あやせたん結婚る |
「お兄さん、こんな所にわたしを呼び出して一体何のご用でしょうか?」
わたしにはこれが夢だと最初からわかっていました。
「あやせに大切な話があるんだ」
「はっ、はい!」
夢なのについ背筋を伸ばして返答してしまいました。
お兄さんの表情があまりにも真剣だったから。でもだからこそ夢なんです。
だって、お兄さんがこんなにも真摯な表情をわたしに向ける筈がないから。
しかもこんな夕日が綺麗な海の見えるロマンチックな公園にお兄さんがわたしを呼び出す筈がありません。
そんな気の利いた人じゃありません。女の子の心なんてわからない人なんです。
だからこれは夢に違いないんです。
でも夢だから……きっと次にわたしが望む言葉を聞けることも何となくわかっていました。
「俺は……あやせのことが好きだ。愛してる」
お兄さんは熱い瞳を向けながらわたしの手を握りました。
だけど現実のお兄さんが真剣に告白してくれるわけがありません。わたしにとてもつれない方ですから。
だから夢なんです。
でも、わたしは
「嬉しいです。お兄さん……」
嬉し涙を流していました。
だって夢とはいえ、わたしの長い間の想いが報われる言葉だったのですから。
「わたしも、お兄さんのことが大好きです」
夢の中でしか告げられない言葉を述べます。
わたしが自分の気持ちをこんな風に素直に表現することはないと思います。
お兄さんが真剣にわたしを愛してくれない限り。
でもお兄さんがわたしに真剣に恋してくれる可能性はほとんどないと思います。
だからわたしがお兄さんに愛の告白をすることは一生涯ないと思います。
でもここは夢の中だから素直に自分の心を表現することができます。
そして夢の中なのでわたしが望むことがみんな叶う空間なんです。
お兄さんはわたしの両肩を掴みました。
それから顔を近づけながら凛々しい顔で言いました。
「あやせ……俺と結婚して欲しい」
お兄さんからプロポーズは以前実際にされたことがあります。
でもそれはわたしの嫌がる反応を楽しむセクハラ目当てでした。
こんな風に真剣にプロポーズしてくれたことはありません。
だからこれはやっぱり夢なんです。
「はいっ。喜んでお受けします」
夢だから素直に返事できるのです。
「ありがとう、あやせ。君みたいな可愛い子をお嫁さんにもらえて俺は最高の幸せ者だ」
「わたしこそ、お兄さん……京介さんみたいな頼りがいのある方を旦那さんに持てるなんて最高に幸せ者ですよ」
いつの間にかわたしたちの服装が様変わりしています。
わたしは純白のウエディングドレス。
京介さんは黒いタキシードです。
そして気が付くとわたしたちの後ろには真っ白な大きな教会が立っていました。
わたしたちの真下には真っ赤な絨毯が敷かれています。
さすがは夢。根回しの良さは完璧です。
ということは、次はいよいよ──
「愛してるぜ、あやせ」
京介さんはわたしの腰に手を回しながらゆっくりと顔を近づけてきます。
キス。
それはわたしがずっと抱いている願望。
現実では絶対に叶わないと知っているからこそずっとそれに憧れています。
だから、夢の中ぐらいは良い“夢”を見たいと思います。
「わたしも愛してます京介さん」
そして2人の唇はゆっくりと重なって──
ジリリリリリリリリリリ
今まさに重なろうとした瞬間に目が覚めました。
5時半にセットしておいた目覚ましが大きな音を奏でたのです。
「タイミングが、あまりにもお約束すぎませんか?」
アラームをひと睨みしてから大きく息を吐きます。
久しぶりに見たすごく良い夢でした。内容もはっきりと覚えています。
後1分、後1秒あの夢を味わっていられれば、わたしは最高に幸せな気分で目を覚ませたのかもしれません。
「……でも、夢の中でキスしても却って虚しくなっただけかもしれないですね」
夢の中で幸せすぎると現実の自分に落胆するしかありません。だからこれで良かったのかもしれません。
「って、全然良くありませんよっ!」
鏡に映った自分の顔を見ながら憤慨します。
鏡に映ったわたしはあからさまに落ち込んだ表情を見せていました。
「モデルにあるまじきネガティブな表情です。こんな顔してたんじゃわたし、失業しちゃいますっ!」
わたしがモデル業を続ける為には落ち込みの原因を根元から断ち切らないといけません。
その為には憂鬱の根源である、この報われない片思いに終止符を打つしかありません!
つまり、京介さんと恋人になって結婚するしかないんです!
「あれっ? でも、わたしが京介さんの所にお嫁に行ったらモデルを廃業しないといけませんよね?」
わたしは結婚したら働くのはやめようと思っています。
両親はいつも仕事で忙しく、わたしは幼い時に毎日寂しい思いをしていました。
だから自分の子供にはそういう思いをさせたくありません。たとえ経済的的に貧しくなってもです。
「わたしの進むべき道は京介さんと結ばれて専業主婦となり、子供と一緒に『パパ、お帰りなさい』と玄関まで出迎える幼な美人人妻しかないみたいですね」
目標は決まりました。
「でも、どうすれば京介さんはわたしのことを好きと本気で言ってくれるでしょうか?」
京介さんが本気でわたしを好きと言ってくれるでしょうか?
考えれば考えるほどその可能性はない気がします。
半年間わたしが着信拒否していたのにも気付かなかった人です。京介さんの方からわたしに会いに来たこともありません。
……結論、わたしに勝ち目はない気がします。
「って、こんな受身じゃダメなんですっ! 何とか手を打たないと!」
麻奈実お姉さんのお話に拠れば最近京介さんは複数の女性と仲が良いそうです。
まだ正式な彼女はいないようですが、京介さんが誰かと付き合い出すのは時間の問題な気がします。
「…………だけど何も良いアイディアが浮かびません」
しばらく考えてみましたが打開策は何も浮かびません。
「はぁ〜。気分転換でもしましょうか」
着替えて下に降ります。
庭木に水をやっていれば少しはこの憂鬱な気分も晴れるかもしれません。
首をぐるっと回しながらゆっくりと階段を降ります。
すると階下には母が立っていました。
いつも忙しい人なので朝に顔を合わせるのも実は珍しかったりします。
「おはようございます」
母に丁寧に頭を下げます。
新垣家では親子の挨拶であってもきちんとした礼儀を要求されます。
丁寧な挨拶が体に染み付いているので仕事の時には重宝しますが、友達には引かれます。
特に桐乃の大喧嘩して仲直りしたぐらいから自分の生き方に息苦しさを覚えるようになりました。
でも、自分は新垣家の娘である以上、どうにもならないと半分諦めてもいます。
「あやせ。お父さまからお話があるそうですよ」
「お父さまが?」
父は母に輪を掛けて忙しい人です。同じ家にいてさえ滅多に顔を合わせることはありません。話をすることなど尚更ありません。その父が一体何の用でしょうか?
