桜ちゃんはバレンタインデー前日に薄い腐った本を拾いました後編 |
桜ちゃんはバレンタインデー前日に薄い腐った本を拾いました後編
2月13日の夜になりました。
桜ちゃんは昼間見た薄い本への興奮、そしておじさんと時臣お父さんが本当は”喧嘩友達”かもしれないという疑いから全く眠れません。
そうこうしている内に時計は9時を指してしまいました。
9時を過ぎても眠らない。桜ちゃんはこの日遂に悪女への道を歩み出してしまったのです。黒桜ちゃんと陰口を叩かれかねないほどの堕落でした。
でも、どんな悪女に変貌してしまっても桜ちゃんは恋する乙女でした。そして、好奇心旺盛なちょっと早い思春期少女でした。
「おじさんとお父様が本当は愛し合っているのか、ちゃんと確かめなくちゃ」
桜ちゃんは綺麗なワカメの部屋にこっそりと忍び込みました。
綺麗なワカメは幸いにしていませんでした。蟲蔵にいるようです。
桜ちゃんは安心して室内を漁り出しました。そして10分後、遂にベッドの下から1冊の薄い本を見つけ出しました。
昼間読んだ薄い腐ってしまいそうな本です。
桜ちゃんは唾を飲み込むと続きを読み始めました。
久保くんはとても目ざとい。
「吉井くん。僕が知らない間にどうやら坂本くんを連れ込んだみたいだね」
久保くんが眼鏡の奥の鋭利な瞳を僕に突き刺して来る。
「えっと、何のことかな?」
とぼけてみる。今朝まで雄二がいた痕跡は綺麗に掃除してちゃんと消した筈。バレる筈がない。うん。大丈夫な筈だ。
「とぼけても無駄だよ。あれを見たまえ」
久保くんは洗面所に置かれているコップを指さした。
そこには2本の歯ブラシが1つのコップの中に立てられていた。
へっ?
「あれこそは坂本くんがこの家に寝泊まりした動かぬ証拠だよっ!」
「ええぇ〜っ!? 雄二の奴、歯磨きなんてしていないのに何で歯ブラシだけあるの〜?」
雄二の奴、何訳の分からないことをしてくれちゃってるの?
想定もしていなかった証拠に僕は当惑していた。考えていなかったから隠蔽も出来なかった。
「坂本くんの自己顕示欲の強さにも困ったものだね。あの歯ブラシは僕への牽制ってことか。でもね……」
久保くんが僕を見ながらニヤリと歪に笑った。
久保くんは普段とても優しく紳士的だ。でも、あの時になると豹変して180度違う人間になる。
雄二は久保くんのことを鬼畜眼鏡と揶揄するけれどまさにそんな感じ。
「僕はね、こういう挑戦をされる程に燃えるタイプなんだよ!」
久保くんが僕の両肩を力強く握って来た。
「僕に内緒で坂本くんと寝た君に罰を与える」
「罰って、別に僕と久保くんは恋人同士って訳じゃ……」
「まずはその小生意気なことを抜かす口を塞がせてもらおうよ」
久保くんの顔が近付いてくる。
僕はもう捕らえられてしまったのだ。久保くんという名の巨大な蜘蛛に。
もう逃げることは出来ない。
「雄二……ごめん」
総受けアキちゃんと呼ばれる僕は、まさにその通りの存在だった……。
桜ちゃんは本を一旦そこで閉じました。
「あの鬼畜眼鏡……赤いツインテールの悪魔にそっくり」
桜ちゃんの体はガタガタと音を立てながら震えています。本の中の久保くんがお姉さんの凛ちゃんにそっくりだと思いました。
「やっぱり、あの赤い悪魔もおじさんのことを狙っているんだ……」
桜ちゃんのライバルは時臣お父さんだけではなかったのです。凛ちゃんもまたおじさんを狙う獰猛な狼だったことがこの本を通して判明しました。
「こ、これ以上ライバルが増えることはないよね?」
祈りにも似た気持ちで桜ちゃんは再び薄い本を開き始めました。
「どうしたのじゃ、明久? 朝から疲れ果てた顔をしておるが?」
