Lv100 第八話 「饕餮(トウテツ) -梢とジャルガルタイ-」 |
朝から裏の植物園を一周してくるのも慣れたものである。
収穫を満載した台車を押しながら坂道を昇り降りしても、一時間でお釣りがくるようになった。Tシャツの袖からは筋肉付き過ぎの腕が出ている。
汗水たらして持って帰ってもあいつは何の有難みもなくぺろりと飲み込んでしまうかと思うと、腹立たしくないとは言えない。
とはいえ四月中旬ともなれば楽な方だ。過ごしやすい気候だけでなく、この植物園の看板女優が恵みをもたらしてくれる。ジャルガルタイがこれを食べる姿は、きっとお客さんを驚かせるだろう。
若葉を芽吹かせた楓に囲まれた連絡路を抜け、現生の動物の運動場をいくつか通り過ぎる。
担当ではないが一応状態を気にしてみる。インドサイ、マレーバク、アジアゾウ、皆元気そうだ。
一際大きい運動場に裏から近付く。飼育員なら匂いで他の動物とは一線を画すことが分かる。良い物ばかり食べているだけに、どことなく上品な気がするのだ。
ジャルガルタイの寝部屋を過ぎると、いつもの週末の朝と同じ光景。やたら立派なカメラを構えた地味な服装のおじさん達が、長いのやらそこまで長くないのやらいくつものレンズを水堀の対岸に向けている。
そこにいるものの名前が、ジャルガルタイだ。
山のように二メートル強も盛り上がった肩はゾウに似た皺だらけの皮膚に覆われている。その斜面は下がった頭の先まで続き、大きなへら状の角で跳ね上がる。
真っ直ぐな脚といい、ブルル、と音を立てる鼻や分厚い唇、よく動く耳といい、サイそっくりなのに、サイと全然違うところがいくつもある。
眼は角のすぐ後ろまで寄っている。尖っていない角まで皮膚に覆われていて、その前面は鼻息に連れて震え柔らかそうだ。見る人をこれほど混乱させる動物も珍しい。
これが私の担当する動物。四千万年前のモンゴルから来た植物食獣、エンボロテリウムである。
ジャルガルタイは朝食前でそわそわしつつも、中央に植えられたモクレンの木の下からあまり離れない。
そんなわずかな一挙手一投足に注意を集中し続ける熱心な古生物・動物ファンの横に、あまり見慣れない影があった。
小学校中学年くらいの、髪の長い大人しそうな女の子。
親に連れられたり遠足で来るのがお似合いだろうに、他のお客さんから離れて一人でいる。
近付いていく私に気付くと、その子はびくりと震えた。まあ私は眉毛も書いていないしちりちりの茶髪だし、この筋肉だしな。もっと見た目を気にした方がいいか。
ジャルガルタイも私の足音を聞き分けた。耳がこちらを向いている。
「ジャルガルタイ、おいで!」
名前を呼ぶと前足を踏み出し、木の下から離れた。
シャッター音が続けざまに上がる。その中には、女の子のコンパクトデジカメも混じっていた。
観覧スペースと運動場を分ける水堀の向かって右の端には、二重の柵で区切られた餌やり場がある。私とジャルガルタイはその柵を挟むように進む。
手前の柵を開き、籠を台車から下ろすと、ジャルガルタイは角を内側の柵に突き付けるほど近付いていた。上唇がひくひくと蠢き宙を掻く。
丁度ジャルガルタイの顔の高さに、片面が開いた丈夫な餌箱がある。
籠をひっくり返し、中身を箱にぶちまけた。
薄紅の煙がぶわっと広がる。
今日の収穫は、大半が桜の花びらだ。
一見巨獣の餌にはふさわしくない風雅なものだが、ジャルガルタイはすぐさま顔を目元まで突っ込み、顎と唇を動かして飲み込んでいく。そのアンバランスな光景にはシャッター音の間隔も早まろうというものだ。
大体二十キロはあるわけだが、最後まで平らげるところを見届けないといけない。そのまま餌やり場で待っていると、さっきの女の子がすぐそこに来ていた。
最近の子にしては服装は地味な方で、コンデジは首から下げて今度はシャープペンとメモ帳を手にしている。
「おはよう!」
声をかけるとまた肩をびくつかせ、それから小さく頭を下げた。まあ調べ物に来たっぽいし、勝手に協力してしまおう。動物の事を教えるのも飼育員の役目だ。
「毎朝裏の植物園でこの子の朝ご飯を集めてくるんだよ。刈り取った枝とか、雑草とか。あ、でも」
植え込みの猫じゃらしから葉っぱを取って見せた。
「こういうのは食べれないの。イネ科、って分かる?」
「エノコログサとか、オヒシバとか」
やっと口を開いたと思ったら、意外と草の名前に詳しかった。
「よく知ってるね」
会釈が返事だった。
「イネ科の草には硬い鉱物が含まれててね、この子が食べると歯が痛くなったりお腹を壊しちゃったりするのね」
「四千万年前には無かったんですか」
「そうそう」
解説板は先に見てメモしたらしい。
「熱心だね」
「科学クラブで、一人一種類調べるので」
なるほど。それならやはり詳しく教えてあげないと。カメラを構えながらこっちの話を聞いている人もいるようだった。