「わかりました。洗顔後、書斎にお伺いします」
父と最後に話したのはいつだったか、その時どんな話をしたかを記憶の片隅から引っ張り出しながら書斎へと向かいます。
ここ1ヶ月全く父と話していないという結論を得ながら父の書斎をノックします。
そしてわたしは中へと入っていきました。
この時のわたしは父がどんな話を持ち掛けて来るのか、その話がわたしの人生に、そしてわたしの知っている人たちの人生にどんな影響を与えるのかまるでわかっていませんでした。
あやせたん結婚る
高校3年生の秋というのは非常に厄介な季節だ。
大学受験、もしくは就職という人生最大級の分岐点を目前に控えた時期だからだ。
大学受験の場合、秋は受験校を決定しなければならない季節だが、それが難しい。
「もう1ランク上げるべきか、このまま行くべきか……」
本日返却された全国模試の成績表を見ながら悩む。
ここは屋外であるが、そんな些細なことは気にしない。それぐらい重要な岐路にいるのだ、俺は。
志望校判定の欄をもう1度見る。
第一志望に掲げているC葉大学○○学部には『A』の判定が下されている。
判定はAからEランクで、Aの合格率が最も高い。
この判定を見る限り、よほどのことがない限りC葉大学に俺は入学できる。
妹があまりにも天才的な頭脳を持ってくれてしまっているおかげで俺は家族からも周囲からも霞んだ存在とみなされている。けれど、俺だってそれなりにはやるのだ。
妹が眩い金メダリストのおかげで存在がクローズアップされない銀メダリストなのだ。
けれど、11月の段階でAランクを見せられてしまうのも実はあまり良くない。
勉強する気が失せるし、もう1ランク上の大学を受けたくなるからだ。
この不況のご時勢、大学のランクは一つでも上の方が就職に有利に決まっている。
しかし、もう1ランク上を見た瞬間にまた新たな、しかも大きな問題が生じる。
第四志望に掲げたT京大学○○類には『D』の判定が下されている。
最低から2つめ。合格率にして20〜40%圏内。
今から懸命に頑張っても相当に分が悪い。
更に、入試制度の都合上、T京大学を受けるとC葉大学を受けられなくなる。
T京大に勝負を掛けるとA判定をもらっているC葉大を捨てなければならないのだ。
けれど、安全確実な道を選ぶと4年後がそれだけ不安になる。
進路に関して明確な決断を下すことができず、悶々とした気持ちを抱えこむ。
それが現在の俺の状態だった。
「はぁ〜。こんな時にあやせに思いっきりぶっ飛ばしてもらうとスッキリするんだけどなあ」
人間には優しくして欲しい時と優しくして欲しくない時がある。今の俺は優しくして欲しくない時を迎えていた。
マイ・ラブリー・エンジェルあやせたんならば俺の戸惑いの心を鋭い蹴りと強烈なスタンガンで吹っ飛ばしてくれることだろう。
ああ、あやせに会いたい。
あやせに蹴られたい。変態と罵声を浴びせられたい。尊厳をズタズタに引き裂かれた上にゴミのように捨てられたい。
18歳の秋は多感だ。
「……さて、帰って勉強でもするか」
勉強もせずにうだうだ悩んでも仕方がない。
同じ迷うなら問題集を見ながら悩もう。そう思い、家に帰ろうとした時だった。
「おおっ、あやせじゃないか!」
前方から天使が舞い降りてきた。より正確に言えばマイラブリーエンジェル新垣あやせが俺に向かって歩いて来たのだ。
いや、単にこちら側に向かって歩いているだけなのだが、俺にとってはそんなこと些細な差でしかなかった。
何故なら、あやせはちょっとセクハラすれば簡単に怒り爆発してくれる。俺にとって最適なノノシラレゲンなのだ。
今日も爽やかにセクハラして目一杯酷い目に遭わせてもらおう。そう思い軽い足取りでスキップしながらマイ・エンジェルへと近付いていく。
そのあやせは考え事をしているのか下を向いて歩いており、近寄っていく俺の存在に気が付いていない。
よし、セクハラするには絶好の機会だ。待ってろよ、あやせの蹴りと罵声っ!
「よっ、あやせ。今日も超超美人だな」
まずは軽いジャブから入る。
「お兄さん……ですか」
あやせは暗い声を発しながら顔を上げた。声に劣らずに暗い表情をしていた。
もしかしたら具合が悪いのだろうか?
いや、きっと俺が真の姿である爽やか好青年ぶりを発揮し過ぎているからツッコめないに違いない。
なら、いつもの調子が出せるように俺もセクハラに磨きを掛けねばなるまい。
「今日はせっかくの良い天気だから……俺と結婚しようぜ」
出会い頭のプロポーズは俺たちのコミュニケーションの基本。
さあ、その自慢のハイキックを俺にお見舞いしてくれっ!
「わたしとの結婚……それは本気で言っているのですか?」
「へっ?」
あやせは暗い表情のまま真剣に聞き返してきた。
予想外の反応だった。てっきり罵倒と共に暴力を振るわれると思っていたのに。
「あの……あやせ、さん?」
自分でセクハラ仕掛けといて何だが……どうすりゃいいんだ?
「お兄さんはわたしのことを本当にお嫁にもらってくれるんですか? 今すぐにでも?」
あやせが言葉を続ける。しかも真剣な表情で。
「いや、あのプロポーズはただのセクハラなんで……そんな風に真剣に聞き返されちゃうと立つ瀬がないんだが……?」
「つまり、お兄さんはわたしをお嫁にもらってくれる気はないということですね」
あやせの俺を見る目が険しいものに変わる。
「いや、その、だから、だって……あやせはまだ中学生じゃないか。結婚とか何とかまだ早いだろ……」
「そう、ですか。わたしなんか、お兄さんにってはお嫁にもらう価値もないつまらない女の子なんですよね。わかっていましたよ」
あやせは不機嫌そうに俺から目を背けてそっぽを向いた。
「だからそうじゃなくて、お前まだ中学生だろ。結婚なんてまだ先の話で……」
今日のあやせには凄く切羽詰った感じを受ける。けれど、何にあやせが苛立っているのか俺には皆目見当がつかない。
「お兄さんにとって価値のないわたしはこれで失礼させていただきます」
「おいっ、ちょっと待てよっ! 何を一方的に結論づけてんだよ。説明しろっての」
けれど、あやせは俺の訴えを無視して歩き出す。僅かに俯いて地面を向きながら。
本当に全然あやせらしくない態度。
気になった俺は彼女の肩を掴もうとした。
「お兄さん……さようなら」
けれど、振り返ったあやせの泣きそうな表情を見たら掴むことができなかった。
「何なんだ、あやせ?」
あやせを掴み損ねた右手をジッと見る。
勿論答えは何も出て来なかった。
「今日のあやせは一体どうしたんだ?」
自宅に帰ってもあやせの豹変が気になって仕方がなかった。
勉強に身が入らずベッドに寝転がりながら休憩を取る。
センター入試までもう2ヶ月ぐらいしか残っていないことを考えると情けないほどの体たらく。ほんと、こんなんで受験本番は大丈夫なのかね?