学校に到着し、雄二の顔を見る気分になれなかったので屋上に行くと秀吉がいた。秀吉は僕の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「いや、ちょっと昨夜トラブルがあってね……」
鬼畜眼鏡と化した久保くんは朝まで僕を解放してくれなかった。
おかげで僕の意識は今現在朦朧としている。寝不足と、執拗な攻めで今にも僕は倒れてしまいそうだった。
「何があったのかは知らぬが……可哀想にのう」
秀吉が僕をぎゅっと抱き締めてくれた。
とても優しい抱擁だった。
暖かい感触が全身を包み込む。これは秀吉の体温だけの問題じゃない。秀吉自身が温かいからこんなにも幸せな気分になれるんだ。
「秀吉……温かいよ」
「そうか」
先ほどまで僕を支配していた張り詰めていたものが溶けていく。それは秀吉の人柄のおかげに違いなくて。やっぱり、秀吉が僕を一番大切にしてくれる。
「最初から秀吉を選んでおけば……こんな目に遭わずに済んだのかな?」
「ワシは……明久の求めに応じるだけじゃ」
秀吉は僕の望みを一切拒まない。代わりに何を望んでいるのかも明らかにしない。
秀吉が本当は何を考えているのか僕は知らない。けれど、僕は秀吉と一緒にいるのがあまりにも心地よさ過ぎてこうして依存してしまう。
「秀吉……今日の午前中、授業をさぼっちゃおうか?」
「明久がそれを望むならな」
僕はこうしてまた優しいだけの甘美な罠に堕ちていく。もしかすると秀吉は僕にとって抜け出せない蟻地獄なのかもしれない。
僕はただ捕食されているだけなのかもしれない。久保くんの時みたいに。でも、堕ちていく甘さは何物にも代え難い蜜の味がした。
「秀吉って……お母様そっくり……」
桜ちゃんは最後まで本を読み終えて大きく震えていました。
「お母様も……おじさんを狙っている」
桜ちゃんにはもうその結論しか出ませんでした。
優しい優しい葵お母さんもまたおじさんを狙う恋のライバルだったのです。
「お母様がお父様に内緒でおじさんと会っていたのはそういうことだったんだ……」
葵お母さんが桜ちゃんや凛ちゃんを連れて会う時はいつも時臣お父さんには内緒でした。
桜ちゃんはその理由を時臣お父さんが怒るからだと考えていました。でも本を読んでからは葵お母さん自身が内緒で会いたがっていたのだと考え直しました。おじさんとの蜜月のひと時を心行くまで楽しみたいが為に。
「お父様、お母様、お姉ちゃん。ライバルが多すぎるよぉっ」
桜ちゃんは再び薄い本を開きます。
読み返すほどに、主人公の明久の流されぶりがよくわかります。誰とでも関係を持つ総受け君です。
おじさんもきっとこんな風に流されてしまうに違いありません。
だって、おじさんは如何にも雰囲気に流されそうなそんな性格の人だと桜ちゃんは知っていたからです。
「桜だけのおじさんになってもらわなくちゃっ!」
桜ちゃんは大声で叫んでしまいました。でもそれは桜ちゃんにとっては切実な問題でした。
「だけど、一体どうしたら……おじさんを遠坂から守れるの?」
桜ちゃんはフラフラしながら部屋を出ていきました。
そんな桜ちゃんの様子を廊下の柱の陰から綺麗なワカメがこっそりと覗いていました。
バレンタインデー当日、桜ちゃんは綺麗なワカメの指導を受けながらハート型のチョコレートを作りました。
一生懸命作ったそのチョコはとても良い出来栄えになっていました。
「おじさん……桜のチョコ……喜んでくれるかなあ?」
不安の声を出す桜ちゃん。
そんな桜ちゃんに対して綺麗なワカメは首を縦に力強く振りました。
その頷きを見て桜ちゃんは元気が出ました。
「うん。チョコを渡しに行ってくるね」
桜ちゃんも力強く頷くと屋敷を出て行きました。
