トウキョウ事変 無限ホテル
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 無限ホテル

 

               ●

 

 彼女たちは待っていた。

 時計の針はとっくに約束の時間の過ぎている。

 それなのに、彼女たちの望むものはまだ来ない。

 彼女たちは今日この日を一年もの間ただひたすらに待っていた。

 それは恋人たちが焦がれるような、身を焼くようなもどかしさ。

 彼女たちは狂ってしまいそうになりながら、その時をが来るのを待っていた。

 

               ●

 

 無限ホテル1 フロント 〜 Hilbert's paradox 〜

 

「ここは無限ホテル」

 少女の声が響く。

 少女の目の前にあるのは天空にそびえる巨大な箱。

 白亜の外壁がかすかに空の色を映している。

「不思議そうな顔をしてるわね? まあ、確かに見た目は普通の高層ビルにしか見えないものね。客室は多いかもしれないけれど、無限だなんて言うことはできない」

 ホテルの窓は規則正しく並んで空の彼方まで伸びていた。

「でも、ここは無限ホテル。限りのないホテルよ」

 少女の髪がふわりと揺れる。

「さあ、行きましょう。案内するわ」

 

 巨大なガラス扉をくぐると、そこには木調で統一された美しい空間が広がっていた。

「ここは見ての通り、ホテルのエントランスホールよ。床一面に敷かれた楓の材に、柱や天井を飾る桜や欅、さりげなく置かれた松の彫刻。豪奢でありながら決して派手さはない落ち着いたしつらい。鼻に香るのは多種多様な木の香りと、湿気をはらんだ暖かさ。どう? 美しいでしょう? ここはこの街の中でも落ち着いて夜を過ごせる数少ない場所の一つよ」

 少女はそう言うと上を見上げた。

 そこには高い天井の下、甘い光を放つシャンデリアが吊るされていた。

「橙色の明かりがエントランス全体に優しい色を与えて、エントランスの中はどこまでも穏やかな空間。それなのに、やっぱり行き交う人達の顔は様々なのね。喜び、諦め、あるいは怒り、悲しみ、焦り、みんな一様に言葉なくそれぞれの時間を過ごしている」

 少女の目を追うと、そこには名前も人格もない人々がそれぞれの表情を顔の上に貼り付けてそれぞれの役割を演じていた。

「あら、どうしたのかしら? 急に後ろを振り返ったりして」

 少女もまた後ろを振り返り、そして、その黒い瞳の中に黒い色を映す。

「ああ、そういえば言い忘れていたわね」

 少女の口から、納得したような声が漏れた。

「このホテルの中は常夜の世界なの」

 少女の眼前にあるのは、たった今くぐってきたばかりのガラス扉。

 その扉は、奥に広がる街の夜景の色を借り、半分鏡になっていた。

 時折、ぼうと光る二つの光が車道の上を走り抜けていった。

「このトウキョウにはこのホテルみたいに時間が停滞してるところが幾つかあるわ。常春の庭。常夏の下町、常雨の道……この街では時間も季節もそれほど意味を持たないの」

 その時、どこからか苛立った人の声が聞こえてきた。

 少女が反射的に目を向けた先は、このホテルのフロントだった。

「緻密な彫刻が施されたカウンターを挟んで、二人の男の人が向かい合ってるわね。あなたも行ってみたい?」

 少女はシャンデリアの下を横切って男たちの方へ近づいていった。

 男たちの会話が聞こえてくる。

「当ホテルは満室でございます」

「だから、私は今日、この日、この時間に予約したと言っているだろう」

 どこまでも機械的なホテルマンに対して、カウンターの此方にいる男は、怒鳴り声とまでは行かないまでも、苛立たしげな声を立てていた。

「はい。確認いたしました。ヒルベルト様は確かにご予約されております。しかし、当ホテルは満室でございます」

「それはおかしいだろう。一体何があったんだ」

「ねえミスター、あまり怒っていると寿命を縮めるわ」

 少女の声に、黒い帽子を目深に被ったスーツ姿の男が振り向いた。

「おや、お嬢さんはどちら様ですかな?」

「私はひなこ。どうぞよろしく。ほら、あなたも頭を下げなさい」

 少女は自分の後ろに抑揚のない声をかけると、ホテルマンに目を向けた。

「何があったのか聞かせてくれる?」

「はい。お聞かせいたします。私どもは今日この日にヒルベルト様よりご予約いただいております。しかし、当ホテルは満室で、これ以上一人も泊めることはできないのでございます」

「そう、無限の客室を持つ無限ホテルが満室だけど、もう一人お客さんを泊めたいの。ねえ、あなたはどうすればいいか、分かるかしら?」

 少女はちらりと後ろに目を向けた。

 その目はすぐに元に戻されて、男たち二人に注がれる。

「それじゃあ、こうすればどうかしら?」

 少女はそこで一旦言葉を切る。

「今泊まっている人たちに、自分の部屋の番号に【1】を足した番号の部屋に移ってもらう。そうすれば、一号室が開くでしょう? なにせ、客室は無限にあるんだから」

「ヒルベルト様、たった今一室空きが出来ました」

 ホテルマンが口にすると、カウンターにいた男は影のように消えた。

 そこへ、新たな宿泊客が列をなしてカウンターにやって来た。

「いらっしゃいませ。当ホテルにようこそおいでくださいました」

「ああ、予約したものだ。人数は無限人。さあ、部屋に通してくれ」

「申し訳ありません。当ホテルはただ今満室でございます。これ以上一人もお泊めすることはできません」

「なんだと? 我らは確かに無限室の部屋を予約したぞ。確認してくれ」

「はい。ただ今確認いたしました。ご予約はされております。しかし、当ホテルは満室でございます」

 無限人の団体客は困惑していた。

 対してホテルマンはどこまでも機械的に表情を変えることはない。

 少女の黒い目は問いかけるような色をしていた。

 そして少女は口を開く。

「それじゃあ、こうすればどうかしら? 今泊まっている人たちに自分の部屋の番号に【2】をかけた部屋に移動してもらう。ここで注意しなきゃ行けないのは、さっきみたいに【∞】を足すことはできないってことね。なぜなら無限大なんて数はないから。存在しない数は足せない。【1+∞】室なんて無いでしょう? でも【2】ならかけることができる。【2】をかければ、すべての自然数は偶数になって、奇数号室が無限室空くのよ」

 ひなこが口にした瞬間、やはりホテルマンがどこまでも機械的な目で笑顔を浮かべた。

「お客様、たった今、無限室空きができました」

 その瞬間、ホテルの外まで続く列を作っていた人間たちは影のようにかき消えた。

 フロントに並ぶ人影は消えて、辺りにはあの雑音に満ちた静寂が戻る。

「やれやれ、ね」

 ひなこはゆっくりと顔を上げてホテルマンの顔を仰ぎ見た。

「空いてるかしら?」

「ただ今満室でございます」

「そう、それなら…………」

 

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 無限ホテル2 偽全単射エレベーター 〜 an endless acceleration 〜

 

               ●

 

 おかしい。

 異常だ。

 異常すぎる。

 彼女たちが求めるものはいまだ現れず、ただ無為に時が過ぎていく。

 今日は彼女たちにとって年に一度の最も大切な日。

 今日を逃せば、彼女たちのこの一年は失われ、なかったことになってしまう。

 狂うような焦燥感の中、彼女たちは必死で考える。

 何故なのか。

 何が起こっているのか。

 

               ●

 

「ここは無限ホテルのエレベーターホール」

 少女の眼前には、消失点の先まで長い長い廊下が続いていた。

 その廊下の左右の壁には整然とエレベーター並んでいる。

「ここのエレベーターは手前の二機を除いて全てが直通エレベーターよ。一つの階に一つのエレベーターが対応してて、他の階に止まることなく目的の階まで連れていってくれる」

 左側の壁には手前から奥に向かって一階、三階、五階、七階と番号が続き、右側は∞階、二階、四階、六階と続いていた。

 まるでコピーしたかのようなめまいを覚える光景が、廊下の先まで限りなくずっと続いている。

「使い方は簡単。普通のエレベーターと同じように【▲】ボタンを押してゴンドラに乗るだけ。エレベーターが対応してる階はそれぞれひとつしかないから、ゴンドラの中には開閉ボタンしかないわ。だから扉が閉まればそのまま目的の階まで連れていってくれる。ね、簡単でしょう?」

 少女はそこで言葉を切ると、エレベーターの扉に手を当て、振り返った。

「……ただし、一番手前にある二つのエレベーターは例外。まず使われることはない。すなわち∞階行きのエレベーターと一階行きのエレベーター。あなたはなぜだか分かるかしら? 一つは少し考えれば誰でも分かる。……………………今あなたはまるで置き忘れたお財布を見つけたみたいな顔をしてるわね。そう、ここはホテルの一階だから一階への直通エレベーターは誰も使わない」

 少女はその一階から一階に直通するエレベーターを横目に口にした。

「もう一つは、∞階へ続くエレベーター。なんで使われないか、あなたは分かるかしら? 実は∞階にはこのホテルのオーナーの個室があるから、たまに奇特な人がオーナーに挨拶しようってこのエレベーターに乗るんだけど、そうすると、あなたはどうなるか分かるかしら? これは∞階行きのエレベーター。…………………………今あなたは久しく合わなかった友人の名前を必死に思い出そうとしているような顔をしているわ。まあ、これは感じてもらった方が早いかしらね? ついてきて」

 少女は右手でエレベーターのボタンを押した。

 扉は待つまでもなくすぐに開き、その中に無機質な蛍光灯に照らされる飾り気のないゴンドラが現れる。

「さあ、乗りましょう?」

 少女はエレベーターの中に乗り込むと、「閉」のボタンを押下した。

 扉が閉まる。

 エレベーターが加速する感覚はまるでない。

 少女は壁に背を預けて黒い瞳をこちらに向けた。

「それじゃあ、今から算数の時間よ。ここは無限ホテルのエレベーター。外とは隔離された世界の中の更に閉じ込められた空間の中。世の理は通用しない。このエレベーターは毎秒10メートルで加速してると仮定しておきましょうか。重力加速と大体同じ。実現することの難しさなんてここではなんの意味もない。ここでは精密な計算なんて必要ないんだし。まあ、重力が反転してるとでも思っておいて」

 そう言って、少女は計算の下準備を整えた。

「毎秒10メートルで加速すれば一秒後には秒速10メートル。二秒後には20メートル。三秒後には30メートル。四秒後には40メートル。五秒後には50メートル。このあたりでスカイダイビングでの加速の限界ね。空気抵抗と重力加速が吊り合ってこれ以上加速できなくなる。……でも、私たちはスカイダイビングをしているんじゃない。そもそも落ちているんじゃなくて登っている。ましてここに空気抵抗なんて法則は及ばない。ゴンドラは加速を続けていく。十秒後には秒速100メートル。二十秒後には秒速200メートル。三十秒も経てばそろそろ音速の壁が立ちはだかる。大気中の音速は気温に左右される。そうね……気温15度なら音速は毎秒340メートルね。かつて神の領域だったこの速度も、私たちは三十四秒で通り過ぎる。今まで私たちが移動してきた総距離は5780メートルここからしばらくは加速を妨げるものはなくなるわ。一分後には秒速600メートル。一時間で秒速3600メートル。私たちは一秒間に3.6キロメートル進むスピードにまで加速する。それでも私達の加速は終わらない。六時間後には216000メートル。十二時間後には秒速43200メートル。そして八万六千四百秒つまり一日延々と休むことなく加速すると秒速864000メートル。七日間の絶え間ない加速のもとでは秒速6048000メートル。とうとう私たちは一秒間に6048キロメートルもの距離を移動できるようになった。それでも、私たちは無限大には届かない。一ヶ月間で秒速2419キロメートル。三千百五十三万六千秒、要するに一年後には秒速31536000メートル。とうとう私たちは一秒間に地球を七周半回る光の速度を追い越した。最早私たちより速いものはなくなった。物語の世界なら過去にだって行ける速さ。私たちが上ってきた距離は4972596480000キロメートル。それでも私たちは∞階にはたどり着けない。例え光速の十倍でこのエレベーターが上っても永遠に∞階にはたどり着けない。だってそうでしょう? ∞っていうのは数じゃなくて概念なんだから」

