カナリア |
僕はカウンターごしに朝から一度も開かない扉をぼんやりと眺めながら曲名もわからないジャズに耳を傾けていた。
「そんなに睨んでいたらお客様が来ても帰ってしまいますよ」
扉へまっすぐ伸びていた僕の視線を小柄な女性が遮った。切れ長の目に通った鼻筋、ふっくらとした唇。そしてウェーブのかかった黒髪は肩にかかっている。大人びた雰囲気の中に微かであるが幼さが見えてその外見からは年齢ははっきりとわからない。ただひとついえるのは彼女はとびっきりの美人だ。おそらく、ファッション雑誌のモデルと言っても通用するだろう。でも、その美しい容姿を小さい頃から見慣れている僕は、心動かされることなくため息をつきながら答えた。
「違うさ。僕はただお客さんが来ないかなって見ていただけだよ」
そう言いながら首と肩をぐるぐると回す。ずっと同じ姿勢で長時間いたものだからすっかり筋肉が固まってしまったようだ。 動かす度にコキコキと機械のような音を立てる。
「睨んでいなかったとしてもやっていることは同じでしょう? そんなマスターのいる喫茶店なんて誰が入ってくるものですか。もっとやる気を出して下さい。――まったく、お祖父様がいたときには、ここには近所の方だけじゃなくて遠くの街からも人が来たというのに……。雅之さん、聞いていますか?」
彼女の言うことはもう百回どころか千回だって聞いている。
いつもいつも同じ文句ばかりを言って、そりゃあ、祖父のころは人が大勢来たけれど、それはコーヒーを飲みに来るんじゃなくて祖父の『発明』を見に来ただけなんだ。売り上げからしたら、僕はそれほど祖父ちゃんと変わらない。
でも、それを言ったら火に油を注ぐだけだとわかっているので僕は神妙に彼女の有り難い言葉を拝聴していた。
いや、彼女と呼ぶのは本当のことを言うと正確ではない。なぜなら彼女は人ではないのだから。
僕の目の前にいるのは、今言った祖父の『発明』。
MT式アンドロイドJタイプ01。通称カナリア
MT式というのは僕の祖父である政木藤治から来ている。そしてJタイプはジャパニーズ、つまり日本人型ということだ。
ちなみに01と付いているが彼女には姉妹や兄弟はいない。祖父がつくったのは彼女ひとりだけだ。
祖父は繁盛しない喫茶店のマスターという顔の他に、日本でも有数のロボット工学者という一面を持っていた。いや、元々はそちらの方が本職ともいえる。祖父は22世紀初頭に自律式人型アンドロイドK700の開発に成功したK大の大利根教授の愛弟子であった。それまで人間そっくりのアンドロイドは何度か作られてきたが、それらは見た目も仕草も機械とわかるものであった。だがK700は例えて言うならば鉄腕アトムの開発したというほどの高い性能を持つアンドロイドであった。その開発に携わった輝かしい実績を持って祖父は世界各地の大学や電機メーカーなどに招聘され、その分野ではかなり有名な人物だったらしい。だが、あるとき大利根教授と意見が衝突した結果、どの大学も企業もそれまでの厚遇ぶりはどこへやらまるで祖父が存在しない人間のように全ての関係を断ち切ってしまった。当然と言えば当然である。大利根教授はロボット工学の権威。対して祖父はどれだけ才能があろうともその庇護にある雛鳥でしかなかったのだ。これからアンドロイドがもたらす大きな利益を期待する人々は大利根教授の機嫌を損ねるようなことはしたくはなかったのだろう。
そして祖父は表舞台から去るしかなかった。
だが、祖父の矜持はこんな小さな喫茶店のマスターになっても消えていなかった。その結果がこのカナリアというわけだ。
正直、孫の僕にはこのカナリアがどんな構造で動いているのかわからない。それでも言えるのは、その当時祖父が置かれていた状況を推察するに彼女ほどの『もの』を個人でつくることは決して簡単なことではない。