綺麗なワカメは心配になってその後をこっそりと尾いていきました。
桜ちゃんは遠坂邸に向かって歩いていきます。
間桐屋敷と遠坂屋敷の中間地点までやって来ました。
その住宅街の道路の中央で桜ちゃんは中ボスとも言える強大な敵に出会ってしまったのです。
「良い男の子、金の匂いのする男の子にチョコを配って、ホワイトデーには100倍返しして貰わなくちゃ」
ツインテールの赤い悪魔こと遠坂凛ちゃんが大きな袋を持って正面から歩いてきました。
「あらっ、桜じゃないの」
桜ちゃんの存在に気が付いた凛ちゃんが声を掛けて来ました。
「お姉ちゃん……その大きな袋は一体?」
「今日はバレンタインデーなんだから全部チョコレートに決まっているじゃない」
凛ちゃんは桜ちゃんに袋の中の沢山のチョコを見せながら平然と言い放ちました。
「チョコレートってたった1人の大好きな人に自分の気持ちを全部篭めて贈るものなんじゃないの?」
桜ちゃんはたった1つだけ用意したおじさんの為のチョコレートを抱き締めながら尋ねました。
「何を乙女チックな戯言を言っているの? 私には12個のチョコレート(十二の試練)があるわ。数撃って全部当てるのが遠坂の流儀よ」
なんと凛ちゃんはチョコを12個も準備していたのです。まさにそれは狂気の愛の乱れ撃ち。凛ちゃんは恋とお金をこよなく愛する狂戦士(バーサーカー)だったのです。
「ちなみに今日チョコを渡そうとしている男の子は……味皇海原雄山の息子士郎でしょ。ちょっとホモ臭いけれど、柳洞寺の次男坊の眼鏡でしょ。それからそれから……」
凛ちゃんは指を折ってチョコを渡す男の名を挙げ始めました。そんなお姉さんの姿を桜ちゃんは体を震わせながら見ています。
「お金の匂いがするって……綺麗なワカメお兄ちゃんにもチョコをあげるの?」
「ワカメは生理的に無理。あれは遠坂の女には許容出来ない存在よ」
凛ちゃんは首を横に振りました。
「じゃあ、おじさんは?」
桜ちゃんはドキドキしながら尋ねました。
「雁夜おじさんは大人だし格好良いし今年の所は本命って感じね。そうね。○学校を出るくらいまでは雁夜おじさんが本命ってことで良いわね」
凛ちゃんは頬に指を付けながら値踏みするように答えました。
「おじさんを取り替えが幾らでも効く物みたいに考えてるなんて……お姉ちゃんでも許せないっ!」
桜ちゃんにはお姉さんをはっきりと敵として認識しました。
「おじさんだって桜みたいなお子ちゃまよりもアダルトな魅力溢れる私にチョコを貰った方が嬉しいに決まっているでしょ。わかったらそこを退きなさい」
凛ちゃんが桜ちゃんの前を通過しようとします。桜ちゃんは両手を広げて通せんぼしました。
「駄目っ! お姉ちゃんをおじさんの所には行かさない!」
桜ちゃんは泣きそうな表情です。でも、決して道を譲ろうとはしません。強い決意を秘めた瞳で凛ちゃんを睨み付けています。
「聞き分けのない優雅に欠けた妹ね。姉より優れた妹なんか存在しないってのにっ!」
凛ちゃんの表情もキッと引き締まりました。凛ちゃん、とても怖い表情をしています。赤い悪魔の名に恥じない怖さを放っています。
「さっさとそこを退きなさい。さもないと……このツインテールが凄いことをするわよ!」
凛ちゃんのツインテールがまるで生き物のようにウネウネと蠢いています。
魔術師の卵でもある凛ちゃんは桜ちゃんを圧倒する戦闘力を持っていました。
「まっ、負けないもんっ!」
必死に強がる桜ちゃん。でも、お姉さんがとても怖くて今にも泣いてしまいそうでした。
そんな時でした。
桜ちゃんの前に1人の男の子が現れて彼女を背中で庇ったのです。
“桜……君を、助けに来たっ!”
