レッド・メモリアル Ep#.20「黎明」-2 |
リー、タカフミと、アリエル、ミッシェルの面会は続いていた。まだ面会が始まって1時間程度の時間しか経っていないが、すでに何時間もこの地にいるかのような気がする。
突然、ミッシェルは手をテーブルへと叩き付け、リー達に言い放ってきた。
「冗談じゃあないわ!一体、誰が娘にそんな危険な事をさせるの?」
ミッシェルは立ち上がるなりそのように言い放ってくる。リー達はさして驚かなかったが、どうやら、アリエルは養母のそんな姿を見て身を引いてしまったようでさえある。
「危険という事は分かっています。我々が用意した装置もまだ不完全なものでしかない。ですが、お嬢様の頭の中に埋まっている、『レッド・メモリアル』を試すには、それを実験してみるしかない」
リーはその申し出をするためにここまでやって来たようなものだった。それが組織の目的であり、またベロボグを見つけようとしている者達全てが望んでいる事でもあった。
「その装置が、一体どれほど得体の知らないものであるか。私達はその装置のせいであいつに付け狙われてきたようなもの。そして、それはとても危険な装置とも聞いているわ。ベロボグは、それを自分の娘の脳に移植するなんていう事をする男よ。今更、その装置を使って、何をしたいというの!」
ミッシェルは迫力を見せてそのように言ってきた。だがリー達はそれに怯んでなどいられなかった。
「それはもちろん、ベロボグ・チェルノの居所を探るためです。お嬢様は、何らかの目的によって、ベロボグによって動かされている。その指示を出すために働いているものが、『レッド・メモリアル』なのであると我々は踏んでいます。
そして、その装置の解析ができれば、ベロボグの居所も、彼らの目的も知ることができるでしょう」
だがそのリーの説明を聞いても、ミッシェルは納得がいかないという様子だった。
「その装置は、専用の読み取り装置がなければ解析する事はできないと聞いているわよ」
そのように言って来る。だがリー達の準備は万全だった。
「我々は、お嬢様のデバイスを参考にして、その読み取り装置を制作しました。それは不完全なものですが、生体コンピュータを起動させる事はできるでしょう。残念ながら、まだ試験的な運用という事になります」
するとミッシェルは呆れたと言う様子で、
「そんな事に、私の娘を使わせるなんて…」
だが、そんなミッシェルを遮るかのように間に割り入ってきたのはアリエルだった。
「ちょっと待って、お母さん。どうして、私の進む道を、お母さんが決めているの?本当ならば、この進む道を決めなければならないのは私のはず。お母さん達に決められるような事ではないはずなんだよ」
アリエルの言葉には、戸惑いもなかった。その言葉はしっかりとした発音によって話されるものであって、あたかも彼女の意志を示しているかのようだった。
「アリエル。あなたは何も言わなくていいのよ」
ミッシェルはそう言ってアリエルを制止しようとするが、
「何故、私が、自分の事で、何も言わなくていいなんて言われなければならないの、お母さん?」
確かにそれはその通りだった。しかしながら、ミッシェルの言う事も分からないものではない。
何しろ、彼女達は人生を変えられてしまうような事をさせられたのだ。親が子供の心配を過剰にしてしまうのも無理はない。
だが、リー達は絶対の命令でこの場にやってきているのだ。
「ロックハートさん。申し訳ありませんが、あなた達には大統領命令が出ている。もはやこの『ジュール連邦』の大半は『WNUA』の占領統治下にあります。ですから『タレス公国』の大統領命令は絶対のものなのです。
その命令の内容は、お嬢様の脳の中に埋まっている『レッド・メモリアル』から、ベロボグ・チェルノに関する情報を引き出すという事になります」
「あなた達…」
ミッシェルはその内容に怒りを感じたかのようだったが、そこで踏みとどまった。
「あんた達は、ただ、アリエルさんの脳の中にあるデバイスから情報を引き出すだけでいい。それだけで、ベロボグが検挙されるまでは、軍が保護をしてくれる。しかし今のままじゃあ、ベロボグがどこにいるのかっていう事さえ分からない。あんた達はずっとおびえて暮らしていかなきゃあいけないって事になる。
これは、あんた達の幸せのためでもある。もし拒めば、ここからあんた達を出す事はできない事だ。何しろ、あんた達がベロボグ達の手に渡ってしまうっていう事自体が、危険性をはらんでいるから」
タカフミがリーの代わりにそう言っていた。まさしく彼の言うとおり。『タレス公国』のカリスト大統領もそれを危惧している。
ミッシェルは少し悩んでしまっている素振りを見せる。その悩み方は、アリエルの見せている態度よりもより大きなものだった。
「選択肢は、無いと言うわけね…」
ミッシェルが絞り出すかのような声でそう言った。だが、
「それは、お母さんが決める事じゃあないんだよ。私が決める事。お母さんは、ただ私を待っていてくれればいい」
するとミッシェルはアリエルの前で頭を抱えてしまった。
「あなたはまだ何も分かっていないのよ。この世界が、どれだけ危険をはらんでいるのかという事を。それを分かったうえで、そう言っているの?」
「危険ならすでに見てきた。お母さんが連れ去られてしまった後、私は必死になってお母さんを探した。私の父からは、この世の残酷な姿も見せられた。そして、私は目の前で穏当のお母さんを失った」
アリエルが話すその言葉から読み取れるものは、まさに悲劇としか言いようのない事だった。18歳の少女が経験をするにはあまりにも辛い経験であったに違いない。しかしながら、彼女はそれを乗り越えて今ここにいる。
「私は試す事にする。そして、父が本当に危険な事をしようとしているのならば、私にはそれを止めなければならない義務があると思います」
そのように言ってアリエルは決意した。
正直のところ、リーにとっても、アリエルのこの態度には心配にもなっていた。彼女が悲劇を見ていく傍に彼もいた。そして、彼女の体験した悲劇のすべてを知っていた。
そんな彼女をこれ以上危険な目に合わせてよいものか。例えそれが大統領命令によって下されたものだったとしても、本当にそれはアリエルに体験させて良いものなのだろうか。
「分かった。では用意させましょう。アリエルさん。あなたはただ来てくれればそれでいい。危険な事になるかもしれないが、もし大きな危険を感じるようだったら、すぐに止めることができる」
