俺妹 俺はお前を愛人にした覚えはない |
俺妹 俺はお前を愛人にした覚えはない
秋は深まりをみせ、いや、冬の訪れを風の冷たさが俺に教えてくれていた。
けれど俺は未だに夏の終わりから動けない。夏の終わりで時間が止まってしまっている。
「黒猫……っ」
俺は結局、初めて出来た恋人のことを何もわかっていなかった。
ただ、俺の18年の人生の中で初めて恋人ができたという事実に浮かれ、彼女にのぼせていた。
そして突然訪れた彼女との別れ。
黒猫は俺の目の前から去ってしまった。
彼女は転校してしまった。俺がそれを知ったのは彼女が引っ越してからのこと。
黒猫から事前にそれを聞かされることはなかった。
結局俺は彼氏彼女になったという関係の変化に有頂天になっていただけだった。
彼女という器を手に入れたと錯覚して独りで舞い上がっていた。
黒猫との別れは俺の心に大きな空洞を生じさせた。
何て言うかそれからの俺は……そう。希薄になった。
黒猫がいなくなってからも俺の前には次から次へと狙ったように数々の事件が生じている。まるで漫画の主人公みたいに。
俺はそれらの事件に遭遇する度に驚き、焦り、笑ったりもする。
けれど、それらは結局俺が黒猫と別れる前に遭遇した出来事に比べると意味を持たない。
ただの一過性のイベントに過ぎない。凄く希薄な出来事の繰り返し。
俺は黒猫に別れを告げられたあの日に心の中の重要な部分を置きっ放しにしている。
心の核を失った今の俺はとても軽い。そう、軽過ぎる。
ただ、流されるままに生きている。
俺は、心の重石を8月の末に置いたまま、体という器だけが時間という流れに押し流されて12月を迎えようとしているに過ぎない。
出来の悪いレプリカ。
それが、夏以降の俺なのかもしれない。
「俺は……松戸まで……アイツを迎えに行く勇気もないクズだしな」
黒猫は俺の前からいなくなった。
けれど、あの世に旅立ったわけじゃない。
外国に行ってしまったわけじゃない。
松戸に、ここからほんの1時間の距離にいる。
けれど俺はその1時間の距離がどうしようもなく怖かった。
俺は黒猫に別れを告げられた。
けれど、嫌われたわけじゃない。
俺も黒猫を嫌いになったわけじゃない。
だから、俺が松戸に出向いて頼み込めばよりを戻すことも可能なはず。
でも、怖くて自分から松戸に行くことができないでいた。
再度の交際にイエスと言ってもらえないかもしれないのが怖かった。
そして、付き合うことになってもまた捨てられてしまうかもしれないのが怖かった。
俺はどうしようもない程に臆病になっていた。
黒猫と向き合うことが。
恋愛と向き合うことが。
自分と向き合うことが。
桐乃の為に親父や出版社と正面きって向き合ってきた俺は自分をもうちょっと勇気がある人間だと思っていた。
けれど、そんなのはただの幻想だった。
自分の為に力を奮い立たせようとした時、俺は自分の無力さと弱さと臆病さを嫌というほど思い知らされた。
自分という人間に強烈な嫌悪感を抱いた。憎いと思った。
黒猫の元へ自分から出向けない俺を心底軽蔑した。
黒猫は魅力的な少女だ。
早く迎えに行かなければ他の男にさらわれてしまう確率は上がっていく一方だ。
自分の手が届かなくなる前に彼女のあの白い手をもう一度掴まないといけない。
それが重々わかっているのに俺は動けない。
週末になる度に松戸へと意識は向かうのに、足は震えて部屋からも出られない。
代わりに俺は受験生だからと自分を慰めて机へと向かう。
参考書を開くととてもホッとする。
そんな自分が許せない。嫌悪する。死ねと思う。
けれど、それでも俺は動けない。
そして動けない俺を弁護し続けるもう1人の俺が心の内に存在する。
心空っぽな癖に、出来損ないのレプリカの癖に、俺は、俺を憎む俺から、俺を弁護する俺によって守られていた。
とてもぬくぬくと守られていた。
