真・恋姫†無双〜恋と共に〜 #XX T
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#XX T

 

 

空には半分に割れた月が昇っている。その光に遮られて、それ以外の瞬きを目にする事はない。その仄かな明りが照らす大地に、蠢く集団があった。動物の群れなどではない。一糸乱れぬ、と形容してもよい程に整然とした動きで、彼らは進み、そして立ち止まる。

先遣二隊、袁紹軍、公孫賛軍、そして本隊。すべての部隊を合流させた曹操軍は、大河の沿岸に布陣していた。夜番を立たせてはいるが、それも野盗―――この規模の軍に襲い掛かるような愚者はいる筈もないが―――や獣対策程度のものだ。奇襲の心配はほとんどない。

そして、大将の大天幕にて、小さな軍議が開かれる。

 

「斥候からの報告が入りました」

 

天幕の中にいるのは、華琳と三軍師のみだ。稟の言葉に、華琳は続きを促す。

 

「過日の情報通り、水上戦を望んでいるようです」

「やはりか。精強と名高い江東の水軍ね」

「如何致しますか?」

「言ったはずよ。私が進むのは覇道。敵がそれを望んでいるのならば、それを受けた上で討ち砕いて見せるわ」

 

稟も確認で発した問いなのだろう。ただ頷く。

 

「我々の船も、大方準備が終わっております。あと三日ほどもすれば、全てが揃うかと」

 

桂花が補足した。許昌を出る前に、既に敵の動きの概要は掴めていた。急遽―――という程でもないが、用意させた船も、大河の岸に、所狭しと揺れている。

彼女は、続けて地面に広げられた地図を指す。悠久を流れる大河、その一点。

 

「そして、おそらくですが、接敵地点はこの辺りになると思われます」

「赤壁ですかー」

 

風もその知識から、地名を口にした。

 

「結構。稟はそのまま斥候からの情報をまとめなさい。桂花と風は水上戦に向け、船の準備を」

「「「御意」」」

 

華琳の命に、三人は頷き、そして天幕を出て行った。華琳は一人、地図をじっと眺める。

 

「地はあちらにある」

 

孟子の言葉。天運を得ようとも地の利には敵わず、地の利もまた人の和に劣る。

 

「人はこちらにある」

 

厳しい訓練を課し、精兵を育ててきた。武将もまた、敵に劣ると思わない。さらに加えるならば、敵は指揮系統の統一された一軍ではない。この戦の為だけに結ばれた、仮初の協定。互いに利を得ようと、画策していることだろうと、彼女は予想する。

 

「私が進むは、覇道」

 

先程三人の部下に告げた言葉を、再度繰り返す。

 

「……楽しみで仕方がない」

 

ゾクリとするような笑みを浮かべ、彼女は呟いた。

 

 

 

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桂花の言葉通り、三日が経過すれば船も整い、曹操軍は水上を移動していた。風は追い風。強弱の差はあれど、絶えず吹き続ける。水平線と向こう側に、ぼんやりと山が浮かんでいた。その光景を眺めながら、一刀は考える。

 

「祭は来なかったな。いや、まだ時機ではないだけか?」

 

脳裏に浮かぶは、三國志の中でも最も有名と言ってもよい大戦。周瑜と黄蓋の阿吽の呼吸により生み出された、苦肉の策。赤壁の戦いにより曹操は痛打を受け、大陸の情勢は変わっていった。しかし、その兆はない。

 

「季節としても、『赤壁』に近い。東南の風は………吹くだろうな。吹かないなど、この外史が赦しはしない」

 

史実として、赤壁の戦いが起きたのは十一月中旬から後半にかけて、という説が力を持っている。いま一刀がいる世界も、時期として、その説に外れていなかった。彼という異分子を排除しようとするならば、あるいは歴史通りに事を進めようとするならば、その流れに沿おうとする筈だ。

 

「ならば……どうやって連環を成す?」

 

黄蓋は来ない。それを伝える方法がない。では、いったいどうやって――――――。

 

「たいちょー……」

 

思考の海に沈みかけた一刀を、引き揚げる声があった。振り返れば、彼を隊長と慕う三人の少女。皆一様に、顔を青くしている。

 

「どうした?」

 

思考を切り替えて問えば、再び力ない声。沙和は泣きそうな顔で、真桜は力なく、凪は無表情のように見えて、若干眉尻が下がっている。

 

「気持ち悪いのー……」

「せや……なんで隊長は平気な顔しとるん?」

「霞様や白蓮様が羨ましいです……」

 

どうやら船酔いのようだ。このままいけば、それだけで勝負がつくかもな。そんな事を思いかけたが、すぐに切り捨てた。ちなみに、凪が羨む霞たち騎馬隊は、斥候もかねて沿岸を駆けていた。船の上で騎馬を使う訳にもいかない。また、船に搭乗した時点で馬を置いていく事も出来ない。よって、彼女たちが先駆け、開戦の前日に船へと乗り換える事となっている。

 

「まぁ、天の国にも船はあったからな。この船よりもかなり速いぞ?」

「そんなの乗りたくないのー」

 

その光景を想像して、沙和が涙目で一刀の腕にもたれ掛る。

 

「面白いんだけどな」

 

その頭を撫でながら、一刀は凪に問うた。

 

「兵達はどうだ?やはり船酔いは激しいか?」

「はい。我々はほとんど水上戦というものを経験しておりませんので……」

「兵だけやなく将もアカンみたいやけどなー。桂花たちも辛そうにしとるし、季衣と流琉もキツいみたいやったわ」

「そうか……何か、手を打たないといけないよな」

 