と、俺が自己嫌悪に浸っていると扉をノックする音が聞こえた。
「兄貴……人生相談があるの」
ノックするだけして返事を待たずに入って来たのは妹の桐乃だった。
けど、明らかにおかしい。妹の様子が変だった。
妹が俺の部屋に入るのにノックなんかしたことない。まして俺をバカも付けないで兄貴と呼ぶなんて普通じゃない。
一体、何が起きたんだ?
「人生相談……受けるの? 受けないの?」
「一体、何が起きた?」
桐乃の声は切羽詰っていた。
「あやせが、あやせが……結婚して学校辞めちゃうかもしれないのっ!」
「何だってぇっ!?」
妹から告げられた相談内容は俺が予想したよりも遥かにとんでもないものだった。
「あやせが結婚して学校を辞める? けど、あやせってまだ中学生だろ? 何だその無茶苦茶は?」
桐乃の言葉がにわかには信じられない。
「アタシにも訳わかんないんだけど、あやせのお父さんが東京のお金持ちの御曹司とあやせを婚約させて、あやせをその御曹司の家に送るって計画が進んでいるのよ!」
「何だその、時代錯誤な典型的な政略結婚は?」
15歳の少女を金持ちの男の家に送り付けるって、そんな漫画みたいな話が21世紀の現在にまだあるのか?
「何でもあやせのお父さん……次の選挙で危ないらしくて、それで千葉市に大きな影響力を持つ大企業と関係を強固にしたいらしくて、それで……」
「今時、アニメでだってそんなコテコテな理由で政略結婚なんてさせないだろ」
それは性質の悪い冗談にしか聞こえない眉唾な話。けれど、桐乃は真剣な表情を続けていた。
「本当なのか?」
「あやせは……理由は言ってくれないけれど転校をほのめかしているし、嫌だったけど地味子から裏も取ったし」
桐乃は首を縦に振った。
「じゃあ、本当だな。俺も今日偶然あやせに会った時に様子が明らかにおかしかったしな」
溜め息を吐く。
「あやせはさ、アタシの親友なの」
「知ってるさ。嫌になるほどな」
誰と誰のせいで俺が去年の夏の終わりに苦労したと思ってる?
「そしてあやせはさ、アタシのライバルなの。こんな形で決着がつくなんてアタシは絶対に認めない」
今度の桐乃の言葉はよく意味が分からなかった。
けれど、その言葉の意味を確かめている場合ではなさそうだった。
「それでさ……兄貴はどうするの?」
桐乃が厳しい視線で俺を見る。
「兄貴は……あやせがどうなったら良いと思うの?」
その質問は、俺が答えをずっと先送りしようとしていたものだったのかもしれない。
「俺は……あやせを……」
考える。俺はあやせにどうなって欲しいのか。
俺はあやせをどう思っているのかを。
あやせの政略結婚を聞かされた時に最初に浮かんだ感情は激しい怒りだった。
けれど俺は政略結婚の話が冗談であると信じ込もうとして怒りを抑えようとした。
それからやはり冗談でないと知った俺は、中学生の娘を政治的に利用しようとすることに対して社会的な怒りを燃やした。
ならば、ここで問うべきは何故最初に俺が激しい怒りを感じたのかということだろう。そして脳内で必死にこの怒りを社会的なものに転換しようとしていた理由だろう。
「わかってんだよ。その理由ぐらいは……」
これらの問いの答えを探すことは難しくない。ただ、認めるのが難しいというだけのこと。
でも、今は認めたくないなんてガキみたいに意地張ってる時じゃない。全力をもって事態に対処しなきゃならない。
なら、俺は踏み出さなきゃならなかった。
後はそう、踏み出す勇気だけの問題だった。
「アタシは、あやせと離れたくない! 名前も知らない変な男と一緒になって欲しくない!」
そして俺に勇気をくれたのは桐乃だった。
桐乃の瞳には光るものが溜まっていた。コイツはあやせの為に涙を流せるのだ。
じゃあ、俺は?
俺は、あやせの為に何ができる? あやせの為に何がやりたいっ!?
今こそ、つまんねえ観念なんか全部捨て去って全力で答えを出しちまえよ、高坂京介っ!
「桐乃……俺は今から新垣家に行ってあやせを連れ去って来るっ!」
俺はあやせを誰にも渡したくない。それを今、正直に認めてやる。
「…………アンタ、意味わかってその言葉を発してるの?」
桐乃が鋭い視線で俺を睨む。俺の本気を試しているのは間違いなかった。
「ああ。勿論わかってるぜ」
一度言葉を切って大きく息を吸い込む。
「あやせは一生、俺が守り通すっ!」
結局、俺に足りなかったのはあやせを真剣に愛していると認める覚悟だったのだ。
あやせのことがずっと好きだった。なのにセクハラの対象と置き換えることで自分の気持ちを誤魔化して来た。
相手は中学生だから、まだ子供だからと真剣に恋愛対象と捉えようとしなかった。
あやせに本気で振られる可能性を恐れて。だから俺は今まであやせと本気で向き合わなかった。
なら、今からでもあやせと本気で向き合うしかない。あやせの気持ちが俺を向かなくても良い。けど、この政略結婚だけは何としてもぶっ潰す。それが、俺のやりたいこと。それが、俺のなすべきことっ!
