル・・・!」
今や細部に至るまではっきりと蘇った記憶の中の男を、彼女は搾り出すように叫んだ。
紫色は相変わらず宙に漂ったまま、身体を少し曲げた。
「ふ〜ん、アルヴィンのこと、アルって呼んでたんだ?」
少女は何度も頷く。それは許された呼び名だった。彼女が呼ぶことを許された愛称だった。
「アルって呼んで構わないって言われた時、すごく嬉しかった。嬉しかったの・・・」
増幅器適合者は、まるで熱に浮かされたように、定まらぬ視線を上げてうわ言を発している。
「アルの腕は温かかった。髪を撫でて、わたしを呼んでくれた。何度も何度も」
まるで何かに縋るように虚空に手を伸ばす。萎えている身体にもかかわらず、腕を上げようとする。彼女だけに見える人が、そこにはいた。
荒くなる呼吸。もはや瞳の色が判らないほど閉じかけている双眸に涙を溜め、彼女は最後の吐息に乗せた。
「エリーって・・・」
瞼が閉じられたらしく、視野は闇に満ちた。
全てが、統合される。
分離していた記憶が、閉じ込められていた過去が、混沌から身を起こす。それらは重力と正反対の方向へ伸張する。未来のただ一点を目指して。
「アル、ごめんなさい」
天に伸ばされた意識が突き当たった瞬間、エリーゼはエリーゼに戻ったことを知った。
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