沙和を真似て寄り掛かった真桜を受け止める。凪が羨ましそうな顔をしていた。真桜の背中を摩ってやりながら、一刀は考える。真っ先に思いついたのが、先ほど考えていた連環だ。だが、それはそのまま、敵の策に手を貸すこととなる。では、他に方法があるだろうか。仮に陸上を移動して、戦の直前で船に移ったとしても意味がない。戦が始まれば船の揺れは一層激しさを増し、まともに戦えない可能性すら出てくるだろう。

 

「(慣れてもらうしかないか……)」

 

結局、その結論以外に思いつく事はなかった。

 

「……どうしたの、凪ちゃん?」

 

ふと、沙和が尋ねた。見れば、凪の視線は進行方向でも一刀達でもなく、右を向いていた。

 

「いや、岸に小舟が幾つか並んでいるなと思って」

 

彼女の言葉に、一刀たちもそちらを向く。岸の近くに小さな集落があった。先日も水上から別の邑を見かけた事を思い出す。農作よりも漁業を主として生活をしているのだろう。どちらの集落も岸に舟を並べてあり、仕事に精を出している邑人を見かけた。

 

「なんであのおっちゃんらは平気なんかなー」

 

同様に舟に乗って漁をしている漁師を見ながら、真桜が呟いた。

 

「ほんとなのー。やっぱり慣れてるのかな?……って、あれ?」

 

と、沙和が何かに気づいた。

 

「どうした、沙和?」

「なんか変じゃない?」

 

凪の問いかけに、沙和はじっと漁師の方角を眺めながら首を傾げる。凪もそれに気づいたようだ。

 

「……あっ、複数の舟が一緒に動いている?」

 

並んだように浮かぶ舟は、片方が曲がればもう片方も同じように進路を変えている。

 

「そうなの!あぁいう風に造っているのかな?」

「そりゃないで、沙和」

 

思うところを口にした沙和を、真桜が即座に否定した。

 

「どういう事?」

「舟っちゅーのは、大きな木を削って造るか、木の板を貼り合わせて造るもんや」

「うん」

「小舟二つ分を造れるくらい大きな木やったら、最初からもっと幅広の舟を造る筈や。それにあぁいう風に削っていくのも難しいやろうからな。ウチの部下でも、あそこまで綺麗に削れるんは、そうおらんで。途中で真ん中が割れるやろし」

 

なるほどと凪と沙和は頷いている。

 

「それに、板を貼る方の舟やったら、くっつけるのがまたムズいわ。せやったら最初から大きな舟を造るか、縄かなんかで結び付ける方が楽やで」

「そうか……では何故くっつけているのだろうな」

「何か理由があんのかな?」

 

三人の会話を聞きながら、一刀はじっと結合された二隻の舟を見ていた。いや、正確には、陽光を反射して、結合部分に鈍く光る黒い何かを。

 

 

 

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夜。川岸に船を停泊させ、沿岸部に陣を敷く。兵達は揺れる事のない、踏み慣れた大地を喜び、陣の設営も滞りなく終わった。偵察に向かっていた霞と白蓮の騎馬隊も戻ってきており、霞はさっそく一刀に絡みついている。

 

「なんや、そっちは大変そうやな」

「あぁ。船酔いに苦しむ兵が多くてな。いや、将もか。季衣や流琉も元気がなかったし、風たちも疲れていたよ」

 

酒の徳利を片手に、霞はあたりを見回す。流琉が主導となり、輜重隊が食事の準備をしていた。船上では船酔いで碌に食べる事も出来なかった兵達は、今か今かと完成を待っている。

 

「ま、うちは船よりも馬の方が好きやからな。もうしばらくは楽させてもらうで」

「そう言って、戦が始まった途端に酔って戦えない、なんて事はないようにな」

「大丈夫やって」

 

軽口を言う一刀の背をバンバンと叩きながら、霞は話題を変えた。

 

「そんで、実際のところはどうなんや?一刀の国の知識で、船酔いを止める方法とかないん?」

「難しいな。俺の世界では酔い止めの薬があったけど……。あとは慣れだろう」

「そか。なんや天の国言うても、大変なんは同じみたいやな」

「まぁな。それに、漁師や輸送船の乗組員でもない限り、一般人は滅多に船には乗らないよ」

「河を渡る時はどないするん?」

「橋がある」

「ホンマに?」

 

長江や黄河を渡るような橋があるのか、一刀には分からなかったが、大河を跨ぐ、巨大な橋。それを想像して、霞が眼を真ん丸く見開いた。その顔がおかしかったのか、一刀は思わず噴出す。

 

「あっはっは。霞のそんな顔も珍しいな」

「なんや、それ。ウチかて驚く事くらいあるで」

 

からかうような口調に霞は頬を膨らませ、そして徳利を直接口につける。ぷはっ、と軽快な息を吐く。アルコールの芳香と彼女の香りが混ざり合い、一刀の嗅覚を少しだけ刺激した。

 

「ごめんごめん。でも、霞は頭もいいし、どんな時でも落ち着いてるような印象だったからさ」

「そら戦の時はそうするように気をつけとるわ」

「まぁな」

「ホンマ失礼やわ……ん」

 

再びむくれながら、霞は一刀に飲みかけの徳利を差し出した。

 