リーはそのように言って、彼自身も決断をするのだった。
「お父様に会いに来た人がいる?また?」
シャーリは父の座っている椅子にすがったまま、そのように尋ねた。すると父の部下の一人が、ブレイン・ウォッシャーがそこに立っていた。
彼女は聾人の装置を使って、光学画面を使って、シャーリと会話をしている。
「“今度の人物は少し特殊かもしれない”」
ブレイン・ウォッシャーはそのように光学画面へと表示させた。
「ふん。だったら、またこの地へと連れて来れば良いでしょう。ただ、きちんとそいつが使える『能力者』でないと駄目よ。そうじゃあなければ、この地に連れてきてしまったら、計画がバレてしまうものね。あと3日間はバレないようにしないといけない。
ウォッシャー。あなたならば、私達の王国に適切な『能力者』、そして忠誠心は分かるわね。だったら連れてきなさい」
シャーリはそう言うだけ言って、自分は動かないつもりでいた。ブレイン・ウォッシャーはその表情を読み取らせないかのような顔をシャーリへと向け、そのまま踵を返して、オペレーションルームから出て行ってしまった。
「ふふ…、またですわ、お父様。あなたに会いに来る人は後を絶たない。お父様が大演説を行ってから、これで50人?いや、100人ほどの人達がここを訪れようとしてきていますわね。大半が使い物にならない人間だと言うのに。もちろん、計画が完成するまでは、選ばれた者達以外は、この地への侵入は許可させない命令です」
「シャーリよ。人の事をそう言うものではない。どのような人間にも役割と言うものがあって、そのために生きているのだ。使い物にならない人間などというものは存在しない」
父はそのように戒めの言葉を発してきたが、シャーリにとってはそれんな言葉であっても、今では貴重なものだった。
「でも、どんなにお父様を慕う者達が現れたとしても、お父様は、わたしのものですわ」
そう言って、シャーリは、父の崩れかかってきている腕に寄り添う。人が見れば、その腕は何とも醜く変形してしまったものだと言う腕だろう。だが、シャーリはそれにすがっていた。
すがっていれば、お父様の命がもっと延びてくれるかもしれない。シャーリはそんな幻想に取りつかれている。
「シャーリよ。私はお前のためだけではない。皆の為に存在しているのだ。そして、そんな世界を、私が亡きあとはお前が継がなければならないのだぞ」
だがシャーリはその態度を変えなかった。
「嫌ですわ。お父様。そんな風に自分が亡くなってしまわれるように言わないで。私にとってお父様は全て。そんなあなたがいなくなってしまったら…。私は…」
シャーリはそのように言って、お父様の手にすり寄った。この醜く細く変形してしまった手であろうと、すがれば逃れる事はない。シャーリはそのように思っていた。
だが、無理だという事も分かっている。お父様は近くこの世から去ってしまうだろう。それまでにシャーリ達は計画を成功させる。それでこそお父様に報いることができるはずなのだった。
ジュール連邦 国道55号線
5月15日 3:11P.M.
『ジュール連邦』のほとんどの地域が、『WNUA』軍率いる軍隊によって制圧されたと言うのが世界での見方であるが、まだ完全に制圧されていない地域もある。『ジュール連邦』の国土はあまりにも広大なものとなっており、それは世界一の規模を持っている。
そのため、『WNUA』側でも把握しきれていない、文明の力が及んでいないような地域も数多くあるのだ。
《ボルベルブイリ》から伸びる国道1号線を北部へとずっと走っていき、おおよそ500kmも離れたところから分岐している国道55号線。それは『ジュール連邦』の北の端へと到達するまで伸びており、具体的にどこまで伸びているのかという事さえ分からない。
その分、『WNUA軍』の占領地域もまだそこまでは伸びていない。彼らは依然として《イースト・ボルベルブイリ・シティ》や、『スザム共和国』にて抵抗を続けている勢力の鎮圧に追われており、人のろくに住んでいないようなこの地域にまで統治が及んでいないのである。
だからこそ、ベロボグ達は、この地域に彼らを集結させていた。
そのうちの一人である男は、その顔をフードで目深く被せ、そして防寒着に身を包んでいた。いくら季節が春であろうと、この地域は極寒の寒さを持っている。防寒着を身にまとうのは当たり前の行為だ。
だがその男は、顔を目深く隠す。なぜなら、顔は焼け爛れており、見るに堪えないような姿をしていたからだ。
その場所、打ち捨てられた小屋であるかのようなログハウスには、数人の男女が集まっていた。皆、遠方からこの地方にまでやって来た者達である。
彼らはベロボグの行った、全世界に向けての演説に呼応し、この地までやってきていたのである。だが、多くの者達はここに入る事はできなかった。中に入る事ができたのは、ベロボグ達が言う、啓示を受ける事ができた者達。その内容をしっている者達だけだった。
フードを目深く被った男は、ログハウスの中にいるサングラスをかけた男に近づいていき尋ねた。
「我々は、まだこの地に足止めされなければならないのかね?」
そんな彼の声は喉がかすれており、火傷が喉の奥にまで通じているという事を示していた。だがサングラスをかけた男、ベロボグの部下である一人は、そんな彼の姿には動じずに答えた。
「もう少し待て。それに、全員が連れて行けるわけではない。きちんと、ベロボグ様が使う事ができる者だと判明するまでは、彼の元へは連れて行けない」
サングラスの男はそのように答えるばかりだった。彼の声はとても無機質なものであり、感情というものが籠っていない。あたかも軍人であるかのようだった。
フードを被った男はその男に迫る。
「では、どうだろう?わたしは『能力』というものを全く持っていないのだがね?それがはて、どのような事かというものも知らない」
大やけどを負った姿ではあるが、あたかもとぼけたような素振りを見せるその男。
「では無理だな。ベロボグ様が必要とされているのは、あくまで『能力者』だ。ここにいる者達は、『能力者』であるが故に、ベロボグ様に使われたく来た者達であるはずだ。となると、お前は場違いという事になる」
しかしフードを被った男は怯まない。
「ほほうそうか。では、わたしが、君達にとって、見過ごすことができない情報を持っていたとしたらどうする?」
「どういう事だ?」
