祖母の横顔(後編)
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 聖路加国際病院は広大だった。

 第二街区と呼ばれる新病院棟の五階にリハビリ病棟があるが、一階の外来はまるで商業施設のような明るさと開放感がある。

 麗は一階までエスカレーターで降りてくると、外来患者、入館証を首から提げた職員や出入り業者の雑踏の中に祖母を捜したが、容易に見つかろうはずはなかった。

 認知症患者がふらりと病室を出て行ける造りであることは疑問だったが、病棟や病院は牢屋ではない。その分、開放感をもたせ、見とおしをよくしているのは、離院患者を発見しやすいように、との配慮からであろう。

 医事課の受付窓口と外来が、さながら大規模商業施設に軒を連ねるテナントのように配された低層部分を回ると、麗は第一街区と呼ばれる旧病院棟の保存部分へ足を向けた。

 新病院棟とは地上二階で屋根付きの連絡橋で繋がっている。この連絡橋の内部は画廊として演出され、病院の来歴から西洋の宗教画の複製が多く掲示されている。

 保存部分は昭和八年に三名のチェコ人建築家によって設計が進められたネオゴシック様式の建物で、外から見上げると、何とも古風が漂うが、内部は石造りの荘厳な礼拝堂と鐘楼がそびえ、日に三度、現在でも明石町一帯に賛美歌が流れる。

 また、この保存部分は居留地時代の名残を示す明石町のシンボルとして東京都選定歴史的建造物の指定を受けている。

 保存部分の左右にウイング状の棟が増築され、看護大学や小児総合医療センターなどの施設となっているが、それと知る者でなければ、殆ど意識できないほど、デザインに整合性がもたされている。

 礼拝堂とロビーの間はガラス戸で仕切られているだけで、双方、丸見えとなっている。ロビーに並べられたソファには、昼休みを利用した職員が寛いでいる。

 礼拝堂が丸見えのロビーを白衣に濃紺のカーデガンを羽織った看護師が頻繁に行き交う姿は、この病院ならではの光景であった。

 麗もロビーを横切ろうとしたそのとき、ガラス戸だけで仕切られた礼拝堂からパイプオルガンの演奏が聞こえていることに気付いた。そう言えば、今日はクリスマスで、夜には外部から著名なオルガニストを招き、コンサートが計画されている。

 ガラス戸を押し、堂内へ足を踏み入れると、梁や貫が全て半円形の石造りで、祈りの場にふさわしい厳かな小暗い空間に、抽象的な図像のステンドグラスをとおして、淡い光が差し込んでいる。

 人気はなく、静まり返った礼拝堂内に響くパイプオルガンの音色は、透明感にあふれ、正に天界からの調べを聞く思いであった。

 もしや祖母が礼拝堂にきているのでは、と考えたのだが、信者席に人の姿はなかった。

 麗は信者席の最前列に座り、背後を振り仰いだ。

 二階に設置されたパイプオルガンが闇に佇む神像のような神々しさをもって迫った。このオルガンは、フランスでも著名な工房製で、三段の手鍵盤をもち、パイプ総数二千七十七本、三十ストップという巨大楽器だった。

 ふと、正面の祭壇に向かい、右側奥にあるチャプレン室と呼ばれている礼拝堂の事務室から、コードレス電話機の子機を耳に押し当てた主任オルガニストが飛び出してくると、

「もう、オルガニストさん、お見えなんですか? え? 午後五時の予定? だって、もう、リハーサルを始めているんですよ。一言礼拝堂にも知らせていただかなければ困ります!」

 麗は、これだけの総合病院を運営するには、数百人のスタッフが必要となり、その分、伝達経路が複雑となって一度、連絡不行き届きを起こせば、たちまちに叱られてしまう社会の厳しさを見た思いになった。

