血桜 さくら 月に宵
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『桜の下には 鬼が居る』

 

指先にこびり付いていた血の臭いは、やっと取れたようだ。

己が手を猫のように嗅いでいた土方は、息を吐いて壁にもたれ掛かった。

零時を幾分過ぎた屯所の自室。辺りは静かだが、夜勤の人間の気配は途切れることなく、入れ替わり立ち替わり蠢いている。

殺気の残滓が澱のように沈んでいるせいかもしれない。

昼間の捕り物は、久々に規模の大きい物だった。

その分、未だ血が騒ぎ、眠れない隊士もいるのだろう。

己も多分に漏れずその括りに居ることを自覚し、乾いた唇が苦笑を浮かべた。

 

開け放してある障子から、夜気が流れ込んでくる。

僅かに冷たいが、卯月を迎えた今、冬のそれとは大分違う。

ふと気付けば、其処彼処に淡い陰が出来ていた。

ああ、今日は十六夜だったか。そう言えば、昨夜はやけに明るかった。

どうりで、捕り物では迷うことなく動くことが出来た訳だ。 血が昂ぶれば、現世常世も一切が消し飛ぶ。

残るのは、唯一つの想いのみ。

土方の苦笑が深みを増した。

 

灯りのない室内を月が照らす。

目に映る物がぼんやりと淡い輪郭を纏っている。 ふいに足下が揺らいだ。壁際に座り込んで投げ出している足に、庭の木の陰が落ちていた。

風に揺らぎ、やんわりと動いている。なんの樹だったか。

見るともなく眺めていた文机から、目線を陰の元へと移す。

揺れていたのは、蕾を携えた桜だった。 あと数日もすれば花開くのではないだろうか。今にも弾けそうな蕾が、月明かりにはっきりと見えている。

 

桜は散る為に咲く。

そんな言葉が過ぎる。

武士の誉れ、潔さと一瞬の高潔さ。散り際の良さは、特にこの江戸の気性にはあっているのかもしれない。

だが、と土方は緩く頭を振った。

誰がどんな理想を持とうと構わない。

ただ自分は、そんな煮ても焼いても喰えないような代物に命を懸けるくらいなら、地べたを這いずり回りながらも、しぶとく生きていたいと思うのだ。

あの大将の為に。

士道を作っておきながら、結局は私情に流される。

自問自答などし尽くしていた。形容し難いのだ、あの男への想いは。

忠誠、信頼、友情、親友、恩人、上官、要、安心、同士、礎、尊敬、砦、憧憬、目標、魂、…恋慕。

 

「ちょっと待て」

 

思わず口に出た。

なんだ、今のは。

土方は壁から身を起こした。

夢現のような意識の世界に入っていた分、無意識に出てきた言葉だ。咄嗟に誤魔化せない。

いや、自分の頭が勘違いを起こしているだけだ。そうだ、単に疲れているんだ。

誰に釈明する訳でもないのに、言い訳ばかりが焦りと共に浮かんでくる。

恋慕。

舌に乗せるまでもなく、それは苦い程に甘美な響きを持ちながら土方に襲いかかってきた。

ふいに血の臭いが蘇る。

 

『トシ、お前に俺の背中を預ける』

 

彼の背を護る。

それは命を預けられているということだ。

自分が彼の、生殺与奪を握っている。

 

「…」

 

恍惚とした感情が体の芯から滲み出す。

囚われているんじゃない。

囚われたい。

彼の命がこの手にあるように、この命もまた彼の手にある。

彼だけが握っている。

己を拾ってくれた、あの時から。

血の色一色だった世界を暖かな色彩が染め抜いたあの日を、土方は一生忘れない。

あの手がこの命を絶ちきってくれるのなら、辞世の句など笑うだけだ。

手に負えない感情が今日はいや増していくことをひしひしと感じる。

しかしいつもなら止めるものを、今日ばかりは歯止めが利かない。

 