「綺麗なワカメお兄ちゃんっ!」
桜ちゃんを庇ったのは綺麗なワカメでした。
”ここは俺に任せて先に行け”
綺麗なワカメの背中は桜ちゃんにそう雄弁に物語っていました。
「何をしに出て来たのか知らないけれど、蟲のアンタにあげるチョコはないわよ」
凛ちゃんは綺麗なワカメを見ながら不快感に満ちた顔を見せています。
今にも綺麗なワカメに攻撃を仕掛けてフルボッコにしてしまいそうな勢いです。いえ、もう既に指をボキボキといい音立てて鳴らしています。SATSUGAIする気満々です。ワカメはきっと五体ばらばらです。
「綺麗なワカメお兄ちゃん……」
凛ちゃんの怒りの表情を見て桜ちゃんは戸惑っています。綺麗なワカメが100%殺されてしまうと思ったからです。
そんな桜ちゃんに対して綺麗なワカメはまた背中で悠然と語り掛けました。
”時間を稼ぐのはいいが────別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?”
それはかつて気取り屋だった意地悪なワカメ時代を彷彿とさせる皮肉屋な一言でした。
どう考えても不可能なことを平然と言い放ったのです。それはとても出鱈目な言葉でした。
でもそれを綺麗なワカメが口に出した意味を考えて、桜ちゃんは体の奥がグッと熱くなるのを感じました。
「お姉ちゃんの相手をお願いするね、お兄ちゃんっ!」
“承知した”
綺麗なワカメは力強く首を縦に振りました。
そして、おじさんの元へと向かって走り出した桜ちゃんに背中でもう1度語り掛けたのです。
”優雅王は……お前が倒せ”
桜ちゃんはコクンと頷くとおじさんがいるであろう、遠坂邸付近へと向かって走り始めたのでした。
涙が零れ落ちないようにまぶたに力を入れながら。
桜ちゃんは必死に駆け抜けました。
綺麗なワカメの犠牲を無駄にしないように。
そして、目的の人物を昨日と同じ地点で見つけることに成功したのです。
おじさんがいました。そのおじさんは昨日と同じように時臣お父さんと戦っていました。
「今日こそ決着をつけるぞ……時臣っ!」
おじさんは巨大なヘラクレスオオカブトの背中に乗って空中高く飛び上がっています。
空中から超高速の体当たり攻撃を仕掛けるつもりで間違いありません。
「フッ。来いっ!」
一方で時臣お父さんは魔法のステッキを両手で構えておじさんを迎撃するつもりに間違いありません。
ステッキの先端からは強烈な光と炎が溢れ出ています。
「やっぱり……おじさんとお父様は喧嘩友達なんだ……」
2人が争っている様を見るほどに桜ちゃんの疑惑は深まっていきます。
昨日読んだ明久と雄二の姿が2人に重なります。大好きなおじさんが時臣お父さんと愛し合っている。
それを認めそうになってしまいます。
でも、それを認めたら桜ちゃんの恋は終わってしまいます。失恋になってしまいます。
だから、桜ちゃんは勇気を持って時臣お父さんに負けずに戦う道を選んだのです。
「おじさんっ! わたしからのチョコ……受け取っ……」
桜ちゃんが自分の想いを告げようとしたまさにその時でした。
2人は無情にも戦いに決着をつけるべく動き出してしまったのです。
「ヘラクレスオオカブト(騎兵の手綱)ッ!!」
「マハリクマハリタヤンバラヤーン(約束された勝利の剣)ッ!!」
桜ちゃんの想いを無視して、2人の意地がぶつかり合ってしまったのです。
そして、勝負は一瞬でつきました。
「うわらばぁあああああああああぁっ!」
火を嫌ったヘラクレスオオカブトがおじさんを捨てて空高くへと逃げ去ってしまったのです。
乗り物を失ったおじさんは地面に落とされて尻餅をつきました。
「どうやら勝負あったようだな」