 主任オルガニストの苦情を聞いていると、オルガンを演奏しているのは、外部から招いたオルガニストではなければ、礼拝堂の主任オルガニストでもない。

 では、一体、誰が。まさか……麗が茫然としたとき、リハビリ病棟の病棟師長が落ち着き払った足取りで入ってきた。

 信者席に麗がいたことから、主任オルガニストに小声で、

「離棟の患者さまを捜しています。申し訳ありませんが、二階へ上がらせていただきます」

 耳打ちをした。

 コンサートホールはステージ後方や左右にオルガンと演奏台を設置するが、礼拝堂は信者席の後方に設ける。奏者が誰であるのか確かめるには、チャプレン室から二階へ上がる他なかった。

 麗も看護師長の後について二階へ上がり、わずかなライトに照らされた演奏台で、見事な演奏を続けていたのは、やはり祖母の文その人であった。

 文は、J・S・バッハ作曲の『トッカータとフーガニ短調 BWV538 ドリア調』の演奏を始めていた。主任オルガニストも病棟師長の傍らに立ち、

「す……すごい。あの患者さまは一体……」

 文の気品のある横顔に見入った。

 祖母の演奏は主任オルガニストをうならせるほどの腕前で、麗は真実を伝えるのは今を置いて他にはない、と思い定め、制服である濃紺のプリーツスカートのポケットに入れておいた、シャインパールピンクにきらめく携帯電話を取り出すと、父の携帯電話番号を発信した。すぐに泰一の声で応答があると、

「おとうさん、早くきて! 旧館の礼拝堂! 早く!」

 一方的にまくし立て、通話を切った。文の演奏が続く中、泰一は憮然とした顔で礼拝堂に足を運び、二階の手すりから身を乗り出した麗に手招きされると、自分も二階へ上がった。

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 ほのかなライトに照らし出され、まるで舞うように全身全霊をもって演奏を続ける文の姿を目にしたその一瞬、泰一は凝然と目を見張り、

「これが、あのバアさんが弾いているって言うのか……」

 立ち尽くした。麗は戸籍謄本と付票を父に突き出すと、

「おとうさんが四歳、泰次おじさんが二歳のとき、おばあちゃんはおじいちゃんと離婚しているのね。おとうさんはおばあちゃんが一方的に幼い息子達を捨てて出て行ったように聞かされているらしいけれど、心身ともに健全な母親が幼い息子二人を放り出して行く、なんて絶対にないと思う。

 おそらく、姑さんから上流家庭の末娘として育ったおばあちゃんは、個人商店の嫁としては役立たず、とさんざんいじめられ、無理矢理おじいちゃんと離婚させられたんだと思う」

 まず、父の思い込みを正した。泰一が、小娘に何が解るか、という表情で押し黙ると、麗は一枚のCDを父に渡した。

 そのCDは、ジャケットに綴じられた解説によると、『大バッハの申し子』『黒鍵盤の貴公子』とあだ名されたジャン・ザイラーが、クラシックの大家が作曲した著名な名曲をオルガンでソロ演奏できるよう編曲した作品集である。

 クラシックは難しい、お上品に過ぎる、更にはオルガンは賛美歌の伴奏をするための楽器で宗教には興味がない、とする人たちの思い込みを少しでも改められれば、という願いを込めて出版されたものだった。

麗は、CDケースから引き抜いた解説のページを繰った。

 ジャンが妻を賞賛し続けていたことを証言する解説が記されたページが現れた。そこには、白黒ながら、若い文がジャンと仲睦まじく写された図版が添えられている。

 泰一は愕然とした。

 母の文は、明石町から六本木の実家へ戻った二年後、ジャンが育ったフランクフルトへ再嫁していたのだった。

 

 『黒鍵盤の貴公子』が日本人の妻を大切にしていたことは、あまり知られていない。

 フミ・カミオがその妻であった。文の父は優れた録音技師で、三女とジャンを出会わせたのもこうした縁からであろう。

 『貴公子』は語る。

「僕が、オルガンを弾いていられるのは、フミがいつもそばにいてくれるからだよ。父は実家のあるフランクフルトで大人しく精肉店を継ぐことを勧めていたけど、僕にはアムステルダムに近いオランダの町ハーレムにある聖パフォ教会にあるオルガンを一度でいいから弾いてみたい、という夢があったんだ。