資金、そして製作のための道具、材料。いや、自律式人型アンドロイドは体だけでは成立しない。それを動かすための心もなければただの置物同然だ。その心に当たるOSの開発はゲームソフトをつくるのとは比べものにならない苦労があったはずだ。
その苦労を乗り越え、カナリアは誕生した。
彼女はこの店の看板娘として、この四十年を過ごしてきた。
彼女の名はこの店から取っている。カナリアは祖母が好きな鳥だったらしい。
でも僕が生まれる前に祖母はいなくなってしまったからその面影は店の名とこのカナリアに残っているだけだ。
僕の両親はというと、こんな小さな喫茶店に縛られるのが嫌だと海外で暮らしている。ひとり息子を祖父の世話に置いて本当に薄情な親だ。そしてその祖父も去年肺炎で帰らぬ人となった。かくして、流れでこの店は僕とカナリアで守ることとなった。
祖父がいなくなった後もカナリアが毎日行うメンテナンスは祖父が生きているときは祖父同様、祖父謹製のメンテナンスシステムが行っている。メンテナンスでは、細かな改良は加えられても大規模な改造を行ってはいないと聞いている。つまり、カナリアは基本的には目の前にいる状態で四十年前には生まれたということになるわけだ。彼女は仕草も話し方も人間のそれとは変わらない。
つまり、祖父は彼女の体も心も最初からここまで完璧に仕上げていたということだ。。
先ほど矜持という言葉を使ったが、そこまでのことをするのは執念いや妄執という言葉の方が近いかも知れない。
「何をまたぼんやりとしているのですか?」
カナリアが僕と後数センチのところまで顔をずいっと近づけた。僕は急にカナリアの顔が目の前に出現したものだからビックリして思い切り後ずさる。そして勢いが良すぎて後ろにあった棚に思い切りぶつかってしまった。はずみで上に置いていたポインセチアの鉢植えがぐらりと揺れた。
ドンッと大きな音がとともにポインセチアの鉢植えは床にあった。
幸い下に引いていたカーペットが衝撃を吸収してくれたので割れてはいないようだ。被害は床に散らばったいくらかの土だけですんだ。
「うわぁ、しまった」
惨状を前にそう呟くと僕の後頭部にゴンという鈍い音ともに激しい痛みが襲った。僕は痛む場所を抑えつつ振り返る。当たり前だがそこにいたのはカナリアだけだ。カナリアは掃除の途中だったからその手にはモップが握られていた。おそらく凶器はそのモップだろう。
僕は犯人に向かって「いたいじゃないか」と文句をいった。無論しくじったのは僕だ。八つ当たりだとわかっていても、せめて抗議ぐらいはしなければ、まだジンジンと痛みを主張する頭に申し訳が立たない。
だが、カナリアは持っていたモップを僕に突き出した。
「掃除は自分でして下さいね」
僕は精一杯の抗議ものれんに腕押し、全く取り合ってもらえなかったことに寂しさを覚えつつ言われたとおりに掃除に取りかかることにした。
「まったく、もう少しくらい僕に優しくしてくれてもいいじゃないか」
と、独りごちていると久しく聞いていなかった店のドアにつけていた来客を知らせるベルがカランカランと小気味よく鳴った。
「いらっしゃいませ、……あら?」
カナリアの応対がおかしいことに気がつき、僕はモップを動かすのを止めて入り口に目を向けた。そこにいたのはロマンスグレーの紳士がひとり。僕には見覚えがなかったがカナリアはその紳士をよく知っているようであった。笑顔を浮かべて紳士に向かって深々と頭を下げる。
「お久しぶりですね。大利根さん」
「大利根!?」
僕は思わず素っ頓狂な声を出した。大利根といえば、祖父の恩師であり、祖父を学会から追放した人物である。
だが、おかしい。祖父の恩師である大利根教授はすでに傘寿を過ぎている。目の前の紳士はそれよりも一世代は下だ。
カナリアは僕が混乱しているのを見て、慌てて解説をした。
「こちらは、藤治様の恩師でいらっしゃった大利根教授のご子息で大利根志郎さんです。今は大利根教授の後を継いでおられるのですが、藤治様をそれは実の兄のように慕っていらしたのですよ。まだ雅之さんが赤ん坊のころまではよくここに遊びに来ていたのですが、随分ご無沙汰で」