 少女はそこで理解を待つように言葉を止めた。

 普段と変わらない無表情が、どこか悪戯っぽく笑っているように見える。

「無限大の定義っていうのはね、ある数が∞の時、そのある数はどんな数と大きさを比べても大きいって言うものなんだから。どんな大きな数を取ってきても、それが数である以上は、それよりも大きい数が出てきてしまう。だから、足し算でもかけ算でも、数を数えていくうちは決して檻からは出られない。無限階にはたどり着けない。ねえ、あなたは直通エレベーターを途中で降りるにはどうすればいいか分かるかしら?∞階へ行くエレベーターに乗った人はね、途中で降りることもできなくて、今でもたどり着くことのない永遠の上昇を続けているわ。食べ物も飲み物もなくね。……あら、どうしたの? 顔が青ざめてるわ。指先も震えてるし、そんなに怖い話しだったかしら?」

 少女は開くのボタンを指先で押す。すると、あっさりとエレベーターのドアは開き、隔離された世界を解放した。

「さあ、降りましょう? 私も一階への直通エレベーターが∞階に続いてるって知ったのはつい最近なの」

 少女はスカートを揺らしてエレベーターを降りた。

 その瞳が、速く降りるように促していた。

「ほら、あなたもいつまでも立っていないで、行きましょう?」

 

 

 

 無限ホテル3 無限増殖 〜 cancer = eternal life 〜

 

 少女がエレベーターを降りると、目の前に一枚の扉があった。

 壁につけられた二つの白熱灯が音もなく光りをこぼしている。

「呆然と上を見上げてしまって……あなたも天井の高さに驚いた? 無理もないわね。こんな風に先が黒く霞んで見えなくなってしまうほどの高さなんだから。……まあ、見えないんだから正確には天井とは呼べないのかもしれないけどね」

 少女が見上げる先には、遥か高くまで続く巨大な壁が立ちはだかっていた。

 少女の言葉の通り、その先は暗く塗り潰されて確認できない。

「でも、それは上だけじゃない。見て。この左右に伸びる廊下も先が暗く霞んで見えなくなるくらい長く長く続いている」

 背後でエレベーターが閉まる音がした。

 簡素な木製のドアは黄色っぽい灯りに照らし出されている。

 他に目に付くものは何もない。

「ここが無限ホテルのどこかにある終着点。決してたどり着けないはずの∞階。ここがこのホテルのオーナーの居室。さあ、このドアの向こうは絡み合う肉の祭典。むせ返る臭気とその中で自分の仕事をこなす女給たちの職場。……さあ、行きましょう」

 ドアには小さなプレートが下がっていた。

 そこに文字はなく、ただ小さな蟹で構成された一匹の巨大な蟹が描かれている。

 少女は木戸の前に立つと、鈴の音のなるような声を上げた。

「オーナー、ひなこよ。少しお話よろしいかしら?」

「おや、ひなこさんですか。これは嬉しい。どうぞ扉をお開き下さい。私の部屋はいつでも空いていますよ」

 少女が軽く木戸を叩くと、部屋の中からぐもった歓迎の声が聞こえてきた。

 少女はためらいなく扉を開く。

「絡み合う肉の祭典と聞いて、あなたはいやらしいことでも想像した? 残念ながら見ての通りよ」

 少女は部屋の中に入り、一歩横によけて中の光景を見せる。

「あなたの想像に反したかどうかは知らないけどこれがオーナーよ。この女給たちに料理を食べさせられ続け無限に増殖する肉塊こそ、無限の広さを持つこの部屋の中で高さも分からないくらいに肥大化したこの醜悪な肉塊こそ、正常な人間の皮膚が全体の半分も覆っていない赤とピンクと肌色の斑模様をしていて所々脂肪塊の黄色やまるで蜘蛛の巣みたいに枝分かれする青い静脈を表面に浮き上がらせた肉塊こそ、この無限ホテルのホテルのオーナーよ」

 少女の目は目の前のものをじっと見つめていた。

 視線を追うと、頂きまでは見えないまでも、天に向かって霞むお椀型の輪郭がかすかに見える。

「あなたはこれを巨大な肉塊以外に何か表現できるかしら? これと比べれば、部屋の中を忙しく走り回る女給たちはまるで人形か何かみたいよね」

 少女は満面の笑みだけを浮かべる女給に差し出されたイスに腰掛けた。

「ごきげんようひなこさん。お久しぶりですね。今日は如何いたしましたか?」

「ええ、オーナー、お久しぶり。今日はこの新人さんを紹介しに来たわ。ほら、あなたも頭を下げなさい」

 オーナーの声は、どこから発せられていると言うよりも、部屋全体が震えて声を出しているようだった。

「おや、これはわざわざありがとうございます。ひなこさん」

「オーナーはまた太ったかしら? まるで海綿のような肉腫の形がこの前来たときよりずっと大きくなってるわ」

「ええ、お恥ずかしい限りです……。女給たちにはもういいと行っているのですがね。太っていることは裕福である証だと言って聞かないのですよ」

「そう、だから私たちが話しているのに、女給たちはあなたの体に無数に開いた口に無表情で次々に食べ物を詰め込むのを止めないのね」

「ええ、こんなに太ってしまったら、歩くのもかったるくなってしまいます。何事もほどほどが一番ですね」

「ええ、そうね」

 少女が頷くと、部屋が軋むように鳴動して、巨塊のオーナーは笑った。

「私たち、少しこのホテルを見て回るけれど、いいかしら?」

「ええ、どうぞ。ひなこさんの頼みでしたら、聞かないわけには参りません。どうぞご自由に見ていってください。私のホテルは私の自慢です。この広いホテルのどこに行っても感動をお届けすることができるでしょう!」

「そう、それじゃあ、私たちはそろそろお暇させてもらうわ。早速ホテルの中を見て回るからさあ、あなたもいつまでもオーナーの体を見つめていないで、行きましょう」

「そうですか。またぜひいらしてください。そしてこのわたくし目の話し相手になってやって下さい。この老体はいつも退屈しておりますので」

「ええ。そのうちにね」

 少女は肉塊に背を向けて部屋を出て、エレベーターのボタンを押した。

「ねえ、あなたは癌ってどんなものか知ってるかしら?」

 待つ間もなく扉は開く。

「…………癌の性質は色々あるけど、その最大の特徴は何と言っても無限に増殖することよ。癌細胞はね、死なないのよ」

 ゴンドラが人の体重を載せてわずかに揺れる。

「死を忘れた細胞は生めよ増えよと際限のない増殖を繰り返す。ねえ、……あなたもこのホテルにぴったりだと思わない?」

 目を閉じたまぶたの裏には先ほど見た天井に届かんばかりの巨大な肉腫がこびりついていた。

「普通なら、癌は全身から栄養を奪い、正常な細胞を置換して圧迫し、ホルモンを狂わせて母胎のことを殺すけど、異常な癌の内分泌が奇跡の配合で代謝を整え、あの肉塊を殺さない。不死の細胞が放つ狂ったホルモンが異常な肉体に正常な代謝を約束する。あの醜悪な肉塊こそ、権力者が求めて止まない不老不死の一形態よ。私ならあんな醜いものにはなりたいとは思わないけど、ねえ、あなたはどう? 永遠の命が欲しいかしら? まあいいけど」

 エレベーターの扉が閉まる時、ドアに掲げられた巨蟹の姿が目に入った。

 

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 無限ホテル4 水売りの男

 

               ●

 

 迎える準備は万端。

 例年ならば簡単に手に入るはずのものがまだ手元にない。

 彼女たちは考え、そして結論に達した。

 きっと誰かが隠してしまったのだ。私たちの大切なものを。

 誰かが持っているのか? どこかに隠してあるのか?

 そんなことは分からない。

 しかし、探さなければならない。何としてでも。

 早くしなければ今日という日が終わってしまう。

 急げ。急げ。急いで探しだせ。

 手段を選んでいる暇はない。

 虱潰しに探しだせ。

 どんな犠牲も厭わない。

 なにをしてでも探しだせ。

 

               ●

 

「うん。悪くない部屋ね。二人の人間が泊まるには十二分に広いし、置かれた家具とか調度品も落ち着いていてセンスがいいわ。個人的にはあんまりモダンすぎると疲れちゃうから。私はこういう特徴のない部屋のほうが好きね」

 二台のベッドのうち一方が、少女の体重を受け止めて耳に届かないきしみを上げた。

「あなたは今、なんだか不思議そうな顔をしてるわね。まあ無理もないけど」

 少女も窓の方へ目を向けた。

 今、窓から見えているのは、どこかの中流家庭の夜の庭先だった。

 狭い面積に何本か植木が植えられており、サッカーボールが一つ転がっている。

 そう思った次の瞬間には、その矩形はまったく別の光景に変わっていた。

 今度は巨大な夜の鉄橋を真上に望む光景だった。

 そしてまた次の瞬間には窓の光景が掻き変わる。

 それらはどれも、明らかにホテルから見える光景ではなかった。

「今のこの窓はね、すべての夜の窓と繋がっているの。だから窓から見える光景はすべてこの窓から見ることができる。目を逸らしたりまぶたを閉じたりして認識する人がいなくなると、その度に見る人を満足させるように別の光景に変わっていくの」

 少女が言う側から、山渓、都会、あるいはどこかの向上と映し出される光景は変わっていく。

「そのうち、窓と夜景のつながりも切れて、まったく別の光景も見せてくれるでしょうけどね、……それは今度のお楽しみかしら?」

 ホテルの窓は、夜の山小屋から見える形のない不気味な獣たちが走りまわる暗い森を映していた。

「さて、これからどうする? 先にシャワーでも浴びてくる? それともホテルを案内しましょうか? ここはそれこそ無限の広さがあるわ。紹介する場所はいくらでもある」

 少女の瞳がまっすぐに見つめてくる。

「ああ、テレビは付けない方がいいわよ」

 少女はソファに向けてそう言った。

 そこに、扉を叩くノックの音が飛び込んできた。

 少女は言葉もなくドアに向かう。

「誰かしら?」

「水売りのものです。水はいりませんか」

 ドアの向こうから声が聞こえてくる。

「今開けるわ」

 少女はかすかに後ろに目配せを送って扉を開けた。

「はじめまして。アナタはどなたかしら?」

「水売りのものです。水はいりませんか」

「そう、曲がった背中に背負うように分厚いマントを羽織って複雑な装飾が付けられた陶器の水差しを持ったやせ細って浅黒く変色した皮膚に深いシワを刻んだ顔に分厚い目隠しを何重にも巻いた禿頭のおじいさんは水売りの男なのね」

「水売りのものです。水はいりませんか」

 老人の干涸らびたくちびるが割れ、三度同じ言葉が紡がれる。

「いただくわ」

 少女がそう言うと、老人は途端に激怒した。

「俺の水が欲しいだと! お前も俺の水を盗む気か!」

 老人が理不尽な激情に駆られたその瞬間、ホテルの照明が生み出す影がむくりと頭を上げて立ち上がり、老人の首に手を回して、その影の主である老人を二次元の世界に引きずり込んだ。

 老人の持っていた水差しが床に落ち、黒々とした影が床に残る。

「……あなたも見たわね。別にそんなに驚かなくてもいいわ。恐ろしいものではないから。このホテルの中ではね、感情がある一定を超えて振り切れると、彼のように影に閉じこめられるの。これが、このホテルが安心して夜を過ごせる理由よ」