時間だけが過ぎていく無意味な葛藤を繰り返しながら、気が付くと12月を迎えようとしていた。
無意味な時間の流れ方……それは本当に俺の存在そのものだった。
「なあ、黒猫。お前はまだ俺を待っていてくれるのか?」
黒猫の微笑んだ様を思い出そうとすると輪郭がぼやける。
あれほど輝いていた夏の日々を思い出すのが困難になっていた。
なのに、俺はまだ心だけはあの日々に止まったままでいた。
「お兄さん……また、ぼぉ〜としてますよ」
目の前に立つ長い黒髪の美少女が俺に向かって不服そうに声を発する。こんなゴミのような俺に対して。
黒猫に代わって俺をよく呼び出すようになったのが目の前の少女、新垣あやせだった。
あやせは何が楽しいのか冷え込んだ公園の中でクルクルと回りながらはしゃいでいる。
何故、彼女はあんなにテンションが高いのか俺には理解できない。もう俺には女という存在がまるでわからない。夏場はあんなに黒猫のことをわかった気になっていたのに。
「何がそんなに楽しいんだ?」
思わず声に出して聞いてしまう。
「そんなこともわからないんですか?」
あやせは回転を続けながら俺を流し目で見る。
「わかんねえよ」
止まった俺があやせに聞き返す。
「それはですね……お兄さんと2人きりでお出掛け中だからですよ」
あやせはニコッと笑った。
その邪気のない笑みを見て俺の体がビクッと震えた。
「あのなあ……お出掛けって、ここはいつもあやせが俺を呼び出している公園でうちの近所じゃないか」
自分の心に生じたその感情を打ち消すように理屈を並べる。
「つまりここは、お兄さんとわたしの秘密の密会場ってことですよね?」
あやせはイタズラっぽく微笑んだ。
「密会って、あのなあ……」
『密会』と言われて後ろめたい気分になる。
けれどその後ろめたさが俺の心をホッとさせもする。
黒猫のことを割り切れていない俺にとって、あやせと会うことは今でも密会なのだ。それは的を得た表現。そして公に出来ない後ろめたさが惨めな俺の心を軽くしてくれる。
「さしずめ、わたしは公には存在を明かせないお兄さんの愛人という所でしょうか?」
「俺はお前を愛人にした覚えはない」
『愛人』という後ろめたい表現が使われることで俺の心はますますホッとする。
今の俺は本当に歪んでいる。歪み切っている。
「そうですよね。まだ愛人契約結んでいませんもんね♪ 愛人代ももらったことないですし♪」
「どうしても俺をいかがわしい人間にしたいらしいな」
「ええ。お兄さんは変態ですから。わたしの知る一番のド変態さんですから」
俺を変態と呼ぶあやせはいつになく楽しそう。
そして俺も否定的な言葉を投げ掛けられることで安堵感を得ていた。まったく無茶苦茶だ。
「お兄さんは最近わたしとよく会ってくれますよね?」
あやせはブランコを漕ぎながら楽しそうに尋ねる。
勢いよく漕いでいるので短めのスカートの中が見えそうに、いや、瞬間瞬間白い布地が見えてしまっている。
あやせは気にしていないようだが俺の方が恥ずかしくなって下を向く。それから俺はあやせに答えた。
「あやせがよく呼び出すからだろ」
俺からあやせを呼び出したことは一度もない。
いつも彼女からのメールが『密会』への招待状となっていた。
「わたしは私立中学なので高校には試験なしで上がれるんです。それに今、モデルのお仕事はしばらくお休みしています。それで時間が余っているのでお兄さんに会っています」
「えっ? モデルの仕事休んでいるのか? 一番人気モデルなんだろ?」
あやせがモデル休業中と聞いて驚いた。
俺はファッション誌に興味がないので、あやせのモデルとしての仕事ぶりを実はほとんど知らない。けれど、妹はあやせがモデルとして如何に人気が高いか何度も語っている。
そのあやせが休業。
何かのスランプだろうか?
それとも、何か重い病気を抱えてしまっているとか?