「それ、本気、なの?」
「ああ。本気、だ」
返事に迷いなど存在しない。存在できる訳がない。
そして桐乃は一度俯き
「アタシに……失恋させておいて、格好付けてんじゃないわよ」
顔を上げて泣き笑った。
何故桐乃が泣き笑ったのか。その理由を考える余裕が俺にはなかった。
「それじゃあこれから新垣家にちょっとばかし行って来る」
ガキの頃に使っていた金属バッドを担ぎ上げながら軽く息を吐く。野球部には負けるがスイングだけなら結構自信がある。
「待って。アタシも一緒に行く」
桐乃が横に並んできた。
「あやせを助けたいと思うのが、アンタだけだと思わないでね」
“下手すりゃ退学になるぞ”“警察に捕まるかもしれないぞ”
そんな言葉で妹の意思を確かめたくなる。
けど、コイツの燃えている真剣な瞳を見ていればそんな質問が如何に蛇足かよくわかる。
だから代わりに言ってやる。
「足、引っ張んなよ」
「それはアタシの台詞だっての」
妹と顔を合わせて笑う。
そう言えばこうやって妹と笑い合うのは数年ぶりのことかもしれなかった。
ちょっと心躍らせながら俺たちは新垣家に向かって歩き始めた。
俺と桐乃はあやせを救い出す為に高坂家を出た。
だが俺たちは玄関を出て早々に思いもしない人物と遭遇することになった。
「よぉ。遅かったじゃねえか」
「加奈、子?」
玄関を出たすぐ先の所で壁に寄りかかりながら加奈子が立っていた。
加奈子の右手にはメルルの……いや、それとは違う魔法のステッキが握られている。もっと長くて、強そうなステッキだ。
そしてそのステッキを握る手には強い力が篭められていることが傍目にもわかった。力み過ぎて右手の指が真っ赤になっているのだから。
どうやらコイツも俺や桐乃と同じ考えらしい。そういや加奈子もあやせの親友だったな。
なら、野暮なことは尋ねない。
「その魔法のステッキにはどんな仕掛けがあるんだ?」
代わりに加奈子がどれほどの戦力になってくれるのか確かめる。
「屋敷の外の警備員や用心棒は全部あたしに任せろ。レイジング・ハート。これはそういうステッキだ」
「そうか。……頼りにしてるぜ、相棒」
加奈子の言葉から幾つかわかったことがある。
新垣家、というかあやせの親父さんはこの結婚話が普通ではないことを理解している。にも関わらず結婚話を推し進めようとしている。そして、あやせの抵抗や俺たちの妨害を予期して力で押さえ込もうとしている。
つまり、あやせの親父さんは悪いことをしている自覚があるのに止める気がない。
なら……そんな結婚話は俺たちが叩き潰してやる。
それから新垣家には警備員や用心棒が配置されているという件。これは俺たちの目的が簡単には達成できないことを物語っている。
また、用心棒まで雇って警備するぐらいなのだから結婚の刻は迫っていると見るべきだろう。一刻の猶予もないと考えないと取り返しのつかないことになるかもしれない。
そして用心棒という単語に俺は嫌な予感を覚えずにはいられなかった。この千葉市で用心棒を任されそうな組織と言えば、普段は和菓子屋を営んでいるとある一家しか思い浮かばなかった。予感が外れて欲しいと切に願う。
まあ、全ては行ってみればわかることだった。そして答えが明らかになる時はもう目前に迫っていた。
加奈子を加えて3人になったパーティーが高坂家を出発して約30分、俺たちは遂に新垣家の前へと到着した。
「こんな光景……漫画の中にしか存在しないと思ってたぜ」
「アタシも」
鉄の柵越しに俺たちの目の前には、やたらガタイの良い黒服にサングラスの男たちが忙しなく屋敷内を彷徨いていた。
如何にもボディーガードって感じだ。俺のこのバットでは1人も倒せないかもしれない。
「さて、どうやって侵入するかな?」
桐乃の顔を見る。
「桐乃は聞いてないのか? 新垣家の秘密の脱出ルートとか下水道が中に繋がっているとかそういうの」
「あのねえ。アニメじゃないないんだから、個人宅にそんなものがある訳がないでしょ? 仮にあったとしても、アタシに教える訳がないでしょ」
「そりゃそうだな」
いきなりミッションに困難を抱えてしまった。さて、どうしたものか?
「オメェらは正面からあやせの家に入れ」
「「へっ?」」
加奈子の提案に俺たち兄妹は声を合わせて驚いた。
「加奈子、お前?」
「言っただろ。屋敷の外の警備員や用心棒は全部あたしに任せろって」
加奈子は魔法のステッキを掲げてみせる。
「口で説明するよりも、行動で説明した方が早いだろ! 行くぜ、レイジング・ハート!」
加奈子の言葉に反応して魔法のステッキが光り輝いていく。
「こんな悪党のボディーガードとして雇われた自分の不幸を嘆くんだなっ! 食らえっ!」
次の瞬間、ステッキから強烈な光が輝き、無数の閃光が屋敷の敷地内へと飛び散っていった。それから一瞬遅れて、敷地内の様々な場所から爆発音が聞こえてきた。
「す、すげぇ……」
「な、何よアンタ。本物の魔法少女だったの?」
俺も桐乃も加奈子の魔法に驚くしかなかった。
いや、加奈子は確かに以前から魔法少女のコスプレしていたぜ。けど、コスプレと本物じゃ訳が違うだろ?
けど、加奈子の対応は違った。少しも偉ぶらなかった。
「行くぞ」
ただ前を向いて、大きく穴が開いた鉄柵と正面に聳える邸宅だけを見つめていた。
加奈子は堂々と、そしてその後ろを俺と桐乃は恐る恐る新垣家の敷地へ足を踏み入れる。
中には至る所で黒服の男たちが無言のまま突っ伏していた。
「ちょっと。もしかして、あの人たち死んじゃったの?」
桐乃が不安げに尋ねる。
「死んじゃいねえよ。ただ気絶してぶっ倒れているだけだ」
加奈子は正面を向いたまま淡々と答える。
あやせの結婚話にも驚いたが、今日の加奈子の変貌にもビックリだ。いきなりファンタジー世界に放り込まれた気分だ。
「もっとも次は殺す気で掛からないと殺されるのはあたしの方かもしれないけどな」
加奈子は立ち止まりステッキを両手で握って構えた。
「あら、おじいさん。時空管理局の白い悪魔さんが私たちの相手をして下さるそうですよ?」
「こんな幸運に巡り合わせるとは、人生は長生きしてみるものだな。ばあさんや」
って、この声はっ!?