時臣お父さんがステッキを構えたままおじさんへと近付いていきます。
「世界で一番可愛い凛と桜に近寄る害虫め。今駆除してくれる」
「クソォッ!」
時臣お父さんが満足に動けないおじさんに向かってステッキの先端を向けました。このままではおじさんは燃やされてしまいます。
「おじさんっ!」
大好きなおじさんの絶体絶命の危機。
桜ちゃんは両手を組んで必死にお祈りしました。
「聖杯さんっ! お願いですからおじさんの命を救ってくださいっ!」
桜ちゃんは一心不乱に祈りました。
そして、清らかな乙女の清らかな願いは天に通じたのです。
「こ、これが聖杯っ!?」
桜ちゃんの目の前に真っ黒な蛸のような形をしたうねうねな聖杯が出現しました。
「やあ、僕は聖杯くん。願いごとを何でも一つだけ叶えるよ」
自分でも聖杯と名乗っているので間違いありません。本物の聖杯です。
ぶっちゃけ、サーヴァントとかマスターとか聖杯を呼び出すのにあんまり関係ありませんでした。
桜ちゃんが心から願えば聖杯はいつでも呼び出せたのです。
「桜ちゃんの願いは何かな?」
聖杯くんは召喚主である桜ちゃんに願いを尋ねました。
「雁夜おじさんを助けてっ!」
桜ちゃんは必死に訴えました。
「うん。わかったよ」
その願いを聞いて聖杯くんは触手のように見えるひらひらをうねうねさせました。
「つまり、あのワインレッドカラーのスーツを着た如何にもな変なおっさんを殺っちゃえば良いんだね?」
聖杯は何かちょっと物騒なことを言っている気もしました。でも、時臣お父さんは今すぐにでもおじさんを灰にしてしまいそうでした。
「お父様を反省させてっ!」
桜ちゃんはちょっと微妙な答え方をしました。イエスともノーとも言わない所に桜ちゃんがちょっぴり大人になった証が見て取れました。
「オーケー。わかったよ、桜ちゃん。じゃあ……ヤッてくるね♪」
「お願いっ! 桜に力を貸してっ!」
桜ちゃんと聖杯は一緒に2人の元へと向かって走り出しました。
「凛も桜も一生嫁にはやらんっ! その第一歩として悪い害虫の貴様には消えてもらうぞ。覚悟しろ間桐雁夜っ!」
「無、無念……っ」
時臣お父さんが今にもおじさんを焼き尽くしてしまいそうな瞬間でした。
「お父様……やめてっ!」
桜ちゃんが体を割り込ませておじさんの盾となったのです。
「桜……邪魔をするんじゃないっ! 私は今からその男を焼却駆除するんだ!」
不意の事態に弱い時臣お父さんは桜ちゃんの出現に驚いています。
いつもの優雅さが5割減の足を震わせての驚きっぷりです。もしかすると時臣お父さんに本当にお似合いなのは驚き役なのかもしれません。
「おじさんは……燃やさせないよっ!」
桜ちゃんが鋭い瞳で時臣お父さんを睨み付けます。
「桜が……反抗期を迎えてしまった」
愛娘にそんなキツい視線を向けられたことがない時臣お父さんは超ショックを受けました。
でもそこは“常に余裕をもって優雅たれ”を家訓にしている時臣お父さんです。娘に睨まれてお漏らししたなんて事態は絶対に避けなければなりません。
厳しい父親モードの表情を桜ちゃんに向けます。
「桜。そこを退きなさい」
時臣お父さん大好きな凛ちゃんでさえ泣いてしまいそうな怖い眼光が桜ちゃんを射抜きます。
でも、恋する乙女な桜ちゃんは一歩も引きませんでした。それどころか、時臣お父さんに反撃を開始したのです。
「優雅王……余裕の貯蔵は十分なの?」
桜ちゃん、一世一代の大勝負の始まりでした。
「優雅王……余裕の貯蔵は十分なの?」
「何、だと?」
鋭い目付きで逆転劇の開始を宣言した桜ちゃん。時臣お父さんはその桜ちゃんの変貌ぶりに顎を外して驚いています。