 老人のものだった影はしばらくその場に留まったかと思うと、滑るように廊下に出てここではないどこかへ消え去った。

「あなたも見る? 何もないけど……」

 少女が体を少し横に寄せた。

 廊下は継目のない赤い絨毯が消失点の先まで続いていた。

 天井からは明度を押えた柔らかな明かりが降り注ぎ、壁には等間隔に燭台を模して装飾された白熱灯の光源が輝いていた。

「もう面白いものは見れらないわ。戻りましょう。…………そう言えば、このホテルってセックスできるのかしら? 身を焼くような快楽に晒されたら、このホテルではどうなるか分かり切ってるけど、でもホテルってそう言う用途も確実にあるわけだし…………まあいいけど」

 少女はつま先に当たった老人の水差しを拾い上げると、手の中でそれを小さくしてポケットの中に入れておいた。

 

 

 

 無限ホテル5 全知の魔女

 

 パンドラの箱の底に残った残りかす。

 全能は全知である。

 しかし、全知は有能ではない。

 

 部屋の中には夜空で嗤う月のような冷たい沈黙が降りていた。

 動くものも、音もない。

「空気が重くて息苦しいかしら? あなたは沈黙には慣れていない?」

 少女の鈴のなるような声が部屋に響いた。

「さっきも言ったけど、テレビは点けない方がいいわよ。点けるならそこに置いてある小さな古いラジオにしておきなさい。テレビばかり見てると馬鹿になるから。これは比喩じゃなくて本当のことだから、あなたも気をつけたほうがいいわ」

 少女は部屋を横切ると、自分の背丈ほどもある巨大なテレビの脇に置かれた小さなラジオの摘みをひねる。

「こんにちは。全知の魔女さん。ごきげんはいかが?」

「こんにちはじゃなくてこんばんわよ、ひなこ。私は相変わらず退屈で死にそうだわ」

 虚空へ向けて放たれた少女の問いに、かすかなノイズを走らせながらラジオが答えた。

「あなたに紹介しておくわ。この女性としては少し低い、ラジオのノイズの向こうに赤いドレスに身を包んだ豊満な肢体が眼に浮かぶような男性の性欲を逆撫でるような不快感と快感が紙一重で入り混じった肉欲的な声をした人は全知の魔女。文字通り、あらゆることを知っている魔女よ。あなたは相手が見えなくて戸惑ってるみたいだけど、ほら、挨拶しておきなさい。なにせこの人は全知なんですもの」

「いいわ。そんな風に慌てて挨拶してくれなくても。あなたは新しい新人さんね。ひなこも大概退屈ね」

 その声には今まで耳にしなかった明らかな嘲笑が含まれていた。

「いいえ。私は私で結構充実した毎日を送っているわよ」

「そう? 羨ましい限りね」

 少女は嘲りも気にした風もなく話を続ける。

「それじゃあ、すべてを知っていて生きることに退屈してる全知の魔女さん、一つ質問をいいかしら?」

「ええ。どうぞ」

「この新人さんは喋ることがあるのかしら?」

「それはないでしょうねぇ」

 その声は、まるで薄暗い放送席の中に浮かび上がる赤濡れのバラのような笑顔を見るようだった。

「そう。残念だわ。あなたの声を一度聞いてみたかったのに」

 少女はちっとも残念そうになく、肩をすくめた。

「それじゃあ仕方ないわね、明日の天気でも教えてくれる?」

「明日は雨よ。一日中ね」

「そう、ありがとう。それじゃあ切るわ。またいつかお話ししましょう」

「その前に一つ予言をしておいてあげるわ。あなたたちはこれからとても美しいものを目にするわ。それは普通の人では決して見ることのできない幻想的な光景よ。楽しみにしておきなさい」

「そう、ありがとう。覚えておくわ。あなたのいやらしい笑顔を想起させるその声で美しいものと言われるととても不安だけれどね」

 顔の見えない魔女の含むような笑い声が聞こえてきた。

「話はそれだけよ。それじゃあ」

「ええ。それじゃあ」

 少女の言葉が終わる前に、ラジオはプツッっと音を立てた。

 魔女の声が途切れても、不気味なノイズは続いていた。

「…………フロントに傘を用意してもらおうかしら」

 少女はラジオの電源を落とし、誰にともなくつぶやいた。

 

 

 

 無限ホテル6 水売りの男2

 

 再び部屋にノックの音が飛び込んできた。

 少女はためらいもなくドアを開ける。

「水売りのものです。水はいりませんか?」

「いただくわ」

 少女のその言葉を聞き届けると、老人は水差しを傾けて細く水をこぼす。

 少女はその水に手を差し伸べて、両の手と口を清めた。

「ありがとう」

 老人は幽霊のような足取りで廊下の奥に消えた。

 

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 無限ホテル7 ■酒

 

               ●

 

 彼女たちは必死で考えた。

 原因はなんだ。

 原因は誰だ。

 原因はどこだ。

 彼女たちは必死で考え、そして結論に達した。

 きっと誰かが隠してしまったんだ。私たちの月を。

 今日昇るはずだった私たちの月を。

 誰が隠したのか、どこに隠したのか。

 そんなことは分からない。

 しかし、なんとしてでも探し出さなければならない。

 早くしなければ今日という日が終わってしまう。

 ならば急げ。

 急いで探しだせ。

 急げ。急げ。

 手段を選んでいる暇はない。

 虱潰しに探しだせ。

 どんな犠牲も厭わない。

 なにをしてでも探しだせ。

 そして、彼女たちは水面からその体を溢れさせ、動き出した。

 

               ●

 

「やあ、いらっしゃい」

「あら、先客がいたのね」

 少女が廊下の突き当たりにある扉を開けると、気怠げな女の顔が出迎えた。

 女は広い部屋の中央に置かれたベンチに寄りかかり、顔だけをこちらに向けていた。

「私はひなこ。アナタは?」

「私かい? 私は誰でもないさ。ただこうして一人で日向ぼっこしている女だよ」

 彼我の距離はとても普通に離せるような距離ではない。

 しかし、静まり返ったこの部屋ではまるで耳もでささやかれているかのように小さな声も耳に届いた。

 少女が立てる固い靴音が高い天井に遠雷のようにこだまする。

 少女はかすかにスカートを揺らしながらベンチの手前で足を止めた。

 気怠げな女の傍らには、一本の水筒が置かれていた。

 その隣のカップに注がれた透明な液体からは、甘い香りが漂って鼻をくすぐる。

「お姉さん、こんな昼間から飲んでるの?」

「ああ、まあね。少し前に親切な人に中身を半分分けてもらってね。ここでこうして飲んでるんだ。……こんなに天気もいいからね。晴れた昼間飲む酒も乙なもんだろう?」

 そう言うと、女性は上に目をやった。

 そこにあるのは、今まで視界を占めていた閉鎖的でどこまでも続くホテルの壁でも天井でもない。

 そこにあったのは、遥か遠くまで見渡せる広大な草原と青空だった。

「あなたにも説明しておくわね。ここは無限ホテルのどこかにある展望室。このホテルでも数少ない太陽が見られる部屋。どうして構造上最上階というものがないこの無限ホテルに東西南北全方位ガラス張りの展望室なんてものがあるかなんて誰にもわからない。でも、そういうものなの。納得して。このホテル……いいえ、この町では物理法則なんて言うものはもう役に立たないんだからね」

 そう言うと少女もあらためて空を見渡した。

 ガラスを一枚隔てて雄大な草原が広がっている。

 ふと、振り返ると、ガラスの向こうにこの部屋に続く長い長い通路が見えた。

 青々とした草原の上を真っ白な雲がゆっくりと流れていく。

 肌に差す穏やかな日差しが太陽の暖かさを伝えてきていた。

「こちらにおじゃましてもよろしいかしら?」

「ああ、どうぞ」

 少女は許可を取ると、女性の正面のベンチに腰掛けた。

 気怠げな女はカップを持ち上げ、それをこくりと一口飲み込んだ。

 白い雲が作る大きな影が、ゆったりとベンチを飲み込んでいく。

 ガラスに囲まれた展望室には音はなく、ただ外の景色だけがじれったいほどの速度で流れている。

「なあ、お嬢ちゃん、もし良かったらこの酒を半分くらいもらってくれないか?」

 女性が傍らの水筒を手にとって軽く振ると、中から水が跳ねる楽しげな音が聞こえてきた。

 少女はその理由を視線で尋ねる。

「いやね、こいつを飲み終わったら部屋に戻ろうと思ってたんだけど、思ったよりも多く入ってたみたいでね。あと少しで飲み干せそうなのに全然減った気がしないんだ。それであと少しあと少しって飲んでたら、帰るタイミングをなくしちゃってね。これ以上飲んだら倒れちゃいそうなのよ」

「そう」

 少女は一言感想を漏らすと、隣にまっすぐに視線を送る。

 数秒会話するように目を向けていた少女は、小さく息をついて気怠げな女に向き直った。

「そうね。折角だから頂くわ」

 少女はそう言うと、ポケットの中から水売りの男が残した陶器でできた小さな水差しを取り出し、女に渡す。

「おやおや、用意がいいことだね」

 女性はそれを受け取ると、手にした水筒を傾けて手の平よりも小さい水差しに中身の酒を注ぎ始めた。

「ところで、そのお酒はなんのお酒なの?」

「ああ、これかい? これは■酒だよ。何だか私がもらった人も他の誰かから半分分けてもらったとかって言ってたな……。何だか回覧板を回してるみたいだね」

 女は陽気に笑うと、こんなものかと一声漏らし、水筒を垂直に戻した。

「それじゃあ、私はそろそろ行くわ。さようなら。小さなお嬢さん」

「ええ、さようなら」

 女はそう言い残すと、ふらつきながらも立ち上がり、この部屋の中で唯一ガラス張りでない扉の向こうに姿を消した。

 上を見上げると、雲がゆっくりと流れていた。

 少女はその雲を眺めながら独り言のように漏らす。

「ねえ、あなたは猿酒って知ってる? 猿が木の虚に蓄えた果物が自然発酵して酒になったものじゃない。言葉通りの猿酒。簡単に言えば、梅やハブの代わりに猿を漬け込んだお酒のこと。その味は上等の日本酒に匹敵して、万病を治す秘薬と言われるわ。私は呑んだことはないけどね。どうしたの? そんな怖いものを見る様な目をしちゃって……。別にお酒に漬けるのは、なんでも構わないでしょう? 梅でもハブでも猿でも、それこそ■でもね。まあいいけど」

 少女はベンチからやおら立ち上がった。

 するとそれと同時に扉が開く。

 廊下の向こうから現れたのは、誰かに寄り添うように歩く一人の三つ編みの女性だった。

 女性はこちらに気付くと、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべた。

「こんにちは。お嬢さんもピクニック?」

「そんなところね。……お姉さんは?」

「私たちは見ての通り彼とデート中!」

 そう言うと、三つ編みの女性は自分の隣の何もない空間に向かって満面の笑顔を向けた。

「それじゃあ、私たちはお暇しましょうか。邪魔しちゃ悪いし」

「ごめんね。気を使わせちゃって」

 三つ編みの女性はそう言いつつ、また見えないからに向かって微笑みかける。

 少女はそんな女性を見ながら、右手に乗せた水差しを掲げて見せた。

「ところでお姉さん、ここに珍しいお酒があるんだけれど、如何かしら?」

「あら、いいわね。この晴れた平原の中で飲むのも乙なものだわ」

 三つ編みの女性は、バスケットの中から一本の大きなとっくりを取り出した。

 少女はそれを受け取ると、手の平にのる小さな水差しを傾け、お酒を注ぐ。

「はい、とっくりに半分くらい入れておいたわ」

「ありがとう」

 礼の言葉を背に受けて、少女は三つ編みの女性と入れ替わるように展望室を出た。

 廊下に出ると、今度は痩せた男とすれ違う。

 扉の向こうから、酒を半分渡す声が聞こえてきた。

 

 

 

 無限ホテル8 黒い鏡

 

               ●

 

