月ノ珠
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 遠い昔、長姉の柔らかな膝の上で微睡んでいた時、寝物語の一つとして語ってくれた話がある。内容はあまり覚えていないけれど、貝から採れる美しい白い珠にまつわる話だった。

海に住まう貝の中には、自身の胎内で長い時をかけて一つの珠を作り出すものがあるという。

堅く閉じられた口を開くと、母の胸乳のように白く輝く珠が、貝の柔らかな身に包まれて静かに眠っているそうだ。

 

「・・・私も見たことはないのだけれど、とても綺麗なものらしいの」

 と、微笑みながら僕の頭を撫でてくれた姉は、子供の目から見ても美しい人だった。

――自慢の姉と過ごす優しい時。

 忙しい日々を送っている人だったが、寝る前にはこうして一つ、二つ話を聞かせてくれるのが日課だった。

「そんなに綺麗なものなの?僕、見てみたいな。海に行けば見つけられる?」

甘えた声で尋ねる僕に、姉は小さく笑って首を振った。

「海の深いところにいるのよ。総ちゃんにも姉様にもきっと見つけられないわね。・・・それにね、その白い珠には人の魂が宿ると言われてるの。亡くなった人の魂が海に還って・・・次に神様に呼ばれるまで静かに眠りにつく。世の中にいろんな人がいるように、その珠も綺麗だったり、いびつだったり、様々な形があるんだそうよ。・・・まだまだ先のことだけれど、私や総ちゃんが死んだ時――その時はどんな形の珠になるのかしらね?」

「姉様なら、きっと綺麗な珠になるよ!だって僕の姉様だもの」

そう言って柔らかな膝に顔を押しつけると、優しい指先が髪をさらさらと梳いてきた。

「・・・ありがとう。総ちゃんもきっと・・・誰よりも綺麗な珠になるわ」

「うん!あのね、父様も・・・母様も、もう海の中で眠ってるのかなあ?僕たちが死んだ後、父様と母様の貝を探さなくちゃね。それでみんな一緒に眠るんだよ」

姉の手が一瞬、硬く強ばった気がしたが、すぐに何事もなかったかのように髪を梳き続けてくる。それに幼心にも何とはなしに違和を感じたが、与えられる心地よさに流されてすぐに消えてしまった。

「姉様、大好き。ずっと傍にいてね」

腰に腕を回してしがみつくと、その細い躰が微かに震えているような気がした。

「・・・姉様?」

 そっと声をかけると、躰の震えが更に強くなった。思わず顔を上げようとすると、その前に優しい手が静かに頭を押さえてくる。

「どうしたの?・・・僕、何か悪いこと言った?」

 膝に顔を埋めながら問いかけると、姉が小さく身じろぎをし、そのまま何も言わず髪に指を絡めてきた。慈しむように、何度も細い指先が髪の間を通り抜けていく。優しいことには変わりはなかったけれど、どこか不安になるような動きでもあった。

そして眠気が全身を覆い、問いかけたことさえ忘れそうになった頃に、ようやく囁くような声で答えが返ってきた。

 

「・・・そうね。姉様も総ちゃんとずっと一緒にいたいわ。でも・・・ごめんね」

「・・・どうして謝るの?」

「なんでもないの・・・、さあもう遅いからお休みなさい」

 腰に回していた腕を外され、穏やかな仕草で布団へと誘われた。しぶしぶ中に入ると、肩口まで上掛けが被せられ、とんとん、と二回胸元を優しく叩かれる。

「姉様・・・大好き。姉様は?」

 いつもと違う姉の姿に不安を覚えたのだと思う。お菓子をねだるように、姉の愛情をねだった。

「姉様も総ちゃんが大好きよ。どうか・・・それだけは覚えていてね」

「姉様・・・?」

「さあ、眠って。いい夢を見てね」

 頬を撫でられている内に、ゆっくりと眠気の波が押し寄せてきた。それに身を委ねていると、遠くから水が揺れる音が聴こえたような気がした。

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 目が覚めると、一瞬、記憶が混同して己がどこにいるのか分からなくなった。子供の頃の夢を見たせいか、沖田家の、九つまで寝起きした部屋を思い、見知らぬ場所に迷い込んだような強烈な違和感を覚える。