急に不安になって来た。
「違いますよ。病気とかスランプとかそういうんじゃありませんよ」
「そう、なのか」
俺の考えは読まれていた。表情に出てしまっているらしい。情けない。
「わたしは、やりたいことがあるからお休みをもらったんです。もしかするとこのまま引退になるかもしれませんが」
あやせは大きく揺れているブランコから前方高くへと跳んだ。
大きな音を立てながら地面に可憐に着地する。その衝撃でスカートが翻って白い下着と太股が丸見えになる。
けれど、それはこの際指摘しない。それを指摘すれば殴られる。
けれどその白い下着と肌を見た瞬間、黒猫の柔肌を思い出した。透き通るように白かったアイツの肌を。俺だけが知っている黒猫の肌の白さを。
その残像を頭を振りながら打ち消してあやせに尋ねる。
「モデルを引退してまであやせがやりたいことって一体何なんだ?」
あやせはその質問を待っていたとばかりに満面の笑みを浮かべた。
「知りたい、ですか?」
「お、おう」
そして彼女はとても清らかな口調で、俺と出会ってから最大級の毒を吐いてくれた。
「わたしはね、黒猫さんからお兄さんを奪い取りたいんですよ」
そう語ったあやせは今までで最も美しく見えた。黒く
黒く、染まったように見えた彼女は何よりも美しく見えた。
俺は、あやせの存在に引き込まれ始めていた。
美しい薔薇には棘がある。
それはあやせにピッタリな言葉。そう思った。
「わたしは、モデルをやめてお兄さんを攻略する為に全力を尽くすことにしたんです」
あやせはベンチに座る俺の前へとやって来て、そう力強く断言した。
「あのなあ、攻略するって俺はギャルゲーのキャラじゃないんだぞ」
あやせは非難を無視して俺の肩の臭いを大きく息を吸って嗅いだ。
「夏以降……お兄さんの体からはいつも女の匂いがするようになりました」
「女の匂い? 桐乃の香水のことか?」
黒猫と別れて以降、桐乃は頻繁に俺に接して来るようになった。しかも以前より優しくなって。アイツなりに俺に対して気を使ってくれているのだ。
「違います。桐乃の匂いや香水のことではありませんよ」
「じゃあ、何だ?」
あやせは俺の肩に鼻を寄せたまま大きく息を吸い込んだ。
「夏を境に、お兄さんは常に女性と一体化した気配を漂わせるようになっています。きっとこれは、黒猫さんのにおい、というか気配なのでしょうね」
あやせの言い方は俺と黒猫の関係を陰に指摘しているようだった。
あの日、あの晩、痛みを堪えながら嬉し涙を流していた黒猫の顔を思い出す。あの晩の体験は、俺にとって、黒猫にとって何だったのだろう?
わからない。その答えを俺は松戸まで確かめに行っていないのだから。
「そうか」
認めるのも殊更に反論するのも嫌な気分なので相槌だけ打っておいた。
「きっと、桐乃も気付いていると思います。女ってそういうのに敏感ですから」
「そうか」
また相槌だけ打った。それ以上口を挟む気にならない。
でも、あやせは言葉を続けた。
「だからわたしは悔しかったんです。ううん、今も悔しいんです」
あやせの手が俺の首筋に触れる。その瞳はいつになく妖艶にしてどこか曇った輝きを映している。
「それでわたしは全力を尽くそうって決意したんです。だから、モデルをもう続けることができなくなりました」
「訳がわかんねえよ」
あやせの手から体を逃す。
「俺とあやせはそんな関係じゃないだろ。大体お前は俺を毛嫌いしていただろうが」
思い出すまでもなく、俺とあやせは良好の対極にいる関係を築いていた。何発コイツに蹴りをお見舞いされてきたことか。にも関わらず俺を落とすとかどういうことなのだか?