「?」

「いいから飲み。昼間は白蓮と一緒に行動しとったのは知っとるやろ?」

「あぁ」

「白蓮も生真面目というか融通が利かんというか……ネタ振ってもあんまおもろい反応返してくれんし……ちゅー訳で、夜くらいは楽しくやりたいんや」

「それ、白蓮が聞いたら泣くぞ」

 

呆れながら、一刀は霞の手に抱えられた徳利に、直接口をつける。つい今しがた感じた匂いが、再び鼻孔をくすぐる。少しだけ強めの酒だった。だが、美味い。ゆっくりと舌の上を走らせ、喉に流し込めば、再度同じ香りが通り抜けた。

 

「あー、だいじょぶだいじょぶ。公孫範っておるやろ?」

「白蓮の弟だったか」

「せや。白蓮がつまらん返しをすると、すかさずアイツが突っ込んでな。それはそれでおもろかったけど、三度目くらいで白蓮は涙目や。ちぃと可哀相で、それからは話を振れんかった」

「白蓮も苦労してるんだな」

「性格で損しとるわ」

「ひでぇ」

「にひ」

 

悪戯が成功した時のような笑みを見せる霞に、一刀も脱力する。厳つい髪飾りの点いたすみれ色の頭をガシガシと撫でながら、彼は再び酒を口に含んだ。

 

「ただまぁ、戦が始まったら白蓮は守りに回るやろな」

「ん?」

 

次いで自身の口にも酒を運びながら、霞は呟く。

 

「騎馬に関しては、流石は白馬長史。一流や。ウチや翠にも引けを取らん。せやけど、白兵戦については一歩遅れてまうからな」

「……確かに」

「まー、稟や風たちが策や配置を決めるからわからんけど、前線には出し難いやろ」

「そうかもな」

 

応えながら、一刀は霞の頭を撫で、その柔らかい頬もゆっくりと撫でる。日なたの猫のように気持ちよさそうにする霞の顎をくすぐりながら、彼は自軍の状況を考える。将は全部で十七人。華琳と軍師、親衛隊の季衣に流琉、そして麗羽と白蓮は直接戦わないとして、残るは九人。対する劉備・孫策の連合は、一刀の知り得る限りでは、二二人。そのうち前線に出得る将は、劉備軍から八人、孫策軍から五人。数の上では負けている。しかしながら、一騎当千の武将のみで戦が決まる訳ではない。兵の数は曹操軍が上。あとはそれを如何にして勝利に繋げるかだ。だが、考えるのは軍師の仕事である。そして彼の仕事は――――――。

 

「どちらにしろ、敵さんと当たるんはもう少し先や。せやから、ウチはこうして一刀とイチャイチャさせてもらうで」

「好きにしてくれ」

「ん、好きにする。ウチ、一刀の第四夫人やし」

「そうだったな」

 

まったく敵わない。心の中で呟き、一刀は撫でるのを再開する。月は、少しだけ丸みを帯びていた。

 

 

 

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数日が経過した。一刀の予想通り、船の揺れに慣れてくる兵もいるにはいたが、それでも軍の大半が船酔いに苦しんでいる現状は変わっていない。そろそろ手を打つべきかと、華琳は考える。彼女は霞と白蓮に命じ、敵の情報のみならず、船に関する情報も集め始めた。

 

「なー、アニキ」

「ん?」

 

それとは別に、最悪の場合、自分が言い出すしかないかと考えながら、陽光の煌めく水面を見下ろしている一刀に声がかかった。

 

「どうした、猪々子?」

 

振り返れば、袁家の二枚看板が立っている。斗詩は他の兵と同様に青ざめた顔をしていたが、猪々子は特に問題がないようだ。

 

「勝負しようぜー」

「なんでまた」

 

こんな事を言い出す始末である。揺れる船でよくそんな事を言い出せるものだ。そんな表情の親友には気づかないまま、猪々子は続ける。

 

「だって暇なんだよ。凪たちは船酔いで元気がないし、春蘭や秋蘭は兵の指示で忙しいだろ?アニキだって暇そうじゃん」

「失礼な奴だ」

「アイタっ!?」

 

これが犬であれば、ぶんぶんと左右に振られる尻尾が見えていただろう。遊んで欲しげに袖を引く猪々子の額を、一刀は指で弾いた。

 

「いってぇよ、アニキ!」

「痛くしたんだよ。今のが避けられないようじゃ駄目だな」

「なんだと!?じゃ、もっかいやってくれよ。今度は絶対避けるからさ!」

 

威勢よくいい放ち、左右にステップしてシャドーボクシングのようなものを始める猪々子を放置し、一刀はしゃがみ込んでいる斗詩に声をかけた。名を呼ばれて顔を上げた彼女は、やはり辛そうだ。

 

「大丈夫か?」

「あ、あはは……なんとか、って感じです……」

 

一刀も傍に膝を曲げ、背中を撫でてやる。

 

「あまり近くを見すぎるのも駄目だぞ。出来るだけ遠くの景色を見ているようにした方がいい」

「はぃ……」

 

力無く応える斗詩の背を撫で続ける一刀。弱々しく礼を言う斗詩。それをよく思わない猪々子。

 

「いつでも来いよ、アニキ!」

 

構って欲しそうだ。仕方がないなと一刀は立ち上がり、猪々子に歩み寄る。

 

「お、やる気になったか!」

「あぁ」

 

言いながら、一刀は猪々子に蹴りを放った。

 

「はっ!」

 