そこで、フードを被った男は、サングラス姿の男が、それ越しに顔色を変えたと言う事を見て取った。
「私は、『ジュール連邦』の政府で働いていた者でね、君たち、ベロボグ・チェルノらが何をしてきたのかという事を知っている。それについての情報も逐一入手をしてきた。だから君達の組織の存亡にかかわる事実をわたしは知っている」
「それが、どういう事を言っているのか、分かっているのか、お前は?」
サングラスの男が警戒心を強めた。だが、フードを目深く被った男は、余裕さえ見せるかのように笑みを浮かべた。
彼の顔は大半が焼け爛れており、何ともひどい有様だった。しかし彼はそれを恥ずかしいようには見せず、ただ堂々と笑みを見せる。
「もちろん、知っている。だからこそ、ベロボグはそれを見逃そうとはしないはずだ」
彼がそのように言うと、サングラスの男が顔をしかめる。すると一歩彼に歩み寄ってその顔を覗き込むのだった。
「お前をここから逃さないからな」
サングラスの男がそのように言い、見張りについている屈強な男達を呼んだ。火傷を負った男はその行為に対してどうという素振りをも見せず、ただ屈強な男達に取り囲まれるだけだった。
サングラスの男は無線機に向かい連絡を入れた。
「それでその男はどれほど、我々の情報を握っていると?」
ベロボグはそのように尋ねた。『ジュール連邦』本土に残り、世界各地から集まってくる『能力者』達とのパイプ役をしている部下との連絡を彼は取っていた。
(それを明かそうとはしていません)
サングラスをかけている部下、ジェイコブがそのように言って来る。どうやら奇妙な人物が現れたものだとベロボグは思う。いや、奇妙な人物というだけではない。警戒に値する人物と言った方が良いだろう。
我々の組織の情報を掴んでいる人物が、何故わざわざそれを明かしてまでここに来るのか?それが分からなかった。情報をちらつかせ、我々をゆすろうと考えているのだろうか。
だとしたら、自分達はそれに乗るべきなのだろうか。
(このような状況下で、この男を我々の組織に入れるのは非常に危険であるかと)
ジェイコブはそのように言ってきた。確かにその通り、このような状況下で、余計な人物を自分達に接近させるという事は避けたい事だ。
「その男を、電話口に出してくれんか?」
ベロボグはそのように言った。
(いえ、ですが、しかし…)
ジェイコブはそのように言って戸惑った様子を見せるが、
「私もその男と話をしてみたい。どの程度、我々の情報について知っているのか、それを知る必要があるだろう?」
(それでは)
ジェイコブは納得したようだった。そして、電話口、テレビ電話の光学画面の向こうに男が現れるのだった。そこに現れた男は、顔を半分以上フードで隠していたが、その顔が分からないほどに焼け爛れているという事は分かった。顔が崩れてしまっており、その正体をうかがい知ることはできない。
だがベロボグは思った。この男のように、自分の顔も焼け爛れてしまっているのだろうという事を。この男と、自分の境遇は似ているな。そのように思うのだった。
「君の名前を聞かせてもらおう」
ベロボグは火傷を負ったその男に尋ねる。
(私は旧政権下で生きてきたもの。現政権下となった今では、私は名前を無くしたと言っても良いような者。ですが、あえて名乗るのならば、私の名前は、ストラムと言いますが)
その名前の響きに、若干の違和感を得るベロボグ。恐らくそれは本名ではないだろう。この『ジュール連邦』の名ではない。だがこの男は、明らかに母国語としての『ジュール語』を話してきている。恐らく偽名だ。
「君の指紋からも、君が誰であるかを判別する事ができなかった。君の記録はどこにも無いのだが、一体、どのように君を信頼したらよいのだね?」
ベロボグはまだこの男を信用してはいなかった。一体何者か。それが分からなければ、知りようがないだろう。
(信頼して頂く必要はありません。ただ一つ。私はあなた方の最も重要な情報を握っている。そちらの方が重要でしょう?)
ストラムと名乗った男はそのように言って来る。重要な情報とは果たして何であろうか。相手の様子を伺う。
「言ってみたまえ」
するとストラムは一呼吸を置くかのようにして、呟くように言った。
(北緯68度22分。東経15度36分、エレメント・ポイント)
「何?」
思わずベロボグは聞き返していた。何故、この男がそれを知っているのだ。
「今、何と言ったのだ?」
ベロボグはその男に対して聞き返した。するとテレビ電話越しに、この男は笑みさえも浮かべてくるではないか。
(エレメント・ポイントですよ、ベロボグさん。あなた達が必死になって隠してきた情報だ。これについて、わたしは知っている。誰かに言いふらす事もできるが、わたしはあえてここに来た)
「その情報を持っていると言う事は、どのような事になるか、分かっているのかね?」
ベロボグはそのように言うのだが、
(ええ、分かっている)
その男は笑みを浮かべたまま、ただそのように言って来るのだった。彼の焼け爛れたような声からは真意が掴み取れない。
だがベロボグは、この男をそのまま野放しにしておくこともできないだろうという事も分かっていた。この男の脅迫に乗ってみるべきだろか。どうせ、今の『ジュール連邦』の旧政権など動いていないも同然だ。
「よし、その男を連れてくるのだ」
ベロボグは思い切ってその判断を下した。
(よろしいのですか、ベロボグ様。この男の素性さえも分かっていないと言うのに)
ジェイコブはそのように言って来るのだが、
「構わぬ。それに我々の情報を知っている者となれば、見過ごすことはできまい」
ベロボグはそう、ジェイコブへと命じるのだった。
(了解しました。この者もそちらへと連れて参ります)
電話の最後の映像からして、ジェイコブはベロボグの決断に対して納得がいっていないようである。あの場で、この組織の素性を知るあの男を始末しておくべきだったか。だが、彼がどの程度、我々の組織の事について知っているのか、それを知るべきだろう。
「シャーリよ。どうやら、物事はそう簡単に上手くはいかないようだな」
ベロボグはそのように言って、今は父のすぐそばで寄り添って眠っているシャーリの頭に手を乗せた。
この娘は、純粋に自分の進む道についてきてくれている。そのためにも、自分がより理想的な世を実現させなければならないようだった。
5
《ボルベルブイリ》市街地北部
4:15P.M.