 それには、オルガンで成功して認めてもらう以外にないんだ。父はいい加減、夢見ているんじゃないと、僕を叱りつけるたびに、フミは父よりも恐ろしい剣幕で、夢を捨てて何のための人生なの? と怒鳴りつけるんだよ。

 フミは近所の子供達にもヴァイオリンを教え、家計を助けてくれた。フミのレッスンは厳しかったが、誰も辞めてしまう子はいなかったな。むしろ、フミに多く叱られる方が子供達には自慢だったようだ。フミは最高のヤマトナデシコだよ」

 

 ドイツのオルガニストとしては、最高権威とされる人物が、延々とフミを賞賛し、泰一がうんざりし始めたそのとき、文の演奏はJ・S・バッハ作曲の『管弦楽組曲 第三番 ニ長調 BWV1068 第二楽章 アリア』のオルガン編曲に移っていた。

 

「厳しさと優しさを併せ持ったフミだったけど、彼女はニホンのトーキョーに残してきた、という二人の男の子達のしあわせを一日として忘れることなく、祈り続けていたよ。

 僕の演奏に彼女は祈りを重ね、何時間でも礼拝堂の冷たく硬い石の床にひざまずいているんだ。

 この念願のCDを録音するに当たり、パフォ教会を訪れることができたのは、僕にもフミにも至高の栄誉だったよ。このオルガンを弾くためにヘンデル、モーツァルト、メンデルスゾーン、リスト、サン=サーンス、シュバイツアーも訪れているんだ。僕もやっと仲間に入れてもらえたかな。

 薄く、小さな一枚だけど、買ってくれた人がクラシックにちょっとでも興味をもってもらえれば、僕もフミも本当に嬉しいんだ」

 

 泰一は、がたがたと震え出すと、がくりと膝を床についた。母の姑から偽りの教育を受け、母を恨み、憎んでいたその歳月、母は石造りの床に我が身を投げ出し、自分と弟のしあわせを願い続けていたのだった。

 この解説が創作であろうはずはない。この解説を書いた音楽評論家に手嶋家と神尾家は何の利害関係もない。

「……おふくろ……おふくろ……」

 泰一は這うようにして淡いライトを浴び、華麗な演奏を続ける老いた母を求めるように震える手を伸ばした。床にはぽたりぽたりと泰一の涙が滴り落ちた。

 そうした長男を目にすると、文は静かに頬笑み、演奏を続けた。

 悲願だったパフォ教会での演奏を果たした三年後、ジャン・ザイガーは肺炎で急逝しているが、恐らくその頃から文に認知症が発症したのだろう。症状は深刻で、フランクフルトの医師は日本への帰国を勧め、文は泰一と泰次を求めながらも、生家のあった六本木で徘徊していたところを警察に保護されたのだった。

 祖父の電気店では役立たずと決めつけられてしまった文であったが、フランクフルトでは世界的なオルガニストを輔け続け、帰国を果たした英雄であった。これが、麗が五年間、求めて止まなかった真実であった。

 四十年の歳月をかけ、孫娘の協力を得て、ようやくに息子達を取り戻した文は、その深い感謝を僅かでも表そうと、大バッハの名曲を奏で続けた。(完)

説明
高校一年生の手嶋 麗(てしま れい)が認知症の祖母に抱いた疑問の真実は?という物語です。
東京都中央区明石町にある聖路加国際病院を舞台に、認知症患者が行方不明になってしまう、という展開ですが、現実には離棟を防止するため、多くの知恵や技術が駆使されていますのでご安心下さい。
小市民が実際に礼拝堂に訪ねた際、コンサート当日ではないにも関わらず、オルガニストさんが練習のためか、オルガンの美しい音色を聴くことが出来ました。本当に驚きました。
また、劇中で文が演奏しているバッハの管弦楽組曲第3番第2楽章のアリアは美しい曲です、機会があれば、是非お聴き下さい。
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聖路加国際病院 認知症 礼拝堂 管弦楽組曲第三番ニ長調BWV1068第二楽章アリア トッカータとフーガニ短調BWV538ドリア調 

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