 ない、ない!。

 彼女たちは一つの部屋に入った。

 その部屋の中をずたずたに破壊しながら今日昇るはずだった月を探す。

 ない……。

 こんなペースでは夜が明けてしまう。

 彼女たちは無限ホテルの壁を壊して隣の部屋へと踏み込んだ。

 

               ●

 

 少女は足を止めて後ろを振り返った。

「どうしたの? 急に立ち止まったりして」

 その場所は永遠と悪夢のように長く続く無限ホテルの廊下だった。

 音もなく明かりを落とす電灯も、壁から生えたガス灯も、さっきまでとまったく違いはない。

「今、あなたはなにを見てるの?」

 少女は視線を追い、そして、その先にあるものを見つけて納得した。

「ああ、これね」

 このホテルの廊下にはところどころに美術品のたぐいが置かれている。それは少女達もここに来るまでに幾つも目にしている。

 絵画、陶器、あるいは生花や盆栽。

 そして今、少女達の眼の前にあるのは、豪華な額に収められた人知の及ばぬ何かだった。

「これは鏡よ。あなたは信じられないかもしれないけど」

 少女はそう言って、なんの光りも反射させない黒い何かの前に立った。

「どうしたの? 今あなたは驚いた顔をしてるわ。後ずさって背中を廊下の壁にぶつけるくらい、それくらい本能的な恐怖を感じた?」

 少女は一歩その黒いものがはめ込まれた額縁に近寄り、その滑らかな表面に手を置いた。

「あなたは、このなんの光りも返さない黒色が恐ろしいの? 確かにそうね。これは自然界ではあり得ない色。黒塗りの漆でも鮮やかな光沢を返すのに、この鏡はこんなにも滑らかな表面をしてるのに文字通りなんの光りも返さない」

 それは異様な光景だ。

 まるで、額縁の中に夜の闇よりもなお暗い、まぶたの裏よりもさらに暗い闇が大きく口を開けているかのようだ。

「ねえ、あなたは鏡の色って何色だと思う?」

 少女が声の調子を変えて歌うように言った。

「銀色? 鏡色? それとも、あなたは鏡に色なんてないと答えるかしら?」

 少女は黒い鏡を見つめたまま口にする。

「ものの色って言うのは、太陽の光に含まれる赤から紫までの七色のうち、どの色を反射してどの色を吸収するかによって決まるの。例えば、血の赤色は、赤以外のすべての色が血の中に吸収されることで赤という色を発色してる。もし七つの色をすべて吸収して、何色をも外に逃がさないのなら、それは黒色になるし、逆にすべての色を拒絶してなにも吸収することをしなければ、それは太陽の光と同じ白という色になる。…………鏡の色はね、本来は白いのよ」

 少女は理解を待つように言葉を止める。

 辺りには物音一つなく、周辺にある部屋からも生活音は聞こえない。

 本当にこのホテルが満室であるなど信じられない。

 辺りには人っ子一人なく、周りには少女の影しかない。

「本来は白い色のはずなのに、鏡が白という色を発色できないのは、乱反射を許されていないから。鏡って言うのはね、本来、紙よりも絹よりも強くすべての色を拒絶した限りなく純粋な白を発色する資格を持っていたのよ。その白色は地上のどんな白にも比類なく、天井の雲にすら肉迫する白だった。でも、鏡というものは乱反射することが許されない。入射角と反射角が整えられ、入ってきて光りはそのまますべてが外に出て行ってしまう。だから、白という色を発色できない。本来は誰よりも白いはずなのに」

 少女は鏡の無念を代弁する。

「そればかりか、鏡は自らの色を持つこともできず、常に誰か他のものが持つ色を反射してでしか、他者の色を借りてしか、自らの存在を示すこともできない。だからね、そう、この一枚の鏡はその屈辱に耐えられなくて、他者の色を借りることを止め、こんなふうに一切の色を反射することを止めてしまったのよ。赤も、橙色も、黄色も、緑も、青も、藍色も、紫も、激しい怒りで自分の内側に取り込んで逃がさない。だから、これは光りですら逃げ出すことができない宇宙のどこかに空いているブラックホールと同じ色。この鏡は、鏡としては死んで至高の白色は失った。その代わりに、この世に存在するどんな黒よりも黒い色を手に入れた。あなたが思わす後ずさったのも無理はないわ。この黒こそ黒の最大値。これよりも黒いものは他になく、黒の行き着く究極点。神が持つ黒なんだから」

 少女は鏡だったものから目を離して振り向いた。

「現状の自分に満足してさえいれば、この鏡は鏡のままでいられたのにね。もうこの鏡は鏡ではなくなってしまった。名前を失って手に入れたこの色は、そこまで価値のあるものだったのかしらね? まあいいけど」

 

-5ページ-

 

 無限ホテル9 バー

 

               ●

 

 どこだ! どこにある!

 彼女たちは必死に探していた。

 言葉もなく、ただただ焦燥感に狩られて月を探す。

 きっとどこかにあるはずなのだ。

 串刺しにされた白い犬がびくびくと床の上で痙攣していた。

 肉塊になった老夫婦が立ったまま全身から血をこぼしていた。

 ここにもない。

 もっと探さないと。

 彼女たちは一人ではない。

 手を分けて探せば効率がいい。

 手を分け続けて探せば、いつか世界を覆い尽くせる。

 肉を失った三つの骨が、赤い絨毯にぼとりと落ちた。

 

               ●

 

「ここは無限の広さを持つこのホテルの17320508075番目のバーよ。あなたはお酒は大丈夫かしら?」

 少女は後ろ手に手を組んで、軽い足取りでスカートをふわりとひるがえした。

「落とされた照明の中にあるのはバーカウンターの他にテーブルと奥のステージ。椅子の革張りも床の木目もすべてが暗色に沈み込んでまるでまるで眠る森のよう。薄い間接照明に浮かび上がるのは、時が止まったかのような安らかな空気」

 絨毯ではない、木の床を叩く足音が聞こえる。

「見ての通り一通りのものはそろってるから、下手を打つと手練手管と権謀術数があなたのことを絡め取って、影も残さずに消されてしまうわ。……ああ、そんなに怯えた顔をしなくても大丈夫よ。滅多にないし、それにせいぜい死ぬだけなんだから。まあいいけど」

 少女はカウンター席にちょこんと腰掛けた。

 その瞳が、正面に立つ若い男性を見る。

「そこの黒い服に身を包んで髪をオールバックになでつけた立体パズルのピースでできたバーテンさん、私たちに何か話題になるようなものを頼めるかしら?」

「………………かしこまりました」

 バーテンダーは水が流れるよりもスムーズな動きで、シェイカー手に取った。

「ほら、あなたもご覧なさい。色鮮やかな手並みを。左手はそれ自身が意思を持ってるみたいに迷いなくお酒の瓶を掴んで右手はもう道具を揃えてる。彼の手はこのカウンターにあるものを独立して記憶している。だから、この席はバーテンさんの体内も同じ。だからね、ほら、見て。今あなたの隣に見るからに哀れな男が座って乱暴に一言、酒、と言った家でしょう? だから彼は食べられてしまったのよ。このカウンターの上はバーテンさんの舌の上も同じなんだから」

 少女が目を向ける席にはなにもない。

 そこに男が座っていたという痕跡は見当たらない。

 否。強いて上げるならば、今まさに人の体重で潰されたイスのクッションが音もなくもとのふくらみを取り戻そうとしているところだった。

「あなたがそんなに怖がることはないわ。下手を打たなければそれでいいだけだから」

「お待たせしました」

「このコップの縁をお砂糖で化粧した桃色のカクテルは何かしら?」

「桜色の珊瑚礁と申します」

 少女はグラスを右手に取った。

 少女の手の中でお酒が揺れる。

 目の高さに掲げると、少女の目から頬にかけて薄い桜色の影が落ちた。

「不思議なお酒ね。小さなグラスの中に入った透明なお酒の中でまるで綿飴か雲みたいな……いいえ。水に落とした拡散する前の桃色の絵の具のような霞が、決して混ざることなく刻々と形を変えている……」

 少女はカクテルの美しさを楽しむと、そっとくちびるでグラスに触れる。

 化粧された砂糖の甘味が舌に乗り、次いでアルコールの熱さをともなった甘味がのどを通っていく。

 お酒の甘さは溶けるようにさっと消え、喉のには熱さと冷たさが同時に残り、そして豊順なまろみのある香りが鼻の中に抜ける。

「うん。おいしいわ」

「ありがとうございます。こちらは当ホテルのオーナーの希望で作られた当ホテルオリジナルのカクテルでございます。材料の一部に万味なる涙の欠片を用いておりますので、どんなお客様の舌にもお客様の求める通りの味になるのでございます」

「万味なる涙の欠片?」

「はい。それはそれこそ万味なるもの。辛いものと共に使えばその辛さをより際立たせ、甘いものに使えばその甘さは天より授かる甘露よりも甘く、苦いものに使えばその苦さは人を虜にする麻薬とするものでございます。これはここより遥か彼方、見渡す限り砂に埋め尽くされた砂漠の民が西の空に満月の登る夕暮れに小高い山の頂にある水の滾々と湧き出るオアシスにて、そこに住む獣に自らの体を喰わせたときにこぼれ落ちる涙を集め七日七晩蒸留してようやくできる万能なる調味料でございます」

「そう。楽しいお話をありがとう」

「お粗末様でございました」

 少女はもう一口、薄い桃色のお酒を口に含んだ。

「桃色……桜色……。そういえば、涙を流す女の人が桃色の宝石に飲み込まれて次々に人が死ぬって言っていたけれど、これのことかしら? まあいいけど」

 少女はグラスをカウンターに置き、そっと横に流し目を送る。

「あなたにはどんな味が感じられたのかしらね? 私と同じ甘いお酒? 一口つけただけで酒と薬草の香りが舌を焼くような辛いお酒? それとも舌の上で溶けるのを楽しむ様なシャーベットのような楽しいお酒? でも、あなたはお酒よりも、さっきからステージの方ばかり気にしてるみたいだけど」

 少女の小さな喉がまたコクリと鳴った。

「ステージの上からはずっと人の会話を邪魔しないような落ち着いたバックグラウンドミュージックが奏でられてるわね。音楽はバーの家具も同じだから、誰も注意を払う人はいないけど、あなたは何か気になるのかしら?」

 少女はグラスを片手にイスの上で半回転。

 カウンターに背を向けてステージに向く。

 そのぼんやりとライトアップされた小さなステージには、無数の鳥篭が吊されていた。

 篭の中ひとつひとつには黄や赤や青や緑の鳥たち閉じこめられている。

 その小さな小鳥たちが力一杯嘴を開く度、ウッドベースやドラムスやトランペットの音が聞こえてきていた。

「あれは金糸雀。ジャズを奏でるために創り出された小鳥たち。色、形、声、様々な特徴を持った個体をあらゆる組み合わせで掛け合わせて、奇形に奇形を掛け合わせて作り出された小鳥たち。失敗作は廃棄され、繁殖家の眼鏡にかなう個体だけが生き残り、今こうしてステージの上で謳っている小鳥たち。あの小鳥一羽の値段は人の人生一つ分の価値があると聞くわ。お金持ちの道楽ね。……あなたはどう思う? ああして篭の中で人間に愛でられ声を上げるしかできない小鳥たちのことを哀れに思う? 残酷に思う? まあいいけど」

 少女はなんの感情も読み取れない瞳で、ステージでさえずる色取り取りの小鳥たちを見つめていた。

 少女は手にしたグラスを傾ける。

「……あなたは知ってるかしら? ジャズって言うのはもともとアメリカで黒人奴隷の子孫たちが生み出した音楽だってことを。だからあの小鳥たちはかつての奴隷と同じように一生出られない鳥篭の中から見果てぬ空を夢に見てああしてないているのね」