するとその紳士、つまり大利根志郎さんは僕に手を差し出した。
「君が雅之くんだね。君と最後に会ったのはもう二十年前、君が二歳の頃だから覚えていないだろうね」
「……すみません」
僕は謝りつつ大利根さんの手を握った。
目の前の人物が何者であるのかはわかったが、それは新たな疑問を生む。父親の大利根教授が祖父と絶縁したというのに、なぜ息子の大利根さんは祖父との交友を続けたのだろうかと。
僕は、おそるおそる訊ねた。
「あの、失礼かも知れませんが、ひとつ訊いてもいいですか?」
「何かね?」
「なぜここに来ていたのですか? いや、別に文句を言いたいわけじゃなくて、祖父と、その大利根教授はその……」
「そのことか。父と藤治さんが衝突したことは確かに悲しむべき事だね。でも、父と喧嘩したからと言って息子私まで喧嘩しなくてはならないわけではない。そうではないかな?」
「ええ、理屈ではそれはそうなんですが……」
大利根さんは苦笑しつつ言葉を続けた。
「君は、なぜ父と藤治さんが喧嘩をしたのか知っているのかな?」
僕は首を横に降る。
「いえ、何度か訊いても答えてくれませんでした。周りの人間に訊いても誰も知らないと……」
「そうだろうね。あの喧嘩はあの場にいた父と藤治さんと私しか内容を知らない。でも、ひとつ言えるのは、誰も間違ったことは言っていなかったと言うことだ。父は父なりに科学者としての使命感があり、藤治さんには藤治さんの信念、理念があった。それが不幸にもぶつかってしまっただけなんだ。――父もたまにこぼすことがある。政木は自分の弟子でなければ死ぬまでつきあえる友であっただろう、とね」
僕はなんだか不思議な感覚に陥った。祖父から全てを奪った大利根教授は、よほど陰険な人物なのだろうと。しかし、大利根さんの話を聞いていると祖父との関係は個人的な好悪の感情とは別のなにかが問題のように思える。
「一体、何が原因だったのですか?」
「それは秘密だ。意地悪からじゃない。私自身がどう判断すべきか未だに迷っているようなことだからだ。特に今は。だから、その議論について果たして正しく君に伝えられるかわからない」
「迷っている?」
「時が来れば話すよ。だが、今じゃない」
するとカナリアが話に割って入ってきた。
「立ち話も何ですから、おかけになって下さい」
そういうとトレーの上に乗せていた水の入ったグラスをカウンターに置いた。
冷えてグラスの周りについた水滴が下に敷いた紙のコースに落ちて染みこんだ。大利根さんはゆっくりとカウンター席に座ると喉が渇いていたのだろう。一気に飲み干してしまった。
「はぁ、美味い。いや、ここ三日ばかり食事もろくに摂っていないのでね」
事実、大利根さんの顔色はかなり悪かった。よく見れば目の回りも濃い隈が出来ている。何かトラブルがあるのにここに来た。いや、トラブルがあるからここに来た? 僕は大利根さんがここに来た理由を知りたかった。
「それで、今日こちらに見えられたのは何か御用があったのですか?」
「……」
「大利根さん?」
「……ああ、すまない。思い出していたんだ。昔のことを」
「もしかして、祖父のことですか?」
「そうだ。もし藤治さんの言うとおりにしていれば、こんなこと苦労はしなくてすんだ」
「――なにがあったのですか?」
「私はカナリアに折り入って頼みたい事があってきた。君にしか出来ないことだ」
カナリアは目を見開いて大利根さんのことを見た。アンドロイドでも驚くのかと思うかも知れないが、僕の知る限りカナリヤは本物の女性とまるで異なるところがない。ただひとつ体重が百五十キロということを抜かせば。
カナリヤは大利根さんの横に座る。
ちなみに、この店の椅子やテーブルは全てカナリアの体重に耐えられるように設計されている。すべては祖父の手作りだ。
「私になにをしろと?」