「そうですね。わたしはお兄さんのことを憎悪していますから」
「現在進行形かよ」
あやせという女がよくわからない。
「だってお兄さんはわたしの思い描いた通りの存在になってくれないんですもん。それってどうしようもなく悔しいじゃないですか」
「俺はお前の操り人形じゃない」
あやせは手をポンと叩いた。
「じゃあ、これからホテルに行きませんか?」
あやせはラブホテルが何件も軒を並べる裏通りを指差した。
「お兄さんはわたしの体を滅茶苦茶にしてくれて構いません。わたしの初めても捧げます。けれど、一生涯わたしの思い描く素敵な高坂京介になってください。悪くない取引でしょ?」
あやせはニッコリと笑った。
「怖えよ、言ってることが!」
バージンと引き換えに俺を操り人形にしたいなんて何を考えているんだ、この女?
「わたし本気ですよ?」
「なお更怖いっての!」
前々から思っていたが、あやせは何かを行おうとする際に手段をまるで選ばない。
自分の処女を捨ててまで俺を意のままにして一体どうしようってんだ? 俺に何をさせたい?
何が目的かは知らないが、明らかに優先順位を間違えている。
「わたしみたいな女の子をオタク用語ではツンデレって言うんですよね? 知ってますよ」
「断じて違う」
こんな病みきったツンデレがいるものか。あやせは間違いなくヤンデレだ。
「それはともかくとして、お兄さんはわたしのことを抱きたくないのですか? 自分で言うのも何ですが、わたしは結構良い女だと思いますよ。顔もスタイルも」
あやせが俺の瞳を覗き込んできた。冗談を言っているようには見えない瞳。
それが却って怖い。
「あの、なあ……」
前に一度だけ桐乃に見せてもらったあやせの水着グラビアを思い出す。顔だけじゃなく、あやせはスタイルも抜群だった。
あの体を、目の前の美少女を俺の好きに出来る。俺の好きに汚してしまえる。
それを考えた瞬間に体の中の熱が上がった。女を知ってしまったこの体は次の女にも簡単に反応するようになってしまっている。なんていうか、ブレーキが一つ外れている。
けれど、その下劣な考えは一瞬にして打ち消された。
黒猫の顔を、その肌をまた思い出したから。
あやせは、黒猫じゃない。意思が、欲望を封鎖した。
「そんなの、ダメだ」
首を横に振ってあやせの申し出を拒絶する。
「お兄さんは愛がないと女が抱けない。そういうプラトニックラブを唱える人なんですね」
「俺は純愛派なんだよ。そこらのエロ男とは一線を画しているんだよ」
半分誇らしげに、半分自棄になってあやせに語ってみせる。
何を考えてコイツがこんな提案をしているのか知らないが、乗ってなどやるものか。
「じゃあ、お兄さんはいつになったらわたしを愛してくれるのですか?」
「へっ?」
俺の格好付けた生き様はあやせの一言で一瞬にして崩された。
「わたしからの呼び出しにお兄さんはいつも応えてくれます。でも、踏み込んだ関係にはなってくれない。わたしは、いつまで待てば愛してもらえるのですか?」
「そ、それは……」
返答に戸惑う。
「いや、だって、俺とあやせの出会いは……」
俺は今、あやせに甘え続けてきたツケを払わなければならない時が来ている。
それを切に感じていた。
「女の子が男性を、しかも学校も学年も趣味も異なる男性を何度も呼び出す意味。まさか、わかっていないとは言いませんよね?」
「…………おぼろげになら、わかってるさ」
わからないとはさすがに言えなかった。
黒猫のことで戸惑い続ける俺にとってあやせからの誘いは心を軽くしてくれるものだった。
だから、そう。俺は義務感からあやせに会っているわけではない。俺はあやせに癒しを求めていた。いや、きっとそれだけじゃない。
それはあやせにとってもそうなのだろう。つまり、そういうこと。
「では、それを踏まえた上でお兄さんにお聞きします」
あやせがしゃがみ込んで俺の顔をごく間近で覗き込んでくる。
そして次の一言で俺が如何にあやせに甘えていたのか。それを思い知らされた。