 少女は飽きたようにステージから目を逸らしてカウンターに体を戻した。

 ちょうどそれを見計らったようなタイミングで、少女の横に鮮やかな赤い影が差した。

「となり、よろしいかしら?」

「あら、珍しいわね。あなたが丘に降りるなんて。深紅のチャイナドレスが黒髪によく似合ってるわ。とても素敵ね」

「ええ、ありがとう。今日はちょっと新しい男を探しに来たのよ」

 少女の言葉を了承と受け取り、チャイナドレスに身を包んだ人物は腰を下ろす。

「さあ、あなたも挨拶なさい。この長い黒髪を左目を隠すようにまとめて肩らか垂らした人はどこにもない外洋を旅する豪華客船のオーナー代理、リン・ソーマさんよ」

「今晩は。お会いできて光栄ですわ新人さん。私は豪華客船『波瀾』のオーナー代理、リン・ソーマです。船の管理業の傍ら薬学などを学ばせていただいております。以後、お見知りおきを」

 その人物は血染めの白薔薇を思わせる笑みを浮かべた。

 切れ長の瞳は爛々と黒く輝いていて、三日月型に歪むくちびるにはたっぷりと紅が引かれている。

 赤いドレスに包んだ体は細く、伸ばした漆黒の黒髪が体の前で黒い河を作っていた。

 そして、その人物の後ろには、もう一人、刃物のような目をした背の高い男性が控えていた。

「ごめんなさい。この新人さん、喋れないみたいなの。私が代わりに謝っておくわ」

「いいえ。ひなこさんが謝ることではありませんよ」

「そう? あなたの嗜好にはぴったりじゃない?」

「お戯れを」

 そう言って、また顔の上に笑みを浮かべる。

「そう言えば、リン・ソーマさんはずっとこのバーにいたのかしら?」

「いいえ。今来たばかりですわ。扉をくぐったら、ちょうどひなこさんがいらしたから、お声かけさせてもらいましたの」

「そう、それなら、私たちはそろそろお暇させていただこうかしら?」

「あら、どうしてですの? 一杯くらいわたくしに付き合ってくださってもよろしいのではなくて?」

 そう言って嗤うリン・ソーマの目が一段と黒く輝き、くちびるの隙間から漏れる舌がまるでべつの生き物のように動く。

「私には人のお楽しみを邪魔する趣味はないってだけよ。あなた、さっきからものすごい目でお店の中を見回してるわ」

「あら、バレてましたか」

 そう言うと、リン・ソーマは少年のような照れ笑いを浮かべた。

「正直、私のペニスはもう今夜のことを思うだけで膨らむ期待と共に痛いくらいに張り詰めてますの。折角久しぶりに会えたのに、申し訳ありませんわ」

「いいわ。気にしないで。それよりも行ってきたら? 獲物が逃げちゃうわ」

「ええ。それではお言葉に甘えさせていただきましょう。もっとゆっくりお話しできればよかったのだけれど、それは次の機会にいたしましょう。今度は私の船に遊びにいらしてくださいね。その時は、今日私の欲望が我慢できなかったお詫びに心づくしの歓待で、私自らがひなこさんをご案内させていただきます」

「ええ、楽しみにしているわ」

 少女は、リン・ソーマは背後に控えている男をともない席を立つのを見送った。

 そして、次の瞬間にバーの店内は悲鳴もなく血の臭いで満たされた。

 血しぶきが壁を真っ赤に染め、倒れた男の首筋からは拍動に合わせて血が飛んで天井を汚す。

 悲鳴もなく、バーにいた人間たちが解体されていく。

 そして、ねじ切られた自分の上腕を自分の頭蓋骨に突き刺され、切り開かれた腹からは丁寧に内臓が取り出されて、すべてが繋がったまま輪を広げられる。

 誰かの切り取られた手首は自分のものではない生首をまるで捧げるように持ち、くりぬかれた眼窩には引きちぎられた腎臓がはめ込まれる。

 抜かれた舌は切り破られた胃の中に落とされ、削がれた皮膚は絨毯のように広げられる。

 血肉の匂いが、酒の匂いを吹き飛ばして店の中を満たしていた。

 人体が生け花のように弄ばれる中にあっても、悲鳴は一切聞こえない。ただたまに人間の皮膚や菌に黄が引きちぎれる音や、骨が折れ、砕かれる音が止まないジャズの合間に聞こえてくる。

「あら、いつの間にか、あなたもお酒を全部飲んでいたみたいね。さあ、行きましょうか。ここに留まっていたら、とばっちりを食らうかもしれないから」

 少女は軽やかに腰を上げる。

「バーテンさん、ありがとう。楽しい時間を頂いたわ。また来るわ。さあ、あなたも青くなってないで喋れないのならちゃんと頭を下げなさい」

「いいえお気遣いなく。またのお越しをお待ちしております」

 少女は気にしたふうもなくカウンターに背を向けて惨劇の現場を後にする。

 バーテンダーはカウンターに飛び込んできた誰かの左足を手品で消すように食べながら静かにグラスを磨いていた。

「あなた運がいいよかったわね。あなたが今なんでもないことのように私の隣を歩いているのは一つの奇跡よ」

 少女はかすかに振り返ると、一面の赤色の中で咲き誇る花のように笑顔を浮かべているリン・ソーマを瞳に収める。

「あのリン・ソーマさんがあなたを見逃したのには私もすこし驚いた。あの人はね、血肉は好きだけど悲鳴は嫌いって言う変わった人なの。自分の薬で男たちの声を奪って夜ごとお楽しみ会を開いてるそうよ。あの様子を見ると最近はよっぽど日照り続きだったのね。あんなに楽しそうに殺しちゃって。本当はじっくりたっぷりいたぶるのが好きなはずなのに、そんなに我慢できなかったのかしらね? まあ、影に喰われてないところを見ると見た目ほど興奮してはいないみたいだけど……」

 少女はわざとおどけてみせるように肩をすくめた。

「始めから悲鳴を上げられないあなたが蜘蛛の毒牙にかからなかったのは何故かしらね。何かの気まぐれか、それとも、蜘蛛の触糸はあなたはもう死んでるとでも感じ取ったのかしら。どう? あなたは本当に生きているの? 喋れない新人さん」

 少女は黒髪を小さく揺らして血に濡れたバーを後にした。

 

               ●

 

 リン・ソーマはホテルの廊下を歩いていた。

 すでに殺戮は終えている。

 その白い顔には満足げな笑みが浮かび、赤いチャイナドレスはより深い赤色になって彼の体を包んでいた。

 欲望はまだ腹の奥で燻っているが、とりあえず抑えきれない衝動は収まっている。

 後は今夜じっくりかけてこの欲望を料理するだけだ。

 リン・ソーマはバーの惨状を思い出して己のペニスを熱くさせた。

 その目が自然と隣を歩く二人の男に注がれる。

 一人は血の滴る巨大な布袋を肩に担いだ大男。バーにたくさんの死体を作りそれを綺麗に片付けた男。

 もう一人は今夜の本番のために生かしておいた見目麗しい若い男。はめられた首輪からは赤い紐が伸びていた。

 リン・ソーマはその横顔を見て頬をバラ色に染めると若い男に声をかけた。

「震えているようね? でも、安心なさい。あなたは今夜は死ぬことはないわ。いいえ、あなたはそれどころか私の穴を使うんですもの、死ぬどころか気持ちよくなれるわ。さあ、私と一緒に気持ちよくなりましょう?」

 その時、リン・ソーマの隣を歩く大男が足を止めた。

 それにともない、リン・ソーマも足を止める。

「あなた、ごめんなさいね」

 唐突に、リン・ソーマが謝った。

「この私はここまでみたい」

 次の瞬間、三人は圧倒的な力の前に血肉と化して殺された。

 

 

 

 無限ホテル10 合わせ鏡

 

「ずっと歩き続けで少し疲れたかしら?」

 少女はそう訪ねてくると、自分の部屋に戻ってきた。

 鍵を開け、部屋に入る。

 落ち着いた、オレンジ色の明かりが少女達を迎えてくれた。

「あら、どうしたの? 急に立ち止まったりして」

 少女が部屋の様子に注意を向ける。

「ああ、そういことね……」

 少女は頷いて正面にある大きな窓に近づいた。

 少女達が先ほど部屋を出る前までは、様々な夜景を見せていたその窓は、今は夜景ではなく夜の暗がりの力を借りてこの部屋を映す鏡になっていた。

 窓の中にはこの部屋の光景が映っている。

 しかし、その鏡像はこの部屋の姿とまったく同じ姿だった。

 まるで二枚の鏡を直角に合わせて作った左右反転鏡のように、右と左の入れ替わりが起こっていない。

 ベッドも机もテレビも、何もかもがまったく同じで、向かい合わせに同じ部屋があるようだった。

 ただ一つ違うところを上げるとすると、窓辺に立つ少女の姿が鏡に映っていない事だった。

「ねえ、あなたは、パラレルワールドって知ってる?」

 少女は窓枠に背を預けて振り返る。

「それは、今私達がいる世界と薄皮一枚隔てて別の世界が存在してるって言う世界観。その別の世界では今私たちがいる世界では起こらなかった可能性が起こっている世界。例えば私がひとつのコップをテーブルの上に置くとする。その時、私にはコップをきちんと置けるという未来と、手を滑らせてコップを倒してしまうという未来がある。その二つの未来は同時に存在していて、私の行為の結果、どちらかの世界が私の主観に認識される。でも、認識されなかったもう一つの可能性は消えてしまうのではなくて、私じゃない私がその世界を認識して未来が続いていく。そんな風にフラクタル状に無限に広がる樹の枝のように無限の分岐にあわせて無限の世界があるという考え方がパラレルワールド。そこにはコップを置いた世界もあるし、倒れた世界もあるし、そもそもコップを置こうと思わなかった世界もすべてある。そう考えるのがパラレルワールド。猫が死んだか死ななかったかの違いだけ。イメージしにくいなら、そうね……この世界の裏側には神様が住んでる世界がある。魔法が本当にある世界もある。そんな風に考えればいいんじゃないかしらね。もしかしたら、この街がこんな風に歪んでしまわなかった世界も、あるかもね」

 少女は口にしてから小さく頭を振った。

「まあでも、どんな世界でも似たようなものよね。そこに住んでるのは、やっぱり向こう三軒両隣にちらちらするただの人なんだから」

 少女はゆっくりと右手を差し出した。

「さあ、折角だから行ってみましょうか。そんなに怯えなくても大丈夫よ。一枚や二枚パラレルワールドを越えたって、世界はそうそう変わらない」

 窓に触れた少女の左手が、ズブリと別の世界に飲み込まれた。

 

 

-6ページ-

 

 

 無限ホテル11 カナリアの歌声

 

               ●

 

「ないないないないない! こんなにも私たちは探してるのに! 見つからない。月が見つからない。どこなのどこにあるの。お願い、誰か助けて。私たちにとって今日の月は特別なの。助けてくれるのならなんでもする。お願い。助けて。助けて。助けて! 誰か助けて!」

「見つからない……。私たちがこんなにも探しているのに……。じゃあ仕方ない。今殺した肉を使って私は私を増やしましょう。私が増えればもっと早く広く探せるわ。そうだわ。人が集まるところに行ってその肉を食べましょう。そうして私を増やしていけば、いつか世界を覆い尽くせる」

「きっと見つかるわ。諦めたらダメ。私たちはこんなにも多いんだもの。必ず見つけ出せるわ。さあ、行きましょう。立ち止まってる暇はないわよ。さあ私たち、もっと早く、もっと広く。私たちの生まれてくる赤ちゃんのために!」

 

               ●

 

 少女達は長く続く通路を抜けた。

 無限に続く無限ホテルのその廊下、その一角。その片隅。

 場所が変わり、視界が開け、先ほどまでとは違う景色が見えてくる。

「ここはラウンジね。無限ホテルに無数にあるラウンジの一つ。目を休めさせ心をくつろがせるためのあたたかい光に、木のぬくもりあふれる彫刻たち。高い天井が人の心に開放感を生み出して、その天井に設けられた採月窓からは月の光が注いでいる。何かお腹に入れて行く?」