血のせいか。

夜のせいか。

月のせいか。

それとも。

 

 

「…トシ」

 

 

全身が総毛立った。

反射的に縁側を見れば朧な影がいる。

見紛うことない、彼の姿。

一瞬引いた血の気が、一気に奔流の如く体を駆け巡る。

急激な負荷に耐えかねたのか、心臓が痛い。

詰まりそうになる気道に無理に空気を送り込み、土方は声を絞り出した。

 

「…脅かすなよ」

「…いや、すまん。まだ起きてるかと思ってな」

 

月の逆光になっている近藤の表情は、判別がつかない。声音は普段よりも幾分低い。

よりによってこんな思考回路の時に来なくてもいいではないか。

理不尽な思いを抱きつつ、土方は近藤に促した。

 

「どうしたんだよ、こんな時間に。いつものあんたなら、もう寝てるだろうに」

 

「んー、いや、そのな、うまく寝付けなくてな。トシも起きてるんだったら、ちょっと付き合わないか?」

 

その手には見慣れた一升瓶。たまに自室で酒を酌み交わすことはあるが、そういえば、最近はなかったように思う。

縁側の手前、庭を眺められる畳に胡座をかき、茶碗に酒を注ぎ合う。

端が欠けたままのそれに気付き、土方は軽く息を吐いた。

仮にも真選組の局長なのだから、もっと身なりや物に気を遣えと口酸っぱく言っても、この男は聞かない。

柄じゃないと言う。

勿論土方もそう思う。

そんな些細な事や見てくれを気にする人間ではない。

だからこそ、荒くれ男共もこぞって付いていくのだ。

 

そう思ったとき、何か、体から毒気が抜けたような気になった。

そう、柄じゃない。

土方は椀を軽く掲げると、ゆっくり酒に口を付けた。

日本酒特有の甘味。馥郁たる味が鼻腔と舌を擽って喉を滑り落ちていく。

さらりと引けの速い淡麗よりも、近藤は口当たりのまったりとした酒を好んだ。

 

『酒も人生も味わって生きるべし』

 

たまに格好の良い事を言うものだから、まったくこの男は手に負えない。先程とは違う苦笑を土方は浮かべた。

 

「…美味いな」

 

「あぁ」

 

近藤は月を見ている。その横顔を土方はそっと伺った。

月明かりは存外明るい。だが、温もりはない。

こんな輝きにはおこがましいが、冷たい月というものに、自分は近いのかも知れない。

土方は思う。

月も自分も、太陽がないと輝けない。

目線の先、唐突に太陽が土方を見た。

見つめていたことに気付かれたのか。土方は動揺を隠す為に酒を煽った。

 

「どうかしたか?」

 

抑揚のない声で問いかけられ、僅かに戸惑った。

何か、普段の近藤とは違う。

常ならば余りにも単純に嘘をそのまま飲み込んでしまう男だのに、今はどんなに巧みにひた隠しても、見透かされそうな気がする。

黒い瞳が、己の奥底を真っ直ぐ覗いている。

まるで快楽のような身震いを覚えながら、土方は正直に口を開いた。

 

「いや…、あんたは太陽みたいだなと思っただけだ」

 

なんだよ、茶化すなよ。恥ずかしいじゃねぇか。

そんな言葉が返ってくると思っていた。

返ってきて欲しかった。

けれども。

 

「…俺は、お前の方が太陽だと思うけどな」

 

土方は顔を上げた。目の前の男からは笑みが消えている。

 

「…お前が居るから、俺は道に迷うことがないと思ってる」

 

喉に何かが絡まって、離れない。

それを無理に飲み下すように土方は声を出した。

 

「…何言ってんだ、近藤さん」

 

あんたらしくもねぇ。

そう続けられる筈だった言葉は遮られた。

 

「これだけ人を斬ってるとさ、いくら大義名分の為とはいえ、地獄に落ちるのは確実だろうなって、いつも思ってんだ」

 