脳が答えを導き出す前に、俺の目の前にはよく見知ったじいさんとばあさんが現れた。
「麻奈実のじいちゃん、ばあちゃん……」
その人物とは麻奈実の祖父と祖母。幼い時からよく知っている人物だった。
「よぉ、京ちゃん。久しぶり」
「偶にはうちに遊びに来ておくれよ。京ちゃんが来ると家の中が明るくなるから」
じいちゃんとばあちゃんは普段通り気さくに話し掛けてくる。
けど、2人がここにいるってことは……。
「新垣家に雇われたボディーガードって、やっぱりじいちゃんたちのことだったのかよ?」
「うむ。最近は不景気でなあ。表の商売だけだと苦しいんで、我が死屋の方もちょ〜っとばかり積極的に活動せにゃならんのじゃ」
「新垣さんには昔からお世話になっていますからねえ」
ニコニコ顔で答えるじいちゃんとばあちゃん。
「けど、あやせの親父さんは今回明らかに人の道に外れた行為をしている。それでも、手を貸すっていうのかよ!」
「京ちゃんの言いたいこともわかる。じゃが、こっちは仕事で引き受け取るしなあ」
「私たちの受けた任務は新垣家の庭の警備。家の中で何が起きているのかはプライバシーということで聞かないんですよ」
交渉は決裂。
しかし普段はすっ呆けているが、ゾルディック家並に危険と噂される田村家の最精鋭2人が俺たちの前に立ちはだかるなんて……。
「何を不安そうな顔をしているんだよ?」
隣から鼻を鳴らす音が聞こえた。
「さっきも言っただろ? 屋敷の外の警備員や用心棒は全部あたしに任せろって」
加奈子の目が鋭くなった。
「あたしは生憎敬老の精神を持ち合わせていないんでな。退かねえなら、ちょっとばっかし痛い目に遭ってもらうことになるぜ」
アイツの体から強大な力が解放されていくのが魔法素人の俺にもわかった。加奈子は1人でじいちゃんとばあちゃんを相手にするつもりなのだ。
「か、加奈子……うっ!?」
妹が言葉を続けようとしたのでその口を塞いで遮る。
桐乃の言いたいことはよくわかる。俺も同じ想いだから。
けれど、それを口にすることは意味がない。
何故なら、あやせを助けるという目標を達成する為には加奈子の奮戦が絶対に必要なのだから。
「俺たちがあやせを連れ帰って来るまで時間稼ぎを頼むぜ」
だから、俺は自分の果たすべき使命を全うするのみ。
加奈子は2歩前へと進み、俺と桐乃に背中を向けながら立った。
その背中にいつもと違って勇ましさと矜持を感じる。
「時間を稼ぐのは構わねえ。けどよ」
加奈子はステッキを一度振り回してから憎たらしいぐらいに平然と述べやがった。
「あの化け物たち……あたしが倒しちまっても構わねえんだろ?」
俺たちには加奈子の背中しか見えない。
けど、アイツはきっと笑っているに違いなかった。加奈子はどんな逆境だろうと笑って吹き飛ばせる、本当に強くて見栄っ張りで、そこが魅力な少女なのだから。
「ここは任せたぞ、加奈子っ!」
桐乃の手を引っ張りながらあやせの家の中に向かって駆け出し始める。
「ばあさんや。京ちゃんたちが行っちゃうぞ? ちょっとまずいんじゃないか?」
「若い者のことは若い者に任せておけば良いんですよ」
じいちゃんとばあちゃんが俺たちを追って来る気配はない。
「じゃあ、わしらは時空管理局の白い悪魔の相手をするとするか」
「当代最高の魔法少女の相手を出来るなんて本当に誉ですよねえ」
代わりに加奈子に狙いを定めたようだ。急激に空気が重くなった。じいちゃんたち、本気で加奈子を殺るつもりだ。
けど、加奈子には何の変化も見られない。我が死屋田村一族を全く恐れていねえ。
「タクッ。金の為なんかにつまんねー仕事引き受けやがってよぉ。オメェら……ちょっと、頭冷やそうぜ」
背後から爆発音が鳴り響き、突風が襲い掛かって来た。
その爆発を合図に3人の間に死闘が始まった。
「ちょっとっ! バカ兄貴……っ」
「俺たちが今やらなきゃいけないことはあやせの救出だろうがっ!」
桐乃の手を離すことなく全力で家の中へと駆け込んだ。心の中で加奈子に何度もありがとうと繰り返しながら。その頬を涙で濡らしながら。
新垣邸の中へと進入を果たした俺と桐乃。
だが、家の中には用心棒がいないなんて言うのは俺たちの甘い妄想に過ぎなかった。
「きょうちゃんたちがおじいちゃんとおばあちゃんを突破して来るなんて本当にびっくりだよ〜」
少しもびっくりしていない声で階段の手前に立つ麻奈実は述べた。
じいちゃんとばあちゃんが庭を警備していたことからこの展開を予想していなかった訳じゃない。
けど、信じたくなかった。麻奈実が敵として俺たちの前に立ちはだかるだなんて。
「きょうちゃん。1つ聞いていい?」
麻奈実は実にノンビリした口調で尋ねて来た。
でも、俺にはわかる。一見ノンビリした何でもなさそうなこの口調に麻奈実の本気が篭められている事を。
俺たちの10数年に渡る付き合いは麻奈実の小さな変化を鋭敏に読み取らせてくれる。
「きょうちゃんはどうしてここに来たの?」
麻奈実の質問はWHATではなくWHYを尋ねている。俺があやせを助けようとしている理由を尋ねているのだ。
この質問の意味は、俺が何をしにここに侵入を図ったのか尋ねられるよりも遥かに重い。
そして俺にはきっと、この質問に対して麻奈実に誠実に答える義務がある。俺と麻奈実の関係を考えたのならきっと……。
「俺はあやせを誰にも渡したくない。だからあやせをこの家から連れ去りに来た」
俺の答えを聞いて麻奈実は軽く息を吸い込むと目を瞑った。
「きょうちゃんは、あやせちゃんを選ぶんだね?」
「ああっ」
力強く麻奈実に答える。
「そっかぁ……」
麻奈実は目を開いて天井を見上げた。
「桐乃ちゃんは……それで良いの?」
ポツリ、と、麻奈実が妹に尋ねた。
「良くはないわよ。けど、それで良いのよ」
桐乃はよくわからない返答をかえした。
「コイツが選んだのが……アンタやあやせだったらアタシは不満タラタラでも受け入れるしかないじゃんっ! 他にどうしろって言うのよ!」
桐乃は苛立っていた。理由はよくわからないけれど。
「桐乃ちゃんは本当に聞き分けがいい良い子なんだね」
麻奈実はクスッと笑った。
だが次の瞬間、麻奈実の目がいつになく真剣なものに変わった。
「でもわたしは、桐乃ちゃんみたいに聞き分けよくなれないよ。譲れないものぐらい……わたしにだってあるんだよ」