やっぱり時臣お父さんは隠しているだけで驚くのが天職だったのです。
そんなナイーブで驚き役な時臣お父さんに対して桜ちゃんは無限の悪口を開始したのです。
「わたしのこと……蟲ジジイに売った癖に何を今更父親面しているの? サイテェ」
「ブハッ!?」
「そんな馬鹿みたいな色のドレスを着て街中歩いて恥ずかしくないの? サイテェ」
「ゲホォッ!?」
「近所から遠坂家頭首が何て言われているのか知っているの? 働きもせずに1日家の中に篭っている廃人ごく潰しニートだって。ぴったりな称号だね。サイテェ」
「グボホォエッ!?」
「ていうか、優雅たれとか自分で言っている所が寒過ぎる。キモ。サイテェ」
「ヒデブゥウウウゥっ!?」
時臣お父さんは大ダメージを受けています。娘に口汚く罵られてもう精神ズタボロです。
でも、倒れません。腰に力を入れて、足を踏ん張って立っています。
「もはや多くは望むまい。だが、貴様にだけは死の制裁を与えようぞ、間桐雁夜っ!」
その瞳はまだおじさんを焼こうとしています。親の威厳として初期目標だけは何としてでも達成しようという意地が見て取れました。
時臣お父さんの心はまだ折れていなかったのです。そして魔術を行使しようとしています。
「ど、どうしよう……?」
幾ら桜ちゃんが時臣お父さんの心にダメージを与えることが出来ても、魔術を阻止することは出来ません。
時臣お父さんは世界最高峰の魔術師なのですから。
そう、桜ちゃん本人にはどうすることも……。
「くすくす笑ってゴーゴーっ!」
だから桜ちゃんは聖杯にお願いしました。
時臣お父さんを止めてくれるように。そして、聖杯はその望みを叶えてくれました。
「遠坂時臣くん。君を聖杯の穴の中にご招待してあげるよ♪」
「聖杯の中へだと? それは真理の根源へと至る道ということか? うわぁああああぁっ! いや、これは違う。ティロ違う事態の発生だぁっ!?」
時臣お父さんの足元が突然真っ暗な混濁の海と化しました。
そして時臣お父さんをあっという間に飲み込んで沈めてしまったのです。世界最高の魔術師といえども抵抗する暇もありませんでした。
魔法のステッキ1本だけを残して飲み込まれてしまったのです。
「これが私が望んだ真理の根源の正体だと言うのか? って、何で間桐の蟲が蠢く地帯に繋がっているっ!? これは一体どんな真理だと言うのだっ!?」
穴の中から時臣お父さんの驚きの声が聞こえてきます。そして──
「やめろっ! 蟲は優雅ではない。ティロ・キモい。それ以上私に近付いて来るな。ティロや、や、やめ……ア〜〜〜〜ッ!!」
とても悲痛な嘆きの声が聖杯の中から聞こえて来ました。そしてその叫び声を最後に聖杯の中はとても静かになったのです。
近くのお家に咲いていた牡丹の花がボトッと落ちました。
「おじさん……大丈夫?」
「へっ? あっ? 桜ちゃん?」
桜ちゃんはおじさんへと振り返りました。
遂に桜ちゃんは優雅王を倒しておじさんを救うことに成功したのです。
桜ちゃんはおじさんを救い出せた喜びで一杯でした。
でも、そう思って油断してしまったことが桜ちゃんを窮地に追い込んだのです。
「雁夜くんっ!」
聖杯の混濁穴の向こう5メートルの地点に桜ちゃんのお母さんである葵さんが立っていました。
「葵さんっ!」
おじさんの意識はあっという間に桜ちゃんから葵お母さんへと向いてしまいました。
「お、お母様……」
突然の葵お母さんの登場に桜ちゃんも呆然としています。
「時臣が聖杯に落ちて少なくとも社会的に死んで……私は未亡人になってしまったわ」
葵お母さんはボロボロと涙を流しながら泣いています。葵さんは物陰からそっと時臣お父さんが聖杯の中に完全に沈むのを見届けていたのです。一切助けませんでした。助ける気ゼロでした。