さわ、と風に樹が揺らいだ。

月影が波紋の様に滲み、雫に濡れる夜気の匂いが立ちのぼる。

 

「…お前や、総悟や皆に、人を殺せと命じる。それは俺の責務だ。今更逃げ出したいなんて思っちゃいねぇ。ほっとけば罪のない一般市民が殺される。だからそれを防ぐ為に、俺はお前達に、殺せと命じる」

 

らしくない。

土方は動けずにいた。この男がこんな吐露をするなんて、いつ以来だろうか。豪快に笑う常の姿が霞む。

淡々とした語り口からは感情を読み取れない。

 

単に豪快で懐が広く、支えてやりたいような、その意志に着いていきたいようなカリスマ性だけで、この男は構成されている訳ではない。

喜びも怒りも哀しみも楽しみも、全てをその魂で感じ、表す人間だと思っている。

そしてその全ての感情を誰よりも強く感じているのだろう。

人前では見せない影を土方は近藤に感じていた分、それを垣間見た気がして戸惑った。

だが驚きよりも、奥から這いだした悦びが土方を浸食した。

この男が、全隊士からの敬愛を一身に受ける、真選組の魂であるこの男が、自分にだけその闇を打ち明けてくれる。

なんて充足した恍惚感なのだろうか。

 

「…らしくねぇ事、言ってんじゃねぇよ」

 

 一升瓶を引っ掴み、互いの椀に勢い良く注ぎ足す。

 

「俺達は自分の意志でやってんだ。誰もあんたのせいになんざしちゃいねぇ。自分の手の汚れをあんたのせいにするようなそんな腐った奴は、この真選組にはいやしない。居たら俺がぶった斬ってる」

 

今更何を、と言ってやりたい。

怒っている訳ではない。

ただ自分達は、少なくとも自分は、近藤と同じ場所に立っている。

自分達の見ている方向は同じだと。

罪も血塗られた手も、共有する咎だ。

いくら近藤が望んでも、それだけは手放せない。

もういい加減気付いてもいいだろうに。

 

「俺達は兵隊じゃねぇ。仲間だろ」

 

地獄に落ちるなら諸共だ。

土方の言葉に、近藤は照れたように口元を歪めた。

ありがとう、とくぐもった声がした。

その視線が庭へ逃げる。土方もそれを追って庭を見た。

 

視界に広がる月。

滲む煤けた雲。

苔むした塀の瓦。

蕾が零れそうな桜の枝。

 

ざあ、と風が鳴った。

視界が揺らぐ。

影が揺らぐ。

桜も揺らぐ。

土方の目に、見えない桜吹雪が舞った。

舞い散る桜。

淡い紅。

 

桜の根元には、屍体が埋まっているという。

桜の紅は、血の色だともいう。

桜の妖艶に、惑い狂う者もいるという。

 

桜。

さくら。

月夜の面影。

薄紅に見るのは、命か鬼か、言えない思慕か。

 

ならば俺は。

 

「近藤さん。俺は散る為じゃなく、あんたの為に咲くよ」

 

言えぬなら、彼の為に咲く鬼となろう。

散る為ではなく、その血に染めた、花を咲かす為に。

その言葉に驚いたのか、近藤の瞳が一瞬見開かれる。

そしてそれは口元と共にすうと細められ、土方を見つめた。

己を捕らえて離さない、極彩色の深淵。

 

ああ、鬼はどっちだ。

 

「…俺がトシを、咲かせてやる」

 

その言葉以上のものなど無い。土方は茶碗の酒を飲み干した。

 

 

桜が咲くまで、後幾日。

 

 

 

【了】

 

 

 

 

説明
銀魂の近土話です。
2012/3/18のHARUコミで無料配布しました。
表紙もここにUPしてます。
SSなので雰囲気をお楽しみ頂ければ。
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タグ
銀魂 近藤勲 近土 土方十四郎 SS 

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