 無意識に手が動いているのは、傍らにいるはずの姉の姿を探っているのか。

 夢の余韻が消えていくにつれ、今の“沖田総司”が徐々に思い出されてくる。畳の擦れる音に、源へと視線を向けると、まだ不安げに動く己の指先が目に入り、口の端が僅かに歪んだ。

 

――姉を最後に見たのはいつだったか。

 試衛館に預けられてからは、よっぽどの事がない限り家には帰らなかった。

 姉を深く慕っていただけに、事情があったにしても「捨てられた」という思いは消えることなく、どこで何をしていても、常に胸の奥で燻っていた。

 時折、着物や食べ物を手に様子を見に来ていたけれど、「迷惑だ」と告げると、それ以降は人づてに荷物を託して、顔を見せることはなくなった。

 あの時、唇を震わせながら目を伏せた姉を見て、つかの間の優越感と、その後に湧き上がってきた猛烈な罪悪感でしばらくの間、食事が喉を通らなかった。

 己の存在価値が分からずに、自暴自棄になっていたのを救ってくれたのが近藤さんで、信じることに対して怯えていた僕を丸ごと受け入れてくれた彼に、言葉では言い表せられないくらい深く感謝している。あの人に心を開いた時から、ようやく夜が怖くなくなり、ゆっくりと眠れるようになったから。

近 藤さんが僕の中で唯一になってからは、姉への複雑な思いは少しずつ消えていき、いつしか思い出すこともなくなった。

 

 京へ向かうことになった時も、挨拶に行くことなど思いつきもせず、黙々と荷造りする僕を見ていた土方さんが業を煮やし、強引にあの家に引っ張っていったのが出発前夜のことだった。

通された部屋の中で、仕方なく型通りの挨拶をする僕を、沖田家の家人もまた、複雑な表情を浮かべながら型通りの挨拶を返してきた。

ぎこちない空気を取りなすように、土方さんが丁寧な挨拶とともに、僕の身を彼が責任もって預かると言った。

 土方さんの話を聞いている人々の顔を見ていると、けして賛同している訳ではないのだが、かといって引き留めて僕を家に迎え入れる気もないのだと気づいた。

口を濁しながらも、控えめに問いを重ねる長姉の夫である義理の兄は、姉が口を挟もうとすると、素早く目で制し、余計なことを言うなと無言で圧力をかけているようだった。

 唇を噛みしめてうなだれる姉の姿に、不思議なほど何の感情も湧いてこなかった。

 これ以上この場に留まる必要もないと、土方さんの肘をつついて促し、二人して暇を告げた。

 そして門を出て道場へと帰ろうとすると、背後から軽い足音が聴こえてきて、少し離れたところで止まった。振り返ることが出来ず、じっと佇む僕の代わりに、土方さんが振り返って、追ってきた人の元へと近づいた。そして一言、二言、言葉を交わした後、ゆっくりと僕の傍へと戻ってき、顎をひいて歩くように促してきた。

 

 そのまま会話を交わすことなく帰り道を歩いていたが、道場の傍までくると、土方さんが急に立ち止まり、それにつられて僕も足を止めた。

「どうしたんです?明日は早いんですから、早く戻って寝ないと」

 腕を組んでじっと此方を見つめてくる彼の姿に、僅かに不快を覚え、乱暴に言い捨てて先に戻ろうとしたが、それを制するように彼の腕が伸びてき、握りしめていた手のひらを、目の前でゆっくりと開いた。

 