 少女はウェイターを呼び止め、ラウンジの片隅に通された。

 少女の小さなお尻の下でスカートがふわりと広がり、押しつぶされる。

 端の席からはラウンジ全体が良く見渡せる。

 隣の客のささやき、壁に掛けられた人間の皮、さりげなく置かれた美しい生け花。

 そして周りの、普通の人たちに混じって存在している色のない影のような人たち。

 少女は自分の正面に目をやった。

「あなたももうこれくらいなら驚かないかしら? 確かに彼ら、普通に色を持ちそれぞれ思い思いに時間を過ごしている人達に混じってゆらゆらと行き交うまるで少し前に見た自分の影に食われた人たちみたいな色彩のない人たちは無害よ」

 少女の瞳がまっすぐに見つめてくる。

「でもね、彼らは怒りにかられて影に食われた人達に似ていてもまったく別の存在よ。彼らは自我のない人達。アイデンティティーがない人達。自分自身を支える基盤のない人達なのよ」

 少女はまぶたを閉じて耳を済ませた。

「聴いて。色の持っている人たちはそれぞれ自分が存在してるっていう雑音を周囲に放って、ラウンジ全体に心地よいノイズを作ってるのに、あの影のような人たちは…………ほら、そこの柱のそばを歩いている小さな男の子の姿をした影からはまったく音が聞こえないでしょ? 幽鬼のように歩いていて、ああして置かれた生花の葉は男の子の肩に触れて揺れているのに、それでもなんの音もしない。それが彼ら。無色透明で何もなせない人達よ」

 語り終えて、少女はまぶたを開けて天井を見た。

 巨大な採月窓の向こうに月を模した天球が見え、本物の月と同じように深々と光を放っていた。

 上空ではシルフが踊っているのか、ときおりその光が不規則に揺れる。

 

 スーツを着た一人の若い男が、少女の隣を横切った。

 男は席に着くと足かせがはめられたカナリアが入れられた鳥かごをテーブルの上に置き扉を開く。

 すると、鳥かごの中から青みを帯びた黄色いドレスに身を包んだ右足に足かせをはめられた一人の背の高い女声が現れた。

 足かせの鎖は、鳥かごの中に伸びている。

 男はその足かせの錠をを薄い笑みを浮かべながら開けた。

「………………私は………………?」

 足かせを外された女性は、非道く戸惑った顔をしていた。

 その表所に晴れやかさは微塵もない。

 むしろ青ざめて恐怖に身を震わせている。

「分かっていながら質問するのは、どうかと思うががね?」

 女性は沈黙し、対して男は口の端に笑顔を浮かべてその分かっていることを言葉にする。

「喜ぶがいい。お前はある方に買い上げられた。最早お前はあわやひえなどで飢えをしのぎ、腐った水で腹を膨らませることなどない。もう夜は眠りにつくことも許される。もうお前は歌を歌わなくても旨い肉を口にし、清潔な水をたっぷり使って体を清め、絹のベッドの上で眠ることができるようになったのだ」

 そう聞いた青みを帯びた黄色いドレスに身を包んだ女性は震える声で絞り出すように口にする。

「………………………………歌は?」

「必要ない」

 男は端的に答える。

 その途端、女性は死刑宣告を受けたように男の足に縋りついた。

「わ、わた、私は、歌うために食事制限することは苦になりません。水もいらないです。夜、なにも見えない暗闇の中、皆と声を合わせて歌の練習をするのはたのしいです。例え喉から血の泡を吹いたとしても楽しいんです。私は、歌いたいです!」

「ああ、もう歌う必要はない」

 男の、なんの感情も込めれれていない冷たい声が、女性の耳の中に入り込み、その心を打ち砕いた。

「あ、…………ああ、…………ああああ! 私から歌を取り上げるのですか。私は歌えさえすれば他にどんなものも必要ありません。どんなに苦しくても、私は歌さえ歌えれば、もうなにもいらないのです。お腹を満たす食事もいりません。のどを潤す水もいりません。私が初めて生んだ卵も諦めます。ですから、ですから、どうか私に歌わせてください!」

 男はウェイターを呼んで鳥かごを片付けさせた。

 

「あなた、今のやり取りをずっと見ていたわね?」

 少女は注文し、運ばれてきた紅茶に口をつけた。

 その黒い瞳にも青色を帯びた黄色い影が映っている。

「ええ、そうね。今こそあのカナリアはコールガールに落ちようとしている。見て。あの女の人は、抵抗することも出来ずに、男に連れられて行くわ」

 青みを帯びた黄色いドレスを見にまとった女性は男につられながら暗い表情で嘆き続ける。

「もう私は歌うことを許されなくなってしまった。もうステージに立つこともない。私の歌は取り上げられてしまった。あの時、私の卵を取り上げられたように…………」

 嘆き続けながら、女性はラウンジから姿を消した。

「行ったわね。あの先にあるのはエレベーターだから…………」

 少女の宝石のような黒い瞳が静かにふせられた。

「さて、これからどうしようかしら? またホテルの中を見てまわる? それとも、もう部屋に戻って休みましょうか?」

 

 その時、青みを帯びた黄色い影が、少女達の脇を抜けて今はもう誰もいなくなった隣のテーブルについた。

「……戻ってきたのね。青みを帯びた黄色いドレスは無残にも汚されちゃってるけど……」

 青みを帯びた黄色いドレスを身にまとった背の高い女性は、テーブルの上に突っ伏したまま音もなく肩を震わせていた。

 少女の瞳が女性の体に注がれる。

「首輪」

 少女はポツリと独り言をこぼすように口にした。

「足かせがなくなって、代わりに首輪がはめられてる……。鉄のかせはなくなり、代わりにはめられたのは革の首輪。細く小さな革の首輪。鉄のほうがずっと大きく重く強いのに、革のそれのほうがアナタを縛る力は強いのね…………」

 少女は首は女性の方に向けたまま、瞳だけをこちらに戻した。

「ひどい臭いよね。あれは数時間はなぶられ続けて、シャワーも浴びさせてもらえなかったのね。……でも、そんなあからさまな哀れみの眼を向けるのはやめておきなさい。それは優越の目にほかならないわ」

 少女の声の傍ら、女性の嘆きが聞こえてくる。

「ああ、結局私は、今夜一晩、一度も歌を歌えなかった。もう二度と私は歌うことはできないんだ。……どんなに殿方に愛されようと、もう私の心は乾いたまま。二度と再び満たされることはない。ステージの上で浴びる喝采も、仲間と歌いきった高揚感も、熱いスポットライトの光も、もうどれも私の手には入らない。どんな小さなステージだって、歌えさえすれば、それで良かったのに。お金なんていらなかったのに。私には歌さえあればそれで…………」

「あなたはずっと彼女のことを見ているわね。……そんなに気になるなら行ってみる?」

 少女は黒髪を揺らし、首を傾け、そしてひとつ頷くと席を立った。

「失礼するわ」

「……え?」

 女性は伏せていた面を上げて疑問の声を口にする。

「見ての通り、今このラウンジは満席なの。相席させてもらってよろしいかしら?」

 ラウンジの中は、少女の言う通り満席になっていた。

 すべての席が埋まっていて、たった今少女が立った席ですら、見知らぬ紳士が座っている。

「あ、ええ、もちろん……」

「ありがとう。私はひなこ。私の隣にいるのは言葉を持たない新人さん。喋れないみたいだから、私が代わりに紹介させてもらうわ。それで、あなたは?」

「私はカナリア……いいえ。もうカナリアじゃない。ただの一人の女」

「あなたは泣いていたのね。どう? 泣いたらなにか変わったかしら?」

「ありがとう。優しいのね、ひなこちゃん」

「そうかしら?」

「うん」

 少女はウェイターを呼んで飲み物を頼む。

「相席のお詫びにおごるわ」

「ありがとう」

 カナリアは程なくしえ出された琥珀色の液体をコクリと一口飲み込んだ。

「あなたはどうして泣いていたの?」

「もう歌うことができないから……」

「そうかしら? 歌なんて、どこででも歌うことは出来るんじゃないかしら?」

「いいえ。歌は許されないと歌えないわ」

「今この場で歌うことはできない?」

「今この場で歌うことはできない」

 少女は手に顎を乗せて目を細める。

「ねえ、歌は先史より言葉よりも早く人と共にあったそうよ。人は相手に気持ちを伝える手段として、歌うことを手に入れた。それはメロディもリズムも曖昧で、とても歌と呼べるようなものじゃなかったかもしれないけど、それでも、それはきっとあふれる感情を含んだ歌だった。言葉がなくても、意味がなくてもよ。………………それでも、あなたは歌うことができないのかしら?」

「ありがとう。ロマンチックなお話をきかせてくれて。私達歌い手には、……歌い手には最高のお話よ。けれど、やっぱりそれは歌ではない。それは人が嬉しときに笑って悲しい時に涙をながすのと同じ。感情の発露でしかない。歌っていうのは、聴いてくれる人がいて初めて歌になるのよ。今、私がここでメロディに乗せて言葉を紡いでも、聴いてくれる人がいなくちゃ、それは大きなひとりごとと変わらない」

「そうね。聞くことと聴くことは違うものね」

「ええ。そのとおり。私も…………私もね。一縷の望みをかけて、男の人音腕の中で歌ったわ。昂ぶる体温をメロディに変えて、身を打つリズムを言葉にかえて、熱い栗の花の香りに喉を焼かれながら、こうしてあざが残るほど強く抱かれながら、私の全霊をかけて歌ったわ。歌ったのに、その人はただ私の歌声を右から左に受け流して、私に愛をささやいた。私の歌は届かなかった。私の歌はその人に届かなかったの。もう、あの方の所有物になった私には歌は歌えない。私の口から垂れ流されるのは、メロディに乗った言葉でしかない。私の喉は奪われた」

 少女は女性の言葉をすべて聞き届けて瞳を閉じた。

「そう、それがアナタの歪みなのね。このトウキョウという街で、屈指の美しい歪みだと思うわ」

 少女の声はカナリアの女性には届かないようだった。

「ああ、そんなに肩を震わせて涙を流して……。アナタは泣けば何かが変わるだなんて、誰かが助けてくれるなんてことがないと、そう知っていながら、それでもあふれる感情の波がアナタの瞳から涙をこぼすのね」

「そうね。私はもう泣いても助からないと知っている。泣かなければいけないのは力がないから。泣く位なら、明日の私のために努力をしたほうがいいことは分かってる。でも、もう私は今やあの小さな鳥篭よりも大きく強い檻の中に囚われてしまった。もう私はなにもできない」

「そんなことないわ。アナタは筋トレでもしてその男の首をへし折ってやることもできる。そんな回りくどいことなんてせずに、包丁が一本あれば事足りる。…………でも、できないのね。アナタの歪みはそういう方向には向いていないから……」

「お金なんていらなかったのに。美味しいご飯なんていらなかったのに。私に愛なんていらなかったのに。私には歌さえあれば、どんな所でも生きていけたのに」

 少女の声はやはり誰の耳にも届かず、ラウンジの影に食べられるようにして消えていった。

「あなたは、この人がかわいそうだと思ってるの? この美しい歪みが消えてしまうのが惜しいと思ってるの? けれど、外から与えられる救いは本当に救いだと呼べるのかしら? たとえ今助けても、次に檻の中に閉じこめられた時は、きっと誰も助けてくれない。もう二度と飛び立つことはできなくなる。…………それにね、そもそも、こういう形でしか存在できない歪みを、助けることなんてできるのかしら?」