猪々子はバックステップでそれを避け、背に担いだ大剣の柄に手を掛ける。

 

「へへっ、そんなの当たんねーよ!」

「だったらもっと避けてみろ」

 

調子に乗る猪々子に向けて彼は飛び出し、そのまま拳や蹴りを向ける。一刀も本気ではないのだろう。その証拠に、猪々子は軽々とそれを跳んで躱し、笑みを浮かべた。

 

「これで最後だ」

「へっ!まだまだ終わら――――――え?」

 

これまで通りに後ろに跳んで一刀の蹴りを避けた猪々子は、呆けた声を上げる。足裏につくはずの感触はなく、浮遊感。視線を下に向ければ、木の足場はなく、揺れる水面があった。

 

「うわっ、うわわわわっ!?」

「よっ、と」

 

彼女の動きが止まる。頭から川に落ちようとしていた猪々子の足首を、一刀が掴んでいた。

 

「あ、危なかったぁ」

「文ちゃん…別の意味で危ないよぉ………」

 

声の方を向けば、足を掴み、何故か目を逸らしている一刀と、その隣に斗詩の姿が見えた。

 

「何が?」

「……見えてるよ?」

「っ!?」

 

その言葉の意味を理解した瞬間、猪々子は両手で服を押さえる。

 

「あ、アニキ!見るな!見るんじゃねぇ!」

「見てないから、暴れるな」

「うわ、うわうわうわ……」

 

船上に引き上げられ、足場を落ち着けるまで、彼女はずっと服を押さえたままだった。

 

 

 

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陸地を移動していた頃は半分に割れていた月も、弦を引き絞った弓のように、その切断面は丸みを増していた。大河の沿岸には曹操軍が陣を敷き、夜営の準備に取り掛かっている。

その一角にて、言葉を交わす二つの影があった。

 

「――――――どうでしょう?」

 

問うは、眼鏡を掛けた理知的な少女。その弦を右手で押し上げながら、彼をじっと見つめている。

 

「俺はいいと思うぞ。水上であれば、伏兵を潜ませる事も難しいだろう」

 

応えるは、漆黒の服を身に纏った青年。腕を組み、彼女の説明を反芻しながら頷いた。

 

「でも、なんで俺に訊くんだ?」

「不確定要素が多いですからね。敵はかつてない規模である上に、我が軍において初の大規模水上戦。軍師となり得る人間の意見は、すべて聞いておきたいのです。先ほど秋蘭様にも伺いました」

 

稟が一刀に問うたのは、軍の配置だった。桂花や風の意見はどうなのかと問えば、既に三人で何度も話し合い、そして落ち着いた結論がそれだという。

 

「俺は本陣でいいのか?」

「はい。元よりその約束でしたので」

 

最後に思いついた問いを発してみれば、稟はすぐさま頷いた。ただ、その表情は重い。

 

「どうした?」

「……いえ」

 

一刀の問いに稟は首を振り、視線を下げる。光の加減で、ガラスの奥の瞳が見えなくなった。しばらく沈黙が続いたが、稟はそれ以上言葉を重ねる事無く、踵を返そうとする。

 

「では、失礼しま――――――」

「待った」

 

だが、一刀がそれをさせなかった。回転する身体の軌跡を追う様に回る、細い右腕を握る。稟は振り向かない。言葉も発しない。何を不安に思うのか。そう問いたい。だが、彼はそれをしない。きっと、彼女の不安を取り除くことは出来ないだろうから。

 

「少しだけ、時間あるか?」

「……」

 

代わりに出てきたのは、別の言葉だった。彼の言葉に、稟は言葉を返さずに頷く。ありがとう。一言礼を述べ、一刀は彼女の右手を離した。そして再度、左手で握り直す。今度は優しく、包み込むように。

 

「少し、歩こうか」

 

こく、と頷く。一刀はそのまま稟の手を引き、陣を離れた。

凪たちの指揮する声を遠くに聞きながら、一刀がやって来たのは大河の岸だった。ぼんやりと輝く月の光に照らされて、水面の揺れる様が見える。風が、肌に冷たい。

 

「寒くないか?」

「いえ、大丈夫です」

 

濡れていない場所を探して腰を下ろせば、稟が肩にもたれ掛かった。

しばしの沈黙。水音を聞き、揺蕩う月を水面に見ながら、稟は口を開いた。

 

「……一刀殿と二人きりで話すのも、久しぶりですね」

「そうだな」

 

言葉の通りだった。稟と二人になるのは、何時だか稟が眼鏡を新調した時に、街で話して以来だ。だが、それ以外に二人になったのはいつだったかと、一刀は記憶を辿る。恋と共に行動している時は、基本的に風も加えて四人が一緒にいた。あとは、凪たちと出会った討伐軍くらいだが、その時にも、将は二人といえども、率いるべき兵が周囲には居た。

 

「貴方には、世話になりっ放しです」

「そうか?」

 

突然の言葉に、一刀は驚きながらも、おどけたように笑みを浮かべる。しかし、稟の表情は変わらない。彼女は言葉を続けた。

 

「そうです。初めて出会った時、賊から救ってくれました」

「……そんな事もあったな」

 

その雰囲気に呑まれ、一刀も声音を真面目なものに変える。

 

「華琳様に御目通りが叶うよう、取り計らってくれました」

「流れに乗っかっただけのような気もするが」

 

史実通りならば、いつかは認められていただろう。そのような無粋な事は言わない。

 