アリエルとミッシェルは車に乗せられ、《ボルベルブイリ》の街を進んでいた。ここはアリエルにとっては住み慣れた街。だが、今では『WNUA』の占領軍による戦後統治が進んでいると言う。
見たところは今までの街と大きく姿形が変わる様子は無い。ただ、人気は非常に少なかった。通りを行きかう人々の姿は全くない。商店などもほとんどが閉まっているらしく、元々経済衰退が著しかった《ボルベルブイリ》の街が、余計にひっそりとしてしまっているようである。
「占領統治の方は順調に進んでいる。特にこの首都は、連邦側の反対勢力が少なかった事と、国会議事堂が占拠された事もあって、簡単に制圧する事ができて、今は落ち着いている。外出禁止令こそ出ているが、もうすでに新政府が樹立されていて、人々が住みよくなる時も遠くは無いだろう」
車を運転しているのはリー・トルーマンだった。彼は《ボルベルブイリ》の街を見つめているアリエル達に解説してくる。
「さぞかし、『WNUA』では祝杯を挙げている事でしょうね。長年の敵対勢力をこうして支配下に置くことができたんだから」
そのように皮肉交じりに言ってきたのは、アリエルの隣の席に座っているミッシェルだった。
「そうでもないさ。何しろ、『ジュール連邦』は規模もデカい国だし、その影響下にある国は世界の3分の1にもなる。その全てを支配下に置くっていうには、しばらく時間がかかっちまうだろうよ、一世紀以上かかっても不思議じゃあない」
タカフミがそのように言う。だが彼の言葉はどこか、他人事である事を言うかのようだった。
「あなた達は、本当にどちら側の勢力でも無いっていうの?『ジュール連邦』でも、『WNUA』でも、そのどちら側でもないって、本当に言い切ることができるの?」
そう尋ねてきたのはミッシェルだった。
「我々はあくまでも中立を通してきた。そしてその存在は誰にも知られないようにしてきたわけですが、今回の出来事によって、『WNUA』側に協力せざるを得なくなったと言う事です。そうする事で、より世界の安定を目指していく事ができる。今、この世界の危険因子となっているのは他でもない。ベロボグ・チェルノ」
リーは運転しながら静かにそのように言う。彼の視線はじっと先に向けられて、先ほどから何度も『WNUA軍』が敷いている市内検問を通過しているが、その際にパスを見せている程度のものである。
「そうだったわね。でも聞きたいのは、そんな事じゃあないわよ」
ミッシェルが突き放すような言い方で言って来る。
「一体、何だ?」
そのように尋ねたのはタカフミだったが、
「あなたの目的よ。組織とかいうものじゃあなく、あなた個人の目的は一体何だって言うの?それを聞きたいところだわ」
ミッシェルの問いにリーは口を噤んだ。答えが無いわけではない。だが、こんな状況に個人的な感情を挟むべきだろうか。そんな事は決してしてはならない事だった。
リーが作り出した沈黙の中、車は従来よりも長い時間をかけて、ようやくある建物へと到着するのだった。
リーがアリエル達を連れてきた建物は、『WNUA軍』の占領統治下においては、情報部として使われている所だった。元々は『ジュール連邦』の通信施設があったところとなっており、そこがそのまま『WNUA軍』によって使われていると言う事だった。
よもや、連邦時代の機密の何もかもが暴かれ、それが世間へと公表されることになったが、西側の国は大して恐れるものでもなかった。全て予期していた事。核兵器の開発や、先端技術、これは西側が恐れている程でもなかった。細菌兵器や化学兵器は劣悪な環境下での開発段階でしかなかったし、どうやら、ヤーノフ総書記時代に全面的に開発が中止されていたようだった。
ヤーノフが国を開こうとしていたのは確かだった。彼は自分達の連邦をなるべく西側へと近づけようとした。それを軍事力ではなく、文化的に近づけようとしていたのだろう。
ベロボグは、ヤーノフを公開処刑すべきだったのだろうか。そして、『WNUA』は本当に『ジュール連邦』と戦争をすべきだったのだろうか。
ともあれ、この情報部という名のコンクリート作りの無機質な建物に、現在では多くの『WNUA軍』諜報部員が集まってきている。
主に行っている任務は『ジュール連邦』や東側諸国からの情報の吸出しだ。今まで機密とされていた情報を、根こそぎ吸い出して、技術も何もかもをも自分達のものとしてしまう。それが占領統治というものだ。
『ジュール連邦』の上院議員もベロボグ・チェルノによって拘束され、国会議事堂は爆破、さらに総書記は処刑されたような状況では、首都で行われているこの占領統治に抵抗を示す者達はほぼ皆無である。
リー達は情報部の建物の中に入った。内装はアリエルとミッシェルが保護されていた建物とそっくりだ。社会主義国とは自分達の影響力を示すためか、建物も列車も何もかも、同じような仕様にしたがる。だからこそより劣悪な環境を示して、国民の自由を奪ってしまうようなものだ。
同じような建物の同じような通路を進んでいくリー達。この建物では情報部員が忙しそうに歩き回っている。元々は連邦側の人間が使っていた情報機器を、最先端の機器へと入れ替え、ここを新たな拠点としようとしていた。
「どこへ連れて行こうとしているの?」
道中、ミッシェルがリーに尋ねてきた。
「機密部に。あなた達の事は、なるべく外部に漏らさないようにしたい」
そう言いつつ、リー達は旧時代から使われているエレベーターの中に乗り込んだ。
機密部というのは、連邦時代も使われていた、シェルターの中に設けられた場所である。そこでは今でも『ジュール連邦』の隠された秘密が眠っている。今、それを『WNUA』側が暴いている真っただ中だった。
「ここは核シェルター?」
エレベーターで降りたった薄暗い廊下はあたかも牢獄のようだ。そのような通路を進みつつアリエルは尋ねる。
「核シェルターもあり、情報を守る場所でもあった。今でも機密エリアである事に変わりはない。ただし、我々のものとなったがね」
そう言ってリーは機密エリアに入る手前で、見張りに立っている軍の兵士にパスを見せている。そして4人は機密エリアの中に足を踏み入れるのだった。
6
リー達がアリエルとミッシェルを狭い部屋に入れ、持ってきたものは、最先端のコンピュータデッキと、一人の女だった。