麻奈実はメガネを外した。いつにかく真剣で、そして鋭い瞳が俺たちを捉える。
その眼光の鋭さは麻奈実もまた田村家の一員であることを物語っていた。
「振られた女がいつまでも女々しいのよ」
桐乃が負けじと麻奈実に批難の視線を向ける。
「でも、あやせちゃんがお嫁に行ってしまえばわたしにももう1度チャンスが巡って来るんじゃないかな?」
麻奈実は桐乃の視線を受けても全く怯まない。それどころか口元は余裕の笑さえも浮かべている。
「アンタそれ、本気で言ってんの!?」
「人を好きになるって綺麗ごとだけじゃ済まないんだよ」
「そんなことっ! アンタに言われるまでもなくアタシの方が重々承知しているわよ!」
桐乃と麻奈実がどんどん険悪になっていく。
いや、麻奈実はわざと妹を挑発しているように見えた。
「バカ兄貴……アンタ先に行ってあやせを連れ出してきなさい。地味子はアタシが何とかするから」
「おいっ。本気になっている麻奈実相手じゃ、幾らお前だって一人で相手するのはさすがに……」
「うっさいっ! アタシは今日、この時の為に学問もスポーツも鍛錬を積み重ねて来たのよっ! 余計な心配なんかしてないでさっさと行きなさいっての!」
桐乃は髪を縛り上げて即席ポニーテールを結わえた。
「地味子……ううん、田村麻奈実っ! アタシは今日こそアンタを越えてみせる! もう、アンタには負けられないっ!」
「桐乃ちゃんにそれはちょっと難しいんじゃないかなあ?」
麻奈実は桐乃の本気の怒りを軽く受け流している。
「黙りなさいっ! アタシはあの日から……ずっとアンタを超えることだけを目標に自分を磨いて来たんだからっ!」
桐乃が大声で吼える。
「桐乃ちゃんはきょうちゃんに選んでもらえなかった不満をわたしにぶつけたいんだね〜」
麻奈実は笑い、そして嗤った。
「だったらお付き合いするよ〜。わたしも、同じだから」
「アンタはいつもいつも……アタシの上に立って見下してくれてぇ〜〜っ!」
桐乃が麻奈実に向かって掴み掛かる。陸上のアメリカ留学を果たした桐乃は以前よりも一段と体のキレが良くなっていた。
「きょうちゃんの妹っていう立場を利用して、わたしを見下していたのは桐乃ちゃんも一緒だよ〜」
対する麻奈実も負けていなかった。常人では目にすることも不可能な高速移動で桐乃の足元を刈りに行く。
桐乃は瞬時に跳躍しながら麻奈実の放つ足を避けた。
「アンタがいたから……アタシは京介に近付くことができなくて、あやせに盗られることになったんだぁ〜っ!」
「桐乃ちゃんがいたから……わたしはきょうちゃんと距離を維持したままになって、あやせちゃんに盗られることになっちゃったんだよ」
真正面から組み合う桐乃と麻奈実。
正直、2人の争いには理解し難い部分も多い。
けど、麻奈実が桐乃と正面から組み合って動けなくなっているおかげで俺は2階へと進めそうだった。
いや、あの2人はわざと均衡状態を作って俺を先に行かせようとしているのかもしれない。そんな気がした。
「桐乃……先に行くぞ」
「あやせのことを幸せにしてやんなかったら、アタシが許さないからね!」
桐乃はそっぽを向いた。
「麻奈実……いつも桐乃の良いお姉ちゃんでいてくれて、本当にありがとうな」
「この状況でそういうお礼の言い方はずるいよ、きょうちゃん」
麻奈実もまたそっぽを向いた。
「それじゃあ俺は……あやせを奪い去りに行って来るっ!」
俺は階段を一気に駆け上っていく。
「ごめん、麻奈実おねえちゃん。アタシの憂さ晴らしにもう少し付き合って」
「わたしの憂さ晴らしにも桐乃ちゃんに付き合ってもらうね」
階下から聞こえて来る激突音はより一層激しくなった。
そして俺はようやくあやせの部屋の前へと辿り着いた。危険は承知で躊躇なくドアを開く。
「あやせぇええええええぇっ!」
部屋の中へと踏み入った俺が見たもの。それは、ベッドに体育座りして俯いて無反応のあやせ。そしてベッドの前で仁王立ちして俺を睨んでいる筋骨粒々中年親父の姿だった。
「オヤジっ!?」
あやせの部屋にいたのは俺の実父、高坂大介だった。
何故、オヤジがあやせの部屋の中に?
いや、それは考えるまでもなかった。オヤジの職業は警察官。要人警護は仕事の内。現職政治家の娘ともなれば、依頼があれば当然警護するだろう。
「悪党の片棒担ぐとは日本の警察も随分と落ちたもんだな」
オヤジにガンを飛ばす。
「住居不法侵入、器物破損、暴行傷害と数え上げればキリがない犯罪行為を重ねている貴様に悪党云々を言われる謂れはない」
オヤジは鼻を鳴らした。
「なら、俺を逮捕して裁判に掛ければ良かろう。そうなったら、新垣議員が娘を政略結婚に掛けようとしている件も表沙汰になって、議員生命は終わりになるだろうがな」
「確かに新垣議員からは今回の件では多少の揉め事が起きても表沙汰にしない様に注文を受けている。だが、それが俺がお前を見逃す理由になると思うなよ、小僧っ!」
オヤジの目がカッと見開く。
「貴様を血祭りに上げる前に確かめておきたいことがある。貴様、何をしにここまでやって来た?」
あやせの肩がビクッと震えた。
「そんなもの決まっているっ!」
「ほぉ〜。それは何だ?」
俺は、大きく息を吸い込んで、ここへやって来た目的をオヤジ、そしてあやせに叫んだ。
「俺は、あやせをこの屋敷から連れ去りにここまで来たんだぁあああああぁっ!」
あやせの全身がビクビクッと大きく震えた。
「ヤレヤレ。破壊活動だけでなく、物盗りにまで落ちるとはな。しかも人攫いとは」
オヤジは大きく溜め息を吐いた。
「では、重ねて問う。京介、貴様、何故あやせくんを連れ去ろうとする?」
問うオヤジの眼光はいつになく鋭い。桐乃のエロゲーの件で揉めた時よりもだ。
確かに、桐乃に人生相談を持ち掛けられる前の俺ならビビッていたかもしれない。加奈子の熱さを見る前なら躊躇していたかもしれない。麻奈実の真剣さを見る前なら引き返していたかもしれない。
けど、今ここに俺がいるのはみんなのおかげなんだ。
だから俺は、全力を尽くしてみんなの行為に報いなくちゃいけないっ!
「そんなものっ、俺があやせのことを愛しているからに決まってるんだろっ!」
オヤジの眼力程度に俺の想いを消されてたまるかっての!