「カナリア、君は私が二十年前来たときに、息子を連れていたのを覚えているかな?」
「ええ、光男くんでしたね。とても元気な男の子でした」
「光男は三年前に結婚したんだ。今は横浜で小さいが貿易会社を経営している」
「まぁ、ご立派になられたのですね」
大利根さんはふふっと笑った。
そして懐から長財布を取り出して一枚の写真をカウンターに置いた。そこには大利根さんに似ている男性が白いタキシードを着ている結婚式の写真があった。新郎の横には幸せそうに微笑む長身の女性が立っている。
「これがね息子の結婚式だ。綺麗に撮れているだろう?」
カナリアは写真を手に取るとうっとりと眺めていた。
「それで、この光男君の結婚に何かあったのですか?」
僕は訊ねた。
「人は結婚すれば子供が出来る。それが自然の心理というものだ。光男もまたそうなろうとしていた。ところが父は曾孫の誕生に長年の研究を使おうと思いついたんだ。――アンドロイドの代理母をね」
「アンドロイドの代理母?」
「これまで人工子宮というのは多くの科学者によって長い間研究を続けられてきた。だが父はそこから一歩進めてアンドロイドを母親代わりにしてしまおうと言うことを思いついたんだ。少なくとも人型から産まれれば、保守的な人間が持つ機械的な出産に対する嫌悪感が和らぐだろうとね。また、その後の子育てをそのままアンドロイドにまかせれば親は安心して働きに出ることが出来る。それというのも今は男女ともに働くのが当たり前の時代だ。だから育児という大変な仕事をする時間もない。その結果が若い世代が子作りをしなくなってしまった。二十一世紀に起きた少子化は何とか最悪の事態を防ぐことが出来たが、二十三世紀の今日もそうなる危険性が大いにあるんだ。父いわくアンドロイドの代理母はその危険性を解決するため最も合理的で美しい解決策なのだよ」
「本当に、出来るのですか?」
「理論上はね。なにせ四十年間ずっと温め来たアイデアだ。後は臨床実験ということで光男に白羽の矢が立ったのだよ」
カナリアは渋い顔をしていた。 同じアンドロイドが子供を産む。それが気に入らないのかも知れない。カナリアは人間に近い存在ではあるが、アンドロイドである自分と人間である僕との間に厳格な線を引いていた。それは「つくられたもの」としての倫理観なのかもしれない。ともかく、代理母というものはカナリアの倫理観を大いに侵害するものだと言うことは、長い付き合いである僕にはよくわかった。
「それがカナリアとどういう関係があるんですか?」
大利根さんはそこで少し口ごもった。
「……うん、まぁちょっと言いにくいんだがね。 プロトタイプ。父は聖母マリアなんて名前をつけたのだけれど、そのマリアのOSがどうにもうまくいかなくて頓挫しそうなんだ。そこでカナリアのOSを参考にさせて欲しくてね」
再びカナリアは驚きの表情を見せた。
「私のOSを? どうしてですか?」
「君らも知っていると思うが、父から産まれてきたアンドロイド達はたしかに感情表現が出来る、人間に近いものだ。だが、そこには性差というものがない。人間は同じ生き物でも男女で思考の違いがあることは当たり前のことなんだ。ただ、それをOSのプログラムとして実現することが何度試行錯誤を繰り返してもで出来なかった。。それでは子供を産むことが出来ても『母』はなれない――ところが、僕の知る限り、。この世でただひとり。その問題をクリアしているアンドロイドがいる。そう、藤治さんが生み出したカナリア。君は紛れもなく女性だ」
「私をその代理母に使うのですか?」
「 誤解しないで欲しいんだが父はカナリアの存在を知らないんだ。だから、今日ここに来たのは私の考えでね。――どうだろうか。カナリア。私の頼みを聞いてはくれないか?」 大利根さんは真剣な眼差しでカナリアを見ていた。僕はそれがどういうことを意味するのかよくわからない。個人的な感想では社会のためになることであればこの頼みは聞いてあげるべきではないかと思った。だが、カナリアは ゆっくりと首を横に振った。