少し安心したのか、女の子の方から質問が出た。
「一日どのくらい食べるんですか?」
「うん、この子はね、一日に百キロも食べちゃうの。アジアゾウと同じくらい」
それだけでは驚く様子もないので続ける。
「で、ゾウだったら牧草をあげればいいんだけど、牧草もイネ科だからね。この子には安い野菜とか、大根の葉っぱとか、色々集めないといけないの」
「花びらはたくさん食べても害にならないんですか」
今の質問は後ろにいた大人の一人からだ。女の子はメモを取り続けている。
「あ、大丈夫ですよ。この時期にはゾウもサルもみんな花びらを拾って食べてます」
ジャルガルタイもすでに花びらの山をほとんど飲み込み、名残惜しそうに唇と舌で箱の隅をなぞっていた。
顔面にべったりと花びらが貼り付き手のかかる子供そのものに見える。しかも朝食はこれで終わらない。
「ちょっとごめんね」
女の子にそう言い残し、空の台車を押して寝部屋の裏に走った。
鉄のシャッターの中にあるのは飼料貯蔵庫、それと菜切り包丁と分厚いまな板の乗った調理台である。コンロはない。
大根の葉っぱも白菜もいちいち切り離しておかないとジャルガルタイのおちょぼ口に収まらない。結果として、家の台所の何百倍も包丁を振るうことになる。これも筋肉の原因か。
十キロ分の野菜を台車に積んで戻っても、女の子は待っていた。他の大人は面白い画が撮れて満足したのか二、三人減ったが。
ジャルガルタイも箱の側から動かなかった。再び箱を満たしてやると、すぐにかぶりついて野菜を奥歯で切り刻む音を立てる。
「牧草だったら安いし楽なんだけど……、コアラの次に餌に困る動物って言われてるの」
「困るのは餌だけですか?」
もちろん、そんなことはない。どれだけ厄介な存在か、話しても話し尽くせないだろう。
「んーっとね、まず、さっき花びらを集めて来る前に運動場の草刈りをしてたのね」
「草刈り?」
運動場の隅にはノゲシやハルジオンが可愛い花を咲かせ始めていた。
「ああ、あれは残しても大丈夫」
「イネ科じゃないからですか?」
「そうそうそう、もしイネ科の草が生えてても、自分では食べちゃ駄目だって分からないの。エンボロテリウムは目も鼻も、そのー、頭も悪くて」
私がそんな風に言うと思わなかったようで、女の子は少し口を尖らせた。
「あ、でも耳だけは良いから」
「さっき名前を呼んだら来ましたよね」
この観察眼は流石科学少女というわけか。
「うん、でもお腹空いてたからだね。普段は全然言うこと聞かないから、またそのせいで大変でね」
丁度、ここから端が見えているアジアゾウの運動場でトレーニングを兼ねた餌やりが始まった。
二頭のゾウが鼻でハンドベルの柄を掴み、高く掲げて鳴らしている。ジャルガルタイは聞き慣れていてぴくりとも耳を傾けず、野菜を頬張っている。
「ああやって言うことを聞くようになったら怪我してないかとかどこか悪くないかとか良く見れるんだけど、この子は仕草から読み取るとか、寝てる間にこっそり見ておくとかしかないのね」
「どのくらい寝るんですか?」
「うん、二時間」
「二時間……」
「植物食動物だからねー」
流石に唖然としたようだ。私は指で丸を描いて運動場全体を指した。
「怪我の治療も難しいからここ全部、この子が怪我しないようにすごく気を遣って作ってあるの」
「全部丸太で囲ってますね」
説明する前に気付いてくれた。運動場の奥の壁は丸太の杭で覆ってあり、餌やり場や寝部屋の柵も木材で隠されている。
「そうそう、角をその辺に擦り付ける習性があるんだけど、コンクリとか鉄だと擦りむいちゃうからね」
「もしかして、自分が怪我するのも分からないんですか」
「まあ、ね」
女の子は呆れを隠さなかった。課題のために選んだ動物がお世辞にも賢いと言えなかったら、それは嫌だろうな。
「あの、こういう古生物って、飼い方を研究する人がいて、それから動物園で飼えるようになるんですよね」
「ん?うん。エンボロテリウムはモンゴル原産だけどロシアの大学が研究してるの」
「そんなに難しいんだったら、飼い方が分かるまでにたくさん死んじゃったり……」
賢い上に優しいみたいだ。確かにそれは古生物飼育に付き物の問題ではある。
「哺乳類だからマシな方だよ。今の動物を参考にして化石から分かることを付け足せばいいからね。でも、そう、大変だったんだって。そのロシアの大学で飼い方を習った時に聞かされたんだ」
私がそう言うと女の子は質問を繋がず、ジャルガルタイに視線を向けて黙った。野菜は残りわずかになっている。
ジャルガルタイ自身も成長して体力が付くまでは現生の動物以上に不安定だった。
日本で唯一のエンボロテリウムが、なぜこの動物園に来て私達に任されることになったのか。適していると見込まれた技術や条件が本当にあるのかと自信を失いかけたこともあった。