「弱い女でしかない私は夫なしでは生きられない。だから雁夜くん……私と結婚して新しい夫になってっ!」
「「えぇえええええええぇっ!?」」
驚きの声を上げる桜ちゃんとおじさん。
桜ちゃんは葵お母さんがおじさんを狙っているという自分の推理が正しかったことに驚きました。そして、時臣お父さんを上回る最強の敵の出現にただただ呆然としていました。
「いや、そんな。急に結婚とか言われても……」
一方でおじさんは葵お母さんの顔を見ながらデレデレした顔を浮かべています。葵お母さんに結婚を申し込まれたことがとても嬉しかったのです。
「雁夜くん……私たちと凛と桜の4人で新しい家庭を築きましょう」
「葵さんと、凛ちゃんと、桜ちゃんと俺の4人で新しい家庭を?」
おじさんは幸せそうな表情を浮かべました。今にも葵お母さんの申し出を受け入れてしまいそうな顔でした。それはおじさんの夢だったのです。
「お母様と、お姉ちゃんと、おじさんの4人で暮らす?」
それは桜ちゃんにとっても幸せな光景に違いありませんでした。
でも、大好きなおじさんが旦那様でなくお父さんになってしまうことは認められません。おじさんをお父さんと呼ぶのは恋する乙女には辛過ぎます。
だけど桜ちゃんにはこの事態をもうどうすることも出来ません。葵お母さんの進撃を食い止める手段を桜ちゃんは持っていませんでした。
そう、桜ちゃんは……。
葵お母さんが聖杯の穴の横を通っておじさんの元まで歩いていこうとしたその時でした。
穴の中から蟲にまみれた綺麗になった時臣お父さんがポイッと吐き出されたのです。
「ティロ・トレビアン…………っ」
綺麗な時臣お父さんは寝言でそう呟いています。気絶してはいますが、綺麗な時臣お父さんは生きていたのです。
「チッ。不運の未亡人となって雁夜くんと倫理上何の問題もなく一緒になる私の野望が……」
葵お母さんは悔しそうな表情を見せながら、魔法のステッキを拾って綺麗な時臣お父さんに張り付いている蟲を全て魔術で焼き払いました。
「それじゃあ私はそろそろ家に戻るわね。はい、雁夜くん。お姉さんからのチョコのプレゼントよ」
葵お母さんはおじさんにチョコレートの入った赤い包みを渡すと、綺麗な時臣お父さんを豪快に蹴り転がしながら遠坂屋敷の中へと入っていきました。
一方で桜ちゃんは聖杯の穴の中を覗き込んでいました。より正確には綺麗な時臣お父さんをポイッとここに投げ出した犯人を見ていました。
「綺麗なワカメお兄ちゃん……」
穴の奥深くには綺麗なワカメがいました。凛ちゃんとの戦いでやられたのか全身ボロボロでした。もう力尽きる直前のようにさえ見えました。
「今、助けるね……」
桜ちゃんは聖杯の中に入ろうとします。でも、それを首を横に振って押し留めたのは綺麗なワカメでした。
“答えは得た。大丈夫だよ、桜。俺もこれから頑張っていくから”
綺麗なワカメは優しく微笑んでいました。そして最後に一言告げたのです。
“じゃあね。ばいばい”
綺麗なワカメはそう言って綺麗な笑顔を見せたまま、聖杯の穴を内側からパタンと閉じたのでした。
穴は閉じられ、道路は何事もなかったかのように元通りに復元されました。
聖杯は役目を果たして姿を消してしまったのです。
「桜ちゃん? どうして泣いているの?」
「ううん。何でもないよ」
おじさんへと振り返った桜ちゃんは左手で涙を拭いました。
そして最上級の笑顔を見せながらおじさんに自分の想いが詰まった宝具を手渡したのです。
「これ……バレンタインデーのチョコレート。わたしは……おじさんのことが大好きっ。世界で一番大好きっ」