その瞬間の大利根さんは心底落胆したことが、ありありとわかった。
「私がここに来たのは父が死ぬ前に生涯をかけた研究を実現させたかったのとそれで孫が見られるのであれば若い夫婦にこれ以上のない贈り物になると思ったからだ。そんな私の気持ちとしては、なぜ駄目なのか、せめて理由くらいは聞かないと帰れないな」
カナリアはすぐには答えなかった。
一分ほどの沈黙の後、ようやく口を開いた。
「私は、カナリアはひとりだけです。コピーが大量に出来るのは嫌です」
ぽつりと呟いた言葉に、僕は自分の馬鹿さ加減に気がついた。
そうだ、“人間”であれば自分のコピーが作られることを手放しで喜ぶはずがない。感情を持つ存在であれば、アイデンティティを誰もが持っているのだ。たとえアンドロイドであろうとも。
どれだけカナリアが、自分と人間との区切りをつけていても、その嫌悪感からは逃れる術はない。もし、それが出来るのであればカナリアはカナリアではなくなる。
大利根さんは黙ってカナリアを見ていた。そして、ふぅ、と大きくため息をついた。
「しかたがないね。では、父の研究が実を結ぶのを待つしかない。おそらく、光男夫婦で実験をするのは無理だろう。だがきっと、いつかは君のような代理母が産まれることを私は信じている。どうか君たちも応援してくれ」
僕はふたりが話をしている間仕込んでいたサンドウィッチを大利根さんの前に出した。
「食べていって下さい。何も食べないと体をこわしますから」
「ありがとう。いただくよ」
「もしよければ、また来て下さい。いつでも歓迎しますから」
大利根さんは大きく頷いた。
それから、大利根さんは半年に一度くらいは店に訪れるが、代理母計画については進展がないのか何も口にしなかった。僕もあえてその話題に触れることもしなかった。遠慮というべきか、あるいは怖かったのかも知れない。そのことを言ってしまえばカナリアを傷つけてしまう気がしたのだ。
ただ、大利根さんの息子さんは自然な形で子供を作ったということは、話の流れで出てきたが、そのときのカナリアは孫の写真を見て目尻を下げる大利根さんを黙って微笑みながら見ていた。
なぜか、それで安心すると同時に悲しい気持ちにもなった。
やがて、月日はどんどんと流れ五年が経過した。
その頃には大利根さんが来ても代理母という言葉を思い出すことさえなかった。
けれどもある日テレビのニュースで大利根教授の新発明というテロップが出たとき、思わず息を呑んだ。大利根教授、そして大利根さんはまだあきらめてはいなかったのだ。
アンドロイドの代理母、というセンセーショナルな発明は、社会に大きな波紋をもたらした。賛否両論合い混じり、様々な肩書きの識者が侃々諤々と議論を交わしていた。
特に激しい反対をしていたのは婦人団体である。
母としての立場を奪われるという危機感からか、いや、もっと突き詰めて言うならば、出産という崇高な行為が機械によって穢されるという思いからか、大利根教授に対して論理とはかけ離れた誹謗中傷を繰り返していた。それを僕はただメディアを通して見ているしかなかった。
そしてカナリアも同様である。
しかし混迷する状況に見えて、大利根教授は厚労省をはじめとした関係部署に地道な根回しを行い、なんとか製品化工作を水面下で行っていた。
それがわかるのは更に一年後のことである。
一台五百六十万円という値段で完成版の『MARIA』販売が開始されると、反対論はあっという間に押し流されてしまった。それだけ子供を切望していながら日常に押し流されてつくる機会がなかった人々が多かったと言うことなのだろう。
仲には普通に子供を持てる余裕がある夫婦も購入していたという。その理由は妻が出産で体のラインが崩れてしまうのを防ぐためだというのだから、何を考えているのかと僕は思ってしまう。