その女はアリエルも知っている。セリア・ルーウェンス、つまりは自分の母親と一緒にいた、あの眼鏡をかけた女性だ。レッド系の人種で、いかにもオタクといったような印象の女性である。
「フェイリン。完成したかね?」
そう言いながら、リーはコンピュータデッキを持ってきたその女性に尋ねた。
「これを完成という事ができれば、ですけれども。やっぱりどうやっても完璧な読み取り装置は作れないようです」
それは手の内に収まるほどの大きさのデッキで、黒く作られたシンプルな箱のようなものだった。あまりにもシンプルな箱すぎて、それは逆に不気味な姿にさえ見える。
「あなたが、アリエルね」
フェイリンはそのようにアリエルに言ってきた。そして、コンピュータデッキはその場に置き、彼女に目線を合わせてタレス語で言ってきた。
「あなたの事は良く知らなかったけれども、セリアの事は、大学時代からの友達だったの。だから、その、あなたの気持ちは私も良くわかる。とても残念だわ」
フェイリンはアリエルにそう言うのだった。母の友人。アリエルはそう聞かされて彼女の事をどう思っただろうか。アリエルは自分の実の母について、有人さえも知らなかったはずだ。
「私の本当のお母さんは、どんな人でしたか?」
学校で習ったものなのだろう、たどたどしいタレス語でアリエルは尋ねた。
「そうね。とても強い人だったのは確か。だから死んだなんて信じられないわね」
フェイリンはそう言うのだった。少しデリカシーが無いかのような喋り方だ。リーは思わずそこで咳払いをして話を中断させてしまった。
「すまないんだが、今はそういう話をしている時ではない。早くこの装置が作動するかどうかを試したく思う」
リーはそのように言って、アリエルをコンピュータデッキの置かれた前のパイプ椅子に座るように促した。
アリエルは、まるで目の前に何か畏怖するものがあるかのような足取りで、パイプ椅子へと座るのだった。
「このデッキが?私の中に埋まっているものを作動させるのは、本当ですか?」
アリエルはそのように尋ねてくる。その装置を作動させる事に、まだ戸惑いを感じているのだろう。何しろ、自分の脳に埋め込まれている得体のしれないようなものだ。実際にリー達もそれが作動するところを見たことは無い。ただ、ベロボグが組織に残した資料でそれを知っているに過ぎないのだ。
「まだ、試しようが無いのだがね。とりあえず、君の父親が残した情報を元に、試作的に作ったに過ぎないんだ」
そのリーの言葉が、アリエルの養母の警戒心を強めさせてしまったのだろうか。ミッシェルは彼女の手を取って言うのだった。
「アリエル。まだ、止めることもできるのよ」
だがアリエルは止めようとはしなかった。逆に、黒色のコンピュータデッキの前に手を乗せ、それが自分を推す何かであるかのように見つめる。
「やってください。それが私を先に進めるためにあるのなら」
アリエルは静かにそう言った。それは確かな自信があって言う言葉の口調ではなかった。彼女はまだ戸惑っている。
「では、やりますよ。正直のところ、本当に作動するかどうかは分からないんですけど」
フェイリンはそう言った。彼女の方が自信がなさそうだ。
「いいから、やってくれ。試すだけの価値はあるだろう」
リーがそう言ってフェイリンを促すのだった。
「では」
フェイリンはそう言って、コンピュータデッキのスイッチを入れるのだった。
アリエルには果たして、目の前に置かれたコンピュータデッキのスイッチが入れるという事が、自分にどのような影響を及ぼすものか分からなかった。
スイッチが入れられても、最初は表紙が抜けたかのように何も起こらなかった。狭い留置場のような部屋に入れられているために息苦しくもなりそうだった。
だが、だんだんと、アリエルは自分の目の前に靄にも似たイメージがわいてくるのだった。その靄のようなイメージは、だんだんとはっきりとしたものになっていく。
やがてそのイメージは、はっきりと具現化した光学画面をアリエルの目の前に作り出した。
「誰か、光学画面を広げたんですか?」
アリエルはそのように尋ねた。だが、皆が何もわかっていないようだった。
「アリエル。君は今、何を見ている?」
リーはそのように尋ねてきた。
「光学画面ですよ。でも、こんなものは見たことが無い。OSが知らないものです」
OSなんて専門的な言葉を自分が使って良いのかわからなかったけれども、アリエルは自分が見たままの姿をそのように言い現わした。光学画面というものは、アリエルはそれほど見たことがあるわけではない。先進国に比べれば、まだまだ情報技術開発の遅れている『ジュール連邦』では光学画面という形で表示されるコンピュータが、軍や企業などでしか取り入れられておらず、一般家庭にはそのようなものがない。
だが、アリエルは養母の元で、光学画面のあるものを操った事がある。養母は田舎のログハウスの中に住んでいたものの、こうした先端技術は取り入れていた。どうやら、かつての軍時代のコネで手に入ったようである。
「それで、その画面には一体、何が表示されているんだ?」
リーはそのように尋ねてきた。
「これは、おそらくログイン画面ですね。そのように表示されています。それで、私の名前がユーザー名として登録されています」
目の前に展開した画面を見たままにアリエルはそう答えた。
「では、ログインしてくれ。そうすれば中の情報を見ることができるだろう」
リーの指示に従い、アリエルはその画面を動かそうと手を伸ばそうとした。しかしながらその必要はどうやら無かったらしい。
ログイン画面は、アリエルが手を伸ばし、何かを入力しようとした瞬間にログインをしてしまった。これは、手を動かして操作をするコンピュータではありえないような出来事だった。
「これは一体?」
「どうしたんだ?」
アリエルは戸惑った。ログインを始めた光学画面は、再びそこに新たな画面を形成していき、作り上げていく。赤が基調になっていて、まるで赤い部屋の中に入れられたかのような感覚をアリエルは味わった。
「何も入力していないのに、ログインしてしまうなんて。まるで勝手に動いているようです」
アリエルはそのように言うのだが、