桜ちゃんはようやく自分の本当の想いを伝えることが出来ました。
桜ちゃんは遂に目標を遂げたのです。
2月の冬木の空は、少し寒かったですがとてもとても澄み切っていました。それはまるで桜ちゃんを祝福しているかのような蒼い蒼い空でした。
バレンタインからしばらくの時が過ぎました。
あれから様々な変化が生じました。
まず、聖杯が冬木の街から消失してしまったので聖杯戦争はなくなりました。
準備を進めていた陣営もあったようですが聖杯がなくては何も始まりません。
それから間桐家と遠坂家は以前よりも仲良しになりました。
「ティロ・トレビアン蟲魔術発動。耽美なポーズっ!」
綺麗な時臣お父さんは遠坂と間桐の体系を合わせた新魔術体系を編み出しました。蟲を駆使するようになって魔術の幅が大きく広がったのです。
新魔術体系の開発は臓硯おじいちゃんにとっても良いことでした。
「耽美……ええのぉ」
短い時間だったとはいえ、綺麗な時臣お父さんが聖杯の中を見て来たのでもう聖杯に対するこだわりはなくなりました。
それに伴い、蟲魔術の継承に関してもこだわりがなくなったのです。
両家の関係が良くなったことにより、両家の行き来も自由になりました。
桜ちゃんは法律上は間桐家の養女のままですが、今は自由に遠坂の家に戻ることが出来ます。
実際に桜ちゃんは週末よく間桐の家で過ごしています。
昨夜は遠坂邸に泊まって今日は凛ちゃんと葵お母さんと一緒に公園に来ています。
ボールを使って遊ぶ凛ちゃんと桜ちゃん。そしてそれを優しく見守る葵お母さん。
そこには二度と得られる筈がないと思っていたかつての光景がありました。
とても微笑ましい光景でした。
「やあ、葵さん。凛ちゃん。桜ちゃん」
でも、何もかもが以前と同じではありませんでした。
「雁夜くんっ!」
「雁夜おじさんっ!」
「おじさんっ!」
海外での仕事を終えておじさんが冬木の街に帰って来たのです。
その瞬間、穏やかだった3人の空気は一変しました。
「凛、桜。大人同士の甘いひと時を子供が邪魔しては駄目なのよ」
「お母様は人妻なのですから、そういう過ごし方はどうかと思います。雁夜おじさんと釣り合うのは関係的に見て、大人の未婚者であるこの私だけです」
「男の人は若い女の子の方が好きなんだよ」
激しく火花を散らし合っています。
仲良し親子も好きな男性を巡っては一触即発の大バトル開始を一切躊躇いません。
それが恋の修羅場というものでした。
「あれ? 3人ともどうしたの? 何で喧嘩してるの?」
朴念仁だけは桜ちゃんたちが何故争っているのか未だに全く理解していません。
おじさんは桜ちゃんたちから好かれたいのに、自分がモテるとは少しも考えないかなり奇特な人でした。
おじさんはそんな人なので、桜ちゃんたちの争いはこの先長い間続きそうでした。
これが桜ちゃんが得た新しい日常です。
そしてこんな日常を送っているとふと思い出すことがあります。
この日常を送るきっかけを作ってくれた人のことを。
「綺麗なワカメお兄ちゃん……桜もみんなも元気にやっているよ」
桜ちゃんは大空を見上げながら、冬木の街を戦火になる所から救った小さな英雄にそっと現状を告げたのでした。
冬木の大空に綺麗なワカメが笑顔でキメていました。
おしまい
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まさか綺麗なワカメが未来の英霊になってしまうとは… ある家族を幸せにした彼の生涯に乾杯。(tk) | ||
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