そんな僕はというと、流行らない喫茶店のマスターのままでいたので、子供どころか結婚相手さえ以内有様だった。
毎日カナリアに説教をされながらも、自分で飲むために淹れるという波風が全くない生活だった。もっともカナリアとしては波風があった方が僕のためにいいと思っていただろうけど。
もし、店が貸店舗であったなら、それに祖父の遺産で相続した莫大な証券の配当がなかったら、きっと僕は路頭に迷っていただろう。
いやはや実に有り難いことだ。
僕は、世間とはどこか隔絶したこの店での毎日は、いつまでも続くものだと思っていた。
だが、世の中というのはそう甘いものではないことを知る日が来た。
それも『MARIA』のために。
『MARIA』は実によく売れた。
最初の三ヶ月で千台も販売したのだ。
いくら共稼ぎ夫婦でも、『MARIA』の値段は決して安くはない。
おそらく大利根教授も予想外であったろう。
その嬉しい悲鳴というやつも最初の子供達が生まれて間もなく
本物の悲鳴へと変わることとなる。
事件は、北海道に住んでいる建築会社を経営する青木夫妻に起こった。
夫の青木一郎氏は『MARIA』の販売開始を知るとすぐに北海道まで取り寄せたのだ。おそらく北海道では一番初めてのオーナーだろう。
その子供は、人工子宮の中で順調に育ち、十月十日、実際には九ヶ月弱で元気な女の子が誕生した。
名前は美穂と名付けられ、そのまま『MARIA』が世話をしていた。
青木家の『MARIA』は母親を誠実に努めた。そう、実の親以上に。
そしてある日、青木家の『MARIA』は姿を消した。赤ん坊とともに一切の痕跡を残さず消えてしまったのだ。
当初は、営利誘拐などが考えられたが、1週間、一ヶ月と過ぎ何の要求もないことから変質者の犯行も考えられた。誰も『MARIA』が自らの意思で消えたなんて思ってもいなかった。
事件から三ヶ月後、九州の山奥で『MARIA』が子供と暮らしているという情報が入って、それまで想定していた事件の様相が一気に崩れ去った。
『MARIA』の周りには他に誰も“人間”はおらず、単独で子育てをしていたことは明らかだった。すぐに警察が赤ん坊を保護し、容疑者である『MARIA』の確保を行った。
最愛の娘を奪われた青木夫妻は、三ヶ月ぶりに抱く我が子との対面を日本、そして海外まで報道されることとなった。
残るは、なぜこのようなことが起こったのかである。
制作者である大利根教授が『MARIA』をチェックしたが、どこにも異常はなかった。念のために海外の研究機関でもダブルチェックをしたが同様である。
あとは、容疑者の『自白』だけが頼りであった。
その報道を見ていたとき、カナリアがぽつりと呟いた。
「愛していたからだわ」
「えっ?」
僕はカナリアを見た。
「自分のお腹を痛めて産んだ子供を愛するのが母親というもの。きっと彼女は、赤ん坊を自分だけのものにしたかったのよ。たとえ、遺伝子上は本当の両親がいたとしても、母親としての愛情がそれに勝ったんだわ」
「そういう……、ことなのか?」
「ええ、彼女はアンドロイドである前に、女だったんです」
僕であれば、男である前に人間である、と思うだろう。
その認識の違いは、果たして僕が男だからか。
それとも、カナリア達がアンドロイドだからか。
ひとつだけわかるのは、どちらにしろこれから何かが起こるということだけだ。
しばらくして、カナリアの予想が当たっていることがわかった。
すると、これまで沈黙していた反対派が、『MARIA』の重大な欠陥だとして猛烈な抗議をし始めた。政治家などにも働きかけ、アンドロイドの代理母どころか、アンドロイドの存在にまで規制をかけるべきだという過激な意見も散見された。
もっとも、すんなりとその意見が世間に受け入れれれたわけではない。むしろ、無視された。確かに『MARIA』は欠陥があるが、それでで徐々に死につつある日本人という人種を救うには、必要不可欠な存在なのである。