「お兄さんにとってわたしは黒猫さんという方の代わりでしかないのですか?」
「そ、それは……」
違うと言いたかった。そう断言したかった。
だけど今までの俺のあやせに対する言動を思い返してみると……違うという一言さえ発せられなかった。それはあまりにも不誠実すぎた。
俺が目の前の少女に別れてしまった恋人を重ねていることは疑いようのない事実だった。
より正確には黒猫を忘れる為にあやせで必死に上書きしようとしている。いなくなった恋人の心の辛さを消してくれる消しゴム、修正液。それが俺にとっての新垣あやせだった。
だから俺に残された回答は2つしかなかった。
1つは嘘を吐きながらあやせは黒猫の代わりではないと言い切ってしまうこと。
もう1つはあやせは黒猫の代わりだと正直に言ってしまうこと。
どちらも最低な選択肢であることは間違いなかった。だからそのどちらも選ぶことができなかった。
「では少し質問の仕方を変えたいと思います」
あやせは前髪を掻き揚げる。
もう冬の気配を感じさせる冷気が彼女の洗練し尽くされた動作に更なる気品を添える。
コイツがナンバーワンモデルだったことも納得だ。
「わたしは黒猫さんの代わりでも構いません。わたしのことを見て下さるのなら進んでそれを受け入れます。こう条件を付け足したらお兄さんはどう答えてくださいますか?」
瞳を細めながら語るあやせにいつにない大人の女の色気を感じる。
そして、あやせが付け足した条件は俺にとってあまりにも魅力的過ぎた。
「俺は、あやせのことを……い、いや、何でもない」
俺は危うくあやせを黒猫の代わりに見ていると正直に答えてしまいそうになった。
けれど、それは人間として最低の回答だった。
幾らあやせ本人がその回答を認めてくれても、俺自身が人間の尊厳を賭けて認める訳にはいかない。例え心の中でそれを認めてしまっても、口に出すわけにはいかない。
「お兄さん、わたしは最近思うようになったんです」
質問に答えない俺に対してあやせは言葉を続けた。
「何を?」
「人間は、どこまで自分の汚さと向き合えるかが重要だって」
「あや、せ?」
それは潔癖、清廉を信条とするあやせの言葉とはとても思えなかった。
その言葉を発する彼女がまるで別人のように見えた。
「夏休みにね、お兄さんに振られてしまった後に気付いたんですよ」
「振られたってお前……」
もうセクハラしてやれないとは言った覚えがあるが、振った覚えなどない。
それ以前に俺とあやせはそんな関係ではなかった。思い出す限り、コイツと一番良い雰囲気だったのは初めて会った日の携帯の番号交換の時。つまり、その後雰囲気は悪くなってばかりだった。
だから俺は断じてあやせを振ってなどいない。そもそもあやせは俺のことを好きではなかったのだから。
「わたしの家にわざわざ招待したのに、お兄さんは彼女、黒猫さんの話ばかりするし、それも彼女自慢ばっかりでした。お兄さんは女の子が男性を部屋にあげることの意味をもっと考えるべきです」
「それは、すまなかったな」
当時の俺は女と言えば麻奈実の家ぐらいしか行ったことがなかった。だから女の子の家に行く意味をよく理解していなかったのは確かだった。
幼い頃から何度も遊びに行っている麻奈実の家は自宅よりもホッとする。女の子の家を訪ねているという気遣いはそこにはなかった。
「好意を寄せていたお兄さんと新しい関係を築けるんじゃないかって期待していたのに、聞かされたのはわたしには脈がないという屈辱的な話ばかり。わたしはあの後、仕事を休んで食事も取らずに3日3晩泣き明かしたんですよ」
「それは、何て言うか……悪いことをしたな。すまん」
俺の記憶にあるあの日のあやせは、いつもの様に俺を警戒し、いつも以上に終始苛立っていた。しまいには怒った彼女に部屋を追い出された。
そして俺は黒猫との交際に浮かれていてあやせの言動はあまり気に掛けなかった。
だから俺はあやせが好意を寄せるほどに意識してくれていたなんて少しも考えなかった。