「いや違う。それでいいんだ。君の中に埋まっている生体コンピュータというものは、君の脳と直結している。だから、君の意志通りに動くんだ。今まで私達が使ってきたコンピュータというものは、あくまで手で情報を入力しなければ動かない。それは、機械とコンピュータが分離しているからだ。
だが、この『レッド・メモリアル』は君の脳と直結している。だから、手を動かす必要が無い。必要なのは意志だ。意志があれば、その『レッド・メモリアル』を幾らでも動かすことができるだろう」
リーはそのように説明してくれた。だが、意志があればと言われても戸惑ってしまう。という事は、このコンピュータは自分が思った通りに幾らでも動かすことができるという事なのだろうか。
「じゃあ成功しているのか?」
そうリーに尋ねているのは、タカフミだった。
「起動させる事はできた。だが、どれだけの時間安定させる事ができるかどうかは分からない」
そのような会話がアリエルの背後でしてきた。
だがアリエルは、何もこの作業に苦痛を感じることなく進めることができた。基本は普通のコンピュータと何も変わる事は無い。アイコンが空間に浮かんでいて、光学画面ではそれを指さしたりして展開させていく事になるのだが、アリエルはそれを意志だけで展開する事ができた。
だが、アリエルの前に展開している画面は、早く言うならばからっぽと言えるものだった。からっぽ、そう中には、ほとんど何もない。幾つものソフトが入れられているようだったが、そのどれもが旧式のものだった。
買いたてのコンピュータがそこに展開しているようだ。
しかしながら、そのどれもが少し旧式に感じられた。これは新しいコンピュータではない。
「これは、最近のコンピュータではないようですね」
アリエルは見たままの感想をそのように述べるのだった。
「ああ、そうだろう。これは君がもっと幼い頃に埋め込まれたものだから、入っているソフトなんかは全て旧式のものとなっているはずだ。アップロードもされていないコンピュータでは仕方がない」
「そうですか」
とはいっても、コンピュータがそのまま一つ、自分の頭の中に入っていたのだと思うと、アリエルはますます戸惑った。
しかし、この『レッド・メモリアル』というものは操作してみればみるほど、面白いものだという事が分かった。
何でも思い通りに物事を動かすことができることの快感とは、このような事を言うのだろう。アイコンの展開やカーソルの移動、そしてソフトウェアの操作なども全てアリエルが思った通りにする事ができる。
手を全く動かすことなく、アリエルはどんどんそれを進めることができた。ネットワークに入ろうと思えば、簡単にネットワークの中に入る事ができ、アリエルは、あたかも泳ぐかのように世界中に広がっているネットワークの中に飛び込むことができた。
それだけではない。全てがビジュアルの街のように展開しており、アリエルは電子の海の中に入る事ができている自分を感じている事ができた。
「アリエル、アリエル」
そこに突然声が聞こえてきて、アリエルははっとした。それはリーの声だった。
「大丈夫か。楽しそうだが」
確かに彼の言う通りだ。アリエルは自分が楽しんでいるという事を自分でも理解していた。父が作ろうとしていたものはこんなものだったのか。それは感心さえ抱けそうだった。
「そろそろ、危険域に入りそうです。これ以上安定させるのは難しいかも…」
フェイリンの声が聞こえてきた。その声はどことなく自信が無いかのようだった。
「そうか。アリエル。君の『レッド・メモリアル』の中には、君の父に関する情報が何か含まれているはずだ。まずは、中を調べてみよう。君のメモリの中に検索をかけてみるんだ」
リーがそのように言って来る。どうやら、この『レッド・メモリアル』の中に身をゆだねていられる時間は限られているようだった
「はい」
アリエルは言われたとおりに、検索ウィンドウを自分の意志で出し、そこに自分が思った通りに、自分の父親の検索をかけてみる事にした。
だがその検索結果は見事なまでに0件だった。それはあまりにもおかしいくらいだ。父がこの『レッド・メモリアル』を作った人物だというのに、その装置の中に検索をかけても名前の一つさえ出てこないのだ。
「アリエル、どうだった?」
リーはそのように尋ねてくる。
「駄目です。不思議な事に、父について検索にかけても、一切出てこない。これは、父が作ったものなんでしょう?だというのに、一切、情報が出てこないなんて」
そのようにアリエルは言った。やはり、この『レッド・メモリアル』というものを試すだけ無駄であったという事なのだろうか。
「いや、いいんだ。ベロボグがそれだけ、情報を残さなかったという事だろう。じゃあ、ネットワークの方に検索をかけてみよう。その『レッド・メモリアル』からでもアクセスできるんだろう?」
リーはそのように言ったのだが、
「今時、ベロボグに関する情報は、ネットワーク上にゴロゴロ転がっているだろう?何しろ、連邦の総書記を処刑したテロリストって事で、世界一番の有名人だろうからな」
タカフミが背後から指摘してきた。確かに、彼の言う通りだろう。
「やってみるんだ。もしかしたら、アリエルの『レッド・メモリアル』からアクセスをする事で、何か情報が得られるかもしれない」
「向こうも警戒している。アリエルからのアクセスがあったっていう時点で、接続を切られるかもしれないぜ」
リーとタカフミが言い合っている。だが、アリエルの決意はすでに決まっていた。
アリエルはネットワークにアクセスし、そこに父親の名前を入力してみる事にした。ベロボグ・チェルノ。その名前を心に思い、はっきりと意志するだけで、名前の入力をする事ができるようになっている。
検索結果は凄まじい量だった。それこそ、マスコミからの情報だけではなく、個人が運営しているサイトなど、ありとあらゆるところの検索結果が現れて、膨大な情報がアリエルの脳をかけめぐった。
その情報の洪水は、アリエルが頭の中で処理を仕切れないほど凄まじい量だった。彼女はそれに頭がついていかなそうなほどだと思った。
「そろそろ、オーバーヒートしてしまいそうですよ」
読み取り装置の前にいるフェイリンがそう言ってきた。そこまで危険な状態なのか。アリエルはそう思ったが、父親の情報を求めて、電子の中を疾走していこうとする。そうすれば自分が追い求めている所へたどり着くことができるはず。そう思っていた。