イデオロギーとイデオロギーの衝突は大きい方が勝つ。
当然の摂理である。
だが、話はそれで終わらなかった。
大利根教授が問題の解決に向けて『MARIA』に“忠誠システム”を導入し、母であることよりも所有物であることを最上位とすることで販売を再開しようとした。
それに我慢ならない人間は、等々強硬手段に出ることとしたのである。
――『MARIA』狩り
それはごく少数の人間によるゲリラといっていい。
毎日日本のどこかで『MARIA』が破壊されていく。
武器はごく単純なもので金属バットや自動車などとにかく破壊できれば手段を選ばない。それだけに効果は絶大だった。
『MARIA』の人工子宮には世に出るのを待っている子がいるはずであった。しかし、凶行に及ぶ人間達にとっては、機械から生まれ落ちる子供など人間として数えることを認めないかのように、『MARIA』と運命をともにすることとなった。
もちろん、警察もこの痛ましい事件を引き起こす輩を許すわけではなく、懸命に追っていた。しかし、犯行時は綿密に計画されれているのだろう。目撃者が1人もいない状況で事件は起こり続けた。
『MARIA』の完成後、はじめて店を訪れた大利根さんは、ほとほと困り切っていた。
「『MARIA』が全く売れなくなってしまったよ。誘拐事件の時には、まだシステム上の欠陥でまだ人々も大丈夫だったけど、今回は明らかに悪意ある殺人事件だ。もし 『MARIA』を購入しても我が子もろとも壊されるのではたまらないからね」
僕は淹れたてのコーヒーを差し出しながら言った。
「犯人はわからないんですか?」
「どうにもね。よほど頭がいい奴がやっているようで、手口が巧妙なんだ。――ところでカナリアは?」
「買い出しに行っています。もうすぐ帰ってくると思いますよ」
僕は時計を見た。
今は午後七時。
一時間は経っているから、そろそろ帰ってきてもいい頃合いだ。
大利根さんはコーヒーをズズッとすすりながら、同じように時計を見た。
「私もあまり長居はできないからね。カナリアに挨拶したら帰るよ」
「事件の対応で忙しいんですか?」
大利根さんは、いや、と答えた。
「『MARIA』よりも父のことがね。父も高齢で体のあちこちにガタが来ている。今まではそれを気力だけでなんとかしていたのだが、事件のことがさすがにショックだったようでね。――少し痴呆も始まっているようなんだ」
「……それは、大変ですね」
人生の最後に全てをかけたものが、もろくも崩れ去ろうとしている。それでショックを受けるなと言うのはどだい無理な話だ。
その点、祖父は若いときにその挫折を味わった。
それからカナリアの製作、そして喫茶店のマスターという新たな人生を手に入れた。きっと大利根教授よりもマシだろう。
それから二十分経ってもカナリアは帰ってこなかった。
駅前の商店街なら、二往復くらいはできる時間だ。
「そろそろ、失礼するよ。カナリアが帰ってきたらよろしくと伝えてくれ」
大利根さんがそういって隣の席にかけていたコートを取ったときである。
入り口のベルがカランカランと鳴った。
僕はカナリアが帰ってきたと思い、「遅かったね」と声をかけようとした。だが、言葉は音として出なかった。
そこにいたのは、服はボロボロ、片腕がもげて頭から黒い潤滑液を流しているカナリアの無惨な姿だった。
「カナリア!」
大利根さんが発した叫びで、僕は我に返って急いでカウンターから飛び出しカナリアへ駆け寄った。
「カナリア、何があったんだ?」
「……四丁目の田中さん家にいる『MARIA』が襲われていて、それを助けたの。なんとか追い返したんだけど、無傷では済まなかった。――でも『MARIA』も赤ちゃんも無事よ」
そう言って倒れそうになるカナリアを僕と大利根さんが支えた。
百五十キロという体重も完全にカナリアが壊れていたわけではないので足のオートバランサーが働いていたし、二人なのでなんとか支えることが出来た。