「それでわたしは泣きながらずっと考えていたんです」
「何を?」
続きを聞くのは怖かった。けれど、聞かずにはいられなかった。
「憎い。許せないって」
予想よりも激しい負の答えが返ってきた。
「まあ、あやせが俺を恨むのも当然だよな」
あやせが言葉通りに俺のことを好きでいたのなら、あの日のやり取りが彼女の心をどれほど傷付けたのか想像に難くない。それは当然俺への恨みへと転移する筈だ。
「違いますよ」
あやせは首を横に振った。
「どう違うんだ?」
あやせは俺の目を真っ直ぐに見つめ込んだ。
「わたしが激しく恨んだのは黒猫さんと自分自身です」
あやせはクスッと笑ってみせた。
「わたしが激しく恨んだのは黒猫さんと自分自身です」
あやせはその言葉を発する間、一時たりとも俺から目を離さなかった。
「わたしはね、お兄さんの恋人の座に黒猫さんが就いたことが許せなかったんです。そして、お兄さんの恋人になれるのだと当然のように信じ込んでいた自分がどうしようもなく憎かったんです。冗談でプロポーズされたことがあるだけだったのに」
あやせの口調はサバサバして聞こえた。けれど、それが却って彼女の言葉の重みを増させていた。
「それを考え出して始まったのが際限のない醜い嫉妬と自己嫌悪でした。あんなに他人を恨んだのも、自分を嫌ったのも初めてでした」
あやせはまるで小説の中の登場人物を語るように他人事として語り続けている。
「それで、お兄さんはわたしが際限ない負の感情の嵐からどうやって抜け出したと思いますか?」
目の前に地雷の存在を感じた。けど、答えない訳にもいかなかった。あやせに危険を感じたから。
「えーと……俺を嫌って諦めることで自分の気持ちと黒猫への怨嗟にケリをつけたんじゃ?」
この回答はきっと正解じゃない。けれど、これ以外の答えを述べるのは不穏当過ぎた。
あやせから発せられている雰囲気が、酷く危険な臭いを醸し出している。
「正解は逆ですよ。クスス」
あやせは笑った。とても楽しそうに。
何故この場面で笑えるのか、正解が俺の回答と逆だと言うのに笑えるのか。
その理由を考えると、心臓が、ドクン、と、大きな音を立てた。
「わたしはね、黒猫さんからお兄さんを奪い取ろうと決意した。そう決意する汚い自分を認めた。それで精神的に楽になったんです」
瞬間、体が震えた。やはり俺は地雷を踏んだのだ。それはもう疑い様がなかった。
「わたしはね、どうやったら黒猫さんからお兄さんを奪い取れるのか。そればかり考えるようになりました。そうしたらね、世の中がとても楽しく思えて来たんです」
独り楽しそうに語るあやせ。彼女に掛ける言葉がみつからない。
「おかしいですよね? 相思相愛の2人を別れさせて自分がその後釜に座ろうと狙うだなんて。そしてそんなモラルに反した自分が好きだなんて。クスクス」
あやせの真っ直ぐで淀みのない瞳。気が付くと俺は半歩後ろに引いていた。
「それでわたしはこんな自分になってしまった原因を必死に考えました。それでわかったんです」
あやせが1歩俺へと踏み込んで来る。後退は意味がない。
「わたしは多分、初めて本気で汚い自分と正面から向き合ったからなんです」
その言葉に俺はあやせから目を僅かに逸らす。
あやせは俺が今まで見た誰よりも自分に対して潔癖だった。より正確には潔癖な自分を疑わない少女だった。その少女が、自分の汚さを認めた。
「そしてわたしは人間の、自分の醜さを認めました。そうしたら世界がとても広がったのです。むしろ澄み渡って見えるようになったのです。より正確には灰色や黒が綺麗な色に見えるようになった。でしょうかね?」
「そう、か……」
否定はしない。けれど、あやせの変化は手放しで喜べるものなのか。それは俺には判断できない。
あやせは元々視野狭窄の傾向が強い。だから視野が広がるのは望ましい。けれど、どんな方向に広がるのか。それを考えると怖くなる。
「だからわたしは、黒猫さんからお兄さんを奪い取ろうとする醜い自分を認めて世界を楽しむことにしたんです」