「・・・なんです?それ」

「見て分からねえか?」

「何言ってるんです。お守りだというのは見れば分かりますよ」

「そうだ。お前に渡してくれと、さっき託された」

「要りません。土方さんにあげますよ」

 ふいっと目を逸らすと、目の前の人から軽いため息が聞こえてくる。

「そんな訳にはいかねえよ。意地張らずに受け取れ」

 そう言って僕の手を取り、丁寧にお守りを手のひらに乗せてきた。

「みつさんの・・・手作りだそうだ。失くすなよ」

「だから・・・要りませんってば」

「お前な、餓鬼くせえこと言うのは大概にしろ。お守りの一つや二つ、荷物にもなりゃしねえ。・・・近藤さんにも伝えておくからな。捨てるなよ」

 言い捨ててさっさと歩き出す人の背中をじっと見据えていると、彼はちょっと振り返って呆れたように手招きをした。

「これから何が起こるか誰にも分からねえ。・・・いざという時に縋るもんがあったら、心強いだろ? さっさと懐にでもしまえ。失くしそうなら紐つけて首から下げてろ」

「何言ってるんです。そんなみっともない真似できませんよ」

 そう言いながらも懐にしまい込むと、彼はちょっと目を細めて小さく笑った。

 その背を追って歩いていると、付け足すように何かを呟いたが、自身の足音に紛れてうまく聞き取れなかった。

 そのまま問い返すこともせず、黙って建屋の中へ入り、翌朝に備えて早々に眠りについたのだった。

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 懐かしい記憶から醒めると、手を伸ばして敷き布団の裏を探った。

 床につく前に、お守りを安全な場所へと隠すのが、いつの間にか癖になっていた。

 指先に擦れて薄くなった布の感触がする。それをそっと取り出して、手のひらに乗せた。

 もらった当時は綺麗な若葉の色をしていたが、時が経つにつれて褪せてしまい、薄い翠色に変わっていた。

 指先でお守りをするすると撫でると、底の方が少し盛り上がっているのを感じる。何か入っているのだろうが、開けてみたことはなかった。

 ぼんやりとお守りを見つめていると、廊下から控えめな声で訪ないを告げるのが聴こえてきた。

「・・・起きてるよ」

 返事をすると、障子がゆっくりと開かれて、お膳を手にした小柄な娘が入ってくる。

「おはようございます。沖田さん」

「おはよう。毎朝ご苦労様」

「いいえ。朝餉をお持ちしました」

 そう言って膳を脇に置いた彼女が、まだ手のひらに乗せたままだったお守りに気づいて、驚いたように目を軽く開いた。

「どうしたの?そんなに珍しいものではないと思うけど」

 手を開いたり、閉じたりしながら問いかけると、彼女はばつが悪そうに目を逸らした。

「あの・・・、沖田さんはお守りとか持つような人には見えなかったので・・・なので少し驚きました。とても綺麗ですね」

「もらった時は綺麗だったけどね。・・・今は薄汚れて綺麗でもなんでもないよ」

「長い間、身につけているとそうなりますよね。手作りでしょうか。一針一針・・・丁寧に仕上げているのが分かります。とても心がこもっていますね」

「・・・そうかな。僕には分からないな」

 夢の名残のせいか、姉の話をするのは気が滅入った。それきり黙り込むと、彼女も口調に滲んだ軽い苛立ちを汲み取ったのか、何も言わず食事の支度を整え、そのまま去ろうとする。

「・・・しばらくしたら片づけに伺いますね。冷めないうちに召し上がってください」

 先ほどのやり取りを感じさせない、穏やかな笑みを見ていると、名状しがたい感情が溢れてき、手に持ったお守りを思わず彼女へと突き出した。

「え・・・と。これは・・・?」

 困惑したように、琥珀の瞳が僕とお守りを交互に見つめている。何も言わずに黙って差し出していると、彼女の小さな手が、そろそろとお守りに伸ばされて、触れる直前に、窺うような視線を投げかけてきた。