「アリエル。そろそろ危険だ」
そのようにリーは言い、アリエルを制止しようとするが、
「いえ、良いんです。私が確かめないとならない」
アリエルはそう言って、更に電子の渦へと呑みこまれていこうとしていた。そこには記号や画面、そして光が織りなす洪水のような世界だった。そんな世界へと自分が呑みこまれていくのを感じる。
だが、それだけでは足りない。まだ、何か決定的な何かが足りないような気がしていた。そこでアリエルは検索ワードを追加する事にした。
そこには自分の名前、アリエル・アルンツェンを入力する事にした。それしかない。アリエルは何かに突き動かされるかのように、自分の名前を追加で入力した。ベロボグ・チェルノと、アリエル・アルンツェン。この二つの名前を入力して検索にかけようとした。
だが、検索が始まるのよりも早く、アリエルは自分が見ている画面の別の扉が開くのを見て取った。それは、検索をかけている膨大なデータの、さらに向こう側からやって来た大きな扉だった。
それは光の網のようになっていた部分だが、それが、アリエルの名前を入力した途端に扉のように開きだしたのだ。
「一体、何が?」
アリエルはそのように口に出していた。更に向こう側にある画面は今までアリエルの前にやってきていた、画面の洪水を押し流していってしまう。あたかもそれが不必要なものであるかのように、どっと外へと流していってしまった。
「アリエル、何が起きている?」
そのように尋ねてきたのはリーだった。だが、アリエルには彼の顔や姿は見えない。代わりに、妙な音が自分の耳に響き渡ってくる。その音はかなり大きなものとなり、不協和音だった。非常に聞き苦しい音だった。
だが、その音に合わせて、アリエルは、光の網の向こうへと移動していこうとしていた。そこは、今まで封鎖されていた禁断の扉であるようだったが、今、解放されていた。アリエルはその中へと入っていこうとする。
周囲を見回してみた。いつの間にかアリエルは立ち上がっており、その中へと自らが足を踏み入れようとしていた。
周囲は電子の海でできている。そして頭には不協和音が鳴り響く。この音さえなければ、じっくりとこの電子の海の中を観察したい。だが、音が頭を割っていくかのようだった。凄まじい音が響き渡る。
それはこの扉のずっと奥からやってきているようだった。電子の空間の奥に行こうとすればするほどに、その激しい音が響き渡って来るかのようだ。
アリエルは進もうとしたが、あまりにも音が激しすぎる。だが、彼女はこの更に奥に何があるのかを見たかった。この先にあるものこそ、非常に重要なものだ。
音と共に、やがて、電子の向こうからやってくるものがあった。それはいくつもの画面だった。
何かを示している文章や、立体の光学画面。それはどこかの施設を表しているようだった。さらに地図や、何かの機械の図面。そして、人々の写真が載せられた書類が、光学画面に載せられてアリエルの前へと流れてくる。
これは一体何なのか、アリエルは顔を上げてそれを確かめようとする。だが、音が凄まじかった。今では金切り音のような、さらにサイレンのような音がアリエルの頭の中で響き渡っている。
アリエルは電子の世界で足をついてしまい、この音に頭を抱えだした。
「アリエル。戻ってこい。戻って来るんだ!」
そのようにリーの声が聞こえてきた。どうやら体を揺さぶられているようだったが、アリエルはどうやってここから戻っていったらよいのかが分からない。
だが、ここに父に繋がる何かの手がかりがあるはずだ。そうアリエルは思っていた。これは、父と自分の名前を入力して出てきた検索結果だ。
ここには、父の手がかりを探るための何かがあるはずだ。この膨大な検索結果は、父が求めているものがあるはず。
「アリエル。アリエルよ」
やがて、激しい不協和音の向こうから、雑音に紛れたような父の声が聞こえてくるのだった。何かに遮られているかのような電波の音。それがアリエルの方に聞こえてくる。
「あ、あなたは」
アリエルは何とか頭を上げてその声が聞こえてきた方向を見る。
すると、目の前の光学画面に、あの父の姿が映し出されていた。だが、画面全体がノイズのようなものに紛れてしまっていて、父の姿はとぎれとぎれになってしまっている。
「アリエルよ。君が進むべき道をこれから示そう」
光学画面に現れた父はそのように言い、どこかへと歩んでいこうとする。それは本当の父、ベロボグ・チェルノの姿ではなく、虚像、ただの電子の画面が作り出している存在でしかないという事は分かっている。だが、父はこのプログラムを自分の生体コンピュータの中に残した。それには意味があるはずだ。
アリエルは、未だに聞こえてくる音に頭を抱えながらも、父の後を追おうとした。
「アリエル。危険な状態だ。早く戻ってこい」
聞こえてくるリーの声。だが、アリエルは進むしかなかった。進んで、父が示そうとするものを知らなければならない。その使命感がアリエルを突き動かしていた。
父は、電子の海の奥地へと向かおうとしている。周囲を流れている画面が一体何を示しているのか、アリエルはそれを探ろうとする。
病院の姿、どこかの施設の姿。アリエルはそれを知っている。父が自分を連れて行った施設ばかりだ。その他にも、『ジュール連邦』の国会議事堂の姿などもある。
「これは、我々が推し進めてきた計画だ。全てが、一つのところに結ばれるためにある」
父はそう言ったのを、アリエルは雑音に紛れてきいていた。雑音は更に強くなってきている。それにしたがって、父の声も聴きづらくなっている。
「これは一体、あなたは何を言いたいのです?」
アリエルはそのように言った。その言葉が父に届くはずもない。今、目の前にしている父の姿はあくまで虚像であって、それに問いかけようとしてもそれは無駄だ。
だから父はプログラムされたコンピュータのように、アリエルに対して一方的に話しかけてくるのだった。
「そして…、が、全てを…する。この地、北緯…」
そう言って来る父の声。同時に、ノイズに紛れて何かが表示されようとしている。その表示が何であるのか、アリエルは目を凝らしてみたが、はっきりと分からない。
どうやら地図であるようだった。
「おい、アリエル。もう危険だ!」