あまりにも店が暇すぎて密かに筋トレをしていたおかげでもあるだろう。
「雅之くん、カナリアのメンテナンスルームはどこだい!?」
「地下です」
「では行こう」
大利根さんの指示通りカナリアを運ぼうとすると、カナリアは残された手で僕の肩をはしと掴んだ。
「その前に私のメモリーを調べて下さい。犯人達の映像が残っています。おそらく、今回の件でただひとつの証拠です。早くしないと逃げられてしまいます。一刻も早く、お願いします」
「メモリーを調べるってどうすればいいんだ。僕はカナリアの構造についてまるっきり知らないんだよ」
「私の頭の心臓部はメモリーが記録されています。ですから、メンテナンスシステムを使ってコピーをして下さい」
「わかった」
カナリアは僕が承知すると電源が切れたように倒れ込んだ。
さすがに全体重がかかると僕たちでも支えることが出来なかった。
それからは大変だった。
裏の庭に猫車があるのを思い出し、何とかそれにカナリアを載せて階段を一段一段慎重に下りながらメンテナンスルームへと向かった。
修理は自動で行うらしく、作業台に乗せると無数のアームが出てきてカナリアの故障箇所へと集まる。これが、祖父の残したものかとあらためて認識すると、その偉大さがよくわかった。
僕は、じっとカナリアが修復されていく様子を見ていた。
人間は皮一枚で容れ物を形成している肉でしかない。そしてカナリアもまた人工の皮で人型を形成している人形でしかない。その現実が僕の脳裏に刻まれていく。
――でも、僕はカナリアをものとして扱えるだろうか。
無理だろう。
カナリアは家族だ。
僕にとって代わりなどいないかけがえのない家族なのだから。
僕は、作業台からはみ出ているカナリアの手をそっと握った。
「目を覚ましてくれカナリア。僕は君がいないと駄目なんだ」
気がつくと、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「……雅之くん」大利根さんが僕の肩に手を乗せる。
僕は滲む目で大利根さんを見た。
「大丈夫だ。カナリアは元のようになるから。心配はいらない。――それから、さきほどカナリアが言っていたメモリーを私の携帯端末にコピーした。これから警察に行ってくるよ。きっとすぐにカナリアをこんな目に遭わせたヤツを見つけてくれるだろう」
僕は小さく、お願いします、と頭を下げた。
大利根さんはメンテナンスルームから出ようとした。
その直前で足をピタリと止める。
「雅之くん。父が藤治さんと衝突したのは、アンドロイドに出産機能をつけるかどうかということだった」
僕は首をかしげた。
「なぜ今それを?」
「なんとなく、今言うべきかと思ったんだ。父は『MARIA』を、そして藤治さんはカナリアをつくった。そしてその結果はこれだ。『MARIA』が世に出てから半年程度しか経っていないというのにこれほどまでの混乱をもたらした。それに『MARIA』は子供を産むことは出来ても誰も守れない。己の身を犠牲にしても他人を守ろうとしたカナリアに比べてなんて不完全な存在なんだろう。私はここに至って藤治さんが正しいのだという気がしてきた。アンドロイドは母親にはなれやしないんだ」
「僕にはどちらか正しいのかなんてわかりません。でも、人がそれを決めるのは傲慢ではないですか? 彼女たちは生きています。僕たちは支配をするのではなく共にあることを選べば、彼女たちは母になれるし、こんな悲しみを生むことはないのではないですか?」
僕はまっすぐ大利根さんの目を見た。
大利根さんはに、人間が皆君のように純粋であればよかったのだけれど、というと静かに上がっていった。
残された僕は、再びカナリアの手を握りながらカナリアが目を覚めるのを祈りながら待ち続けた。
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