 それに軽く頷くと、彼女は壊れものを扱うかのような仕草で、そっと自らの手のひらに乗せた。

「綺麗・・・。今は落ち着いた翠ですけど、元はもっと鮮やかだったんでしょうね」

「そうだね。若葉みたいな鮮やかな翠色をしていたよ。・・・それはね、僕の姉が作ってくれたものなんだ」

「お姉様が・・・。無事を願って作って下さったんでしょうね」

「・・・うん。そうなのかな。あの時は要らないから捨てようと思ったけれど、でもどうしてか捨てられなくて。今ではないとおかしく思うくらい身近なものになった」

「そうですか・・・」

「ちょっと癪に触るけど、あの人の言った通りになったかな」

「え?」

「・・・なんでもない。あのさ、下の方を触ってみて。何か気づくことない?」

「下の方・・・ですか?」

 首を傾げつつ、細い指先がつるつると布地の上を滑っていく。途中で手が止まり、同じ箇所を訝しげな表情を浮かべながら何度も触れている。

「・・・ね。何か入ってるよね?」

「そうですね。ここだけ、厚みがありますね」

「開けてみて」

「・・・え?」

 口を半開きにした顔で、彼女がまじまじと僕を見つめてくる。普段あり見ることのない気が抜けた表情に、笑いを堪えきれなくなった。

「沖田さん!」

 怒りを含んだ声に、悪いと思いつつも笑いが止まらなかった。身を震わせて笑う僕を、彼女が口をへの字にしながら見ている。

「揶揄かうなんてひどいです。これ、お返しします!」

 ずい、とお守りを突き返してくる彼女に、慌てて笑いをおさめて言った。

「ごめんね。揶揄かうつもりなんてなくて、君にそれを開けて欲しいのは本当」

「・・・お姉様が作って下さったお守りですよね?それにお守りは開けてはいけないんですよ・・・?」

「うん。流石にそれくらいは知ってるよ。でもね、これは開けないといけないような気がする。何故だか分からないけれど、無性にそんな気がするんだよ」

「・・・なら、沖田さんが開けて下さい。お姉様も気を悪くされますよ」

 遠慮がちに差し出してくる手を、お守りごと包み込むようにして握った。

「・・・沖田さん?」

「甘えて悪いけど、やはり君に開けて欲しい。・・・僕はね、九つの頃に近藤さんが道場主をしてた試衛館という所に預けられたんだ。結果的には僕にとって良かったんだけど、あの当時は慕っていた姉に裏切られた気持ちでいっぱいで・・・この世の全てを憎んでいた。要ら

ない子なんだと思っていたし、自分の価値が分からなくなった時もあった。成長するにつれて、そんな思いは薄らいで消えたと思っていたけれど・・・奥にしまい込んでいただけで、消えてはいなかったんだね」

「お姉様を・・・今でも恨んでいますか?」

 躊躇いがちな声で問いかけてくる彼女を見ると、沈んだ色を浮かべた琥珀の瞳が、気遣うように僕を見つめていた。

 その真っ直ぐな眼差しを見返しながら、静かにくびを振った。

「――分からない。とうに忘れたと思っていたのに、夢を見たんだ。姉と僕が睦まじかった頃の記憶と・・・。彼女に聞いたお話を」

「・・・どんなお話ですか?」

「そうだね。君がそれを開けてくれたら、話してあげる。・・・だから、頼めるかな?」

 そっと手を離すと、彼女は離れていく僕の手を目で追っていた。そして手のひらにある小さな袋に目を戻すと、袋の口を閉じている紐を、指先を使って器用に解き始めた。

 

――しゅる、しゅるり。

 

 硬い結び目を解くたびに、糸が擦れる音がする。それを聴いていると、自分の心の中にある複雑に絡んだ結び目も、一緒に解かれていくような気がした。

 

 お守りから紐が外されると、中が少しだけ見えた。薄紙らしきものが入っているのが見える。

「・・・何が入っているのかな」

 催促すると、彼女が無言で薄紙を抜き取り、畳の上に置いた。ちらりと目を向けると、みっしりと詰まった文字が見て取れて、経文が書かれているのだろうと推測する。

「・・・他には何がある?」

「少し待って下さいね」

 彼女は左の手のひらを上に向けると、右手でお守りを逆さにして、中身を滑らせた。

 