やはりあやせは“歪”なのだと思った。この少女はどこか考え方が世間とずれている。いや、世間一般の人間よりも遥かに深い混沌の闇をその清純な体に抱え込んでいる。
「…………や、…………や、プールで水着悩殺作戦なんてことも考えていたんですよ。本当、自分の事ながら漫画みたいな行動を起こそうと考えていました。バカですよね」
前半部が小さな声でよく聞こえなかった。けれど、聞こえない方が良い。そう思った。
きっと聞いてしまえば俺や黒猫がまだ無事に生きている幸運を感謝し、目の前の少女に強い恐怖と怒りを覚える。そんな内容なのだと何となく思った。
そして俺は、あやせがそんな闇を有した存在であることを知っていながら惹かれているのだ。俺の方がよほどおかしいのだと自覚せざるを得ない。
俺が以前からあやせに惹かれていたのは彼女が清純な天使だからじゃない。彼女が穢れを含んだ堕天使であるからなのだ。それを今、はっきりと自覚する。
「でもそうやって計画を練っている内に、お兄さんと黒猫さんが別れたと聞きました」
あやせが曇りのない瞳で俺を見る。
「その知らせを聞いて……わたしはね、とても喜んだんですよ。黒猫さん、ざまあみろって。本当、わたしって、人の不幸を喜んで最低ですよね」
あやせは楽しそうに微笑む。自虐的じゃない、とても楽しそうな笑み。
「そしてわたしはそんな最低の自分を認めているんです。昔の自分の基準から言えば、クズの中のクズです。今の自分に死ねと言うでしょうね」
あやせはとても生き生きしている。
そしてそんなあやせが俺には輝いて見える。もうダメだな。俺も、本格的に。
黒猫との別れで俺は壊れてしまったのだ。夏のあの日に戻って心を積み直した所でこの壊れてしまった“俺”はもう元には戻らない。俺もまた、”歪”な存在に成り果てたのだ。
それをもう認めよう。
「お兄さんはこう思っているのでしょう? わたしは壊れてしまっているって」
「そ、それは……」
返答に困る。
と、あやせが言葉を続けた。
「そう思って頂いて構いませんよ。だって、わたしは実際に壊れていますから」
あやせは楽しそうに笑った。
「そしてお兄さんも黒猫さんと別れて以来、壊れてしまっていますよね♪」
笑顔に続いてウインク。
「ああ。認めるよ。俺はもう夏の終わりに壊れちまった」
黒猫とのやり直しというリスタートも、黒猫を忘れるというリセットもできない。
いや、どちらもする気がなくただ日々を無為に過ごしている。それは結局、バグってしまって正常なコントロールが効かないゲーム画面を延々と見ているのと同じ作業。画像は映っていても狂っているのだ。俺はそういうさなかにいる。
「だったら……壊れた者同士くっ付きませんか?」
「またそれかよ」
溜め息が漏れ出る。
「だって、わたし、お兄さんを攻略したくて、自分好みの王子様にしたくてウズウズしてますから」
「自分好みの王子様って、お前な……」
白いキュロットに王冠をかぶった自分の姿を想像してみる。
恐ろしいほど似合わない。けれど、今の滑稽な俺には丁度良いかもしれない。
「恋する乙女は愛する男性を王子様に見立ててしまうのは仕方がないことですよ♪」
「でもそれって自分がお姫様の位置を確保したいからでもあるだろ?」
「そんな当然のことを一々言わないでください♪」
あやせだったら、外見的にはお姫様がよく似合いそうだ。でも、コイツが本当にお姫様になったらその国の若い娘はヤンデレった理由で次々と殺されていきそうで怖いが。
「さあ、お兄さん。わたしのことを愛してください。そしてお嫁にもらって下さい」
「俺はプラトニックだって、さっきお前が言っただろうが」
俺は確かに目の前の壊れたあやせに惹かれている。
けど、それが愛なのかと言われるときっと違う。
俺が愛しているのはいまだに黒猫1人なのだ。
「でも、お兄さんが早く抱いてくれないと大変なことになっちゃうかもしれませんよ」
「大変なこと?」