それはリーの声だった。だが、あともう少しで何かがつかめそうな気がする。もう少しで、父の重大な出来事が手に入るに違いない。
「戻ってこい、アリエル」
そのような声が聞こえたが、アリエルは構わずに進もうとしていた。父が指示している地図の表示。アリエルはそれを心に刻もうとした。だが、情報量が多い地図であって、世界地図のようなものに情報や座標が書き込まれていて、それを記憶する事ができない。
「いいんだ、アリエル。もういい!」
リーの声。だが、アリエルはすでに自分を戻す事ができないでいた。この電子の海の中に落ち込んでしまって、戻ろうとしても戻る事ができない。
アリエルは背後を振り向いたが、そこにも電子の海が広がっているだけだ。しかも今では激しいノイズや画面が歪んでいるために、そこには電子の渦のようなものが広がっているばかりだった。
「どうしたら」
アリエルはそのように呟いていた。だが、その時、ぷっつりとアリエルの周りの電子の画面が崩れていった。それは電子画面を消した時のように一気に消えていくという姿だった。
その瞬間、アリエルはバットで殴られたかのような激しい頭痛を右の側頭部に味わった。実際、彼女の体は殴られたかのように座った椅子から放り出され、床へと倒れこんでいた。
「だから、危険だって、いきなり電源を切るのは!」
遠くの方からそのように聞こえてきたのは、フェイリンの声だった。
「アリエル。アリエル。しっかりしなさい!」
そう言って倒れた自分の体を揺さぶってくるのは養母の声だった。アリエルはまだ頭の中に頭痛を残しつつも、目を開き、母の姿を見ることができた。
「お母さん…」
今の衝撃は凄まじいものがあったが、アリエルの意識ははっきりとしていた。
「ああ、良かったわ」
母はそう言って自分の体を抱きしめてくる。もう決して離さないと言わんばかりにしっかりと抱きしめてきた。
しかし次には、リー達の方をしかと見て彼らにはっきりと言うのだった。
「これで分かったでしょう?もうこれ以上、この子に危険な真似はさせないわ」
そう言われて、フェイリンは戸惑っているようだった。テーブルの上に載せられた黒いコンピュータデッキからは煙が上っていて、何か焼け焦げた臭いが聞こえてきている。装置がショートしてしまったのだろうか。
「どうしようと何も、もうコンピュータがこんな状態じゃあ無理ですよ。やっぱり、不完全な状態だったんです」
と言って、自分はまるで悪くないと言わんばかりだった。
アリエルの身を起こすのは、母だけでなく、リーも手伝った。
「大丈夫か。横になった方が良いか、それとも何か水でも持ってこようか?」
リーが気遣ってきてくれる。
「え、ええ。それよりももう少しで、あと少しで大切なものが見えたような気がした。いいえ、見えました。父の姿が、コンピュータの中にあって、彼は何かを言おうとしていた。それだけじゃあなくって、どこかを示した地図も出てきていて…」
アリエルがそう言いかけた時、
「それって、もしかしてこの地図の事か?」
タカフミがアリエルの背後から、何やら印刷された紙を持ってきた。その紙に描かれているのは赤い色をした世界地図と、グリッド線、そして何かを示しているデータだった。
「ええ、それです。でも、これは一体、どうやって?」
まだ頭痛が残る中、アリエルは尋ねた。
「さあ、そこに置いておいたプリンターが勝手に印刷を始めたんだ。アクセスがあったのは君の生体コンピュータからだ」
タカフミはそのように説明してくれた。だが、それはどういう事だろうか。頭を抱えるしぐさをするとリーが言って来る。
「君が意識的にこれを記憶の中に残そうとしたせいだろう。生体コンピュータは、それを操作する人間の意志によって自在に操れる。他のコンピュータには入れたり、アクセスしたりする。だから、プリンターに無線接続をして、表示されたものを印刷する事は造作もないはずだ」
そう言って、リーはタカフミから印刷された紙を受け取った。
「うむ。これはどうやら座標のようだ。どこかの施設を指し示している。ベロボグと何かの関わり合いがあるかもしれない」
リーはすぐに納得したようだった。
「父は、そこに何か重要なものが隠されていると、そう言いたげなようでした。そして私を導こうとしているかのようで…」
アリエルはそこまで言いかけたが、
「いいのよ、アリエル。あなたは十分にやった。だからもうこれ以上、あの人のいう事になんて惑わされないで」
ミッシェルはそう言って来る。だがアリエルは彼女のいう事に従うつもりはなかった。これは自分に与えられた宿命だ。父が自分の中に生体コンピュータを埋め込んだ時から、彼の元に向かわなければならないという事はすでに決められていた事なのだ。
まだアリエルは口に出す事はできなかったが、まだ自分のすべき事は終わっていない。そう確信していた。
シャーリは何かを確信したように頷いていた。
彼女は光学画面の前に立ち、そこに一つの表示が現れ、画面が展開していくのを、ほんの15分間ほど見守っていた。そしてそれが終わった時、彼女は椅子から立ち上がるのだった。
「お父様」
ある施設のコントロールルームにいるシャーリ達。そこでは依然として作業が進められている。
シャーリはそのまま父の座っている椅子の方まで歩いていき、彼に向かって言った。
「思った通りですわ、お父様。アリエルが『レッド・メモリアル』を使い、ここにアクセスしました」
それを聴くと、ベロボグも何かを感じたかのように頷いた。
「そうか、それは良かった。そして、アリエルはここに来そうか?」
するとシャーリは満足したかのような表情を見せてベロボグに言うのだった。
「ええ、もちろんですわ。アリエルはここに来ます」
「して、シャーリよ。どうやら君も、その『レッド・メモリアル』を使う時がやってきたようだな」
「ええ、そうですね」
シャーリはそう言って、満足げな表情を見せるのだった。シャーリは自分の頭のある部分に触れる。そこには、『レッド・メモリアル』が埋まっているはずだった。
彼女もついにこれを使う時がきたのかと実感をする。
説明 | ||
生存していたベロボグの勢力は、北の海上で、計画の最終段階を動かし始めるのでした。 | ||
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