――ころり。

 

 微かな音とともに、小さな物が転がり落ちてきた。光沢のある、いびつな形をした白いもの。

「・・・これ、なんでしょうか?」

 くびを傾げながら問う彼女に、掠れた声で答えを返した。

「僕も初めて見るものだけど・・・、これはきっと白珠だと思う」

「白珠?」

「貝からとれる宝だよ。海に住む貝の中には、自分の体の中で珠を作るものがあるって話してくれた。丸い珠で、薬にも装飾品にも使われるって。・・・姉がそんなに高いものを買えたはずがないから。きっと無理言って使えないものを安くで譲ってもらったんだろうね。形が悪いもの」

そっと手を延ばして白い珠を摘み、目の上にかざしてしげしげと見つめた。

「・・・もっと美しいものだと思ってたな。姉が、この珠は死んだ人の魂が宿るって言ってたから。・・・ああ、そうか。それならこんな歪んだものがあってもおかしくないよね」

 そう言って小さく笑うと、目の前の琥珀の瞳が伏せられて、漆黒の睫がやけに鮮やかに見えた。

「この珠のことを、『月の滴』とも言うらしい。とても情緒溢れる呼び方だよね。僕はまだ小さくて『月の滴』というのは長くて呼び辛かったから、勝手に『月の珠』と言ってたよ」

「月の珠・・・ですか?それも綺麗な呼び名ですね」

 そう言うと彼女は、伏せていた目を上げて優しく笑った。

「お姉様は・・・何故、この月の珠をお守りに入れたのでしょう?」

「・・・分からないよ。姉の言葉は抽象的でよく分からなかった」

「さっき、開けたらお話を聞かせて下さると仰ってましたね?・・・どんなお話なんですか?」

「・・・言ったけど」

「是非教えて下さい」

「なんで君がそんなに張り切るかな・・・」

 ぶつくさと文句を言いつつも、かい摘んで幼い日の、他愛もない思い出を語ると、彼女は口を挟むことなく最後まで静かに聞いていた。

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「――というわけ。これでお終い」

 

 

 口を閉じると、過去の幸せだった記憶とそれを失った時の苦しみを思い出して、胸の奥がじくじくと痛んだ。ささくれ立った心を宥めるべく、温くなった茶を一気に飲み干した。

「それで?君には姉の行動の意味が分かった?」

 期待もせず、惰性で問いかけると、彼女は穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。

「はい、多分・・・。合ってると思います」

「へえ。僕には分からなかったのに、ちょっと話を聞いただけの君が分かるんだ。すごいね」

「沖田さんのお話に答えがあったじゃないですか。・・・きっと、沖田さんも心の中では気づいてると思いますよ?」

「・・・知らないよ。御託はいいから話して」

 気のない素振りで返事をしながらも、鼓動が少しだけ早まるのを感じた。長年、意識の奥底へと沈めていたしこりを、心のどこかで解消したいと思っていたのかも知れない。

病を得て、床に伏せることを増えてから、やけに昔の事を思い返すようになった。幸せだった記憶を懐かしむなんて、死ぬ間際の爺様のようだと、幾度、自嘲の笑みを浮かべたことか。