あやせはニヤッと意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「お兄さんへの嫌がらせの為だけに、わたしはその辺の見知らぬおじさんに抱かれちゃうかもしれませんよ? もしくは、如何にもなヤンキーたちに自分からまわされに行っちゃうとか♪」
「何つー斬新な脅しだ。絶対やめろ」
今のあやせなら俺への当て付けという理由だけで一生を台無しにすることも厭わないだろう。そしてコイツはそういう行動を実際に起こしてしまえる黒すぎる核エンジンを搭載している。
「う〜ん。わたしを傷付けるのがダメだとすると……次は黒猫さんや、その周辺の方に害が及ぶ方向になってしまうのですが?」
「もっとダメだっ!」
黒猫や日向ちゃん、珠希ちゃんに手出しなんて絶対にさせられない。
「わたしを傷付けるのもダメ。黒猫さんもダメだとすると……残るのはお兄さんを傷付けるという選択肢になってしまいますが?」
「サラッと怖いこと言うな、お前は! 傷付けるという前提をまず外せよ!」
思いっ切りツッコミを入れてしまう。何つー怖いことを言う女だ。
けれど、考え直してみると、あやせや黒猫が酷い目に遭うよりは俺が不幸になった方が良いかもしれない。
「ちなみに、俺を傷付けるって何をするつもりだ?」
まさか俺をアーッ!な目に遭わせるつもりか? 赤城瀬菜が喜びそうな展開か?
「まずは軽く全身を拘束した上で指を1本1本丁寧にへし折っていくことから始めていきたいと思います」
「オーケーわかった。もうそれ以上言うな」
首を激しく左右に振ってあやせの話を止める。
「これからがもっと楽しい傷め方になるのに」
「お前はもっと自重を覚えろ」
「恋に一生懸命な女の子って男性から受けが良いじゃないですか?」
「ヤンデレじゃなければな」
やっぱりコイツのことを放ってはおけない。放っておけば重犯罪が起きる。
けれど、コイツの傷害癖に付き合ってもいられない。付き合えば死ぬ。
死んだって関係ねえやとは思っているものの、こんな基地外じみた思想の女に殺されるのは御免だ。
だから、俺は言ってやった。
「あやせが満足するまでは何度でも会ってやるさ」
「そのプロポーズ、お受けしました」
俺が曖昧な返事をした瞬間、あやせは首を縦に頷いた。
「今のはどう聞いてもプロポーズじゃないだろうが?」
「何を言っているんですか? わたしはお兄さんと会うのに満足して飽きるなんて一生ありませんから」
あやせはクスっと芯から楽しそうに笑った。
「そしてわたしは毎日だってお兄さんに会いたいですから。だったら2人はもう結婚するしかないじゃないですか?」
「あやせたんは立派なヤンデレストーカーに成長したなあ」
去年の夏の初めのあの日をまた思い出す。あの時はこんな風に変わってくれるなんて夢にも思わなかった。
「わたしがこんな風になったのはみんなお兄さんのせいなんですから、やっぱり責任は男らしく取っていただきませんと」
「今のお前はただの素の状態を出しているだけだよ」
大きく溜め息を吐く。
「まあ、あやせが俺好みの女になってくれるなら結婚も考えるかもな」
「わたしはお兄さんの最も好みな顔をしていると何度も聞かされた記憶があるのですが?」
「顔じゃなくて内面だ内面」
「内面はもっと自信があるのですが?」
あやせは大きく首を捻った。
俺はまだ結局黒猫のことを少しも割り切れていない。
俺の想いはまだ彼女を向いており、でもその想いに向けて踏み出せない自分がいる。
けど、そんな俺はあやせのおかげで救われている。
ヤンデレストーカーと化したマイ・エンジェルのおかげで破綻した俺は生きていける。
壊れてしまった者同士、お似合いなのかもしれない。
まったく、おかしな世界だ。
了
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新垣あやせ 俺の妹がこんなに可愛いわけがない | ||
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