「初の行軍の時にも、貴方のおかげでそつなく終わらせる事が出来ました」

「……」

 

想い出を辿る。一刀の手を握る稟の手に、力が籠められた。

 

「一度は別れ、そして戻ってきてくれました」

 

彼も、それを握り返す。

 

「一刀、さん……」

 

初めての呼び方。そこに何かを感じ取り、一刀は稟を振り返る。

 

「……………」

 

柔らかく、そして心地よい温もり。すぐ目の前には、稟の整った顔。瞳は閉じられている。

一瞬か、一分か。あるいはそれ以上なのか。感知出来ぬ時間が流れ、稟は唇を離した。

 

「貴方が何を考えているのかは、私にはわかりません」

「……」

 

そのまま彼女は一刀の胸に、頬を寄せた。彼の心臓の鼓動を聞きながら、言葉を紡ぐ。

 

「それでも、何となく感じられます……それくらいの付き合いは、経てきたつもりです……」

「……うん」

 

彼女の身体を抱き締め返し、一刀は頷いた。

 

「私が貴方を愛している事など、とうにお見通しでしょう?」

 

一刀は応えない。

 

「だから……貴方も振り向いて貰おうと思いまして」

 

腕の中で、稟が見上げてきた。その目尻に浮かぶ雫に、一刀は気づかぬふりをする。

 

「ふふっ……女のささやかな意地です」

「……違いないな」

 

微笑む稟の唇に、一刀は先のそれを返した。

 

 

 

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数日が経過する。沿岸部、大天幕にて状況を報告・確認する華琳たちの元に訪れた将がいた。

 

「どうしたのかしら。霞、白蓮」

 

神速と謳われる将と、白馬長史と名高い将。騎馬隊を率いる二人だった。華琳の問いを受け、白蓮は一歩下がる。そして、霞が代表して口を開いた。

 

「船の事なんやけどな、おもろい事がわかったで」

 

その言葉で、華琳と軍師の三人は、先ほど話していた戦法から意識を変える。斥候の彼女たちが言うからには、有益な情報だろう。華琳の視線に促され、霞は続けた。

 

「川沿いに邑があったのは孟ちゃん達も何度か見たやろ?ここより先の邑の漁師に聞いたんやけど、船の揺れを抑える方法が分かったんや」

「本当なの?」

 

三人の共同で行なった作業とはいえ、責任者は桂花だった。戦法や航路とは別に船酔いは、彼女の頭を悩ませる障碍である。彼女は身を乗り出した。

 

「せや。漁師たちはそれぞれ舟を持っとるんやけど、時々複数で大掛かりな漁をする時もある言うてな。そん時に、鎖で舟を繋ぐそうやで。総体を大きくする事で、揺れを少なく出来る言うてた」

 

その手があったかと、軍師たちは顔を見合わせた。しかし、すぐに懸念事項が浮かぶ。鎖で繋ぐという事は小回りが利かないだけでなく、他にも気にかかる事があった。

 

「地元の民がそう言うのであれば、そうなのでしょう。しかし、これは戦の為の船です。まとまってしまえば、火計を受けた時に危険度が増大します」

 

眼鏡を押さえながら、稟はその方法の危険性を口にした。風や桂花も同様の思考に至っていたようで、隣で頷いている。だが、霞はそれを気にした風もなく、斜め後ろに立つ白蓮に視線を送った。

 

「それに関しては、白蓮が調べてくれたで」

「あぁ。地元民に聞けば、この時期は常に北からの風が吹いているとの事だ」

「確かに。船酔いで気づけませんでしたが、ずっと追い風でしたねー」

「だから、火計の危険性はないと考えられるが……どうだろうか?」

 

風はそういえばと思い出したように頷き、白蓮も補足する。ただ、自信がないのか、裁定を窺うような表情だ。

 

「ちなみに、その鎖というのはすぐに手に入るようなものなのかしら?」

「あぁ。この辺りの漁師は皆使うらしくてな。鍛冶屋にも備蓄はそれなりにあるらしい」

「よろしい。それなら明日、霞と白蓮は鎖の調達に向かいなさい」

 

だが、華琳の言葉にそれが杞憂だったと分かり、ほっと胸を撫で下ろした。

 

「ある程度手に入ったら、一度合流してちょうだい。信じていない訳ではないけれど、それでもまずは効果を試したいわ」

「了解や」

「あぁ」

 

桂花の言葉に二人は頷き、天幕を出て行った。

 

「これが上手くいけば、兵の動きも元に戻るでしょうね」

 

華琳の言葉に三人も頷き、再び元の議題に戻る。夜は長い。

 

 

 

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翌日午後。桂花の指示通りに、幾許かの鎖を携えた騎馬隊の一部が沿岸部に並んでいた。それを受け、軍は船を岸に寄せる。

 

「とりあえずは、これだけだ」

「十分よ」

 

その中央にて、白馬から降りた白蓮が、桂花に手に入れた鎖を示す。すべての船を連結出来る程の量は勿論ないが、それでも二隻ないし三隻程度ならばしっかりと固定可能なくらいには揃っていた。

 

「真桜」

「はいな」

 

桂花はそれを受け、工作部隊を率いた真桜を振り返る。

 

「さっそく試してみて」

「りょーかいっ」

 

工兵として働ける事が嬉しいのか、真桜とその配下の返事は威勢がよく、快いものだった。彼らは真桜の指示の下、迅速に作業を行い、瞬く間に三隻の船を繋いでいく。

 