 今もまた、冷たい笑みが唇に滲み、そんな僕を彼女は静かな瞳で見つめていた。

「沖田さんが『月の珠』のお話を聞いた時、お姉様はもうご結婚されていたんですね?沖田さんはお幾つだったのですか?」

「・・・そうだよ。父が亡くなった翌年に姉が婿をとって、その義理の兄が沖田家を継いだ。僕は七つか八つの頃だったと思う」

「お子様はいらっしゃったのですか?」

「まだいなかった。でも僕が試衛館に預けられた数年後に、男の子を産んだよ。・・・どうして?そんな話、関係あるの?」

 過去をほじくるような質問に苛立ちながら尋ねると、彼女はそれには答えず、更に問いを重ねてきた。

「――もし、皆さんと一緒に京に来なかったなら、沖田さんは家へ戻られましたか?」

「・・・さっきから何?苛々するんだけど」

「・・・ごめんなさい。でも、」

「必要なことだから?・・・君は時々、すごく図々しいよね。答えてもいいけど、話如何では――さて、どうするかな」

 冷たく笑いながら彼女を見据えると、その眼差しに怯えたように琥珀の瞳が伏せられる。

「ごめんなさい・・・」

 目を伏せて、唇を震わせながら項垂れる彼女の姿が、幼い日に傷つけてしまった姉の姿と重なって、自分の愚かさへの嫌悪でいっぱいになった。

 

 それからしばらくの間、無音の時が続き、彼女は居た堪れなくなったのか、小さな声で何かを呟くと、そのまま立ち上がろうとした。

 その手をとっさに掴むと、彼女が目を瞠りながら、まじまじと僕の顔を見つめてくる。

 手を引くと、そのまま崩れ落ちるように座り込み、先ほどより近い距離で見つめ合った。

「・・・ごめん。僕が頼んだことなのにね。さっきの質問に答えてもいいかな?」

 そう言いながら顔を寄せると、彼女は一瞬、身を硬くしたが、すぐに力を抜いて小さく頷いてくれた。

「ありがとう。もし・・・京へ来なかったら、か。考えたこともなかったな。でも、僕は近藤さんに何処までもついていくと思ってたし――それは裏を返せば、家には戻れないって考えていたってことかも知れないね。家は姉夫婦のものだし、僕が帰っても厄介者にしかならない。早晩、適当な家の婿養子として他家に送り出されるのが目に見えてる。・・・もっとも、こんな病持ちじゃ、すぐに離縁されただろうけど」

 軽い自嘲込めて笑うと、彼女の手が僕の手に優しく重ねられた。

「・・・お姉様は、幼い沖田さんでは家を守れないから、婿を迎えられたのですよね。きっと、ご自分の家庭と、実の弟である沖田さんの間で、苦しまれていたのだと思います。『月の珠』のお話を聞かせて下さった時、『ずっと一緒にいたい・・・でもごめんね』『姉様も総ちゃんが大好きよ。どうか・・・それだけは覚えていてね』と仰られたのは――お姉様の精一杯の言葉だったのだと思います。とても沖田さんのことを愛して大事に思っていたけれど、事情が許さなかった。・・・私にはそう思えてなりません」

 自分のことのように、哀しげに瞳を曇らせる彼女を見つめていると、己の幼さと狭量さを思い知らされ、そのまま視線を合わせることに息苦しさを覚えて、そっと視線を逸らした。

「・・・そうだね。姉にも事情があった。それは分かってる。あの人と向き合わないまま過ごしてきたから、いつまでも蟠りは消えないままだ」

「お守りは、沖田さんの無事を願うものであり、そしてお姉様の変わらぬ愛情を伝えるものなのでしょうね。・・・とても愛されていますよね」

 穏やかな声に惹かれて彼女を見ると、その顔には拗ねてむくれている弟を見守る姉のような表情が浮かんでいた。その眼差しに気恥ずかしさを覚えつつも、けして不快ではなかった。

「・・・このお守り、姉から直接受け取った訳じゃないんだ。土方さんが代わりに受け取ってくれて、後で渡してくれた。その時、色々と言われたけど・・・最後に『もう許してやれ』って言ってたような気がする。その時は何言ってるのか分からなかったんだけど。・・・何度か思い返しているうちに、ふとそう思った」

