FLY |
飛びだしたとき、あいつには大きな光が見えていたのだと思う。
たとえそれが終わりに向かっていたとしても――
薄暗い中で、パソコンのキーボードを叩き続ける。
広いフロアは俺一人しか残っていない。
みんな俺に仕事を押し付け、帰ってしまったからだ。
時刻はそろそろ日付を跨ぐ。
ひとり遅くまで残業をする日々。
もうこんな生活にも慣れてしまっていた。
苦労を背負わされる生活にも慣れてしまっていた。
仕事のできるやつではない。
ただ、上手くやれるほうだとは思う。
その結果便利屋みたいになってしまっているのだが、色んなところでツケがきくし、上司の顔覚えもいいから割と重宝している。
ただし、こんなはずではなかったという思いも、消えてはくれない。
人間誰しも思うはずだ。
俺は一角のものだと思うはずだ。
そして当てが外れたと知るのには、けして時間はかからない。
早ければ思春期を過ぎたころに。
遅くとも社会に出れば気が付くはずだ。
ああ、俺は何者にもなれないのだ――と。
歴史上の人物や、プロスポーツ選手。
政治家や作家などの先生達。
成功者といわれる人間は多くいるが、そのどれにもなれないのだ。大抵の人間は平凡で普通の道を歩むしかないのだ。
俺だってその通りで、こんなはずではなかったのに、平凡な人間に身をやつしている。
ただちょっと、上司の顔覚えのいい、便利な平社員に……。
だからなのだろう。
あいつのことは嫌いだった。
文字通りに社会の歯車と化した俺は、奔放なあいつのことが嫌いだった。
あいつは何でも好きにして、好きに生きていた。
定職に付かず、両親の世話で暮らしていた。
そんなあいつが俺は大嫌いだったのだ。
何者でもないくせに、自分の思うままに生きているあいつが嫌いだったのだ。
自由。
あいつを言い表す言葉は、多分その一言に尽きる。
多分なんでも思う通りになっていたことだろう。
あくせく働き、金を稼いでも何もできなかった俺とは違い、何でも思うとおりになっていたことだろう。
嫌いだった。
俺はあいつのことが嫌いだった。
そして同時に、きっと羨ましかった。
だからなるべく見ないようにして、そしてそのうちに忘れてしまったのだ、あいつのことを。
そしてしばらくぶりに友人との会話で話題に上がったとき、あいつは遠くにいってしまっていた。俺の知らないうちに、あいつはどこか遠くへと……。
そのころだっただろう、本当のことを知ったのは。
不器用なやつだったと知ったのは。
随分な苦労をしていたようだ。
へんてこな性格をしていたあいつは、社会に馴染むために必死だった。
他人と反りを合わせるのに、社会生活を送るのに、随分骨を折ったそうだ。
知らなかったのは俺ばかりだ。
表面だけしか見ていなくて、あいつをずっと自由なやつだと思っていた。
やがてあいつは気付いたらしい。
社会に馴染めぬものもいると気付いたらしい。
そしてそういう人間は、おのれを貫くしか方法はないと……。
何者でもないあいつは、だから何者かになろうとしたのだ。
飄々とした言動の裏側で、血のにじむ努力をしていたのだ。
俺が社会の歯車に徹し、なかなかに頑張るやつだという社内の評価を得るのと同じように、あいつも努力をしていたのだ。
だけど大抵の人間は成功者にはなれない。
そしてあいつは平凡にもなれなかった。
その結果、あいつは社会の外に飛び出したのだ。
俺はあいつが嫌いだ。
心底嫌いだ。
それは今になっても変わっていないし、きっとこれからも変わることはないだろう。
だけどこうも思う。
あいつはすごく格好良かったと。
全て自分を貫き通したのだ。
何者でもないくせに、平凡でもなかったあいつは……。
ただ地続きの人生を嫌がって、社会の外に飛び出したあいつは……。
心底嫌いだけど、あいつはすごく格好よかった。
すごく格好よかったのだ。
仕事に段落をつけ、帰路に着く。
途中飲み屋に立ち寄って、食事をかねて酒を飲む。
そしてそういう時には、決まってあいつのことを思い出す。
あいつはどうして飛び出したんだろう?
どんな気持ちだったのだろう?
全てのことに、自分で決着をつけるときの気持ちとは、一体どんなものなのだろう?
俺にはできない。
あそこまでのことは俺にはできない。
俺は何者にもなれないことを受け入れた人間なのだから……。
酔っ払った振りをして、腕を広げて走ってみる。
両の腕に風を受けてみる。
飛べるかもしれない。
もしかしたら俺も、あいつみたいに飛べるかもしれない。
フライ・アウェイ、空高く遠くへ……
だけどきっと無理だろう。
俺はあいつみたいにはなれない。
自分らしくするしかないと割り切ることなんかできない。
俺にできるのは、社会なんてこんなもんだと達観した気になって、判を押したような毎日を過ごすことだけだ。
俺はなれない。
あいつみたいにはなれない。
飛びだしたとき、あいつには大きな光が見えていたのだと思う。
たとえそれが終わりに向かっていたとしても、あいつにはそれが新しい場所へのドアだったのだと思う。
俺はあいつのことが嫌いだった。
だけどあいつは格好よかった。
本当に、すごく格好よかったんだ。
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