「この子の名前、ジャルガルタイ、ってね」
女の子は振り向いた。
「モンゴル語で「幸せ」っていう意味なの」
周りには愛好家だけでなくカップルや家族連れのお客さんも増えてきていた。
ジャルガルタイは食事を終え、顔を上げた。
「それは、この子はもちろんだけど、見に来た人も楽しく、幸せになれるようにって付けられたのね」
「うわー、何あれ!」
若い女性が声を上げて指差した。
それと同時に、ジャルガルタイが鳴き始めた。
プオオオ、と、ペットボトルに口を当てて吹いたときのような太く丸みのある音。角の中の空洞で響かせて半開きの口から出している。
「他のエンボロテリウムと縄張りが重なってないか確認するための鳴き声って言われてるの。賑やかになってきたからね」
女の子は急いでメモを取り、再びカメラに持ち替えた。
鳴き声がますますお客さんを呼び寄せる。
「でっかーい!」
「ゾウじゃないよね」
「サイじゃない?サイあんな角じゃないか」
「エン……エンボロ、テリウム、だって!」
「昔の動物?」
「声はなんか可愛くない?」
「顔に花びら付いてる!」
みんな何だか分からないまでも、何か大きくて面白いものがいることをここで知り、楽しんでいる。さっき指差した人はなぜか壺に入って笑いが止まらなくなってしまったようだ。
あんなに有名な恐竜のことでさえ普通はよく知らない。ましてや恐竜が絶滅してしばらく経った頃の世界なんて、想像も付かない。こうして目の前に垣間見えなければ。
食事は完食、健康そのもの。台車を引いて戻そうとすると女の子が気付いて頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「ゆっくり見ていってね」
裏に台車を戻す直前にちらりと見ても、女の子はジャルガルタイの前から離れる気配がなかった。
[エンボロテリウム・アンドレウシ Embolotherium andrewsi]
学名の意味:アンドリュース氏の破城槌の獣
時代と地域:始新世後期(約4000万年前)のモンゴル
成体の肩高:推定2.5m
分類:奇蹄目 馬形亜目 ブロントテリウム科 エンボロテリウム亜科
始新世に繁栄した大型植物食哺乳類であるブロントテリウム類のうち、アジアに生息したグループの最大のもの。アフリカゾウに匹敵する体格になる。
ブロントテリウム類はウマに近縁だが、鼻先に角の生えた大きな頭、それを支える太い首や高い肩、真っ直ぐな四肢に支えられたどっしりとした胴体など一見サイに似る。
エンボロテリウム自身はほとんど頭骨しか見つかっていないが、サイとの違いが頭に多く見られる。
サイの角は毛と同じケラチンでできていて骨の芯がないのに対して、ブロントテリウム類の角は骨でできた先の丸いものであった。また表面はおそらく皮膚で覆われていた。
エンボロテリウムの場合、前上方に伸びた幅広い角は鼻骨から成り、前面には鼻孔から続く大きな空洞があった。また雌雄差はなかった。
見た目ほど厚みがないため力任せに叩きつける武器としては用いられず、仲間の識別や食物を集めるための道具、鳴き声を拡大する共鳴洞として使われたと考えられる。
臼歯はサイやゾウの石臼のようなものよりシカなどの尖ったものに似ていた。
また顎を動かす筋肉の付着スペースはやや狭く、歯列は顎関節に対してほぼ同じ高さにあった。これは噛む力が弱く、顎の動きも単調だったことを意味する。
さらに、今のいわゆる馬面の植物食獣と違って眼窩はかなり前方、角のすぐ後ろにあった。歯に加わる力が強くないため、眼窩のすぐ下に臼歯があるという原始的な形態でも目に負担はかからなかったと思われる。
よってあまり硬い植物は食べず、森林の若葉や水辺の植物など柔らかいものを荒く噛み切って飲み込み、時間をかけて消化したと考えられる。
これは、硬いイネ科の草が広がる草原がなく湿潤な森林が広がっていた当時の環境とも対応する。
脳はサイの1/3程度しかなく、視覚は弱かった。
顔面に血管や神経を通すための孔(眼窩下孔)が大きく、これはサイと似ていた。食物を集めるためのよく動く唇があっただろう。
説明 | ||
もし古代の生き物が甦って、しかるべき方法でなら飼えるようになったら? 古き時代に支配者だった者達は、復活したら人間の生活をどのように支配するのか。 化石を通じて彼らに焦がれた人々は、時間という障壁を取り払われて何を見てしまうのか。 "その筋"ではある意味定番の空想を、飼い主の少女達の視点で描くショートコメディ第八話。 ◆哺乳類に挑戦。今の動物との差別化が大変だからあんまりやれないのよ。 |
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