「――――――出来たで!」

「どうかしら?」

 

船上から声を掛ける真桜に、華琳は問うた。真桜はしばらく歩き回り、飛び跳ねたりしていたが、いまひとつ実感が湧かないようだ。申し訳なさそうに、華琳に声をかける。

 

「確かに安定してるような気がしますけど……すんません、ちぃとばかし、岸から離れてみてもええですか?」

 

確かに、岸辺に固定してある状態ではその違いも分かり難いだろう。華琳も頷いた。

 

「ほんじゃ、少し内側に進むで!」

 

真桜の掛け声により、工作兵たちが岸から船を離す。彼らもまた、揺れる船に辟易していた者達だ。最初の方は、やはりわずかながらに不信と不安があった。しかし、それもまたすぐに一転する。

 

「おーっ!こりゃえぇわ。大将ー!全然違いますー!」

 

水上から、真桜が岸に向けて叫び、兵たちもまた声を上げる。その声を聞けば、情報の信頼性を疑う余地はなかった。

 

「それでは、これより船を鎖で繋ぐ作業に移るわ。桂花は白蓮について行き、霞と合流なさい。すべての隻を連ねられるだけの鎖を準備して。水上要塞を造るわよ」

「はっ」

「白蓮も戻ってきたばかりで大変だとは思うけれど、頼むわね」

「あぁ」

 

華琳の命を受け、桂花と白蓮はその場を去る。入れ違いに、岸に船をつけた真桜も戻ってきた。これでようやく船酔いから解放されると、その顔は晴れやかである。

 

「いやー、やっぱ、長らく使われてきた人の知恵いうんは頼もしいですわ。アレなら船酔いをする兵もぐんと減ると思います」

「えぇ。桂花たちに鎖の調達を命じてあるから、届き次第繋げていきなさい」

「りょーかいや!」

 

華琳の言葉に、真桜はビシリと敬礼を返す。工兵の血が騒いでいた。

 

 

 

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さらに数日が過ぎ、夜。空の月は、あと数日で満月になろうかという形をしていた。ぼんやりと波紋を広げる光の端に、黒い輪郭が薄く見えている。空の灯りを見上げながら、一刀は川縁に腰を下ろしていた。静かな水の音は、どこか感傷的にさせる。

 

「風か」

「はいー」

 

背中にかかる圧力に、一刀は口を開いた。耳のすぐ後ろから、いつものように間延びした声が届く。背中にもたれ掛り、抱き締めるように両腕を一刀の胸に回す風。サラサラとした髪が彼の頬を撫ぜる。

 

「どうしたんだ?」

「おにーさん成分を補充しようと思いましてー」

「そっか」

 

これまでならば軽口で返すそれも、一刀の声音は優しく少女の耳を打った。

 

「船酔いは平気か?」

「はい。おにーさんもわかっているとは思いますが、揺れが一気に収まりました」

「だな。他の皆も、だいぶ気力を取り戻している」

「ですねー」

 

他愛のない会話を続ける。風は一刀の背に身体を預け、前後にゆらゆらと揺すっていた。その揺れがまた水音と重なり、心地よい。

その、ゆりかごのような感覚を味わっていると、風はそういえばと口を開く。

 

「霞さんと白蓮さんから伝令が届きました。あと数日で、接敵するようです」

「そうか」

 

事務連絡。だというに、彼女の声音は、ほんのわずかに哀しみを帯びている。一刀は気づかないふりをして言葉を返し、胸元の細い腕をそっと抱く。

 

「稟ちゃんから聞いたとは思いますが、おにーさんには本陣にいてもらう予定です」

「あぁ」

 

彼の温もりに抱かれるような感覚を味わいながら、風は話を変えた。

 

「地上戦ならともかく、水上戦では本陣の急襲も難しいでしょう。なので、おにーさんにはでーんと構えていてもらうというのが、稟ちゃんと桂花ちゃん、そして華琳様のお考えです」

 

わかった。そう頷きかけて、一刀は留まる。風は言った。それは、稟と桂花、そして華琳の考えだと。風の考えは違うのか。そう問うまでもなく、風は答えを返す。

 

「おにーさんは、好きに動いていいのです」

 

ぎゅっと、一刀を抱く腕に力がこもった。

 

「おにーさんが戦うのは、恋ちゃん一人。もとより、そういう約束でした」

「……」

「なので、恋ちゃんが出てきたら、おにーさんは恋ちゃんの相手に行っちゃってください」

「いいのか?」

「はい」

 

風の腕に、さらに力がこめられる。抱き締めるというよりも、しがみつくという形容が相応しかった。

 

「おにーさんは、どうせ風の言う事なんて聞いてくれませんので」

「そんな事はないだろう」

「そんな事あります。おにーさんは――――――」

 

自身の左頬を一刀の右のそれにくっつけて、風は言葉を紡ぐ。心の中に巣食う哀しみをそっと解すように、ゆっくりと、それを口にする。

 

「……」

 

一刀は動かない。頷く事も、首を振る事もしなかった。明確な解答を避けつつも、風にそれは通じない。小さな吐息が、その胸の動きから伝わった。

 

「……ごめんな」

「いえいえ。男という生き物が、そういうものだと風は知ってますので」

「風は大人の女だもんな」

「です」

 

一刀の言葉に風は微笑む。一刀もまた彼女の笑みを感じ取り、頬を触れ合わせたまま微笑んだ。

しばらくそうしたまま、風はゆらゆらとした動きを再開させる。

 