 少女は最後に付け加えた。

「まあいいけど」

 少女の目がまっすぐにこちらに注がれてくる。

 その瞳は普段と同じくなんの表情も浮かべておらず、ただ視線の先にあるものを見つめている。

 満席のラウンジのざわめきの中、少女の水晶のような目がとても静かに輝いていた。

「まあいいわ。あなたのその目に免じてこの面倒を引き受けてあげる。…………それに、歪み持ちに手を出したらどうなるか、早めに見ておいた方がいいかも知れないしね」

 少女は席を立つ。

「ほら、あなたもいらっしゃい」

 少女は青色を帯びた黄色いドレスを着た女性を残しテーブルを離れた。

 残された一羽のカナリアは肩を小さく振るわせている。

 二つの空いた席にはまだティーカップが残されていた。

 そして少女は、色をなくして影のようになった人間の前に歩み寄った。

「ねえ……」

 少女はその影に声をかける。

「アナタは、愛に飢えた子ね」

 それは質問ではなく断定。

 命令ではなく強制。

 確認ではなく事実だった。

「はい。僕は愛に飢えた子供です」

「そうね。影のようだった体に見る間に色がついて、アナタは人間になった。そう、アナタは愛に飢えた子供よ」

「僕は昨日お父さんとお母さんと一緒にこのホテルに泊まったんだ。そして今日は朝からおむすびころりんすっとんとんと言いながら地下のネズミの国の遊園地に行って、たくさんたくさん遊んで、そして夜になってネズミの国から帰ってきたら、お父さんとお母さんは高い木の枝に紐を結んで首をくくってしまったんだ。だから僕は行くところがなくてこのホテルに戻ってきたんだよ」

「そう、愛されるばかりで自分から両親を愛することのなかった愛に飢えた子供、子供だって両親の心を支えることはできたはずよ。それなのにアナタはそれをしなかったのね。それじゃあ、アナタに代わりの役割をあげる。あそこで嘆いている青色を帯びた黄色いドレスに身を包んだ一羽のカナリアにこう話しかけなさい。そうすれば愛が与えられるわ」

 先程まで影のようだったが、今は色を得た少年は、のそりと立ち上がると、青色を帯びた黄色いドレスを纏ったカナリアにこう言った。

「愛の歌を歌ってください」

 青色を帯びた黄色いドレスを纏ったカナリアの目が、驚きと喜びに溢れて大きく見開かれた。

「ほら、あなたも目を逸らさずによく見て。これから始まるわ。………………歪みが、閉じる」

 瞳を震わせるカナリアがかすれた声で口を開く。

「キ、キミ、……こんな私の歌を聞いてくれるというの?」

 それに、先ほどまで影のようだった今は色を得た少年は頷く。

 その仕草を見た途端に、青色を帯びた黄色いドレスを纏ったカナリアは歓喜に全身を震わせた。

「ああ、ありがとう。最後にもう一度この私に歌を歌うことを許してくれて。ああ、ありがとう。今こそ私はここで命を燃やし尽くすわ。この言葉にならな感謝の思いを歌に乗せる!」

 一羽のカナリアは席を立つ。

 その目の前には一人の少年。

 カナリアは青みを帯びた黄色い羽を整えるようにすらりと立ち、ドレスを静かに整えた。

 目の前にいるのはたった一人。

 観客はそれだけ。

 カナリアはその喜びに胸を震わせる。

 呼吸を整え息を吸い、カナリアは力強く歌い出す。

 少年のリクエストの通り、溢れんばかりの愛の歌を。

「…………いい歌ね。素直にそう感じるわ。歌うためだけに作られたカナリアにしては、技術はまだまだ未熟で、耳障りな部分もあるけれど、それでも、この歌はこんなにも美しい。こんなにも耳に心地いい。なぜなら言葉と言葉の間に、メロディとメロディの間に、音符と音符の間に形にできない想いが込められているから。…………でも、私が感じるのはせいぜいそこまで。あの子が、あの愛することを知らない子が、あの愛されるばかりで愛することに怠慢だった子が、今なにを感じているのかは感じられない。それはあなたもそうでしょう?」

 少女の瞳が見つめてくる。

 カナリアの歌はラウンジの中にのびのびと響き渡る。

 その声は遠い青空のように澄み渡り、そのメロディは深山のせせらぎのように流れていく。この歌は一人の幼い少年のためだけに歌われる歌。

 ラウンジの誰からも無視されていようと、なんの問題もない。この一人の観客さえ聞いていてくれれば、それでよいのだ。

 少年は聞く。その歌声を。

 静かに耳を澄ませて、身じろぎもせず、歌う女性から片時も目を逸らさず、自分のためだけに歌われる歌を心に染み渡らせるように聴く。

 そしてカナリアは歌いきった。

 カナリアの前には二つの瞳。

「…………歪みが閉じたわ」

 少女が口にする。

 先ほどまで影のようだったが今は色を得た少年は、その手を差しのばし、カナリアはその小さな手を取る。

「ああ、彼女たちの歪みはもう世界になんの関わりも持たず、自分たちの内側で完結した。もう彼女たちは世界の外側との交流を必要としない。カナリアは自分の歌を聴いてくれる観客を手に入れ、世界はもう無価値のものに成り下がった。少年は自分に愛を注いでくれる存在を手に入れた。どちらも努力なんてしていない。ただ、たまたま自分の歪みに都合がいい道具を見つけただけ。この幸福は努力で勝ち得たものじゃない。だから、もう、彼女たちは世界と断絶して、自分たちだけの世界に逃げ込む。それは本人たちから見れば、楽園と呼べるものでしょうね。でも、外から見れば、それは不変という名の白色の地獄。永遠の灰色。無間の闇。毎日がなにも代わらない平穏な生活。歪みの完成。歪んだものをもう一度歪めたら、元に戻るのかしら? それとももっと歪んでしまうのかしら? ねえ、あなたはどう思う? まあいいけど」

 少女はチラリと隣を見る。

「どちらにしても、今あなたの目の前で、カナリアと幼い少年が世界を否定するようにこことは違う法則に絡め取られるように色を薄くして消えていく姿は現実の光景よ。世界を否定するって言うのは、我ながら上手いたとえだと思う。彼女たちのように悲観に暮れて自分を助けてくれる何かをただ待っているような人は、外の世界では自分を殺すか、世界が悪いと責任転嫁して他人を殺すかするんでしょうね。本当は世界になじめない自分が悪いのに。…………あなたも、そうして目の前の世界からこの街に逃げてきたのかしら?」

 そして、少女はもう誰もいなくなったテーブルを見ながら最後にこう付け加えた。

「まあいいけど」

 

-7ページ-

 

 

 

 

 無限ホテル12 満月の夜の珊瑚 〜 Fractal branch 〜 

 

               ●

 

「この世界を覆い尽くしてでも、探し出す」

 

               ●

 

「……何かしら?」

 少女の目の前には桜色の壁が広がっていた。

 廊下の照明がその桜色を映し出している。

 近づいてみれば、その正体はすぐに分かった。

 それは、桜色の芯が封じ込められた透明な珊瑚の群れだった。

 数え切れないほどに枝分かれした珊瑚が、廊下の天井までを埋め尽くし、進む道を閉ざしている。

「なんでこんなところに珊瑚があるのかしらね? あなたは何か分かる? まあ、分かってもあなたは口を利くことはできないのだけど」

 少女は黒髪を重力に流しながら小首を傾げた。

 少女が枝の隙間を覗き込むと、珊瑚は自己の形を縮小して無限にコピーするフラクタル状の網を形成しながら、廊下の先まで続いていた。

「まあでも、どうして、なんて問いかけにはあんまり意味はないのよね。だってここは歪んだ街なんだもの。原因と結果が一致するとは限らない。……そうね、無理やり理由をつけて納得するんだとすれば、きっとどこかの水槽で育成されていたものがこんなふうに異常増殖したんじゃないかしら? まあいいけど」

 少女はその桜色の珊瑚にふれてみた。

 普通の珊瑚は見た目よりもずっと脆く柔らかいものなのだが、少女が触れた桜色の芯を封じ込めた透明な珊瑚の枝は、まるで水晶のような固さを持っていた。

 その時、少女が不意に顔を上げる。

「………………ねえ、あなた、今の、聞こえた?」

 少女はぽつりと呟き、耳を澄ませる。

 桜色の壁に封鎖された廊下は静まり返り、桜色の芯を持つ透明な珊瑚は照明の明かりを受けてそれこそ、このホテルのエントランスにあるシャンデリアのように輝いていた。

 少女はまぶたを閉じ、視界が閉ざされて代わりに他の感覚が鋭くなる。

 そして少女が目を開けると、珊瑚の森の奥に、珊瑚の枝に串刺しにされた一人の人間の姿があった。

 少女の耳が拾ったのは、そのボロ雑巾のようになった人間の口から漏れる呻くような醜い声だった。

 珊瑚の枝はその人間の頭蓋を易々と貫通し、本来は人間の目玉のある場所から伸びている。

 頭部だけではない。胸や腹、足や手など全身から珊瑚の枝は伸びており、その透明な枝は血の色に染まってその先から紅い雫を滴らせている。

「これはもうダメね……」

 奇跡的に重要器官は無事のようだが、慈悲深い死神が血溜まりの中に顔を映しているのが、はっきりと見て取れる。

 絨毯は毛細管現象で広範囲にわたりじっとりと濡れ、不吉な赤色を示している。

 少女がため息をついてかぶりを振ったその時、その絨毯に染み込んだ血液が恐怖におののくようにわずかに震えた。

 少女は弾かれたように振り返る。

「逃げるわよ」

 少女はそれを前兆と見て取って即座にその場から離脱した。

「急いで」

 桜色の壁に背を向けて一目散に廊下を走る。

 その次の瞬間、桜色の芯を持った透明な珊瑚は爆発するように成長を開始した。

 絨毯に落ちた血溜まりは急激にその色を失い、先程まで細く聞こえていた呻き声は掻き消され、代わりに肉が貫かれる音が、肉が轢き潰される音が聞こえてきた。

 透明な枝は獲物を引き裂く虎の爪のように、あるいは全てを飲み込む津波のように壁を、床を、天井を突き破りながら廊下を走る。

「速いわね。これは追いつかれるかも」

 飾られていた古伊万里の壷が砕け散り、装飾された美しい鏡が剣となって辺りに飛ぶ。

「こっちよ」

 少女は手近な個室に飛び込んだ。

「可能性は二分の一ね。窓が夜景を映していたら私たちはここまでね」

 少女は迫る珊瑚をサイドステップでかわし、部屋の中を駆け抜けて窓ガラスに、こことは別の可能性を持つパラレルワールドへと飛び込んだ。

 硬いはずの窓ガラスは、まるで水のように少女の体を飲み込み、ついで珊瑚の枝を飲み込んだ。

「続けていくわよ」

 少女は窓ガラスから飛び出して着地すると同時にそのまま真後ろへ飛ぶ。

 そこにあるのはすなわち、今まさに暗く沈んだ鏡像の世界に成長する珊瑚を映したパラレルワールドへの入り口だった。

 ガラスが少女の体を飲み込んだ次の瞬間に、そのガラスは次元一枚隔てた向こうから桜色の珊瑚を吐き出した。

 少女は鏡像の世界を越えてまた別の世界に着地し、そしてまた別の世界へと跳躍する。

 それを二十四回繰り返し、そして、ようやく珊瑚の姿がなくなった。

 少女の後ろにある窓ガラスはもはや珊瑚の影を映していない。

 少女は、小さくため息をひとつ。

「あなたも無事だった?」

 少女の目がこちらの頭からつま先までを軽く見る。

「そう。無事でなりよりだわ」

 少女は顔に表情を浮かべないままに言う。

「それにしても何かしらね。あの桜色の珊瑚は…………死体でも求めてるのかしら? 桜の樹の下には屍体が埋まっている……?」

 少女はそこで再び目を閉じた。

 辺りにはまだ不気味な気配が満ちている。

 ここにいるだけで自分自身も狂気に飲まれてしまいそうな、そんな曰く言いがたい不快な不気味さだ。

 まるで脳の中を鉛でできた虫が這いまわっているようだ。

 血の匂いもかすかに鼻の奥に感じられる。

「逃げられるなら逃げ切りたいけど、今回はそれは無理そうね……。相手の正体がまるで分からない。私もちょっと似たような礼を知らない。これからどうなるか分からない。逃げ切れないなら、なんとか危険のもとに対処する方法を探さないとね」