「お、おっ、お兄さん……っ!?」
あやせが呆然と俺を見ている。意識が俺に向いたらしい。
「ほほぉ。京介、お前はあやせくんを愛していると言うのだな?」
「ああっ、そうだっ! 俺はあやせのことを世界で一番愛してるんだ! 文句あっか!」
オヤジを鋭く睨む。
「愛しているからあやせくんを連れ去ると?」
「そうだっ! 好きな女は誰にも渡さねえっ! あやせは俺のもんだっ!」
拳を強く握り締める。この子だけは誰にも渡さないと強く強く心に念じる。
だが、オヤジはそんな俺の態度を見て首を横に振った。
「未成年の青い主張はそこまでにするのだな」
「何だとっ!」
オヤジは軽く息を吐いた。
「貴様がどれほどあやせくんを愛しているのかは知らん。だが、この家から連れ出してどうする? 犬猫ではないのだぞ」
「あやせは俺が一生責任を持って面倒を見るっ!」
「ええぇえええええええええぇっ!?」
あやせが驚きの声を上げた。信じられないと言った感じで俺を見ている。
「一高校生風情が人一人を養えると本気で思っているのか?」
「今すぐ学校辞めたって構わねえよ。それであやせを守れるんなら」
「お、お兄さん……」
あやせは大きく目を見開いて俺を見ている。
一方でオヤジは再び呆れたように溜め息を吐いた。
「この不況の時世。働きたくても働けない有能な人間は五万といるんだ。貴様のように何の特技もなく、ましてや高校中退を選択しようとしている人間を雇おうなどと考える酔狂な企業がどこにある?」
「企業がなければアルバイトだって何だって良いっ! 週7日間、朝から晩まで働けばあやせ1人ぐらいは養ってみせるってんだよ!」
「若い内はそれで良いかもしれん。だが、貴様はあやせくんの面倒を一生見ると言った。そんなフリーター生活がいつまでも続けられると思っているのか?」
「だったら、バイトの合間に勉強して資格を取って正規職を得てやるさっ! これでもまだ不足だってのかっ!」
オヤジに怒りにも似た波動をぶつける。
だが、警察官として日々犯罪者と戦っているオヤジは俺の視線程度ではビビらなかった。
それどころかより威圧的な視線を返して来た。
「確かにそこまで考えているなら何もプランがないよりはましだ。だが、それは今お前がこの場で思い付いただけのものだろう? あやせくんに聞かせたことはあるのか?」
「そ、それは……」
学校を辞めてフリーターになるという話も、資格を取って正規職を得るという話も今勢いで思い付いたものだ。あやせに話したことなど勿論ない。そもそも俺はあやせに好きだと真剣に打ち明けたこともないのだから。
オヤジめ、桐乃の件で俺が勢いで熱く語るタイプの人間だって悟りやがったな。
「貴様のあやせくんへの想いはわかったが、あやせくんはどうなんだ?」
オヤジがあやせへと振り返る。
「あやせくんがそこのバカ息子、京介をどう思っているのかね? こんなバカと共に添い遂げてくれると?」
オヤジがあやせをジッと見る。
「わっ、わたしは……っ」
あやせは返答に詰まっている。
考えてみればそりゃそうだ。何たってあやせは俺を嫌っているのだから。
幾ら政略結婚が嫌だからって、苦し紛れに俺を好きだとはこの場で言えないだろう。
「今回の件は、形式的にはあやせくんが婚約話を申し出て新垣議員がこれを了承。そして相手側がこの婚約話を受け入れる運びになったと聞いている」
「何だその、あやせの方が結婚を望んでいるみたいな言い草はっ!」
「京介は黙っていろっ!」
オヤジの鉄拳が飛んで来て慌てて避ける。
「あやせくんが先方と結婚を望んでいるのなら、俺は今すぐにこのバカ息子を殴り飛ばして追い出そう」
「オヤジぃいいいいいぃっ!」
この野郎、所詮は権力の犬かっ!
「わ、わたしは……」
あやせの声が震えている。
「わっ、わたしはっ!」
でも、あやせは頑張った。あやせは負けなかった。
「わたしはっ、会ったこともない人と結婚なんかしたくありませんっ!」
あやせは言った。
結婚したくないと言い切った。
「では、これからどうする? そこのバカが君との将来について何かほざいていたが」
オヤジが俺を見る。あやせも俺を見た。
あやせは、何と言ってくれるんだろう?
あやせと相思相愛になったことなんか一度もないのだから、正直良い返事は期待できないだろう。
でも、どんな答えが返って来るのであれ、俺はあやせを守ってみせる。
そして、長い沈黙の果てにあやせは答えを提示してくれた。
「わたしは………一緒に…………いたいです」
あやせの声はとても小さくてよく聞こえなかった。
「すまないが、あやせくん。年のせいか耳が弱くなってな。もう少し大きな声で話してはくれまいか?」
オヤジもよく聞こえなかったようだ。
そして、あやせは言い直してくれた。
「わたしは、京介さんとずっと一緒にいたいですっ!」
そう述べたあやせの瞳には光るものが溢れていた。
「ほ、本当なのか、あやせ?」
彼女の涙はその言葉が嘘でないことを物語っている。
でも、普段の俺と彼女の関係がその言葉に対する疑問を抱かせてしまう。
だからどうしても確かめずにいられなかった。
「わたしは……ずっと、お兄さん……京介さんのことが好きだったんです。なのに、京介さんはお会いしてもいつも茶化してばっかりだったから……」
「それは、その。何ていうか……すまなかった」
俺の軽い気持ちのセクハラがあやせの心をそんなに警戒させてしまっていたとは全く思わなかった。
「本当ですよっ! 京介さんがわたしのことをちゃんと好きだって言ってくれていたら、こんな結婚話、最初っから突っ撥ねていたに決まっているじゃないですか!」
あやせが泣きながら俺に向かって抗議する。
「本当に、すまなかった」
手で拭いもせずに泣きじゃくるあやせに向かって頭を下げる。
「わたしのこと……ずっと、大事にしてくれますか?」
「ああ、約束する!」
「わたし、焼き餅やきですから。他の子に浮気しちゃ絶対に嫌ですよ」
「浮気なんて絶対にしない!」
「じゃあ、じゃあ……」
あやせがベッドを降りて俺の元へとやって来た。
「わたしのことをずっと京介さんのお側に置いてください。お願いします」
あやせは俺の手を掴みながら、また、泣いた。
「どうした京介? あやせくんに返事はせんのか?」
「あ、ああ。そうだな」
俺はあやせに握られていた手を離し、代わりに彼女の背中に回した。
「あやせ……ずっと俺と一緒にいて欲しい」
「はいっ」
嬉し涙を流しながら元気良く答えてくれたあやせ。
「ヤレヤレ。今回の1件は全て京介の不甲斐なさが招いた訳だな。このバカ息子が」
オヤジが大きく息を吐いた。
こうして、あやせの結婚騒動は無事幕を下ろ──
「では、改めて言おう。新垣議員の令嬢を放せ。この人攫いがっ!」
「ぶわぁあああああああぁっ!」
「きゃぁああああああぁっ!!」
俺はオヤジに容赦なく本気でぶん殴られて吹き飛ばされた。
「な、何しやがるんだ、オヤジっ!」
殴られた頬に手を当てながら床に蹲る。殴られた箇所が火傷したみたいに熱い。
「警護する要人に犯罪者が抱きついたから排除したまでのことだ!」
オヤジは鼻を鳴らして答えた。
「オヤジは俺たちの仲を認めてくれたんじゃなかったのかよ!」
「俺は貴様とあやせくんの関係を確かめただけだ。誰が認めるものか、このバカ者が」
オヤジの凍てつく瞳が俺を刺す。
「あの……桐乃……京介さんのお父さん、待ってください!」
あやせが俺とオヤジの間に体を入れて盾となった。
「何だね?」
「父はわたしが納得します。だから、京介さんにこれ以上酷いことをしないでください」
あやせは両手を広げて俺を守る。
「それは出来ないな」