「おにーさんは、どちらが勝つと思いますか?」

「それは――」

「おにーさんの知識で答えずに、おにーさんの考えを教えてください」

 

一刀の機先を制し、風は言葉を重ねる。歴史の流れを知ろうとは思わない。それに囚われる訳にはいかない。一刀もまたその心情を理解し、口を開いた。

 

「……難しいところだな。数の上では勝っていても、地の利はあちらにある。また、将に関しても向こうの方が多い。五分五分といったところか」

「そですか」

 

彼の考えを聞きはしたが、風はそれ以上を追求しなかった。ゆっくりと川辺に打ち寄せる水の音に合わせて前後に動き、自分の胸の前で、同じように動く彼の身体を楽しむ。

ゆったりとしたリズム。不思議と、心が落ち着く。

 

「ふぁ……」

 

しばらくそうしたところで、風が気の抜けた声と息を零した。

 

「眠いか」

「はい。風はそろそろ戻ります。おにーさんはどうしますか?」

「俺は……もう少し此処にいるよ」

「そですか……おやすみなさい、おにーさん」

 

最後に体重を前に傾け、風は一刀の頬に口づけを落とした。別れを惜しむようにゆっくりと彼から離れ、風は陣へと戻っていく。

 

「ごめんな、風」

 

遠ざかる小さな足音を聞きながら、一刀は呟く。

 

「俺……嘘、吐いた……」

 

最初から最後まで風が顔を合わせなかった事に、とうとう一刀は気づかなかった。

 

 

 

-9ページ-

 

 

 

船々の間に、多少の間隔の差はある。だが、完全に連環の成された水上要塞は、ゆっくりと河を下っていった。当初の様子が嘘のように、その水揺れはなりを潜め、兵の中にも船酔いを起こす者もほぼいなくなった。少しの時間ではあるが、船上での戦いの模擬訓練も行う程だ。

 

「いくら揺れが減ったとはいえ、完全に消えた訳ではない!陣形を崩すな!」

「揺れの間隔を計れ!揺れが切り替わる、その一瞬に合わせて矢を放て!」

 

春蘭や秋蘭の声が、川の水音を超えて響き渡る。凪たちも同様に、兵たちへの指揮を行なっていた。それを遠くに見遣る一刀の耳に、二つの声が届く。

 

「いやー、やっぱウチは馬上の方がえぇわ」

「まったくだ」

 

振り返れば、昨日までは船に見なかった二人の将。これまで騎馬たちを用いて沿岸を駆け、情報を集めてきた斥候部隊の部隊長。

 

「霞に白蓮か。二人が居るって事は……」

 

口を開いた一刀に、霞の口元に不敵な笑みが浮かぶ。戦の只中で、全力で戦える実力者に出会った。そんな表情だ。

二人の存在と、霞のその表情。それらが意味するところは、ひとつしかない。

 

「せや。このままいけば、おそらく明後日。早ければ明日の夕刻にでもぶつかるで」

 

まもなく接敵する。それ以外にない。

 

 

 

-10ページ-

 

 

 

真円のように見えて、どこか左右が対称的ではない月が輝いている。じっと目を凝らしても、具体的な違いは見当たらない。ただ、感覚で違うという事が分かるだけのその月は、これまで同様に沿岸に陣取る軍を照らし上げ、また、黒々と輝く川面に光を反射させた。

今回の行軍において、川岸は彼の場所と認識されていたようだ。これまでも、毎日のように誰かしらが訪れている。そしてこの日もまた、彼を尋ねる影があった。

 

「今日も水を眺めているのね」

 

春蘭や季衣などは複数回彼のもとへ来ては、仕合だ勝負だと言っていた。凪と真桜と沙和も、よく二人ないし三人で彼と話をしに来ている。霞は酒を飲みに、桂花は―――本音は違うところにありそうではあるが、彼女曰く―――ただの暇潰しに、風や稟や若干色の異なった話をしに。だが、彼女だけは、来ていなかった。

 

「華琳が来るのは……珍しいな」

「初めて、の間違いではないかしら?」

 

今夜も今夜とて蒼昏い河を眺める彼の傍に、華琳が歩み寄った。顔の横で螺旋を描く黄金色の髪は、月の光を受けて、今宵ばかりは暗がりの中で銀色に煌めいている。少し離れた場所に、護衛の為に来ているのであろう、背を向けて立つ双子の姉妹の姿が見えた。

彼女の言葉に、そういえばそうだと頷き、彼は視線を水面に戻す。

 

「何か、思い入れでもあるの?」

 

何が?そう問おうとして、一刀は理解する。先の彼女の言葉だ。彼が此処でこうして流れる河に視線を送る理由。それを問うていた。だが逆に、一刀自身もその理由を知らなかった。何故、自分は毎晩河を眺めているのだろうか。言葉で理解しようとしても出来ない。感覚で思考する。そして、思い至った。

 

「水の音ってさ……懐かしい気にさせないか?」

 

例えば昼、山中にて湧水の流れる音に少年時代を振り返るような。例えば夜、砂浜に打ち寄せる波の音に感傷的になるような。例えば――――――。

 

「………………どうかしら」

 

確かに、ちゃぷちゃぷと岸を打つ水音は、嫌いではない。むしろ、そこに音楽的な旋律を感じてしまう程には、自然の織り成す至高の芸術のひとつとすら考える。だが、華琳から返された言葉は、肯定でも否定でもなかった。