 少女はつぶやくように言うと、扉を開けて廊下に出た。

 途端にむっとする血の匂いが鼻の奥を刺激する。

 空気はまるで水中のように重く、指先にまでまとわりつく。

 湿度の高い夏の午後よりもなお不快だ。

 しかし少女は、そんなことを気にする風もなく聞こえてきた声に振り向いた。

「…………どこ。どこにあるの! 私たちにはあれが必要なの! お願い誰か知っているなら教えて!」

 廊下の照明の下、その人物はそこにいた。

「こんにちは。白と薄い桜色のワンピースを着た白に近い桜色の神を持つ黄金色の瞳のお姉さん。私はひなこ。初めまして」

 少女は軽く頭を垂れた。

 その女性の足元には、うずたかく死体の山がつまれていた。

 死体は皆ひき肉にされかかっているかのようにグズグズに引き裂かれ、それが人間の死体だと認識するのは難しいくらいだった。

 よく見ると、その死体はまるで無数の珊瑚の枝に刺し貫かれたかのように、スポンジのように数え切れないほどの巨大な穴を穿たれて挽肉にされていた。

 死体からは血と言わず、胃液と言わず、リンパ液と言わず、体液と言わず、ありとあらゆる液体が漏れでていて、ホテルの絨毯の上に汚らわしい水たまりを作ると共に、吸っただけで肺を悪くするような匂いを周囲一面に放っていた。

「ああそうなのね。この位相では、珊瑚は珊瑚の形じゃなくて人の形をしているの……」

 ひなこはひとりごとのように口にした。

 死体の上に立つ桜色の女が嘆くように口を割る。

「……どこ? どこなの? お願い時間がないの。私たちの赤ちゃんが……」

「ねえアナタ、お名前は?」

 少女の目はまっすぐに死体の上に立つ桜色の女を見つめる。

 黒い瞳は死体の赤色を移してもなんの感情にも染まっていなかった。

「……私たちは、南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚」

「そう、あらためて、私はひなこ。こっちは名前のない新人さん。よろしく」

 ひなこは軽く小首をかしげるように会釈した。

「うん。よろしく。ひなこさん」

「ええ、それで……アナタは、いいえアナタたちはなにを探しているの?」

「今夜登るはずだった満月を」

 南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚は一言で告げた。

 ひなこは沈黙を守ってその黒い瞳で話の続きを促す。

 南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚は小さく頷くとかすかにほほ笑みを浮かべて話し始めた。

「私たちは、今夜の満月の光の中、みんなで一斉に子供を生む予定だったのです。私たちは一年間大切に育んだわが子を今日この日に送り出すはずだったのです。そうでうす.今日この日に私たちは愛しいわが子に会うことができるはずだったのに! それなのに!」

 南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚は語気を荒げて叫んだ。

「今日は満月のはずなのに月が出ていない! 満月どころか細い三日月すら出ていない! きっと誰かが今日登るはずだった満月を隠してしまったんだ!」

 南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚は今にも涙を零しそうな表情をした。

「ですから私たちは、こうして無限に枝を伸ばして、どこかに満月はないかと探しているのです」

「そう。了解したわ。満月を探していたら知らずにその枝が人間を刺し貫いていたのね。よくあることだわ。積極的に人間を襲っていないなら私は安心よ」

「うう、どこ? どこにあるの? 今日登るはずだった満月……」

 ひなこがホテルの外の夜景に目をやると、そこには輝く都市の夜景が広がっていた。

 空には電灯の光を浴びて夜の暗さの中白々と浮かぶ雲が流れている。

 しかし、その空にはやはり月はなく、南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚は泣きそうになりながらもそれをこらえて、必死に満月を探していた。

「それじゃあ、私が満月を作ってあげるわ」

「…………本当?」

「ええ、本当よ」

 少女はポケットの中から半分になったニッケルメッキのブリキの月を取り出した。

「これはいつか登るはずだった月の半分。これをあなたに差し上げるわ」

「ありがとう、ひなこさん。気持ちはとっても嬉しいわ。でもね、私達にとっては半分だけじゃ意味がないの」

「それなら、こうすればどうかしら?」

 少女はポケットから■酒が入れられた水売りの男が落とした水差しを取り出し、それを床の上に置くと手の中で大きくして口を広げた。

 中をのぞき込むと、並々と注がれた酒の水鏡に半分だけの月が移っていた。

 その水鏡に、少女は半分になった月を合わせた。

 割れた面を鏡に触れ合わせると、半分だけだった月は満月になった。

「おお、おお!」

 南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚は感嘆の声を漏らし、黄金の瞳から大粒の涙をこぼしながら、震える手を水鏡の中に手を差し入れた。

 水面は波打つことなく南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚の手を受け入れ、その手に煌々と輝く満月をすくい取らせた。

「これです! これが今日私たちがずっとずっと探していた満月です! ありがとう。小さなひなこさん、本当にありがとう! この満月こそ私たちにとって計れない価値ある宝。ずっと探していた私たちの至高の宝! 私たちの命にも替えがたい私たちの赤ちゃんを産む光り!」

 まん丸な月が、無限ホテルの廊下に光り輝く。

 南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚は満月を両手に高く掲げ、そしてその次の瞬間、珊瑚の産卵が始まった。

 滂沱の涙を流す女性は満月の光りの中にかき消えて、辺り一面にびいどろ玉のような卵がそれこそ廊下を埋め尽くすように、空気の中をまるで海中を漂うようにゆらゆらと揺れながら、広がっていく。

 ホテルの廊下の明かりが透明な卵を透過して乱反射し、まるで宝石の中に閉じ込められたように当たりにはキラキラした光が汎濫していた。

 少女の体も、幾つもの卵が通り抜けていく。

「……ああ、綺麗ね。この珊瑚に何人の人間が殺されたか分からないけど、この光景には人が命を落とすだけの価値はある」

 少女は振り返る。

「ねえ、あなたも、そうは思わない?」

 

-8ページ-

 

 

 

 無限ホテル13 チェックアウト

 

「さあ、そろそろ出ましょう。あなたもここがどういうところか分かったでしょ? このホテルを全部案内してたら時間がいくらあっても足りないわ。もし機会があったらまた来るといいわ」

 エレベーターを降りた少女は鏡のように磨き上げられた木目の美しい床の上で高らかに靴音を立てた。

 高い天井の上で太陽の代わりを務める巨大なシャンデリアの下、少女はフロントの前でスカートを揺らめかせて立ち止まる。

「出るわ。お題はこの南洋の島々に枝張る桜色の珊瑚が満月の夜に産卵した透明な卵で足りるかしら?」

 楠の受け皿の上に、透明な影が落ちた。

「はい。十分でございます」

「宿泊中、とても快適に過ごすことができたわ。どうもありがとう。ねえ、あなたもそう思うでしょう? ええ、あなたがそうして頭を下げるに足りることよね」

「恐れ入ります。お客様に直に聞くお褒めの言葉こそわたくしどもの至福でございます。当方こそ、この度はご宿泊いただきまことにありがとうございました。どうぞご縁がございましたら、またお越しくださいませ」

「ええ、縁があったらね」

「それではこちらをお持ちください。昨日頼まれていた品でございます」

「ああ、そうだったわね」

 少女は昨日全知の魔女に教えられてフロントに頼んでおいた傘を受け取りった。

「それじゃあ、今度こそ行くわ」

「はい。またのお越しを心よりお待ちしております」

 少女は足を踏み変え、スーツを着てフロントに腰掛け一度も左手を見せなかった男に背を向けた。

「ねえ、あなたはあの人の左手が見えた? ……そう、あなたの位置からは見えなかったのね。まあいいわ。見ても気持ちのいいものじゃなかったし」

 その時、少女の横を小柄な男がすれ違った。

 小柄な男はかじりつくようにフロントに飛びつくと、途端に怒鳴り声を上げた。

「部屋に通せ!」

「申し訳ありません。当ホテルはただ今満室でございます」

「ふざけるな。こんなに部屋数があるんだぞ。空いていないわけがないだろう!」

「申し訳ありません。当ホテルはただ今満室でございます」

「俺は墓穴堀の棟梁だぞ! オマエなんかが俺に逆らっていいわけないだろうが! さっさと部屋を開けろ! いいか、俺は棟梁なんだぞ!」

「申し訳ありません。当ホテルはただ今満室でございます」

「わざわざこの俺がこんな辺鄙な所にまで来てやったんだぞ! それならお前らは誠心誠意い俺をもてなすのが筋だろうが!」

「申し訳ありません。当ホテルはただ今満室でございます」

「オレの女にこのホテルだって言っちまってるんだよ! お前らには何とかする責任があるだろうが!」

「申し訳ありません。当ホテルはただ今満室でございます」

「この俺に恥をかかせる気か! 誰か一人を部屋から叩き出せば住むことだろう! さっさとやれ!」

 少女は隣に向けて小さく口を開く。

「すごいわね。あの小さな男の人、フロントに文字通り歯を立ててかじりついてるあの人」

 少女は小さく口にする。

「あれだけ怒鳴っていながら影に取り込まれない。理屈を無視した要求を強要しながら、その内実は凪いだ海のように平静。理性のフィルターを通して無理難題を口にしてる。こうなったら怒鳴られてる方はなだめすかして相手を落ち着けることもできないわ。彼はすでに落ち着いてるんだから」

 少女は首を左右にふる。

 長い黒髪がそれに合わせて黒く揺れた。

 そして、フロントの男は身を乗り出して左手に持ったナイフで目の前の男を刺し殺した。

 少女は瞬きよりも少しだけ長い瞬きをする。

「あれもあれで怖いわね。息をするように人を殺せるっていう精神も。それも、引き金をひくだけのピストルや、ボタンひとつで済むミサイルとかじゃなくて、あんな風に滴る血で袖口を汚すようなもので、その手のひらにきつくしまった肉に硬い金属をえぐり込む感触が返ってくるようなもので。…………ストレスが爆発してしまった大量殺人犯とも違う、殺人が日課になってしまった連続殺人犯とも違う、喜びも怒りもなく人を殺せる人」

 少女はわずかに肩をすくめた。

「まあ、あれが出来るからこのホテルのフロントに雇われてるんでしょうけどね」

 少女は止めていた足を動かして、無限ホテルを後にした。

 ガラスの扉が開かれ、夜の世界が終わり、少女の瞳に強い太陽の光が差し込んだ。

「何よ。晴れてるじゃない。あの嘘つきの全知の魔女め」

 

 

 

 終わりの話

 

「さて、この町がどんなところか分かったかしら?」

 少女はくるりと後ろを振り向いた。

 黒いスカートがふわりと揺れ、黒髪が流れる。

「ここは歪んだ街。人も物も物理法則に囚われない歪な街。狂った人や歪んだものが行き交い、交錯する街」

 少女は歌うように口にする。

 流れるような声は、吹き抜けて風にさらわせて歳のどこかへと運ばれていった。

「さあ、これからどうする? 私と別れてこの街のどこかで生きていくか、それとももう少し私の暇つぶしに付き合うか」

 少女は答えを待って口をつぐむ。

 しかし、その時間はごくわずかで、少女はすぐに溜め息を付いてまぶたを閉じた。

「まあいいわ。……そういえば、あなたは結局一度も口をきかなかったわね」

 まぶたを開けた少女は背を向ける。

「お別れだけしておきましょうか。…………さようなら」

 少女はそう言うと歩き出す。

「ついてきたければ勝手にどうぞ。私は暇つぶしでこの街を案内してるだけだから」

 

 

説明
オリジナル小説の続きです。
歪んだ街に迷い込み、女の子に街を案内されるファンタジー小説です。 無限ホテルのパラドックスをネタに使ったお話です。よろしければご覧下さい。文字数は37000字くらいです
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