「・・・土方さんらしいですね」

 小さく声を立てて笑う彼女に、苦笑を返しながら言った。

「昔っからあんな顔して世話焼きだったからね。思い至った時は余計なお世話だと思ったけど。・・・今は、あの人の言ったこと、分かる気がするよ。・・・いや、分かってたけど、分かりたくなかったんだろうね。・・・君が傍にいてくれて良かった。一人だったら開ける勇気もなく、鬱屈を抱え込んだまま、姉の心も知らないままで終わっていたかも知れない。・・・だから、ありがとう」

 重ねられた手の温もりを感じていると、不信と猜疑で硬く覆われた心が、少しずつ解けていくような気がした。

 誰かを愛したり、信じたりすることは、失う恐怖を抱え込むことだと思っていた。近藤さんを慕ったのは、彼が誰よりも強く、容易には消えない人だと思ったのも理由の一つだ。

 

「君は――強いね。どんな目に遭っても、逃げずに受け止める。・・・僕は、君みたいになれない。すぐに疑って、切り捨ててしまうから。・・・あの頃から、ちっとも変わってやしない」

 手のひらの白珠を見つめていると、姉の穏やかな微笑みと、うっすらと涙を刷いた切れ長の瞳が、交互に浮かんでくる。

 ぼんやりと手のひらで珠を弄んでいると、彼女の顔が近づいて、一緒に白珠を眺める形となった。そのまま互いに言葉を失って、じっと爪先で弄ばれる小さな珠を見つめ続けていた。

 

 何度も爪で弾いていると、目測を誤って手のひらから転がり落ちた。幾度か跳ねた後、彼女の着物の端に引っ掛かり、それを細い指先が優しく摘み上げる。そして、指先の珠を見つめながら、彼女が掠れた声で呟いた。

「・・・私、強くなんてないですよ。どうすればいいのか、いつも迷っています。皆さんにも迷惑を散々かけているのに・・・ここを出ていけないでいる。・・・沖田さんの仰る通り、図々しい女ですよね。でも・・・ここを離れることを考えられない。・・・情けないです」

「出て行くことを考えていたの?」

 斬るだの何だのと散々脅してはいたが、何故か彼女がいなくなるとは考えてもいなかった。むしろ、このままずっと傍にいるものだと、理由もなくそう思い込んでいた。

 いつの間にか、彼女の存在が自分にとって傍にいて当たり前のものに変わっていたことに、深い衝撃を受けてしばし放心した。

 微動だにしない僕を見て、彼女の小さな手が額に触れてくる。ほんのりと温かいその手が心地よくて、思わず目を瞑った。

「沖田さん?・・・大丈夫ですか?ご気分が悪いなら、横になって下さい」

心配そうな声とともに、優しく肩を押されて布団へと誘われた。

そ して肩口まで上掛けをかけてくれ、とんとん、と二回胸元を叩かれる。

 懐かしい仕草に幼き日の記憶が甦り、甘酸っぱさの中に、一抹のほろ苦さを感じさせる思い出に、胸の中が切なさで満ち溢れて、思わず彼女に背を向けた。

「・・・子ども扱いしないでくれる?」

「――ごめんなさい。・・・お食事、どうしましょう?冷えてしまったので、後から温めて持ってきましょうか?」

「そうだね。・・・今は欲しくないかも。一眠りした後にでも持ってきてくれるかな?」

さして眠くはなかったが、今は彼女を少しだけ煩わしく感じ、一人になりたかった。

「分かりました。それから、お守りも中身を入れてから結び直しますね。それも一緒に持ってきます」

「ありがとう。・・・ごめんね」

「・・・いいえ。それでは、また後で」

 そう言うと、背を向けた時にずれた布団を掛け直してから、今度こそ冷えたお膳を携えて部屋から出て行った。

 

 一人きりで静かな部屋に身を横たえていると、眠くはなかった筈なのに、少しずつ瞼が重くなってくる。それに抗わず目を瞑ると、次第に意識が遠く霞んでいった。

 眠りに落ちる寸前に、鮮やかな翠のお守り袋を、愛しげな笑みを浮かべた自分が、脇に立つ誰かの華奢な手のひらに乗せるのを見た気がした。

 

 

                              了

 

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