 

「でも、そうね……」

 

かつてならば、即座に否定し、斬り捨てていたであろう問い。少女である事を、一度は捨てた。

 

「私が、水音に懐かしさを感じるとしたら……」

 

過去は捨てたはずだった。覇王として、未来にのみ道を得ると決めていた。その想いは、彼に出会った事で変わっていった。

 

「それはきっと……いまではなく、未来の事でしょうね」

「……え?」

 

その言葉に、彼は首を傾げる。未来を懐かしむ。そう取れなくもない、矛盾した言葉。しかし、彼女は首を振って言葉を続ける。

 

「違うわ。この戦いが終わり、覇道を成し得た時に、私は懐かしむわ。水の流れを聞き、貴方とこうして過ごした――過ごしてきた時間を」

「……」

 

再び、一刀は華琳を振り返る。その瞳は、じっと一刀に注がれていた。ただ、一刀の瞳を見つめ、何かを訴えている。その視線に晒され、一刀は身動きが出来ないでいた。

 

「私が『私』としてここまで来る事が出来たのは、貴方によるところが大きい」

 

応えない。

 

「貴方に出会わなければ、それは成し得なかった」

 

彼は、応えない。

 

「だからこそ、私はいまを懐かしむの。新しい泰平の時代に生き、過去となったこの時を振り返り、貴方との時間を思い出す」

 

口には出さない。だが、言葉の裏に、別の言葉を読み取ってしまう。

 

「……」

 

その言葉、その視線に、一刀は背を向ける。向けようとする。まるで、糾弾から逃れるように。しかし、その感情を一刀に持たせたのが華琳ならば、それを押し留めたのもまた、彼女だった。

 

「……逃げないで」

 

その胸に飛び込み、ぎゅっと抱き締める。

 

「私から……逃げようとしないで」

「逃げようとなんて、していない」

 

叱責にも、懇願にも受け取れる言葉。それに、一刀はなんとか返した。

 

「嘘」

 

だが、それもすぐに見破られる。

 

「嘘じゃない」

「嘘よ。私が何を言おうとしているか、貴方に分かるように、貴方が不安に思っている事も、私には分かるの」

「……嘘だ」

「嘘じゃない」

 

同じ言葉の応酬の果てに、一刀は叫ぶ。

 

「嘘だ!本当に……本当に俺の考えが分かるのなら……だったら何故、俺を責めない!」

 

抱き着く華琳の身体を抱き締め返す事もせず、一刀はただ、強張った身体の力を抜くことも出来ず、棒立ちのままでいる。

 

「責めてどうなるの?貴方を責めれば、その意志を覆すとでも?」

「それは……」

「無駄だって、わかっているからよ」

 

ゆっくりと。ゆっくりと、諭すように言葉を紡ぐ。言葉と共に、彼の背を撫でた。泣きじゃくる赤子をあやすようなその暖かさに、一刀の身体から、次第に力が抜けていく。

 

「貴方は、自分で背負い込もうとし過ぎるわ。すべてに優れた貴方の、唯一の欠点よ」

「……」

 

華琳は手を止めないまま、声を掛け続ける。

 

「もっと、皆を……私達を信じなさい。貴方に守られてばかりだと思っていたら、逆に噛みついてやるんだから」

 

完全に、身体の緊張も解かれた。華琳は彼から身体を離し、その両手を握る。

 

「貴方は、貴方の好きなように動きなさい」

「……華琳?」

 

真っ直ぐに彼の瞳を見つめながら、華琳は告げる。ただただ、深い優しさを湛えた笑みで。

 

「たとえ貴方がいなくとも、我が覇道は崩れなどしないわ。だから貴方は、貴方の好きに動いていいの」

 

一刀は俯く。自身より背の高い彼を見上げる姿勢の華琳にも、その表情は見えない。

 

「あの娘に会いたいのでしょう?」

 

だが、髪の奥に隠れた右眼から、華琳の手の甲に落ちた雫は眼に入った。

 

「でも、私達を裏切りたくないのでしょう?」

 

こく、と彼は頷く。

 

「貴方は頑張った。『天の御遣い』として、相応しく生きてきた。でも……今の貴方は、『天の御遣い』じゃない」

 

動かない。

 

「貴方は、好きに生きていいの。貴方がしたいようにしていいの」

 

ずっと、誰かに理解してほしかった感情。それを、少女は理解してくれた。

 

「だから……自分を責めないで」

 

堰が、決壊する。

 

「……うん」

 

一言。ただ一言を返すだけで精一杯だった。脚から力が抜け、膝を地につく。細かな砂利が膝に刺さるのも気にしないまま、少女の胸に抱き着いた。

 

「ありがとう。これほどまでに、私達を想ってくれて」

 

胸に顔を埋めたまま、首を横に振る。

 

「ごめんなさい。何も、してあげられなくて」

 

再度、否定する。ただ嗚咽を押さえるだけしか出来ない。喉からは不規則な息がこみ上げ、止めようとしても止める事など出来はしない。瞳からは涙が止まらずに溢れ出し、華琳の服を濡らした。身体は震え、少女を抱き締める事でしか抑えられない。

 

「私達を、信じて」

 

頷く。信じない理由など、ありはしない。

 

二人に背を向けて立つ姉妹は、それぞれの得物を、強く、強く、握り締めた。

 

 

 

説明
最終回。第一部です。
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真・恋姫†無双  『恋と共に』 

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