「何故ですか?」
「警察に警護を依頼したのは君のお父さんだ。君じゃない」
オヤジは淡々と述べる。
「ですから、わたしが父を説得して……」
「君にあの新垣議員を説得出来るとは思えない。それにだ。先方の迎えが議員と一緒に到着するのはもう間もなくのことだろう?」
「そ、それは……」
あやせが下を向いた。
あやせはどうやら父親に意見するのがよほど難しいらしい。
でも、だったら……。
「さて、あやせくんはそういう訳なんだが、貴様はどうするのだ?」
「そんなもんっ、決まっているだろうがぁっ!」
全身に力を込めながら立ち上がる。
「オヤジっ! アンタを倒してあやせをこの家から連れ去るまでだぁっ!」
大声と共に全身に力を漲らせる。あやせを避けながらオヤジの前へと立つ。
「武術の一つも学んだことのないひょろいガキがよくぞ抜かしたっ! 二度とそんな減らず口が叩けぬように完膚なきまでに叩きのめしてやるわ〜〜っ!」
オヤジが拳を大きく振り上げる。対して俺はがら空きになったその腹に狙いを定める。
「今日の俺は、阿修羅さえ凌駕する存在だぁああああああああああああぁっ!」
渾身の一撃をオヤジの腹へと叩き込む。
こうして俺とオヤジの最後にして最大の親子喧嘩の幕が切って落とされた。
「おはよう、桐乃。今日もいい天気だね」
「おはようあやせ。今日も早いわねぇ」
あくびをしながら桐乃が部屋から出て来ました。
「うん。だって朝食を作るのはわたしの担当だもの」
わたしが高坂家に住むようになってから半年、ようやくわたしは朝食の支度を任されるようになりました。
包丁もろくに握れなかったここに来た当初から比べると、ようやく少しはましになってきたかと思います。
「あんなバカ兄貴の為にあやせもよくやるわねえ」
「もぉ〜! からかわないでよ!」
桐乃の頭を軽くポカポカ叩きます。
「ねえ、あやせ」
「何?」
手を止めて桐乃の話を聞きます。
「アイツに会えなくて、淋しい?」
「うん。とってもね」
振り向いてわたしが出て来たドアを見ます。わたしがここに来るまでは京介さんが使っていたこの部屋を。
「でも、京介さんはわたしの為に頑張ってくれているのだから、わたしだけ弱音は吐けないよ」
「はいはい。リア充おつ〜〜」
半年前のあの結婚騒動でわたしを取り巻く境遇は大きく変わりました。
京介さんはお義父さまを相手に一歩も引きませんでした。
2人の殴り合いは父とわたしの結婚相手になる筈だった男性が帰って来るまで続きました。そして2人は父の顔を見るなり、土下座してわたしの結婚を再考するように頼み込んだのでした。
勿論わたしも父に結婚話をなかったことにしてくれるようにお願いしました。
そして父もこの結婚話には抵抗を感じていた部分があったらしく、色々あった挙句、縁組は破談になりました。
でも、この1件を通じて先方を怒らせて市内でも悪い評判が立った父は政界から引退することになりました。屋敷も売り払い、今は母の収入でマンションにひっそりと暮らしています。でも、両親は共に過ごす時間が増えて、以前より仲良くなった気がします。
そしてわたしを助けに来てくれた京介さんですが……一番辛い境遇に置かれることになってしまいました。
京介さんは主犯格として不法侵入、器物破損、傷害、公務執行妨害などの罪を償うようにお義父さまに要求されました。
その要求に対してわたしも、そして父も反対しました。今回の1件は全て新垣家の不祥事であり、京介さんはそれを正してくれた恩人なのです。
でも、お義父さまは法と秩序を守る者として京介さんを無罪放免にはできないと述べました。
それで結局、京介さんは高坂家を追放、お義父さまの知り合いの住職さんの下で修行生活を送ることになったのでした。京介さんは丸めた頭を照れ臭そうに掻いていました。
そして高校卒業後、とても遠い地方にある大学へと進学することになりました。
4年間、実家からの金銭的支援なしで大学を卒業する為に授業料免除で住居も保証されている大学に行く必要があったからです。
そしてそれは、その……京介さんがわたしとの結婚を許してもらう為にお義父さまが出した条件でもありました。
あの日の京介さんの言葉が本当かどうかお義父さまは確かめたいのかもしれません。
生活費を稼ぐ為に休日もバイトしている京介さんがこの家に帰ってくることは滅多にありません。
京介さんのしょ、将来のお嫁さんとしては寂しい限りですが、わたしの為に頑張っているのだから仕方ないですよね。
台所に入って朝食の支度を始めます。
最近こだわっているのは出汁巻き卵です。最近京介さんに会ってお弁当を食べてもらった時に出汁巻き卵を褒めてもらいました。だからもっと美味しいものを食べてもらえるように現在切磋琢磨しています。
「ふんふんふ〜ん♪」
好きな人の顔を思い浮かべながら料理をしているととても楽しくなります。京介さんに食べてもらえないのはちょっと残念ですけれど。
「朝からごきげんね〜」
「まあね〜」
テーブルに座る桐乃は手伝いません。というか桐乃の料理は漫画のキャラ並に壊滅的なので手伝ってもらうと却って迷惑です。
「ところでさ、アイツが通っている大学って共学なんだよね?」
「そうだけど?」
桐乃は何が言いたいのでしょうか?
「あの無自覚フラグ立て士が同じ大学の女とか引っ掛けてなければ良いけどね〜」
「えっ?」
気が付くとわたしの手には包丁が握られていました。
「ほらっ、アイツって知らない間に女を惚れさせちゃうじゃない? 大学生同士なんだし、あっという間にイヤンな関係になっちゃってたりしてね〜♪」
「そんなことになったら……桐乃と京介さんとその泥棒猫を殺して、わたしも死ぬしかないじゃない!」
「ちょっ! ちょっ! 包丁の刃をこっち向けんな〜〜〜〜っ!?」
大騒ぎになるキッチン。
「わたしは京介さんのことを信じてる。でも、京介さんはとっても格好良いから勘違いしちゃう女が出て来ちゃう可能性は否定できないよぉ」
「ハイハイ。ほんと、リア充乙乙乙〜〜」
桐乃にバカにされています。
でもわたしには京介さんという素敵な彼氏がいるリア充なので、そう呼ばれるぐらいは許しちゃいたいと思います。
「よぉ、桐乃〜あやせ〜。一緒にガッコ行こうぜ〜」
朝食が終わり学校に行く準備を進めていると、外から加奈子の元気な声が聞こえてきました。
「わかった〜。今出るよ〜」
「加奈子のヤツ。高校入ってから随分真面目に学校行くようになったわねぇ」
加奈子を待たせないように急いで支度をして玄関を出ていきます。
「「行ってきま〜す」」
桐乃と声を合わせて挨拶をして高坂家を出ます。
玄関を出た所で加奈子と合流し、3人で高校へと向かいます。
「あっ、麻奈実お姉ちゃんだ。お〜い!」
桐乃が大きく手を振ります。
振った先には大学生になった田村麻奈実お姉さんが歩いていました。
半年前と比べて髪を伸ばしたお姉さんはますます魅力的になっています。きっと大学でも大人気じゃないかと思います。
……お姉さん自身はいまだ京介さんへの想いを引き摺っているらしいですけど。
「お〜い、みんな〜」
相変わらずのノンビリ口調でお姉さんは手を振り返しました。
お姉さんと合流して4人で学校がある方角に向かって歩きます。
もう得られないと思っていた平穏な日々。
それを得られたのはここにいるみんな、そして京介さんのおかげです。
「ありがとうございます、京介さん」
わたしはもうじき夏を迎える暖かい風を頬に感じながら小さくそう呟いたのでした。
了
説明 | ||
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